魔王バラモス。その体躯は山を超え放つ魔法は海を消し一声上げれば空を覆う程の魔物が現われ指先一つでそれらを操り瞬く間に国を滅する事が出来る……
とある吟遊詩人の言葉である。いや、詩であるが正しいか。ともあれ、それが大仰に過ぎると笑う者はいない。現に、魔王バラモスたる化け物が世界を闇に覆わんとしているのだから。
人々が平和を謳歌している時、奴は現れた。変化もまた唐突。晴れた日の昼下がり、町の人間が次々にモンスターに変わっていくという事件が起きた。その数数万を超える。それも、各国に届け出された報告の数が、というだけなので、実際は数十万を超えるのだろう、と人々は噂していた。
家族が、友人が、恋人が、皆化け物に変わる姿を見た人々は嘆き悲しみ……そして怒りを覚えた。バラモスという存在をまだ知らなかった彼らは怒りの矛先を己が国に向けた。何故こんな事になったのか、理由は何だ。国はどうしてこんな事件が起こるのを予知できなかったのだ、と。当然、国家は疲弊し、特に暴動の激しかった大国ドランは同じ人間達の手によって滅ぼされた。それが十年前。
ドラン崩壊の報せを受けた各国の国王然り、国を支える者は原因の究明をさらに急がせた。今までもそれを為さなかった訳ではないが、もう治まりだした突如人間が化け物に姿を変える事件、その原因を知るよりも自分達の国の暴動を抑える事に力を注いでいたのだ。その調査は片手間とは言わないが、心血を注いでいたとは言い難い。
人が化け物に変わり出した日から七年の年月が経ち、最早国が国としての体裁を保てなくなりだした頃、奴は現れた。世界中の空に見るもおぞましい化け物が浮かんでいたのだ。
化け物は、口を歪ませ尖った牙を見せつけながら、こう言った。
「我が名は魔王バラモス。貴様ら人間を駆逐し、嬲り、闇に葬る為に顕在した。人の子よ、座して待つが良い。我が牙が貴様らの喉元に迫るその日まで嘆くが良い」
誰もが白昼夢か何かだと考えた。さりとて所詮は夢だと片付けられるほど楽観的な思考はこの七年でとうに消えていた。つまり何が起こるか? 暴動では無い、暴動に酷似した混乱である。
掌を返すように人々は己が国に縋った。今すぐに討伐隊を、とせがんだ。自分達が身勝手だという事になんら気付く事無く。
が、国王含む重臣達も「そらみたことか」と高笑いをする訳にはいかない。民に憤りながらも眼前に迫る脅威に対抗をしなければならないのだ。
だが……世界にあるどの国も力を持ってはいない。暴動を抑える為に使われた労力は果てしない。とても未知の化け物に対抗できる軍隊など擁している国は無かった。
その時、一人の男が声を上げた。その名はオルテガ。片田舎の国に住まうその男は自分の国を出て魔王バラモスに対抗すべく、魔王の配下達を次々に倒していき、世界に明かりを灯らせた。誰もが期待した、誰もが彼ならばこの世界を救ってくれるかもしれないと夢想した。その夢は、儚いものだとも知らずに。
世界中の魔物に悩まされ中には占拠されていた国を救い(その国の中にはイシス、ポルトガなどの大国も存在する)いよいよ魔王バラモスと対峙する時が来たと、魔王バラモスの居城に通ずるとされるネクロゴンド山脈に出向いたオルテガは、バラモス配下の六騎衆、サタンパピーとの戦いの末相討ちとなり火口に落ちたという。
再び世界に闇が訪れた。人々はまた嘆き悲しむだけの日々に戻ったのだ。
勇者は今、この世界にはいない…………
僕が伝説になる必要はない
第一話 仲間との別れ
天才、鬼才、神童、選ばれし者、賢者の素質を持つ者。皆様々に彼──アスターをそう称する。当然だろう、なんせ彼は齢十七歳にして魔法を使えるのだから。
そう──メラだ。
噂によると、国の宮廷魔術師でもメラを使える者は極僅かなのだという。大半は魔法の研究を主としていて、騎士団と共に魔物の討伐に行くなどありえないことなのだから。
村の中でまことしやかに囁かれる一つの噂がある。それは彼に直結していた。なんでもアスターは魔王バラモスを倒すため勇者と共に旅をするらしい。いやいや、そもそもその勇者はどこにいるのだ。そういえば勇者の所在ははっきりしないな。じゃあアスターが勇者なんじゃね? おお、そうに違いない。勇者アスター万歳! お前が魔王を倒すその日を願って!!
この村──レーベという田舎も田舎大田舎の村──では持ちきりの話題である。いや、最早それは噂などというあやふやなものではなく確定事項となりつつあった。その為、村人達は自分が出来る精一杯の事をしようと農作業を放っぽりだしてアスターの為に動いている。
村長は必死に村の金を集めて大いに支持率を減らし、その集めた金でアスターの旅の支度をするなど、アスターの意志をまるっきり無視したやり方で準備をしていた。
村唯一の協会に努めるアスターの幼馴染のシスターはいかに感動的な送り出し方をするか頭を悩ませ、今は神父と共に歌の練習に励んでいる。アスターの隣の家に住む老夫婦は何を勘違いしているのかキビの団子をせっせと捏ねあげていた。生徒数が二桁に届かない学び屋を運営している教師は世界地図とは名ばかりのレーベ周辺の情報だけを網羅しているガイドマップの制作に精を出している。鍛冶屋夫婦のゴンとアンは世界最硬度のお鍋のふたを作ろうと熱気を口から吐き金槌を叩く。お鍋のふたである理由は彼らにも分からない。
そして──その日はやってきた。
いつまでたっても村人達の想いを知る事無くのうのうと生活していたアスターだったがいよいよ両親に面と向かって「お前は世界を救う、いや救える力を持つ人間だ! 今こそ魔王バラモスを討つ時!!」と真摯に言われ、しばし迷った様子であったが頷いた。
「分かったよ父さん、僕のこの力が人々を救うなら……迷う必要はないよね」
「ええ、流石私の子供……でもアスター? 辛いなら無理しないでもいいのよ?」大好きな母の心配そうな言葉を受けて、アスターは一度顔に影を落としながら、その後笑った。
「大丈夫さ母さん……ただ……ただ、」一呼吸置いて、椅子を立ちテーブルに右手を置いて、哀愁を背負いながらアスターは呟く。「僕は、こんな強い力よりも、父さんと母さんと一緒に生きて、なにより普通の子供でいたかった。それは、叶わない夢なんだろうけど……」
アスターの独白染みた言葉に、母は息を吸う。熱心に息子に旅を進めた父ですら、しまったと言うように顔を俯かせた。
それでも、アスターは笑うのだ。大切な両親に心配をかけまいと必死に。人の身でありながら犬小屋規模の木造建築物なら全焼させ得る力を持つ彼だが、その実心は温かかった。
──しかし、涙は抑えられない。ひきつった声で、呟く。
「魔王なんて呼ばれてるバラモスだけど……きっと僕も似たようなものなんだ。人間が持っていて良い訳が無い力を僕は有している。僕も魔王やモンスターと同じ、化け物なのかもしれない」その自嘲はあまりに悲しく、辛いものだった。
「……違う」
「父さん?」
「そんな訳があるかッッ!!」
アスターの父は、椅子を倒す程勢い良く席を立ちずかずかと息子に近寄って、力の限り抱きしめた。最初は驚き身じろぎしたアスターだが、やがて諦めたように力を抜き為すがままに父に体を預けた。
「正直に話そう、アスター。俺は、俺はな……怖かったんだ」
「怖い? 父さんがかい?」アスターの問いに父はぶんぶんと頭を縦に振る。
「お前がそういう風に考えてしまう事……自分の力を恐れ、化け物であると考えてしまう事が何より怖かった!!!」
「っ!」びく、とアスターの身体が震える。
「違うんだ!! それは絶対に違う、俺は、いや俺も母さんも確信を持って言える!! お前のその力は、世界中の人々の為に産まれた力なんだと!! ……確かに、お前の言うようにお前の力がこの村の人々の為だけに使われるような、そんな小さな力なら、お前と一緒にいれたのにと思わなかった訳じゃない」
でも、でも、と繰り返すだけで父は咳き込んで涙を流すだけとなる。それを見たアスターの母は夫の背中に手を当てて、小さく微笑みながら息子の目を見た。
「でもねアスター、貴方は選ぶ事が出来るの。世界を守るか、この村を守るか。普通の人なら選べないわ、だって力が足りないから。私や父さんみたいな凡人じゃ届かない領域に貴方はいるの。だからこそ……私達は貴方のやりたい事をして欲しい。そして貴方は今悩みを抱えている。そうよね?」母の問いに、アスターは頷いた。
「そうね、貴方は自分の強すぎる力に悩んでいる。なら……その悩みを自慢に、誇れるものに変えて欲しいとお父さんは願ったわ。私は村の皆みたいに魔王バラモスを倒してほしいとは思わない。ただ……貴方が自分の力に恐れる事無く立ち向かえるようになってほしいわ」
「かあ……さん……母さん、父さん!!!」
レーベの村、その中の一軒家で泣き声が響いていた。
そして、それを聞きつけた村人達はより一層アスターの為に自分の作業を進めていったのだ。
次の日の朝。アスターの旅立ちに全ての村人が見送りに現れた。
アスターを祝福するような、晴れ晴れとした空は彼の心に清涼な風を吹かせる。
村長が集めたお金で作らせた、レーベ特産のレーベ草を染み込ませた緑のローブに身を包み、神木とされる樹齢二十四年と八か月の木から削り取った魔法使いの杖を右手に、世界最硬度のお鍋のふたを左手に持ち、腰にはキビの団子とガイドマップをぶら下げて、仄かな恋心を抱いていた幼馴染の透明な歌声に背中を押されてアスターは旅立つ。
(この旅の中で、僕は自分の力と向き合えるだろうか?)
小さな不安を抱いたアスターは村を出る瞬間後ろを振り向いた。
そこには、皆優しげな表情を浮かべてアスターを見ている。両親も、同じ様に笑っている。けれど、遠目にも分かるほど、お互いの両手を強く握っていた。
不安なのは自分だけでは無いのだ、と少しの安心感を得たアスターは再び前を見てしっかりと地に足をつけて歩きだす。
勇者への道を歩き出した、アスター。
年齢十七歳の、春のことだった。
レーベを出て一刻。元来体力のある方ではないアスターは近くの岩に座りこみ小休止を取る事にする。腰から下げてあるキビ団子の袋を開けて一つ掴み取り口に運んだ。水が足りなかったのかぽろぽろと欠片が零れ落ちる団子。かさかさで粉っぽい味しかしない糞不味い団子だったが、アスターは腰の曲がった老夫婦が作ってくれたことが嬉しかったので一気に頬張った。
まだ小腹は空いていたが、もう一度食べる気にはなれず袋を絞めて腰からぶら下げる。何処かにゴミ箱的なものはないかと探すが周辺にそれらしきものはない。渋々と立ち上がり、また歩き出した。
彼が今歩いている所は草原。世界南部の大陸は一部を除き草原である。人の手が無いそこは明らかに街道を逸れており、あからさまにアスターは迷っていた。けれども、彼の所有する袋の中身は充実している。と言っても満月草と毒消し草と薬草しか入っていないが。採集ポイントが村人に渡されたガイドマップに書かれていたので手早く採取した結果である。ちなみに、用が無くなったのでガイドマップは捨てた。団子は捨てずガイドマップは捨てる、その理由は単に放置しても虫が湧くか湧かないかの違いだけである。レーベ村教師の三週間の努力はここで消えた。
「そもそも、僕は何処へ向かえば良いのだろう」
問題はそこだった。魔王バラモスを倒すという名目があれど、彼は地理を知らない。世界大国として名高いポルトガやロマリアもアスターからすれば聞き覚えの無い言葉でしかない。そんな彼が目的地を定めるのは至難の技であった。
「魔王、というのだからきっと城に住んでいるのだろうな。城……城か。どれくらい大きいのだろう、村長の家くらい大きいのだろうか、憧れてしまうなあ」
ちなみに村長の家は普通の民家の三倍の大きさである。城は通常の民家と比較しようがないので意味が無い。
独り言を呟き続けたアスターだが、彼の頭を占めているのは腰にある重たいだけの団子を処理したいという気持ちだった。いっそその辺に捨ててやろうかと考えたが、勇者代わりとして旅立っている(と彼は考えている)身としてはそのような悪事は避けたいとも考えた。ガイドマップはかさばるので捨てたが。
しかし、一度気になると中々他の考えが出来ない性質である彼はいよいよポイ捨てを決行しようと近くの林に立ち寄る事とした。どうやら、万一にも人にばれない場所で捨てるなら悪事では無いという結論に達したようだ。
がさがさと音を立てて草むらを踏み倒していく。すると、途中で足もとから何者かの声が聞こえた。声というか、鳴き声だが。
「?」
不思議に思ったアスターは足を退けて視線を落とす。そこには青い物体が地面にへばりついていた。それを見て彼は嫌そうに顔を歪めた。
「誰かの糞か。どんなものを食べればこんな糞が出るのか知らないが、全く度し難いな。旅人の迷惑を考えない蛮行、もしやバラモスの仕業だろうか」
適当についた言葉だったが、青い糞を踏ん張り出すのは魔王らしいと考え、アスターは尚更苛立った。旅立ちの日からバラモスの卑劣な罠にかかったと、まるで掌で踊らされているように感じたのだ。
「おのれ魔王め、仮にも王という名を冠しながら野外で排便行為に及ぶとは。必ずやこの糞不味い団子を口にねじ込み窒息させてやる」
魔王を退治する方法を編み出したアスターは怒り冷めやらぬまま林を出ようとする。思わぬ所で使い道があったので、団子を捨てる必要が無くなったのだ。
早く新しい村に行って魔王バラモスの居場所を突き止める、彼の方針が決まった。
「ピキュー!!!」
「……何? ……糞が動いただって!?」
しかし、アスターの道を阻む者が一匹。そう、青い糞である。先程踏んづけたばかりの糞が飛び上がり突如として彼の前に出たのだ。
アスターは戦慄する。まさか、魔王は自分の糞ですら操り人間を襲わせるのか、と。もしかすれば、世界中を圧巻している魔物の群れは全て魔王の糞なのか!? と。至って真面目であり、中々穿った意見だと言わざるを得ない。
「ピッキー!!!」青い糞は自分の体をふるふると動かした。それはまるで否定の意を示しているようだった。勘の良いアスターは糞の考えを悟り、ふむ、と顎を引いた。
「たかが糞と侮るな、ということだな。分かったよ、僕は戦いは好きじゃないけれど……糞とはいえ魔王の糞、相手にとって不足はない!!」
「ピキーーーーー!!!!!!」
青い体を赤くしながら、糞はアスターに飛びかかった。
だがその動作は遅い、賢者にすら届くと村の神父に言われたアスターの詠唱速度は凄まじく、彼に言えない早口言葉は無いほどだった。
「メラ!」
飛び込んできたスライムに避ける事は出来ない、そのまま火球に呑まれ……いや当たってしまいそのまま地面に落ちる。じりじりと燻る音が聞こえてきた。それに伴って生き物の焼ける臭いが漂い、アスターは不快感を露わにする。口元に服の袖を当てて、それでもなお驚きは消えない。
「まさか……僕のメラを喰らいながら原型が残るなんて……流石は魔王の排世物、強敵だった」
鼻を摘みながら空いた手で十字を切っておく。己が強敵に敬意を表したのだ。背を翻し、その場を去るアスター。林を出て元の草原に戻る。そこで気付いたのが、遠くに建物が見えた。最初は何か分からなかったが、やがてアスターは手を叩き閃く。
「そうか、あれが町というやつか」
今までレーベを出た事が無いアスターにとって町の存在は好奇心を疼かせた。足早に向かおうと、わくわくしながら歩きだしたのだが……
「ぐっ!?」
急に背中に痛みと衝撃を感じたアスターは前のめりに倒れてしまう。顎をしたたかに打ちつけて、慌てて後ろを振り返ると、そこには火傷を負いながらも息を荒く吐いてこちらを見遣る青い糞の姿があった。
膝を立てて、立ち上がるアスラー。その目には先ほどのような嫌悪感や、ましてや糞にぶつかった不快感など無い。ただ、ライバルに対する称賛と僅かな怯えを含ませていた。
(僕のメラを浴びながら生きているとは……なおかつ攻撃してくるだって? もしかして、こいつが噂に聞く魔王六騎衆の一人なのか?)
驚愕。その感情が彼を支配した。平和なレーベ村の近くにまさかそのような大物が潜んでいたとは、と。
そして新たな発見を産む。自分が今日この時村を出て糞不味い団子を捨てに来たのは運命だったのだ、と。もし今日この時彼が現れなければレーベ村はこの青い糞によって滅ぼされたかもしれない。
そこまで考えた後、アスターに浮かぶ感情は驚愕と恐怖、そして感謝。
(ルビスよ、僕にかような試練と幸運を与えて下さった事を感謝します。そして、願わくば僕に祝福を)
再び杖を構え直し、前面にお鍋のふたを押し出して対峙する。それを見た青い糞はにやり、と口元を歪めた。
じりじりと、お互い自分の前に透明の物体があるかのように距離を詰めず左右に回る。距離は変わらず時間が過ぎる。相手の隙を窺っているのだろう、アスターの額に汗が流れ、その汗が目に入ろうとしたその時、青い糞が動いた。
「ピキーーーーッッ!!!」
さながらサイドステップのように右へ左へと飛びながら、弾丸のような速度で青い糞が襲いかかる。そのスピードは最早人の身で追える速度では無い。そう、人の身では。
ここにいるアスターはすでに人の身を超越した、正しく超越者。その知識は膨大であり、鍛え上げたのは魔力だけでは無い、その身体もまた常人に非ず。咄嗟に杖を逆手に持ち薙ぎ払うようにして杖先を押し当てた。
(……まさかっ!?)
アスターの表情に焦りが浮かぶ。まるで軟体動物のように青い糞はその身体を変えて杖を避け、突きだしたそれに巻き付いたのだ。そして、そのまま這うようにアスターの腕に近づいてくる。
ぞわっ、と全身の毛が逆立ったのを感じる。このままでは腕を砕かれ、いや食われてしまうだろう。杖を封じられた今魔法を唱えることは難しい。いや可能だが威力は半減し、何より詠唱時間が足りない。杖を落として一度距離を取るか? 確かに難は逃れるだろうがもう杖を取り返す機会は無いだろう。
万策尽きた──凡人ならば、そう考えるのだろう。
だがアスターは違う。一度戦いとなれば氷の心となれる彼だ、当然このような事態でも、焦りこそすれ取り乱す事はなく、さらには新たな一手を導き出せるのだ。ではその一手とは? 万人が驚嘆し憧れを抱くだろう知能戦の始まりである。
「せえいっ!!」
「ピキュウウーーー!!!」
そう、左手に持つお鍋のふたで青い糞を思い切り叩いたのだ。ぐちゃっ、と嫌な音を出しながら青い糞は崩れ落ち、べたっと地面に落ちた。
「はあ、はあ、はあ……終わった、のか?」
杖の先でついついと青い糞を突くが、震えるだけで動き出す気配はない。
体の奥底から溢れ出る安堵に身を委ね、背中から地面に倒れこむ。汗は絶えず流れ、ゆだった体は言う事を聞かない。それでも、心は嫌に清々しいものだった。アスターは右手を上げて、掌を開き、また閉じた。
(……魔王バラモス、その手先にもこの様だ、いかに相手が強大な六魔騎衆だとしても、それでもバラモスはこいつよりさらなる力を持つに違いない。この僕でもバラモスには勝てないかもしれない)
アスターは身震いした。恐れでは無い、もしやすれば、それは歓喜。身を縮め、自分からの死を考える程の力を得た自分でも敵わないかもしれない相手がいた事に対する、だ。そして確信する。自分の力は魔王を討つ為にあったのだと。
「……ありがとう。お前のおかげで僕は自分の道を見つける事が出来た。感謝するぞ、青い糞よ」
倒れながら、横眼に強敵の死骸を見つめる。もう動く事もなく、彼の言葉を聞く事もないだろうが、それでもアスターは言わずにはいられなかった。彼の中に、青い糞への奇妙な感謝の気持ちが育っていた。それは恐らく、友情にも似た何かだったのかもしれない。
ようやく呼吸が整ったので立ち上がる。ぱっぱっと土を払い杖とお鍋のふたを持つ。絶対に役に立たないので何処か別の村に行けばさっさと質に入れてしまおうと思っていたお鍋のふたが切り札になるとは、とアスターはいとおしむようにお鍋の蓋を撫でた。
「もしかしたら、このお鍋のふたは伝説の武具なのかもしれないな……なんてね、あはは」
と、口では笑い飛ばすものの、アスターはその言葉に納得してしまう。なんせ、魔王率いる魔物の中でも最強の六魔騎衆の一人を葬ったのだ、言い過ぎではないだろう。
「……もしかして、あくまでももしかしてだけど、このお鍋のふたはレーベに伝わる伝説の金属を用いて作られたのでは……?」
一度想像すれば、結論に至るまでは時を要さなかった。
「そうか! きっとあの鍛冶屋の夫婦は身分を隠しているけれど実は稀代の名工で、唯一レーベに伝わる伝説の金属を加工できる人材だったんだ! はっ!? ……そうか、これが噂に聞くオリハルコンなのか!!」
驚愕に足る事実を発見したアスターは己の幸運と、流れるように魔王と戦う準備を経ている自分に運命を感じずにはいられなかった。
詳細は分からないが、このお鍋のふたはレーベ村の鍛冶屋夫婦が十日の日数を掛けて作り込んだ名作だという。彼ら曰く、「これならおおきづちの一撃にも二発は耐えれるぜ!」だそうな。
「待っていろよバラモス! 僕が必ず退治してやる! そして、僕は僕の力を誇れるような、立派な勇者になるんだ!!」
ざん! と力強く大地を踏みしめて、天を仰ぐ。その瞳に迷いはなく、勇気ある者として恥じない素晴らしい青年のものであった。
目指すはおおよそ近くにあるっぽい町である。そこでバラモスの情報を集め、打ち倒す。明瞭明確な目標だ。常に、明晰たる頭脳は単純な目標を打ち立てる、
「いざ行かん!! 魔王の下へ! ……ッッ!!?」
────気配を、感じた。
気配、というには大袈裟か。感じたでもない、聞いたのだ。生きる者の声を。者というのも正しくはないか、生きるモノの声を。鳴き声を。
「まさか……嘘だろう? まだ生きているというのか貴様!!」
そう、魔王六騎衆の一、青い糞が己が体を震わせていたのだ。ふるふると……いやぷるぷると震えるそれは間違いなく生きていた。アスターの渾身の一撃を喰らい、それも伝説の武具たるお鍋のふたで叩きつけられたにも関わらず、だ。その生命力たるや、悪霊の域を超えている、凌駕している。
しかし、その様子が奇妙であった。燦然たる登場をし、紅蓮の一撃を喰らいなおも戦意を閉ざす事無くアスターを睨んでいた青い糞が、顔を上げる事もなくぷるぷると震えるだけ。それは、まるで……
「泣いて、いるのか? 貴様」
「ピ、ピキイィィ……」
「そうか……悔しいのか。人間に負けて、悔しいのかお前…………初めてだ、僕に負けて、悔しいなんて思う奴は」
思い起こせば、アスターは常にそうだった。どんな相手と勝負をしても負ける事を知らなかった。唯一物を数える勝負では幼馴染のシスターに後れを取ったが、こと戦いに置いて彼の右に出る者はいなかった。大の大人でさえ子供のアスターには勝てず「アスターくんは強いなあ」と頭を撫でた程に。
アスターには負けて当然。誰もがそう思っていた、悔しいなどという感情を吐く事などレーベにはいなかった。それ故に、この青い糞の反応は酷く新鮮に思えた。
そして、それ以上に嬉しかった。相手はモンスター、恐らく数々の人間を喰い殺し、もしかしたら国単位で滅ぼしてきたのかもしれない。そんな相手でも、彼にはとても愛おしく見えたのだ。
(……そうだ。僕はまだ勇者じゃない、そう、本当の。僕はまだ化け物だ、己の力を制御できない化け物なんだから、仲間だって同じ化け物で何が悪い)
そう思った時には、アスターは既に手を差し伸べていた。
青い糞は、気配を感じたのか顔を上げ、アスターの手を不思議そうに眺めていた。
「お前、名前はなんて言うんだ?」
「ピ、ピキ?」
「そうか……言葉が分からないんだよな、馬鹿だな、僕は」
手を引っ込めて自分の頭を掻くアスター。敵意など何処にも見当たらない行動に、尚更青い糞は不思議そうに体を震わせる。気のせいか、少しだけ体を寄せてきたようにも見えた。
一人と一匹は見つめ合い、種族は違えど、確かな何かを共有していた。
「ルビス様の教えでは、魔物であるというだけで差別をするなと仰られている。なら、こういうのも良いだろう……なあお前、一緒に来ないか?」
「ピッ、ピキッ!?」
アスターの言葉を聞き、青い糞は柔らかそうな体を硬直させて一息に後ろに飛び下がる。当然だろう、敵対者である人間に誘われるなどあってはならないこと、いやある訳がないことなのだから。
だが、眼の前の敵からは冗談の気配は見えない。もう一度手を差し伸べて、じっと青い糞を見つめた。
しばし、時間が流れる。やがて、根気負けしたように青い糞は自分から歩み寄ってきた。青い糞を撫でると、その感触が気に入ったのかアスターは何度も何度も撫で続ける。
もうそろそろ良いだろう? と言うように青い糞が少し強く体を震わせると、アスターは苦笑して手を離した。
「しかし、名前が無いのは不便だな。よし、これから僕はお前をうんこと呼ぼう。これからよろしくな、うんこ!!」
「ピキーーーーッッッ!!!!!」
気を良くしたのか、青い糞改めうんこは走り出した。その勢いは凄まじく、二人の仲を知らぬ者が見ればまるでアスターから逃げ出そうとしているようにすら見えた。
「性急な奴だな。そうか、あの町まで案内してくれるのかうんこ。頼もしいな! うんこ!」
「ピキイイイイィィィィィ!!!!!!!」
アスターもまた負けじと走り出しうんこの後を追う。風を切り草原を駆ける二人は短い間の付き合いしか無くとも、死闘を超えた仲間だった。
二人で走る中、うんこが前にいる事を幸いにアスターは涙を流していた。
初めての仲間なのだ。それも、尊敬されるだけの仲では無くお互いが対等で、力の差は僅かである仲間。これほど嬉しい事があるだろうか? 天才と呼ばれ崇められているだけの毎日では決して得られなかった対等という関係。一般の者では当たり前の存在が彼には稀有で、得難過ぎるものだったのだから。
(旅に出て良かった。村を出て間もないというのに、僕は信頼できる仲間を手に入れたんだから!)
暫く二人で走っていると、うんこの姿が消えた。といっても少し前に背の高い草原があり、背の小さいうんこの姿が見えなくなっただけなのだが。
後を追って、懸命に腕を振り、飛びこむように草原に入ったアスター。草原はすぐに途絶え、草の生えていない少し広い空間に出た。そこは、町と村を繋ぐ道であり、視界が一気に開ける。
そこには、うんこ以外に人間の女性が立っていた。その女性は、片手に剣を携え……携えて────
「うんこ?」
女性の足元には、体が分断されたうんこの姿があった────
「び、び、びっくりしたあー……いきなりモンスターが出るなんて……あれ、旅の人? 良かったわ、ねえ貴方。今すぐ私に食べ物をよこしなさい、もうお腹が減って死にそうなのよ。お金も無いけどほら、そこは私の美貌を拝めたからとかそういう理由で、」
「うんこおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!」アスターは涙を流し、慟哭の声を上げた。
「ええっ!? とっ、トイレならもうちょっと行けばアリアハンだから、そこの宿屋にでも……ああ、その様子だと間に合いそうにないのね!? じゃあその辺の原っぱで……あっ、紙なら持ってるから……」
「うんっ、うん、うんこおぉ……うんこおおおおおおぉぉぉぉ!!!!!!」
「ちょっと待って!! えっ、なんで近づくのよ? か、紙ならあげる! あげるから待って……嫌よ、何がしたいの? 近づかないでってばあ!!」よたよたと歩いて来るアスターに恐怖でも感じたのか、彼の仲間であり生涯の友になり得る存在、うんこを殺めた女はそろそろと後ずさりをした。
「うんこ……嘘だろ? なんでなのさ? 早過ぎるじゃないか、そんなの早過ぎるじゃないかああああぁぁぁ!!!!」
「漏らしたの!? ど、どうしよ……えっと、ごめんなさい、男性用の下着なんて持ってないの……あの、その……元気出して、ね?」
嘆き、悲しみ。それらに押し潰されそうになりながら、アスターは友の亡骸を抱き抱え涙する。
(元気出して、だって? お前が言うのか、その台詞をお前が言うのか?)
「あのあの! ごめんね、なんか! 見なかった事にするし、近くに川があるからそこで洗えば大丈夫よきっと! だからその……私、もう行っていいかしら? 食べ物も、いらないから……」
「……してやる」
「え?」
幽鬼のように立ち上がり、友を抱く為に放りだした杖とお鍋の蓋を持ち見据える。狙うは女。それも人間の、だ。本来守るべき存在であり、勇者として生きていくならば対峙することはならない者。
だが、彼はまだ幼く。世の理を重んじるにはまだ早かった。
(これが、人間? 僕の仲間を、親友を殺しておいて、嘲笑うように元気を出してとのたまうこいつが人間だって? ……ごめんよ父さん、母さん、僕はやっぱり化け物みたいだ。だって、こんなにも人間が憎い、こいつを……してやりたくて、たまらない)
アスターの杖の先から火球が現れる。その熱量は今までとは比べ物にならず、例え消化しようとしても三つ分のバケツ一杯の水が必要となるだろう。三つ目は少し余るかもしれない。
その極炎を女性に向けて、アスターは声高らかに宣言した。
「女、貴様を殺してやるッッ!!!!」
「は、恥ずかしいからって証拠隠滅ううぅぅぅーーー!!!!?」
そして、アスターは友の弔い合戦の為さらなる死闘を演じる事となる。