ザワ、とプレイヤー達の視線が集まる。「何を言ってるんだ?」と周りは訝しそうにキリトを見ていた。
ヒースクリフは一度目を閉じ、フッと口端を釣り上げる。
「何を言っているのかね? と聞くのは無駄かな?」
「ああ」
「このウインドウは可視モードになっていないはずだが」
「ウインドウを出せること自体が、その証明さ」
「私以外にも出せる者はいるだろう?」
「ああ、いるよ。でも左手でウインドウを出すことが出来るのは、《プレイヤー》じゃないとわかっている。それでも白を切るならそのウインドウを可視モードにして見せてみろ」
本当はこの時、僅かにだけキリトは迷いがあった。悟らせまいと必死に隠したが、彼が茅場の仲間か何かで、《複数》いるゲームマスターの一人の可能性を考慮していた。
だが、その可能性はかなり低いと見積もっていた。大勢のゲームマスターはいない。いればもっと早く露出していた可能性が高い。
加えて、このゲームの製作者である茅場が人付き合いを好まない性格なのは、このゲームデザイナーに注目していたキリトにはよくわかっていた。
だから十中八九、この相手は茅場だ。他人がやっているゲームを見ているだけなんて、それほどゲーマーとしてつまらないものはない。
この男はだからこそ、プレイヤーに扮してこのゲームを監視していたのだと、連鎖的にイメージし、確信していた。
「……そうか、生命の碑。君たちは黒鉄宮に確認に行っていたね。薄々感づいていたわけか」
「《覗き》はお得意ってわけだ。あんなアイテムをゲーム内に用意しているくらいだもんな」
「そう言わないでくれたまえ。しかし……そうなるとせっかく泳がせていた《アレ》の意味が無くなってしまったな」
ふむ、とつまらなさそうにヒースクリフは顎に手を当てて考える素振りをする。
その時、近くで話を聞いていたプレイヤーが震えだした。
「アンタが、茅場晶彦……? ウソだろ……そんなハズ、そんなハズないんだッ!」
「……」
哀れむような目で、ヒースクリフ……いや茅場晶彦はそのプレイヤーを見つめる。
既に否定の言葉は無い。それが、全てを物語っていた。
「嘘だあああああああああ!!!!!」
プレイヤーは手に持った槍を彼に向けて突進する。
キリトが「待て!」と止めるも間に合わない。だが、次の瞬間、その行為が無駄だったとすぐに気付かされる。
それも、当然と言えば当然のことだった。
【Immortal Object】──不死存在。
システムメッセージが浮かび上がる。
彼への攻撃は通らない。そうなるようシステム的に守られていた。彼の伝説の正体は、恐らくこれのせいだったのだ。
尚も哀れそうな顔を向けられ、プレイヤーはその場に座り込んで泣いていた。それで、全てのプレイヤーもその事実をようやく飲み込んだ。
「キリト君」
「……なんだ?」
「参考までに君の推理を聞いておこうか」
「……最初におかしいと思ったのはデュエルの時だ。アンタ早すぎたよ。ポリゴンがドット抜けするスピードを一般プレイヤーが出せるわけがない」
「やはりそうか、あの時は私にとっても痛恨事だった。君の攻撃に押されてついオーバーアシストを行使してしまった。しかし《アレ》のせい……いや、おかげで奇跡的にも【DRAW】という結果が生まれた。この結果が良い隠れ蓑になると思っていたのだが、思い違いだったか」
「アンタはユイを知っている気はしていた。ユイという存在のことを思えば自然とアンタの素性を疑いはするさ」
「だがそれなら《アレ》のことをもっと疑っても良かったのではないか?」
「娘を疑う父親がどこにいるんだ」
「娘、娘か……ククク」
「何がおかしい」
「いいや、これは失礼。君は《アレ》がなんなのかわかっているのか?」
「前にも言っただろ、俺とアスナの娘だ。それ以上でも、以下でもない。そもそもさっきから《アレ》って……まるでユイを物みたいに言うな!」
それまでは何処か達観したように喋っていたキリトだが、その目に僅かに怒りが宿る。
同じく、アスナの目にも同色の感情が燃え上がっていた。
「そうか……物みたいに言うな、か。では面白いものを見せてあげよう」
茅場晶彦は紫のシステムメニュー……いやシステムコンソールを弄り始めた。
リズベットは椅子に座ってつまらなさそうに足をブラブラさせているユイを見ていた。
彼女はキリトとアスナが迎えに来ると途端に元気になるが、彼らがいないと意気消沈する。
話しかければ笑顔を見せてくれるが、少し放っておくとすぐに感情をなくしたような顔になってしまう。
それだけ寂しいのだろうか。それだけ二人を本当の親のように思っているのだろうか。
(全く……ずるいなあ)
自分たちの娘だ、と紹介された時は何かの冗談かドッキリだと思った。でも、三人のやりとりを見て、この三人は真面目なんだとすぐに理解した。
それは同時に、宣言していたはずの第二回戦のゴングが永遠に鳴る機会を失った瞬間でもあった。
もっとも、二人がゲーム内で結婚した時からその機会は無くなっていたようなものだけど。
だが、不思議とそうなるような気はしていた。彼の隣にいることが出来るのは、彼のように強い、彼女のような存在だけだと。
少し、本当に少しだけなら、最初は付け入る隙はあったかもしれない、とリズベットは思う。
だが彼女はそれをしなかった。そこに後悔はない。
「ユイ~? 美味しいものでも食べにいこっか?」
「美味しいもの、ですか?」
「そ。そろそろ良い時間だし」
「わかりま……っ!?」
「ユイ?」
急にユイが表情を変えた。何かに怯えるように。
頭を両手で抱え、イヤイヤをするように首を振る。
「ちょっとユイ!? どうしたの!? 大丈夫!?」
その異常さにリズベットは駆け寄る。通常、SAO内では痛みを感じない。
頭が痛いから抑える、という行為は意味が無いしする状況は起こりえない。だが、目の前の少女は明らかにおかしかった。
なんとかしてあげなくちゃ、とは思う。彼女を預かった責任がリズベットにはあった。預かるからには責任を持とうとも決めていた。
だが、何をどうしていいのかわからず、ユイの傍にいながらリズベットは困ってしまった。
「呼んでる……イヤ、イヤ……! 行きたく、ない……!」
ユイがか細い声でそんなことを言う。
リズベットがそれについて尋ねようとした時、驚いたことにユイは体からライトエフェクトを発していた。
これは《転移》の前触れとほぼ同じだ。
「助けて、パパ……ママ……!」
「ユイ!」
リズベットがユイの体を抱きしめようとした瞬間、彼女はリズベット武具店から姿を消してしまった。
「そんな……」とリズベットはその場に腰を落としてしまう。二人になんて言っていいのかわからない。
泣きそうな女の子を慰めてあげることも出来なかった。ただ、予想を超える何かが起きていることだけは、リズベットは理解した。
ユイは突然ここに現れた。ヒースクリフの頭上に浮かんだ状態で。
それに驚愕し、アスナとキリトは身を固くする。
「ユイをどうする気だ!」
「ユイちゃんを離して!」
「ふむ、君たちは《コレ》を見てもそんなことが言えるかな」
茅場晶彦がそう言うと、ユイの悲鳴とともに、彼女の体が崩壊していく。
アスナとキリトは青ざめた。
「止めろ!」
キリトが彼に斬りかかるが、【Immortal Object】のシステムメッセージに守られ、彼には何も届かない。
ユイがわずかに視線をキリトとアスナに向けた。
──パパ、ママ。
「っ!」
声なき声が聞こえたのと同時、彼女は微笑んで……消えた。消えてしまった。
後に残ったのはシステム的な羅列のみ。ユイの体の構成がすべてプログラム言語に置き換えられていた。
「これが《アレ》の正体だ。《アレ》は人間ではない、AIなのだよ。正式名称は《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》、MHCP試作一号、コードネーム《Yui》」
「ユイちゃんがプログラム……ですって? でもユイちゃんは……!」
「《アレ》には本来人間が行うべき精神カウンセリングを違和感なく行えるようにするため感情模倣機能を備えさせていた。キリト君、察しの良い君は既に気付いていたんじゃないのか?」
「……」
「……キリト君?」
「確信があったわけじゃない。ただ一つの可能性として考慮はしていた」
「そんな……!」
アスナは驚く。まさかキリトまでもがユイをプログラムとして見ていたと言うのか。
そんなことは信じたくなかった。
「だが、あの子が俺とアスナの娘であることに変わりはない!」
「ほう……わかっていて尚プログラムを娘呼ばわりか。まあそれは別に構わないのだが」
しかしすぐにキリトがアスナの不安を打ち砕く。彼はやはりユイを娘として見ていた。
その想いは、彼女の正体を気付きながらも変わらなかったことから、もしかしたら自分よりも強いのかもしれないとさえアスナは思う。
「やはり君たちのそばから《アレ》は消しておくべきだったかな。《アレ》がシステムに介入したせい、いや、おかげで君とのデュエルでは数秒《不死属性》が解除されて結果的に私の正体がバレずに済んだことから少し泳がせていたが……」
「ユイが!?」
「ふむ、それには気付いていなかったようだね」
キリトは思い出す。あの時彼女は「ずるい」と言った。それはヒースクリフの《不死属性》のことだったのだ。
彼女がそれを解除し、その結果キリトは《不死属性》の無いヒースクリフのHPを半減することに成功した。
「解除されていたのは数秒だったよ。本当に針に糸を通すようなタイミングだった。しかし君はそこを正確に突いてきた。【DRAW】というオマケつきでね」
「……一つ聞きたい。何故ユイは俺たちの前に現れた?」
「それについては素直に謝罪しよう。単なる《バグ》だ」
「バ、グ……? バグ、だって……?」
「そうだ」
その淡々とした説明に、キリトは言いようのない怒りを覚えた。
単なるバグでユイはあそこに現れて、自分たちと出会って、一緒に過ごして、笑い合ったのか。
それを、ただの小さいミスのように、この男は言うのか。
「《アレ》は正式サービス開始時にカーディナルによってシステムに不干渉を設定されていた。しかし私の予想外なことにあのプログラムは《干渉》せずとも《鑑賞》は続けていた。だがそのせいで感情模倣機能が裏目に出てしまった。プレイヤー達の負の感情を鑑賞し続けて模倣しすぎた感情は《自己崩壊》まで模倣し始めた」
「……っ!」
「ログによると、ちょうどその時あたりに君たちの事に気付いたようだ。自己崩壊によってカーディナルはプログラム《Yui》を消滅と規定してしまったが故にプログラム監視から外され、《Yui》には僅かに権限が戻ってきていた。しかし自己崩壊を起こした《Yui》は正常な思考処理能力を既に失っている。ただ最後に気付いた君たちの傍に、たまたま《Yui》は出現してしまった。ここからが少しだけ興味深い」
説明する茅場に、アスナもキリトも歯を食いしばる。ユイのことをあえて人間扱いしない物言いは、二人の神経を逆なでするには十分だった。
しかし、今爆発すればユイを知る機会は失われてしまうかもしれない。
今はただ黙って聞いているしかなかった。
「《Yui》は“未完”とはいえAI……人工知能だ。《メンタルヘルスプログラム》としての機能がほぼ崩壊してしまっても、どういうわけか《自己学習機能》は生きていた。《Yui》はそれからひたすらに自己学習を始め、自己修復の一環なのか一人の人間に的を絞って感情を模倣し始めた。それがアスナ君、君だ」
「……えっ」
「ある意味娘という君たちは正しい。《Yui》はずっと真似ていたのだよ。アスナ君という人間性を。もっとも、言葉の端々から自身の中にある語録で最適なものを選んでいるうちに娘のようなポジションに落ち着いてしまい、それを二人が認めたことから《Yui》の学習機能はその望まれる人物を構成することを目的にしてしまったようだが」
その言葉には、少しだけ納得できた。キリトが気付いた原因にも少し被ってきている。
彼女は記憶を取り戻してから語録が劇的に増えた。しかし、クラインの件を始め、判断力が無さすぎた。
良いか悪いかの判断経験の欠如。それに反比例するような知識量。そこに着目したとき、キリトはもしかしたら、と思い始めてはいたのだ。
思い出した、とは彼女の中の膨大な《辞書》に接続可能になったということだったのだろう。アスナを模倣している、とは思っていなかったが。
対して、アスナには少しだけ別の観点から思い当たる節があった。ユイはよくよく「自分とママ以外はパパにくっついちゃダメ」と言っている。
それは彼女がひそかに心に留めている感情そのものではなかろうか。認めるのは少しだけ嫌だが、否定することは出来ない。
同時に、ユイに自分の感情を見透かされていた事になると思い、急に恥ずかしくなった。
「私とのデュエルでシステムに干渉したために《アレ》はカーディナルに目を付けられた。放っておけば削除(デリート)は免れなかった。しかしここで消えられては怪しまれると思い、私が手動で《アレ》を修正したのだ。その方が君たちの注意を私から逸らせるとも思った。この際《メンタルヘルスケア》の壊れたプログラムは全面凍結させ、彼女の今のキャラクターをそのまま使うだけのNPC同様のAIプログラムとして《Yui》を確立。バグ取りをしたためか正常な言葉検索が働くようにもなっていただろう?」
茅場はどこまでもユイを物のように説明する。
ユイの正常化をバグ取りのおかげ、と言われて二人は納得できなかった。
あの日、自分がどういう喋り方だったかを思いだしたと喜んだユイ。
その喜びを分かち合ったキリトとアスナ。そこに、絆は確かに生まれていた。
それを機械的にプログラムを修正したから、と理由付けを持ってこられて、酷く不愉快だった。
「さて、これで納得できたかな」
「……できるわけがあるか。ユイは娘だ」
「どう思おうとそれは君の勝手だよキリト君。そう信じたいのなら信じたまえ。それを否定するほど私も無粋ではないつもりだ」
「それならさっきからユイを物扱いするのを止めろ!」
「……そうか。これは失礼だったかな。認識の相違から配慮が足りなかった」
悪かった、と謝る茅場晶彦にアスナは飛びだした。
飛び出さずにはいられなかった。流星のように一点に絞られた光が《ヒースクリフというアバター》に吸い込まれる……が。
【Immortal Object】
システムメッセージがその行為を許してくれない事を表示する。
だがアスナは攻撃をやめなかった。
何度も。
何度も何度も。
何度も何度も何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度何度も!
しつこく攻撃を繰り返す。斬って、払って、突いて。
ソードスキルを片っ端から使って、目の前の男にぶつける。
【Immortal Object】
【Immortal Object】
【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】
【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】
【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】
幾度と無く浮かび上がるシステムメッセージ。だがアスナは狂ったように攻撃をやめなかった。
と、ようやく茅場が動いた。
「っ!?」
ガクン、とアスナが膝を付く。彼女は麻痺状態になっていた。
いや、彼女だけではない。キリトを除くこの場の全てのプレイヤーが麻痺になっていた。
「アスナ!」
キリトはアスナに駆け寄る。彼女は泣いていた。双眸から止めどなく涙を溢れさせていた。
よっぽど悔しかったのだろう。ユイのことが、悔しかったのだ。
「キリト君」
重い茅場の声が響く。
キッと睨み付けるが、彼の鉄面皮は些かも揺るがなかった。
「正体を知ったから全員始末するつもりか?」
「そんな理不尽な真似はしないさ。ただ、君には最終ボスである予定だった私を見破った報奨(リワード)を与えようと思ってね。本来なら九十五層までは明かさない予定だったのだから」
「最終ボス、ね。本当に趣味が悪いぜ」
「良いシナリオだろう? 盛り上がったと思うがまさかたかが四分の三で看破されるとはね。君はこのゲーム最大の不確定要素だとは思っていたがまさかここまでとは」
「そいつは悪かったな」
「いや、遅かれ早かれこうなってはいただろう。《二刀流》は全十種類あるユニークスキルのうちプレイヤー中最高の反応速度を見せる者に出現するユニークスキルだ。その者が勇者の役を担う予定だった」
「勇者、ね。俺にはもっとも結びつかない遠い言葉だよ」
「果たしてそうかな。客観的に見て、君にはその資質が十分にあると思うが。ダークヒーローなんてものも世の中には蔓延っているよ」
「……アンタと勇者談義をするつもりはない。何をやらせる気なんだ?」
「至ってシンプルだ。今この場で私と戦い、君が勝てばゲームクリア。全てのプレイヤーを解放することを約束しよう。無論不死属性は解除するしオーバーアシストは使わない。私もこのゲームでプレイヤーに許されている同条件下でのみ戦うことを約束する」
キリトはそれを聞いて、抱き起こしていたアスナをゆっくり横に寝かせ、二刀を装備した。
その後ろ姿に、アスナは猛烈に嫌な記憶が蘇る。
「ダメよキリト君! 貴方を排除する気だわ! ここは引きましょう……!」
行かないで。決してそこへは行かないで。手の届かない所へ行かないで。
アスナの涙声のような叫びが上がるが、キリトは「ごめん」と小さく呟いた。
「戦う、気なの……?」
「ああ」
「なんで……どうしてッ!?」
「君は、絶対にあっちの世界に返すって決めてたから。それに……俺たちの娘を取り戻さないとな」
「っ! 死ぬ気は無いんだよね……?」
恐る恐る尋ねると、すぐに彼は頷いた。彼の静かな怒りが、自分と同じ感情のそれが、そこにあることに気付いた。
それを見て、アスナはようやく僅かに笑みを浮かべる。
キリトは背中越しに、それを感じた。
「キリト! 早まるんじゃねえ!」
エギルが、彼を止める。
キリトはここで失われて良い人間ではない。
ましてや借りが多すぎる。年下なのに、借りを作ってばっかりだ。
まだ、死んで貰っては困るのだ。
「エギル、アンタが中層プレイヤーの育成に儲けを注ぎ込んでいたのは知っていたよ。だから、借りだなんて思わなくていいんだ」
「ッッッッ!」
エギルは驚愕する。キリトは全てを知っていた。全てを知った上で……!
キリトはよくよくエギルを頼る。だが、その礼、リターンは不平等なほど多めにキリトは払っていた。
これを買ってくれ、と持ち込むものの買取金額は相場より安く、頼まれた物を仕入れれば相場より高いコルを払う。
キリトはエギルとの取引で何度もそうしていた。決まってエギルが困っている時は──たいていは中層プレイヤー用の支援アイテムの工面についてだったりした──ふらりとそんなキリトが現れていた。
エギルはそれからと言うもの、キリトの悪評を和らげるために、自身が安く卸してあげた中層プレイヤーにはよくキリトの事を教えるようにしていた。
半分ほどは興味なさそうに、もう半分は訝しむのが常だったが、それでもキリトの偽物の評価をなんとかしたかった。
その過程で知り合った《フェザーリドラ》をテイムすることに成功した《竜使い》の名を冠する中層少女プレイヤーとも知り合った。
彼女はよく話を聞いてくれ、協力を買ってでてくれたりもした。FCKoDなる組織にも加入した。
だがそれは結局、まだほとんどちゃんとした意味では効果を発揮していない。それを少しでも成し遂げたと言えるのは恐らく、彼が隣に居ることを許した少女だけだろう。
だからキリトが家を買う時も手伝った。アスナが「無理を言ってごめんなさい」と言ってきた時も気にしなかった。
返し足りないものがまだ一杯あるのだ。
だというのに、彼の背中はエギルの制止を聞き入れてはくれない。
「止めろキリト! 言ったじゃねェか!」
クラインが麻痺で倒れたまま、首だけ彼に向けて叫ぶ。
約束した筈なのだ。気付かせた筈なのだ。彼の命は彼一人のものではないと。
「わかってンだろ!? お前は一人じゃねェンだぞ!」
「クライン、ずっと……謝りたかったことがある」
「なンだよ!?」
「あの時、始まりの街で置いていって悪かった。ずっと、それが心残りだった」
「ッッッッ!! 馬鹿野郎! 謝るンじゃねェ! 今謝るンじゃねェよ! お前、今そンなこと言われたら……ッッ! 俺はお前を許しちまうだろうが!」
憂いを帯びたキリトの顔が、クラインを見つめる。
それだけで、クラインは何も言えなくなった。言えなくなってしまった。
もう一度口の中でだけで「馬鹿野郎……!」と呟く。それがクラインの今できる精一杯だった。
一度だってあの時のことを怒ったことなんかなかった。
一度だってあの時のことを恨んだことなんかなかった。
一度だってあの時のことを悔やむことなんかなかった。
だから、彼が謝罪してきたら、それは罪じゃないと言わないといけない。彼を許さなくてはいけない。それがあるべき姿なのだから。
だが、許してしまったら、キリトの憂い、心残りは無くなってしまう。無くなってしまったら、彼を引き留める自分の武器が、自分だけの武器がクラインには無くなってしまう。
それでも、彼は許すしか選択肢が残っていなかった。それをキリトはわかっていたのだろう。
その心の成長、自分を少しでも許せるようになっている成長が嬉しい。嬉しいはずなのに、涙が止まらない。
「準備はいいかな」
茅場晶彦がシステムを弄りながら尋ねる。
彼とキリトのHPバーが同じ量にまで減らされる。一撃を貰えば吹っ飛ぶ量だ。
加えて不死属性を解除した旨のシステムメッセージが浮かび上がった。先の話に嘘はないという証明の為だろう。
「二つ、いいか」
「言ってみたまえ」
「アンタは今正体を見破った報奨(リワード)だと言ったな」
「そうだが」
「ならゲームマスターとしてチート行為を働いた事への謝罪補償が欲しい。アンタはデュエルにおいてやってはいけない真似をして俺と【DRAW】になった。本来なら俺が勝っていたはずだ」
「……内容は?」
「ユイを返せ。今ならまだできるはずだ。もちろんシステム権限なんて物は無くていい」
「……娘、か。まあ良いだろう、手を出したまえ」
「……?」
茅場はそう言うと、紫のコンソールを少し弄る。
すぐにキリトの手の上に透明な、複雑にカットされた涙滴型のクリスタルが出現した。
「これは……?」
「《Yui》……いや、君の言う《ユイ》のプログラムソース、言わば彼女の本体そのものをオブジェクト化したものだ。この戦いに勝てばそのデータは君のナーヴギアの中に保存されているだろう」
「そうか」
キリトは短くそう言うと、アイテムストレージを開いてクリスタルを入れ、すぐに装備欄へと手を動かす。
次の瞬間には動けないアスナの首に、ネックレスとしてそのクリスタルが出現していた。
夫婦だからこそ出来るお互いのステータス干渉。そこで見ていてくれ、ということだろうか。
クリスタルはやや熱が篭もっていて、白くとくんとくんと光り、暖かいようにもアスナには感じられた。
(そこにいるの? ユイちゃん……)
「さて、もう一つは何かね? これだけでも結構寛大な処置だと私は思うが。補償としてはむしろ大き過ぎるほどだろう」
「……もう一つは、アスナについてだ。簡単に負ける気はない。だがもしも俺が負けて、死んだら……少しの間でいい。彼女を自殺できないようにして欲しい」
「……え」
その言葉に、アスナは固まった。今彼は何て言った?
自殺できないようにして欲しい? 誰が?
──ナニヲイッテイルノ?
(彼が死んでも、私は死ねない?)
──ナニヲイッテイルノ?
それの意味を理解したアスナが、そのあまりの残酷さに叫ぶ。
「ダメ、だよ、そんなの、そんなのないよ───────っ!!!!」
アスナの慟哭がフロアに響く。もしも、彼が死んだら生きている意味などない。
だと言うのに、彼は自分には死を許さないつもりなのか。
──ドクン。(……)
「良いだろう。彼女にはこの戦いの後不死属性を付加する。代わりに迷宮区への立ち入りを禁じよう」
自分の手の届かない所で勝手に話が纏まっていく。
望まない方向へと纏まっていく。
彼はもう振り返らない。振り返ってくれない。最初から、こうするつもりだったのか。
望まないこととわかっていながら、それでも彼は、こうする気だったのだろう。
なんて──残酷。非情になりきれない彼は、それ故に彼女に対してもっとも残酷な方法を選んだ。
それでも、それが、それだけが彼の望みだった。
「行くぞ……!」
ダッ! とキリトが駆け出す。
それが、このソードアート・オンラインにおけるラストバトル開始の合図だった。
キリトはソードスキルを使わずに斬り込む。その速度はシステムアシスト無くしてソードスキルのような精密さとスピードを再現していた。
聖騎士ヒースクリフ、いや茅場晶彦はその一つ一つを顔色一つ変えずに盾で防いでいく。飽くまで冷やかなその真鍮色の瞳は、キリトを焦燥させた。
ソードスキルは使えない。前回戦ってわかったことだが、彼相手にソードスキルはほぼ通じない。
それも事実を知った今となっては当然のことだ。全てのシステムは彼の手によるものだ。全てを把握されていても不思議はない。
すさまじい剣戟が鳴り響く。速く、もっと速く。さっきより速く。まだ速く。極限まで速く。極限を超えて速く。
徐々にスピードが増していく。増せば増すほど剣戟の音は高くなる。
キリトは自身の目ですら僅かに自らの剣のエフェクトがブレて見えてしまうほどのスピードを捻り出した。
ドット抜けするようなオーバーアシストには敵うべくもないスピードだが、それに近づくものがあった。
だが茅場はその攻撃を正確無比に叩き落とし、弾き、反撃をしてくる。
どれだけ必死になっても、彼は表情を変えない。それが、キリトに相手との差を感じさせる。
(馬鹿な、遊ばれてるのか……?)
左から大きく薙いで、僅かな時間差を設けて右からも攻撃する。
だが左の攻撃はフェイク、寸止めで止めて右の攻撃を途中から最大筋力をゲインして勢いを増す。
その勢いを殺さぬように回転して左手に持っていた剣を彼の左脇腹めがけて薙ぐも、それにすべて対応して彼は尚反撃さえしてくる。
「この前の《あれ》を使いたまえキリト君」
「なに、を……」
「《あれ》でなければ私の神聖剣を破ることなどできんよ」
鉄面皮のまま口を開いたと思ったら、とんでもないことを言い出す。
敵に塩を送っているのか、それともそれも作戦なのか。
だがどちらにしろそれはキリトも考えてはいた。しかし、
(リスクが高すぎる……まだ、成功率は二割から三割くらいしか無いんだ……!)
彼とのデュエル時に起きた謎の現象。ソードスキル遅延効果(ディレイ)の無効化。
《剣技連携(スキルコネクト)》と名付けたシステム外スキルは暇を見つけては練習したが、成功率は未だ低い。
今使えば、失敗は目に見えていた。
「使わないのか? それもいいが……ふん!」
「っ!!」
「それで勝てるほど、私は甘くは無い」
裂帛の気合いの入った斬撃が、キリトを襲う。瞬間的に受けられないと悟ったキリトは一歩退いた。
退いてしまった。
「それが今の君の覚悟の程だ。退くという考えを、瞬間的に考えてしまえる余裕がある。必死さが足りない、先日のデュエルの時や《The Hell Scorpion》と戦っていた時の君の方がまだ必死だった」
「っ! くそおおお!」
「ヤケになるのと必死になるのは違うぞキリト君、君はもっと楽しませてくれる相手だと思っていたのだが。これでは君は彼女との約束を果たせそうにないな」
「ッッッ!」
瞬間的に、剣戟のスピードが上がる。僅かに茅場の顔に笑みが奔った。
それでいい、と。
「そうだ、もっと必死になってもらわねば困る。君は現実世界で彼女のかけた呪いとやらを解くのだろう?」
「……は? ってまさかアンタ……」
「見てはいないさ、聞いただけだ」
「ふざけんなあああああああああああ!!!!!!」
キリトのスピードがそれまでとは比べられないほどに上がる。いや、最大速度は変わっていない。
だが技の、一刀一刀を振るキレが段違いに上がっている。技と技の間の間がほとんど感じられない。
「この《覗き野郎》!」
「ふむ……私にそれを言うのは君で二人目だ」
「《二人目》……?」
「ふん!」
「ッッッ!」
一瞬の気の緩みからキリトの横スレスレに重たい一撃が落ちる。
紙一重だった。
「外したか。素晴らしい反応速度だ」
「お前……!」
まさか、全ては計算されていたのか。鼓舞させ、緩ませ、叩き切る。
それを狙っていたのか。いや、彼にそうする必要などない。
考え過ぎだ。だが、その考え過ぎになることこそが相手の狙いなのか。
「考え事かね」
「……っくそ!」
考える暇がない。連撃はやまない。暇が作れない。
……暇が作れない? 本当に? 暇が作れないと思う暇はあるのに?
必死さが足りない。確かにそうだ。もっと必死なら《考えている暇》なんて発生しない。
ゴウッと風を切るような音を立ててキリトの米神近くを茅場の剣が薙ぐ。
先ほどまでは退いていた距離。それを、退かずに進むことで避ける。避けながら攻撃する。
「!」
相変わらずほとんど茅場の表情は変わらない。だが動きにほんのわずかにラグが発生した。
久しく忘れていた。限界を超えると言うことを。《極限》と言う、限界の先……果てにある境地を。
スピードだけではダメだ。パワーだけでもダメだ。《極限》まで感情を飛ばせ……飛んで、跳んで、速く、もっと速く──加速する!
思考を、思いを、感情を爆発させろ!
焼き切れてもいい! 無くなってもいい! 恐れるなどという《余分》を削れ!
ただ速く、もっと速く、全てを速く! 加速のその先へ、もっと先へ!
キリトのキレが飛躍的にアップしている。した、ではない。《している》。
現在進行形で彼の速度はアップし続けている。どうやればあんな真似ができるのか。
いや、きっとそれはわからない。わからないから上げ続けることが出来る。考えていないから、できるのだ。
誰もが彼の動きで茅場を圧倒し始めたように思う。押しているように見える。
だというのに、アスナには胸騒ぎがした。
──ドクン。(……マ)
彼の方が押しているように見える。なのに、彼の背中が《あの時》と被って見える。
あの戦いのときと同じように見える。胸騒ぎが治まらない。
キリトの攻撃は止まらない。押しているように見える。だが茅場の表情は冷えた鉄面皮のまま変わらない。
明らかに押されているように見えるのに、そこに焦りを感じない。
嫌な予感がする。
──ドクン。(……ママ)
攻めきれない。どれだけ速度が上がっても、キレがよくなっても最後の一撃で攻めきれない。
硬い。硬すぎる。盾を貫けない。届かない、最後の一歩が絶望的なまでに届かない。
届かせるには、やるしかない!
「!」
そこで、珍しく茅場は僅かに感情を表した。
キリトの剣にライトエフェクトが奔る。ソードスキルだ。
「茅場ァァァァァァァァァァァァァッ!」
あの時と同じ、《レイジスパイク》を放つ。倒れ込むような突進からの鋭い突き攻撃。
茅場は当然のように盾を合わせて来る。だが、本命はこれではない!
意識を切り離せ。この腕は自分の腕ではない。
自分の腕は今左腕のみ!
動け 動け 動け 動け
動け 動け 動け 動け
動け 動け 動け 動け
動け 動け 動け 動け
動け 動け 動け 動け
動け!
左手だけで、ソードスキルを─────────!?
ズシリ、と一瞬体に重みを感じる。
いや、それは正確ではない。動けない。動きたくとも動けない!
(遅延効果(ディレイ)!?──失敗した!?)
《剣技連携(スキルコネクト)》は成功率がまだ著しく低い。土壇場で成功させるなど、それこそ奇跡。
奇跡なんて起こらない、と思ったのはいつのことだったのか。やっぱり、彼に奇跡は起こらない。
ただひたすら無情に、システム通りに事が進むだけだ。
茅場は残念そうな、酷くつまらなさそうな顔をしていた。
彼の剣が、キリトを貫こうとしている。
彼を殺そうとしている。彼が死んでしまう。
彼が死んでしまう!
(だめええええええええっ!!)
──ドクン。(ママ!)
胸のクリスタルが一際強い熱を持つ。熱いくらいに熱を持つ。
一瞬世界がスローになる。このままでは茅場にキリトが貫かれてしまう。
それをただ傍観しているしかない世界で、
(ママ! パパを……パパを護って!)
娘の声が聞こえる。自分を応援する声が聞こえる。
彼を護れと言っている。
(今できるのはこれだけ、一秒にも満たない時間のこれだけ! でもママ……ママならきっと……! だから、頑張ってママ!)
全てがスローのはずの世界で、その声だけが何者にも縛られぬようにクリアに聞こえる。
直接頭の中に入ってきているように聞こえる。
だから、娘の考えが瞬間的にアスナには理解できた。
(お願い、ユイちゃん!)
フッと僅かな一瞬体が軽くなる。《麻痺》が消える。動ける!
アスナは全ての力を最大までゲインして、限界、いや極限、いやいやそれ以上のありとあらゆる全てを振り絞って跳ぶ、いや飛ぶ!
「い、やぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ!!」
「!?」
驚愕は一体誰のものなのか。
アスナがキリトの前にまるでテレポートでもしたかのように現れる。
彼を庇うように手を広げてその体を差し出している。
茅場晶彦の剣が、彼女を貫く。
キリトの時間が一瞬停止する。
アスナが笑みを口端に乗せる。
「あ、あ、ア、アアアア亜亜亜亜亜亜亜亜!!!!!!」
キリトの声が、枯れそうなほど、枯れてくれと思う程、上がる。
アスナのHPバーが、ゼロになった。
フラッシュバックという言葉がある。
近年誤用が多い間違った解釈の《走馬灯》と意味はほとんど変わらない。
僅かな時間に、スローで世界が再生され、過去の出来事を次々と思い出す。
アスナの笑顔。アスナの仕草。アスナの声。
それらが一つ一つがコマ送りのように再生される。
唇を合わせた感触。抱いた時の温もり。初めて一緒に夜を過ごした熱。
それをまさに今体験しているかのように、再生されていく。
『今キリト君にかけた呪いはね、定期的に私とキスしたくなる呪いなの』
『迷宮デート、か。キリト君といるとどこでも楽しくなるから不思議だよ』
『もう、それでユイちゃんに何かあったらどうするの?』
『わぁーっ! わぁーっ! ユ、ユイちゃんしぃーっ!』
『生きてる!? 生きてるよねキリト君!?』
『今日は……ユイちゃんもいるし《倫理コード》は無理だけど、キリト君の胸の中で寝たい……いいかな』
『ずるいなぁ、あそこは恋人が行くスポットじゃない。私も誘ってくれれば良かったのに』
『……うん、うん。ありがとうキリト君。絶対に行こうね! 約束だよ!』
『良い子ね、パパの言うことをなんでも聞いちゃ『メッ』だよ』
『キ、キリト君が好きなのに申し込まれたって断るに決まってるでしょ!』
『もう、だめなんだから。諦めたら、死んだら、ダメなんだから……!』
『私、キリト君といるのは……哀れみなんかじゃないから』
『情けでもないし、攻略会議で指揮を預かる身だからとか、そんな打算的なことでもない』
『──き、なの。キリト君がサチさんを好きでも、恋人を忘れられなくても、私キリト君が──好きなの、好きになっちゃったの!』
『責任重大だからね、キリト君。これでキリト君は簡単に命を諦められなくなったんだから」』
宝石のような記憶群。二度と帰ってこない時間……時間?
スロー再生される記憶の中で、閃光のように閃くものがあった。
連鎖的に、記憶が、繋がっていく。
時間。
命。
蘇生アイテム。
【このアイテムのポップアップメニューから使用を選ぶか、あるいは手に保持して《蘇生:プレイヤー名》と発声することで、対象プレイヤーが死亡してからその効果光が完全に消滅するまでの間(およそ十秒間)ならば、対象プレイヤーを蘇生させることができます】
対象プレイヤーが死亡してからその効果光が完全に消滅するまでの間(およそ十秒間)ならば、対象プレイヤーを蘇生させることができます。
効果光が完全に消滅するまでの間(およそ十秒間)ならば、対象プレイヤーを蘇生させることができます。
(およそ十秒間)ならば、対象プレイヤーを蘇生させることができます。
(およそ十秒間)ならば、対象プレイヤーを蘇生
(およそ十秒間)ならば。
(およそ十秒間)
(およそ十秒間)
その十秒間が、ナーヴギアから高出力マイクロウェーブを発生させて脳を焼き尽くすタイムラグ。
十秒間……十秒間!
今何秒経っているかなんて計算する暇はない。方法もない。
必死と言う言葉があるなら、今この時を言うのだろう。
およそ十秒間。
十秒以内に、茅場を殺せば……アスナは助かるかもしれない!
「う、お、おオオオオォオッォオオォッォォォォォォォ!!!!!」
吠える。それしか出来ないとばかりに吠える!
貫け、貫け、貫け!
あの男を貫け!
キリトの剣が、彼の胸に吸い込まれていく。
驚くべきスピード。だが、茅場の反応速度ならギリギリ間に合うタイミング。
──何もなければ。
「っ!?」
茅場は驚愕する。
一瞬、ほんの僅かな時間、《動けなかった》。
目の前にはHPを全損したアスナ。既にライトエフェクトに包まれているアスナ。
その彼女が、茅場の剣を掴んでいた。それは、まだ強制ログアウトしていない彼女の最後の抵抗。
蚊程にむなしい抵抗。閃光のような一間を生むだけの行為。
閃光のような。
彼女は閃光のアスナと呼ばれる。
だが彼女は思う。自分が《閃光》と呼ばれたのは全て今日この日この時、この瞬間の為だったのだと。
彼女の閃光は、攻撃の速度故ではない。彼の為に《閃光の一間》を産む、ただそれだけの為に!
そのためだけに《閃光》はあったのだと─────!
そして、そうまでして彼に期待して、その期待が裏切られたことなど、これまで────ただの一度も無い!
キリトの剣が茅場を貫く。
茅場のHPが全損し、驚きの表情で包まれている。
だが、もっとも驚いたのは、キリトが茅場のHP全損を確認した刹那、返す刀で自身の胸を貫いたことだった。
三人分のライトエフェクトが眩しいほどに輝いて……散る。
キリトは、まさかもう一度この割れるような感覚を味わうとは思わなかった、などと思いながら、
ゲームはクリアされました──ゲームはクリアされました──ゲームはクリアされました……という機械的なアナウンスを聞いて意識を手放した。
「ここは……」
気付けば、キリトは全天燃えるような夕焼け空の下にいた。
浮いているわけではないが、床も見えない。きちんと立っていることから床があることは理解できるのだが。
キリトはぼうっと訝しがりながら何の気なしに右手を振ってみた。
すぐにウインドウが立ち上がる。それで、ここがまだSAOなのだと確信した。
ただ、メニュー画面は【最終フェイズ実行中 現在54%完了】と表示されていた。意味がわからない。
「キリト君」
と、名前を呼ばれて震えた。その声を、キリトは聞き違えるはずもなかった。
振り返ると、栗色のロングヘアーの彼女、アスナがそこにいた。体が半分ほど透けているが、間違いなくアスナだ。
よく見れば、自分も体が半分ほど透けている。
「アスナ……!」
キリトは手を伸ばそうとして、一瞬躊躇う。透けた体に触れて、触れなかったらどうしよう、と。
だが、それは杞憂だった。すぐにアスナが手を伸ばし、触れる。きちんと触れられる。
「キリト君……」
「アスナ……アスナ……!」
再び触れられた彼女の温もりを、キリトは離さないとばかりにきつく抱きしめた。
アスナももう離れたくないとばかりに強く強く抱きしめ返す。
「……無茶して」
「ごめん」
「何も自分まで刺さなくたって」
「良いんだ。もしアスナが無事ならああしたって俺も大丈夫だと思った。アスナが無事じゃないなら、俺が無事でいる意味もないから、どっちにしても良かった」
「命を簡単に諦めないって約束したでしょ?」
「アスナを護るために、が前提だよ。アスナがいなくなったら無効」
「もう……バカ」
一筋、アスナは涙を流して彼の胸に顔を埋める。
どうしようもなく、嬉しかった。
どうしようもなく、愛しかった。
「君らは変わらないな」
と、二人だけの空間で声がした。
白衣にネクタイ姿の、ヒースクリフではない茅場本人の姿で彼は現れた。
その姿は、めったに人前に出ないと有名な、キリトが写真でだけで見たことのある姿そのままだった。
「茅場……?」
「ああ、私は茅場晶彦だ。君たちとは少し話をしたくてね、少しこの時間を作らせてもらった。既に他のプレイヤーはログアウト確認済みだよ」
「そうなのか……」
「キリト君、あれ……!」
アスナが指差す方向には、空に浮かぶ円錐状の城があった。
何度か雑誌等で見たことのある、アインクラッドの外観そのものだ。だが、それは今崩れつつある。
「現在、アーガス本社地下五階に設置されたSAOメインフレームの全記憶装置でデータの完全消去作業を行っている。あと十分ほどでこの世界の何もかもが消滅するだろう」
「けじめ、か?」
「……どうだろう。そういった感情は既に無いよ。私はただ、信じているのだよ。世界のどこかに、あの城が本当にあるんじゃないかと。幼いころからずっとそう思ってきた。それを見たくて、現実世界のあらゆる枠や法則を超越した世界を作ろうと思った。それを再現するために。再現した超越世界を超越することが出来る者を見るために」
チラリ、と茅場はキリトを見る。
君の事だ、とその目は語っていた。
「君は見事、私の世界の法則を超えた。《剣技連携(スキルコネクト)》、だったかな、あれは見事だった」
「最後は失敗したよ」
「それでも、君は、いや君たちは私を倒した。この世界を超越できるものが現れた時、あの城も世界のどこかに実在すると改めて信じられると思っていた。だから、ありがとうキリト君、アスナ君。そして、ゲームクリアおめでとう」
何故か怒る気にはなれなかった。
一人の男の、ただひたすらに夢に向かい続けた一つの結果。
それがソードアート・オンラインでありアインクラッドだったのだろう。
「さて、私はそろそろ行くよ」
え、と思った時には、既に茅場は消えていた。
現実世界に帰還したのだろうか。それとも……。
「キリト君」
アスナがクイクイと引っ張って指を指す。アインクラッドは既に残すところ先端のみとなっていた。
残された時間は少ないらしい。
「ねぇキリト君、名前……教えてくれる?」
「名前?」
「そう、本当の名前。現実でまた会う為に。実はね、九十層超えたら聞こうって思ってたんだけど……」
「終わらせちゃったからな、ごめん」
「あ、謝らないでよ……悪いことじゃ、ないんだから」
「うん……俺は桐ケ谷和人、多分先月で十六歳」
「きりがや、かずとくん……やっぱり年下だったかあ……私は結城明日奈、十七歳です」
「ゆうきあすな……」
お互いに、一音一音忘れないよう、噛みしめるように呟く。
時間は、もうない。
「また、現実世界で絶対に会おうね……」
アスナがそう小さく言って、唇を合わせる。
「……戻ったら、呪い解けちゃうな……それはそれで、もったいない」
「呪いが解けたら、凄い特典がつくから」
「そっか」
「うん、だから……ね。楽しみに、してて」
「ああ、楽しみにしてる。それに帰ったら、ユイもなんとかしてやらないとな」
「うん」
そうして、お互いに最後の瞬間まで、見つめ合っていた。
フッと瞼を開く。酷く、その作業が重く感じた。
目を開けて最初に感じたのは、眩しいということ。
まるで数年間光を見たことが無かったかのように、目が眩む。
ゆっくりと視線を変えると、腕にはチューブが繋がっている。
点滴……とすぐにそれがなんなのか理解して、連鎖的に意味を正しく把握する。
(帰ってきた……)
念の為に右手の指を振ってみる。
そこにはやはりウインドウは立ち上がらない。
「…………っ」
口を開こうとして、上手くできない。
喉が痛い。しばらく使っていなかったかのような渇きを覚える。
と、そこでようやく頭が固定されていることに気付いた。
顎下にあるロックを手さぐりで解除して、それをむしり取る。
ナーヴギア。
全ての始まりはこれをかぶってから始まった。
最後に見た時はピカピカだったのに、二年の月日は外装を色褪せさせていた。
だが、すぐにハッとなる。
行かなきゃ、という衝動に駆られる。自身の《半身》を、探さなくてはならない。
でも、立ち上がろうとして、できなかった。体が酷く重くて、怠い。
筋肉が落ちているのだ、とすぐに気づいてそのあまりの虚弱ぶりに驚くが、そんなことには構っていられない。
狂おしい程の時間と労力をかけて、ようやく点滴の金属棒を杖代わりにして立つ。
そうやって立ち上がったところで、病室のドアが開いてその人は入ってきた。
黒縁メガネにスーツ姿の男が、息を切らせている。
自身の記憶が確かなら、面識は現実、SAO共にない。
すぐに訝しそうな顔に気付いたのか、彼は名乗りをあげた。
総務省SAO事件対策本部。
それが彼の所属だと言う。
彼らはSAO被害者対策活動の一環として被害者を病院に移させることと、手に入れたごく僅かなプレイヤーデータをモニターしていたそうだ。
それしかできることがなかった、とは言うが、それだけでもたいしたものではある。
一つ失敗すれば一万人……最終的には六千人ほどの人間の脳が焼き切られてしまうリスクの中、頑張っていたと思う。
彼がここに来た理由は早い話が情報収集、取り調べだった。SAOで何があったのかを聞きたい、とそういうことだ。
答えるには吝かではない。
だが、これをチャンスと見て、条件を突きつける。
彼はその条件をすぐに飲んだ。
《半身》の居場所を調べて教える、という条件を。
意外なことに、すぐにその役人は《半身》の場所を探し当てた。いや、探し当てたというより彼の担当する被害者の中にたまたま被っていたのかもしれない。
しかしそんなことはどうでも良かった。今すぐそこに連れて行くように頼む。
戸惑われたが、彼は頷いてくれた。車椅子を用意し、それに乗って、運ばれる。
幸い、然程遠い場所ではなかった。本来なら精密検査やら何やら受けなくてはいけないらしい自分を連れて行くのは大変なんだから、と車の中で怒られたが。
後で家族への説明も大変だ、と頭を悩ませていた。
そうして、連れて行かれた別の病院の病室。ここに《半身》がいる。
そう思うといてもたってもいられなかった。
別れの時間は実際に計算すれば然程のものではないはずだ。
それでも、現実世界で会うのは初めてなのだ。多少の緊張と、期待を持って病室を開ける。
そこで待っていたのは、
未だジェルベッドに横たわり、
ナーヴギアを付けたまま、
機械とチューブに繋がれた《彼》が、
見知らぬ少女に口づけされている光景だった。
(SAO編終わり)