「もぅ、バカバカ!」
「わ、悪かったって」
涙目で怒り心頭なアスナに苦笑しながら、キリトは謝罪する。彼女の気持ちはわからないでもない。
危なかったのだ、いろいろと。いろんな意味でギリギリの戦いだった事は、間違いない。
全てが終わり、疲れからかその場に腰を下ろしたキリトの横に座って、アスナはポカポカと彼を叩きながら口を尖らせる。
アスナの膝の上には、眠っているユイがいた。
「もう、二度とこんなことしないでよね」
「……」
こんなこと、というのが一体、《どれのこと》を指しているのか、キリトは少しばかり悩む。
恐らくは、今考えていること全てをひっくるめてのことだとは思うのだが、そうするとそれを全て約束することは難しい。
キリトが閉口していると、アスナは不安を感じたように彼の手を握る。《あんな思い》は二度としたくなかった。
キリトは彼女の手を握り返した。温もりが、お互いを包み込む。しばらくの間、二人はそうしていた。
やや経ってから、ポツリ、とアスナが口を開く。
「ねぇ、最後……どうしてソードスキルが使えたの?」
「よく、わからない。ただ、諦めたくなかったんだ」
「諦めたくなかった?」
「ちゃんとは覚えていないんだ、無我夢中だったから。ただ、あのまま黙って斬られるのは……諦めることになると思ったから」
「諦めるって、何を?」
「自分の……俺の命。死ぬワケじゃないってわかっていても、負けることはわかってた。でも負けるのがわかってるからって足掻くのを止めたら、それは諦めたのと同じ事だ」
「……」
「だから、諦めたくなかった。アスナと約束したからな、俺は俺の命を簡単に諦められなくなった、責任重大だって」
「!」
ドッと胸の奥から込み上がって来るものがあった。アスナの中に沸き上がってくる思い。
それは瞬く間に足の爪先から髪の毛の先に至るまで埋められていく。
彼は諦めなかった。諦めるという選択肢を選べるのに選ばなかった。それは、これからも諦めない事への証明、誓いに外ならない。
それに、アスナは言い表せない歓喜を覚えた。本当は、喜んで良い場面では無い。彼は、あやうく《禁忌(タブー)》を犯すところでさえあったのだ。
だが、身から溢れ出そうなこの歓喜を、アスナは抑えられそうになかった。
彼の胸に顔を埋める。黒いコートをキュッと掴む。身体の震えが治まらない。
喜んではいけない。今回に限っては喜んではいけない。なのに嬉しい。混ざり合った相反する気持ちがぐちゃぐちゃになって、アスナの中で飽和していた。
サラリ、とキリトは栗色のロングヘアーを撫でる。それで、アスナは涙腺が決壊した。
大粒の涙が、ぐちゃぐちゃになった気持ちごと外へ流れ出ていく。今はただ、こうしていたかった。
キリトは、そんなアスナの髪を撫でながら、つい先程の事を反芻する。
「なっ」
ヒースクリフの驚愕の声。冷静沈着を絵に描いたような彼からは珍しいことだ。
だがそれは無理も無いこと。ソードスキルは発動後に必ず遅延効果(ディレイ)が発生する仕様になっている。
それはシステム世界であるSAOにおいて絶対の理だ。ソードスキルを使ったなら、システムアシストによって身体は勝手に動く。
先に《レイジスパイク》を放った《右手》は、《キリトの意志に関係なく》ソードスキルのモーションを辿り、ソードスキルの終了時に反動の遅延効果(ディレイ)をキリトに課す。
それが《キリトの右手である限り》、仕様上は避けられない。
だが、キリトの左手の剣はソードスキルの発動を認められている。
片手剣用ソードスキル、単発重攻撃《ヴォーパル・ストライク》。片手剣の熟練度950で修得できるソードスキルだ。
突き刺すようなその攻撃は勢いを増し、ヒースクリフへと吸い込まれていく。
同時に。
袈裟切りにキリトは斬りつけられる。それは不可避だとわかっていた未来。
対してヒースクリフは、再び驚くような速度で──ポリゴンがやはり数ドット追いついていない──盾を《ヴォーパル・ストライク》に合わせた。
(まだだ!)
込める。力を込める。仮初めの、データ上の筋力を最大までゲイン。
貫け! と思いを込めた突き攻撃、ソードスキルは、盾を壊さずとも確かに奥までダメージが抜けた感触があった。
それを持って、キリトのスローな世界は終了する。突如として時が動き出したような錯覚を感じながら、地面へと倒れた。
しかし、ヒースクリフは立っていた。それが勝敗の結果だ……と唯一の観客であったアスナでさえ思った、その時、
【DRAW】
驚きの表示が両者の間にポップされる。引き分け。アスナは目を疑った。
これまでデュエルにおいて引き分けというのは見たことも聞いたこともない。
システム上、不可能ではないだろうが、それは勝敗を左右する強攻撃かHPの半減がコンマ以下の狂い無く《全く同じ》でなければ発生しない。
一時圏内で何としてもDRAW表示を出そうと躍起になっていたプレイヤー達がいたが、終ぞ出せることは無かったと聞く。
だが、アスナよりも驚愕している人間がいた。
「……馬鹿な、私のHPが半分以下になった、だと?」
ヒースクリフは信じられないというように目を見開き、固まっていた。
ありえない、と顔に書いてあるようなその様は、アスナに一瞬恐怖を感じさせるほどだった。
まるで、試合結果である【DRAW】など《どうでもいい》と言わんばかりの態度だった。
彼はチラリ、とアスナを見て背を向け、何かやり出した。恐らくはシステムメニューを弄っているのだろう。
回復アイテムを使用したのかすぐにヒースクリフのHPが全快する。それから少しして、ゆっくりと振り返った彼の目は、アスナを見ていなかった。
「……っ!?」
ユイだ。その目はユイを見ていた。未だ眠っているユイを恐ろしく怜悧な目でヒースクリフは見ていた。
丁度その時、むくりとキリトが起きあがった。ヒースクリフはキリトにもチラリと視線を向ける。
その目は全く笑っていなかった。これまで、彼は常にどこか余裕が窺えるような顔をしていたのだが、その目に今余裕は微塵も感じられない。
怒りとは違う。憎悪の類でもない。だが、その瞳はヒースクリフがめったに見せたことの無い、素の感情だとキリトは理解した。
彼はそのまま身を翻し、転移結晶で消えてしまう。ただ、消える瞬間に彼はもう一度だけユイを見ていた。
「……やっぱあの時に《ヴォーパル・ストライク》はまずかったよなあ」
「……そう、だよ。団長の盾が間に合わなかったら、団長はHP全損してたっておかしくなかったんだから」
「う……」
キリトは言葉に詰まる。あの瞬間、そんなことを考えている余裕は無かったのだ。ただ、今自分に出来ることをしようと身体を動かした。
その結果がたまたま《ヴォーパル・ストライク》だったに過ぎない。今回に限って言えば、キリトは狙って《ヴォーパル・ストライク》を出したわけではなかった。
何でも良かったのだ。攻撃を繰り出せるなら。しかし、彼女の言うとおり、片手剣用ソードスキルの中でも《ヴォーパル・ストライク》は上位の強力な技だ。
クリーンヒットしていたらデュエルどころの話では無かった恐れはある。最悪、《血盟騎士団》や攻略組そのものを敵に回しかねない。
「それに、引き分けってことはこれが実戦だったら相打ち、とも取れるよ。それじゃダメなんからねキリト君」
「……ああ」
そうなのだ。《生きる》ことが最低条件なキリトに、引き分けは勝利たり得ない。これでもしお互いHPを全損して相打ちとなればキリトは死んでいるのだ。
相手を倒そうと死んでしまえば、それはあのバッドラック、《The Hell Scorpion》の時と変わらない。それではだめなのだ。
「逃げたって、良いんだから。格好悪くても良い。一緒に逃げ続けるのだって、私は構わないんだから」
それでも生きて、というアスナの言葉に、キリトは本当に小さく頷いた。
アスナは思う。どんなに周りから悪く言われても、嫌な目で見られても、この人には生きていて欲しいと。
この人のいない世界に、自分の世界は無いと。
二人は家の中に入り、今日はもう休むことにした。いろいろあり過ぎた一日は、二人に休息するよう脳が求めていた。
その欲求に反抗する意味も意志もない。アスナは自分にくっついたままのユイを寝室まで連れて行き、ベッドに横に寝かせてさあ自分も楽になろう……と思った所で違和感。
「……?」
服が引っぱられている。ゆっくりと振り返れば、眠っているユイはアスナの服の腰の辺りを掴んだままだ。
アスナは慌ててユイの指を離そうとするが、これがなかなか思ったよりもしっかり掴まえていて、小さいユイの指は離せそうにない。
ユイは眠りながらにしてがっちりとアスナ──正確には服だが──をホールドしている。
「どうしよう」という目でキリトに助けを求めると、キリトは苦笑して、
「今日はユイと一緒に寝てあげろよ」
と、至極もっともな返事が返ってくる。それは別に悪くない。彼女にとってユイに含むものは一切無くむしろユイと眠ることに幸福感さえある。
しかし、それでもアスナは僅かに不満げな顔をキリトに向けた。
ぷぅ、と頬を膨らませ、目で「私一人に押しつけてキリト君は自分だけで寝ちゃうんだ?」と抗議する。
まるで端から見れば子育てを一緒にしてよ、と言わんばかりのそれにキリトは動揺した。
そんなつもりはなかった。ただユイがアスナと離れたがらないならしょうがないじゃないか。そんな思いしかなかった。
「……むぅ」
「……え、マジ?」
視線でアスナは尚も訴えてくる。それの意図を正確に読み取ったキリトは思わず聞き返していた。
アスナの目は真っ直ぐにキリトを捕らえ、左手人差し指はユイと自分がいるベッドを指している。
つまり意訳すれば「キリト君もこっちで寝ようよ」ということだった。
「三人は辛くないか?」
「くっつけば大丈夫だよ」
気にしないアスナにキリトは早々に折れた。ここで長く言い争っていても何の得にもならない。
それに嫌々という気持ちがあるわけでもない。それならそれでいいか、とすぐに割り切った。
「それじゃ失礼」
「うん」
キリトはアスナとは逆側、ユイを挟むようにしてベッドの反対側へ入る。スペース的には結構ギリギリだが何とか体は入りきった。
やはり第一印象は狭い、だったが不思議と息苦しさは感じない。ユイが思ったほどかさ張っていないせいかもしれなかった。
「今度ちょっとおっきいベッド買おっか」
「そうだな」
キリトも賛成する。今後、また今日みたいに三人で寝るときに、もう少し大きめのベッドがあると快適だ。
それは暗に、また今夜みたいに一緒に眠る日が来るとお互い信じていることに外ならない。
二人は今日と同じように明日が来ることを疑わない。信じれば、必ず明日は来る。それは、現実と何ら変わらない。
「なんか、本当に親子みたいだよね」
「そうだな、ユイとは知り合ってまだ間もないけど、とてもそう思えない。本当の娘みたいに思うよ」
「団長にも堂々と言っちゃったしね」
「あ、あれは……その……」
ヒースクリフにユイを知っているのか、と聞かれた時、キリトは迷わず《自分とアスナの娘》だと答えた。
今思い返せばなんという大胆な発言だったことだろうか。
「別に怒ってないよ、むしろキリト君もそう思ってくれてるんだって嬉しかった」
「……う」
急に恥ずかしさが込み上げてきて、キリトは顔をシーツの中に埋める。こんな時は秘儀、夢脱走だ。
さっさと夢の世界に逃げ込んでしまうのが吉である。それをアスナは感じ取ったのか、クスクスと小さく笑う声が聞こえた。
「おやすみ」とキリトは呟いて目を閉じる。眠ろうと思えばすぐに寝られるのは彼の数少ない特技だ。
一時、全く眠られなかった時期があったが、今は……アスナと深く付き合うようになってからは彼のこの特技は復活している。
「おやすみ、キリト君」
返事を返すように、暗闇の中、透き通るようなアスナ声を聞いて、キリトはその意識を手放した。
アスナはここ数日の彼の眠るパターンから、なんとなくそれを察する。
自分の胸にはユイの頭がある。その頭を挟んで向こうにキリトがいる。
親子三人、川の字になって……という何世代も昔の家族の姿をふとアスナは思い浮かべて、昔の人たちは心が豊かだったんだろうなあとぼんやりと思った。
今、こうやって一緒に眠る親子がどれだけいるだろう? 少なくとも自分はそうではなかった。
触れ合いの欠如はそのまま心の触れ合いの場をも無くす。なんとなく、こうしているとそんなことを思う。
こうやって、小さいベッドでも一緒にいられることが何よりも幸せなことなのだと、アスナは感じる。
「大好きだよキリト君、ユイちゃん。ずっと一緒にいようね」
既にまどろみつつあったアスナだが、そんな思いから、眠っている二人に向かって小声でそう呟いていた。
そうして、ぎゅっ、とやや強めに抱いたユイの体が、少しだけ抱き返されたような感覚を得ながら、アスナも夢の世界へとダイブした。
ぱちり、と瞼を開く。自分にしては珍しく早く起きたな、と自覚しながらキリトはその身を起こした。
ふと時間を確認すると普段の起床時間までまだ一時間近くある。本当にこれは珍しい。
と、次の瞬間急に左に倒れそうになって慌てて体勢、バランスを整える。もう少しでベッドから滑り落ちるところだった。
それで思い出す。隣にはユイとアスナがまだすやすやと眠っていた。
それを穏やかな気持ちで見つめる。考えてみれば、この二人より早く起きた記憶がキリトには無かった。
いつもこの二人は自分よりも早く起きている。それだけで今朝はなんだか新鮮だった。
じっとユイを見つめてみる。ユイはすぅすぅと寝息を立てていた。そういえばこれまでこの子が寝息を立てていたことは無かったように思う。
無意識呼吸を必要としないSAOでは眠っている時にも呼吸をしていない。だからそれは特段不思議なことではないのだが、では逆になぜ今呼吸をしているかのように寝息を立てているのだろうか。
答えとしては眠っている時の行動オプションを変更したことが考えられる。眠っている自分を誰に見せるわけでもないので変更するプレイヤーは少ないが、SAOの数多いオプションは眠っている時に寝息を立てるか否かまで選ぶことが可能だ。
アスナあたりがユイに変えさせていたのかな、と勝手に推論を組み立てつつ、そのアスナの寝顔を拝見する。
アスナは瞼を閉じることで、その長い睫がやや強調されていた。普段から綺麗だと思ってはいたが、ここまで来ると顔を見ているだけで動悸がしてしまう。
じっくり見れば見るほど、非の打ちどころは無く、むしろ心奪われる部位が多い。
その柔らかそうな頬、長い睫、薄い桃色の整った唇。長くふんわりとした栗色のロングヘアー。
首から下に行けば語る部分はさらに増えていく。と、キリトはそこでぶんぶんと首を振った。これじゃ変態一歩手前だ。
(でも、綺麗だよなあ。本当、俺にはもったいないくらいの美人だよ)
それを言えば彼女は跳ぶように喜ぶだろうが、悲しいかな、胸の内の声は届かせようがない。
いつまで経っても見飽きないそんな彼女の寝姿をキリトは無理やり見納めた。それには相当の意志力が必要とされたがこのままでは彼女が起きるまでただひたすら彼女の寝顔を見ていかねない。
それは人としてどうなんだ、と思い視線をずらす。ログハウスの窓からは光源による日差し……のようなものが入ってきていて、きちんと朝を告げている。
少し早いが一人で起きてストックしてあるアスナオリジナルブレンドのお茶でも頂いていよう、とキリトは腰を浮かせて……振り返る。
アスナは瞼を閉じたままだ。
「……」
その顔を再びたっぷりと三十秒は見てから、静かに近づき、露わになっている額にそっと唇を合わせた。
すぐに離して「やっちまった」と照れ隠しに後頭部をガリガリ掻きながらキリトは寝室を出ていく。
寝室には静寂が戻り──すぐにむくりと人影が起き上がった。
額に手を当てて、頬を真っ赤に染めながら俯いているその人影は、言うまでもなかった。
たっぷりそのまま五分は経ってから再びバフッとベッドに倒れこみ、ユイを胸元に引き寄せて強めにギュッと抱きしめる。
この時、ユイの口元が綻んでいることに、彼女は気付かなかった。
「おはよう」
「お、おはよう。今日は早いんだねキリト君」
「なんか目が覚めちゃってな」
「そうなんだ。あ、今朝食用意するね」
「悪いな」
椅子に座って数日前の新聞を読んでいるキリトに、アスナは微笑む。キリトのその目は紙面をいったりきたりしているが、その耳は赤い。
フェイスエフェクトは日に日に進化しているんじゃないだろうか、とアスナは思いながら簡易的な朝食を作り始める。
「……」
「……」
お互いに会話が無い。何かを話そうとするが、上手く言葉が出ない。
「あれ? どうやっていつも会話していたっけ?」と思いたくなるほど最初の一言が思い浮かばなかった。
その時、寝室から最後に出てきた少女が口を開く。
「おはようございます」
「おは、よう……?」
「どうかしましたか、パパ?」
「え……ユイ、だよな……?」
「はい、私はユイです」
朝の挨拶を礼儀正しく……というより丁寧な言葉遣いでしたのは紛れもなくユイだった。
その喋り方や動きには昨日までの《見た目以上の幼さ》が垣間見えない。
むしろこれくらいが普通なのかもしれないが、急に変わられると少しばかり調子が狂う。
「えっと、ユイちゃん?」
「なんですかママ?」
「あ、ううんなんでもない」
首を傾げ、不思議そうにしているユイに、アスナはそれ以上何かを言うのをやめた。
ユイはユイだ。それでいい。そう思って朝食の準備を続ける。
「あ、手伝いますママ!」
「ありがとうユイちゃん。じゃあお皿出すから並べてくれる?」
「はい!」
ユイは元気よく返事をして微笑み、アスナが出した皿をテーブルに並べていく。
「るんるん♪」言いながら並べていく様は上機嫌で、キリトはつい聞いてみたくなった。
「ユイ、随分機嫌がいいな。何かいいことでもあったのか?」
「わかりますかパパ! 流石です!」
ユイは気付いてもらえたのが嬉しいのか、皿を並べ終わるとキリトの元に飛び込んだ。
キリトは「おっと」と急に飛び込んできたユイを抱きとめる。新聞が足元に散らばってしまったが、ユイは気にもとめない。
ユイはキラキラ光る瞳をぱっちりと開けてキリトを見つめる。それにキリトが首を傾げていると、
「あー、ごほん」
アスナのワザとらしい咳でハッと我に返る。
いかん、これはいかんぞ。このような危ない真似は断固として注意せねばなるまい。
キリトがそう心を鬼にしてキッとユイを見つめると、
「私、思い出したんです!」
「えっ」
予想もしない言葉が返ってくる。思い出した、というのはどういうことか。
いや、決まっている。自分のことだろう。
「本当かユイ? 良かったな!」
「はい!」
「ユイちゃん……! 良かった……!」
アスナも料理を投げ出してユイに近づき、キリトの膝の上に座っているユイに抱き着いた。
ユイはくすぐったそうにしながら「ありがとう、ママ」とアスナからの抱擁を返すように手を伸ばす。
キリトはそんな光景を見ながら、先ほどのアスナのようにわざとらしく咳き込んだ。
「えーと、ごほん。そろそろいいかな?」
「あ……」
「えへへ、ママがあったかいのでつい」
「も、もうユイちゃんたら……」
「それで、ユイは何を思い出したんだ? 何もかも思い出せたのかい?」
「いいえ」
首を力なく振るユイに、アスナとキリトは僅かに悲しい顔をする。
期待してしまった故に少しだけ残念だ。
「そんな顔をしないでくださいママ。私は自分がこういう話し方だったと思い出しました」
「うん、そうだね。他にはなにか思い出したの?」
「いいえ。これだけです。でも、なんだか自分が帰ってきたみたいで嬉しくなりました!」
「……そうか。良かったなユイ」
「はい!」
キリトがユイの頭を撫でると、ユイは嬉しそうに笑った。アスナはまだ少し複雑な顔をしていたが、キリトが一瞬向けたウインクで、その考えを振り払う。
話し方、どんな人間だったかを思い出せたと言うユイ。アスナにとっては一瞬それだけしか思い出せなかったの? という憐憫に似た思いがあったが、キリトは例えそれだけでも思い出せて良かったな、とユイと喜びを分かち合っている。
それで良いのだ。その姿を傍から見ていてアスナはそう思った。それだけしか思い出せなかった、と思うより、それだけでも思い出せて良かったと良い方向へ考える。
実際良いことなのだ。ならそれでいいではないか。
(きっと私とユイちゃんだけだったら、一瞬私が感じたことをユイちゃんに悟られちゃっただろうなあ……やっぱりキリト君には敵わないなあ)
自分が好きになった人はそういう人なのだ。そういう考えのできる人なのだ。
そう思うと、愛しさと誇らしさがこんこんと胸の内に湧き上がってくる。
「ん? なんか焦げ臭くないか?」
「……あ!」
だから、そんな思いに浸っていた為に、今朝の朝食は料理スキル完全習得者の失敗料理というSAOでも珍しいだろうものとなった。
そのメールが来たのは午後を少し過ぎてからだった。
ポーンと音を立ててアスナの目の前にメールが来た旨のウインドウが立ち上がる。
差出人はヒースクリフ。「来たか」と思いつつアスナはメールを開いた。
【昨夜はすまない。何も言わずに帰ってしまったことを詫びよう。さて、さっそくだがデュエルの件だ。結果は珍しいDRAWという結果に終わってしまった。そこでどうだろうか。折衷案を考えてみた。これならば現状維持を出来ると思うが考えてみてくれたまえ。まずアスナ君の血盟騎士団脱退についてだが、籍は残したまま、活動に参加する義務は無いものとする。次に君たち二人には一週間以内に攻略に戻ってもらいたい。やはり君たちのようなトッププレイヤーが攻略に顔を出さないのは我々のギルドだけではなく攻略組全体の士気にも影響してくる。マッピングについてはキリト君のやり方で構わない。ボス戦についてはアスナ君に極力指揮を頼みたい。加えて、昨日のキリト君の戦い方は私の胸の内だけに仕舞っておくことを約束しよう。以上だ。もし不服な点がある場合は今日中にその点についてメールを返して欲しい。メールの返事がなければ了承してくれたものとしてこちらも行動する】
アスナはざっと目を通してからキリトにもそのメールを見せた。キリトは僅かに悩みながら「まあこの辺が落としどころだろうな」と頷く。
引き分け、という点から両者の主張を極力取り合った形を展開しているとキリトは見た。唯一アスナが籍だけを《血盟騎士団》に残すというのが気がかりだが、面子もあるのだろうと思い、活動には基本的に不参加許可を提示していることで納得する。
それと引き替え、という程ではないのだろうが、ヒースクリフは《二刀流》について詮索、公開する気はないようだった。
攻略にはどのみち近いうちに戻るつもりだった。これにも二人に異存は無い。だが一点、迷い……というより悩みはあった。
ユイである。この子をどうするのか、それが悩みの種だった。
正直、既に何処かに預けるという考えを持てないほどにアスナはユイを溺愛していた。キリトも似たようなものだろう。
加えて、彼女の特異性が誰かに預ける……という考えを益々恐くしてしまう。
ユイは厳密にはSAOプレイヤーではない、というのがキリトとアスナの共通認識だった。
生命の碑に名前がなく、システムメニューは左手で開きその内容もおかしい。
HPバーすら見えなかった時、もしかすると彼女はこの世界で死なないのではないか、という疑念さえ持った。
だが、それを確かめる気にはなれない。《もし間違って》死んでしまったりなどしたら、取り返しがつかない。
そして、もし万一にも彼女が不死存在だったとすれば、常に死の不安に苛まれているSAOプレイヤーにとってそれは何よりも羨まれることだ。
それを知ったプレイヤーが何を考え行動してくるかなど想像もつかない。ネットプレイヤーの妬みというのは時に恐ろしいものがある。
キリトですらそれを恐れて《二刀流》を公開しなかったほどなのだ。
「どうしようキリト君?」
「……まずは、信頼できる味方を増やそう」
「味方?」
「ああ。挨拶回りをかねて、ユイをエギルやクラインに知ってもらう。マッピング時ならエギルに預けておくのは安心できると思う」
「そう……だね。迷宮にはさすがにつれていけないし。リズにも紹介したいな」
「よし、ユイを信頼できる知り合いに紹介して回ろう。まずは味方を固めるんだ」
「うん。あ、でもなんて言うの?」
「そんなの決まってるだろ?」
「……そうだね、そうだよね!」
「娘だあ?」
第五十層、アルゲードにて。
エギルは数日振りに顔を見せに来た二人が連れてきた少女を見やる。
白いワンピースに黒い髪をした少女。エギルが知る中でもダントツに年少組プレイヤーだろうことはすぐに理解した。
もっとも、キリトとアスナの見立てでは厳密にはプレイヤーではないのだが。
「お前ら、なんていうか……いや、なんでもない」
「なんだよエギル」
エギルは言いにくそうにして結局言葉を引っ込めた。小さい子の前で言うべきことではないと自制したのだ。
それにこの子はキリトとアスナに手を繋がれて微笑んでいる。この子の笑顔を奪うのはそれだけで罪深い。
そう思えるほどの心遣いはエギルにもある。加えてこの子はキリトやアスナを本当にパパ、ママと呼んでいる。
理由を深くは聞いていないが、こんな世界だ。無理もないことかとエギルは納得した。
「いや。それでこの子を迷宮に行ってる間預かってほしいってか? ウチは雑貨屋だが託児所を兼ねているつもりはないんだが……」
「わかってる。でも、そこを曲げて頼みたいんだ。この子は、信頼できる奴にしか預けられない」
昨日、始まりの街の教会でも預かってくれるという話はあったが、まだキリト達は彼女たちをよく知らない。
悪い人達では無いとは思うが、今は慎重に動くべきだと二人は思っていた。
「どういうことだ?」
「ユイ、システムメニューを出してくれ」
「はいパパ」
ユイは何も疑問に思うことなく《左手》を振ってメニューを開く。その様を見て、流石にエギルもぎょっとした。
通常、メニューは右手でしか開くことは出来ない仕様になっている。それを、この子は左手で開いて見せた。
「エギル、見てくれ」
「何なんだこの子……って、おい、こりゃ……なんだ?」
システムメニューの異常さにエギルは眉をしかめる。それは慣れ親しんだものとは違いすぎる。
そこでようやくキリト達の考えにエギルは合点がいった。
「なるほどな、お前らはその子がなんなのかわかっているのか?」
「この子は俺たちの娘だ。それ以上でも以下でもないさ。もう閉じてもいいぞ、ユイ」
キリトはユイの頭を撫でながらエギルに答える。頭を撫でられたユイは嬉しそうに微笑んでいた。
それを見て、エギルはおおよその経緯……少なくともここに来た理由を理解した。
「わかった。俺がこの店にいる間は預かってやる。それと……ユイちゃん、だっけか?」
「なんですか?」
ユイは初めて会うエギルの強面顔に怯えることなく、名前を呼ばれて不思議そうに首を傾げる。
その瞳は純真無垢そのもので、人を疑うということを知らないようにさえ見える。
「キリト達に言われてるかもしれないが、そのシステムメニューは他人の前では絶対に開いちゃダメだぞ」
「はーい♪」
可愛らしく片手をあげてユイは返事をした。なんとなくエギルは口元が綻んでしまう。
たったこれだけのやり取りで、この子が悪い子ではないとなんとなくわかってしまった。
キリト達が娘だと言い、大事にしている理由もわかるというものだ。
「それで、いつ頃からの予定なんだ?」
「ヒースクリフには一週間以内には攻略に戻ってほしいと言われてる。早ければ三、四日後には一度攻略に顔を出そうかと思ってる」
「そうか。ユイちゃん」
「はい?」
「もう何日かしたらキリト達はちょっと出掛けなきゃいけないからその時は俺とここでお留守番してような」
「え……私も行っちゃダメなのですか?」
「ユイちゃん、私たちが行くところはとっても危険なの」
「……うぅ」
涙目になってユイはアスナを見つめる。その目は暗に「私も連れて行ってください」と言っていた。
そんな目で見られるとクラリとなんでもかんでもオーケーしてしまいそうになるが、ここは心を鬼にしなくてはならない。
そんなアスナの眼差しを見て、ユイは頼み込む標的を変えた。
「パパぁ……」
「うっ……」
キリトは涙目で自分の腰に縋りつくユイを見て、反則だと思った。こんなユイを見て、「ダメ」なんて言える奴は人間じゃない。鬼だ。
だが自分は言わなくてはならない。それは必要なことで、ユイの為なのだ。心を鬼に……、
「う、うぅん、そうだなあ……え~と」
「パパぁ、私も行っていいですよね? ね? パパ?」
「え、えーと、それはその……まぁ……うん」
キリトは鬼になれなかった。「うん」と言ってしまってから「しまった!」と思うがもう遅い。
ぱぁぁぁ! と顔を綻ばせたユイは嬉しそうにキリトに抱き着いた。
「ちょ、ちょっとキリト君!」
それに納得できないのはアスナだ。自分だって「うん」と言ってあげたいのを泣く泣く我慢したのに彼が「うん」と言ってしまっては台無しもいいところである。
これでは自分だけ悪者ではないか。そんなの、するい。
「い、いやこれはだなアスナ……」
「もう、それでユイちゃんに何かあったらどうするの?」
ぷぅ、と不満から頬を膨らませてアスナはキリトを睨む。ユイに甘いキリトのこともそうだが、自分だけ悪者にされたような錯覚がアスナのご機嫌をナナメにしていた。
これは分が悪い、とキリトはここにいるもう一人に助けを目線で訴える……が。
「痴話喧嘩なら余所でやってくれ。ウチじゃ取扱いできねぇよ。百万コルもらったって願い下げだ」
呆れた顔をしてばっさりと切り捨てられる。
これは益々もって状況の不利を悟ったキリトは辺りを見回した。何か、何か形勢逆転の一打は無いのか?
そんな時だ。カランカランとドアのベルを鳴らして客が入ってきた。その客は偶然にもキリトが良く知るSAO一番の顔なじみだった。
「クライン! ちょうどいいところに!」
「キリト? なんだよ、俺に何か用か? 珍しいな」
紅いバンダナに野武士面という変わらない出で立ちで旧知のプレイヤーが現れる。
キリトはこれこそ天の助けとばかりにクラインに飛びついた。
「久しぶりだなクライン! 元気にしていたか!」
「あ? お前今日は随分と人当りがいいな。ってなんだよその子? 随分幼いけど知り合いか?」
「ああ、この子はユイ。俺とアスナの娘だ」
「………………は? む、む、娘ェ────!? なンだそりゃ!? ってお前、左手薬指に指輪だぁ!?」
クラインはそのままギギギ、とアスナの方を見やる。鋭くアスナの左手薬指を確認し、ポクポクポク……と事実を彼の中で組み上げていく。
チーンとレンジ完了のような音が本当に出そうなタイミングで彼は再起動を果たした。
「SAOってセッ」
「死ね」
クラインがそれ以上何か言う前にキリトは恐るべきスピードでその頭に体術スキルを放った。ここは圏内、オレンジプレイヤーになる心配はない。
スキルを食らえば軽いノックバックが発生するだけだが、思いの外威力が高いそれはクラインを床に激しく叩きつけた。
圏内でなければHPバーの減りはゆうに二割近く奪われていただろう。
「おい、店の中壊すなよ?」
エギルはクラインよりも店の心配をするが、それは杞憂というものだ。
クラインが床に叩きつけられた瞬間、床近辺では小さいウインドウが立ち上がり、【Immortal Object】のシステムメッセージが立ち上がっている。
圏内のオブジェクトは基本破壊不可能なのだ。無論エギルはわかって言っているのだが。
「セッ……ってなんですか?」
ユイが首を傾げる。慌ててアスナは「ユイちゃんは知らなくていいことなのよ」と言い含めて忘れさせる。
キリトは起き上がらないクラインに近寄って腰を屈めた。
「ユイに変なことを吹き込むんじゃない」
「……殺す気かてめェ」
「圏内じゃ死なないから大丈夫だって」
クラインはようやくのろのろと起き上がって首をコキコキと鳴らす。ダメージはもちろんないが、酷い目にあったというアピールだ。
そうしながら「んで、その子はなんなんだよ?」と目でキリトに問う。
キリトはエギルにした説明をもう一度クラインにした。どのみち、彼には話して味方になってもらうつもりだったのだ。
「へぇ……」
クラインは顎を撫でながらユイを見つめた。キョトン、としながらも瞳はぱっちり開いている黒髪ロングヘアーの少女、ユイはそんなクラインの視線にも動じることはなかった。
クラインとて全てを理解できたわけではない。だが他ならぬキリトの頼みを断る気も無かった。
ニヤリ、と笑ってキリトの首に腕をかける。
「このこのこの、しっかり良い思いしてんじゃねぇか! 俺は安心したぜ」
うりうり、と指でつつきながらクラインは笑う。本当に嬉しかったのだ。この戦闘マニアが誰かといることを許せるようになったのが。
ずっと気がかりだったのだ。誰かが凍てついたキリトの心を溶かしてあげられないのかと。
その役目が自分でないことは早々に気が付いていた。可能性があるとすれば……とクラインはアスナを一瞬見やった。
彼女は視線に気づいて首を傾げている。クラインはすぐに視線を戻すとキリトをつつく作業に取りかかる。
思った通り、やはり彼女だった。キリトを理解し、支えてあげられるのは。それがクラインは嬉しかった。
キリトもそんなクラインの心情をどことなく察しているのか、苦笑しながら黙ってやられていたが、これを面白く思わないものがいた。
「いい加減にパパから離れてください。この××××の×××××さん」
「……え?」
「……へ?」
「……は?」
「……な?」
空気が凍る、というのはまさにこのことだろう。今までの彼女からは聞いたことのない汚い言葉がその口から発せられたのだから。
キリトとアスナは信じられない、という顔で固まり、エギルはポカンと口を広げ、当のクラインはそれが自分を指していることに気付くのに数秒の時を要した。
だが、ユイはその数秒をそのまま待ってくれるほど優しくは無く、無理矢理クラインとキリトの間に割って入る。
「パパにくっついて良いのはママと私だけなんです!」
ユイはキっと睨むようにしてクラインを見つめる。それでようやく彼はユイの考えを察した。
要するにこの子は嫉妬したのだと。実に可愛いものではないか。まるで《どこぞの誰かさんを真似ているみたい》だと笑いさえ込み上げてくる。
本当の子供ではないことは明らかだが、本当に血が繋がっているんじゃないのかと思う程それは《そっくり》だとも思えた。
「あーごめんなユイちゃん。キリ……パパを独り占めして」
「わかってくれるならいいんです」
ユイは剣呑な空気を一瞬で霧散させた。それでようやくアスナやキリトも我に返る。
娘の予想外な一面と言葉遣いに二人は呆気にとられていたのだ。どこで育て方を間違ったかと一瞬本気で悩んだ程である。
「ユ、ユイ? そういう言葉遣いは感心しないぞ」
「そ、そうよユイちゃん、もうあんな言葉使っちゃダメよ! っていうかどこで覚えてきたの?」
「思い出しただけですママ」
「思い出したって……」
一体この子はこれまでどんな生活環境にいたのだ。その環境を作り出した奴に一言文句を言ってやりたい気分だった。
いや、文句を言うだけでは気が済まない。吊し上げてやらなければ。
ゴゴゴ、とアスナとキリトが背後に黒い炎を燃やす。考えていることは同じだった。
「ユイちゃんはパパとママが大好きなんだな」
「はい! 今度一緒に《めーきゅー》に行くんです!」
「え? おいおいキリト……まさかオメー連れて行くのか?」
「あ……いや、えっと、そのだな」
キリトは気まずそうに頬をかく。そもそもそれを何とかしたくてクラインの来訪を歓迎したのだった。
その様を見てなんとなくクラインは事情を察した。「仕方ねぇな」と小さく呟いて、彼はひと肌脱ぐことにする。
「なあユイちゃん、パパとママはどれくらい好きだ?」
「凄く大好きです」
「そうかあ、レベル100くらい?」
「もっとです!」
「レベル1000くらい?」
「もっともっとです!」
「そりゃすごいな」
クラインはニカッとユイに笑う。ユイはえっへんとその胸を張った。
聞いているアスナとキリトは恥ずかしさから顔を紅くしてしまう。
「大好きなんだもんな」
「はい!」
「じゃあ二人にはいつまでも仲良くしてほしいよなあ」
「もちろんです!」
「実はなユイちゃん、迷宮ってのは二人がもっと仲良くなるための場所なんだ」
「えっ? そうなんですか?」
「ああ。あそこは二人で行けばもっともっと仲良くなれる。でもユイちゃんが一緒に行くとそこまで仲良くなれないんだ」
「そんなの嫌です! パパとママは仲良くしてほしいです!」
「そうかあ、そうだよなあ……でもそうするにはユイちゃんはパパとママが迷宮に行ってる間お留守番しなくちゃいけなくなるんだ」
「………………私、お留守番します。パパとママの為にお留守番します」
「そうか……良い子だなあユイちゃんは。キリトにはもったいないくらいだ」
「そうですか……?」
「ああ」
「えへへ……私良い子になります」
クラインとユイの会話を聞いていて、キリトは驚いていた。クラインはあれよあれよという間にユイを納得させてしまった。
この男は結局誰にでも好かれる才能があるのだ、とユイを撫でているクラインを見ながらキリトはこの時改めて感じた。
「ユイ、ごめんな。必ず帰ってくるからな」
「うん、ユイちゃん。なるべく早く帰るようにするね」
「はい、パパ、ママ」
少しだけ寂しそうに笑うユイをアスナは抱きしめた。この子は、何があっても必ず守ってあげなくては。
そう強く思う。
「全く、お前らはよォ……ふぁあああ」
「なんだよクライン、欠伸なんてして……寝てないのか?」
「ああ、あんまりな。マッピングが進まないから俺もいつもより多めに迷宮を探索してる。今回は七十五層だ、これまでの経緯から言ってボスは半端じゃないだろうからな」
「あ……そうか」
クラインの疲れ、睡眠不足の一旦は、自分たちのせいにもある。キリトはそう確信する。クラインは全くそんなことを思わないだろうが、これまでキリトが提供してきた最前線の迷宮マップ量は膨大だ。
それをアスナも自覚していて、少しだけバツが悪そうな顔をした。流石にその意図に気付いたクラインは慌てて首を振る。
「お、お前らのせいじゃねェよ、気にするなって」
「でも……」
「クラインさん、眠いんですか?」
その時だ。目をくりくりと輝かせてユイはクラインに近寄った。
クラインはユイの視線の高さまで腰を下げて笑う。
「なァーに、たいしたことないって」
「眠いんですね?」
「うん? まァ少しな」
「わかりました──んっ」
チュッ。
「─────────え」
再び店内が凍る。何を血迷ったのか、ユイはクラインの頬に自らの唇を押し当てた。
早い話がキスである。ユイのこのとんでもない行いに、キスされたクラインはもとよりキリト、アスナ、エギルは凍りつく。
「ママもパパも寝ている相手によくチューします。するとすぐに相手は起きます。クラインさんもこれで目を覚ましてください」
「…………」
ニコニコ笑う無垢なユイに、何が起こったのか未だ理解できないクラインは固まったままだ。
あまりのことにキリトもアスナも娘の爆弾発言について思考を張り巡らせる余裕がない。
当のクラインは焦点の合わぬ目で、ゆっくりと自分の頬を撫で、だがそれで今起きたことをようやく理解したのか、ぬらりと腰を上げてキリトとアスナの前にたたずむ。
ぷるぷると体を震わせながら、彼はゆっくりと口を開いた。
「……お義父さん、お義母さん、娘さんを、俺にください」
「誰がやるかこのロリコン!」
キリトの怒りの体術スキルが、アスナの《閃光》もかくやというスピードで再びクラインを店の床に叩きつけた。