────これは、ゲームであっても遊びではない。
かの天才ゲームデザイナー、茅場晶彦がこのVRMMORPG……Virtual Reality Massively Multiplayer Online Role Playing Game……『ソードアート・オンライン』の正式サービスを開始してから、丸二年が経とうとしていた。
一万人程いたはずのプレイヤーは現在六千人ほどまでに減っている。
ゲームが廃れたのではない。そもそも、このソードアート・オンラインは茅場の言うとおり、ゲームであっても遊びではなかった。
言葉通りのデスゲーム。ゲーム内でのHP全損、いわゆるゲームオーバーはそのまま現実からのゲームオーバーと同義だった。
それを知っていれば、どれほどの人間がこのゲームを手に取ることを止めただろうか。
その仮定に意味はなくとも、多くのユーザーが似たようなことで頭を悩ませたことがあろうことは想像に難くない。
自ら望んだわけでもないのにデスゲームに参加させられたとなれば、尚更無理なきことだろう。
ソードアート・オンライン、その舞台である浮遊城アインクラッド。
直径約十キロメートル。全100層からなるその城に、ユーザーは“監禁”されている。
任意のログアウトは不可、ログアウトするにはゲームをクリアするかHPを全損して現実世界もろともログアウトするか。
自由に歩き回る事が可能だろうと、好きに食事が出来ようと、バーチャルワールド……仮想世界から任意に出られないユーザーは、やはり監禁されていると呼ぶのが相応しい。
閉じこめられているのだ。仮想世界……直径約十キロの浮遊するこの城に。
最初は恐かった。死ぬことが恐かった。
何より帰れないことが恐かった。帰ってやらなければならないことがたくさんあったのだ。
それに突き動かされるように、自分で剣を取ったのはゲーム開始からどれだけ経った頃だっただろうか。
死にものぐるいで剣を振って、覚えて。 攻略組と称されるトッププレイヤー──今やその数は残存する全プレイヤー数の一割にも満たない存在となってしまった──常に最前線で戦うプレイヤー組へと仲間入りしたのは、それからさらにいかほどの月日を重ねただろうか。
一日も早い現実への帰還。ただただそれだけを求めて。 速く、もっと速く。加速度的に効率的かつスピードを求めた攻略。それだけを考えて経た年月は、モノトーンよりも暗い、灰色に染まった記憶群でしかない。
でも。
ここでの生活に初めて色合いが付いたあの日、あの出来事からの事は、今でも鮮明に覚えている。
「てやぁっ!」
裂帛の気合いと共に細剣を突き出す。
デモニッシュ・サーバント……骸骨の出で立ちをした骨型モンスターの身体、いや、骨に刺突を三回叩き込む。
そのまま間髪入れずに左右へと切り払い、斜めに切り上げ、上方向への刺突をさらに二連撃浴びせる。
《スター・スプラッシュ》、計八連撃をお見舞いできるソードスキルだ。最後の刺突の反動でやや後ずさり、ソードスキル使用後特有の硬直時間が来るのと同時に、叫ぶ。
「キリト君!」
瞬間、黒衣の剣士が眼前に飛び込み、水平にブルーのライトエフェクトを奔らせた。
スイッチ。予め決めていた手筈通りの戦い方だ。
だが彼のその速度は驚くほどに速く、彼の名を叫ぶ意味があったのかは疑わしい。
彼の攻撃は尚も留まることを知らず、ブルーのライトエフェクトの軌跡をさらに二回三回と増やしていく。
計四回、水平に切り込こまれたデモニッシュ・サーバントを中心に、ブルーのライトエフェクトが作り出す軌跡によって結ばれた正方形があっという間に出来上がっていた。
《ホリゾンタル・スクエア》、水平に四連撃をお見舞いするソードスキル。
黒衣の剣士の少年は左右に剣を振ると流麗な動作で背の鞘に剣を収めた。すぐに青い正方形のエフェクトがポリゴン片になって闇……迷宮区の中に溶ける。
同時に、今の攻撃でHPバーが1ドットも残すことなく無くなったデモニッシュ・サーバントもまた、ポリゴンの破片となって一瞬のライトエフェクトを発生させた後、消えた。
ここ、アインクラッド74層……現在の最前線ダンジョンに潜ってかれこれ数時間になるが、彼との狩りは驚くほどスムーズだった。
「お疲れ様」
「……」
「どうかした?」
「ああいや、やっぱり手練れがもう一人いると安定感が違うなって」
「でもキリト君も凄いよ、ここまで殆どダメージ受けてないでしょ?」
「そりゃアスナにも言えることだろ?」
確かにお互いHPバーの減りは少ない。
そもそもクリーンヒットに至っては今日は一度も受けていないはずだ。
これだけの時間潜っていれば、いつもなら一度や二度は受けていてもおかしくはない。
ましてやここは最前線。70層を越えた辺りからエンカウントモンスターのアルゴリズムが一層おかしく、激しくなってきた事を考えれば、今日は出来過ぎなくらいだった。
……いや、そうでもないか。
彼は普段からソロでこの迷宮へと潜っている。裏を返せばそれほどのプレイヤーなのだ。
アスナも自分に自信が無いわけではないが、彼の動きを見ていると、とても勝てる気はしない。
レベルにそう大差がなくとも、その圧倒的な経験の差が、今の彼の強さをより強固にしているのだろう。
同じ被弾が少ないHPバーの見た目からはわからない、心の余裕度。
先程からの戦闘を経て、それが彼との間にはまだあるように感じられた。
「行き止まりだな」
「そうね、引き返しましょうか」
「ああ」
マッピングを続けながら、二人は未だ未解明部分の迷宮を攻略していく。
こうして不明になっている部分を足で埋め、そのデータをプレイヤー同士で共有していくことで迷宮攻略は格段に効率よく安全に進む。
最低限そこには助け合い、協力の精神が名前も顔も知らないプレイヤー間において確かにあると言ってもいい。
それは、普段ソロで行動するキリトとて、変わらない。現に彼は今マッピングしているし、これまで彼が各層で提供してきたマップデータは非常に有意義でその数も多い。
故にアスナは少しだけ、彼がわからない。彼が何故ソロでいることに拘るのか。
ギルドに属さずとも、誰かとパーティを組むくらいはしてもいいものだろうし、何よりも生存の確実性が増すというものだろう。
噂では迷宮内で偶然出会って、少しの間一緒に行動する、と言った程度の野良パーティのような関係は彼も何度かしているようだが、これまで彼が特定の人物と長くパーティを組んだ、という話は聞いたことがない。
アスナが知らないだけかもしれないが、攻略も100層中74層目とおよそ四分の三を終えつつある今、その最前線にもソロで潜ってばかりいる彼を見れば、彼が特定の誰かと組んでいない、もしくは組む気が無いのは想像するに難くない。
「だいぶ戦ったな、そろそろ戻るか?」
「え……」
キリトの提案に、しばし黙考する。提案自体にはなんらおかしいことはない。
ただ、今この最高に楽しい時間が終わってしまうのが、少しイヤだった。
狩りに出かけて、迷宮を攻略して、レベルを上げて……幾度と無く繰り返してきたルーチンワーク。
そこに楽しさを覚えられるのはこれまで稀だった。
「そ、そうね……う~ん」
即答せず、時間を引き延ばす。
それがあまりに無意味なことで、無駄なことと分かっていても、この時間を終わりにするのは惜しいと思ってしまう。
終わらない時などない。頭では理解出来ても、心が納得しない。
有限なる彼との時間、それが刻一刻と減少していく。ある意味で、HPバーが減少するくらいに、それはアスナの精神をも減少させた。
そこで、ふと苦し紛れの一計が浮かぶ。
「あ、そうだ。その前に戦利品をちょっと整理しない? 連戦になったあたりからドロップ品とかあまりチェックしてなかったし」
「それもそうか、じゃあ安全圏まで行って、そこで検分しよう」
キリトは特段嫌がる素振りもせずに納得し合意する。
それにホッと息を吐く。もしも、「そんなの後でもいいだろ」などと言われたら、反論する余地はない。
むしろ、街に戻って宿屋にでも入ってから行った方が余程安全……宿屋?
(その手があったかも)
キュピィーンと来た。一昔前なら発電灯が頭の上辺りに出てきて光るような、そんな感じだ。
幸い、SAOにはそのようなエフェクトは存在しないようで、アスナのいかにも何か思いつきました、という外見エフェクトは発生しなかった。
最も、SAOのアバターは感情表現がやや過剰演出気味ではある。その顔を見られればいかにも何かあった、というのはわかってしまう。
「どうかしたか?」
「えっ? あ、いや……その」
しまった、と少し自身の迂闊さを呪いながら、心までは見透かされていない事に安堵の息を内心だけで吐く。
妙に鋭い彼だが、事“こういうこと”に関しては愚鈍のそれであることにも僅かに感謝し……即座に撤回する。
そもそも彼が鋭ければこのような悩みを持つことは無かった筈なのだ。
そう思うと沸々と怒りが込み上げ、自然、やや高圧的な態度に出そうになるものの、ぐっと堪えて努めて平静に提案した。
「なら街まで戻りましょう、宿屋で一休みしながら検品してもいいんじゃない?」
「宿屋? ここから出ること自体は構わないけど宿屋に向かう必要があるのか?」
「休憩も兼ねた自衛よ。無いとは思うけど、ウインドウを偶然第三者に見られて万一PKの対象にでもなったりするのは避けたいし」
「まあ、それもそうか……わかったよ」
宿屋に入ってすぐ、部屋を取ろうとしたアスナに「いや俺は泊まってはいかないよ」と言うキリトを半ば無視して二部屋取り、今日の戦利品を検品しだす。
キリトはやや呆れ顔のものの、諦めたのか自身もメニューウインドウのポップアップ画面を滑らかにタップして整理をしていた。
ちょっと強引すぎたかな? と内心では冷や冷やしていたが、彼の顔に不満は見受けられない。
こんな時ばかりは表情を隠すのが大いに難しいアバターのオーバーリアクションに感謝する。
つまり、キリトはさほど不満には思っていないだろうことが読み取れる。
……絶対ではないが。
「……ん?」
と、そんな取り留めもない事を考えながらスライドさせていたアイテム画面に、一つ見覚えの無いアイテム名があった。
《盗賊のピアス》という聞き覚えも無いアイテムだ。
見るからに装備することで何らかのステータスアップがされると思われるアクセサリ。
盗賊と名が付くからにはやはりスピード……敏捷力(AGI)だろうか。
「どうかしたか?」
「見たことのないアイテムがあって……《盗賊のピアス》だって」
「説明は?」
「盗賊の力を得られる、としか書いてないわ」
「それは……装備してみないと何とも言えないな。恐らくはステータスアップの類だろうけど」
「そうよね」
同じ意見のキリトに、アスナはやや逡巡してからアクセサリの装備をタップする。
今は圏内にいるのだから、不測の事態にも十分対応可能だろう。万一呪われたアイテムでも、すぐに教会へ赴けばいい。
(教会、かぁ)
その時はキリトも付いてきてくれるだろう。彼はソロを好む割にそういった他人への配慮を惜しまない節がある。
教会、そこは現実世界と切り離されたこのアインクラッドにおいて数少ないリアルと共通するもの、場所だ。
鐘が鈍く低重な音を奏で、大きなステンドグラスに差し込む日の光が煌びやかに神聖な空間を作り出し、真っ白な空間に佇む二人。
お互いに見つめ合って手を取り合い、神父の問いかけに永遠を誓いお互いの距離は徐々に縮まって……。
(って何を考えてるの私!)
ブンブンと高い敏捷力を惜しげもなく使った速さで首を振り、慌てて考えを霧散させる。
その勢いは速く、はたから見ていたキリトは首が取れるんじゃないと心配になるほどだった。
と、そのキリトの目に金色に輝くピアスが映る。アスナの左耳に、金色の小さい輪が現れていた。
さほど大きくも無いそれは、パッと見るだけだと本当にただのアクセサリでしかない。
アスナは自分のステータス画面をポップアップさせて一つ一つ確認していく。
しかし、敏捷力、筋力……と一つずつ確認していくが変わったようには見受けられない。
おかしいな、と首を捻りながら何か変化は無いかとアスナが自身のステータスをしらみつぶしに確認して、手を止める。
(ん?)
それはスキル一覧を見ていた時だった。見覚えの無いスキルが一覧の中に一つある。
《覗き見》と書かれたスキルだ。こんなものを取得した記憶はアスナにはない。
いつの間にか発現していたエクストラスキルだろうか。取得条件を偶然満たしていたのか。
(あ、もしかして)
アスナは一度《盗賊のピアス》を装備から外してみる。改めてスキル一覧を見てみると、そこにはさっきまであった《覗き見》が無くなっていた。
やっぱり、とそれで確信する。このアイテムは、スキル用アイテムだと。
今までそんなに多くの数は確認されていないが、スキルを使用出来る、もしくはスキルを後押しするアイテムは存在する。
問題なのは……。
(どういう効果が得られるのかだけど……っ!?)
効果を確かめる前に、驚いたことが一つ。スキルが1000……マスターになっている。
つまり、この《盗賊のピアス》は装備者に完全なるスキルの使用を許している。
どんなスキルも育てるのには時間がかかるし、高いスキル値までもってこないと実用的なレベルには中々至らない。
それを思えばなんていうチート。恐らくは実践向きな用途がないスキルに分類されるのだろうが、それでもこれは十分に凄いことだった。
アスナは自分が料理スキルを1000にするのにどれだけ時間をかけたかふと思いだし、それだけでこのアイテムがチート級とも言えるものだと再確認できる。
(……これは凄い、けど……何て言うか、う~ん)
スキルで出来ることを確かめて、首を捻る。これは凄い。確かに凄いが……このアクセサリ単体ではこと戦闘や攻略においてはあまり有用性を見いだせない。
このスキルは、文字通り覗き見するスキルだった。簡単に言えば、目をこらすと、見ようとするものが見える。
視力の許す範囲、否、距離で、ということになるだろうが、視界がオブジェクトに隠されることがない。
例えば、この壁の向こうを見ようと思えば見ることが出来る。早い話が透視である。だが、索敵スキルがあるわけではないので自身の感じられる、気付ける範囲内でなければモンスターの発見は難しい。
迷宮区で使うにはややリスクが高い。壁を透視してマッピングが楽になる一方、透視では見えなかった敵にいきなり襲われる可能性があった。
安全マージンを第一とするのが攻略の基本である。そこから考えると極力リスクと名のつくものは排除しなければならない。
と、ふと思い立ってキリトを見てみる。彼は不思議そうな顔をしながらアスナを見つめ返すが、視界に映った“それ”にアスナは思わず赤面してしまった。
一枚、彼の衣服を透視しようと思いながら彼の首の辺りを見つめると、それはなんなくアスナの視界に映ってしまったのだ。これは……女性キラーな装備品だ。
万一男性の手に渡っていたらとんでもないハラスメント行為である。いや、もしかしたら女性にしかドロップ出来ないとか装備できないとかあるんじゃないだろうか。というかそうであって欲しい。
道行く人が相手の裸を見れる可能性、それを示唆するこのマジックアクセサリは本当に質が悪い。今まで聞いたことが無かったから余程のレアアイテムなのかもしれないが、あっていいものではない。
ましてやこのアイテムを使って彼が誰とも知らない異性の肢体を覗き見る可能性を考えた時、言い表せぬ不快感が込み上げる。
彼がそのような行為に及ぶ人だとは思わない。しかし魔が差すということや、効果を試してみてたまたま、ということもある。
それを、アスナの心は許容できそうになかった。自然と、このアイテムの行く先をアスナは確定させる。あるいは、Knights of the Blood……SAO内でもトップギルドである血盟騎士団の副団長を務めている経験から、無用な事件を生まない為の判断かも知れない。
もっとも、その判断が全て公平に判断した結果かと言えば、そうでもない事は、アスナ自身気が付いている。ちっぽけな、だけど確かに譲りたくない気持ち、それを偽ることは何よりも難しい。
この世に攻略不可能なものがあるとすれば、それは複雑な乙女心なのかもしれない。
「どうしたんだ?」
「あ、んっと、なんでもない。このアクセサリは……あんまりたしたものじゃないからNPCにでも売り払うわ」
「そうか」
キリトは大して気にせずに頷くと「ふわあ」と大きめの欠伸をした。最前線の迷宮区に長時間潜り、長いことドロップ品の分配を行っていたので疲労も一入だろう。
かくいうアスナにも睡魔が押し寄せつつはあった。もう良い時間でもあることだし、お互い明日の朝に顔を会わせる約束だけしてそれぞれの部屋で眠りにつくことにする。
明日目覚めれば、お互い挨拶を交わし、またしばしの別れが来る。それだけがアスナの胸に針がチクリと刺さったかのような鋭痛をもたらすが、顔には出さないように賢明に微笑んだ。
短い「おやすみ」の挨拶をして彼が部屋から出て行くのを見送り、閉じられた扉を僅かな時間見つめ、溜息を吐きながらメニューウインドウをポップアップさせる。
この世界において着替えはいちいち袖を通さずともいい。ボタン一つで着替えは完了する。もっとも着替える際に一瞬装備している服が消えるので、下着が露わになってしまう為、人前では極力やらないが。
(それにしても……私ってそんなに魅力ないかなぁ……はぁ)
手早く寝間着をタップして着替えを済ませると、ベッドにうつ伏せに倒れ込んで再び溜息。枕に顔を埋めてキリトの事を思い出す。
宿屋に戻ってきてから、すぐにアスナは着替えた。少しばかり気合いの入ったオーダーメイドの服だ。たった今アイテムストレージに仕舞われたそれが次に日の目を浴びるのはいつのことになるのか想像もつかない。
その服はどれもある程度のレアアイテムを元にしなければ作ることは出来ない服、なのだが……その姿を見たキリトは一瞬きょとん、とした後は何も言わなかった。
期待していたわけではない、していたわけではないはずなのに、何も言われなかった事に僅かな寂寥感を覚える。結局、彼が今日パーティを組んで付き合ってくれたのは本当にただ無理矢理誘われたからだけだったのか、と。
枕に顔を埋めたまま足をばたつかせる。闇夜に灯る月明かり……のようなもの──アインクラッドには太陽も月もない──がそのしなやかな素足を照らした。
(キリト君……)
夜な夜な、眠りに就く前に彼の名前を、顔を、その姿を思い浮かべるようになったのはいつの頃からだっただろうか。
そんなに昔からではないが、かといって割と最近でもない気がする。あれは……リアルに帰ることに執着して、全ての色を失った世界に色彩が戻り始めてから……やや経ってからのことだったろうか。
あるいは、彼と会う度に“自覚”してからか。どちらにせよ、トリガーが彼であることは疑いようはない。
そうなると不思議な物で、今までと同じような憎まれ口を叩くにも勇気と不安が入り交じるようになった。
ここまで言っても大丈夫だろうか? 嫌われないだろうか? 言い過ぎてしまっていないだろうか?
考えれば考えるほど思考の袋小路へと入り込む。これにくらべれば迷宮区で迷い、行き止まりに辿り着くことなど可愛い物だと本気で思う。
そして寝る前にこんなことを考えられるようになったあたり、このSAOで数少ない──もしかしたら唯一の──親友とまで言って良いほど心を許せる鍛冶職人が言う通り、自分は丸くなったのだろう。
落ち着いた、というべきか。すべての思考の終着点は、結局原因たる彼……キリトに集約されてしまうのだけど。
アスナはごろりと寝返りをうった。先ほどまで自身を襲っていた眠気はいつの間にかナリを潜め、代わりとばかりに思考ばかりが渦巻く。
と、もう一度寝返りをうった時に、耳にわずかな違和感があった。ここSAO内では基本的に痛いと思えるほどの苦痛は感じない。ペイン・アブソーバを介してあらゆる苦痛……痛覚的感覚は何倍にも薄められている。
では全く何も感じないかと言えば、そうでもない。もし何も感じなければ戦闘中にわずかずつダメージを受けてもHPバーを見ない限り気付かない恐れすらあるからだ。この辺は実によくできたシステムだと彼女の思考の中心人物は思考していたことがあるが、それを知る術は残念ながらない。
ペイン・アブソーバによって薄められた感覚は、しかし違和感……より正確に言うなら痛みと感じるような感じないような曖昧な感覚と“不快感”をユーザーに与える。
その辺が実にゲーム的ではある。ゲーム内のキャラクターは基本どれだけHPが減ろうが最後の瞬間まで全力で戦えるのが主だ。体力の増減によってアタックポイント……攻撃力が左右されるソフトもあるにはあるが、主流は前者だろう。
SAOはその辺の多岐にわたるゲームにおける王道とも呼ぶべきシステムを、基本大きくは外さない。それは茅場晶彦の矜持なのかはたまたせめてもの情けなのか、SAOという檻に有無を言わさず閉じ込められたユーザーには知る由もないが彼の発したこのSAOのコンセプトは実に言い得て妙だと言わざるを得ない。
その茅場晶彦がペイン・アブソーバを正しく導入しているからといって感謝する生身のユーザーがいるかどうかは不明だが、そのシステム補助を受けてアスナが今耳に僅かな不快感を持ったのは間違いない。
そっと耳に手をあて、すぐに原因に思い当たる。普段は装備しないマジックアクセサリの装備を解除していなかったのだ。特段問題はないが、一度気にしてしまうと気になって眠れない。
アスナはむくりと上半身を起こすと、手を振ってシステムウインドウを呼び出し……少しばかり逡巡した。
ゆっくりと首を動かし視線を壁に向ける。隣では今頃黒髪の少年が寝息を立てているはずだ。
ごくり、と息を飲み込んだ。
ほんの少しの罪悪感とこみ上げる好奇心が彼女の中でせめぎ合い、数分ののちに彼女のわずかに残っていた理性と良心は都合の良い理由で黒く塗り固められてしまった。
(ちょっとだけなら、いいよね。変なことしようってわけじゃないし)
そう自分に言い聞かせて、彼女はシステムスキルを発動させる。《盗賊のピアス》による《覗き見》……透視を。
僅かなタイムラグを経て、視界の壁がうすぼんやりと透明度を増していき、その奥を彼女の網膜──と言ってもデータ上のでしかない──に刻み込む。
見ようと思ったそれはすぐに見つかった。つい「あ、いた」などと声を漏らしてしまうが当然聞こえるはずもない。
黒髪の少年は穏やかな寝息を立てていた。寝つきは良い方なのだろうか。その穏やか過ぎる顔はアスナもこれまでに見たことがないほどのあどけなさが残っていて、普段の飄々とした態度とは裏腹に幼さを感じさせる。
これが彼の素なのだろうか。だとすると、一つくらい年上かもと思っていたアスナの予想は全くの逆、年下の可能性を考慮させた。
それほどまでに幼いと思わせる何かが彼の寝顔にはあり、時折うつ寝返りや表情の変化がまるで出来の悪い弟のようにも感じられた。
アスナに兄はいても弟はいないが、いたらこんな気持ちなのだろうか、と夢想する。守ってあげたくなるような不思議な気持ち。
「……」
そんなことをぼうっと考えていると、キリトが僅かに口を開いた。聞き取れぬほどの小声。
一瞬ばれたのかと肝を冷やすが、どうやらそうではないらしい。彼は小さく、呻くように短い言葉を繰り返している。
寝言だろうか、と好奇心から耳を澄ませる。と言っても壁の向こうの小さな寝言など届くはずもないのだが。
「……チ」
(……ち?)
だというのに、アスナの耳、いや聴覚を司るシステムは確かにその音……声を聞いた。後で気付いたことだが、この《盗賊のピアス》は文字通り盗賊が持っているようなスキルの底上げがなされるようだった。
アスナは聞こえてきた理由よりも、聞こえた彼の声に集中した。なぜそんなに気になったのかはわからない。
心のどこかで「もうやめなくちゃ」という警鐘が鳴っていた気もしたが、それすらも聞き耳を立てるのに邪魔だと一瞬無視して。
「……サチ」
たった二文字のその言葉を、アスナの知らずに底上げされた耳……聴覚システムはとらえた。
瞬間、とんでもない罪悪感が胸を襲う。彼の秘められた何かに土足で踏み込んでしまった後ろめたさがとめどなく溢れる。
同時に、「サチ」という言葉の意味を急速に脳内検索している自分にアスナは嫌気がさした。
だが、心とは裏腹に頭の中の検索はとまらない。答えはすぐにNOT ERROR、該当なしだとわかっても、考えるのをやめられなかった。
(サチ? サチってなんだろう……人の名前みたいだけど。それも女の人の)
そう思い立ってすぐ、ゾクッと背筋が凍る。実際には無いはずの心臓がドクンと跳ねた、ような気がした。
いや、現実世界の自分の胸は今飛び上がっているに違いない。ことによると、フロアボスとの戦いよりも緊張し、脈拍は早い恐れさえある。
サチ、というのが女性の名前だとして、寝言でまで口から出てしまうのは……何故?
(キリト君にとってその人は、一体……)
考えたくない思考が渦巻く。気持ち悪い、嫌な考えが、罠に踏み込んで異常なほどモンスターが湧出(ポップ)した時よりもなお早く、大量に湧出(ポップ)する。
こんなことならやはり使うべきではなかった、と装備を外してベッドに横になりぎゅっと目を瞑るが……睡魔は襲ってこない。
むしろ考えは止めどなく噴出し、閉じた瞼の裏では誰とも知れぬ女性と笑いあうキリトの姿を幻視してしまう。
シーツを頭からかぶり、体を丸めて嫌な想像を必死に追い出そうとするが、そうすればするほど、瞼の裏の幻は消えてくれなかった。
結局、その日の朝、キリトと挨拶するまでアスナは一睡もすることができなかった。