「偵察隊が全滅──!?」
ヒースクリフに呼び出された二人が《血盟騎士団》のギルド本部で聞いたのは、そんな凶報だった。
彼らが発見したボスの部屋。そこに送り込んだ偵察部隊が全滅したというのだ。
それは信じられない出来事だった。これまでも偵察部隊に被害が出ることはあったが、全滅の憂き目にあったことは記憶にない。
それだけ慎重に事を運んできたはずなのだ。
「偵察は慎重を期して行われた。五ギルド合同で選りすぐりのパーティ二十人を選抜し、偵察隊として送り込んだ。十人が後衛としてボス部屋入口で待機し最初の十人が前衛としてボス部屋に入った。だが……」
そこでヒースクリフは一度言葉を止め、息を深く吐いた。ここから先を口にするのはいかな彼とて気が重いのか。
その重大さにキリトとアスナも息を呑む。
「前衛が入ったところで、扉が閉まってしまった。扉は五分以上開かなかった。鍵開けスキルや直接の打撃等何をやっても無駄だったらしい。ようやく扉が開いたとき、そこには《何もなかった》そうだ。ボスも、プレイヤーも」
「まさか……」
「念の為に黒鉄宮の生命の碑を確認してもらったが、前衛メンバーは残らず……横線が刻まれていたそうだ」
「っ」
「報告では七十四層のボス部屋は結晶無効化エリアだった。今回のことをふまえても以降は全てそうだと見るべきだろう。そして恐らく、ここからはボス部屋の扉もボス戦が始まった時点で閉じると思われる。開かれるときは……」
「ボスを倒すか全滅した後……ってことか」
緊急脱出が出来ない危険な戦い。それを強いられる日がくるとは。これではボスの偵察などできようはずもない。
この時、キリトは不謹慎だが少しだけ《良かった》と思ってしまった。即座に罪悪感が溢れ出るが、それでも後悔には苛まれない。
あの扉を見た時から、嫌な予感はしていた。すぐに娘のユイの顔を思い浮かべなければボスの姿くらい確認してから帰ろうと思っていたかもしれない。
もし、ユイと出会っていなければ間違いなくそうしていただろう。そして、もしそうしていたなら恐らくは生命の碑に横線が刻まれるのは自分とアスナの名前だったことは想像に難くない。
そうならなくて良かった、と最低な考えだとわかっていても思わずにはいられない。
だからといってこの現状を進歩させるものは何もない。ボスは攻略せねばならないのだから。
ボスの情報収集なしに戦うなど正気の沙汰ではない。これは本当の命をかけた戦いなのだ。しかし退くことは許されなかった。
「ここにきてデスゲームという色合いが益々濃くなった。しかし攻略を諦めるわけにはいかない」
「……」
「今日、これから三時間後に攻略組で精鋭部隊を選りすぐりボス攻略に当たろうと思う。君たちにも参加してほしい。予定では現在三十人、君たちを入れれば三十二人になる。恐らく過去最大規模のパーティだろう」
「……偵察が意味をなさない以上、現最高戦力を丸ごとぶつけるしかない、ってわけだ」
「そういうことになる」
「……わかった、俺は参加するよ」
キリトの瞳に決意が宿る。それを見てアスナも心を決めた。自分も参加すると。
だが、アスナの参加表明を聞いたキリトは少しだけ難しい顔をした。ヒースクリフがキリトに視線で問いかける。
「……俺は、攻略には参加するけど、俺の最優先事項はボス攻略じゃない」
「ふむ」
「俺の最優先事項はアスナだ。だから、悪いけどアスナの身が危険になったらパーティの連携よりもそっちを優先させてもらう」
「……キリト君」
「何かを守ろうとする人間は強いものだ。君の勇戦を期待するよ。七十五層コリニア市ゲートに午後一時集合予定だ、よろしく頼む」
ヒースクリフはそう言うとキリトに片手を差し出す。キリトも彼の手を取り、握手を交わした。
共に戦おうという意思の現れと同時に、キリトの考えに意を唱えるつもりが無いことの証明。
がっちりと交わされたそれは戦士の約束。──だというのに。
それを見ていたアスナは、なぜかヒースクリフがこの上なく楽しんでいるような表情をしているように見えた。
「三時間、か……どうするキリト君?」
「……」
「キリト君?」
「……」
ヒースクリフ達は既に退席していた。ここには今アスナとキリトしかいない。
キリトはじっとアスナを見つめていた。あまりの真剣な眼差しに、アスナは頬を赤らめる。
と、ようやくキリトが口を開いた。
「アスナ、怒らないで聞いてくれ。今日のボス攻略に、アスナは参加しないでほしい」
「え──」
「ユイと待っていてくれないか。ヒースクリフにはああ言ったけど、緊急脱出できない場所に君を連れて行くのは……」
キリトの辛そうな顔がアスナの胸をも締め付ける。きっと、彼の頭の中では今、《宝箱のトラップアラーム》が鳴り響いているに違いない。
だから、アスナは「はいわかりました」と答えるわけにはいかなかった。
彼の考えていることがアスナにはよくわかった。彼の思いと苦悩は嬉しい。嬉しいが、それを受け入れるわけにはいかない。
優しすぎる彼を、非情にすることなど誰にもできない。そんな彼だからこそ好きになった。だから……彼は身も《心も》自分が守る。
そうアスナは決意をすると、ゆっくりとキリトの頬を両手で挟む。
「アスナ……?」
戸惑うキリトを余所に、アスナは微笑んで──すぐにその距離を零にする。
彼の目が見開かれる。でもアスナは離さない。決して手を離さない。唇を、離さない。
SAOに呼吸はいらない。息が止まることはない。永遠にこのまま繋がっていようと、構わない。
しばらくは宙を彷徨っていたキリトの腕が、やがて観念したように彼女の背を抱きしめる。
それを持って、彼女の行動は一段ヒートアップする。
「っ!」
唇を重ね合わせるだけのキスは、幾度かした。だが、それ以上のキスとなると、《あの晩》にしか経験は無い。
その、あまりの出来事に落ち着き始めたはずのキリトの心は再び荒れ狂う。
何故アスナはこんなところで急にこんな真似を?
疑問が浮かぶも、思考はそれを考え続けることを許してはくれない。
中でうねるように暴れる《それ》が、キリトの正常思考を悉く奪っていく。
いい加減にやめさせようと押し返しても、それは逆効果となって返ってくる。
そのうち、自分の《それ》も同じように踊る始末。そうして、二人はたっぷり数分ほど繋がっていた。
「ふぁ……」
ようやくと、アスナが彼を解放する。透明な糸が一瞬トロリと現れ、すぐに霧散する。
キリトはよろよろと尻餅をつきそうになるのをグッとこらえ、視線でどういうつもりか問い質した。
アスナは赤らみながらも、クスリと笑って口を開く。
「キリト君に今呪いをかけました」
「は? 呪い……?」
「そう、呪い」
「何を言って……」
「どんな呪いか気になる?」
「いや、だから……」
「どんな呪いか気になる?」
「どういうつもりで……」
「どんな呪いか気に」
「わかったわかった、気になるから教えてくれ」
「うん」
意地悪そうに口端に笑みを乗せてアスナは一歩キリトから離れる。両手を後ろに回して、面白そうに一回転。
ピタッとキリトの正面で彼女は止まると右手の人差し指を自身の唇に押し当てて妖美に笑う。
思わず、キリトはついさっきの濃厚なそれを思い出して赤面してしまった。しかしそれこそがアスナの目的だったのか、フフンと自慢げに笑う気配を感じた。
「今キリト君にかけた呪いはね、定期的に私とキスしたくなる呪いなの」
「……は?」
「同時に私もキリト君にキスしたくなる呪いがかかっちゃったけど」
「キスしたくなる呪いって……」
そんな馬鹿な。子供だましに使う方便だってもっとマシなものがあるだろうに。
ややキリトは呆れるが、アスナの顔は真剣だった。
「もっと言うとね、定期的にキスしないと……死んじゃうの」
「……えっ」
「だから私たちはずっと一緒にいなきゃいけない。どっちかがいなくなってもいけない。だってどっちかがいなくなったらキスできないでしょ?」
「……アスナ」
「呪いを解く方法はたった一つ! 現実世界でキスをすること。これしかない。さあこれは大変なことになったよキリト君」
えっへん、と鼻高々に斜め上を見上げるアスナは……美しかった。姿形だけではない。
彼女の意を理解したキリトは、彼女のありかたそれそのものを美しいと感じる。
何があろうと一緒にいよう。彼女は言外にそう伝えてきたのだ。
それに気付いて、彼女の覚悟を行動で示されて、キリトは動かずにはいられなかった。
今度は、自分から距離を零にする。彼女の驚きが一瞬伝わったが、そんなことは知ったことではなかった。これでおあいこだ。
「呪いじゃしかたないな」
「……うん」
「呪いって剣士でもかけられるんだな」
「私からキリト君にだけ、ね」
「教会に行っても無駄、なんだろ?」
「……教会になんて行ったら、逆効果になっちゃうかもよ? 効果倍増」
アスナが恥ずかしそうに俯く。荒唐無稽だと、自分でもわかってはいるのだろう。
だが、それをいちいち口にするほどキリトも子供ではなかった。
最後に、もう一度だけどちらからともなく唇を合わせて、二人は微笑み合った。
と、そこでキリトは素朴な疑問が湧く。
本当に小さい疑問だが、何か気になる。
「よく今の行為システムに止められなかったな」
「え? だって私達《あの晩》にお互いへの干渉倫理コード解除してからかけ直してないじゃない」
「え、あ……ってちょっと待て。ということは俺たちあれからずっと……?」
「うん。いつでもその、システム的には可能な状態。そうじゃなきゃきっと何度もシステム警告立ち上がってたよ。ハラスメントに触れそうな危うい時は何度かあったし。夫婦ってことで緩くなってはいるだろうけど」
「……凄く、恥ずかしいです」
「あ、今コードかけ直そうとしてるでしょ。良いじゃない別に」
「いや、良くはないだろ」
「対象指定は出来るんだから良いの、ほら行こう!」
アスナはキリトの手を取って歩き出す。
キリトは結局、自身のステータスコードを変える事を許されなかった。
そのまま手を繋いで転移門へと向かう。時間はまだある。最後になる、とは思っていないが万一を考えユイと会っておきたかった。
だが、いざ転移門についたところでキリトは彼女の手を離した。
「……キリト君?」
「悪い、先に行っててくれ」
「どうかしたの?」
「ちょっと忘れ物」
「なら私も行こうか?」
「いや、すぐ追いつくから先にユイのところに行ってやっててくれ。少しでも多く、ユイと一緒の時間を過ごしておいた方がいい」
「わかった。すぐに追いついてね。あ、隠れてシステム弄ってもすぐわかるんだからね」
「ああ、わかってる」
アスナは頷いて一人、リンダースへ転移する。
今日ユイがいるのはリズベットのところだった。
キリトはそれを見送ってから、振り返って奥に見える壁の《向こう》に声をかける。
「出てこいよ、話があるんだろ?」
キリトがそう呼びかけると、壁の奥からぬっと人影が出てくる。
紅いバンダナに侍のような装束装備。野武士面という言葉が似合うSAOでもっとも長い付き合いのプレイヤー、クラインがそこにいた。
「気付いていたか」
「ああ、それで何の用だ?」
「お前も今回のボス攻略に参加するんだろう?」
「……ああ」
「余計なお世話になるかもしんねェし、伝えておくか迷ったンだが……伝えておかなかったことで後悔したくねェから、言っとくわ」
「ああ」
「死ぬなよ」
「そのつもりはないさ」
「わかってる。けどお前はその重みをもっとよく知っておくべきだ」
「アスナ、だろう?」
「! 気付いていたのか」
「そっちこそな」
「……俺は正直《あン時》の副団長さん……いや、今は違うか。《アスナさん》が怖かったよ。おめェが一瞬とは言え消えちまった時のあの人の顔は、今までみたどんなモンスターの面よりも怖くて──何も無かった」
「……」
「何も映してねェんだ、瞳孔が開ききってて、それこそ黒一色でよ。僅かに震えながら持ってる剣が揺れた時、俺は間違いなくこの人はそれを自分の喉にでも突き刺す気だって思っちまった。躊躇いなんて、きっとなかったろうぜ」
「……」
「お前が死ぬってことは、彼女をそうするってこった。もうわかってンならこれ以上言うことはねェよ。悪かったな」
「……クライン」
「あ?」
「ありがとう」
「……おう」
心からの感謝を込めた言葉と、頭を下げる。
クラインは照れたように頭をかきながらそのまま転移門に消えていった。
「やっぱり、そうだったのか……」
一つ、彼女の中の《あやうさ》にキリトは確信を持つ。
一度目を閉じて、息を吐く。覚悟を決めなくてはならない。
何があっても彼女《だけは》助けられるように。それが例え、彼女の望まぬ形であろうとも。
ゆっくりと瞼を開いて、自身も転移門に入る。心配性の彼女と娘の元へ向かうために。
「揃っているようだな、皆感謝する」
ヒースクリフが辺りを見回して頭を下げた。時刻は約束の午後一時。
リンダースで僅かとも言える時間を家族で共有し、リズベッドには攻略のことを全て話した上でユイを頼み、二人は約束の場所に時間通りに来ていた。
彼の言う通り、欠員無く予定プレイヤーは集まっていた。
そのメンバーの中にはギルド《風林火山》も含まれている。キリトに気付いたクラインが片手を上げ、キリトも返事をするように手を上げた。
驚きだったのはメンバー内にエギルがいたことだ。彼は一流の斧使いではあるが、ボス攻略戦での参加は中層以降多くない。
店を経営し始めた彼は、攻撃力とスキルレベルこそ攻略組と肩を並べられるほど強力だが、戦闘技能……最前線での経験は現最前線の攻略組達から見ると心許ない。
そんな彼まで駆り立てるとは、今回の攻略が本当になりふり構っていないことを示している。
と言っても、その采配……メンバーの招集はほとんど、《彼》による選抜だと聞いていた。
「各自、もう一度装備を確認してくれたまえ。十分後にボス部屋前まで回廊(コリドー)を開く」
ヒースクリフの声に、皆もう一度確認を行う。ここに来るプレイヤーに限って不備は無いとは思うが、それは気持ちの整理を付けるためにも必要な工程だろう。
皆がシステムメニューを開いたりポーチを確認している間、ヒースクリフはそれぞれのプレイヤーに軽くを挨拶をして回っていた。
話すことでリラックスさせ、また鼓舞させてもいるのだろう。あれもトップギルドの長たるものの務め、という奴かもしれない。
「よく来てくれた。君たちの攻撃力には期待している」
「やるからには最善を尽くすさ」
「うむ。アスナ君」
「はい」
「この戦いが無事に終わった暁には君に例のシークレット写真を見せることを約束しよう」
「くれないんですか?」
「申し訳ないが早期メンバー特典でもらったものだ。手放すわけにはいかなくてね。だから何が何でも生き残ってくれたまえ」
「はい! キリト君! 絶対に生きて戻ってこようね!」
「何か今までで一番気合い入ってるように感じるぞ……」
「気のせいだよ気のせい」
キリトはそんな現金とも言えるアスナに小さく溜息を吐き、ヒースクリフを見つめる。
その目には一つの決意があった。
「どうかしたかね?」
「ああ、あんたの口からみんなに紹介してもらいたい。俺の……《二刀流》を」
「……いいのかね?」
「少しでも士気を上げておきたい。出現条件がわからないから公開していなかったけど、これは多分ユニークスキルだ」
「わかった。ユニークスキル保持者が戦線に増えるとなれば皆の心配も軽減されるだろう。ここは遠慮無く甘えさせてもらうことにするよキリト君」
ヒースクリフがマントを翻して中央に歩いていく。それを確認しながらアスナがチラリと横目で問いかけてくる。
「良いの?」と。キリトは小さく「ああ」と頷いた。
今回の攻略はこれまでにない熾烈なものとなるだろう。不安要素を少しでも軽減できるならそれに越したことはない。
それが、彼女の身を守ることに僅かでも影響してくれるなら、《二刀流》の公開など安いものだ。
「諸君、聞いてくれ。出発する前に報告がある。私に次いで、二人目のユニークスキル保持者が現れた」
ヒースクリフの言葉に、プレイヤー達が一様にざわつき始める。
一体誰だ? と犯人を探すようにプレイヤー達は首を回し始めた。あまり仰々しいのは好みではない。
キリトはサクッと終わらせることにする。
「黒の剣士、キリト君だ。彼は数少ないソロ攻略者として皆もある程度は知っていると思う。スキルは《二刀流》だそうだ。出現条件は《神聖剣》と同じくわからないことからユニークスキルだろうという結論に至った」
名前を呼ばれたキリトは二刀を装備し、二刀流スキルを一つ披露する。
激しいライトエフェクトが白光を生む。ぶつける対象物があれば星屑のような光鱗が舞うその攻撃は高速の十六連撃。
《スターバース・トストリーム》を演技のようにこなしたキリトは、キン、と音を立てて納刀した。
納刀の音を聞いて、ギャラリーは初めてスキルが終わったことに気付く。《速すぎる》剣閃が、彼らの反応を僅かに遅らせた。
「おお……!」
感嘆の息を吐く。見たことのないスキルはどんなハイプレイヤーだろうと舌を巻くものだ。
まして、それが実用的なものなら尚更である。二刀から繰り出される十六連撃は、手数も申し分なく、スピードもある。
誰もが《欲しい》と思うのに時間はかからない。それが叶わぬ願いだからこそ、その思いはより一層強くなる。
嫉みも、一層強くなる。だがそれは覚悟の上だった。それでも構わないと、キリトは決めたのだ。
「彼に何か思うことがある者もいるだろうが、こらえてもらいたい。彼は必要な人間だ。それに既にこの層に来るほどのプレイヤーなら気付いているだろう? βテスターであったことの利点は、もはや何の意味もなさないところまできている。これは彼自身の力だと言っていい。これを見てくれ」
ヒースクリフはとあるログをポップし、皆が見えるように拡大する。
それはヒースクリフ自身のデュエルログだった。
またザワリ、とプレイヤーに驚きが起こる。
「私は自身の神聖剣を彼にぶつけた。結果は見ての通り【DRAW】だ。【DRAW】など狙っても出せるものではないことは皆も知っていることと思う。ユニークスキルの発現だけで言えば恐らく私は彼より分があるはずだった。だが結果は【DRAW】、これの意味することは何事も《先に》行った方がより良いというレベルは既に過ぎているということだ」
「……」
ヒースクリフの演説を、キリトは半分聞き流す。どれだけ美談にしようと、自分はビーターだ。
そこに、言い訳の余地も変わる余地もない。彼は常にそう思っている。
だが、そう思い続けることを、自分を責め続けることを彼女は許してくれなかった。
いつの間にか横にいて握られた手が、キリトに言葉以外でそれを伝える。
(良いんだよキリト君は。もう許されて良いの。例え、他の誰が認めず、許さなくても、私が許してあげるから。もう、過去に囚われないで)
アスナのそんな優しさに、キリトは手を握り返す。
ありがとう、と。それでキリトは少しだけ落ち着いたようだった。
だが。
逆にアスナは見た目よりも胸騒ぎが大きくなっていた。
彼の《二刀流》を見ると、どうしてもあの時のことを、恐怖を思い出してしまう。
彼の質量が失われるあの感覚を。
また、繰り返してしまうのではないかと危惧で一杯になる。
そんな不安を、彼の手を強く握ることで胸の奥底へと仕舞い込む。
「必要なのは己を信じることと自身が積んだ経験だ。そのあとに初めて知識がついて回るだろう。今我々に求められているのは信じることだ。これまでの経験を生かすことだ。さあ行こう、解放の日の為に!」
ヒースクリフは最後に珍しく言葉尻を強くして、回廊結晶を使った。
「コリドーオープン」と彼が呟くと、そこには青く揺らめく光の渦が出現した。いわゆるワープのようなものだ。
決められた場所──あらかじめ設定しておくのだ──へ一定時間転移可能になる空間を作ることが出来る、貴重な結晶だが、今回の戦いに使うのに惜しくは無いと判断したのだろう。
ボス部屋へ行くまでの消耗を極力避けるために、激レアアイテムを消費する。初めての脱出絶対不可なボス攻略においてはそれも頷ける処置だ。
空間を超えると、アスナとキリトは既に見たことのある黒曜石の二枚扉が目前に現れる。
皆一様に息を呑んだ。その扉から染み出す《何か》を感じ取っているのかもしれない。
実際には何も出ていないはずだが、やはりここまで来るプレイヤーには《何か》を感じ取る嗅覚がある。
その嗅覚が、《ヤバイ》と告げていた。
ヒースクリフが扉に手を当てて一度振り返り全員を見やる。作戦らしい作戦などない。
可能な限りヒースクリフ率いる《血盟騎士団》が壁役(タンク)を担当するから他のプレイヤーは各々ボスの動きを見切り攻めろという、ただそれだけ。
だが現状でそれ以上にできることは無い。やるしか、ない。
ゆっくりとヒースクリフが力を込めて、壁を開ける。もう、後戻りはできなかった。
雪崩れ込むようにボス部屋へと総勢三十二人は侵入する。かなり広い部屋だ。ドーム状に形作られたその部屋に全員が入ったところで扉が閉まる。
わかっていたことだが、これで退路は断たれた。何をしようとあの扉は開くまい。開くときは、ボス殲滅時か全滅か、だ。
「……」
息をひそめて周りを見渡す。そこにボスの姿は無い。だがいないはずはない。誰かが実は倒してくれた後、なんていう拍子抜けな展開でもない。
間違いなくいる。それを、キリトは長年の勘で感じていた。と、次の瞬間、いち早くそれに気づいたのはアスナだった。
「上よ!」
バッと見上げる。そこには、天井に張り付くようにして、骸骨がこちらの様子を覗っていた。
人間の骸骨ではない。眼窩は四つあり、青い炎をその中で揺らめかせている。
だが驚くべきはその体だ。百足、と呼ぶにふさわしいそれは全長十メートルはあろうかという《骨》だった。
人間の背骨を伸ばしたような体躯。骨の先は鋭い脚になっていて、僅かに音を鳴らす。頭の両脇には大きな鎌状の腕があった。
少しだけ《The Hell Scorpion》に形は似ているかもしれない。
キリトの目に、ボスの名前が浮かぶ
《The Skullreaper》──骸骨の刈り手。
それがボスの名前。もはや定冠詞云々など見なくても、あのボスがやばい相手だということはわかった。
すぐに皆が散り散りになる。あいつの真下になどいたら恰好の的だ。
ドスン! と音を立ててボスは落ちてくる。その時、逃げ遅れた者が床に伝わる振動でたたらを踏んだ。
間髪入れずに鎌が彼らを襲う。
「え」
次の瞬間には信じられない出来事が起きた。攻撃をくらったプレイヤーも目を見開き……ポリゴン片となって消えていく。
一撃、だった。これまでどんなに強いボスでも一撃でやられるようなダメージ判定の攻撃はそう無かった。
いや、そうならないようにレベリングしてボス戦に挑むと言ってもいい。だと言うのに、あのボスはそれを嘲笑うかのように鎌の一振りで二名の攻略組プレイヤーを屠った。
残り三十人。速すぎる犠牲だった。
プレイヤーが呆気に取られている間にもボスは次の標的を定めて突進を敢行する。
そのプレイヤーはあまりの事に呆然としていて動けなかった。彼に鎌が振り上げられ──キン! と甲高い金属音が彼を守った。
「固まるな! 散れ!」
ヒースクリフが盾を掲げながら全員に喝を入れる。それで、みんなはようやくと動き出した。
だが、悲しいかな、すぐに犠牲は増えた。ヒースクリフが身を挺してかばったプレイヤーは、もう一方の振り下ろされる鎌に対応できなかった。
彼もまた、一瞬の延命むなしく、爆散する。
敵の鎌は二つあるのだ。片方を防いだとて、もう片方が暴れるのを止められない。
「くそっ!」
キリトは駆け出した。いくらヒースクリフと言えどあれを一人で捌ききるのは難しいだろう。そして彼がいなくなれば戦線は崩壊する。
二刀をクロスさせるように構え、キリトは相手の一撃を受け止める。
「くぅぅぅぅぅぅぅっ!」
重い。重すぎる。抑え……切れない!?
一撃が、強すぎる!
その様を、アスナはまるでテレビでも見ているかのように傍観していた。ボスが鎌を彼に振り上げている。彼は二本の剣でそれを抑える。
いや、抑えきれていない。今にも吹き飛ばされそうだ。今にも斬られそうだ。今にも殺されそうだ。
イマニモコロサレソウダ。
反対の鎌が振り上げられる。ヒースクリフが素早く彼の隣に入り、盾でそれを防ぐ。防ぎきる。なんとか耐える。
だが、彼はダメだ。彼は抑えきれない。
カレハオサエキレナイ。
コロサレル。
カレガコロサレル。
カレガシヌ?
「……なの、そんなの……ゆるせるわけ……ないッ!」
このボスは今何をしようとした? 何をしようとしている?
キリトを、彼を殺そうとしている。そんなことを、許すわけにはいかない。許せるはずがない。
ザワリ、とアスナの中の何かが溢れ出す。黒い感情が漏れ出す。いや、暴れだす。
アスナは飛び出した。キリトの後ろに回り、今にもキリトを貫かんとしている鎌をソードスキルの突き攻撃で弾き飛ばす。
初めて、ボスがノックバックによりやや後ずさった。
だがアスナに安堵はない。あるのは沸騰するような怒り。このボスは、触れてはいけない琴線に触れた。
何人たりとも彼を傷つけさせやしない。何人たりとも!
「アスナ!」
「キリト君!」
それからは、言葉を必要としなかった。
幾度となく感じてきた《接続》する感覚。どんどんと鋭敏になっていくそれが、お互いの呼吸を驚くほど合わせていく。
ヒースクリフが一方の鎌を抑える。キリトが二刀でなんとか残りの鎌を受ける。その隙にアスナが突き飛ばす。
それをワンサイクルとして、ようやく形が出来上がった。
「俺たちが鎌を抑える! みんなは側面から攻撃を!」
鎌の攻撃を二刀で受けているキリトの、かすれるような声で他のプレイヤー達は動き出した。
それぞれソードスキルを側面にぶつけていく。側面の骨も暴れることで幅広いダメージ判定が起こっているが、鎌ほどではない。
異常なほど強力なのはやはりこの鎌だけだ。
「アスナ!」
「うん!」
やや変則的に鎌が振られてくる。キリトが素早く二刀をクロスさせ、突き刺すようにアスナに向ける。
アスナはそれ……正確には剣の腹部分に飛び乗ってもう一蹴りし──同時にキリトも上に彼女を押し上げる──宙に滞空する。
キリトは間髪入れずに振り返って飛び込んでくる鎌に備え、激しい衝撃とともにその即死級の攻撃を武器防御で僅かな時間耐えた。
反対からも別の鎌が来るがヒースクリフがそれを抑え、下降を始めたアスナがソードスキルを放つ。
「やぁぁああああ!」
別な角度からの攻撃は、僅かにボスに硬直時間、遅延効果(ディレイ)が期待できる尻餅状態を作ることに成功した。
他のプレイヤー達がここぞとばかりに大技を連発する。
「散れ! すぐに動き出すぞ!」
キリトの言葉で皆退くも、数人が欲張って攻撃をやめない。すぐにその対価はHP全損で払わされる。
「馬鹿野郎……っ!」
罵りながらキリトは二刀をクロスする。一刀では受けられない。二刀でも受けきる、ことは出来ない。僅かに時間を稼げるだけだ。
そのマージンでアスナが一歩押し込む。もう一方をヒースクリフが抑える。
型としてはほぼ出来上がっていた。だが、ボスのHPは遅々とした速度でしか減らない。
本当に一発が即死の中での長期戦になることは明らかだった。
(アスナ! 右だ!)
(キリト君、後ろ!)
(前!)
(正面、構えて!)
これほど長い時間、《接続》を維持したことはなかった。いつもその必要が無かったからだ。
だが、今は一秒たりとも《接続》を切れない。切らないのではなく切れない。
そうして、一時間にも及ぶ激闘が続いた。
「っだ───!」
「っの───!」
「あ────」
一時間を経過してようやく、ボスのHPバーがすべて無くなり、力なく倒れたボスは光り輝くポリゴン片となって爆散した。
だが、とどめを誰が刺したなど、気に留める者はいない。
満身創痍。その言葉が似合うほど皆疲労し、床に座り込む。戦いの熾烈さだけではない、仲間が死んでいってしまう精神的な痛みの積み重ねが、彼らの心に深くダメージを与えていた。
恐らく、一つの戦闘、攻略中にこれほどの数の仲間を失う経験をしたことがある者などいないだろう。
「何人、やられた……?」
生き残ったクラインが、フラフラと倒れそうな足取りでキリトに近づいていく。
キリトはシステムメニューを開いてマップ上のプレイヤー人数を確認した。
戦闘中も六人程までは爆散するサウンド回数を数えていたキリトだが、途中で数えるのをやめていた。
どんどんと胸にのし掛かってくる不安と痛みが、それ以上は耐えられないと告げていた。
数えなければ、気付かなければ、それは無いも同じ。それ以上死んだ奴はいないと自分に言い聞かせてひたすらに攻撃を防いでいた。
ウインドウに映し出される光源は十八。あれから八人も死んだのか。当初から見て十四人分も足りない。
「十四人……足りない」
「……マジかよ」
その言葉に、同じく生き残ったエギルが、珍しく憔悴したような顔になる。
彼はSAOプレイヤーの年齢層では比較的上に位置する。それ故かいつも精神的に一歩上の存在であり続けるのが常だったのだが、そんな彼をして年下の少年少女同様に不安を露わにしてしまう。
七十五層でこれだけの被害が発生した。では以降の攻略では一体どれほどの犠牲が出てしまうのか。その犠牲者の数、名前にいつ自分がカウントされてしまうのか。
攻略はまだ四分の三しか終わっていない。あと四分の一……二十五層も残っているというのに。
皆同じ気持ちだろう。だが、ただ一人、疲れ切ったプレイヤーの傍を変わらぬ表情で歩いている男がいた。
ヒースクリフ。《血盟騎士団》のギルドリーダー。
彼だけは表情を殆ど変えずに皆の周りを歩いて小さく声をかけていた。
たいしたものだ、とキリトは感心する。彼は機械か何かなのだろうか。ギルドリーダーとはそこまで資質を持っていなければなれないものなのか。
「団長、すみません。回復アイテムを分けてもらえませんか」
「うむ。わかった。無事で何よりだ。よく戦った」
実際、今回のパーティのリーダーは彼だっただろう。彼の号令と、盾が無ければ攻略は不可能だったに違いない。
まさに、名実ともナンバーワンプレイヤーと呼べる。今彼は疲れ切った仲間に癒しの言葉をかけ、手持ちの回復アイテムを分配している。
オマケにこの戦いでさえ彼のHPは安全圏を守り抜いている。素直に、キリトはそこに感心しようとして、違和感。
今、ヒースクリフは一瞬左手を挙げ、ゆっくりと降ろして右手でシステムメニューを開いた。
左手を、僅かに、一瞬上げた。なんのことはない気にする必要など全くないはずの動作。
些細な日常にありふれるようなどうでもいい動作。
──だというのに。
違和感。どうしようもない違和感。吹き上がるように何かの違和感が込み上げる。
違和感の正体を探ろうとして、そのうち段々とそれが形となっていくのを実感した。
違和感の正体は……既視感だった。そうだ。あの動作は何度か見たことがある。
似た動きは日常茶飯事にしているし見ている。
慣れ親しみすぎている。
右手で《システムメニュー》を開く為の動作。それの初期動作と全く同じ。それが左手になっただけのこと。
そこまで考えて、また違和感。
(──左手?)
胸にわき起こる嫌な思い、これは何だ? 何を忘れている? 何を見落としている?
左手でシステムメニューを開くことは出来ない。だから、普通左手にこの癖が付くことはない。
──本当に?
いいや、違う。そんなことはない。知っている。左手でシステムメニューを開ける人物をキリトは知っている。
《彼女》はゲーム参加者ではない。ゲーム参加者ではないからと思えばそれも納得できる。
左手でシステムメニューを開けるのはゲーム参加者以外の人間。
──ゾクリ。
背中が、恐ろしい程に冷えた。
一瞬浮かんだ想像が、あまりに現実味を帯びすぎてキリトの胸のうちをどんどん冷やしていく。
ありえない、と思えないことが、既にありえない。
口の中がカラカラに渇いたような錯覚が起こる。背中の寒気も、喉の渇きも、ここSAOでは感じることのないはずのもの。
だというのに、それらが治まらない。自分の辿り着いた考えを否定できる要素がなかった。
(やってみるか)
キリトはゆらり、と立ち上がるとヒースクリフへと静かに近寄っていく。
幸い彼はまだ気付いていない。できる限り気配を殺し──隠蔽(ハイディング)の効果はほとんど期待できないが──彼の横に立つ。
「ちょっと失礼」
間合いに入ることに成功したキリトはヒースクリフの左手を取った。即座にその手を振らせる。
一瞬のことにヒースクリフは戸惑った。だが、キリトの驚愕はそれ以上のものだ。
──紫色の見慣れないウインドウが、彼の前には立ち上がっていた。
「……どういうつもりかね、キリト君」
「それはこっちの台詞だ、ヒースクリフ、いや……茅場晶彦!」
キリトの鋭い眼光が、彼を射抜いていた。