「いらっしゃいませ。ひゅー」
マスターのウェルナーは、ワイングラスを磨く手を止め、軽く口笛を吹く。
居酒屋キルシェは時間帯に応じて、異なる表情を見せる。昼は大衆食堂として、アンテローゼでは敷居が高い一般庶民の胃袋を満たす。夜はナイトパブに早変わりし、酒と出会いを提供する。
キルシェと同じく、ウェルナーも二つの顔を使い分ける。太陽の下では人の良いウェイターに身を窶し、月の支配下だとシェイクが得意な渋目のマスターを演じる。そんな彼の密やかな趣味は、店を尋ねてくる女性客の容姿を採点すること。早速、ウェルナーの駄目スカウターが、女性の全体像を捕らえる。
歳の頃は二十歳前後だろうか。腰まで届くキラキラと光輝くブロンドの髪、水の七耀石(セプチウム)を内封したかのような碧眼の瞳に、海外女優顔負けの整った目鼻立ち。肌は透き通るように白く、唇の薄いルージュ他、化粧は必要最小限で、若さ故にしみ一つなく、地デジ対策はゼロ。
(ルックスは問題なく合格だな)
次はスタイルを確認するために、自然、視線が降下する。
胸元と肩口が大きく見開いた真っ赤なセクシードレスから、半剥き皮の二つの天然果実が自己主張しており、サイズは凡そ86で詰め物の可能性はゼロ。強く抱きしめたら折れそうな括れたウエストラインは52で、安産型のヒップは85。露出した背中の奇麗な肩甲骨と、短めのスリットスカートから零れたスラリとした健康的な太股が、実に艶かしい。
(プロポーションもベスト。最後に服飾は)
男を誘惑しているとしか思えない肩紐無しのノースリーブドレスをベースに、胸元に飾られた真珠のネックレスが一際目立つバストを強調している。両耳に非ピアスタイプのエスメラスの緑のイヤリング。両手に複数嵌めたホワイトリングのブレスレットに、ドレスとお揃いの赤いハイヒール。アクセサリも全て高級ブランド品で固められて一切隙がない。
(ルックス、スタイル、センス、全てがパーフェクトに近い。この数年の俺のキャリアの中でも、類を見ない絶世の美女)
女性の肢体を、上から下まで舐めまわすように視姦すると、そう品評する。
惜しむらくは、外国のトップモデルに比べ少し背が低いこと。上げ底のハイヒールは、それを補うためか。その分をマイナスし98点という点数をつけるが、それでも歴代最高スコア。
ウェルナーの好奇の視線を無視して、金髪碧眼の美女はバーのカウンターに腰を降ろすと、スタインローゼの赤を注文する。果たしてこの場違いな美人は、何を求めて場末の酒場を訪ねたのだろうか?
「よう、姉ちゃん。一人かい?」
ワインに口をつけてから十秒としないうちに、酔った大柄な中年男性が下心丸出しの締まらない表情で声を掛ける。金髪美女は蒼い瞳で酔っ払いを一瞥すると、すぐに興味を失ったようにグラスに視線を戻す。
「悪いけど、他を当たってくれないかしら?」
「へへっ、そんな連れないことを言うなよ」
露出度の高い胸元や太股をチラチラと眺めながら、酔っ払いは執拗に絡む。女性は在り来たりな口説き文句をスルーして、次のボトルを注ぐ。堪え性がなさすぎる大男は早くも実力行使に出て、女性の細い腕を乱雑に掴んだ。その際、ワインの瓶が倒れ、カウンターの上に赤い湖が広がる。
「痛い、離して」
左腕が大きくねじ上げられる。女性の端正な顔が、苦痛に歪む。
ぷはーっと酒臭い息を吐き出しながら、クンクンと左脇の下の腋の匂いを嗅ぐ。恐怖と嫌悪感で女性は表情を引き攣らせる。
「へへっ、良い臭いだ。本当はあんただって、こうなるのを期待していたんだろ? お望み通りこれから宿に行って、酒を飲むよりも楽しいことを……」
フィクションに限らず現実世界でも、凡そ独創的に欠けたスケベ根性丸出しの三下台詞が成就した試しは少ない。えてしてこういう美女のピンチには、ヒーローが駆けつけると相場が決まっている。何者かが気配もなく背後に回り込むと、トンと軽く首筋を叩き酔っ払いを気絶させる。
「無粋にも程がある。今日ぐらいは荒事と無縁でいたかったのだがな」
精悍な顔つきをした成人男性が呆れたように酔っ払いを見下ろすと、片手で襟首を掴んで店外に放り出す。今の腕力といい、酔った上での不意打ちとはいえ大男を一発で沈黙させた手並みと、かなりの武芸者だ。背中に大斧の得物を背負っている。
「一応、助けてもらったお礼を言うべきかしら?」
金髪碧眼の美女は痣の跡が残った左手の手首を軽く摩りながら、男を値踏みするような粘っこい視線を筋骨逞しい青年男性に注ぐ。
「私はカリン・アストレイ、帝国からの旅行者よ。年齢と職業はひ・み・つ。あなたは?」
「エジル・シーボスフリード。遊撃士(ブレイサー)だ」
◇
遊撃士の民事介入により店内での揉め事が回避されたウェルナーは、軽く安堵しながらカウンターに零れたワインを雑巾で掃除する。ウェルナーがチラ見すると、カリンとエジルの二人はカウンターに隣り合って、ワイングラスを片手に何やら談笑している。
結局この世界の全ての美人は、金持ちか、イケメンか、あるいは遊撃士のような強い男と惹かれ逢うよう星か何かで予め定められていて、彼のような平凡な男性の元に降臨するなど有り得ないのだろうか?
エジルの境遇に嫉妬し、世の不公平さを嘆きたくなった。
「ブレイサーって子供たちが憧れる正義の味方でしょ? 素敵ね」
「少なくとも俺はそんな立派な人間ではないさ。君の誘いを受けたのは、さきの酔どれと似た下心があるからだぜ」
「あら、構わないわよ。私は出会いを求めて、酒場に来たのよ」
ワイングラスをエジルの杯とキスさせ、ゴクゴクと一気飲みする。グラスを持つ細く白い手。猫のように長い爪には赤いマニキュアが塗られて、掌も奇麗で皹一つない。
飲みっぷりは見事だが、身体中隙だらけ。件の酔っ払いの対応を見ても、武術の嗜みがあるようには思えない。
(正真正銘の素人だな)
そう断定した後、腕っぷしの強さを対人鑑定の基準に添える遊撃士の救い難い性に気づかされ、エジルは苦笑する。
「先程も主張したが、ブレイサー自体、ご大層な代物じゃない。普段は薄給に喘いでいて、今回のような大事件が起きれば不謹慎にも褒賞金目当てに駆け参じて、挙げ句の果てには同業者同士で依頼を奪い合う始末。危険と倫理に目を瞑れば、紛争地帯に出向いて、猟兵団(イェーガー)にでも身を投じた方がよっぽど儲かる」
エジルはツァイス地方に所属する正遊撃士。今年で二十六歳。ブレイサーズ・ランクはD。今回の『定期船失踪事件』を聞きつけて、一山当てようと目論んでいる中堅どころの一人。
「ふーん。ならどうしてあなたは、今もブレイサーを続けているの?」
お互いのグラスを次のボトルで満たしながら、カリンはエジルの目の前で、左足と右足を態とらしく組み換える。剥き出しの白い太股がさらに強調され、太股の合間の魅惑の黒いデルタゾーンが露わになる。
(この女、さっきから誘っているのか?)
荒事には無力そうだが、妙に手慣れている。蒼い瞳に蠱惑的な色を浮かべエジルを挑発してくる。男性経験が豊富そうな割に、自分の素性ははぐらかしてばかり。後腐れなく一夜を共にするパートナーを見繕いに、酒場に足を運んだということか?
ならば、遠慮することもあるまい。先週クエストで保護した家出少女のような、背伸びして大人の社交場に迷い込んだ世間知らずの乙女を無理やり手込めにするわけでなし。
一向に捗らない仕事の憂さを酒で晴らすつもりだったが、こんな良い女を抱ける機会などそうそう巡り逢える筈もない。
エジルは腹を括ると、カリンの酒のペースに付き合うことにした。
「やはり俺の中で譲れない何かがあるんだろうな。理屈や損得勘定じゃないんだよ。ブレイサーに殉ずるというのは」
程よく酔いが回り、本人も意識しない中に、エジルは自分語りを始めている。
幼い頃にこの職業に抱いていた夢や希望は、全て現実の濁流に押し流されてしまったが、それでも自分たち遊撃士が世界から見捨てられた力なき者たちの味方であるという誇りは、今も彼の魂に根付いている。
「不器用なのね、あなたも。けど、そういう自分を曲げない一途な男性って私は好きよ」
カリンは聞き上手に徹して、エジルの中に蓄積していた、鬱屈した感情を吐き出させる。
頬杖をついたカリンと目が合う。蒼い瞳に優しげな色を浮かべて、ニッコリと微笑む。それから軽くブロンドの髪をかき上げると、黄金の微粒子が中空に散布しているような幻想すら覚える。
いつの間にやら、カリンの魅力に本気で囚われていた。
「ふーん、リンデ号の消失には、そんな裏があったの?」
テーブルの上に五本目のボトルが積まれ、酔いが濃く浸透していく。
正義の使者の遊撃士といえど、悟りを開いた聖人ではなく、喜怒哀楽を兼ね揃えた生身の人間。酒量が増え、目の前にとびっきりの美人がいるとなれば、守秘義務の鉄門は決壊し自然と口が軽くなる。
特に今彼が携わっている『定期船失踪事件』の話題にカリンの食いつきが良いと知ると、彼女の興味を引く為、遊撃士としての良心を一時的に凍結し積極的に機密を漏らし始めた。
「というわけで、この件は身代金目的のハイジャック事件なのさ。市長の遣いと偽って、モルガン将軍から直接聞きだしたから間違いない。まあ、その後、素性がばれてハーケン門から叩き出されたけどな」
エジルは軽く頭を掻く。公人としての最後の理性が、既に酒の場での与太話の範疇を超えていると警笛を鳴らしていたが、カリンの瞳に見つめられると、まるで自分の意志でないようにどんどん口が滑る。
酔いがまわり過ぎて感覚が麻痺し、一時的に色盲となったのだろうか。カリンの蒼い瞳がさっきから紫色に変化しているように錯覚する。
「その時に一悶着あってさ。モルガン将軍と一発触発の雰囲気になった時に、妙な帝国からの旅行者が乱入してきて、リュートを奏でて場を収めちまいやがった。まあ、演奏に感動したというよりは、呆れて毒気を抜かれただけだったけどな。その旅人の変人はどうしているかって? 音楽の腕は確からしく、今はレストラン・アンテローゼでピアノの演奏をしているらしいぜ」
テーブルの上に置かれたボトルは十本目。
血の代わりにアルコールが身体中の血管を駆け巡っているとしか思えない程酔いが暴走を続け、クエストの機密を洗い浚い喋り尽くしてしまった。
もはや守秘義務も情報漏洩もどうでも良くなったエジルの頭に浮かんだ疑問は唯一つ。
(何で俺の倍以上のペースで飲んでいるカリンは、平気なのだろうか?)
カリンが酔い潰れたら自然とベッドインのステップに持ち込もうと算段し、話し手に徹することでさり気なく酒量を抑制していたが、既にグロッキー気味なエジルに対して、カリンの頬には赤み一つ射していない。飲み比べる前との変化は彼女の瞳が青から紫色に変化していることだけ。
(そういえば以前、クエストでロレント支部を訪ねた時にも、とんでもない酒豪と出くわしたよな? 確かアイナ・ホールデンとか言ったっけ?)
それが薄れゆく意識の中で、思い浮かべた最後の記憶。とうとう限界に達したエジルは複数のボトルを道連れにしながら、カウンターに前のめりにぶっ倒れる。
それから軽い寝息の音が聞こえてくる。完全に酔い潰れたようだ。
「ご馳走様、色々と参考になったわ」
優しげな仕種でエジルの頭部を一撫ですると、カリンはカウンターから立ち上がる。どのようなカラクリなのか、エジルとの飲み比べ中、パープルカラーに輝いていた瞳が元のブルーに戻っている。
「マスター、御勘定はこの男性の持ちでお願いね」
「ああっ」
ウェルナーに向かって軽くウインクすると、エジルを振り返ることなく居酒屋キルシェを後にする。
男と女のラブゲームは先に酔い潰された方の負けなのが酒場での暗黙の取り決めなので、ウェルナーは別段カリンの飲み逃げを咎める気はなかったが、何やら男の純情を弄ばれたっぽいエジルに今では同じY染色体(♂)として同情してしまう。
◇
翌日の昼過ぎに目を覚ましたエジルは、カリンの顔も漏洩したクエストの内容もまるで覚えてない。ただ、凄い美人と飲んでいたという漠然とした記憶が残されていただけ。
そして、ウェルナーから突きつけられた請求額の高さに、目を丸くして驚いた。
それ自体は飲み屋で良くあるぼったくり被害だが、二日酔いが治まるとエジルは、憑き物が落ちたように頭中がスッキリとする。まるで酔いと一緒に身体の中に溜まっていた膿が全て洗い流されたような清々しい気分になる。
一夜の飲み代にしては高くついたが、当初の目算通りに心身共にリフレッシュ出来たので、まあ良いかとエジルは思うことにし、『定期船失踪事件』の調査に復帰した。