「ふぁ……」
「眠いか、ユイ? もうすぐ着くからな」
「ん……」
キリトがユイを背負いながら声をかける。眠そうにユイは瞼を擦り、欠伸を繰り返していた。
アスナが代わろうか? と一度言ったが、キリトは首を横に振った。キリトの筋力を持ってすればこの程度はどうということもない。
三人は黒鉄宮から真っ直ぐに家へと向かっていた。涙を流していた女性プレイヤーは酷く憔悴していて、黒鉄宮を出るとフラリと何処かへ行ってしまった。
普段なら追いかけて最低限のアフターケアをするところだが、今日のキリト達にそんな余裕は無かった。
黒鉄宮の生命の碑。そこにはSAOにログインしているプレイヤー……いや、《ログインしていたプレイヤー》も含めた全てのプレイヤー名が刻まれている……筈だった。
だが、今キリトの背負っているユイの名前は何処にもない。メニューに表示されていた《Yui-MHCP001》というプレイヤー名は何処を探しても見つからなかった。
念のために『Y』の欄以外にもあらかた名前を見て歩いたが、そこに目的の名前は見つけ出せなかった。
彼女がNPCである可能性は無いはずだ。彼女はシステムメニューを呼び出せるし、NPCなら触れることによって起きるハラスメント防止コードが発動し、キリトは今頃吹き飛ばされている。
そもそも自分たちの家に連れて行くこと自体不可能なはずなのだ。NPCにしてはアルゴリズムもおかしい。単なるNPCならここまで考え、行動するような真似はできまい。
SAOのNPCはその殆どが既存のゲームとそう変わらず、決められた行動と言葉を繰り返すだけの存在だ。イベントが起きたりクエストをこなせばお礼は言われるが、それすらも二進数の果てにあるイエス・ノーフラグでしかない。
ユイにそのような所は感じない。未だ不思議な少女だが、それだけはハッキリしていた。
だが、NPCで無ければプレイヤーである筈のユイは生命の碑にその名前が刻まれていない。これはもうシステムのバグという状況を越している。
それが何を意味するのかはまだわからない。ただ、ユイはプレイヤーとしてSAOに認知されていない……というのが今のキリトの考えだった。
そう考えればいろいろと納得のいく点も多い。キリトにユイ自身を疑う気持ちは不思議と無かった。その存在、正体がなんであれ、彼女が自分たちを騙そうというような存在ではないと彼の勘が告げていた。
アスナもそれは同じで、だからこれからもユイとは同じように接しようと言葉無く頷きあった。
お互いに、心の中でユイはもう家族だと決めていたのかもしれない。だから、我が家と呼べるログハウスの前にその姿を確認した時は、二人とも身体を緊張させた。
「待っていたよ、キリト君、アスナ君」
「団長……!」
アスナの所属していた──正確にはまだ所属していることになっているが──《血盟騎士団》団長、ヒースクリフ。
聖騎士、最強、無敵、など様々な名で呼ばれる彼の二つ名は片手では足りないほどだ。
間違いなく、現SAOプレイヤーの中でも一番の実力者だろう。彼は第五十層のボス戦で崩れた体勢を立て直すために一人で十数分戦線を維持し続けたという伝説さえ持つ。
「……どうしてここがわかったんだ?」
「我々《血盟騎士団》の情報網を甘くみないでくれたまえ、と言いたいところだがアスナ君の脱退を私は認めていないからね。団員であるアスナ君の場所は圏内ならば確認できる」
「ここは圏外だぜ?」
「ここ数日の夜はこの場所……ログハウス内という《圏内》に座標位置が固定している。ここを根城にしていると考えるのはそう不思議な事ではあるまい?」
「そこまでチェック済みってワケか」
「誤解しないでくれたまえ。私とて本来ならこのようなプライバシーを侵害する真似はしない。いずれ己の足で探し出して交渉に来るつもりだった。しかし……」
「クラディール……」
「……うむ。彼が牢獄(ジエイル)に飛ばされたことによって《血盟騎士団》内部では様々な憶測が出回っている。この状況はあらゆる観点から好ましくない。トップギルドなどともてはやされているが戦力はいつだってギリギリなのだ。団結力の崩壊は私の望むところではない」
ヒースクリフはゆっくりと目を閉じる。その瞼の裏には《血盟騎士団》で起きている様々な問題について考えているのだろう。
彼という人間を、キリトはそこまで知らないし好きでもない。だが、人間性という点では信頼していた。
「半分は自業自得でしょう。俺たちへの交渉権を与えたんですから」
「それについては些か軽率だったことは認めよう。だがこちらの感情も理解して欲しい。それがわからない君では無いだろう?」
「……それは、まあ」
アスナ、というプレイヤーがこのSAOプレイヤーに与える影響は少なくない。
彼女のカリスマ性はその容姿も相まって非常に高いものがある。指導者、人望という点のみにおけば、ヒースクリフを越える支持を得てもおかしくは無かった。
彼女はその容姿の他にも立派に人を引っ張って行ける能力をいくつも示しているのだから。
そのアスナが、一般にははぐれ者、卑怯なプレイヤーという目で見られている《ビーター》の元へ行ってしまったのなら、それは暴動が起きてもおかしくはない事態ではある。
と、そこでキリトは思いだした。
「そういえばあんた、俺のファンだったのか?」
「ふむ、おかしいかね」
「否定しないのかよ……」
キリトは始まりの街で聞いたことを思いだしていた。認めた覚えも今後認める予定も無い自身のファンクラブ。
存在自体「勘弁してくれ」と言いたくなるようなそれに、この男が入っているという笑い話のようなそれを。
少しからかいと探りを入れる意味で言ったのだが、否定するどころかさも当然のように返されるとは思っていなかった。
「先ほども言った通りだよ。戦力は常にギリギリだ。私は私が認めるトッププレイヤーの情報収集には精力的に動いているつもりだ」
「あ、そういうこと」
「安心したまえ、特典でもらった君のシークレット写真はどれだけアイテムストレージが圧迫されようと一枚残らず取っておいている」
「いや安心できねーよそれ。っていうかシークレットってなんだよ、聞いてないよそんなの」
なんだかキリトの中の聖騎士像が音を立ててボロボロと崩れていくような錯覚を感じながら、キリトはこめかみに手を当てた。
SAOでは頭痛など起きないが、そういう気分になる会話だった。
「団長」
耐えかねたのか、アスナが口を開く。その目は真剣の一言に尽き、キリトもヒースクリフもやや佇まいを直した。
アスナは一度瞑目し、ゆっくりと瞼を開いて続ける。
「そのシークレット写真見せてください」
「……おい」
「……すまない。話を出したのは私だが、今言うべきことかねそれは」
「だ、だってキリト君のシークレット写真って何か気になって……勝手に私の知らないキリト君が出回っているとか……その……」
場の緊張が再び崩れる。これには流石のヒースクリフも毒気を抜かれたようで強張った顔がいつの間にか崩れ、疲れたような苦笑を帯びた表情となっていた。
仕切り直しだ、とキリトは小さく咳払いをして改めてヒースクリフに向き直る。
「それで、どんな用でここへ?」
キリトは探るような目でヒースクリフを見つめる。彼の登場時の姿からおおよその検討は付けているものの、彼の口から確認したかった。
そしてもし予想通りなら、恐らくどのみち衝突は避けられない。
「ふむ、単刀直入に言おう。彼女のギルド復帰と君のギルド参入を交渉に来た」
「……まあ、そうだろうとは思ってましたけど。でも俺を《血盟騎士団》へ勧誘するんですか?」
「言っただろう? 私はそのためにトッププレイヤーの動向に目を向けている」
「……今内部では俺を殺してオレンジプレイヤーになっても英雄扱いされるような空気だそうですけど?」
「それは本当に一部の者たちのことだ。先も言ったが彼の独断先行は詫びよう。それに君を知ればそのような輩もすぐにいなくなると私は思っている」
「……団長、そのことでお話があります」
アスナが今度こそ真面目な顔で二人の会話に入った。目はいつものようにギラリとしていて副団長然とした風格さえ漂わせている。
彼女のそういった切り替えは早い。それこそが彼女の持つ人の上に立つ性質の一つとも言えるだろう。
「彼は《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》の生き残りでした」
「……それは本当かね」
「はい、剣に誓って嘘はありません。なんならこれから一緒に牢獄(ジエイル)にいる彼に会って確かめても良いです」
「いや、それには及ばない。君がそこまで言うのなら事実だろう。しかし……団員にラフコフがいたとなると……ますます状況は悪くなる」
「私も《元副団長》として団長の心情は理解できますが、同時にこちらの感情も理解してもらえると思います」
「……信用問題か」
「はい。ラフコフのメンバーがギルドにいた、というのはそのギルドの内面を疑われるには十分な理由です。もし、元ラフコフ、もしくはオレンジプレイヤーだった者が心を入れ替えて必死に戦っているのならまだ良かった。しかし今回の彼、クラディールは明らかに違いました。もう少しで……本当にもう少しで彼、キリト君は卑劣な手によって死んでいてもおかしくなかった」
「…………」
「加えて人を傷つけて英雄視する人がいるギルドのあり方に私は疑問を感じます。それに私が関わっているなら尚更です」
「……君の言い分はわかった。だがいかな理由があろうと《血盟騎士団》はギルドだ。多人数を少数の意見で動かすのは難しい。今多数の意見は君の帰還を望んでいる」
「…………」
「だが、今の話を聞く限り、身内に不信がある中で戻ってこいというのも厚顔無恥というものだろう」
「……では!」
「期待させてすまないが、だからといって無条件に君の脱退を認めるわけにはいかない」
「それじゃ、団長さんの条件を聞こうか」
アスナが口を開いてから、それまで黙って二人の話を聞いていたキリトが再び口をはさむ。以前《血盟騎士団》のことについてはアスナに任せると彼は言った。
彼女が自分のけじめだと言っていたからだ。しかしどうにも話は自分にも複雑に絡んできていると見たキリトは、これ以上押し問答をするつもりはなかった。
恐らく、この男には最初から何かしらの提示するプラン、交渉内容がある。それを言葉の端々から薄々感じ取っていたキリトはさっさとそれを話せ、と促した。
「そうだな……キリト君、彼女が欲しいというのなら剣で語りたまえ」
「剣で……?」
「デュエルで……《初撃決着モード》で私と決闘し、勝てば彼女の脱退を認めよう。しかし負ければ彼女には副団長として戻って貰い、君にも《血盟騎士団》に参加してもらう」
「団長……! それは……!」
「わかった……アスナ、ユイを頼む」
「ちょ、ちょっとキリト君!」
キリトは頷いてユイを背中から降ろす。「うー」ともはや半分寝ている彼女は降ろされてからもキリトの服を掴んでいた。
キリトの「ほら、ママの所へ行ってくれ」と言う言葉で、ユイはフラフラ揺れながら倒れるようにしてアスナへと寄っていく。
アスナはユイが転ぶ前にしっかりと抱き留めながらキリトを見つめる。いや、睨むと言った方が正しいだろう。
「何考えてるのよ! 団長とデュエルだなんて、そんな……!」
「仕方ないさ、最初からこの人はそのつもりだったみたいだからな」
「え……」
「ふむ、バレていたか」
「ここで武装して待っている時点で予想はしていたよ」
「そうか、この層はモンスターが出ないのだったな。これは迂闊だった。しかし君が日を改めたいというのなら二日間までは猶予を与えることが出来る。それ以上は申し訳ないが与えられない」
「今の《血盟騎士団》を落ち着かせるにはどちらにしても力関係をハッキリさせることが求められているんだろ?」
「そうだ。君が私に勝って意地を貫き通す程の力があると証明するか、私が勝って君を屈服させることで皆の不信や不満を解消するか。だがそれだけではないよ。私としても君には興味があった。これでもファンだからね」
「何処まで本気なんだか……でも避けようがないなら早く済ませるに越したことはない」
「君のそういうところを私は気に入っているよ。実に思い切りがいい」
「そりゃどうも」
キリトは最初におおよその検討を付けていた。彼が最初から武装していた時点で戦うつもりだな、と。
だが彼は仮にもSAOでトップを張れるギルドの総元締めだ。クラディールのような真似はしないだろうという程度の信頼は短い付き合いながらある。
問題はその意図だ。それを知りたくて慣れない心理戦まがいの問答を続けたが、どうやら腹の探り合いはこちらの負けのようだった。
彼はその本心を全ては語らない。“ギルドにとって”という免罪符じみた正当性のある言葉で攻めて来るのみだ。
これ以上話したところで結果は変わるまい。ならここはスマートに行こうとキリトは決断した。
無論だからといって納得できないのはアスナだ。いくらデュエルとはいえお互いHPを全損する可能性が無いわけではない。
ましてやお互いにハイレベルプレイヤー。《初撃決着モード》とはいえ一撃で何が起ころうと不思議はなかった。
さらに言うならヒースクリフはこれまで注意域にHPバーが落ちている所を確認されたことがない。
あの伝説になっている第五十層のボス戦ですら、彼はそのHPバーを安全域……グリーン内で守りきった。
キリトの事は無条件で信頼している。強さも申し分ない。だが、それとは無関係に不安はアスナの胸の裡から染みだしてくる。
「大丈夫だよアスナ、何も本気の殺し合いをしようってんじゃないんだ」
「確かにそうだが、本気でやってもらわねば困る。私は本気でいかせてもらうつもりだからね」
「わかってるさ、負けるつもりはない」
「そうか。ならばいいのだが……ところで、その娘、何故ここにいるのかね?」
ヒースクリフの空気が一瞬険呑なものに変わる。先程までの穏やかさが嘘のようにその纏う空気は鋭利なそれに変わっていた。
それを敏感に感じ取ったのか、あれだけ眠そうだったユイはビクッと目を開き、ヒースクリフを見て怯えだした。
アスナはユイの変わりように驚き、ヒースクリフを見る。ヒースクリフはそんなアスナには構わずユイの身体に触れ……、
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああっ!!!」
ユイが金切り声を上げる。振動するようなその声はこれまでに聞いたことの無い不快なシステムサウンドを発生させた。
キリトは耳を塞ぎながら驚くべきものを見る。気のせいで無ければほんの僅かに一瞬、ユイの身体を形成するポリゴンが《ブレた》のだ。
危険を感じたアスナは咄嗟にユイを抱いてヒースクリフから離れる。彼は視線をユイに向けたまま微動だにしない。
が、すぐにもう一度ユイを狙うように一歩を踏み出した時、ヒースクリフの肩をキリトが掴んだ。
「待てよ」
キリトは既に完全武装していた。トレードマークのレアドロップしたブラックコートと片手剣を一本背負っているその格好は、紛れもなく黒の剣士《ビーター》の正装とも言える姿だ。
ヒースクリフはキリトの行動に一瞬ギラリとした瞳を向けるが、すぐに穏やかな表情へと戻った。もしあのままヒースクリフがキリトを無視してでも進めば力を込めたキリトはオレンジプレイヤーとなってしまっただろう。
それほどギリギリな空気だったが、仮にそうなったとしてもキリトは構わなかった。
「アンタ、ユイを知っているのか?」
「……いや。単にSAOプレイヤーにしては幼すぎると思っただけだ」
「そうかい。じゃあロリコンの気でもあるのか? うちのユイに気安く触って貰っちゃ困るんだけど」
「さてね。私自身にそのような嗜好は無いと自覚しているが、そう見えたのなら謝罪しよう。君は……あの子を知っているのか?」
「……俺とアスナの娘だ。それ以上でも以下でもない」
「……そうか。さて、準備は良いようだね」
これでその話は終わり、と打ち切るようにヒースクリフはシステムウインドウを開いていて操作を始める。
キリトはまだ言い足りなかったが、目の前にデュエルを申し込まれた旨のウインドウがポップし、思考を切り替えた。
《初撃決着モード》をタップしてデュエルを受ける。これは強攻撃を先に当てるか、HPバーを半減させるか、《降参(リザイン)》することでしか終了しない。
三種類あるデュエルの方法の中ではもっとも安全なものだ。すぐにデジタルカウントが浮かび、一分の猶予時間後には戦いの火蓋が切って落とされる。
デジタルカウントが刻々とカウントを減らしていく中、キリトは一刀を下段に構えた。対してヒースクリフはやや高めに盾を構え、その身と剣を隠す。
10──キリトが目を閉じた。
09──ヒースクリフが腰をやや低めに構える。
08──キリトが少し足を後方にずらし、しっかりとした重心位置を取る。
07──ヒースクリフは盾に隠れている口元を……僅かに綻ばせた。
06──キリトが瞼を開く。
05──ヒースクリフは真っ直ぐその真鍮色の瞳を相手へと向ける。
04──キリトが息を吐く。
03──ヒースクリフの纏う空気が、変わる。
02──キリトが息を吸って……表情が、消える。
01──さあ、Ready……、
00──GO!
ビュン、と風を切り、最初に飛び出したのは──キリトだ。彼は限界まで敏捷力をゲインして、凄まじい瞬発力で突進する。
対してヒースクリフは半テンポ遅れてその一歩を踏み込む。だが掲げられた盾に一切のブレは見られない。
一瞬早く地を蹴ることに成功したキリトの剣が下からヒースクリフを襲う。ヒースクリフはそれを掲げていた盾で防ぐ。
当然キリトも予想している。勢いを殺さず、一回ヒースクリフの盾を《蹴って》宙返りをして僅かに距離を取る。
ほんの僅かな間と隙が発生するその時をヒースクリフが見逃すはずもない。そのままヒースクリフはもう一方に構えていた剣でキリトに切りかかる。
が、これこそキリトの求めていた展開。素早く身体を回転させてキリトは左から右へ……と思った時には左から右へ横薙ぎにヒースクリフの剣をパリィする。
片手剣用ソードスキル《スネークバイト》。あまりの速さから二刀を振っているかのように見えるソードスキル。
剣が弾かれヒースクリフはやや体勢を崩した。これでキリトの攻撃は終わらない。
ここが攻めどころとキリトが確信し一歩深く踏み込んだその刹那、衝撃が彼を襲う。
「くっ!?」
防御専用武具である筈の盾。十字の形をしたそれを水平に構え、白いライトエフェクトを帯びながらキリトの胸に突き刺すようにして向かってくる。
咄嗟に剣の横っ腹を当てなければ強攻撃判定を受けていたかもしれない。
攻防一体のスキル《神聖剣》。それがヒースクリフという男にのみ与えられた特別なエクストラスキル、ユニークスキルとも呼ばれるスキルだった。
聞いたことはあっても実際にはほぼ見たことのないそれに、キリトは内心で舌打ちしながら距離を取る。
だが、ヒースクリフは離さないとばかりにキリトに突進して近づいてくる。素早くキリトは腰ベルトから投擲アイテム、ピックを引き抜くとそれを投げた。
ライトエフェクトを持った投擲攻撃……シンプルな基本投擲技《シングルシュート》はヒースクリフの突進を止めてはくれない。盾に防がれ、僅かに彼の勢いを減衰させるだけだった。
だがその刹那の間で体勢を立て直すには十分。キリトは再び突進を敢行する。
「同じ手かね? 甘く見られたものだ」
ヒースクリフは突進の勢い、スピードを上げた。彼は装備からして敏捷力、という点ではアスナやキリトには劣るだろうが決して低いわけではなく、駆け引きができないわけでもない。
恐らく最初の突進は彼の出せる最速では無かったのだろう。僅かにスピードを増したそれの間合いを取るのは難しい。
だが。
それはキリトも同じ事だった。突進スピードを上げたヒースクリフに構わず突っ込むキリト。剣は同じく下段に構えたままだ。
しかし、今度はその剣を振らなかった。ぶつかるギリギリでキリトは自分からヒースクリフの盾に飛び込み……引いた。
「!?」
予想外の動きにヒースクリフは驚愕する。キリトは《自分から》盾の攻撃にぶつかり、吹き飛ばされた。
だが、当たる直前に後方へと引き、剣の横っ腹で盾攻撃自体を防いでいた為に強攻撃判定にはならない。
彼がこのようなミスをするはずがない。ヒースクリフは半秒ほどで我に返るが、その半秒はあまりにも長すぎた。
自身が引くことによって少ないダメージで飛距離を稼ぎながら吹き飛んだキリトはさらに後方へ引いていき、十分な距離を取ってシステメニューを開く。
何かをする気なのは明らかだった。ヒースクリフは距離を詰める。距離を取ったと言うことは逆に言えば距離を取らねばならないか、時間がかかることをしようとしているかのどちらかだ。
だが、ヒースクリフの失った半秒はやはり致命的だった。彼が放った上段からの大振りな一撃を、キリトは受け止める。
十字を結ぶように二つの鈍色が交差している。
右手には黒い剣《エリュシデータ》、左手には白い剣《ダークリパルサー》。
その手には、二刀が装備されていた。
次に動いたのはキリトだ。弾けたようにヒースクリフを左右から切り込む。剣で、盾で応戦してヒースクリフはその攻撃を防ぐが、キリトは止まらない。
連撃に次ぐ連撃。あまりに速いその連撃は驚いたことに今までの一刀を振る速度よりも二刀を振り終わる速度の方が速いという無軌道ぶりだ。
二刀こそが彼のスタイル。これは、《わかっていたとしても》対応し難い。徐々に、ヒースクリフのガードが崩れていく。
一刀を盾で防ぐ。もう一刀を剣で防ぐ。
盾で防いだ次の一刀が別の死角から襲ってくる。コンマ一秒遅れて盾で防ぐ。あとコンマ二秒遅かったら防げなかった。
剣で防いだはずのもう一刀が軌道を変えて襲ってくる。すぐさま剣で応戦し火花を散らす。
休む暇もなく盾で防いでいた筈の剣が切っ先を変えながら襲ってくる。コンマ一秒遅れて防ぎきる。あとコンマ一秒遅かったら入っていた。
火花を散らしていた剣が、火花のエフェクトが消える前にもう一度ぶつかり合う。高い金属音が鳴り、火花が再び散る。
逆側は盾の隙を突くかのような一撃が再び襲って来るも盾の角度をやや変えることによって受け流す。
受け流されたキリトはその反動を利用してさらに高速の横薙ぎを振る。
初めてヒースクリフのHPバーが僅かに減った。
詰め将棋のように激しい攻防が瞬く間に繰り広げられていく。右を責めながら左を攻撃する。
左の攻撃がそのまま右の攻撃へ。右を攻撃していた筈が上からの攻撃に。上を防いでいたはずが下に攻撃を返していて。
あらゆる角度を剣閃が煌めく。だが、徐々にヒースクリフのHPバーは削られていた。
息を呑む、というのはこういう事を言うのだろう。アスナはぐったりとしたユイを抱きしめながら瞬きすら忘れてその戦いに見入っていた。
アスナとヒースクリフは今になって先程のキリトの行動の真意を理解する。先の衝突で攻撃を食らったのはやはりわざとだ。
《初撃決着モード》というデュエル方式が、通常なら僅かといえどダメージを避けたい衝動に駆られるはずのプレイヤー意識をはねのけ、キリトにダメージを食らっても良いと思わせた。
簡単なようでこれは実は凄く難しい。HPは文字通りの自分のライフだ。減っていくということは自分の命を削る行為とそう変わらない。
加えて強攻撃を受けてしまえば決着がついてしてしまう。故に弱攻撃であっても《半減までは減っても良い》と思えるプレイヤーは少ない。
それにHPが残り半分だと、何の拍子に全て吹き飛ぶかわからない。
キリトはそうしてまでヒースクリフに隙、間を作らせたかった。動揺を誘う意図もあったのだろう。まさに我が身を犠牲にしたスタイル。
思い切りの良さがなくてはとうてい出来ない芸当だが、その思い切りの良さこそがヒースクリフの気に入るキリトの人間性の一部でもある。
そうまでして得たマージンで彼は奥の手、《二刀流》を披露した。ここで最初の攻撃が布石だったことがアスナにはわかった。
片手剣用ソードスキル《スネークバイト》は二刀の《ような》攻撃である。だが実際の《二刀流》とはそれこそ月と太陽ほども違いがある。
初めて見る《二刀流》に対して、直前に《二刀まがい》な攻撃を受けた脳は、その瞬間的な違いに追いついてこられるだろうか。
それはキリトにも言えることである。一刀での戦闘から即座に二刀へとすり替えることの出来るその、恐るべき脳内処理能力。
脳の《反応速度》が尋常ではない。咄嗟のアルゴリズムの変化に、普通脳内はそれほど速く対応出来ないものだ。
実際の肉体ではない、というアドバンテージを抜きにしても、その切り替えの速さ、反応の速さには舌を巻くしかない。
だが、それはヒースクリフにも言えることだ。初めて見るはずの《二刀流》による攻撃をさほど驚愕することなく受けている。
攻撃の勢いや威力には驚きを感じるが、《二刀流》自体にはさほどの驚愕を感じていないように見える、というのが端から見ていたアスナの感想だった。
自分でさえ最初は《二刀流》に唖然とした。キリトも恐らくはそれを僅かばかり期待していたに違いない。しかしその目論見は脆くも崩れ去ってしまった。
だからといってキリトに不和は無い。予定が全て通ることなど上層では対モンスター戦ですら珍しい。そんなことにいちいち気を取られていてはHPがどれだけあっても足りはしない。
キリトも少しずつヒースクリフの攻撃を受けながら、それを上回るダメージを着々と相手に当て続けている。だが両者とも強攻撃判定になるような大きなクリーンヒットは無い。
その時、とうとう一歩キリトが斬り抜けた。
「ぬっ!?」
初めて、ヒースクリフから緊張感のある声が漏れた。キリトが、ガードの壁を打ち崩したのだ。
コンマ一秒、ヒースクリフは反応が遅かった。
(抜ける!)
両者ともHPバーは半分スレスレだった。少しのダメージを受けるだけでこの戦いは終わりを迎えるだろう。
戦闘開始からずっとヒースクリフを護り、隠し続けていた盾が弾かれる。無防備な姿を、キリトの前面にヒースクリフは一瞬晒してしまった。
キリトの刀が、その隙を狙い穿つ!
「えっ」
その瞬間、違和感をキリトが包む。盾が、たった今崩した筈の盾が、戻ってくる。ヒースクリフの身体を覆い隠すべく戻ってくる。
速い。速すぎる。あと半秒は硬直から戻って来られないという経験則が彼の中にはあったのにその盾は戻ってきている。間に合ってしまう。
ありえない。速すぎる。自分の目算がズレているならいい。自分の感覚が鈍っているのならそれもいい。
だが、速すぎる盾は、ほんの僅かに盾エフェクトのポリゴンを……《数ドット置き去りにしてまで》戻ってきている。
システムが追いつかない程の異常なスピード。そうキリトは刹那の間に感じた。勝ちだと信じて疑わなかった為に繰り出した、これまでで一番の捨て身による攻撃。
スピードを追い求めすぎたそれは防がれる事を想定などしていない。防がれれば、次の攻撃に映るには、恐らく足りない。時間が足りない。
今自分が知っている《最高》の速度では間に合わない。
「っ!」
普段はそう使わない刺突攻撃。突進を加えて初速スピードを増したソードスキル《レイジスパイク》。
それが、戻りが速すぎる盾によって防がれる。堅いと感じさせる絶対の盾。鈍い金属音が遅れてキリトの仮初めなる聴覚を刺激する。
感覚が速い。全てをスローに感じる。盾に剣を防がれた音がやたらと低重だったことからもそれがわかる。
ゆっくり、ゆっくりとヒースクリフの剣がこちらを袈裟切りにしようとする様が見える。あまりにもスロー。
全てがゆっくりなその世界で。
──ずるい。
確かにその声が聞こえた。全てがスローの世界で唯一、少女の声だけが重力に囚われないように。
それは、眠っているはずの少女の声。アスナに抱かれて微動だにしない娘、ユイの声。
それを、ヒースクリフも聞いたのか。
ほんの僅かに刀身が迫るのが遅れる。それはコンマ以下、0.001秒ほどの差。ひっくり返すには足りない。全く足りない。今までの《最高速》でもまだ届かない。
剣が迫る。回避する術はない。回避は出来ない。切られる事は確定している。HPが半分を切るのは既に決まった未来。
アスナに抱かれている筈のユイ。「ずるい」という謎の声援を受けて尚、為す術はない。アスナに抱かれているはずのユイは何をしたかったのだろうか。
『キリト君』
アスナに抱かれている筈の……。
『キリト君が』
アスナに抱かれている……。
『キリト君が死ん』
アスナに抱かれて……。
『キリト君が死んだら』
アスナに……。
『キリト君が死んだら私も死ぬ』
(アスナ……!)
消えていたはずの闘志が燃え上がる。切られ、HPが半減することは《絶対に避けられない》この状態でしかし、キリトは諦めるわけにはいかなくなった。
何故なら彼は約束してしまったから。
『責任重大だからね、キリト君。これでキリト君は簡単に命を諦められなくなったんだから』
この戦いで負けても死ぬわけではない。だからなんだ?
この戦いで負けても約束を破るわけではない。だからなんだ?
この戦いで自分のHPの半減化は既に確定している。だからなんだ?
諦めないと誓った。今ここで諦める人間が、その誓いを守れるのか?
絶対無理だ。諦める事を選べる奴は、結局諦める選択肢を消すことが出来ない。
今諦める奴は、この先いつだって諦める事を選んでしまう!
動け、動け、動け。
諦めるな、諦めるな、諦めるな。
決して、最後のその瞬間まで諦めるな。
奇跡なんて起こらない。そんなものは求めていやしない。
そんなものに助けてもらえるなんて思っちゃいない。そんなものはこの世界に存在しない。
なら、自分の力でどうにかするしか無いじゃないか。自分の力で守るしか無いじゃないか。
右手が動かない? ソードスキル使用後の硬直? システム上の仕様?
だからなんだ。
彼女を守れないなら、そんな腕は必要ない。
そんな腕などいらない。消えてしまえ。
この腕は今この瞬間から自分の腕じゃない。
────プツン、と右腕を意識から切り離す。
左手、お前はどうなんだ? そうだ、お前はまだ自分の腕だ。動けるな? そうだ、動けるんだ。
まだ、戦えるんだ!
「なっ!?」
彼は一度ソードスキルを放っている。彼の右手にある黒い剣《エリュシデータ》によるソードスキル、それによって硬直中になるはずだ。
動ける筈がない。
──だというのに。
彼の左手にある白い剣、《ダークリパルサー》はライトエフェクトを発している。ソードスキルの発動をシステムが認めている。
そんなことはシステム上ありえない。ここがSAOな以上、《システムに則った》事しかできるはずがない。
ヒースクリフには何が起こったのかわからない。《そんなことはありえない》。
──だというのに。
キリトの左手の剣が、紅い光芒を纏って素早く突き穿たれる。
ジェットエンジンのような金属質のサウンド効果を伴って、その剣は真っ直ぐにヒースクリフの中心へと吸い込まれていく。
同時に、不可避な未来であるとわかっていたヒースクリフの剣は、キリトを袈裟切りに斬りつけた。