アスナはいつもの柔らかな木管楽器のアラーム……が鳴る少し前に目覚めた。ここ最近では非常に珍しいことだ。
朝が特に苦手という程ではないが、自分に厳しく攻略にあたっていた時の名残から、アラームで起きるのが癖になっていた。
無茶な短い睡眠時間を続けていると、体……いや脳が「アラームが鳴るまでは大丈夫」と眠り続ける。
そこまで攻略だけに固執しなくなった後も、そのリズムはアスナの体内時計を形成し、彼女にアラームが鳴るまでは休むことを強要していた、のだが。
よっぽどぐっすり眠れたのだろうか。普段なら起きてすぐは「まだ眠い」という残眠感が多少なりともあるものだが、アラームが鳴る前といういつもより少ない睡眠時間なのに対して、意識は完全覚醒していた。
だが、すぐにその理由、原因を理解する。彼女の手は自分を抱く少年のシャツを掴んだままだった。
彼に包まれるようにして眠った昨夜は、驚くほど簡単に眠りの世界へ誘われていた。もう少し緊張するものかとも思っていたが、それ以上に安心感で包まれていた。
真にリラックスした状態で眠ると、人は数時間でも必要相当量の睡眠時間を得ることが出来ると言う。
恐らくそのせいなんだろうな、とアスナはぼんやり思う。キリトの傍にいると、安心できるのだ。そう感じながら頬杖を付いて眠るキリトの寝顔をアスナは見ていると……視線を感じて振り返った。
「あ……お、おはようユイちゃん」
「おはよう、ママ」
コクン、と頷いてユイはアスナに挨拶を返した。ユイは既にベッドから出ていて、アスナの後ろに立っていた。
そういえば昨日も彼女は起きるのが早かったように思う。
(危ない危ない……昨日みたいになるところだった)
ユイのことに気付けなければ、昨日の失態を再びしかねないところだった。何故ならアスナの顔は既にキリトへと近づきつつあったのだから。
ホッと胸を撫で下ろしていると、ユイは不思議そうにアスナを見つめていた。どうしたのだろう、とアスナもそんなユイの顔を見つめる。
すると、ユイの口から驚くべき言葉が発せられた。
「ママ、今日はパパにちゅ~しないの?」
「ふえっ!?」
一瞬にして頬が羞恥により紅く染まる。それが過剰気味なフェイスエフェクトの仕様だろうと感情を表していることに何ら変わりは無い。
昨日見られていたとはいえ、それから何も言われなかったので、アスナの中では見られていたことは半分無かったことになっていただけにその驚愕は大きかった。
「あ、あのねユイちゃん……えっと、その……」
「……?」
瞳をぱっちりと開けて、純真無垢なその顔で首を傾げられてはアスナは何も言えなかった。
「どうして?」と目で語る彼女になんて言えばいいのだろう。
「ママがしないなら私がやるー」
「ちょ、ちょっと待ってぇ!」
ユイがキリトに近づこうとするのを体を張って止め、必死にユイを押さえつける。
子どもというのは時にバイタリティ溢れる厄介な相手であるということを若くして体感した。
ユイの視線が「じゃあママがやるの?」と訴えている。「う」と戸惑うも、ここは腹を括らなくてはいけない。
アスナは覚悟を決め、ユイに恥ずかしそうに頷いた。ユイはそれを見てキラキラと目を輝かせている。
「ワクワク」「はやくはやく」と目で語りかけてくるそれは非常に気まずい。ムードも何もあったものではない。
これなんていう羞恥プレイ? などと思いながらアスナがヤケクソ気味に眠るキリトの顔に近づいたとき、バチッとその双眸が開かれた。
「え」
「んぅ……? アスナ……?」
「はうわあわあわわわわ……?」
アスナは驚いて飛び跳ね、後方に鋭い動きで退く。ガンッと背後にいたユイに勢いよくぶつかってしまう程だ。
運悪くユイは顔面にぶつかったようで、鼻を押さえていた。痛みは無いはずだし、圏内だからHPも減らないはずだが、その様は自然でアスナも慌ててユイに謝る。
「あ、ごめんねユイちゃん!」
「うぅ……」
「ごめんごめん」
アスナはユイを抱き寄せ「よしよし」と頭を撫でる。ユイはそんなアスナに甘えるようにアスナにくっついていた。
ぼうっとそんなやり取りをキリトは見ながら、
「おはよう二人とも。早いんだな。ところでさっき何かしようとしてたのか?」
気になったことを口にする。アスナがどうも寝ている自分の顔を至近距離で見ていたように感じたのだが、どうしたというのだろうか。
おかしな寝言でも言っていたかそれともよっぽど寝ている時の顔がおかしかったのか。そんなことをキリトが考えていると、口を開いたのはアスナではなくユイだった。
「あのねパパ、ママが昨日みたいに……」
「わぁーっ! わぁーっ! ユ、ユイちゃんしぃーっ!」
しかしすぐにアスナがユイの口に手を当ててそれ以上話さないでと懇願する。ユイは不思議そうに首を傾げてキリトと視線を交わらせた。
キリトも意味がわからず、ユイと同じように首を傾げる。状況の悪化をいち早く悟ったアスナは早々に話を変えることにした。
「さ、さあ早く着替えて朝食にしましょう! 今日は始まりの街に行くんですからね!」
朝食を済ませてから、その問題は起こった。キリトとアスナは着替えてから食事を摂ったが、ユイは着替えなかった。
正確には着替えられなかった。通常、着替え……装備変更はシステムメニューから行う。右手の人差し指を振ることでウインドウを呼び出せるのだが……ユイはそれが出てこなかった。
初めてユイに会った時から気になっていたことではあるが、彼女のシステム状況はおかしかった。カーソルも未だ出てこないままだ。
「しかし……これは本当に致命的だぞ。わざとではないだろうけど……メニューが開けなきゃ何もできないじゃないか。それでこのゲームを生き残れって言ったって理不尽すぎる」
「本当だね、どうしよう……」
「むぅ……えいっ……あ、出た!」
ユイはムキになって何度も右手を振り、出てこない苛立ちから左手も振ってみると、そこにメニューが現れた。
キリトとアスナは顔を見合わせる。左手でメニューが出るなど聞いたことが無い。訝しがりながらも二人はユイのメニューを見て、唖然とした。
紫色というあまり見慣れないカラーは良いとして、通常他人にはステータスウインドウが見えないように《不可視モード》が設定されているため、アスナがユイの手を借りて勘で《可視モード》にボタンを押させると、正しく動作し可視化されたメニューはキリト達のそれとは違い過ぎた。
通常なら一番上に名前、HPバー、EXPバーがあるのに対し、ユイのそれは名前しか存在しなかった。
《Yui-MHCP001》という奇怪なプレイヤーネーム。レベルすらステータスには現れない。本当ならアバターの装備フィギュアやらコマンド一覧が現れるのだが、ユイのそれは装備フィギュアこそあるものの、アイテムストレージとオプションを開けるだけとなっていた。
これでは、戦うどころの話ではない。彼女はゲームに参加する前にその資格さえ剥奪されているようなものだ。
「これは……」
「……バグにしても、酷いっていうよりなんかおかしいな。もともとこういう仕様のものがあって、それをユイに割り当てられているようにも見える。もしかしたらシステムの中でステータスがごっそり入れ替わってるのかもしれない」
「そんなことがあるの?」
「……わからない。くそっ、こんな時くらい出てこいってんだ茅場晶彦」
「っ!」
「ユイちゃん?」
キリトが茅場晶彦、という名前を出した途端、ユイは怯えた。そこでキリトは失言だった、と反省する。
記憶がだいぶ退行しているように見えるユイだが、この子は見た目からしても幼い。二年前のあの日、あのおどろおどろしい茅場晶彦の姿と声、説明を聞いていたならそれがトラウマになっていてもおかしくは無かった。
アスナはユイをぎゅっと抱きしめる。震えが止まったところで顔を覗き込んでニコリと笑うと、ユイもゆっくりと微笑を返した。
それを見てキリトは安堵の息を漏らす。アスナに「ありがとう」と小声で礼を言うと、彼女はキリトにも微笑んだ。
ドキッとする。最近は富に多いが、彼女の何気ない仕草や表情、一挙一動がキリトの胸にいちいち異常鼓動を要求する。
実際には存在しないんだからいい加減休め心臓、と思わないでもないが、それは無理と言うものだということもキリトは理解していた。
彼女が自分を好きになってくれているという自覚はある。それは何よりも嬉しいが、彼女がそう思ってくれればくれるほど、自身も彼女に惹かれている事を強く自覚する。
好きなことに変わりは無い。だが、好きという感情が、アスナの笑顔に込められた愛情が増えれば増えるほどこちらも増していく。
これ以上、彼女の事を好きになってしまったら、一体どうなるのだろう? そう思うと少し怖かった。無論彼女は受け入れてくれるだろう。
だが、それ故に《もし彼女がいなくなってしまったら》自分は壊れてしまうかもしれない。そんな予感がキリトの中にはあった。
「キリト君?」
アスナが黙ったままのキリトに声をかける。その顔は不思議半分、気遣い半分といった表情だ。考え過ぎていたことを見抜かれたのかもしれない。
既にアスナとユイは出かける準備を終えていた。アスナの持っている服をユイに着せ、二人はドアの前で待っている。
キリトは苦笑すると「なんでもない、行こうか」と家の戸を開けた。先ほどの考えは杞憂だと言い聞かせながら。
ユイの左手をキリトが、右手をアスナが繋ぎ、三人で本当の親子のようにして始まりの街を歩く。
始まりの街がある第一層は最下層だけあって広く、始まりの街自体もかなり大きいものだ。
「どうだ? 見覚えのあるものはないかユイ?」
「えっと……わかんない」
ユイはキョロキョロと周りを見回すが、知っているもの、記憶に残っているものは無いようだった。
百パーセントの期待を寄せていたわけではないが、これにはキリトもアスナも内心少しだけ落胆した。
始まりの街は最初に誰しもがいたはすの場所だ。そこに見覚えが無いとなると記憶障害の可能性を僅かばかり検証しなくてはいけなくなる。
そう考えるには時期尚早だが、今日一日始まりの街を回って何も手がかりがなければユイは考えたくなかった精神的な過負荷によるなんらかの障害持ちになってしまったケースを考慮せざるを得ない。
それはまだ幼いこの子にとってどれだけ残酷なことか。考えるだけで胸が痛くなる。特にアスナはその思いが強かった。
彼女はこの始まりの街でゲーム開始当初は怯え続けていた。宿屋の一室に閉じこもって救助を待ち続けた。あの時の精神状態はまさに恐慌状態と言って良かった。
一歩間違えれば、何かを踏み外せば、自分も精神が壊れていたことだろう。いや、彼──キリトに出会っていなければどこかでそうなっていたに違いない。
ただ攻略だけを糧にしていても恐らく先は見えていた。仮にそれでゲームクリアしたとして、現実に戻った自分の精神状態は見るに絶えないだろうことは想像に難くない。
もっとも、そんな精神状態ではクリアなどまず不可能だろうが……と今の自分なら思える。だからこそ、アスナはキリトが知らずとも支えになってくれたように、彼と……ユイの支えにもなってあげたかった。
そうして三十分は歩いただろうか。残念ながらユイの手がかりに繋がりそうな収穫は無く、キリトとアスナが肩を落としていた頃、それは起こった。
一人の男性プレイヤーが走って街中の街路樹に近寄り、丁度その時樹から落ちた黄色い果実を拾っていた。
だが、そこで気付いた。先ほどからユイの記憶ばかり気にしていたが、これまで全然プレイヤーを見ていなかった気がする、と。
気になったキリトはその男性プレイヤーに話を聞くことにした。
「あの、ちょっと」
「わっ!? こ、これは俺のだからな! やらないぞ!」
「別に横取りしようとか、そんなこと思ってないから安心してください」
アスナがキリトに警戒心を剥き出しにしている男性に続ける。相手が女性プレイヤー、それもとびきりの美人だったこともあってか、男性プレイヤーはやや緊張を解いた様子でキリトとアスナ、ユイをまじまじと見つめていた。
その目は未だに警戒心が抜けきってはいない。
「な、何の用だよ」
「ちょっとお話を聞きたくて。久しぶりに始まりの街に来たんですけど随分人が少ないっていうか……」
「お前らよそ者か……? ふぅ」
それを聞いて男性プレイヤーは一気に脱力したようだった。
どうやら「よそ者」ということでそこまでの警戒する相手ではない、と思ってくれたようだった。
「で、プレイヤーがいないって? そりゃそうさ、みんな宿屋とかに閉じこもってるからな。最近はめっきり無くなったけどついこの間までは《軍》が徴税なんて真似もしてたくらいだからみんな外にはそうそう出たがらない」
「徴税……?」
「ていの良いカツアゲさ。もっとも今は《軍》内部で分裂している動きがあって、内紛状態みたいでね、そんな暇なくなったようだよ。これも黒の剣士サマサマさ」
「……は?」
キリトは目を丸くした。なんで自分がそこで出てくるのだと。
思い当たる節は……無くも無かった。
「黒の剣士が最前線で《軍》の部隊を救ったって言うのに、その被害を《軍》上層部の一人が黒の剣士、《ビーター》に押し付けようとしたって問題になっててな。今まではその上層部の一人、確かキバオウ、だったっけかな。そいつが部下とやりたい放題してたんだけど、今回のことがあってからキバオウ一派はガタガタになったんだ」
「へぇ……!」
アスナは目を輝かせて聞いていた。キリトはあまり面白くなさそうな顔をしていたがアスナにとっては嬉しかった。
彼はよくよく自分から悪役を演じる。《ビーター》はその最たる例だが、本当の彼は優しくて少しナイーブだ。
そんな彼が認められることは我がことのように嬉しかった。
「最近じゃ《ビーター》の悪評のほとんどはキバオウ一派が自分達が起こした事のスケープゴートに使ってたんじゃないかって話が上がるくらいさ。あながち間違いじゃない気はするね。奴らは本当に横行が酷かったから」
「それは言い過ぎだ。《ビーター》は所詮《ビーター》だよ」
「そうかい? まあそういうプレイヤーも上には多いらしいけどここじゃ最近はちょっとした人気者だよ黒の剣士の《ビーター》は。俺も会ってはみたいね。顔もしらないけど」
「あ、あはは……」
キリトは苦笑する。その手の偶像崇拝はキリトの苦手とするものだった。相手もまさかその黒の剣士が目の前にいるとは思うまい。
アスナはアスナでキリトが褒められるのが嬉しくて堪らないらしく、キリトの話がでてからは終始ニコニコしていた。
「で、まあ《軍》は最近おとなしいけど油断は出来ないからさ、せっかく取ったこれも徴税だとか言って取られたらシャレにならないし」
「それ、そんなに良い果実なんですか?」
「これは黙っててくれよ……実は五コルで売れるんだぜ。しかも食っても美味い」
「………………」
料理スキルを完全習得しているアスナは、興味本位から聞いたのだが、言葉を失った。一個五コルで売れる果実。
それは、今のアスナの感性からすると果てしなく安価だ。それを嬉々として手に入れ満足している彼に、酷いギャップを感じてしまった。
いや、ここに残っているプレイヤーならそんなものなのかもしれない。外に出てワームの一匹でも狩れば三十コルは手に入る。そうたいして苦労する相手でもない。
だが、そこに死の危険性は必ず存在する。それこそ交通事故にあってしまうような不運としかいえないような確率でも。
ここに残っていたなら、自分もそんな感性だったのだろうか……そう思いながら、そんな自分を想像したくなく、何かに縋りたくてキリトの手を掴んだ……のだが。
肝心のキリトはいつもなら握り返してくれる手を返してくれず、あろうことか離れた先にある、もう少しで落ちそうな街路樹の果実を睨んでいた。
「ちょ、ちょっとキリト君、まさか」
「いや、だって美味いって言うしさ」
「や、やめなよもう……!」
アスナが恥ずかしそうに言うが、なんとここで思わぬ伏兵がいることに気付いてしまった。
ユイが物欲しそうに男性プレイヤーの果実を見ているのである。男性プレイヤーはあわててそれを仕舞い「あげないからな」と目で訴えた。
「うー」
「ほら、ユイも欲しがっているしさ」
「も、もう……仕方ないなあ……」
しょうがない、とばかりに諦めたような声を出すアスナだが、ユイまで欲しがっているとなれば納得するしかない。
ここはひとつ、キリトの活躍に期待することにした。
「きたっ!」
キリトはアスナの《閃光》もかくやと言うほどのスピードでスタートし、落ちた果実が地面に着く前にはキャッチしていた。
嬉々として果実を見せながら駆け寄り戻ってくる。
「手に入れてきたぜー、ほら、ユイ」
「わぁーパパ、ありがとう」
ユイは嬉しそうにその果実にかぶりついた。にこやかに食べるその様は言われなくても「おいしい」と物語っている。
ユイは二口ほど齧るとその果実をキリトに返した。
「はい、パパも」
「お、サンキュ」
キリトもはむ、と遠慮なく齧る。「うむ、美味い。第一層にこんなものがあったとは」と満足げに口を動かす。
そのまま口を動かしながらキリトはアスナに食べかけの果実を差し出した。「えっ?」とアスナは慌てる。
「美味いぞ、食べてみろよ」
「え、う、うん……」
やめなよ、と言った手前自分が食べるのはどうかと思っていたのだが、差し出されたからには食べよう。そう思ってアスナも一口齧る。
それは確かに瑞々しく、美味しい果実だった。だが、美味しいのはその味のせいだけではないだろう。
小さい齧った跡が二つ。大きく齧った跡が一つ。そしてたった今できた齧り跡が一つ。
まるで家族が回して食べたかのようなそれは、なんだかとても微笑ましい形になっていた。
(本当の親子みたいな食べ口になっちゃった)
そう思うと、アスナはなんだか嬉しくなった。ユイがじっと見つめていたので残りをユイに渡して「全部食べてもいいよ」と言うとユイは喜んで残りを齧り始めた。
そんな様子を見ていた男性プレイヤーは意外そうに言う。
「その子あんたらの子供か何かか? てっきり教会の子かと思ったんだが」
「教会の子?」
「ああ、東七区の川べりの教会に一杯子供が集まってるんだ。なんでも面倒見の良いプレイヤーが子供を保護してるって話だぜ」
それを聞いて、次の目的地は決まったのだった。
「ここだね、すいませーん!」
教会の二枚扉を開いて、アスナはやや大きな声で尋ねる。パッと見ると礼拝堂には誰もない。
声が反響して思った以上のボリュームになってしまったことにアスナはわずかに首を竦めた。すると、奥にある右手の扉から二人の女性が出てきた。
一人はシスターの出で立ちをし、黒縁の眼鏡をかけたショートカットヘアの女性。
もう一人は長い銀の髪をポニーテールにした長身の女性で、恐らくは《軍》の正装だろうと思われる装備をしていた。
「ほら、やっぱりウチの関係者じゃありませんでしたよ」
「そうみたいですね、失礼しました。どのようなご用件ですか?」
長身の女性の説明に、軽い安堵の息を漏らしたシスターは頭を下げてキリト達に向き直った。
アスナはその長身の女性に少しだけ見惚れた。美人で長身、大人っぽいその様は憧れに値した。
「実はこの子なんですが……よく自分の事を覚えてないみたいなんです。もしかしたらこちらで知ってる人はいないかと思って」
キリトはユイの背中を軽く押して二人の女性にユイを見せる。
しかしシスターは困ったような顔をしながら首を振った。
「うぅん、ウチの子供ではないですね。それに私、未だに始まりの街は取り残された子供がいないか探して歩いてますが、この子は見たことがありません。多分、始まりの街の子ではないのではないかと」
「そう、ですか……」
「どうしよう、キリト君」
「え……キリト……?」
シスターの言葉に、複雑な心境でアスナはキリトに話しかけた。
しかしそれに反応したのはキリトではなく、長身の《軍》だと思われる女性プレイヤーだった。
「あ、あなたもしかして黒の剣士、キリトさんでは……? あ、あああ!? そうだ! 写真と同じです!」
「へ?」
長身の《軍》だと思われる女性は顔を驚愕に染め、次いでキリトの手を取った。
キリトは何がなんだかわからない。ただ、隣にいたアスナが面白くなさそうにジトリと睨んでいた。
「貴方のおかげでキバオウ一派の横行をだいぶ抑え込めました。シンカーも大変喜んでいましたよ! お礼を言わせてください!」
「いや、あの……俺は別に……ってシンカー? 《MMOトゥデイ》の管理者の? あ、そういえば確か《軍》を結成したのは……」
「はい、彼です」
嬉しそうに笑う《軍》の女性はぶんぶんとキリトの手を上下に振る。
余程興奮しているのだろう。そしてそれは隣にいるシスターも同様のようだった。
「ちょ、ちょっとユリエールさん! 自分だけずるいですよ! あ、あの! 私とも握手してください!」
「は……?」
キリトは益々混乱した。一体何がどうしてどうなればこんな驚天動地な出来事が起こるのだ。
しかし不可思議なことは続くもので、しかも今度はそれが身内の方から発生した。
「だめー!」
ユイがユリエールと呼ばれた女性が掴んでいたキリトの手を無理やり離させた。
その目にはやや敵意が籠っている。こんなユイは初めて見るかもしれなかった。
「パパにくっついていいのは私とママだけー!」
キリトを引っ張り、二人の女性から引き離すようにユイは間に入った。
この行動にはアスナも驚いたが、心の中で「良い子よユイちゃん!」と応援したのは恐らく墓まで持っていく秘密だろう。
「パパ?」
「ママ? ってどういうことでしょうサーシャさん」
サーシャ、と呼ばれたシスターも首を傾げた。意味がわからないといったように。
そんな二人にキリトが苦笑しながら説明を始める。その間中、ユイはキリトにしがみついて二人の女性を睨んでいた。
「というわけなんです」
キリトの説明を聞いた二人は納得し、その上でやはりユイはここの住人ではないだろうという結論になった。
少々残念ではあるが、安堵もあった。キリトもアスナも既にユイという子が一緒にいるのが当たり前になりつつあったのだ。
必要なこととはわかっていても彼女と別れるのが寂しいと思えるほどにユイは大切な存在になっていた。しかしユイと別れなければ前には進みようがないだろうという現実が、ジレンマを作ってもいる。
難しく、複雑な問題だった。そして、問題はそれだけではなかった。
「で、なんでしたっけ、さっきの? FCKoD? 誰だよそんなの作ったの……認めた覚えないんだけど」
キリトはうんざりしたような顔でその省略された組織名を口にした。
正式名称、 Fan Club Knight of Dark──黒の剣士ファンクラブ──なるものについて、キリトは尋ねる。
認めた覚えのないものな上、knightは剣士じゃなくて騎士だろう、とか、Darkは黒じゃなくて闇だろうという内心のツッコミ──BlackならKoBと被るからなのはわかるが──を抑えつつ、いつの間にか立ち上がっていた非公式組織について二人から説明を受けた。
きっかけはやはり例の《軍》の内部分裂に端を発していた。キバオウの横暴さが目立ち、キバオウを悪く言うものが増え、それのアンチテーゼのようにキバオウが常々悪く言っていた《ビーター》が逆に良いものとして見られ始めた。
尚、この事態にFCKなる組織──Fan Club Kibaoh(キバオウファンクラブ)──が早期に設立されたが活動内容を知る者はいない、とかなんとか。
ちなみに、FCKoDと最初が丸ごと被っていることから抗議の声すら上がっており、益々イメージは悪いらしい。
「なんかそれ、完全にキバオウを落とす為に使われてるだけじゃないか?」
「実は少しそんなところもあります。彼は横行が過ぎました。どうにかするのにキリトさんの事はちょうど都合が良かったんです」
「まんまと上手く名前を使われたわけだ」
「で、でも結構人気なんですよ! 名前は知られてるのにめったに人前に現れない人だし!」
「……そりゃあソロだったし」
一人で常に行動していたのだ。それは当たり前の話である。
むしろ変な注目を浴びないよう人の視線には気を使ってきたつもりだったのだが。
「おかげでキリトさんの写真は品薄なんです。あっても後姿とか……たいていはボス攻略戦後に一人どこかへ消えるキリトさんの姿が偶然記念写真に写っていたりするのが出回る程度で……あ、写真撮ってもいいですか?」
「やめてくれ……」
キリトは全く嬉しくなかった。むしろ良いように使われているだけのような気さえする。
もとより人付き合いは得意な方ではない。
「結構ナイーブなんですね。有名人も注目してるのに」
「有名人? 例えば?」
「そうですね、会員の若い番号に確か……《血盟騎士団》の団長さんがいましたよ」
「ぶっ!?」
「はっ?」
ヒースクリフ。何やっているんだあの人は。キリトとアスナは同じようなことを思いながら頭を痛める。
考えてみればここ最近は彼のせいで振り回されているような気さえする。
「あと女性と男性の比率が五分……いや、やや女性が多めなんですよ。まだ発足して間もないからかもしれませんけど」
「……むぅ」
これにはアスナが面白くないという顔をした。SAOは圧倒的に女性プレイヤーが少ない。その中で女性比率が高いというのは少々驚かれる所だ。
だが、やはりというか、わかる人には彼の良さがわかるのだ、ともアスナは思う。
それ自体は良いことなのだが、これから彼に積極的に近寄ってくる子が増える可能性を思うと気が気ではない。
ぎゅっと小さい手、ユイもキリトの服の裾を掴んだ。
ちなみに、女性比率が高かった真相はキリトの容姿や人間性云々よりも、キバオウの横行に辟易した女性プレイヤーが彼への当てつけ、腹いせに入った者が多かったりする。
それによるキバオウ氏の「なんでや! なんで《ビーター》なんかに負けるんや!」という不満そうな声は、女性達の溜飲を大いに下げてくれた、というのは彼女たちだけの秘密である。
結局、教会ではこれといってユイに関係のある話は聞けなかった。ただ、行く宛てが無いならユイの面倒を見る、とシスターのサーシャは言ってくれた。
その話は二人にとって有り難かったが、ユイは気が進まないようだった。キリトとアスナから離れるのをあまり好まないようで、加えてどうにも最初の件からサーシャとユリエールを敵視している節さえあった。
だが、これで最悪の場合、ユイが一人になることはない、と思うと二人は少しだけ肩の荷が下りた気がした。
今日の一番の収穫は今のところそれかもしれない。心の重りが僅かでも無くなるのはそれだけで身軽さを増してくれる。
手がかりは無いが、成果ゼロよりは良い。そうプラス思考へ考えを持って行き、今日のところはもう少し街を見回ってから帰ろう、という方針を固めた時のことだった。
「あの、すいません」
見知らぬ女性プレイヤーが話しかけてきた。その顔は酷く陰鬱で、泣き出してしまいそうな顔をしていた。
明らかに何かがありました、という顔だ。
「どうかしたんですか?」
「黒鉄宮はあっちで良いんでしょうか」
「ええ、そうですよ」
「ありがとうございます」
頭を下げると、その女性プレイヤーはとぼとぼと力なく歩き出す。が、すぐに振り返った。
言いにくそうにし、しかしキッと覚悟を決めたように再び口を開く。
「あの……これから少しお時間、よろしいですか? もし……もし構わなければ黒鉄宮までご一緒して頂けないでしょうか」
「……生命の碑、ですか?」
「……はい」
それで、キリトは事情をなんとなく察した。実はこういったプレイヤーはそれなりに多い。
仲間が死んだことを信じられない。仲間が今どうなっているかわからない。あの時のあの人は今生きているだろうか。
それを知るためには黒鉄宮の生命の碑を見るのが一番手っ取り早い。もし、死んでいたならその日時、死因、が書かれ、名前には横線が刻まれる。
フレンドリストに登録しない野良パーティや袖振り合うだけの関係はこのSAOでは日常茶飯事である。だが、そこに仲間意識は確かに芽生えるものだ。
そんな相手の状況を見に行くというのは勇気が多少なりとも必要になる。見てしまえば、確定してしまうからだ。
だが、一人で生命の碑を見る勇気が無いプレイヤーは存外多い。そう言う時に行きずりのプレイヤーと確認しに行ったりするのは始まりの街ではよくあることだった。
そして、誰かについてきてもらってまで黒鉄宮に確認に行くと言うことは、十中八九名前に傷が刻まれる可能性、何かが起こったことを意味する。
キリトにも覚えが無いわけではない。結局彼は一人で確認に行ったが、その足は怯えからしばらく竦んでさえいたことを覚えている。
キリトはアスナにちらり、と視線を向けると、彼女もコクンと頷いた。
「わかりました、生命の碑までお付き合いします」
女性プレイヤーは語る。最近まで彼女は恐さから街を出たことなどなかった。だがこのままではいけないと一念奮起して外に出た。
するとフィールドで偶然ユキという女性プレイヤーと知り合ったそうだ。ユキも彼女と同じだったが、数日前に勇気を出してフィールドに出て、今はレベル2なったという。
レベルが一つ上。それだけで彼女にはもの凄く頼りになる存在に感じられた。少し話をして、二人は親睦を深め簡易的な野良パーティを組んでレベル上げをすることにした。
初めての戦闘で彼女は緊張していた。何をどうすればいいのかもわからなかった。ユキは優しく指導してくれた。初めてモンスターを倒した。嬉しかった。
二回目のモンスターもユキの助けで乗り越えられた。何だ、こんなものなのか……と彼女は安心しきっていた。だが、三回目のモンスターの湧出(ポップ)でそれがいかに甘かったかを教えてくれた。
モンスターの湧出(ポップ)がこれまでとは違い、複数だった。その数四。第一層の始まりの街近辺ではやや珍しい数だ。その数に彼女は完全に恐慌状態に陥った。
二匹をユキが受け持ってくれた。だが訳も分からず怯えた彼女は、モンスターに何度か攻撃を食らい、自分のHPバーが注意域に入るのを見て、逃げ出した。
恐かった。死にたくなかった。後ろを振り返ると、ユキが驚いた顔をしていた。だがさらに驚いたのは、最悪なことに、逃げる彼女を追うより、ユキに残りのモンスターも目標を定めてしまったことだ。
この時、彼女は一瞬ホッとなってしまい、即座に後悔した。だが今更引き返せるはずもない。街へ戻って以前のように宿屋に閉じこもり、数日後、ユキのことがどうしても気になって黒鉄宮に確認しに来た、ということだった。
「…………」
何も言えなかった。何を言っていいのかもわからなかった。ただ一つ、彼女を責める気持ちにはなれなかった。
褒められた行動ではない。だが、気持ちがわからないわけでもない。彼女を責め、罵る権利のあるプレイヤーなどそういないのかもしれない。
黒鉄宮は黒光りする鉄柱と鉄板だけで組み上げられた巨大な建物だ。敷石を踏んで中へ入ると、その広さと異様な空気に寒気さえ感じる。
空気が違う、とでも言うのだろうか。現実とは隔絶されているSAOだが、黒鉄宮はそのSAOの中でもさらに異質と言えた。
アスナも自身の露出した肌をさする。ここに寒さ的なエリアパラメータは無いはずだが、そうせずにはいられない。
恐らく、好んでここに来る輩はそういないだろう。そういう近寄り難い雰囲気をここは醸し出している。
キリト達はコツコツという足音を立てて、左右に数十メートルに渡って続く生命の碑があるフロアへと辿り着く。
女性プレイヤーはアルファベット順に刻まれているプレイヤー名の『Y』の辺りを怯えながら確認する。
キリトも一緒に『ユキ』というプレイヤー名を探した。
「ユアサ、ユフネ……あ」
ユキ──Yuki──と書かれた名前に、横線が刻まれていた。死因はモンスターの突進攻撃。
女性プレイヤーが口元に手を当て涙を浮かべる。無理もない……と思いつつ、
(……あれ?)
キリトは何か違和感を持った。今、何か見落とさなかったか?
もう一度生命の碑の『Y』近辺を見る。
『Yuasa』
『Yufune』
『Yuki』
そこには名前が並んでいるだけでおかしいものは何も無い。……無い?
おかしい。そこには《無ければおかしい名前》が無い。そんなことに、今更ながらキリトは気付いた。
生命の碑はアルファベット順に名前が刻まれている。それならば、『Yufune』と『Yuki』の間にもう一つ名前が無いとおかしいことになる。
だが、どれだけ目を凝らしても、そこに隙間は無く、名前を一つ飛ばして読んでもいない。段を間違えてもいない。
「無い……無いぞ……どうなってるんだ……?」
キリトの背に、言い様のない寒気が走った。
そこにはあるはずの──プレイヤーならば無ければおかしい──名前が無かった。
何度見直そうとユフネの次はユキとなっている。それはつまり、fの後、g、h、i、jが付くプレイヤーネームが無いことを示している。
いなくなった、ではなく無い。最初から存在しないということだ。
だがそんなことはありえない。ありえないはずなのだ。何故なら自分は知っている。そこに該当するプレイヤーネームが存在するのを。
《Yui-MHCP001》というプレイヤーネームを。
アインクラッド第二十二層、最南端に位置するログハウス。
キリト達の家となったそのログハウスの扉の前で、彼らの帰り待つ影が一つあった。
長身でホワイトブロンドの長髪に赤と白の金属鎧。白いマントを付けた男性がそこに立っている。
先日ここを襲った《血盟騎士団》のプレイヤー、クラディールと似た姿は間違いなく《血盟騎士団》の正装だ。
「…………」
彼は落ちついた様子で目を閉じ、無言でただジッと立っていた。
と、その閉じられていた瞼がゆっくりと開き、真鍮色の瞳が現れる。
遠くを射抜くようなその瞳は、この家の主達……彼の待ち人が映っていた。