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無謀な勇気と偽善な勇気、どちらが良いのだろう?
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織斑山猫が失踪した。何も残さずに、何も分からずに、何も言わずに、居なくなった。
その事実は私の胸を吸血鬼が恐れる白木の杭を打ち込まれたかのような拒絶感と絶望感を確かな衝撃を持って貫いた。
食い入る悔いは今でも胸に突き刺さる杭の痛みが証明している。
あれほどまでに私を支えてくれた一夏が、いや、"いーくん"が居なくなったのはショックだった。
自分でも驚きだった。
あれほどまでに嫌悪していたというのに、
あれほどまでに同情していたというのに、
これほどまでに愛していたというのに、
何故。
こんなにもぽっかりと穴が開いているのだろう、杭が穿ったとでも言うのだろうか。
「まぁ、落ち込んだり喜んだりよく分からんがそう落ち込みなさんな」
そう言って寮長室のテーブルでビールを飲む潤はシニカルに笑った。
まるで、私の知らないことを知っていて、だから、くだらないことだと笑い飛ばしているような感じがした。
憤りのような吐き気が胸を苦しめ、堪えられなくなった私はすぐさま近いキッチンの流しへ向かい、吐いた。
空きっ腹に苦し紛れのビールしか飲んでいなかったからだろうか。
それとも柄じゃないが悪酔いだろうか。
ああ、そうか。酔っていたんだ私は。あいつが、いーくんが居てくれるという現実に酔っていたんだ。
一夏がいーくんという存在に、二重人格に変わって哀しかった。
織斑山猫という黒式の身体に受肉して一夏が帰ってきてくれて本当に嬉しかった。
でも、同時に山猫と名前を変えたいーくんが一緒に居てくれることに安堵していた。
それはもう、離れ離れになると思っていた家族が帰ってきたかのような感動があった。
口から何も出てはいないが、口を濯いだ。
「なぁ……潤。私って嫌な奴だな」
「あん? 何だよ急に。千冬が重度のブラコンで酒豪で世界最強で意外と乙女な奴だなんて今更じゃねぇか」
「……振っておいて何だが。貶してるよな、それ。普通なら、どうしたんだ、くらいは言ってやるだろう親友なら」
「ぷっ、あっはっはっはっは!! らしくねぇ、らしくないな千冬。いつも通りどかってしとけよ、女々しい」
「私は女だ!? 女々しくて当たり前だ、馬鹿者……」
潤が折角盛り上げてくれたテンションが徐々にトーンと共に下がっていってしまう。
それを見かねたのか潤はやれやれといったポーズを取ってビールの缶をテーブルへ置いた。
「どうしたんだ?」
「……お前のそういうところ好きだ」
分かってるくせにシニカルに笑って問い直してくれるところが、今の私には救われる気遣いだった。
「おいおい、あたしなんかに告ってどうすんだよ」
「ふん、冗談だ……。ほら、この前に酒盛りした時に愚痴ったろう? その……前進したっていう」
「ああ、いーくんの話か……」
そう言って潤はビールの缶を置いて何やらぼんやりと……した後に悪戯娘のように笑みを浮かべた。
「待て、何をしたんだ貴様は」
「いや、ちょっと……な?」
私の愚弟に何をちょっとだけしたんだこいつは。ビールを買いに食堂へ向かって行った間は何処かに行っていたようだし、まさか人の弟を値踏みしていたのではあるまいな……。
いや、こいつに限ってそれは無いか。
人の色恋についてはずかずかとバルカン砲のように踏み込んでくるというのに、誰かに恋をしている、なんていう乙女ちっくな話題をこいつから聞いた覚えも無いし、風の噂ですらも聞いたことはない。
唯我独壇場のような潤に釣り合う男性がそもそも存在しているのかすらも分からん。
つい一口三口と中身を飲み干してしまい、四本目に手を出し始めた私の口は軽やかだった。
あれもこれもと鬱憤を吐き出せば楽になれると思っていたが、案外そうでもないらしい。
どうやら、私は心の一スペースをいーくんに貸し出していたらしい。
こんなにも、物足りぬ寂しい気持ちになるとは、思いやしなかった。
今における全てのコネをフル活用して目下捜索中であるというのに何故こんなにも手がかりが無いのか、と胃が軋む生活をいつまで続ければよいのだろうか。
「しっかし、お前がこんなになる程悩んでたなんてなぁ……」
何処吹く風といったようにさらりと言ってくれる潤に少しだけ苛つきを覚えた。
しかしまぁ、それが個人的な八つ当たりなのだということは自分でも分かっている。
すぐにブチキレルような子供ではこの職場には居られない。
溜息でドス黒い気持ちを吐き出す。
気休め程度には冷静になれる。その代わり幸せが逃げてしまうそうだがな。
幸せ、か。私にとっての幸せとは何だったんだろうか。
あの時、そう、一夏が誘拐されたあの日よりも前から、私の幸せは何処か曖昧になってしまった気がする。
私を捨てた両親に絶望し、荒れていたあの頃に、たった一つの希望であり、道を正す導だった一夏。
それは、たった一回の喧嘩だった。
確か、本当に些細な問題だったと覚えている。本当に、ささやかな問題だったのだ。
それなのに、どちらも譲りもしないその姿に苛々が胸を蝕み続けていたのだろう。
きっかけが、いや、終止符が私の落としたスプーンだったのは運命。
そう、必然だったのだろう。
両親は変わった。私という罰する相手を見つけて、狂った。いいや、あれはもう、終わっていたのだろう。
今ならまだ両親を肉親であると懐かしむことができるが、あの頃の私は二人をただの汚い肉袋にしか見えなかった。
幾度も、ああ、幾度も思った。
どうして私に暴力を振るうのか、と。
何で自分のことを棚に上げているんだ、と。
そんなにも私を殴る蹴ることは楽しいのか、と。
――殺してやりたい、と。
結局事故で二人は死んだ。私が殴られるのを避けて、階段付近に逃げて――。
未だにあの時の瞳を私は忘れられない。
ふっと正気に戻り、自分は何をしていたんだ、という自愛と後悔に染まったあの二つの父の瞳を忘れやしない。
階段の下で咲いた赤い花は、とても綺麗に見えた。
その直後、後追い自殺で母も逝った。
驚くことに、父が死んだその場所で、同じ死に方をした。
私に微笑んだ母の死ぬ直前の顔が未だに忘れられない。
それから偶然にも突っ込んだ車が窓を突き破り、二人の遺体に飛び込み、炎上し、そして、燃えて亡くなった。
孤児院に移った後も常に考えていた。何故、嬉しくないのだろうか、と。
あんなにも、あれほどまでに憎んだはずなのに。
ああ、そうか。その頃からきっと私は達観してしまっていたのだろう。
こんなにも幸せという存在は青い鳥のように自由気ままに消えて見失うものだったのだろうと。
笑っていた。
母は、最期の最後で、笑っていたんだ。
父と同じ場所で同じように正気に戻って死んだんだ、と気付いて私は――憤怒した。
何故、貴方たちだけが救われて、取り残されて理不尽な目にあった私だけが不幸になって生きているのだろうと。
それからだった。
昔齧っていた剣術を殺人術へと昇華させる手前のそれで止め、木刀を握って声をかけてきた不良どもを正当防衛としてぶちのめして苦しむ様を見て嘲笑っていたのは。
『弟と妹、どちらが欲しい?』
そういえば、あの時のずぶ濡れの少女はどうなったんだろうか。
一度だけ、大学生くらいの不良に捕まって身包みを剥がされ掛けていた少女を救ったことがあった。
あの時の私は良い大義名分があるとだけしか見ていなかったが、十分過ぎる現場だった。
虚ろな目で彼女は笑っていた、何故か、笑っていた。
ただ、私は彼女を助けるために場に居たのではない。その後の話が有利になるから八つ当たりに巻き込んだだけだ
なのに、彼女は笑っていた。
くぐもったような呼吸をし、壊れたオーディオのような笑い声で、彼女は私の手を取って立ち上がった。
それから私は一年間の暴走という忘葬を行っていた。
忘れたかった、何もかも。
今思えばあれはあの頃の私が両親に対して送った花束だったのかもしれない。
あんなにも綺麗に咲いた花を届けてあげたいと、そんな歪な願いを無意識に敵えていただけなのかもしれない。
「お、おい……千冬?」
唐突に、そう、突然に私の心が何かに穿たれた。確実に、しかし、見えない何かが確かにこの胸を抉った。
瞳から流れる水。
私は、あの人たちに……両親のために泣ける心がまだあったのか、と驚きながら、泣いた。
「おかしい、おかしいな……潤。私は何で泣いてるんだ。あんなにも憎んでいたっていうのに」
――こんなにも愛していたのか、私は。
「そりゃぁ、そうだ。人間ってのは、愛で動く生物だ。愛が無きゃ人は生まれないし、人は育たねぇ」
潤はふっとシニカルに笑って言った。
「だから、人は信用に愛を選ぶ。それが、たった一つの嘘偽りの無い正直な感情だからだ。どんなに戯言に埋まれていたって、どんなに嘘に飲まれていたって、変わりようがない人間の美点なのさ。だからよぉ、泣いていいんだよ千冬。お前がいーくん以外の誰かをどんなに憎んでいたとしても、泣けるってことはその人を少なからず愛していたっていう証拠なんだから。何ならこの胸を貸してやろうか。後でクリーニング代を請求するがな」
私は、ぽかん、としてしまった。嘘偽りのない真直ぐな瞳を見て、思考が止まってしまった。
そうか、そうだったな。こいつはこういう奴だった。
これでもかというぐらい人を愛し、愛し過ぎて、ろくでもないほどに信用している。
ああ、こんなにも愛される奴だったな。お前は。
「……ぷっ、くは、あはははははははは! 悪いが勘弁願うよ、親友。私の涙はそんなに安くはないからな」
「おいおい、結構するんだぜこのスーツ。オーダーメイドだぜ? ……なんかさ、オーダーメイドって何処か淫靡な感じがしねぇ?」
「おい!? お前は私の感動的なシーンをぶち壊して楽しいか!?」
「ああ!!」
「良い返事だから許す!」
「許された!」
お互いの顔を見て大爆笑だった。
酒が廻っていたからか、それとも、いや、潤の気遣いを暴露するのも野暮ってものだろう。
ここは、テンションに任せていたとしておこう。
みっともない姿を見せた貸しをこれでチャラだ。
本当にこいつと居て飽きやしない。全く持って私の親友は常識外れな奴らばっかりだ。本当に、全く……。
うん?
ちょっと、待て。
こいつ……。
「なぁ、潤。盛大に大爆笑している所悪いが、尋ねていいか?」
「あん? 何だ?」
こいつ、さらっと戻りよってからに。
まぁ、問題無い。とりあえずは――。
「何でいーくんじゃない誰かって分かったんだ?」
潤は「はぁ?」と本当に分からぬ素振りで問いかけに答えて、しれっと言った。
「さっきまでいーくんと居たぞ? てか、ここに居るお前がよく知ってんだろ」
――“何にも変わってないじゃねぇか”。
その一言で、私の思考は――完全に凍り付いた。