再びランプに灯りが戻り、汽車が動き始めたが、ハリーが目を開ける気配はなかった。みんな蒼白な顔をしてハリーを見守っている。ふと、脳裏にノットとの約束が浮かんできた。早く帰らないと、心配するかもしれない。私はゆっくりと席を立った。
「悪い、そろそろコンパートメントに戻る」
まだ凍ったままの『かぼちゃジュース』の瓶を手に取ると、ふらつく足取りで扉に向かう。
「大丈夫、セレネ?少し休んでいったら?」
「そ、そうだよ!セレネだって気絶しかけていたんだから!」
ハーマイオニーとネビルが引き留めようとした時、それに被せる様にパキッっと大きな音がした。ルーピン先生が巨大な板チョコを割る音だ。
「さぁ、食べなさい。気分が良くなるから」
全員にチョコを配るルーピン先生。私は2番目に大きい一切れを貰った。軽く頭を下げて一口かじると、手足の先まで一気に暖かさが広がった気がした。魔法のチョコなのだろうか?いや、違う。普通のチョコだ。実際にチョコの包み紙を見て見ると、マグルの世界で購入できるメーカーチョコだった。そういえば、『チョコは雪山に行くときの必需品』だと、どこかで読んだ気がする。炭水化物やタンパク質、それから糖分も含まれている上に持ち運びも楽だからだそうだ。突如、吹雪に襲われたみたいに凍えきっている私達には、ぴったりの食べ物なのかもしれない。
「最後の一切れは、ハリーが目覚めたらあげてくれないかい?わたしは、これから運転手と話があるからね。一緒に出ようか?」
空になったチョコの包み紙をクシャクシャに丸めてポケットに入れる先生。心配そうな視線を背中で感じながら、先生と一緒にコンパートメントを出た。
「大丈夫かい?」
先生が心配そうな目で私を見てきた。どうやら先生は、私が気絶しかかっていたことが気になったみたいだ。私は、なんとか強張った顔を動かし、やっとの思いで微笑んだ。
「大丈夫です。問題ありません。すみませんが、私のことは学校に報告しないでくれませんか?」
「どうしてかな?」
ルーピン先生は少し驚いた顔をした。私は、内緒話をする時みたいに声を小さくする。
「あまり目立ちたくないんです。先生からいただいたチョコのおかげで体調はずいぶんと良くなりましたから。それに新学期早々、校医のマダム・ポンプリーに余計な心配をかけさせたくないので」
「目立ちたくない、か。でも、報告だけはさせてもらうよ。生徒の把握はしておかないといけないからね。えっと、君の名前と所属寮は?」
ルーピン先生は、仕方ないなというような表情を浮かべながら、尋ねてきた。
「セレネ・ゴーントと言います。スリザリン寮の3年生です」
「スリザリン?」
物凄く驚いた顔をされる。なんか、久々に感じた感覚だ。いつも思うが、そんなに驚かれることなのだろうか。
「てっきりグリフィンドールかと思ったよ、ごめんね。じゃあセレネ、次は学校で会おう」
そう言うと先生と私は分かれた。入学した当初も同じような事を言われたなっと、頭の片隅で思い出しながらコンパートメントのドアを開けると、不機嫌な顔をしたノットの他に、もう2人…友人のダフネ・グリーングラスとレイブンクローのシルバー・ウィルクス先輩がいた。なんで、このメンバーが集まっているんだ?
「遅いぞゴーント…って、どうしたんだ?」
「セレネどうしたの!?顔色が悪いってレベルじゃないよ!!」
ノットとダフネが心配そうな顔をしている。残りのシルバーも少し心配そうに顔を歪めている。そんなに顔色が悪いのだろうか。まぁ、確かに気絶したが。
「大方、吸魂鬼のせいで具合が悪いんっすよね。でも、妙だな…普通に吸魂鬼とすれ違ったくらいでそこまで衰弱するって聞いたことないっすよ?」
シルバーが尋ねてきた。特にごまかしても仕方がないので、コンパートメントで起こった出来事ことを話す。顛末を聞いたシルバーは、うーんと考え込む。
「吸魂鬼は、恐怖や絶望と言った負の感情に強く反応する生物っすよね。もしかして、昔…死に直面したことがあったッスか?」
シルバーの問いに、私はややあってから頷いた。
「ホグワーツに入学する1年前、事故で昏睡状態だった」
「それっすよ!昏睡状態…つまり死に直面していた状態が長かったから、吸魂鬼が寄って来たんっすね」
シルバーはポンっと手を叩いた。納得した様子のシルバーだったが、その隣に腰を掛けていたダフネの顔色は、物凄く青ざめていた。
「昏睡状態って、なんでなの、セレネ!?」
「ダフネには言ってなかったか?私は入学する寸前まで、事故のせいで昏睡状態だったんだ。まっ、後遺症は(ほとんど)ないし、命に別状はない」
「そう…なの?なら良かった」
ホッと一息ついたダフネ。
「でも、吸魂鬼って本当に怖いよね。私、急に灯りが消えて汽車も止まっちゃったからどうしたらいいか分からなくて。そしたら、ノットとウィルクス先輩に会って。本当に怖かったよ」
吸魂鬼に遭遇した時のことを思い出したのだろう。ブルッと震えるダフネ。
「あぁ、幸福な気持ちに一生なれないんじゃないかって思った。アズカバンに送られるようなマネはしたくねぇな」
ノットがぼそりとつぶやく。私はうなずいた。あんな生き物と一緒に24時間を共にするなんて堪えられない。それなら、この眼鏡を外して生活していた方がましだ。
「あれ?そういえばセレネって眼鏡かけてたっけ?」
ダフネは、ようやく心の整理がついたのだろう。表情を見る限り少しだけ、心にゆとりが生まれてきたみたいだ。ホグワーツに向かうための馬車に向かい合う形で乗った時、ダフネが思い出したかのようにたずねてきた。
「今年の夏に買ったんだ」
「へぇ、似合ってるよ!」
「ありがとう」
微かにカビと藁の臭いがする馬車に揺られながら、ホグワーツを目指す。馬車は壮大な鋳鉄の門をゆるゆると走り抜けた。門の両脇に石柱があり、そのてっぺんに羽を生やしたイノシシの像が立っている。いつも思うが、何故ここでイノシシの像なのだろうかと疑問に思う前に、見たくないモノが視界に飛び込んできた。
また、吸魂鬼だ。
イノシシの像の上の方に2体、頭巾をかぶったそびえ立つような吸魂鬼が漂っていた。ノットやダフネそれからウィルクス先輩の顔から血の気が引いていくのが見えた。私も、またしても冷たい吐き気に襲われそうになって、すわり心地の悪いボコボコした座席のクッションに深々と寄りかかった。だが、これだけでは終わらなかった。吸魂鬼が、2体とも私の方を見たのだ。頭巾で顔が分からないが、確実に私の方を見た。滑るようにして私の方に急降下してくる。とっさに杖を取り出し、呪文を叫んだ。
「プロテゴ―護れ!」
力いっぱい、渾身の魔力を込め防御魔法を放つ。杖先から噴出された透明の盾が、吸魂鬼の進行を阻もうとする。だが、奴らはそんな盾を気にするまでもないみたいだ。盾を日本の『のれん』みたいに軽々と押しのけると、一気に距離を詰めてくる。もう一度、呪文を唱える気力も、眼鏡を外しナイフを使う気力も残っていなかった。氷のように冷たい感覚が身体の芯を貫き、目の前が霧のように霞み始める。あの1年間、『』を観測していた時の感覚が一気に押し寄せてきた。それと同時に、頭が今にも割れそうな痛みが襲い掛かってくる。遠くで、誰かの叫び声が聞こえた。それと同時に、遠くから響いてくる恐ろしげな声。でも、それが誰の声なのか…知っている誰かなのか、それとも違うのか。もう、判別することが出来ない。
視界の端に何やら銀色の生き物が映ったのを最後に、私は意識を手放してしまった。
「――まさか、そんなことが―」
「生徒に吸魂鬼が危害を加えるなんて」
「先生がいてくれて助かりましたわ――いなかったらどうなった事か―――」
「『キス』の執行はしなかったみたいだから、まだ吸魂鬼はとどまるみたいですよ」
「――これを機に奴らがアズカバンに戻ってくれることを期待したいのぅ」
どこからかささやき声が聞こえてくる。どうやら吸魂鬼の話題みたいだが、なんでそんな話題をしているのだろう。それにしても、私は今、どこにいるのだろうか?ボンヤリと霞がかかったような脳で、考え込む。どうしてここにいるのか、そもそもどうやってここに来たのか、その前は何をしていたのか。さっぱりわからない。
ゆっくり目を開けてみると、何人かの先生…右からスネイプ先生、マクゴナガル先生、ルーピン先生、校医のマダム・ポンフリー、そして顔を合わせたくなかったダンブルドア…先生が私を囲んでいるのが目に入った。見知らぬ天井が見える。好きになれそうにない病院独特の薬の臭いから察するに、私は医務室にいるようだ。
「大丈夫か?」
スネイプ先生が真っ先に口を開いた。どの先生も物凄い心配そうな表情を浮かべているが、断トツで心配そうにしているのはスネイプ先生だった。こんなに顔を歪めたスネイプ先生なんて、見たことがない。迷惑をかけてしまい申し訳なく思うのと同時に、私は慌てて気を引き締めた。先生の首筋に、最近滅多に見ることがなかった『線』を見てしまったから。恐らく、今の私の瞳は普段の黒色とは違い、青々としているのだろう。
「君の『眼』のことは、ここにいる先生たちには話してあるから、気にしなくて平気じゃよ」
ダンブルドア…先生は、優しげな口調でそう言いながら、ベッドの脇に置いてあった眼鏡を渡してくれた。先学期末のことを思い出すと、あまり礼を言いたくなかったので軽く頭を下げて受け取る。眼鏡をかけると、スネイプ先生の首筋や、そこらじゅうに漂っていた『死の線』は、まるでなかったかのように視えなくなった。
「私、気絶したんですね。一緒に馬車に乗っていた人たちは無事ですか?」
「酷く衰弱していたが、命に別状はない。宴会にも途中からじゃが参加出来て、今はみんな寮のベットの上じゃ」
スネイプ先生に聞いたはずなのに、ダンブルドア…先生が答える。そうか、気絶したのは私だけか。だが、私のせいで迷惑をかけたことには変わりないだろう。私と一緒の馬車に乗っていなかったら、吸魂鬼が彼らに危害を及ぼすことにはならなかったのだから。
「また、先生に助けてもらったんですね」
そう言ってルーピン先生を見上げた。先生はにっこり微笑む。
「丁度、2つ後ろの馬車に乗っていてね。運が良かったよ。それにしても、まさかセブルスが君の名付け親だったなんてね」
「意外か、ルーピン」
スネイプ先生が先程とは打って変わり、ジロリっと冷ややかな目でルーピン先生を睨む。ルーピン先生の微笑の中に、微かに驚きの色が混ざる。
「だって、君がマグルの頼みで子供に名づけをするなんて思わなかったから。いくら、リリーと仲が良かったマグルだからって…」
「ルーピン!!」
スネイプ先生の叱責が飛ぶ。先生は、右手が杖の方に伸びようとするのを必死でこらえていた。空気を換えるため、ゴホンっと咳払いをするマクゴナガル先生。
「よろしいですか、ミス・ゴーント。貴方は誰よりも、おそらくこの学校にいる教師よりも、死に近い経験をしています。なので、貴方は誰よりも吸魂鬼の気をひきやすい体質なのです」
マクゴナガル先生がすまなそうな顔をしながら言葉を紡ぎ続ける。どこか重たい嫌な予感が、胸をよぎった。
「実は、今年からシリウス・ブラック対策として、吸魂鬼が学校への入り口という入口を固めているのです。もちろん、ホグズミード村へ向かう道も。なので、吸魂鬼がいる間は、貴方のホグズミード村行きを許可することが出来ません」
「これも、君の命のためなのじゃ、分かってくれないかのぅ?」
「ハリーは、ハリー・ポッターはホグズミード行きを許可されているんですか?」
自分でも驚くほど、感情のこもっていない声が出る。それと同時に、問うことを考えていなかった言葉が出たことにも、驚いてしまった。まっすぐダンブルドアの青い眼を、睨むようにして見つめる。ダンブルドアの眼が、悲しげに揺らいだ気がする。
「ポッターが許可書を持ってきても、我輩なら許可しませんな」
ダンブルドア先生が口を開く前に、スネイプ先生が口を挟んだ。私は、ダンブルドアから目を離してスネイプ先生を見上げる。
「その通りです。ポッターはシリウス・ブラックに命を狙われているのですから、少しでも危険だと思われる行動をさせることは出来ません。吸魂鬼に気絶させられることがなかったとしても、ブラックが逮捕されるまでは学校から一歩も外に出させないつもりです」
マクゴナガル先生がキッパリと言い放つ。私は内心、少しホッとした。私だけじゃなくハリーも気絶していたのに、彼はホグズミード行きを許可されるのではないかと心のどこかで思っていたから。でも、冷静に考えれば、ハリーがホグズミード行きを許可される可能性は低い。彼は、大量殺人犯のシリウス・ブラックに命を狙われているらしい。マクゴナガル先生の言う通り、シリウスが逮捕されるまでは城から外に出ないことが、ハリーの安全対策として最善の策だといえるだろう。
「先生方の言う通りじゃよ、セレネ。さて、そろそろワシらは戻ろうかのぅ。君は、ここに泊まりなさい」
ダンブルドアはそう言うと、医務室から姿を消した。マクゴナガル先生もルーピン先生、それからスネイプ先生も去っていく。私はマダム・ポンフリーが持ってきてくれた夕食をつまみながら、吸魂鬼について考えを巡らせていた。アイツに勝てる方法を考えないといけない。今後の人生で、吸魂鬼に出くわすたびに、こんな状態に陥ってしまうのは、あまり好ましいとは言えないからだ。その度に、助けてくれる人がいるとは限らない。即急に、吸魂鬼を追い払う呪文を覚えないと…
雨はまだ降り続いていた。雨粒が窓ガラスに当たって弾け、細かい水滴となり流れ落ちていく。ランプの灯りで照らされた室内からは、漆黒の闇に覆われた外の様子は見えない。見えるのはガラスに映し出された、私の青白い顔だけだった。