黒と白の軌跡が描く太陽の光環。しかし儚く、白の軌跡は砕け散った。
せめて君だけは―――生きて―――。
最後に聴こえたのは、愛しい人の悲しい願い。直後、それは血色に塗りつぶされた。
アインクラッド第二十二層 七時五十分
浮遊城二十二層の外周部、針葉樹林の中にひっそりと建つ小さなログハウス。
その寝室でシーツに包まった栗色の髪の少女が、幼い表情でまどろんでいた。
セットしたアラームの木管楽器の旋律を聴き、ゆっくりと意識を浮上させながら少女は幸せな夢の中で彼に抱かれて甘えていた時と同じ様に、すぐ傍で眠っている筈の少年に抱きつきその胸の中に入ろうと手を伸ばして。
目が覚めた。
外周部の空、窓から差し込む朝の光。寝室の中のベッドの上には少女、アスナの他には誰もいない。
緩慢な動作で身体を起こし、肌からシーツが滑り落ちるのも気に留めずアスナは自らの手が握り締めるからっぽの隣を虚ろに見つめた。
その空虚を認識し、今日もまた現実を、絶望を思い出す。
彼は、とても強い剣士だった。
数多な戦いの中で磨かれた戦闘センス、知識経験。絶え間なく最前線で敵を葬った事で得た莫大なステータス。それら全てを支配し、駆使する強靭な意志。常に傍らで二刀を携えて、彼女に希望と幸せをくれた。全ての不安を拭い去ってくれた。
だから、彼が死ぬはずが無いと思っていた。そしてその様にはさせないと守るとも誓った。
しかしその幻想は脆くも打ち砕かれ、アスナを絶望に叩き落した。
「キリトくん……」
彼の名を呟くと、止む事の無い悲しみが込み上げて視界が滲み、涙が溢れ出た。この世界では涙を偽る事は出来ない。そして今のアスナにはそれを止める術は無い。
きっとこの涙は枯れる事はないのだ。一生。
ただ、その裸身に一つだけ身に着けている華奢な銀鎖のネックレス。その先端の宝石を悲しみが過ぎ去り、氷の様な無表情で完全に蓋が出来るまできつく握り締める。
何度も死のうと試みた。しかしコード圏内では決闘すら封印されて、ありとあらゆる死を茅場晶彦に制限された。セルムブルグから開放された後も偶然を装って死のうにも、いつの間にか付加されていた《不死属性》が邪魔をした。
そして彼が最後に残した、君だけは生きて、という思いを裏切る事も出来なかった。
死ぬ事のできないアスナの心は幾つもの空虚に蝕まれ、穏やかに、だがしかし確実に狂っていった。
◆◆◆
純白と真紅で彩られ、金糸で刺繍された血盟騎士団の団長服の上に漆黒の外套を着込んだアスナは朝食を終えた。向かいのテーブルの上の朝ごはんが耐久値を減らして消滅していくのを見ながら椅子を立ち上がる。
「…それじゃ、行ってくるね。キリトくん」
腰のポーチから転移結晶を取り出し、コマンドを唱えた。
「転移。《紅玉宮》」
ソードアート・オンライン。現在の最前線は浮遊城アインクラッド最上層、紅玉宮。
◆◆◆
第百層《紅玉宮》に降り立ったアスナは転移門から二、三歩歩いてから周りを見渡した。
目に映るのは巨大な尖塔が目を引く紅色の大宮殿。その外周に広大に広がるどこか神秘的な風景の草原。百層には主街区が無く、今まで天に掛かっていた蓋が無いので360度蒼穹の大空。
草原の一部には各ギルドのテントや天幕が張られており、それが集まって大きなベースと化している。風に乗って微かに聞こえる小気味の良い音は武器の研磨の音だろうか。
幸い、コード圏外とはいえ宮殿の周辺にはモンスターが湧出(ポップ)しないので安全に前線基地を建てる事が可能だったのだ。
「…見せたかったな」
この世界を真剣に本気で生きていた彼の事だ。きっとこの光景を見たら凄く喜ぶんだろうな、と容易に想像できた。
彼の事を考えている間だけが唯一幸せな時間。
風が吹き、草原が揺れ。アスナの栗色の美しい長髪が靡いた。
「団長、こんな所に居たんですか? ずっと待ってたんですよボク」
草原を飽きなく眺めていると背中から声を掛けられる。
表情消し、無感動に振り向くと、そこには所々銀の刺繍が施された血盟騎士団の服の上から緋色のマントを羽織った男が立っていた。銀色の髪に小奇麗な顔立ち、ひょろながの長身。そして―――背中に吊られた二本の長剣。
「生憎、待ち合わせはしていない筈よ。おはよう副団長」
「呼び捨てでいいのに。ボクと団長の仲ですよ?」
あまり考えの読めない笑顔で首を傾げる男。彼は血盟騎士団の副団長を任され、ついた異名は《銀の騎士》。攻略組みの中でも指折りの強者。紅玉宮攻略・第二部隊隊長。
そして、今現在十二人いるユニークスキル使いの一人で、二代目《二刀流》の担い手。
「そこまでの仲になった覚えは無いわ。そんな事より皆の装備の最終調整はどんな状況?」
「ちぇーつまんないー。…一応、第十一部隊・風林火山の調整が最終段階。作戦決行時間、正午の二時間前には余裕で全隊仕上がります」
アスナは正直彼の事はあまり好きではない。その剣の腕は信用に足りるが、何かと近寄って来てはアプローチしてくるのだ。副団長でなければとっくの昔に弾いているのに。
何より彼が獲得している《二刀流》のスキルが気に入らない。元々そのスキルはキリトの物なのだ。
出会った頃はそうでもなかったが、二刀流のスキルを手に入れてから矢鱈と擦り寄ってくる。まるでキリトに成り代わろうとするように。忌々しい。
苛立ちから憎しみに変わりそうな心を無理やり断ち切って、アスナは男に指揮する。
「そう、じゃあ事前に話した通りに事を進めて。私は自分の分の装備の点検してくる」
そう言うと、アスナは何か言いたげな男を無視して幹部専用の天幕へ向かった。
「はい、研ぎ終わったよアスナ」
「ありがとうリズ」
リズベットが黒水晶の美しく透き通ったレイピアをアスナに手渡す。
受け取った細剣は華奢な刀身だが、ダイヤモンドの如く光を反射し圧倒的な存在感を誇る。
銘は《ベネトナーシェ》。キリトの《エリュシデータ》とアスナの《ランベントライト》を溶かして掛け合わせ、リズベットの手によって鍛えられた最高級の宝剣。
大切な親友が造ってくれた。彼との思い出。
「遂に第百層か。あたしらもうこんな所まで来ちゃったんだねー」
手元では他の装備品の調整を淀みなく行いながら、リズベットはどこか遠くを眺めるような声でそういった。拙く微笑んだその瞳には懐かしむような、寂寥。
あの日以来、嘗ての仲間達の間で笑顔が消えて久しい。
「プレイヤー、大分減っちゃったね」
「うん」
「最初は一万人も居たのにね」
「うん」
「…それでね、あたし転移門で一層からここまでの主街区全部巡ってみたんだ。そしたらさ、人が殆どいないんだわ。それで思ったんだよね。今日、何があっても、このゲームはもうすぐ終わるんだって」
「…うん」
「…ソードアート・オンライン、本当に楽しかった、悲しい事も沢山あったけど、あたしはこの世界が好きだったの。でも、さ。…今はちょっと辛い」
「……」
「アイツだよ。キリトが居たから、教えてくれたからこの世界が楽しく思えたんだなって…、だからさ、だから…」
「…リズ」
「アスナ…っ」
「…きゃっ!?」
リズベットの呼びかけに俯けていた顔を上げると、急に抱きしめられた。
彼女の声は湿っていて、手が震えている。
アスナは驚きながらも、背中に手をまわして優しく抱き返す。
「お願い、お願いアスナ、絶対に死なないで! …もう大切な人が無くなるのはいやだよぅ…!!」
「大丈夫、大丈夫だよリズ。泣かないで、泣かないで…」
リズベッドの涙が止め処なく流れ、黒のコートを濡らす。
そう言うアスナも涙が止める事が出来ず、ただ時間が来るまでお互いに抱き合っていた。
残酷で儚くも美しく楽しかったあの頃に帰りたいと、心からそう願った。
先頭、血盟騎士団団長《閃光》のアスナがそれぞれユニークスキルを持った者を分隊長とした十一の攻略部隊を率いて紅玉宮の大回廊を進む。天窓から差し込む光がオブジェクトに反射し、それ自体が力を放っているかのような回廊を抜け、遂にボスの間への巨大な扉の前に到着した。
縦は10メートル程ありそうな扉の中央、アスナは黒のコートを翻し、攻略部隊へ向き直る。
「恐らく、中ではヒースクリフ――茅場晶彦が居る筈です。まず話し合いをするつもりですが、恐らく戦う事は避けられません。これが最後の戦い、いつでも攻撃出来るよう準備を。――――戦闘、開始」
「久しぶりだな。アスナ君」
「……えぇ、そうですねヒースクリフ、茅場晶彦」
宮殿最深部。厳かな雰囲気の大広間の中央奥に置かれた真紅の王座。茅場晶彦はそこに腰掛け、アスナ達を向かえた。
王座の傍らには様々な武器を携えた真紅の騎士たちが控えている。名は《The Crimson arms》、カラーカーソルは赤。
そして、紅衣に巨大な十字盾、真紅の大剣。冷たい真鍮色の双眸。神の風貌を滲ませ、プレイヤーを睥睨するヒースクリフ。視界に表示された名は《The Arch holly knight》、カーソルは赤。
「……ッ!!」
その姿に今まで堪え、制御してきた憎しみが理性をこじ開けて溢れ出そうになる。
茅場はプレイヤー達を眺め、その容貌に喜色を浮かべ微笑む。
「キリト君の次に辿り着くのはアスナ君、君だと思っていたよ」
「貴方がキリトくんの名前を口にしないで……ッ!!」
煽る様な茅場の言葉に対し、ベネトナーシェの柄に手を掛ける。背後に控える攻略部隊も色めき立ち、それぞれの武器を構える。
アスナの憎悪の視線を気にした風もなく茅場は続けた。
十字盾と大剣を携えて王座から立ち上がり、ゆっくりと歩き始める。
「そういえば君が手に入れたユニークスキルを知ったときは驚いたな。《閃光》の二つ名を持つ君が反対の属性の《影霊剣(アンサングソード)》の使い手になるとは」
「………」
「それでも有る意味納得したよ。かつて君の隣にいた男は光のような、まさしく英雄だった」
「――――るさい」
「ならば常に傍らに寄り添い彼を支えてきた君はまさに影の英雄(アンサング)だ」
「――――うるさい」
「もっとも、彼はもう死んだが」
「―――――――――あぁぁああアアアアアっッッッ!!!!!!!!」
神速。一瞬で彼我の間合いを詰め、ほぼ同時に繰り出された七撃にも及ぶスラストを茅場はそれを事も無げに防いだ。
「もとより話し合いなど無意味。さぁ、君の可能性を見せろ。解けないはずの麻痺を解いてみせ、しかし間に合わなかったその哀れなその力を――!!!!」
◇◇◇◇
燃えるような夕暮れの草原。風が少し吹いていて肌寒い。
空には雲がたなびき、鮮やかなグラデーション。
アスナはふと気がつくとそこに居た。
「…ここは?」
何故ここにいるのか思い出そうとするが、記憶に靄が掛かって中々思い出せない。
茅場に斬りかかった辺りからよく覚えていない。
しかし、この風景には見覚えがあった。丘の上、目の前に広がる夕日の茜色を映す湖、針葉樹林の向こうに見えるログハウス。
ここは二十二層のあの場所だ。キリトくんの膝で眠ってしまったのをよく覚えている。大分、時が経ってしまったが、今でもこの景色は鮮明に思い出せる。
「これは、走馬灯なのかな?」
それともあの世なのか。
どちらにしろ自分は死んでしまったのか。…よくわからない。
けれど余り未練はない。茅場への憎しみも希薄な感覚。自分の生への執着もない。
後悔があるとすれば、生きろと言ったキリトくん。死なないでと泣いたリズを裏切ってしまう事だ。でも、二人はきっと許してくれるだろう。寧ろキリトくんには良く頑張ったなって褒めて貰う。リズにはしょうがないなぁアスナは、って苦笑して貰おう。
「だから、もう眠って、いいよ、…ね?」
ざぁっ、と黄金色に染まる陸に風が吹いた。
「―――えっ」
優しい風が、アスナの周りを渦巻く。風は言っていた、あの頃に帰りたくないか
? と。
「……帰りたいに決まってるじゃない。でも、もうどうしようもない」
風は言う。不可能などどこにもない、祈り、希望を糧に、世界のことわりを変えるのだ、と。
「……でもあの時は間に合わなかった。キリトくんをあの血色の剣から守る事が出来なかった」
確かに間に合わなかった。だが、いいのか。彼が君を呼ぶ声を無視するのか。
「…そんな事は、しない。キリトくんが私を呼んでいるなら。私は何処へだって着いて行く。一生彼の傍に…」
ならば願え、書き換えよ、事象の向こう側へ、シンイを導いて―――。
◇◇◇◇
まず最初に感じたのは、固い石畳の感触。
その次に聴こえてきた、リンゴーン、リンゴーンという昔何処かで聴いた様な鐘の音…。
そう、たしか全てが終わり、そして始まった。あの日の鐘。
「―――!?」
そこまで思考して、アスナは石畳の地面から飛び起きた。辺りを見渡すと、広大な石畳。中央広場の周囲を囲む街路樹。正面遠くに見える黒鉄宮。
間違いなく、ここはアインクラッド最下層《始まりの街》。そしてアスナが事態を呑み込めず、呆然と立ち尽くす間、周りに次々と大量プレイヤーが転移してきて、あっというまに広場一杯に溢れかえった。およそ日本人離れした容姿の人々。まるでカスタマイズされたかの様な眉目秀麗な様々な男女の姿。
その光景に酷くデジャヴを覚えた。まるであの始まりの日。
「…まさか、本当に?」
この後の展開を知っているアスナは、天に掛かる第二層の底を見上げた。程なく真紅の市松模様がそれを染め上げ。赤いフォントで【Warning】【System Announcement】、と表示され、パターンの隙間か血液が染み出るかの如く真紅の雫が粘性を持ち、落ちてくることなく中空に留まり蠢き、徐々に形が整っていく。
顔がない、真紅のフード付きローブをまとった巨大な人の姿。それが誰なのかアスナはしっている。
「―――茅場晶彦」
『プレイヤーの諸君、私の世界へようこそ』
数時間後、《ホルンカの村》の西に位置する巨森。
そこで少年キリトは《リトルネペント》の群れを相手に剣を振るっていた。
森の秘薬クエストの最中、コペルという名の元βテスターに協力を頼まれ、そして裏切られた。
「……ラァッ!!」
既に論理的思考能力は無く、最小限の動きで回避して僅かな隙にソードスキル《ホリゾンタル》を叩き込む。口元を笑みに似たなにかに歪め、ただひたすら少年よりレベルが格上の筈のネペントを次々と葬り続ける。確実に消耗しているが、剣の閃きは更に速度を上げ、その先を目指す。
「う…おおぉぉああああ!!」
永遠に続くかと思われた闘争。
しかし、ここでさらなる波紋が投じられた。
正面で相手取っていたリトルネペントが最後の三匹になった所で、パァンッ!!と凄まじいボリュームの破裂音が、背後のコペルが戦っている位置から響いた。
「……!?」
まさか、誤って《実付き》を割ってしまったのか。そう思考し、一瞬の油断が生まれてしまった。
その思考の刹那の空白に、まるで計ったかのような悪魔的なタイミングで蔦による突きの攻撃を繰り出してきた三匹のネペント。
「くそ…っ!!」
紙一重で二本を避けたが、三本目を避けきれず咄嗟にスモールソードで弾いた、途端。
「―――嘘だろ」
遂に耐久値が限界を超え、ガラスが割れたかの様な音を立てて剣が砕け散った。武器喪失(アームロスト)。
ここで、終わるのか。直葉に、母さんに、オヤジにもう一度会う事も叶わずにここで死ぬのか?
「ふざけるなよ…!」
諦めず、目に闘志を未だに灯しながら剣を握っていた拳をきつく閉じ、ネペントを殴りつけ、そのHPバーを僅かに削るが、蔦を横に薙がれ吹き飛ばされる。
崩れ落ちるキリトにネペントの追撃が当たる、刹那。
ネペントの背後からほぼ同時に放たれた三本の光条が弱点である茎の部分を抉り飛ばし、カシャーンと音を立ててネペントが砕け散る。
「ぇ……」
ネペントがポリゴン片となって散ったその向こう側。
天使と見紛うような美しい少女が、その美しいかんばせを宝石の様な涙で濡らし、こちらを見つめている。
するといきなり少女が抱きついてきた。予想外の事態に混乱しながらも、少女から薫るどこか懐かしい風の匂いに何故か安堵した。
少女の祈りが、事象を上書きし、ここにまた新たな物語を紡ぐ。
◇◇◇
コペル「………」←放置
突発的に思い浮かんだ一発ネタです。誰もが一度は75層以降の妄想しそうですよね。
アスナさんが背後から現れたのは開幕ダッシュで元βどころかキリトさんも追い抜いたから。実付きがもう一匹湧出したのもアスナさんが先に到着していて片っ端から轢き殺して出現乱数が偏ったから。