フォースチルドレンである少年が目覚めたので、ネルフ本部まで来てもらって挨拶する。
それだけであれば、わざわざBF団の朱里を通す必要はない。病室に直接連絡するか看護師にでも頼めば済むことだ。
リツコがそういう手段をとったのは、フォースチルドレンであるビッグファイアに心構えをしてもらうためだった。
たかが挨拶するだけ、なのだが実は様々な難関があった。
まず、今の少年にエヴァンゲリオン零号機にシンクロ出来るのかどうか。
パーソナルパターンなど、正体がバレかねない要素はリツコが細工してくれるとはいえ、実際にエヴァを動かせるかどうかはやってみなければわからない。
暴走も考えられるし、あるいは少年に残る綾波レイの魂にだけ反応して、シンクロできているはずなのに一向に動かない可能性もあるだろう。
少年にとってエヴァのパイロットでなければいけない理由は、ネルフ本部に入る資格を得るためだけなので、最低起動さえできれば誤魔化しようはいくらでもあるのだが。
二つ目は本物の綾波レイとの会うこと。ネルフ司令は碇シンジを殺したと思い込んで、綾波レイを三人目に移行させたのだが、実際は少年は死んではいなかった。少年の身体には未だ綾波レイの魂が残留しているのだ。三人目の綾波レイとの出会いは、予想不可能な事態を巻き起こす恐れがあった。
最後は、バビル二世の存在。BF団が血眼になって捜索しているバビル二世は、ネルフ本部にいる可能性が高い。出会えば確実に正体はバレるだろうし、そうなればBF団を挙げての総力戦が始まる。それでも勝てるかどうかわからない上、少年が生き残る可能性はそれほど大きくない。
といっても、バビル二世との戦いにはビッグファイアが絶対に必要だった。たとえ十傑集全てがそろっても、ビッグファイアなしでバビル二世相手では勝ち目はない。
とにかく、逃げることはできないのだ。ビッグファイアがどれほど嫌がろうと、覚悟を決めるしかない。
普通にネルフから病院に連絡がいって、少年はネルフに赴くことになった。
「私はもう会ってるんだけどねえ……取調室で」
アスカがボソッとつぶやく。言葉の後半に不機嫌が滲み出ていた。銭形警部に連行されたのが未だに気に入らないのだろう。
「まあまあ、こういうのは一回で済ませたほうがいいでしょ? そこでアスカだけ抜けてるっていうのも、後々ギクシャクするかもしれないし」
ミサトがアスカをなだめる。ミサトにとって正直子供の面倒など苦手。やりたくはないのだが、ネルフ本部においてチルドレンの監督は自分になっている。戦闘になれば直接指揮を取る事もあって、日頃も相手しないわけにはいかなかった。
「そういうのはいかにも日本人的な発想って気がするけど……まあ別にこの程度のことでワガママ言うつもりはないわよ」
アスカにとっては今待たされていることよりも、国際警察機構が気に入らないのだ。特別フォースチルドレンを意識しているわけでもない。
仮にフォースと零号機とのシンクロ率がアスカ以上に高かったとしても、対使徒戦では役立たずに変わりはないのだ。焦ることも気にすることも何もなかった。
「……」
レイは相変わらず無言無表情。密かに三人目に移行してから、必要なときでさえほとんど言葉を話すことはなくなり、頷くか首を振るだけが唯一の反応になっていた。
レイを知るネルフ職員からは「イクラちゃん」などという失礼なあだ名が付いていたりするのだが、本人は知らないし気にもしていない。ただ、ネルフ司令あたりが知れば怒り出すかもしれない。
そうして発令所の皆が待っていると、入り口の自動ドアが開いた。
「来たみたいね」
皆の視線がドアの向こうに集中する。
そこから現れたのは、自走式の車椅子に乗った少年、フォースチルドレンだった。
何故かタキシードに蝶ネクタイ、ひざの上の猫のぬいぐるみをなでながら、あきらかに作り物とわかる葉巻を咥えている。
「ふっふっふっ、よくぞ集まってくれた。我が忠実な僕たち……あだっ!」
電光石火。どこから取り出したのかミサトのハリセンが、少年の頭部を直撃した。結晶化した右側を狙ったあたりは、病人である少年に配慮したのだろう。
「いちいちネタに走るなって言ってるでしょうが!」
あんまりな登場にミサト以外は反応できない。少年に集まった視線が、どことなく哀れなものを見る生暖かい目に変わったような気がした。
「いえいえ、せっかくヲタの聖地日本(アキバ)に来たんですから、気合を入れてみました……ほら、第一印象って大事でしょう?」
「アキバ違う! コスプレ見て受ける第一印象って最悪じゃない!」
ツッコミまくるミサト。怒ってはいるのだが、妙に活き活きとしているような気もする。
「え? でも皆さんもやる気満々じゃないですか」
少年が発令所を見渡して言う。
「は?」
ミサトもまた周りを見直してみるが、少年の言っていることがわからない。ネルフ本部の発令所にコスプレやるような馬鹿者はいない。いるはずがない。こいつ以外は。
「ここの職員が着ているのはネルフの制服。チルドレンはプラグスーツといって、エヴァとのシンクロを補助するのと耐G機能を持っている服なのよ」
赤木リツコが冷静に指摘する。顔合わせなのだから当然のようにそこにいるが、実際はいつボロを出すかわからない少年のフォローのために居合わせているのだ。
少年の勘違いしたヲタ全開の登場も、リツコや朱里と相談した上での作戦だったりする。妙なことを口走る変なヤツ、という印象を与えれば、本当に危険なことを洩らしたとしても誤魔化しやすいと。
少年の場合素でこうじゃないのか、とか言ってはいけない。作戦、あくまでも作戦なのだ。
「それじゃあ、リツコさんの白衣も……」
「保健教師のコスプレじゃないからね」
「それは残念」
少年ががっくりと肩を落とす。
「白衣っていうのはね、理系頭の残念な人がファッションセンスがないのを誤魔化すために着るものなの。期待しても無駄よ」
「ちょちょっと、リツコ!」
少年に続いてリツコまで言動が怪しくなってきた。ミサト自身も自分を常識人とか女子力高いとかそんな自信はまったくないのだが、どうにも話があさっての方向に飛びすぎていて不安が募るのを止められない。
「ヲタの妄想を打ち砕くのは、リアル三次元女の義務よ!……とまあ、フォースのネタに付き合うのはこれくらいにして、話を進めましょうか。私は技術局第一課、E計画担当責任者、赤木リツコです。チルドレンの体調管理もしているから、今後会う機会も多いはずよ。もう病室で会ってはいるけど一応ね」
ようやく真面目になったリツコに、ミサトは本気で安堵した。本当にこのままグダグダが続きそうな気配だったので。
「ふう、一時はどうなることかと……私は戦術作戦部作戦局第一課、葛城ミサトよ。エヴァの戦闘時の指揮と、日頃はチルドレンの監督? になるのかな。とにかくよろしくね」
ミサトが姿勢を正して挨拶する。研究員から転向してきた者の多いネルフ職員の中でも、数少ない軍人さんなので実に様になっている。
ミサトの日常での様子を知っているアスカからすれば、外面を取り繕うのがうまいだけのぐーたら人間、らしいのだが。
「どうも。それでは僕もあらためまして……はるか遠いフランス支部の原子力発電所から、一千万ボルトの送電線をひた走りただ今参上! そーです、私が……ぐはぁっ」
全然あらたまってなかった。ミサトのハリセンが再び唸る。
「いー加減にしなさい! というかアンタいくつよ!?」
わかるミサトもどうなんだという気がするが、女性に歳を聞いてはいけない。いけないのだ。
「むむ、後はとっておきの、おフランス帰りザマ~ス! とかあったんですが」
「これ以上脱線するなら、ハリセンが粉砕バットに進化するわよ」
「イエスサー! 真面目にやらせていただきます! サー!」
ミサトの背後に現れた金属バットの柄を見た少年は、急にビシッと背筋を伸ばして敬礼した。何かトラウマでもあるのだろうか。
「サー! 自分はネルフフランス支部より参りました住所不定無職の名無し年齢不詳! 本部においてフォースチルドレンとして登録される予定であります! サー!」
「うーん、これはこれで妙だけど、まあいいか。とにかく話を進めましょう」
そう言ってミサトは取り出した金属バットの柄を逆手に持って、ゴンッとバットの先を床に打ちつけた。これ以上妄言吐くようなら、葛城ミサト容赦せん! という意思表示である。ビクッと震えた少年にもそれは十分に伝わっているようだ。
その金属バットには「父の魂」と彫ってあるのが見えた。葛城博士の遺品だろうか。
「何なのよコイツは……私はエヴァンゲリオン弐号機パイロット、セカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレーよ。ネルフのエース! と言いたいところだけど、本部での使徒戦は今まで国際警察機構のロボットがトドメさしてたからねえ。一応チルドレンとしてはトップにいるつもりよ」
半分あきれながらも、アスカもきちんと挨拶する。エースというのは最上位、トップという意味ではあるが、アスカが言いたいのは戦闘機のパイロットが名乗る撃墜王のほうだろう。
ネルフ本部では今までの経験から、エヴァをATフィールド中和装置と位置付け、近接戦闘とトドメは通常兵器で行っていた。アスカとしては、胸を張ってエースパイロットを名乗るのは躊躇するわけである。
とはいえエヴァとのシンクロ率、戦闘能力においてトップであることは間違いない。国際警察機構のロボットが引き上げた今、エヴァ弐号機とそれを駆るアスカが、ネルフの切り札となるのだろう。
「サー! お噂はかねがね聞き及んでおります。自分はものの役に立たないと思われますが、よろしくお願いします。サー!」
「うっとおしいんだけどコイツ……って普段はなんて呼べばいいのよ?」
うんざりした表情でアスカがミサトに問う。
「うーん、名無しとかフォースとか言ってるうちに定着しちゃったから、適当にフォースと呼べばいいわよ」
「サー! はい上官殿。いいえ、自分は一応希望する名前を提案しましたが。サー!」
上官にNoと言ってはいけない、というやつだろうか。少なくとも、ネルフや国連軍にそんな慣習はない。
「あんな寿限無みたいな馬鹿な名前、使えるわけないでしょうが!」
ミサトのバットが床を叩く。ヒッと少年が身体を引きつらせた。
「じゅげむ?」
アスカが首を傾げる。ドイツ育ちのアスカには意味がわからない。
「日本の落語にある異常に長い名前のことよ。正確になんていうかは、あとでネットでも見ればわかるわ」
ミサトの代わりにリツコが答える。
「ふーん? アンタ一体どんな名前にしたっていうの?」
「サー! 東西南北中央不敗スーパーフランスであります。サー!」
「……本っ当に馬鹿なのね、アンタ」
アスカがため息をつきながらつぶやく。納得はしたようだ。もちろん駄目な意味で。
「それじゃ次はレイね。エヴァンゲリオン初号機パイロット、ファーストチルドレン、綾波レイよ」
ミサトが紹介するが、レイは前に出ることも頭を下げることもなく、じっと少年を紅い瞳で見つめていた。
「サー! よろしくお願いします。サー!」
「……」
少年の声にも無反応。このまま何もなければいいのだが……少年の顔に冷や汗が流れた。
「……あなた、何?」
「!」
レイの言葉に、少年が傍目にもはっきりわかるほど動揺した。発令所のスタッフ全員が息を呑む。
ファーストチルドレン、綾波レイは少年に対して何かを感じ取っている。それは間違いないようだ、
『に、逃げようか? 脱出するか? 逃走しようか?』
少年はパニックに陥った。このままでは正体がバレかねない。
『落ち着いてシンジ君!』
赤木リツコの声が少年の頭に響いた。この顔合わせを乗り切るため、少年は本部の朱里と赤木リツコへテレパシーをつないでいたのだ。
赤木リツコは超能力者ではなかったが、BF団に寝返ったときに一時的に超能力を使える措置を施されている。とはいえ、それは一時しのぎのため緊急時しか使うことを許されていなかった。
今は少年に寄生している《暮れなずむ幽鬼》の能力を介して少年と意思を交わしている。
『ネルフのスタッフが驚いているのはシンジ君のことではなくて、「ファーストチルドレンが言葉を話した」ということに対してよ。それにレイのこの言葉だけではフォースのあなたを怪しむどころか、その言葉の意味すらわからないわ』
『あ、そ、そうか……』
混乱していた少年はどうにか自分を取り戻した。
『ここは適当に誤魔化すしかないか』
「は? あの、えーと……我とは何ぞや? なんというか哲学的なお話ですか?」
口から糞をたれる前と後ろにサーをつけることも忘れて、少年がつぶやく。
「……」
レイは何も答えない。ただ、少年から視線を外そうとはしなかった。こういう無言の圧力は少年の苦手なもののひとつで、本当に勘弁してほしい。
「哲学云々は置いておいて、一応もう一度自己紹介してもらえるかしら」
リツコが少年をフォローするために口を挟む。レイはよほどのことがない限り話すことすらない。この事態を乗り切るのはそれほど難しいことではないはずだ。
「サー! それでは復唱いたします! フランス支部より本部に配属になりました。名無しのフォースチルドレン、住所不定無職のニートであります。サー!」
「……? なんか最初と違うような?」
アスカが首を傾げるが、少年はレイの顔色をうかがうのに必死で、他に意識を向ける余裕はなかった。
「……」
「あ……あうあう……」
レイは相変わらず無言だ。緊張しすぎている少年の挙動がいよいよ怪しくなってきた。
「そ、それじゃ次にいきましょうか」
ミサトがたまりかねて言う。レイの反応を待っていては、いつまでたっても終わりそうになかったから。
少年があからさまにほっとする。挙動不審であるが、ファーストチルドレンが相手であればそれも不思議ではない。事情を知らないネルフの職員もそれを異常とは感じていないようだ。
それ以降、挨拶は滞りなく進む。相変わらず男に薄情な少年は、男性スタッフの名前を聞いても記憶しようとしなかったが。
これで何とかなりそうだ。少年もリツコもそう思っていた。その瞬間までは。
ポーカーフェイスなどできない少年はともかく、赤木リツコは冷静でいられた。表と裏の顔を使い分けるのはBF団に寝返る前からやっていたことだし、隠し事など今までいくらでもあったのだ。
BF団員になった自分の正体を隠すのはもちろん、危うい少年をフォローする余裕さえある。しかし、だからこそこれからおきる事に驚愕することになるのだ。
「一通り済んだわね。それじゃ零号機とのシンクロテストの前に、パーソナルパターンの測定を行います。フランス支部での測定データもあるけれど、念のためにね」
挨拶が終わった少年にリツコが話しかける。これで研究室に向かえば一息つける。少年もリツコもそう思っていた。
「サー! 承知しました! サ……あ……!?」
「え……!?」
二人が目を合わせた瞬間、それは起きた。
見合わせた二人の顔が、一瞬で真っ赤に染まったのだ。
少年とリツコが合わせ鏡のように、同時に自分の胸に手を当てる。つい先ほどまで平常運転だった心臓が、百メートルを全力疾走したかのように早鐘を打っていた。
「な、ななななな……」
「え、えええええ……」
二人とも二の句が継げない。思考が混乱してテレパシーどころではない。お互い相手のことで頭がいっぱいになり、胸は爆発したかのように熱く燃え上がっていた。
どちらもこれが一体何なのかわからない、理解することができない。ただ、とにかく今は互いの視線をそらせなかった。
「……ど、どうしたの、二人とも?」
さすがに不審に思ったミサトが声をかける。これまでのフォースチルドレンの奇行とはわけが違うようだ、というのはそれを見た者すべてが感じていた。
「!」
はっ! と我に返った二人が一斉にミサトのほうに顔を向ける。二人の迫力にミサトは思わずのけぞった。
「え、ええと? 目と目が合ったその瞬間から、恋の花咲くこともある……とか、そういうの?」
ちょっと引いたミサトが適当に思ったことを口に出す。そんなお気楽なものではなさそうだと、ミサト自身も感じていたが。
だが、渦中の二人は思い当たることがあったようだ。二人の目が大きく見開かれ、もう一度互いの目を合わせる。二人の顔がいっそう赤くなった。顔中に汗が吹き出て、湯気が立っているような気がする。今なら頭にやかんを乗せればお湯が沸かせそうだ。
この現象が一体何を意味するのか、この瞬間二人ははっきりと理解した。
「な、なあああああぁぁぁっっ!!」
「き、きゃああああぁぁぁっっ!!」
悲鳴を上げて二人は後ろに飛びのいた。少年は車椅子から投げ出され、リツコは背後のコンソールに衝突する。
少年は転がって背後の壁に激突し、リツコはちょうどキーボードのあるところに腰をぶつけることになって、端末にでたらめな文字が表示され、エラーのビープ音を響かせた。
何が起こったのか、二人は理解した。しかしなぜそうなったのか、これからどうすればいいのかまるで頭が働かない。
発令所の皆もこの状況についていけず、奇妙な沈黙が降りた。フォースチルドレンと技術局のトップがただならぬ関係なのだと思わざるを得ないのだが、当人たちの驚きようからしてこのときまで自覚すらなかったようなのだ。
『とりあえず、落ち着け』
冷静な、どこかあきれたようなテレパシーが少年とリツコの頭に響く。少年に潜んでいる十傑集《暮れなずむ幽鬼》の声だ。ただのテレパシーではなかったらしく、二人の興奮と混乱が強制的に静められていく。
『これではもう取り繕うのは無理だろう。二人ともこの場は退散したほうがいい』
『あ、ええ、そうね』
『ああ、うん、わかった』
幽鬼の言葉に二人は同意した。もはやこの状況を収拾することは今はできない。ほとぼりが冷めるまで逃げ出すしかなかった。
唐突にリツコのポケットからデジタルの音楽が流れる。「トムとジェリー」の主題歌だった。
「あ、あらいけない、研究室に戻らないと。それじゃ、お先に失礼するわね」
白々しいことこの上ないのだが誰も止める気になれず、そのままリツコは発令所から退出していった。
「ぼ、僕も病状が急変したので、病室に戻らせていただきます。では、さらばだ、諸君! また会おう!」
ひっくり返っていたところから、勢いよく起き上がるや車椅子を片手で持ち上げて、少年は外に駆け出していった。
「……あの車椅子何の意味があったのよ?」
アスカがあきれて言う。あれだけ動けるなら、車椅子など必要ないだろう。あれもコスプレの一種だったのか。
「いや、あれは一応必要なのよ……」
ミサトが説明しようとしたとき、外から大きな破壊音が聞こえた。察するに少年が思い切り転倒して、車椅子がバラバラになるほどの勢いで床にぶつけたのだろう。
発令所の出入り口は非常時には隔壁になるほど丈夫に作られている。その扉越しに聞こえるということは、どれほど派手に転んだのだろうか。
「今見たとおり、フォースは足が動かないってわけじゃないんだけど、身体の右半身があの有様でしょう? 左右の足の長さが変わっちゃって、まともに立ったり歩いたりは難しいのよ。今のはよっぽど焦ってたのね……どうも理由がよくわからないんだけど」
ミサトが首をかしげながら言う。フォースのことはそれほど知っているわけではないが、リツコとは長年の友人である。彼女のあんな姿など本当に初めて見た。日ごろから恋愛など無縁と割り切っているようだったし、もし恋だの愛だのに目覚めたとしてももっと冷静に対応するタイプのはずだ。
「男と女はロジックじゃない、って言ってたけど、ここまでど派手なことやらかすとはねえ……」
「何でもいいけど……ネルフに職員の恋愛禁止とかなかったの?」
二人の暴走に、アスカはあきれたというか毒気を抜かれたように脱力していた。
「さあ? よく知らないけど二人のあの様子で、規則がどうこうで止まると思う?」
「ほっとけっての? あの有様じゃ、これから仕事にならないわよ」
まあ確かに。ミサトも少し考え込んだが、やはり気にしないことにした。
「フォースはよく知らないけど、リツコが何も手を打たないとは思えないわ。たぶん何とかするでしょ……二人の恋の行方がどうなるかは興味あるけど」
ミサトは折を見て出歯亀してやろうと考えていた。
「緊張感ないわねえ」
使徒によるサードインパクトを阻止する人類最後の砦、がこんなことでいいのだろうか。気合とかやる気とか、大事なものが抜けていくような気がするアスカだった。
一方あちこちで転げまわりながらも、少年はどうにか病室に戻ることができた。
幽鬼によって一時的に鎮静されたとはいえ、動揺が完全に収まったわけではない。赤木リツコのことを思い浮かべようとすると、脈拍と血圧が急上昇するのがはっきりわかる。
「こ、これはまずい。ものすごくまずい……」
少年に喜びや幸福感はなかった。年の差やリツコ自身を気にしているわけではない。問題は自分だ。
元来色恋沙汰など無縁だったし、ヲタとしてリアル三次元女と関わることなどないとあきらめていた。
そしてBF団のボス、ビッグファイアが誰かに惚れるのは許されることではない。
だが、この心に投下されたN2地雷は今も爆発炎上を続けていて、容易に鎮火できそうにない。
ふと相手のリツコがどうなっているか気になった。
「……いや、考えるまでもないか」
少年には赤木リツコの記憶があるのだ。そしてその情報から、リツコもまた動揺と混乱の極みにあるだろうと確信する。
「これは、どうしたもんかなあ……」
ネルフでチルドレンという立場である限り、技術部のトップである赤木リツコと顔を合わせないわけにはいかない。そして顔を合わせれば冷静でいられるなどおそらく不可能だ。
どのように収拾をつけるか。少年に良いアイデアなどまったくなかった。
そしていつものごとく、少年に逃げる場所などないのだった。