明晰夢というものがある。睡眠中に見ている『夢』を『夢』と自覚して見る現象のことだ。なのはによって撃墜され、アースラに収容されたフェイトは今、正にそんな夢の世界に放り込まれていた。 彼女が見ているのは幼き日の記憶。時の庭園に移り住む前にプレシアと二人で暮らしていたミッドのマンションの一室。そこでフェイトは猫のリニスと共にプレシアの帰りを待っていた。「……ママ、遅いね、リニス」 寂しさのあまり、フェイトはリニスに語りかける。もちろんリニスは何の返事も返さない。この時のリニスはプレシアの使い魔ではなく、ただの猫なのだからそれも当然だろう。 そうして待っているフェイトの前にはラップの掛かった夕食が二人分、置いてある。それはホームヘルパーが作っていったフェイトたちの夕食だ。すでに作られてから数時間が経ち、冷めきってしまった夕食。それでもフェイトは一口も手を付けようとは思わなかった。 それはプレシアと一緒に夕食を食べたいと思っていたから。いつも日付を跨ぐような時間にプレシアが帰ってくることはフェイトも重々承知している。それでもフェイトは頑なに一人で夕食を食べようとはしなかった。一人で食べる食事ほど、寂しいものはない。フェイト自身が寂しいと感じる思いもあるが、それ以上にそんな思いを疲れて帰ってくるプレシアに味あわせたくはなかった。 それでもいつもフェイトはプレシアが帰ってくる前に眠気に耐えきれず、ソファーで眠りこけてしまう。そして気付いた時にはプレシアの手によってベッドまで運ばれ、朝になっているのが常だった。 だがこの日は違った。ソファーで眠りこんでしまったフェイトだったが、プレシアが帰ってきたタイミングで目を覚ますことができたのだ。フェイトが眠っている間に帰ってきて仕事に向かってしまうプレシア。だからフェイトがプレシアの顔を見たのは、実に二週間ぶりの出来事だった。「ママ、いつまで忙しいの?」 その後、プレシアと一緒に遅い夕食をとり、ベッドに入ったフェイトは思わずそう尋ねてしまう。本当ならプレシアを困らせるような真似はしたくない。でもフェイトは不安だったのだ。このままプレシアと過ごす時間が減っていってしまうことが。だからそれがプレシアを困らせるであろう質問であることはわかりつつも、こうして直接顔を合わす機会に聞かずにはいられなかった。「来週、実験があってね。それが済んだら、少しお休みが貰えるわ」「ホント?」「うん、きっと」 プレシアは疲れた表情でそう告げる。もしその言葉が本当ならば嬉しい。しかしプレシアはそう言って前にも急な仕事が入り、ピクニックに行く予定が潰れてしまったことがあるのだ。だから手放しに喜ぶことはできない。「ピクニック、行ける?」「どこでも行けるわよ」「約束、だよ」「うん、約束」 だが期待せずにはいられない。プレシアとて、自分と一緒にいたいと思っているはずなのだ。そしてそれがあと一週間の辛抱で叶う。だからフェイトはあと一週間と思い、自分の思いを我慢することにした。 そして実験の日、当日。今でもフェイトは忘れられない。いつものようにプレシアの仕事場をベランダから眺めていたフェイトが目にした光の柱。それはプレシアの仕事場から発せられた光だった。そしてそれは大きな爆発を起こし、あっという間に放射状に広がっていった。そしてフェイトはその光を浴び、意識を刈り取られたのだ。 そうして次に目が覚めた時、すでにフェイトたちは時の庭園に移り住んでいた。泣きながら自分が目覚めたことを喜んでいるプレシアの表情が今でも記憶にハッキリと残っている。「ほら、ここがあなたのお部屋よ」 その後、プレシアに抱きかかえられて連れて行かれた新しい部屋はとても広く天井には星座を象られたプラネタリウムまでついていた。「しばらく身体を休めて元気になったら、ピクニックでも遊園地でも、どこにでも連れて行ってあげる」「でも、お仕事平気なの?」 今まで仕事漬けでそんな色々な場所に遊びに行くことができなかったフェイトは、思わずそんな疑問をぶつける。「平気よ、もう平気なの」 だがそんなフェイトにプレシアは満面の笑みで答える。それを見たフェイトは嬉しくなり、いつものようにプレシアの顔に手を伸ばす。そんなフェイトの手をプレシアはとても懐かしそうな表情で受け入れ――そして何かに戸惑ったかのようにその表情を強張らせた。「ママ? どうしたの?」 そんなプレシアの突然の変化に戸惑うフェイト。そんなフェイトの言葉に我を取り戻し、プレシアは安心させるようにフェイトに微笑みながら告げた。「なんでもない、なんでもないわ。大丈夫よ、『アリシア』」 「……えっ?」 プレシアの口から出てきた『アリシア』という名前。その名前を聞いた瞬間、フェイトの中に幼き日の記憶が流れ込んでくる。確かに自分は幼い頃、アリシアと呼ばれていた。アリシア・テスタロッサ。それが自分の名前だったはずだ。それがいつからだろう。フェイトがフェイトと呼ばれるようになったのは……。 少なくともアルフと出会った時にはフェイトはフェイトと呼ばれていたはずだ。さらに言えばリニスからもアリシアと呼ばれた記憶は一度もない。だが夢の中ではプレシアはハッキリと自分のことをアリシアと呼んでいた。ならば少なくとも時の庭園に移り住んだ当初はフェイトはアリシアだったはずなのだ。 そこまで考えてフェイトは不意に気付く。フェイトの中にあるプレシアの笑顔。それはフェイトがまだアリシアと呼ばれていた時代の記憶ばかりだ。フェイトがフェイトと呼ばれるようになってから、プレシアがフェイトに微笑みかけてくれたことなど一度もない。 そのことに気付いた瞬間、フェイトの視界が暗転する。そして自分の記憶にない光景が目の前に甦る。幼き日の自分の前で取り乱すプレシア。髪を乱し、目を血走らせながら周囲の物に当たる。テーブルの上に置かれた花瓶は割れ、魔力を込めて叩きつけられたテーブルは窪む。そのプレシアの突然の豹変に幼き日の自分は戸惑い震える。そんなフェイトの腕をプレシアは容赦なく掴み引っ張ると、そのまま別の部屋へと向かって歩き出す。「母さん? 腕が痛いよ」 そうプレシアに訴えかけるフェイトだが、プレシアはそんなフェイトに返事すら返さない。ただただ、無理やりフェイトを引っ張り続けている。そうしてフェイトが連れてこられたのは、プレシアの実験室だった。所狭しと実験器具が置いてある一室。その中心には子供が一人入りそうなカプセルが備え付けられている。プレシアはそのカプセルの中にフェイトを放り込むとその蓋を閉じる。「母さん、出して! ここから出して!!」「もう耐えられないわ。こんな失敗作を『アリシア』と呼ぶなんて。見た目も声も記憶も同じなのに、『アリシア』じゃない。そんな子をアリシアと呼ぶなんてもう耐えられないわ。こんな子、『フェイト』で十分よ」「母さん? なに言ってるの? わたしは『アリシア』だよ? 『フェイト』じゃないよ?」「違う。あなたは『アリシア』じゃない。『アリシア』だけど『アリシア』じゃないのよ!!」 そう言ってプレシアはコンソールのキーボードを操作する。はじめのうちは必死にプレシアに声を掛け続けたフェイトだったが、次第にその意識が薄れ、カプセルの中で眠りこけてしまう。「……おはよう、『フェイト』」「うん、おはよう、母さん」 そしてフェイトが次に目覚めた時、プレシアはフェイトを『アリシア』とではなく『フェイト』と呼んでいた。そしてフェイトもまた、そのことになんの違和感も覚えず受け入れるのであった。 ――この時からフェイトはフェイトとなった。そしてそれ以降、プレシアが二度とフェイトに微笑みかけてくれることはなかった。 ☆ ☆ ☆ プレシアとの話し合いを終えた織莉子は、ゆまを捜して時の庭園内をさまよっていた。結果だけ見れば、プレシアと織莉子の間で行われた取引は無事に終わったと言っていいだろう。織莉子の考えた策にプレシアは乗り、今はジュエルシードを全て手中に収めるための準備を行っている。全ては織莉子の思惑通りにことが運んでいた。 しかし油断はできない。プレシアは希代の魔導師だ。いくら未来を視るというアドバンテージがあるとはいえ、彼女の持つ力と知識は本物だ。戦闘になった場合、織莉子一人ではとても太刀打ちできず、そうでなくとも彼女の思慮深さはとても織莉子に御しきれるものではないだろう。 だが今はそれでいい。織莉子には手に負えないほどの力を持つプレシアだからこそ、組む価値がある。何せ織莉子がこれから闘わなければならないのは、そんなプレシアの力を持ってしても勝つのが難しい相手なのだから。 そんなことを考えているうちに織莉子は時の庭園の中庭までやってきていた。その一角にあるテーブルスペースでゆまとキュゥべえが座って向かい合い、他愛のない話に興じていた。「あっ、織莉子。話は終わったの?」「えぇ、滞りなくね」 そう言いながらゆまの隣に腰を下ろす織莉子。だがここに織莉子がいるということ、その意味を考え、キュゥべえが異議を申し立てた。「織莉子、確かキミは後でボクを呼ぶと言っていたよね? それなのにどうしてもう話し合いが終わっているのかな?」「そうだったかしら? ごめんなさい、忘れてたわ」 しれっとそう言う織莉子だが、彼女は初めからキュゥべえをプレシアとの話し合いに参加させる気など無かった。織莉子にとってもプレシアにとってもキュゥべえは一番に警戒しなければならない相手なのだ。そんな彼の生命体を腹の割った話し合いの席に同席させるはずがない。「忘れてたで済まさないで欲しいな。正直なところ、キミとプレシアが手を組んで何もことを起こさないとは考えにくい。今後のためにもキミたちが為そうとしていることを教えて欲しいのだけど」「……別に教えないとは言ってないわよ。そもそもその話をするために私は二人を捜していたわけだしね」 そう言って織莉子は言葉を区切ると、懐からティーポットを取り出し、ゆまとキュゥべえに紅茶を振る舞う。「ねぇ、オリコ。その話ってわたしも聞いてだいじょーぶなの?」 カップを受け取りながら、ゆまはそんなことを尋ねる。先ほどのプレシアの様子から、自分が部外者であることはゆまも十分に理解していた。織莉子が自分をここまで連れてきた理由はわからないが、これ以上経ち入った話を聞いて良いものかと考えていた。「もちろんこれからの話はゆまさんにも聞いてもらいたいわ。その上で考えてもらいたいこともあるしね」 そんなゆまに織莉子は微笑みながら答える。そして注がれた紅茶に口を付けながら、話を切り出した。「まずは端的に話し合いで決まったことを教えるわね。私たちはこれから管理局に戦いを挑むつもりよ。狙いは管理局の持っている全ジュエルシードの回収。そしてその魔力を使ってプレシアさんの望みを叶えること」「プレシアってさっき会ったフェイトのママのことだよね? ジュエルシードでその願いを叶えるの?」 織莉子の言葉にゆまが疑問を挟む。その言葉に織莉子は首を横に振る。「いいえ、そうではないわ。ジュエルシードには確かに願いを叶える性質がある。けれどジュエルシードはとても不安定よ。そこから望み通りの魔力を引き出し願いを叶えることなんてほとんど不可能に近いわ。だからプレシアさんの望みは彼女自らの手で叶える。ただしそのためには莫大な魔力がいる。そのために一個でも多くのジュエルシードが必要なのよ」 そう言って織莉子は自分が持っているジュエルシードをこの場に取り出す。その数は四個。「今、時の庭園にあるジュエルシードは私が持っている四個とプレシアさんがフェイトさんに集めさせた七個。それに事前にキュゥべえに預けておいたジュエルシードを足すと全部で十二個になる。一応、過半数以上のジュエルシードは時の庭園に揃っているけれど、それでもまだ足りない。万全を期す意味でも全てのジュエルシードがこの場に揃っている必要があるの」「ちょっと待って織莉子。あれはキミがボクにくれたものなんじゃ……」「えぇ、その通りよ。だけど今は一個でも多くのジュエルシードが欲しい。だから一端、貴方に預けたジュエルシードを返してもらえないかしら」「……残念だけどそれはできないよ。キミがボクにジュエルシードを譲ってくれたのは海鳴ではなく見滝原での出来事だ。ここにいるボクが持っているわけがないじゃないか」「そんなの最初からわかっているわ。でもね、そんなの転送装置を使って運んでくれば関係ないでしょう? 幸いなことに貴方にジュエルシードを託したのは見滝原。例え転送装置を使ったとしても、海鳴市を張っている管理局には気付かれないはずよ。……これでもジュエルシードを貸すのを拒むのかしら」 そう言って織莉子はキュゥべえを見降ろす。実のところすべてのジュエルシードを集める必要はまったくなかった。もちろんあるのならそれに越したことはないが、おそらくはあと三個ほどあれば次元に亀裂を入れることも可能なほどの魔力を揃えることができるだろう。 それでも織莉子がキュゥべえにジュエルシードの返還を求めたのは、キュゥべえがジュエルシードにどの程度の執着心を持っているかを見るためだ。ジュエルシードから回収することのできるエネルギー。それが果たしてキュゥべえにとって必要なものなのかそうでないのか。それを確かめておく必要が織莉子にはあった。「そうだね。正直なところ、ボクはジュエルシードを手放したくない。あれは貴重なサンプルだ。ボクたちの技術力を持ってしても、未だにジュエルシードの仕組みは解明しきれてないし、一時的とはいえ、今は返すわけにはいかないよ」 そんな織莉子の問いに対するキュゥべえの答えは拒絶。もしこれがキュゥべえにとってジュエルシードが不必要なものだと断言できる状況ならば何も拒むことなく織莉子に返していただろう。だがジュエルシードの願いを叶えるプロセス、その仕組みを解明するまでキュゥべえはジュエルシードを手放すわけにはいかなかった。「そう、それならいいわ」 そんなキュゥべえの言葉を聞いて織莉子はあっさり引き下がる。今の話でキュゥべえがジュエルシードを必要としているのはよくわかった。それは織莉子にとってこの場ですんなりジュエルシードを渡されるよりも利のあることだった。「いいのかい? プレシアの願いを叶えるにはすべてのジュエルシードがあった方がいいんだろう?」「確かにその通りよ。でもそれはあくまでプレシアさんにとっての都合。私にとってみれば、別にジュエルシードが全て揃わず、プレシアさんの願いが叶わなかったとしても関係ないもの。もちろん、叶うに越したことはないけれどね」 そう言って織莉子はカップに追加の紅茶を注ぎ、口に含む。そしてその味を堪能した後、改めてゆまに向き直り話を振る。「……さて、それじゃあ今から計画を説明しようと思うけれど、その前にゆまさん、貴女に聞きたいことがあるわ」 そう問いかける織莉子の表情は実に真剣なものだった。そんな織莉子に見つめられたゆまは緊張からか背筋をぴんと伸ばし、次の言葉を待つ。「私たちと管理局の戦いは最早、避けられない。だからこのままここに残ればゆまさんも戦いに巻き込まれることになる。もちろん貴女のことは私が全身全霊を賭けて守ってあげるけどね」「うん、それはわかるよ。でもそれがどーしたの? わたしは管理局のことはよく知らないし、戦いに巻き込まれるって言っても織莉子が守ってくれるんでしょ? それなら何も問題はないよ」 元々、ゆまは管理局のことをよく知らない。だが一つだけハッキリしていることがある。それは管理局のせいでゆまと杏子が離れ離れになったということだ。それ故に管理局と敵対することになったとしてもゆまにはまったく問題はないはずだった。「でもね、ゆまさん。もし杏子さんが管理局に協力しているとしたらどうする?」「えっ……?」 だがそんなゆまの楽観的な考えは、織莉子の一言で一変する。「私の視る限り、杏子さんは今、管理局と行動を共にしているわ。だからこのままここに残るのだとすれば、必然的に私たちは杏子さんと敵対することになる。ゆまさんが望む望まずに関わらずね」「そんなのやだよ! キョーコと敵になるなんて!!」 ゆまにとって杏子は掛け替えのない大切な存在だ。杏子のためならゆまは何だってするし、そんな杏子の隣に立ちたいからこそ魔導師になることを夢見て努力していた。 しかし織莉子もまた、ゆまにとって大切な存在になりつつある。まだ出会ってから一日と経っていないが、織莉子と話している時間はとても楽しかった。それに織莉子が自分に向ける眼差し。そこに確かな温もりを感じ、そこからは杏子とはまた違う安心感を覚えていた。 そんな二人が戦うことに抵抗を覚えずにはいられない。もし仮に目の前で二人が争えば、間違いなくゆまは杏子に着くだろうが、それでもできることならば争って欲しくはなかった。「ゆまさんならそう言うと思ってたわ。だからもし、ゆまさんが私たちの戦いを見たくないと言うのなら、海鳴市に送り返してあげる。それによって管理局にこの場所が気付かれるとしても、それはゆまさんをここまで連れてきた私のミス。だから甘んじて受け入れてあげるわ。……でもね、ゆまさんにとってこの状況は一概に悪いとは言い切れないはずよ。理由はどうあれ、杏子さんは時の庭園にやってくる。すなわちそれは、ゆまさんにとっては杏子さんと再会するチャンスでもあるの」「キョーコがここに来るの?」「おそらくね。でも絶対とは言い切れないわ。確かに杏子さんは管理局に協力していた。でも今もそうとは限らない。プレシアさんが管理局からジュエルシードを奪う準備を整え終えるのに少し時間がかかるから、その間に杏子さんが管理局を離反しないとも限らない。……だけどもし、杏子さんが管理局に協力し続けているのだとすれば、このままゆまさんが時の庭園に留まり続ければ確実に再会できるでしょう。そのための作戦も考えてある」「作戦?」「えぇ。でもそれは私たちの計画に大きく関わってくるから、ゆまさんがここに残ると決意しない限り詳細を話すことはできないわ。今言えるのはもしもゆまさんが時の庭園に残り、計画に協力してくれると言うのなら、杏子さんの元に帰ることができ、私と杏子さんの戦いも避けられるかもしれないということ。だけどその代償にゆまさんは杏子さんを初め、多くの人を騙すことになるということよ。貴女にその覚悟があるのかしら?」 織莉子は真っ直ぐゆまの目を見て尋ねる。その真剣な眼差しにゆまは思わず目を逸らす。そんなゆまの様子を微笑ましく眺めながら、織莉子は二つのティーカップを取り出す。一つは白を基調として赤い装飾の施されたティーカップ。もう一つは模様こそは同じだが、青い装飾の施されたティーカップだ。「ゆまさんがもし、どんなことをしてでも杏子さんに会いたいと言うのなら青いカップを取りなさい。そうすれば私がゆまさんと杏子さんを再会させてあげると約束してあげる。……だけどもしゆまさんにそこまでの覚悟がないのなら赤いカップを取りなさい。それなら残念だけれど、貴女を今すぐに海鳴市に帰してあげるわ。その後、杏子さんと再会できるかもしれないけれど、少なくともここに残るよりはだいぶ先のことになるでしょうね」 織莉子の問いかけにゆまは言葉を窮す。杏子に会いたい気持ちに変わりはない。例え時の庭園に残らなくても、いずれ杏子に会うことは叶うだろう。しかしそれでもゆまは悩む。それほどまでにゆまにとって、杏子は必要な存在なのだ。そんな杏子とすぐにでも再会できる。その可能性が提示されたゆまは頭を悩ませる。「わ、わたしは……」 そうして悩み続けること数分。ゆまはカップへと手を伸ばす。自分でもこの選択が正しかったのかわからない。それでもゆまは選んだ。そんなゆまの姿を見て、織莉子はただただ、満足そうに微笑むのだった。 ☆ ☆ ☆ フェイトが目覚めたのは、彼女がアースラに収容されてから三時間後のことだった。まだ失った魔力と体力は戻っていないものの、医務官の熱心な治療によってなのはによって与えられたダメージはほぼ完治していた。それでも目覚めたてのためか頭がよく働かず、フェイトは茫然と天井を見つめ続ける。 そうして考えるのは先ほど見た夢のこと。普通の夢ならすぐに忘れてしまいそうだが、この時に限ればフェイトはハッキリと夢の内容を覚えていた。幼い頃、アリシアと呼ばれていた自分、そしてフェイトと呼ばれるようになった自分。それを境にプレシアの態度が豹変したという事実。どうしてそんな重要なことを忘れていたのか。まだ少し頭に靄が掛かっているが、それでもフェイトの耳には『アリシア』と愛おしそうに呼ぶ夢の中のプレシアの声が離れなかった。「……フェイト、目を覚ましたのか」 自分の名前を呼ぶ声に、フェイトはその意識を現実へと引き戻される。そして声のする方へと視線を向けると、そこには杏子の姿があった。自分の隣のベッドの上でうつ伏せで横たわっている杏子。その背中には包帯がきつく巻かれており、それにフェイトの視線が釘付けになる。「杏子、その背中どうしたの?」「あぁ、これか。ちょっとヘマしてな。ま、安心しろよ。命に別状のあるような傷じゃないから。……それよりもフェイト、ここがどこだかわかってるか?」 そう問いかけられたフェイトは改めて周囲を見渡しながら考える。ここがどこかの医療施設であることは間違いない。ベッドの傍に備え付けられた心電図や点滴。それは紛れもなく医療機関でしか見ることのできないものばかりだ。 だが重要なのはそれがミッドチルダ性の製品であるということだ。任務の際、どうしても怪我をしてしまうことがある。そう言う時、フェイトとアルフは時の庭園の医務室で自らの傷を治療してきた。その際に使用したのと同じ医療器具が複数目に入る。だがここは時の庭園の医務室ではない。それはある事実を意味していた。「もしかしてここって、管理局の……」「そう、アースラの医務室だ。あたしたちは管理局と敵対していたはずなのに、こうして管理局で治療を受けることになるなんて、皮肉以外の何物でもないよな。……だけどフェイトの負った傷はそのまま放置しておいていいようなものじゃなかったってことは自分でもわかってるだろ?」「……うん」 杏子の言葉で甦るのは、自分が意識を失う前に見たなのはの悲しげな表情と黒い閃光だ。彼女の圧倒的な力の前にフェイトは為す術もなく撃墜された。そのことに無力さを感じずにはいられない。「あたしもアルフからある程度の事情は聞いてる。だけどあいつも肝心なところは知らないみたいでさ。……だからフェイト、聞かせてくれないか? あの後、一体なにがあったんだ?」 フェイトの表情に陰が差していることに気づいてはいたが、それでも杏子は訪ねずにはいられない。フェイトと、そしてアリサがどうしてアースラの医務室に運び込まれるような事態に陥ったのかを。「……そうだね。杏子には話しておかないとね。あの後、何があったのかを……」 そう言ってポツポツと杏子と別れてから何があったのかを語り出すフェイト。その話を聞き終えた時、杏子が感じたのは憤りだった。キュゥべえと契約することですずかの意志を継いだなのはが、アリサを危険から遠ざけるために彼女の中から自分たちの記憶を消した。それを目の当たりにしたフェイトは、アリサの記憶を取り戻すために戦い、一瞬で撃墜された。 言葉にすれば単純だが、起きた事実はそう単純なものではない。なのはが魔法少女になったことを初め、記憶を奪われたアリサ。そしてフェイトもまたそんなアリサを守ることができず、心に大きな傷を負ったであろうことは容易に想像がついた。「ねぇ、杏子。わたしからも聞いていいかな? あの後、杏子たちはどうしてたの? それにアリサはどこに?」「……あたしとクロノはフェイトと別れた後、すぐにアースラに収容されたよ。あたしは見ての通りだし、クロノもあの時に魔力をだいぶ消費しちまったみたいだしな」 杏子はこれ以上、フェイトに負担を与えないようにと事実を一部ぼかして話す。一日経った今もクロノの治療は終わっていない。未だに集中治療室の中で医務官が付きっきりで治療を行っていた。だがそれを今のフェイトに伝える必要はない。クロノが生死の境を漂う理由を作ったのは、他ならぬ杏子自身とフェイトなのだ。ただでさえアリサのことで自分を責めているフェイトに、これ以上負担を与えたくなかった。「それとアリサだけど、あいつはまだ目を覚ましていない。今は別室で精密検査を受けている最中だ」「……そう、なんだ」 そんな杏子の話を聞いてフェイトは目に見えて落ち込む。フェイトはこの戦いでなに一つとして為すことができなかった。不用意に杏子に接触した結果、管理局に捕まったところから始まり、杏子の手を借りなければアースラから脱出することはできず、脱出した先でも杏子とクロノに庇われる形でなのはの砲撃から逃れた。そしてアリサを助けに戻った結界の中で自分の意思を押し通すこともできずなのはに撃墜されてしまった。 この数時間の間にフェイトが失ったものは多い。最早、今のフェイトにはプレシアの手助けをすることもできず、さらにその自信すら喪失してしまった。そんな自分の無力さを痛感したフェイトは、杏子から顔をそむけ、布団を頭からかぶる。「……フェイト、落ち込みたい気持ちはわからないでもないが、そんな姿、アルフには見せてやるなよ。あいつはフェイトを救うために管理局と協力する道を選んだんだからな」「えっ……?」 杏子のその言葉を聞いて、フェイトは布団の中から顔を出す。「尤も、管理局の連中は総じてお人よしだからな。そんな約束をしないでもフェイトのことを助けてやったとは思うぜ。まぁ傷が癒えたその後は独房に直行するのには違いないけどな」 フェイトはわざと明るく振る舞ってそう告げる。だがフェイトにはわからなかった。どうしてアルフがプレシアにではなく管理局に助けを求めたのかを。アルフがプレシアを嫌っていたのは知っている。しかし危機的な状況になった時に敵対している管理局に頼るというのは考えもしていなかった。 確かにプレシアの態度は厳しい。任務を果たしたところでフェイトを褒めるような真似はせず、逆に何かに失敗した時は体罰を交えて躾けられた。それでもフェイトは知っている。プレシアがかつて、自分に対して微笑んでくれたことを。プレシアがかつて、自分に無償の愛を与えていてくれたことを。 ――アリシア。 その時、夢の中で呼ばれていた昔の名前が脳裏を過る。どうして自分が『アリシア』とではなく『フェイト』と呼ばれるようになったのか、その理由は思い出せない。しかし呼び名などどうでもいい。フェイトにとってプレシアは母親なのだ。そんな母親を信じずに誰を信じるというのか。 フェイトにとってすでに『アリシア』は過去の名前だ。今のフェイトは『フェイト』として全力を尽くす。それが自分の、延いてはプレシアのためにもなるのだから。「ま、何にしてもフェイトが目覚めて良かったぜ。一応、あたしも後で取りなしてやるけど、とりあえず今はフェイトが目を覚ましたことをアルフやリンディに伝えねぇとな。かまわねぇだろ?」「えっ? あっ、うん」 自分の考えに没頭していたフェイトは、杏子の言葉に空返事を返す。しかし杏子はそのことに気付かない。手近にあったコンソールを使ってフェイトが目覚めたことをリンディやアルフに伝えている。その後ろでフェイトがある決心をしていることに、彼女はまったく気づいていなかった。 ☆ ☆ ☆ 結界の中でなのはは魔女と戦い続けていた。織莉子と別れてから三時間、彼女はずっと戦いを続けている。すでになのはが殺した魔女の数は優に百体を越える。その中には他の魔女を喰らって強大な力を手に入れた大魔女も複数含まれていた。 魔法少女になり、莫大な力を手に入れたなのはだったが、まだその力を持て余していた。だからこそ、彼女は実践の中で自分の持つ力の使い方を徐々に学んでいった。 なのは本来の魔法資質は遠距離からの砲撃魔導師である。魔力を収束させ放つなのはの魔法は、その一発一発が並みの魔導師を一撃で撃墜させるほどの威力を秘めていた。 しかし今のなのはの砲撃はそんなレベルとは比べものにならないほど強力だ。特に彼女が創り出した魔法、ルシフェリオンブレイカーは空気中に霧散する魔力を喰らい尽くす。それはつまり、相手は強い魔法を使えば使うほど、より強力な一撃を放てるようになると言うことだ。もちろん収束した魔力が多すぎればなのは自身にも制御が難しいだろうが、それでも世界を滅ぼすような魔女相手には切り札になることは間違いなかった。 しかしなのははまだ自分の力が不足していると感じていた。確かに契約前よりは強くなった。すずかの意志と強さを引き継ぎ、なのはが本来持つ素質も相まってか、今の彼女の強さは一介の魔法少女、一介の魔導師を大きく上回っている。 それでも今のなのはに救えるのは目の前の人々だけだ。確かにそれで一時的な平和は訪れるだろう。だが織莉子から聞かされた世界を滅びに導こうとする存在。それが魔女であれ、魔法少女であれ、複数存在しているという以上、一切の油断はできない。 現になのはがこうして戦っている魔女は、依然アリサと一緒に結界に捕らわれた時に出遭った魔女よりも遙かに強い。温泉街で交戦したジュエルシードを取り込んだ魔女にも引けを取らない。しかもそれが一体だけではないのだ。もしもキュゥべえと契約していなければ、まず間違いなくなのははここで命を散らしていただろう。 だが今のなのはは一切の苦もなくこの魔女の集団を相手にすることができていた。魔力コントロールはまだ上手くいってはいないが、それでも多少他の魔女を喰らった程度の相手に今のなのはが負けることはない。負けるとすれば、それは自分自身に対してだ。魔力の消費と共に脳裏に浮かぶ負の感情。すずかを死なせてしまったことへの後悔。アリサの記憶を奪ったことへの罪の意識。フェイトを撃墜した時に感じた高揚感。それらはすべて、なのはの心を黒く塗りつぶしていく。だがそれに負けるわけにはいかない。そうなればなのはは目の前の魔女と同じになってしまう。いや、同じではない。もしなのはが魔女になってしまえばただ一人でこの世界を滅ぼせるほどの強大な魔女になってしまうのだ。それを知っているからこそ、なのはは自分の負の思いに負けるわけにはいかなかった。 なのはの使う収束魔法、その弊害とも言うべきか、魔女の絶望的な魔力にあてられ、彼女の心にも様々な負の思いが浮かぶようになっていた。 炎をまとったなのはの砲撃が、辺りの魔女を焼き尽くす。それこそ塵も残さない勢いで魔女の肉体を燃やし尽くす。そうして焼けた跡に残ったグリーフシードを逐一回収しては、なのはは自分の心を清めていく。「少し見ない間に、ずいぶんと無茶な戦いをするようになったね、なのは」 結界の中の魔女を焼き尽くし、結界から解放されたところでそう声を掛けてきたのはキュゥべえだった。なのははそれに一瞥すると、すぐに次なる目的地へ向かって飛んでいこうとする。「ちょっと待ってよ。どうしてボクのことを無視するんだい?」「……わたしにはキュゥべえくんと話している時間はないの。一刻も早くこの町から魔女を倒し尽くさないと」 そう告げるなのはの顔は疲労感に溢れていた。だがそれでもなのはは立ち止まるわけにはいかなかった。――この町にはアリサがいる。例えなのはとの思い出を亡くしたとしても、彼女がなのはにとってかけがえのない存在であることには違いない。それにアリサだけではなくなのはの家族や忍たち、それ以外にもこの町にはたくさんの知り合いがいる。 故になのはは戦い続ける。織莉子の言うこの世界を滅ぼす魔女と戦う力を付ける意味でも、後顧の憂いを絶つ意味でも、なのはは海鳴市から魔女を撲滅させなければならなかった。「なのは、そう焦ることはないんじゃないかな。確かにこの町にいる魔女の数は異常だ。でも何の考えもなしに魔女を退治し続けても、魔女はそれ以上の勢いで孵り続けるんじゃないかな?」 魔女の生まれる方法は三つ。一つは魔法少女が絶望し、魔女に転化すること。しかし事、海鳴市においてその可能性は限りなく低いだろう。海鳴市にいる魔女は強力だ。魔女の数こそ多いため多くの魔法少女が集まってきてはいるが、並みの魔法少女では絶望する前に殺されてしまうか、他の狩り場を求めて去っていくだろう。二つ目は使い魔が成長し魔女になること。しかしそれもあり得ない。この町にいる魔女の数は多すぎる。そのため使い魔が生まれたところですぐに他の魔女に喰われるだけだ。だから必然的に三つ目のグリーフシードから孵ることで魔女が増え続けていっていた。「この町にいる魔女がどのくらいの数なのか、ボクにも正確なところはわからない。グリーフシードを生まない魔女もいるけれど、それでも大量と言うべきグリーフシードが至るところに散らばっている。そうして生まれた魔女がまたグリーフシードを生み、そうして鼠算式に増えているのが今の状況だ。例えなのはが数十や数百の魔女を倒したところで、魔女の数は対して減らないだろうね」「……ならどうすればいいの?」「魔女が増え続けるのは、この町にジュエルシードという莫大な魔力が存在したからだ。今でこそ、すべてのジュエルシードは誰かしらに回収されているけど、それでもすでにこの町は魔女の魔力が飽和している状態だ。そんな魔女の魔力がまた魔女を呼び、そしてさらに魔女を呼ぶ。そんな循環ができているんだ。これを崩すには並大抵の努力では済まないよ。……だから発想を逆転させるんだ。この町にいる魔女を駆逐するのではなく、他の場所で莫大な魔力を発生させて魔女の注意を他の町に引き寄せるという形でね」「……駄目だよ、そんなの」「何故だい? なのははこの町の人々を守りたいのだろう。それを確実に、そして手早くに為すにはこの方法しかない。それはキミにもわかっているはずだ」「でもだからって、他の町を犠牲にするやり方、わたしには認められないよ」 なのはとてこのままただ戦い続けることに大した意味がないことは理解している。それでも彼女はキュゥべえのやり方を許容できない。なのはの目指す平和な世界。それは自分以外、何一つ犠牲のない世界だ。例え見ず知らずの相手だろうと、自らの手で死地に誘うような真似をするなど以ての外だ。「まったくこれだから人間はわけがわからないよ。大を救うために小を切り捨てる。これは当然の考え方じゃないか。どちらも救おうとしてどちらも救えないんじゃ話にならないよ」「それでもわたしは諦めない。わたしは皆を守るために魔法少女になったんだから」 なのはの決意。すずかの想い。それは等しく同じものだ。それに反する行為などできるわけがない。もしそんなことをすれば、なのはのソウルジェムはすぐに穢れきってしまうだろう。 だからなのははそう口にして飛び去る。新たな敵の元へ。もうこれ以上、キュゥべえと話すことはないと言わんばかりに。「……なのは、キミは何も理解していない。キミが戦えば戦うほど、この町にいる魔女が強力なものになっていっていることをね」 そんななのはの背を見送りながら、キュゥべえは呟く。そして彼もまた、自身の目的のために動き出すのであった。2013/11/24 初投稿