アースラに戻ったリンディを待ち受けていたのは、傷だらけになって医務室で治療を受けているクロノと杏子の姿だった。クロノは二つの刺し傷を負い、現在は集中治療室で治療を受けている。杏子は意識こそはあるものの、その背中に大きな深い火傷を負い、時折り苦しげに表情を歪めていた。「すいません、艦長。本当は早くに伝えるべきだと思ったのですが……」「……いえ、あなたの判断は正しいわ。もしこのことを知っていれば、私はきっと冷静ではいられなかったもの」 エイミィの言葉にそう答えるリンディの表情は暗い。アースラの医務室に用意されているベッドの数は四つ。現在ではそのすべてが埋まっている。「それでエイミィ、クロノと杏子さんの様態はどうなの?」「杏子の方は命には別状はないみたい。普通の人間があれほど酷い火傷を負えば、本当ならすぐにでも外科的治療を施さなきゃならないけど、魔法少女の持つ身体能力のおかげで治癒魔法だけでも傷は癒えているみたい。もちろんしばらくは絶対安静ですけどね。……だけどクロノくんの傷はどちらも致命傷らしくて、どうなるかわからないって」「…………そう」 エイミィの言葉にリンディは短く呟き、目元を抑える。溢れ出そうになる感情を堪えるかのように、リンディはその場に立ち尽くしていた。 結局、彼女が現場に出向いたところで為した成果と言えば、キュゥべえとコンタクトを取ることができただけである。織莉子という存在を視認し、なのはが魔法少女になって膨大な力を手に入れたことも知ることはできたが、彼女たちに逃げられてしまっては意味がない。今も管制室では必死にその足取りを追っているが、一向に見つかる気配はない。おそらくは魔女の結界の中に隠れているのだろうが、それがわかったところで見つけ出す術は今の管理局には存在しない。海鳴市に発生している魔女の結界が数個ならまだ見つけようはあるが、市内全域にこうもたくさんの数の結界がある現状では、虱潰しに探していくことすらできなかった。「……行きましょう、エイミィ。ここにいても治療の邪魔になるだけだわ。それに私たちには、話を聞かなければならない相手もいることだしね」「……待てよ」 そう言ってリンディたちは執務室を後にしようとするが、その背後からそれを呼び止める声があった。リンディは背後を振り返るとその声の主が横たわっているベッドの元に歩み寄り、その名を呼ぶ。「何かしら、杏子さん」 ベッドにうつ伏せに横たわりながら、現在進行形で医務官による治癒魔法が施されている。その剥き出しになっている背中の火傷は未だに痛々しく、また医務官の治癒魔法が効きにくいのか一向に塞がる気配がなかった。「呼び止めて悪かったな、リンディ。だけどどうしても一つだけ、言っておかなきゃいけないことがあってな」 そう言うと杏子はゆっくりとその身体を起こそうとする。身体を動かすたびに背中の火傷が痛み、その表情を苦痛に歪ませる。治癒魔法を掛けていた医務官の制止の声を無視して、そのままベッドから立ち上がる。「リンディ、もしクロノが死んだらあたしを恨め。あいつに致命傷を負わせたのはあたしなんだから」 そして真っ直ぐリンディの目を見つめて、自分の罪を告白した。結界の中でルシフェリオンブレイカーが杏子たちに襲いかかった時に起きた出来事。それをリンディは、ただただ黙って聞いていた。 すでにそのことを杏子はエイミィを始めとした管理局員には語っている。それでも杏子はクロノの母親であるリンディに直接、その事実を告げたかったのだ。「あの砲撃を短時間とはいえ、その身に受けたあたしだからこそわかる。もしあの砲撃に飲み込まれていれば、あたしたちは三人とも死んでいた。……だからこそ、あたしはクロノに感謝してるし、それと同時に愚かだと思う。だってあいつは一人で逃げ出すこともできたんだからな」 クロノの負った二つの裂傷。一つは電撃を伴った斬撃。そしてもう一つは鋭い刃物による刺し傷。それは紛れもなくフェイトのバルディッシュと杏子の槍によるものだった。フェイトの斬撃は非殺傷設定で放たれたものなので、そこまで深い傷ではないだろう。しかしそんな便利なものなど、魔法少女には存在しない。さらに攻撃が同時に行われたのが致命的だった。前方から行われた杏子の刺突と背後からのフェイトの斬撃。結果としてフェイトの斬撃に押される形で杏子の槍はクロノの腹部に深々と突き刺さり貫通した。 もしもクロノがフェイトや杏子のことを助けようとはせず、単独で転移魔法を使っていれば、彼は無傷で脱出することができただろう。しかしクロノはそうはせず、敵であるはずの杏子やフェイトを助けた。そこにどういった理由があったのかは、今の杏子にはわからない。だが一つだけ確かなのは、クロノが死にかけているのは自分たちのせいだということだ。「……ホント、あの野郎は馬鹿だよ。敵であるあたしたちを庇って死にかけてるんだから」 だからこそ、杏子は心ないことを言って自分の感情を誤魔化そうとする。しかしいくらやせ我慢したところで、その瞳からは涙が止まらない。それは肉体の痛みからではなく、心の痛みから流れ出る杏子の叫びだった。「……馬鹿さ加減なら杏子さん、あなたも負けていないはずよ。その背中の火傷もクロノとフェイトさんを庇おうとして負ったものなのでしょう? ならあなたが罪の意識に苛まれる必要はないわ。あなたもクロノも自分で傷つく覚悟で他者を守ろうとしたのだから。……もしそれでも納得できないというのなら、あなたは絶対に生き残りなさい。それが命を賭けてあなたを守ろうとしたクロノに対しての最大の感謝の示し方なのだから」「……そう、かもな」 リンディの言葉に杏子は短く呟く。その言葉は今の杏子にとってとても重たい言葉だった。そもそもあのような状況を作り出したのは、杏子がフェイトに肩入れしたからに他ならない。ゆまのことがあったとはいえ、杏子は管理局に協力関係を続けていれば、いずれはフェイトの口からその居場所を聞くこともできただろう。 クロノやリンディを初め、杏子は管理局の局員とも親交を深めていた。それでも彼女はあの時、フェイトを逃がすことを選んだ。自分の実力ならば、フェイトを逃がし、ゆまと合流することは容易い。そんな杏子の傲慢さがこの結果を生みだしたのだ。「……リンディ、あたしに聞かせてくれるか。あの後、結界内で何があったのかを」 そう言う杏子の視線の先にはフェイトとアリサの姿があった。アリサに関しては落ち着いた寝息を立てて眠っているだけだが、フェイトは杏子と同様に医務官の治癒魔法をその身に受けながら眠っている。杏子とは違い、その治癒魔法は確実に効いているようで、徐々にその表情は安らかなものへと変わっていったが、それでも杏子は気が気ではなかった。 砲撃から逃れた時、フェイトは確かに無傷だった。魔力の消耗はあったものの、杏子とクロノの手によって彼女はほとんどダメージを負うことなく生還した。それにも関わらず、今の彼女はこうして杏子の隣で治療を受けている。 さらにそんなフェイトを励ますように寄り添うアルフ。管理局と敵対している彼女がここにいること自体、杏子にとっては気が気ではなかった。「それについてはボクの方から説明させてもらうよ。おそらく結界の中で起きたことに関しては、ボクが一番よく知っているだろうからね」 さらにこの場に同席しているキュゥべえの存在。リンディたちについてアースラまでやってきたと言うが、それはつまりキュゥべえもまたあの結界の中にいたということだ。それだけでも驚きなのに、今はこうしてアースラの中にいる。――砲撃から逃れた後、フェイトと別れていた時間は三十分にも満たない。その間にこのような状況が生まれるとは、誰に予想できただろう。「……あの砲撃がてめぇと契約したなのはの仕業、だって?」 だがキュゥべえの口から語られた事実。それこそが杏子にとって一番の驚きだった。自分の身を未だに蝕む砲撃を放ったのは魔法少女になったなのは。杏子たちを狙って放ったものではなかったものの、その魔力の禍々しさと威力は杏子がその身を持って体験している。魔法少女になる前からなのはの魔力は杏子を遙かに上回っていた。しかし今のなのはの持つ魔力はそれよりもさらに強大であることは、実際に対面していない杏子にも理解できた。 そして美国織莉子という魔法少女。はじめて聞く名前だが、今のなのはと行動を共にしているということから、彼女が魔法少女になった理由に何らかの関わりがあることは間違いない。「アルフ、その織莉子って奴は信用できるのか?」 しかしそんなことよりも重要なのは、織莉子がゆまの側にいるかもしれないという事実だ。すでに彼女はフェイトたちの隠れ家を知っており、ゆまとも面識がある。フェイトとアルフがアースラの中にいる以上、今のゆまに接触できるのは織莉子とキュゥべえのみ。杏子がその目で信用できると判断したフェイトやアルフならともかく、そんな身も知らぬ魔法少女やキュゥべえなんかとゆまを二人っきりにするような真似は避けたかった。「……正直なところ、あたしにもわからないんだ。最初に織莉子に会った時、あたしは言い知れぬ不安感に襲われた。でもゆまは織莉子に懐いてたし、あたしも織莉子の言葉がなければフェイトの危機に駆けつけることができなかった。今、こうして管理局の世話になることを決めたのも、織莉子の言葉がきっかけだしね」 声を掛けられたアルフは、杏子の方に向き直るとどこか申し訳なさそうに語る。そこにはゆまを一人きりにしてしまった罪悪感か込められていたのだろう。だが杏子にアルフを責める気はない。そもそも杏子が今日まで本腰を入れてゆまを探そうとしなかったのがいけなかったのだ。その間、ゆまを守ってくれたアルフをどうして責められよう。「アルフ、あたしはまだ自分で自分の身体を自由に動かせねぇ。だからこうなった以上、管理局にゆまの居所を教えてやってくれないか?」「あぁ、わかったよ」 杏子の頼みを快く引き受けたアルフはそのままリンディたちに自分たちの隠れ家を示した座標を伝える。それを聞いたリンディはすぐに武装隊員に指示を飛ばし、ゆまの保護を命じようとする。だが……。「残念だけど、もうゆまはそこにはいないよ」 しかしそれはキュゥべえの言葉によって阻まれた。その言葉に一同の視線がキュゥべえに集中する。特に杏子からの視線は殺意すら込められていた。「アルフは知っているだろうけど、別個体のボクがさっきまでゆまと一緒にいたんだ。だからね……」 そう言ってキュゥべえはあの後、フェイトの隠れ家で何が起きたのかを語り始めた。 ☆ ☆ ☆「アルフたち、遅いね~。キュゥべえ」「そうだね」 時は少し遡り、フェイトたちの帰りをキュゥべえと一緒に待っていたゆまは、退屈な一時を過ごしていた。すでにフェイトを捜しにアルフと織莉子が隠れ家を後にしてから三時間近く経っている。はじめこそは一人で魔法の練習をしたり、部屋の片づけをしたり、キュゥべえを相手に話をしたりなど時間を潰していたゆまだったが、流石に暇を持て余したのか、今ではつまらなそうに机に突っ伏していた。 ここにいるキュゥべえもまた、何かゆまに用があると言うわけではなく成り行き上、仕方なくこの場に留まっているだけである。それ故に自ら口を開くことはなく、ゆまに何かを聞かれた時だけ機械的に反応しているだけだった。「この魔力は、まさか?」 だが突如として海鳴市に発生した巨大な魔力に、思わずソファーから立ち上がり、ベランダへと向かう。「どうしたの、キュゥべえ?」 それに釣られるようにゆまもまた、ベランダへと向かう。すると先ほどまで雲一つない晴れ渡る空をしていたはずなのに、暗雲が漂っていることに気づく。春先だというのに肌に冷たい風が絡みつき、思わず肌をさするゆま。しかしキュゥべえはそんなゆまのことを一切、気にせず暗雲漂う空を眺め続けていた。「まさか、先のなのはの一撃で呼び込んでしまったというのか?」 思い出すのは、結界内で放たれたなのはの砲撃、スターライトブレイカー。星の輝きというには、その閃光は漆黒で、さらに黒炎すら纏った負の魔法。だがその威力は紛れもなく、有史から数多の魔法少女の姿を見てきたキュゥべえからしても最強と呼べるものだった。 だがそれはあくまで魔法少女が放った魔法としての話である。魔女の中には先ほどの砲撃を受けても耐えられるものが極わずかに存在する。途方もない素質を持った魔法少女が魔女に転化し、さらに他の魔女を喰らってさらに強大な力をつけた魔女。なのはが結界の中で放ったスターライトブレイカーが超弩級の砲撃魔法というのならば、そういった魔女は超弩級の魔女とでも呼ぶべきだろう。 強大な力を持つが故に結界を必要とせず、その場に降り立っただけで現実世界に多大な被害をもたらす超弩級の魔女。古き時代から存在し、その本当の名も忘れ去られてしまった舞台装置の魔女。 確かに今の海鳴市は町中に散らばったジュエルシードの影響で魔女が集まり、それらが喰い合い強力な力を持つ魔女も誕生している。そうして飽和した魔力がより強力な魔女を呼び込むことになっても、おかしな話ではない。「……これは少し、予定を繰り上げないといけないかもしれないね」「……それについては私も同感よ」 独り言を口走ったキュゥべえに予想外の返事が返ってくる。その声がする方に振り向くと、そこには織莉子の姿があった。「あっ、オリコ~、おかえり~」「ただいま、ゆまさん」 帰ってきた織莉子の姿を見て、ゆまは表情を輝かせて抱きついてくる。それを優しく受け止めながら織莉子はその頭を撫でる。その感触を堪能しようとしたゆまだったが、周囲を見渡して帰ってきたのが織莉子一人だけだということに気づき、疑問符を浮かべる。「あれ? アルフとフェイトは?」「……ごめんなさい。彼女たちはしばらくここに帰ってこれそうにないの。だから私が代わりにゆまさんのことを頼まれたの」 織莉子はゆまに事情を誤魔化して説明しながら、その裏ではテレパシーでキュゥべえに語りかけていた。【キュゥべえ、フェイトさんたちが今どうしているか、貴方なら把握しているわよね】【まぁね。そのことをゆまに話さなければいいのかい?】【それはもちろんだけど、もう一つ頼みがあるわ。プレシアさんにここまでの迎えをよこしてもらえないか伝えてくれないかしら?】 フェイトとアルフがいない以上、時の庭園に向かうには、直接プレシアの手を借りるしかない。すでに状況はかなり切迫している。すずかとキリカの死を皮切りに加速し始めた未来。なのはが魔法少女になり、そしてその魔力に惹かれるかのように海鳴市にやってこようとしている超弩級の魔女の存在。キュゥべえが感じ取れたそれを織莉子が見逃すはずがない。 まだ織莉子は戦う準備ができていない。なのはという心強い戦力を手に入れることはできたが、それでもまだ確実に未来を救えるという保証は得られていないのだ。今後のことを考える意味でも、ここでプレシアの協力を得ることは絶対条件であった。【そのことはすでにプレシアには話してあるよ。織莉子の準備さえよければ、すぐにでも時の庭園まで案内されると思うよ】【そう、なら今すぐ頼むわ。それとゆまさんも一緒で構わないか確認してもらえないかしら?】【ゆまもかい? たぶんだけど、プレシアはそれを望まないと思うよ。彼女は自分のテリトリーに必要のないものを入れようとはしないからね】 事実、すでに時の庭園に長期滞在しているとはいえ、キュゥべえは未だにその全貌を掴むことができていなかった。外観や当たり障りのない部屋などはキュゥべえも一通り見て回ったが、肝心のプレシアの研究室はもちろん、彼女の研究に関する資料がおかれた部屋などは一向に見つけることができなかった。 そんな彼女が魔法少女ですらないゆまを連れていくことを望むはずがない。すでに一度、時の庭園に足を踏み入れているゆまではあるが、あの時は彼女の意識がなく、またフェイトの手によって連れてこられたものだ。今回とは事情が違う。【ならプレシアさんに伝えてちょうだい。ゆまさんも一緒に時の庭園に連れていくこと。それが私と交渉する前提条件よ】 だがそれでも織莉子はゆまを時の庭園に連れていくことを強く望んだ。織莉子一人だけが転送されないように、ゆまの小さな手を優しく握る。いきなり抱きしめられたゆまは戸惑いの表情を浮かべながらどこか照れくさそうに頬を朱に染める。 織莉子が何故、ゆまの手を握り締めたのかといえば、彼女を置いて時の庭園に連れて行かれないための用心のためだ。プレシアは織莉子にしか用はない。ならば余計なものを連れてくるのを拒むはずだ。しかし今、この町にゆまを一人、残すわけには行かない。【杏子ならわかるけど、どうしてキミがそこまでゆまに固執するんだい? 彼女は確かに魔法少女になる素養はあるけど、でもキミにとって彼女はほんの数時間前にはじめて顔をあわせたばかりじゃないか】【詮索は無用よ。貴方はただ、メッセンジャーとしての仕事を果たしなさい】【……まったく、わけがわからないよ】 キュゥべえが最後にそう呟くとテレパシーが途切れる。おそらくはプレシアに織莉子のメッセージを伝えているのだろう。だがそんな殺伐とした会話をしている間も、ゆまとはどこかほのぼのした会話を繰り広げ続けていた。「お、オリコ? どうしたの? 恥ずかしいよ」「ごめんなさい。でもこうでもしないと私だけ魔女に連れ去られかねないから」「魔女って? オリコ大丈夫なの?」「心配してくれてありがとう。でも魔女といっても魔法少女の敵という意味の魔女ではなく、ファンタジーやおとぎ話に出てくるような人間の魔女だから、そんな心配しなくても大丈夫よ」「おとぎ話にでてくるような魔女って、三角帽子を被って毒リンゴを売り歩いているような?」「……少し違うけれど、概ねそんな感じかもね。私も会うのは初めてだから、何とも言えないけれど……」 そんな会話をしている最中に、織莉子を中心として一陣の魔法陣が現れる。それと同時に織莉子とゆまの身体が光に包み込まれていく。「どうやらそろそろ向かうみたいね。ゆまさん、私の手を離さないようにしっかりと握っていてね」「う、うん」 人間の魔女にいざ会うことになり、ゆまは自然と緊張し、身体を強ばらせる。そんなゆまを宥めるように、織莉子は優しく抱きしめた。「安心なさい。これから私たちが会うことになるのは良い魔女とは言えないけれど、それでも貴方に危害を加えるようなことは無いはずだから。それにいざとなったら私が守ってあげる。フェイトやアルフ、それに杏子さんの分までね」「オリコ……ありがとう」「どういたしまして」 織莉子にとってゆまは取るに足らない存在だ。世界の救済に必要な存在でもなく、守るべき対象でもない。どこにでもいる一人の女の子。ただそれだけだ。しかしそれでも織莉子はゆまを危険な目に遭わせたいとは思わなかった。いや、彼女と敵対するような真似はしたくないと感じていたのだ。 何故、そのように感じるのか、織莉子自身にもわからない。強いて言えば織莉子の魂が感じ取った予感のようなものだろう。未来視というきちんとした形でそれを予見したわけではない。それでも織莉子はその予感が信じるに値するものだと感じていた。「それじゃあ参りましょうか。時の庭園へ」 織莉子がそう告げた瞬間、二人の身体が光に包まれて消えていく。――そうして二人は時の庭園へその足を踏み入れた。 ☆ ☆ ☆「だから今更、フェイトの隠れ家に戻ってもまったくの無駄足になると思うよ?」 織莉子とゆまがプレシアの手によって時の庭園に連れて行かれた。キュゥべえは事も無げにその事実を語ったが、それを聞かされたリンディや杏子、アルフの胸中は複雑なものだった。「これはまた、随分と厄介なことになったわね」 リンディにとってみれば、捕まえるべき対象が一ヶ所に集まっているのは好機とも言える。しかし肝心の時の庭園の座標を、管理局は掴めていない。そもそも魔女のことで手いっぱいになっていたため、フェイトの裏にいる人物がプレシアだという確証すら掴めていなかったリンディたちにすれば、寝耳に水の話だった。「アルフ、そのプレシアって奴はどんな奴なんだ?」 それに対して杏子はただ純粋にゆまの身を案じていた。織莉子と名乗る見知らぬ魔法少女。そしてフェイトの母親であるプレシア。どちらとも会ったことがない杏子であったが、一筋縄で行かない相手であることは容易に想像できる。実際、織莉子と対峙したリンディは彼女のことを強く警戒しているし、フェイト程の魔導師の母親と言うからには、プレシアもまた一流の使い手なのだろう。何よりフェイトたちはプレシアに命じられてジュエルシードを集めていた。ロストロギアなどという危険な代物を集めて行う研究など、ろくでもないことに違いない。「……あたしはプレシアをフェイトの母親だとは認めていない。あいつはなにかフェイトが失敗する度に、フェイトを傷つけてきた。どんなにフェイトがプレシアに見てもらおうとがんばってきても、プレシアはそんなフェイトの努力に見向きもしなかったんだ。あんな奴、鬼婆で十分だよ」 そしてアルフはプレシアについて、彼女の主観に基づいた意見を口にする。母親というものは子供を守ってしかるべき存在だ。しかしプレシアの行う行動はその正反対。アルフ自身、使い魔になる前は群から逐われ、一人病気に蝕まれていた。そんなアルフを群から逐いだしたのは、他ならぬアルフの母親だ。そんな相手をアルフは母親だとは認めていない。アルフにとっての母親はフェイトであり、そのフェイトがプレシアから自分が受けた以上の苦しみを与えられている。故にアルフはプレシアのことが心の底から嫌いだった。「正直、得体の知れなさなら織莉子の方が上だけどさ、でもプレシアと織莉子、どちらを信用できるかって言われたらあたしは間違いなく織莉子って答える。だからこそ、あたしはプレシアに助けを求めるんじゃなくて、管理局に助力をこうことを選んだんだ」 もしもあの時、プレシアにフェイトを助けるように頼んでも、きっと彼女はフェイトを助けてはくれなかっただろう。もし仮にフェイトを助けたとしても、おそらくは傷が治らないうちにより過酷な戦いの場に向かうことを命じるはずだ。 この世界に来てから、フェイトは何度となく死にかけた。それでもなお、彼女は頑なにプレシアの言いつけを守ろうとするだろう。それがもうアルフには耐えられなかった。「……フェイトはただ、プレシアに褒めて欲しいだけなんだ。だからどんなに辛くてもプレシアの言いつけは守るし、そのためにならどんなことだってしてきた。……でもプレシアにとってフェイトは都合の良い道具でしかないんだ。実の母親だってのに、プレシアのフェイトを見る目はまるで家畜でも見るような、そんな目をしてるんだ。もちろんフェイト自身、そのことに気づいている。それでもフェイトは頑なにプレシアの言うことを聞き続けているんだよ! いつか、プレシアが自分に微笑みかけてくれる日がやってくることを信じて。……でもそのために何度も傷ついて、死にかけて。あたしはもう、そんなフェイトの姿を見たくない!」「……アルフさん、もういいわ。安心なさい。フェイトさんは必ず目を覚ますから」 嗚咽を漏らすように、自分の胸中を語るアルフを、リンディは優しくなだめる。プレシアがフェイトに与えた仕打ちは決して見過ごせるものではない。事件の解決のためにも、そしてフェイトとアルフのためにもプレシアを早急に捕らえる必要があると感じていた。 そして杏子もまた、アルフの話を聞いて思うところがあった。プレシアと織莉子、そのどちらとも杏子は会ったことはないが、話を聞く限りどちらも信用できる相手ではない。そんな二人とゆまが行動を共にしている。ならば杏子の取るべき行動は一つだ。「……杏子さん、行かせないわよ」 だがそんな杏子の心理を察し取ったリンディが医務室の扉を塞ぐように立ち塞がる。「どけよ、リンディ」「いいえ、どかないわ。杏子さんには一刻も早く傷を治してもらわないといけないもの。それに今の杏子さんは冷静さを欠いているわ。まだ敵の居所も特定できていないというのに無理を押していこうとしているのがその証拠よ」「……確かにそうだけど、それを知っている奴ならここにいるだろ」 そう言うと杏子はキュゥべえの耳を乱暴に掴み上げる。「おいキュゥべえ。てめぇはプレシアがどこにいるのか、知ってんだろ?」「確かに知ってるよ。でもボクに話を聞いても無駄さ。ボクが知っているのはプレシアが時の庭園という次元空間にいることぐらい。そこに向かう術は持ち合わせていないさ」 それを聞いた杏子は、次にアルフに視線を向ける。だが……。「ごめん杏子。あたしにも時の庭園に戻ることは難しいと思う。時の庭園は管理局なんかの追撃を逃れるために、常に次元空間を移動しているんだ。あの鬼婆があたしたちが管理局に捕まったってことを知っているなら、いつまでも同じ場所に止まっているとは思えないよ」「……ちっ」 それを聞いた杏子は舌打ちをしてベッドに腰掛ける。「杏子さん、焦ることはないわ。いずれチャンスがくる。だからあなたは万全の体調を取り戻すことが先よ」「……ああ、わかったよ」 リンディの言葉に一応の納得を示す杏子。しかしその胸中はゆまのことでいっぱいだった。織莉子やプレシアがゆまになにかしらの目的を持って近づいたとは考えにくい。ゆまはどこにでもいる普通の少女だ。そんな彼女に何の用があるというのだ。 どちらにしても、今の身体では満足に戦うことができない。隻腕を幻影で隠して不意打ちを仕掛けるのとは違い、背中の火傷は完全に重石だ。「リンディ、もしゆまの居場所がわかったらすぐにあたしに知らせろ」 杏子はそれだけ告げると、返事を待たずにベッドに横たわり目を閉じる。そして全神経を背中の傷を治すことに集中し出すのであった。2013/10/6 初投稿