「わぁ!」
ユイは目をキラキラさせて水面を見ていた。ゆらゆらと揺れる水面は太陽ではない仮想の光源を反射して、偽物とは思わせないほどの光沢と精巧さを放っている。
エギルの店で方針を固め、リズベッドにも軽く挨拶と紹介──というよりはからかいだったが──を済ませた翌日、キリトとアスナはユイを連れて再び二十二層の湖に来ていた。ボートを浮かべて三人で乗り込む。
三人では流石に少し狭いが、アスナの膝の上にユイが座ることでスペースはなんとかなった。ユイは嬉しそうに笑いながら時折湖に手を入れる。
三日後、二人は攻略に戻ることを決めた。攻略に戻ったからといって攻略にかかり切りになるつもりはなかったが、ユイとは会えなくなる時間も増えるだろう。
だから、この三日間は親子三人──血が繋がっていなくともユイはもちろんキリトとアスナもそう思っている──で楽しく目一杯過ごそうと決めたのだ。
ついでに、出来る限り常識を植え付けてあげなければなるまい。
クラインに突然キスしたユイに悪気は無かった。ただ自分が《見て学習》したことを実践したに過ぎない。
彼に非は無かったと言える。それでも、キリトとアスナは活火山のように噴火した。
こんな小さい娘に何をするのか、と。キリトは床に叩きつけたクラインをそのまま店外へと引っぱっていき、ユイの見えないところでじっくりと彼にその罪の重さを──圏内なのを良いことに──身体に教え、アスナは倒れそうになる身体をグッと踏ん張りユイの両肩に手を置いて言い聞かせていた。
エギル曰く、あの時の二人の目は完全に据わっていたという。触らぬ神に祟り無し、と彼は傍観の立場を貫いた。
ユイは言葉遣いこそまともになったが、その知識は未だ偏りが見え隠れしていた。特に常識的なことについて、時に素っ頓狂とも取れるあやうい考えを示した。
アスナとキリトは娘のこの事態を重く受け取り、その日の残りは彼女の為の勉強会となった。
勉強会の内容はやや偏見じみたものだったのだが、これもユイの為なのだ、とアスナとキリトはその内容に自信を持つ。尚、その内容は諸事情により割愛させて頂く。
ユイは最後まで度々疑問符を浮かべていたが、キリトやアスナと話している事が楽しくて、終始笑っていた。
そんな娘に、愛しさと未だ拭えない一抹の不安を感じながらも昨夜遅くに勉強会は終了した。
「気持ちいいですね、ママ」
「そうだね、ユイちゃん」
ギィコギィコとオールを漕ぐキリトはそんな二人の微笑ましいやり取りを対面から見つめる。
ここはユイと出会った湖ではない。キリトはアスナと相談し、湖に行くなら別の湖へ、という事にした。
ユイはわけもわからず湖に落ちた経緯がある。本人はよく覚えてないようだが連れて行くことで嫌な事を思い出すかもしれなかった。
本来なら彼女の記憶回帰になりうる事には最善を尽くすべきだ。しかし、わざわざ《良くないだろう》とわかっている記憶を呼び起こさせるのは気が進まなかった。
第二十二層には湖が点在している。今回はユイを見つけた湖とは正反対に位置する湖に来ていた。
「はい、ユイちゃん」
「ありがとうございます、ママ」
しばらくボートで湖を遊覧した後、アスナ謹製のフルーツサンドをユイは受け取る。彼女はあの日からこれが好物だった。
キリトは合いかわらずマスタードが塗られているものを食べている。時折ユイに「食べるか?」と少し意地悪そうに言うと、ユイは怯えてアスナに抱きついてしまう。
そんなやり取りがおかしくて、アスナはクスクスと笑った。
食事を終えてから、ユイとキリトは鬼ごっこを始めた。ユイは必死に「待てぇ! パパ!」と両手を伸ばしてキリトを追いかける。
キリトは時々ワザと捕まってあげているが、大人げなく捕まるギリギリで自身の高い敏捷力を瞬間的に強くゲインしてひょいひょい逃げる。
だがそれを続けすぎるとユイが涙目になって膨れるので、頃合いを見計らってキリトは捕まっていた。
逆にキリトもユイをそう簡単には捕まえない。捕まえようと思えばすぐに出来るが、「ほらほら捕まっちゃうぞ~」という所でわざと空振りしたり、捕まえないで追いかけるだけで留めたりして時間をかけた。
ユイはキリトから逃げようと必死に駆け抜ける。振り返ってキリトが近くにいると「きゃっ」と小さい悲鳴を上げて走り回る。
だがそこに当然恐怖の顔は無い。二人とも笑顔が絶えなかった。
そんな二人を離れた所でシートの上に座ってアスナは見ている。実に楽しそうな二人だ。
今の二人を見て、デスゲームなどという物騒極まりない世界に閉じこめられていると誰が信じるだろうか。
ここは現実ではない。だからなんだと言うのだろう? 今ある心の安らぎは本当にある気持ちだ。偽物などでは決してない。
いずれ、ゲームがクリアされる日がくるだろう。七十五層攻略中ということは、約七割五分終わっていることになる。
熾烈さはこれからさらに増していくだろうが、解放されるのもそう遠いことではあるまい。
その時、自分たちは今のように笑い合っていられるだろうか。
現実で、笑い合えるだろうか。
考えてみれば、自分たちは現実、リアルのことを殆ど知らない。
それを聞くのは、マナー違反だから。……だけれど。
「ほら~ユイ、早くしないと捕まっちゃうぞ~」
「わ、待って下さいパパ! キャッ!」
クリアが目前になったら。その話をしよう。まだ七割と半分だ。でも九割を越えたら、話そう。
そして聞こう。彼の、彼らのリアルを。この世界に終止符が打たれた後も、巡り会う為に。
アスナはそう決めて、すっくと立ち上がる。いつの間にか、ユイとキリトの鬼ごっこはまた鬼が交代していた。
「待って下さいパパ~!」
「ハッハッハッ! そう簡単には捕まえられないぞ俺は!」
「むぅ……!」
ユイがやや膨れっ面になるのを見て、キリトはあと一度くらい逃げたら捕まろう、と決めた……のだが。
ガシッと背後から予想外の人物に捕まった。
「え」
「ほら、今よユイちゃん!」
「ママ!」
ユイは途端に笑顔になって駆け出し、キリトにタッチしてから腰を屈めたアスナと両手でハイタッチする。
「いぇーい」と笑い合う二人にキリトは「んなっ!? ずるいそ!」とすぐにやり返そうとするが、アスナはニヤッと笑うとユイを抱き上げてビュン! と駆けだした。
キリトが筋力タイプのプレイヤーならアスナは敏捷力タイプのプレイヤーだ。速さだけならアスナに分があった。
もっともそれは、ユイというハンディキャップが無ければ、の話だが。一瞬呆気にとられたキリトはしかし、すぐに、とはいかずとも逃げた二人をやがてやや本気で走り出して追いつめる。
ユイがきゃっきゃっと楽しそうにアスナの脇で笑っている中、キリトはようやくアスナの腕を捕まえ……くいっと引き寄せた。
「わ……きゃっ?」
半回転してアスナはキリトに抱きしめられる。キリトは耳元で「アスナ捕まえた」と小さく囁いた。
アスナは照れたように俯き、ユイは自分からアスナの拘束を逃れ、手を後ろに回してそんな二人を見上げた。
ユイがいなくなったことで空いた手を、アスナもゆっくりとキリトの背に回す。
現実でも、この温もりに出会えますように。
そんな願いを込めて、彼の胸に顔を埋める。
その様子を、ユイは微笑みながら見ていた。
現実での再会を夢見て、一つの決意をしたアスナ。
だが、その決意はまだ先のことだと、そう思っていたこの時。
まさかそれが、そう遠くない未来に起きようとは、この時は思っていなかった。
三日間、宝石のようにきらきらと輝くような、まさに宝と呼べる本当にたくさんの思い出づくりに励んだ二人、いや三人は、翌日エギルにユイを預け、攻略に復帰した。
一応、形骸上の報告の為にアスナはキリトを連れて久しぶりに第五十五層、グランザムにある《血盟騎士団》のギルド本部へ顔を出した。
ヒースクリフに面会し、形だけの挨拶をしながらマッピングに参加することを報告する。基本、アスナはキリトとのコンビで行動する気しかない事も伝えた。
彼はそれに頷き「よろしく頼む」と小さく締めくくる。これで義理と確認作業は終わりだ。そう思って二人が退室しようとした時、意外にもヒースクリフは再び口を開いた。
「あの時あの場にいたあの娘は、その後元気かな?」
「……何故そんなことを聞くんですか?」
「いや、私に幼女愛好趣味は無いが、随分と怖がらせてしまったからね。少し気にしていたんだよ」
「……元気ですよ。それに私たちはあの子の笑顔を守るためにもここに戻ってきたんです」
「……そうか。引き留めて悪かったね、期待しているよ」
どこか、普段の彼らしくない、僅かに嘲笑じみた声が少しだけ、アスナの気に障った。
キリトの「行こう」という声と、繋がれた手の温もりがアスナを動かし、それ以上の会話を止めさせて場を後にする。
キリトもアスナも薄々感じていた。ヒースクリフはユイの事について何か知っているのではないか、と。
七十五層は僅かに透明感のある黒曜石のような素材で組み上げられていた。
久しぶりの最前線。僅かに緊張しながら足を踏み入れた二人は、しかしすぐに勘を取り戻した。
一緒に戦うようになってから、どんどんと《接続》の度合いが高まってきているのを実感する。
これまで基本ソロプレイだったキリトは、メンバーがいるだけでこうも違うのかと感嘆するが、アスナはそれを否定した。
「私はこれまでギルド内でもパーティを組んで戦ってきたけど、こんなに息が合うなんてこと無かったよ。四人~五人のハイレベルプレイヤーを一組にして動くのがある程度基本だったけど、その時よりもキリト君と一緒のほうが調子が良いって実感できるし」
「そ、そうなのか?」
「そうだよ。どっちかって言うとキリト君が凄いんだよ。さっきだって私が突き上げた敵に間髪入れずに追撃してたし。結構上に持ちあがっちゃったのによく対応できるよね」
「いや、なんとなくアスナの動きがわかるっていうかさ、むしろさっきのは俺に合わせた高さだっただろ。それよりも俺の背後に回った別の敵をアスナが突き飛ばした時とかびっくりしたよ。ダメージ覚悟してたのに、よく間に合ったな」
「君の背中を守るのは私の仕事だよ。私の背中はキリト君が守ってね」
「おう、任せとけ」
まだ未攻略の迷宮、それも最前線をこんなにも安心して歩けるというのは、本当に凄いことだ。
アスナはそう思う。《血盟騎士団》としてマッピングに参加していた頃は、戦闘中以外にも空気が張りつめてピリピリしていた。
中にはチラチラ視線を送ってきて攻略に現を抜かし過ぎる者もいた。どちらもアスナは好意的に取れなかった。
前者はまだ仕方ないにしても、後者は時に吐き気さえ催した。SAOの仕様なのか実際に戻すことは無かったが、彼、キリトの事を強く思うようになってからはその不快感はさらに増す一方だった。
だが、当時はそれが攻略というものなんだと割り切っていた。攻略とは苦しいものだと。しかし……今、この死と隣り合わせの危険な迷宮に挑む相棒が彼になるだけで、こうも世界は変わる。
七十四層の時も思ったことだが、彼は本当に自分の身を“軽く”してくれる。張りつめた空気……ではない、ほど良い緊張感を保ったまま、そこにいてくれるだけで“安心感”を与えてくれる。
彼の強さが、戦うたびにひしひしと伝わってくる。流石は一人で最前線を常に渡り歩いていたプレイヤーだ……と思ったことで僅かにアスナは罪悪感を覚えた。
彼だって好きでソロでいたわけではない。成り行きもあるだろうが、その凄惨な経験が彼をそう駆り立てた。
もう二度と、彼にそんな道を歩ませない。彼の隣には、常に自分が肩を並べよう、そう決意する。それが……彼女の程よい緊張感を生んでいる原因でもあった。
今彼は、自身の背後の敵についてよく間に合ったな、と言ったが、それはある意味で当然でもあった。
アスナは自身の背後よりも彼の背後を気にかけている。彼の身を守りたいと思うその意気やゲームへのクリア欲を超えるものがあるだろう。
アスナのフォローによってキリトはいつも以上に楽に戦闘をこなすことが出来ている。では、アスナの方はどうなのだろうか。
アスナとて最前線で《閃光》の名を轟かすハイプレイヤー。通常の湧出(ポップ)モンスター相手なら遅れを取ることはそうはない。
かといってこれまで彼女は決して被ダメージ率が低かったわけではない。平均すれば、《血盟騎士団》時代の彼女は他プレイヤーよりはマシだがコンスタントにはダメージを負うのが常だった。
そんな彼女は今、自身の防御をおろそかにしてでも彼の身を優先しているのに当時よりも被ダメージは格段に少ない。
何故普段よりも自分の身の守りが薄いはずのアスナが、当時より被ダメージが無いまま攻略を進められるのか。
言うまでもない、キリトもまた彼女の身を自身の安全より重きに置いているからだ。
お互いその事実は知らずに補完し合っている関係。そこには言葉だけでは絶対に産まれない絶対的な絆が発生している。
本人たちはそのことまで気付いていない。それがより絆を深めてもいる。あるいは、彼女たちの《接続》の根源は、そんなところから来ているのかもしれない。
「そういえばさ」
マッピングを開始してからすでに数時間。それなりに深い未踏破エリアに入っていた。
今回は結晶無効化エリアにだけは注意しながら進んでいる。アイテムもいつもよりかは多めに持ってきていた。
無いとは思うが、また前回同様のことが起きても対処できるように。もっとも、同じ状況に陥ってしまった時、アスナには前と同じように全アイテムのオブジェクト化をする勇気は無かった。
僅かに時間を圧迫されようと最低限は残すだろう。それが当然と言えば当然で、誰に責められるものでもないのだが。
それでも、心は痛む。痛むが、仮にそうなったとしても彼の安全が最優先だった。場合によっては他者を見捨てて逃げることもあるかもしれない。
そんな考えに至る自分が、少しだけ嫌だった。でも、彼を失うのはもっと嫌だった。
そんな思いを極力悟られないよう気を払いながら、アスナは急に話しかけてきたキリトに返す。
「なあに?」
「いや、その、久しぶりだよなあ、と思って」
「攻略のこと? そうだねえ、そんなに経ってないはずだけど、休暇が充実し過ぎたかな。集中できてないわけじゃないけどどうも攻略中だ! ってピンとは来てないかも」
「あ、いやそういうことじゃなくて」
「……?」
キリトはそっぽを向いて頬をポリポリと掻いている。その仕草は大抵彼が照れている時にするものだ。
今の会話でそこまで照れる要素があっただろうか、と思いアスナは首を傾げていると、
「ふ、二人きりってのも、久しぶりかなと思って」
「えっ……あっ」
言われて、意識してしまった。これも事実を計算するならそんなことはない。そんなことはないのだが……確かに考えてみるとそう感じてしまう。
ユイと出会ってからは三人が当たり前だった。それに不満は微塵もない。充実もしていたし幸福もあった。
今思えばそれは本当に少ない時間のはずだが、とても長い時を過ごしたようにも感じる。
そうなると必然的に、それ以前の二人きりだった時は、はるか昔のことだったようにさえ思えた。
「い、いや、深い意味は無いんだ」
「う、うん……」
キリトが慌てて付け足すが、一度意識してしまったそれはそうそうに鎮火しない。
もとより大火だったのがユイという鎮静剤によって抑えられていたのだ。
意識したアスナのそれ……《恋心》はブワッと内心で燃え広がってしまった。
だいたい、これまでそうならなかった方がおかしかったのだ。それだけユイの存在が大きかったとも言える。
普通は恋心から徐々に進化して辿りつくであろう感情の高みの境地。そこに降って湧いた娘と言う存在が一足飛びでまだ届くはずの無い境地へと彼女の精神を押し上げていた。
とはいえ彼女もまだ《少女》と呼べる未発達な存在。彼女を感情の高みへと押し上げていた存在がいない今を自覚した途端、燃焼するそれに歯止めをかけられようはずもない。
「え、えっと……」
「キリト君……」
「アスナ? ……っ!」
ギュッ、と彼の腕を掴む。数限りなく行ってきた動作のようで、実際の回数はそれほど多くもない。
キリトは面食らうも、全く予想しなかったわけではない。そもそも、彼も意識した時からこうなる気はしていた。……こうなってほしいような気もしていた。
「そういえば、私達って……急に親になっちゃったんだもんね」
「ああ、そうだな……」
「随分、近道しちゃったね」
「普通は遠回りするものなのにな」
「ある意味遠回りだったかも」
「違いない」
「クラインさんって、もしかしてここまで予想してあんなこと言ってたのかな?」
「いや、それは流石に無いだろ……多分」
彼はユイを説得する際、迷宮はパパとママがもっと仲良くなるために行く場所、と説明した。
方便の類だとあの時は思っていたが、実際来てみればその言葉通りになっていたりする。いや、それは正確ではない。
ユイの知る二人は、ユイがいて初めて成り立つ関係だ。本来そこに至るにはもっともっと時間をかけて《なる》必要がある。
ユイの知る二人に《なる》ために、本来重ねなければならない《一緒の時間》を今過ごしているのだ。
「迷宮デート、か。キリト君といるとどこでも楽しくなるから不思議だよ」
「は、恥ずかしいことをよくサラッと言うよなアスナは」
「キリト君ほどじゃないよ」
「……?」
「自覚無いんだから……もう。そういうのが一番性質悪いんだからね。知らないうちに女の子ひっかけてきそうでちょっと怖いよ」
「なんでそうなるんだよ。俺にはアスナがいるのに」
「………………」
「な、なんだよ?」
「……なんでもない」
本当に性質が悪い。彼はこのトキメキを取り戻した仮初の心臓を破裂させたいのだろうか? いやそうに違いない。
……なんて、そんなことを微塵も思っていないことは自分が一番よくわかっている。
彼のそういうところは自分だからこそ向けられるもの、と思っておくことにしてこの場は許しておいてあげよう。
代わりに一際強く彼の腕を抱きしめてデートよろしく進みだす。
「お、おい? ここ迷宮だぞ?」
「良いでしょ? 私達なら……」
瞬間モンスターが湧出(ポップ)する。数は一体。
弾けるようにアスナはキリトを離してモンスターを《閃光》のような速度で貫く。
まだモンスターのHPは半分ほど残っているが、仕様による硬直からアスナはモンスターに背を向けたまま動けず、一見隙だらけになる。
だが、追撃を加えるキリトのソードスキルによってそのモンスターは彼らに結局一太刀たりとも浴びせられずにポリゴン片となって散って行った。
そうなることがわかっていたからこそできるアスナの先制攻撃。背後がガラ空きになろうと、彼と言うこれ以上ない信頼できる存在が居る限り、それは隙足りえない。
「なんとかなるよ、ね?」
そう言ってアスナは微笑み、元の位置……キリトの腕に抱き着く作業に戻る。
キリトは納得がいかないような顔をしていたが、結局何も言わなかった。彼も、本当はこうしたかったのかもしれない。
幸いにして、その後他のプレイヤーとは会わずにマッピングは続いた。誰かに今の姿を見られたら間違いなく良い目ではみられないだろう。
命をかける最前線攻略中に堂々とイチャついていたら、それも当然と言うものだ。
そんな事態にならなかったのは運が良かったのかそれとも思いの外この層のマッピングに難航しているのか。
アスナ自身、この層のモンスターは手強いんだろうな、という感覚はあった。何故他人事なのかと言えば単純に今のところそこまで苦戦を強いられていないからだ。
自分たちが強い、というのもあるだろうが全てそれのおかげだと思うほどアスナは自惚れてはいない。やはりキリトの存在は大きかった。
彼から発せられる安心感とは別に、確かな実力を彼は見せつける。速いのはもちろんのこと彼の戦い方は《上手い》のだ。
それはソロで戦い続けて得た第六感にも似た超反応。彼は咄嗟の判断で常に最高の働きをする。恐らくアスナ一人ならこの層は歩きたいと思わないだろう。
《血盟騎士団》で比較的レベルが高くそれなりに一緒に戦ったことのあるメンバーでパーティを組んでも、ここまでのゆとりは持てないに違いない。
ふと、横目で彼の顔を窺ってみると、その顔は眠っている時のようなそれとは別の、何も見逃さないという凛とした表情をしていた。
思わず頬に熱を感じる。この感じている熱も、恐らくは赤みを差しているだろう頬も、全ては作り物だとわかっているが、心は本物だ。
心に嘘は決してつけない。その心が《恰好良い》とずっと囁いている。彼の顔立ちはTPOによって面白いほどに変わっていく。
そのどれもが、自分の心をすべて鷲掴みにしてくる。なんていうチート。ビーターというのも頷ける。そんなことを思う自分が、酷くおかしかった。
攻略復帰も三日目を迎えると、粗方の湧出(ポップ)モンスターは見慣れてくる。復帰一日目はまだ多少の緊張と警戒の色が強かったが、今はもうさほどでもなかった。
油断はしていない。ただ、安全マージンの取り方をより上手く正確に取れるようになっただけのこと。
それを良いことにアスナは、歩いている時はキリトの温もりを堪能することにしている。
「……アスナ」
だから、やや震えるように名前を呼ばれるまで、気付かなかった。
未踏破エリアに入って数時間。よくよく見れば周りのオブジェクトが総じて《重く》なってきていた。
目の前に現れたのは、二枚の黒曜石で出来た大扉。それの意味は間違えようが無かった。
「ボスの部屋……」
「ああ、見つけちまったな」
ごくり、と息を呑む。その扉が放つ威圧感に押され、つい一歩後退したくなる。ボスの扉の前ではいつもそうだが、クォーターごとのボスは特に強力だった経緯もあって、普段のそれより物々しささえ感じてしまう。
実際にはボス部屋から何かが湧き出ていることは無いはずだが、それでもその扉はプレイヤーに必ずと言っていいほど躊躇を産む存在だ。
それはさすがのキリトも同様のようだった。彼も緊張から僅かに体が強張っている。それを抱き着いているアスナは感じ取っていた。
同時にそれがアスナを安心させる。彼も同じなのだと。彼だって怖いものがあるのだと。
「どうする? 中だけでも見ていく?」
「…………いや」
アスナの問いに、少しだけ間をおいてから力なくキリトは首を振った。
睨みつけるようにして見るその扉から、何か嫌なものをその鋭敏な第六感から感じ取ったのかもしれない。
「そろそろユイとの約束の、迎えにいく時間だ。今入ってしまえば遅れてしまう可能性がある」
「……そっか。そうだね。私たちには攻略も大事だけどユイちゃんの方が大事だもんね」
「ああ、攻略を理由に家族の時間をないがしろにしたくない」
「私も今日のノルマ片づけたいし。遅れたらその分大変だからなあ」
「ノルマ?」
「うん、今裁縫スキル習得中」
「ユイに?」
「おかしいかもしれないけど、ユイちゃんの為に何か買うんじゃなくてどうしても残るものを私の手で作ってあげたくて」
「きっと喜ぶよ」
「うん……えっと、キリト君のも何か作ってあげるね」
「ああ、楽しみにしてる」
「え、えへへ……まだ初めて間もないからあんまり期待されても困るんだけどね」
キリトはそんな照れながら自信なさそうに言うアスナに微笑んで、手を握る。
アスナもすぐに握り返して、一度だけチラッとボスの扉を睨みつけ、お互いに転移結晶を使った。
「ママ! パパ!」
《血盟騎士団》のギルド本部に寄り、今日得たマップデータとボス部屋の情報を伝え、やや今後の方針を話してから本部を後にして真っ直ぐ第五十層、アルゲードへユイを迎えに向かう。
迎えにきた二人を笑顔で迎えたユイを連れ、エギルに礼を言って格安で最前線でマッピング中にドロップしたアイテムを譲り、第二十二層の家へと帰る。
アスナとキリトは攻略に戻るにあたっていくつかの取り決めをしていた。そのうちの一つがどれだけ忙しかろうと、毎日ここに家族三人で帰ってこようというものがあった。
ユイは今日、エギルの店であったことを楽しそうに話していく。お客さんが来たから接客を手伝った、だとか、エギルが来たお客を脅していただとか、甘いケーキをクラインが差し入れてくれた、など。
それをアスナとキリトは穏やかな気持ちで聞いていた。「そうか、良かったな」と頭を撫でればその分だけユイは笑顔を返してくれる。
そこにはアスナが、いや全SAOプレイヤーが求めてやまなかった安らぎが確かにあった。
やがて話し疲れたユイは目をこすり始める。キリトが「よっ」と彼女を抱き上げ、先日買ってきたばかりの大き目のベッドの中心に彼女を寝かせた。
しばらくユイは「パパ……」と小さく呟きながらキリトの服を掴んでいたが、キリトが優しく髪を撫でているうちにやがてゆっくりとその手を離す。
完全に眠った頃合いを見計らってキリトが寝室を出ると、ソファーに座っているアスナが針を片手に悪戦苦闘していた。
キリトは苦笑しながら彼女の隣に腰掛ける。すぐにアスナはパフッとキリトの肩に頭を預け、およそ裁縫をするような体勢ではないまま手を動かし続けた。
黙って横にいるキリトにアスナは満足しながら、ある程度キリが良い所までいったところで手を休める。
それが合図。ゆっくりとキリトはアスナを抱き上げ、先ほどのユイの時のように彼女を寝室へ連れて行く。
ユイの隣に彼女を寝かせて、彼女がピッピッとシステムで寝巻に着替えている間に自分もユイを挟んだ反対側へ横になる。
「おやすみ、キリト君」
「ああ、おやすみアスナ」
ユイの体の上で、お互い手を繋ぎながらゆっくりと瞼を閉じる。
この生活サイクルが、まだしばらくは続くものだと、二人は信じていた。
だが、その数日後、その思いを嘲笑うかのように、崩壊の序曲を奏でる鐘が悪夢のような報せという形で鳴り始めた。