シルバーがハリーに近づく。そして、ハリーに向けて杖を一振りさせると、ハリーをきつく墓石に縛り付けていた縄が簡単にほどかれた。手入れが行き届いない野草の生い茂った墓場に、拘束から逃れたハリーは崩れ落ちる。ふらつきながらも立ち上がり、逃げようと辺りを見渡していた。だが、私たちを囲んでいる死喰い人達の輪が小さくなり、現れなかった死喰い人の空間も埋まっていた。
シルバーは、地面に転がっている杖をハリーに投げる。ハリーが杖を握り、ヴォルデモートの方を向く。足元が微かに震えているように見えた。
「決闘のやり方は学んでいるな?……まずは互いにお辞儀だ」
と言って軽く頭を下げたヴォルデモート。だが、蛇を思わす顔を、まっすぐハリーに向けたままだった。
「格式ある儀式は守らねばならぬ。ダンブルドアは礼儀を守れと教えただろ。……お辞儀をするのだ!」
杖を振るうヴォルデモート。どうやら、無言呪文をつかったらしい。突然ハリーが腹を抱えながら、まるで、お辞儀をするかのように、首を垂れていた。ヴォルデモートは、細く微笑んでいる。死喰い人達は、先程までの恐怖はどこに行ったのだろう。面白そうに笑っていた。彼らと同じ死喰い人のシルバーは、口元が笑ってはいた。が、ハリーを笑っている死喰い人をチラリチラリと見て、笑っているみたいだ。私同様…墓石に縛り付けられたままのセドリックは、悔しそうに歯を食いしばってヴォルデモートを睨んでいる。
(若干1名を除いた)全ての目が、ハリーと…対峙するヴォルデモートに注がれていた。
私を見ている人がいない。逃げ出す機会(チャンス)かもしれない。だが、頼りのナイフは地面に転がったままだし、杖はローブの内側に入ったままだ。袖の内側に、予備のナイフがあるが、うまく取れそうにない。腕を動かして予備のナイフの位置を動かそうとしているが、取れる位置まで落ちてくるのには、時間がかかり過ぎる。…どうすればいい。
私が考えている間にも、目の前でハリーとヴォルデモートの決闘は続いていく。何回も何回も…磔呪文を受けたハリーの目は、虚ろになりかけていたが、それでも必死に逃げていた。間一髪のところで、ヴォルデモートが放った。おそらく、死の呪文だと思われる緑色の閃光を避け、墓石の後ろに隠れる。的を外した緑の閃光は、近くにあった別の墓石を粉々に破壊した。
「背中を見せるな、ハリー・ポッター!死の瞬間まで俺様を見ていろ!…俺様は光が消えるのを見たい!」
ヴォルデモートは叫んでいる。負けるはずがないと信じていた自分を…破滅へと導いた少年(ハリー)を…自らの手で殺したいのだろう。ヴォルデモートの骨のように白い肌が、怒りで赤く染まっているように見えた。ハリーは意を固めたように、墓石の後ろからヴォルデモートの前に姿を現す。2人が杖を振り上げたのは、ほぼ同時だった。
「『アバタ・ケタブラ』」「『エクスペリアームス』」
ヴォルデモートが放った『死の呪文』の緑の閃光が……ハリーは放った『武装解除』の赤の閃光が……夜空を奔る。そして、2つの赤と緑の閃光が空中で激しくぶつかった。
その時だ。
急に身体が楽になった、と思ったら、次の瞬間には地面に足がついていた。いきなり足に負担がかかる。よろけて転びそうになったが、誰かが支えてくれたので、倒れずにすんだ。
「大丈夫?」
頭上から声がする。ハッと上を向くと、セドリックが私に笑顔を向けていた。一体どうやって抜け出せたのだろうか。私が困惑していると、セドリックが地面に転がっているナイフを拾ってくれた。そのまま引っ張るようにして、巨大な墓石の陰に隠れる。
「今は僕たちに注意が向いていないからね。『姿くらまし』で縄抜けしたんだ」
セドリックがナイフを渡しに渡しながら、教えてくれた。『姿くらまし』というのは、一種の瞬間移動の呪文だ。17歳以上で車の免許と同じように、魔法省が発行した免許を持っていないと使用することができない呪文。それに、杖を使わない呪文だと聞いたことがある。だから、セドリックは抜け出すことが出来たのだろう。
「…ありがとう」
小さな声で礼を言う。セドリックは、人を安心させるような笑みを浮かべた。だが、次の瞬間、鋭い剣を思わすような真剣な表情になって、ハリーの方を見た。
「次はハリーだけど、あれはいったい…」
いまや、宙でぶつかりあっている光は、緑色でもなければ赤色でもない。濃い金色の糸のように2つの杖を結んでいた。杖同士を繋いだまま、光が1000本あまりに分かれ、ハリーとヴォルデモートの上に高々と弧を描き、2人の周りを縦横に交差し、やがて2人は、金色のドーム型の光の籠ですっぽりと覆われていた。その外側で、死喰い人達が慌てふためいている。ハリーもヴォルデモートも、何が起こったのか分からないらしく、眼を見開いていた。
「知らない。だが今は、この場から逃げる方を考えた方がいい」
「そうだね…」
セドリックはゴクリと唾を飲み込んでいた。逃げるのは簡単だ。セドリックが私とハリーを連れて『姿くらまし』をすればいいのだから。だが……誰か同伴者を連れて『姿くらまし』をするためには、同伴者の一部に触れていなければならない。どうやってあの状態のハリーに、触れることが出来るだろうか?
不思議な光の籠のようなものの中で、正真正銘、命を懸けた決闘中のハリーに触れる距離まで『姿くらまし』をすることが出来るのか分からない。失敗して取り返しのつかない事態になったら、目も当てられない。早く妙案を考えてつかないと、死喰い人達に気が付かれてしまう。予想もしていなかった事態に、慌てふためき右往左往している死喰い人達に。その時、気が付いたことがあった。………死喰い人の数が1人足りない?
「…逃げよう何て無駄だよ」
誰かの声が背後から聞こえた。その瞬間、隣にいるセドリックの身体が銀の光で包まれた。私はナイフを構えて振り返る。そこにいたのは、シルバーだった。
シルバーの杖の先は、セドリックの背中を突いていた。セドリックは、音を立てずに地面に倒れこむ。セドリックの瞳は、一体何が起こったのか、理解の色を宿していなかった。ただ、途方に暮れて唖然とした色を浮かべたまま、地面に伏している。
だが、セドリックは死んでなかった。セドリックの口元に被るようにして生えている野草が、微風を受けて微かに、そよいで揺れていた。…風が吹いていないのに、草が揺れているということは、セドリックが呼吸をしているということ。
まだ、生きている。
「殺しはしないよ。一応さ、魔法省の上司の息子だし……」
杖の先を今度は私に向けるシルバー。私はナイフを逆手に持ち直すと、腰を少しだけ落とし、いつでも走り出せる体勢をとった。シルバーは、先程から笑みを浮かべていた……が、この笑みは嫌いだ。得体のしれない何かを感じる。虫唾が走った。
「アンタの御主人様はいいのか?なんか大変な状況になっているが…」
「帝王様は、なんとかなるって。っていうかさ、俺が下手に手を出してポッターを殺しちゃったらどうすんだよ?自分が狙っていた得物が俺に横取りされたら、あの人さ、絶対に俺を殺すって。俺はまだ死にたくない。まだ……」
軽い感じで話し続けるシルバー。私はシルバーを睨みつけながら、セドリックが倒れた今、どうやって、この場から逃げようか頭を働かせていた。
思いつく手段は2つ。
1つは、ここにいる死喰い人達とヴォルデモートを倒して、逃げる。……現実的に、この案は不可能だ。この場にいる死喰い人は、10人以上……不意を突いたとしても、全員倒せるとは限らない。それに、今の私では、ヴォルデモートを倒せる自信がない。ハリーは確実に足手まといになりそうだし。
となると、必然的に2つ目の手段を取るしかない。
私たちを墓場(ココ)まで運んできた『優勝杯』に再び触れること。地面に青白く輝いたまま転がっている優勝杯まで、数歩。少し手を伸ばせば触れることが出来る。
だが、これにも穴がある。私がセドリックだけを連れて触れる事には、問題ないだろう。目の前のシルバーの気を一瞬でも逸らせばいいのだから。
問題はハリーだ。ヴォルデモートと決闘をしている彼とは少し距離がある。たった数秒だが、全員の気を別のところに向ける必要性が出てくる。思いつく案は、あることにはある。だが、あんな子供騙しの方法で、死喰い人やヴォルデモートの気をハリーから逸らすことが出来るだろうか。
私は覚悟を決めた。
迷っていても仕方がない。あの場所に、大切な人たちが待っている場所に、帰るためなら、行動しないと意味がないのだ。
私はローブの内側にしまっておいた杖を取り出すと、素早く振り上げた。それにいち早く気が付いたシルバーも、素早く呪文を唱える。
「『エクスペクト・パトローナム‐守護霊よ、来たれ』!」
「『プロテゴ‐守れ』……え?」
シルバーの顔から、初めて笑みが消えた。目を丸くさせて、ただ想像もしてなかった事態に驚いているみたいだ。私の杖の先から出た白銀の大蛇は、あっさりとシルバーの防御呪文を破って、絡みつくように襲い掛かる。私は動揺しているシルバーが一瞬だけ隙を見せた時を見逃さなかった。再び杖を振り上げる。
「『ペトリフィカス・トタルス‐石になれ』!」
青い閃光が杖の先から放出されて、守護霊に襲われて動きにくそうなシルバーに直撃した。シルバーは直立不動の体勢になると、そのままの姿勢で地面に倒れた。…『全身金縛りの呪文』を使ったので、しばらくの間は指を動かすこともできなければ、口蓋まで動かすことが出来ないので、声を出すこともできない。
眼だけをギョロギョロと動かしているシルバーを一瞥すると、気絶したままセドリックを引きずるようにして『優勝杯』が転がっている場所まで走った。
後は、ハリーに向いている死喰い人達やヴォルデモートの気を逸らせるだけだ。私はハリーの方をちらりと見た。ハリーの杖とヴォルデモートの杖は繋がったままだった……が、少し様子がおかしい。ヴォルデモートの杖から次々に、ゴーストが湧いて出てきているのだ。ハリーを励ますように男女のゴーストが呟いているみたいに見える。ハリーは覚悟を決めたような顔になると、一輝に杖を上に捩じ上げた。ヴォルデモートの杖と結ばれていた金色の糸は切れ、2人を囲っていた光の籠も消え去った。
ハリーを励ましていたゴーストたちが、視界を遮るようなにヴォルデモートに向かっていくのが見えた。ハリーは必死に足を動かして、私達……というより『優勝杯』に向けて駈け出した。
どうやら、運は私たちに味方してくれているらしい。
ローブの内側から、ずっと前にダフネやミリセントがくれた『クソ爆弾』を取り出す。
その爆弾を、目の前で何が起こったのか理解できていない、ただヴォルデモートの指示を待つ死喰い人の集団に向けて、投げた。死喰い人達の目と鼻の先で爆発し、その爆風が、死喰い人達を覆う。苦しそうに咳き込む死喰い人達に目も向けず、とにかく走り続けるハリー。
「ハリー!」
ハリーに、千切れそうになるくらい手を伸ばす。転びそうになりながら走るハリーも、私に手を伸ばす。
「逃がすな!失神させろ!!」
ハリーとの距離が、あと2メートルというところで、ヴォルデモートの声が墓場に響く。それと同時に、死喰い人達を覆っていた爆風が嘘のように晴れる。まだ苦しそうに喘いでいた死喰い人もいたが、すぐに立ち直った死喰い人が私たちに杖を向ける。赤い閃光が私たち目掛けて宙を奔る。少し頭を下げると、頭上を閃光が飛び越していく音が聞こえた。
私に向かって伸ばされたハリーの手を、しっかりと握りしめる。ハリーが空いている方の手で、私の足元に転がってる『優勝杯』の取っ手に触れた。遠くでヴォルデモートが叫ぶ声が聞こえる。
それとほぼ同時に、ヘソの裏側が引っ張りあげられる感じがした。……上手く『移動キー』が作動したのだ。ヴォルデモートの深紅の眼と、私の『魔眼』の影響で青い眼が交差する。だが、それは…ほんの一瞬の出来事だった。次の瞬間には風と色の渦の中を、移動キーはぐんぐんと墓場から遠ざかる。私とハリー…そして、気絶したままのセドリックを連れて……。
私は思いっきり地面にたたきつけられるのを感じた。顔が整えられた芝生に押し付けられ、柔らかな草の匂いが鼻腔を満たす。陽気なファンファーレと会場を揺るがす拍手が耳に飛び込んできた。うっすらと目を開けてみると、迷路の迷路の入り口が広がっていた。どうやら、無事に戻ってきたみたいだ。私は握っていたハリーやセドリックの手を放して立ち上がる。…歓声が悲鳴に変わるのに、時間はかからなかった。
いつまで経っても、全く動かないセドリックと、セドリックにしがみつくようにしてハリーが泣いているのだ。…セドリックが死んで、ハリーが泣いているみたいに見える。
「ハリー、ハリー!!」
向こうから、ダンブルドアを先頭にして先生方が走ってきた。その後ろの方で、マダム・マクシームが傷だらけのフラーの肩を抱きながら、不安そうに私たちの方を見ているのが視界に入る。ダンブルドアはハリーを乱暴につかんで上を向かせていた。
「あ…あの人が戻ってきました。戻ってきたんです。ヴォ…ヴォルデモート卿が!!」
震える声で、訴えかけるように言うハリー。ダンブルドアの表情に変化はない。少し遅れてハリーの傍に来た審査員の1人……魔法省大臣のコーネリウス・ファッジがハリーを覗き込む。愕然として蒼白の色を浮かべていた。次々に周りに集まってきた人々が、ハリーを見て…そのまま地面に伏したままのセドリックに視線を向けた。
「なんたることだ――ディゴリー!」
「死んでいるぞ!?」
「違う―――息はしている」
「仮死状態……だと?」
「いったいどうして―――」
息を呑み、口々に…ある人は、叫ぶように…またある人は、金切り声で近くの人に言葉を伝える。
「大丈夫か、セレネ?」
スネイプ先生が、私の肩をたたく。その言葉に応える前に、『偽教師』の姿が視界に飛び込んできた。そいつは、ダンブルドアがハリーから離れたすきを突いて、ハリーを何処かへ連れて行くつもりらしい。そのまま人ごみの中に姿を消した。
「…先生……ポリジュース薬の材料が盗まれた、と言っていましたよね」
「それは、どうでもいい。今は、マダム・ポンプリーのところへ…」
「犯人が逃げていきますよ」
肩に置かれたスネイプ先生の手をどかすと、私は立ち上がった。
「犯人は、ムーディ先生です。いや、ムーディ先生にポリジュース薬で成りすましていた『死喰い人』…と言った方がいいのかもしれません」
そう伝えると、スネイプ先生の表情が固まった。私は早口で話し続けた。この間にも、ハリーを連れた偽ムーディは、どんどん遠くに行ってしまう。
「ムーディ先生だけなんです。壁の向こう側を見ることが出来るのは。それに、以前…ドラコに対して異常なほどの嫌悪感を持っていました。あれはおそらく、『闇の帝王』を見捨てて逃げたドラコの父親、ルシウスに向けられたものだったのではないでしょうか?それに、あの人は…」
その先の言葉は、あえて言わなかった。
…あのムーディは、私の『眼』について知っていた。最初は、ダンブルドアが『眼』について教えたのだろうと思った。でもあの時、ムーディは『…せっかくクィレルを倒した技が見られると思ったのだがな…』と言ったのだ。ダンブルドアは、私が吸魂鬼に襲われて、医務室に運ばれた時m一部の先生に『眼』について話した。そういっていたが、『クィレル』と対峙した時のことまで話したとは言っていなかった。わざわざ、記憶を改編したことまでダンブルドアが先生方に話すとは思えない。というか、そんなことを話したら……いくらダンブルドアに心酔している先生でも、抗議したくなるのではないだろうか?
それなのに、あいつは…私がクィレルと対峙したということを知っていた。あの時気が付いていれば、もう少し違った結末が迎えられたかもしれない。
「私が、後を追います。…ムーディを演じていた死喰い人を1人で相手するのは、少し、骨が折れそうなので、スネイプ先生は応援の先生を呼んできてください」
スネイプ先生の返事を待たずに、私は走り出した。
会場はまだ混乱していて、誰も外に出ている人はいないみたいだった。誰もが、いったい何が起こったのかということを、近くの人と意見を交わしている。セドリックのファンだった女子生徒は、泣きわめき、ヒステリー気味に、しゃくり上げていた。誰かが私を呼び止める声が聞こえた気がしたが、届いていないふりをし走り続ける。
遠くに、ぐったりしているハリーを抱えながら、急ぎ足で城に戻るムーディの姿が見えた。今なら追いつける。私は地面を蹴った。
急がなくても、すぐにスネイプ先生が応援を呼んできてくれるに違いないが……物事は早くに済ませた方がいい。
だが、後方で…誰かがすすり泣く声を耳にしてしまった。会場の女子生徒の泣き声かとも思ったが……それとは、どこか違う……押し殺したような切ない泣き声……
一旦足を止めて振り返ると、会場の向こう側………校門の近くで、うずくまっている小さな背中が目に入った。『ムーディを追いかけないといけない』と頭の片隅で叫ぶ声が聞こえたが……気が付かないふりをして、その人物に近づく。
「……アステリア?」
まだ少し距離があったが………私は悲鳴を上げているみたいに見える、その小さな背中に声をかける。夜の闇に覆われているので、顔はよく見えなかったが……アステリアは泣き腫らして真っ赤になった眼を私に向けた。
その時……気が付いてしまった。
アステリアの前に、夜の闇よりも、一段と暗い黒い塊が横たわっていることを。岩だ、岩を台代わりにして泣いているのかもしれない。きっと、誰かと喧嘩して、アステリアは負けたんだ。それで、悔しくて…でも、人前で涙を見せるわけにはいかないから……こんな所で泣いているんだ。
私は無理やり、そう解釈しようとした。
でも、本当は、どういう状態なのか分かっていた。
私は一歩…一歩…未だに騒々しい会場と比べて……不気味なほど静まり返った校庭を歩く。ほんの数歩先にいるはずの、アステリア…とその前に横たわっているナニカが、大げさかもしれないが、千里離れているように感じた。
足が重い
「何泣いてるんだ?泣き虫は嫌われるぞ」
なるべく明るい声を出すが、どこか空回りになっている感じがした。アステリアは、顔を両手で覆う。しゃくり上げた声で、何かをつぶやくアステリア。
「風邪をひくぞ、だから泣くな」
足が重い……心臓の鼓動を感じる……普段は鼓動なんて意識したことがないのに。進むのを心が拒否している気がする……でも、前に行かないといけない。確かめないと……
ナニヲ確カメル?
それは決まっている。アステリアの前に横たわっている黒い塊の正体を―――
「ごめんなさい、先輩……」
アステリアが、呟いた時と、私が黒い塊の正体を判別した時は、ほぼ同時だった。
世界が止まる。
頭の芯が痺れている気がする。何も考えられない……ただ……目の前に横たわっている見慣れた上着を着た黒い塊を、凝視する。吐き気がした……目の前が揺らいで倒れそうだ。
「……ごめんなさい、先輩……私……止められなくて。あの時に、引き留めていたら。カルカロフの奴が……カルカロフの奴が…」
私のすぐ下で、うずくまっているはずのアステリアの声が、壁の向こうから聞こえる気がした。
「…自分を責めるな、アステリア」
セドリックとは違い、微風でそよいで揺れている草は見当たらない。そっとソレに触れる。……まだ、ほんのりと温かい。でも、私が触ってもソレはピクリとも動かない。反応してくれない。
「……馬鹿」
小さい声でつぶやく。
脳裏で…いつだっただろうか……もう忘れ去っていたはずの女の言葉が再生された。
≪日輪を一周した時だ………徐々に広がり始めたヒビの入った家が…崩れるであろう。家は、海の向こうから来た人物の手によって…音を立てて崩壊する。日輪を一周したとき、それが起こるであろう≫
あぁ、そういうことだったのか。
日輪を一周…つまり1年後。海の向こうから来た人物……つまりカルカロフ。
そして、家が崩壊する……つまり、
『帰るべき場所(クイール)』の喪失だ。
頬を伝い、落ちる滴。しばらく、静まり返った校庭にはアステリアが、すすり泣く声だけが響いていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『炎のゴブレット編』は終了です。
次回からは『不死鳥の騎士団編』に入ります。
これからも、寺町朱穂をよろしくお願いします!