僅かに鼻腔をくすぐる、天然木の芳しい香り。
樹種すらわからない──実在するのかすら疑わしい──それによって建てられたログハウス。
大きくはないが二人、いや三人で暮らすには十分とも思えるその家の一室。
一室、とは言っても部屋は二つ程しかなく、内一つは寝室である。
その寝室で、栗色ロングヘアーの少女はゆっくりと瞼を開いた。
シン、と静まりかえる部屋に、少女──アスナは首を傾げる。
ベッドには自分一人だった。隣にあるもう一つのベッドは使われた形跡が無いことから──これはいつものことだが──自分以外の家主が既に起きていることは想像が付くのだが。
しかし、もし《二人》が起きているならもう少し賑やかな声が聞こえてもおかしくない。
いや、そもそも自分が最後に起きるということ自体、珍しかった。
いつもなら自分の方が先に起きて、《彼》の寝顔をじっくり観察するという至福の時間を過ごすのが常なのだ。
かといって《彼》が先に起きた試しが全く無いわけでも無いので、まあいいかとアスナは小さく欠伸してベッドから降りる。
それにしても静かだ。《あの二人》が大人しくしているなんて、ちょっと想像できないのに。
「おはよう、キリト君、ユイちゃん」
挨拶の声を上げながら寝室を出てリビングに入るも、そこには誰もいない。
ガラン、としていて人のいた気配すらない。静まりかえった家は何処か寒々しい。
人がいないだけで、まるで生活感が失われてしまったかのような錯覚さえ覚える。
(おかしいな……二人だけで何処かに行ったのかな)
アスナは首を傾げる。あの二人が自分に黙って出かけるなんてちょっと想像がつかなかった。
伝言を残すなり、起こすなり、何かしらのアクションをしない二人ではない。
アスナは訝しがりながらも、ひょっとしたら自分が寝ていたから騒がしくないように家の外にでて、何かやっているのかもしれないと思い至る。
アスナはすぐ戸を開けて、偽物の日差しが燦々と降り注ぐフィールドに出てみた。
だが、辺りに人の気配はない。《彼》程の索敵スキルがあるわけではないが、静かにするためだけならそう遠くにも行ってないはずなのだが。
いよいよこれはおかしいな、とアスナが思ったその時、
「えっ」
急に大きい影が差した。
自身をすっぽりと覆うほどの巨体が、背後に現れた。
どうして? 何故? いつの間に?
思考が目まぐるしく回転するが、長年培った緊急判断……反射から即座に鍛え上げた敏捷力を駆使して距離を取る。
「……なっ!?」
すぐに振り返って巨体の正体を知り、戦慄する。
巨大なモンスターがそこにはいた。ただのモブモンスターならばまだいい。
だが相手はボスモンスター、それも《あの》バッドラックこと《The Hell Scorpion》だった。
前の触肢は一際大きな鉞状で、紅い金属のような身体が光沢を発し、反り返った尻尾まではいくつもの節があり、途中からは二股に別れて揺れている。
慌てて剣を構えようとするも、腰に剣が無い。すぐにハッとなる。今は何も装備をしていない。
何故ならここ二十二層はモンスターが湧出(ポップ)しないはずなのだ。武器は不要だし家の中……《圏内》にいたのだから当然のように武装は解除していた。
だいたいこのボスモンスターは最前線の迷宮区でしか出てこない筈。
それなのにどうしてこいつは、と思う間もなくボスの鉞がアスナを襲う。
思考が混乱して戸惑っていたアスナにそれを避ける事はかなわなかった。
だが。
【Immortal Object】
見覚えのあるシステムメッセージが表示される。
システム的不死。攻撃を受けたはずのアスナはペインアブソーバによって調整された不快感すら発生せず、システムによって守られた。
そんな? どうして? 何故?
さっきと似て非なる思いが彼女の中を駆けめぐる。
と、ある言葉が思い出された。
『もしも俺が負けて、死んだら……少しの間でいい。彼女を自殺できないようにして欲しい』
震えた。ボスの激しい攻撃はやまない。
あの時、《彼》を死においやった強力なボスの攻撃はしかし、一切自分に届いていない。
【Immortal Object】
システムに守られる。当然だ、届くはずがない。
だって、あの男はこう言ったのだから。
『良いだろう。彼女にはこの戦いの後不死属性を付加する』
それの意味するところを察して、自分の現状を理解して、何も考えられなくなる。
必殺であると言ってもいいボスの猛攻撃が、まるで意味を成していない。
システムによって守られた自分を傷つけることは、同じシステム上のボスにはかなわない。
例え、こちらが殺して欲しいと願ったとしても。
なんて拷問だこれは。目の前に自分を殺すのに申し分ない相手がいるのに、無機質なメッセージが表示するというただそれだけのことで、その刃は届かない。届いてくれない。
意味なんて、ないのに。こうなってしまったら、意味なんてないのに。
「イヤァァァァァァァアアアアアアッ!」
喉が、渇く。口の中が、渇いている。
アスナはむくっと起きあがると、ぼうっと対面の壁……慣れ親しんだ自室のそれを見つめた。
木造ではない。木の匂いなどしない。現実の自分の家……部屋は、何処まで行ってもリアリズムなこと甚だしい。
リアルなのだからそれは当然のことだ。だがそこには歓喜も安らぎもない。
喉が渇く。実際に声を張り上げてはいないのだろうが、ずっと口を開いてはいたのだろう。
溜息を吐いて、目を擦る。僅かに潤んでいた目は、パジャマの袖口を湿らせた。
「また、あの夢……」
現実世界に帰還してから、アスナは何度も似たような夢を見ていた。
決まってあの誰もいないログハウスで目覚め、自身が不死存在になっている。
モンスターに襲われることもあれば、外周から飛び降りて自殺してみたこともある。
結果は何をやろうともひたすらに機械的なシステムメッセージが浮かび上がるだけ。
頭がおかしくなりそうだった。
世界は変わらず太陽という日が昇り、新しい朝を告げている。
だが、アスナは未だSAOという世界に終わりを感じられないでいた。
あのSAO生活からほとんどのプレイヤーが解放されて二ヶ月。
二年という長期間の寝たきり生活を余儀なくされたアスナは驚くほど筋肉が衰えていた。
まともに歩くことすらままならない。そんな状態で意識が戻ったその日に病院を出たものだから、家族……とりわけ母親には散々小言を言われた。
あの時の役人──総務省SAO事件対策本部とかいう長ったらしい名前の部署に所属している──が上手く言い訳を作ってくれたが、今度は彼に家族が責めたて始める始末。
申し訳ないという気持ちは多分にあったが、アスナは疲れ切っていてその時はそれ以上話す気力が無かった。
目覚めたばかりの彼女にはオーバーワークだったこともあるが、あの時見た《光景》が彼女の気力を根こそぎ消し去ってしまったのだ。
眠っている《彼》……《キリト》こと《桐ヶ谷和人》が少女から口付けされている光景。
脱力、というのだろうか。本当に全ての力を吸い取られてしまったかのようにアスナは動けなくなった。
彼女の方も突然現れたアスナに驚いて真っ赤になっていた。
アスナの最初の疑問、《誰?》はすぐに解けた。
桐ヶ谷直葉。
彼女はキリトの妹だった。
彼とは一つ違いなのだそうだ。
肩までの黒髪に小柄ながらも豊満なバストを持っている彼女は、アスナの目から見ても綺麗ではあった。
和風美人、というのは彼女のような事を言うのかもしれない。
加えて身体をよく鍛えているようだった。ふと、アスナは思い出す。
キリトから「スグ」という──「スグ」とは直葉の略称……兄妹ならではの愛称なのだろう──妹の話を聞いたことがあったことを。
確か剣道で全国大会にも出られるほどの腕だったとか。
後日、再びキリトの病室で会った時、それとなく聞いてみるとどうやら間違いないようだった。
だが、彼女からするとキリトが自分の事を話したのは相当意外なようだった。
二人の兄妹仲は、悪いというより疎遠という言葉が似合うほど開いているとアスナは彼女から聞かされた。
その言葉にアスナは首を傾げる。彼の妹の事を話す顔や言動に、そのようなものは感じられなかったからだ。
むしろ懐かしむような、慈しみを込めた顔だった。直葉はそれを聞いてますます驚く。
だが、そこからお互いあまり口を開けなくなってしまった。
アスナはそれ以上の事をキリトから聞いているわけではない。
直葉もアスナの事を知っているわけではない。
何より、お互いのファーストコンタクトが、彼女たちの間に見えない壁を作っていた。
この人は、《彼》にとってどういった人なのだろう、と。
そういった思いが、深い話をすることを躊躇わせていた。
お互いに遠慮するような、それでいて探るような目を交わし合う。
アスナがキリトのお見舞いに行って彼女と顔を合わせると、決まってそんな微妙な空気が出来上がっていた。
お互いの《何故?》が解けるのは、まだいつになるのかわからない。
厳しいリハビリをし、歩けるようになった──日常生活に支障を来すほどではなくなった──アスナは退院してから何度となくお見舞いに足を運んでいるが、和人/キリトは未だ目を覚まさない。
いや、キリトだけではない。数百人程のSAOプレイヤーは未だに目を覚ましていないとあの役人は言っていた。
当初はラグによる差異と思われていたが、三日経った時点でいくらなんでも遅すぎると気付いた。その考えは正しかった。
二ヶ月経った今でも目覚めないのだから。
世間では茅場晶彦がまだ何かをやっているのではないかという風潮が残っているが、アスナは恐らくそれはないと踏んでいる。
最後に少しだけ話した《団長》は、全てのプレイヤーがログアウト済みだと言った。
彼がこれまでに嘘を言った試しはほとんどない。あの場で嘘を言う意味も無かったと思う。
何より、SAOが彼によってクリアされたことで……いや、あの世界を作り上げたことで彼の目的はある意味達成されているのだ。
これ以上SAOプレイヤーを縛ってまで何かを企む茅場晶彦、というものをアスナはイメージ出来なかった。
理由はもう一つあった。どちらかというと理由としてはこっちが強いかも知れない。
茅場晶彦は既に死んでいる。
これは非公開ながら例の役人から聞いている事実だった。
SAOがクリアされた時点で茅場晶彦の潜伏先がわかり、そこに警察が駆けつけると超高出力で大脳をスキャンし、脳を焼き切って死亡している茅場晶彦と彼に脅迫されて彼の世話をしていたという助手の女性が発見された。
彼の潜伏先は長野県。見つかった助手の女性も重要参考人として捕まっているが、望むなら話をさせてあげられると例の役人に言われ、アスナは迷ったあげくに助手の女性……神代凛子に会いにいった。
それが、一週間前のことである。
警察のカメラによる監視の元、アスナはその神代凛子とガラス張り越しに会話をした。
「……貴方には私を責める権利があるわ」
開口一番、彼女はそう言った。だが、アスナには責める気持ちはなかった。ただ、話を聞きたいだけだ。
しかし、残念なことに彼女も目を覚まさない数百人の事についてはわからないとのこと。ただ、彼の仕業ではないだろうと凛子は語る。
アスナはそれを信じた。彼女の茅場晶彦を語る時の瞳が、自分のキリトを語る時にものに似ている気がしたのだ。
脅迫されていた、という点について彼女は俯いた。つまりはそういうことなのだ。現況証拠があるとアスナは聞いているが、凛子はそこだけ語らない。
それだけで、アスナは彼女の心境を何となく悟ってしまった。自分にも、似たような思いがあるから。
代わりに、何故茅場晶彦はこんなことをしたのか、彼がどんな人間だったのかをアスナは聞いた。
「あのギガロマニアックスは夢を夢で終わらせたくなかったのよ、きっと」
「ギガロ、マニアックス?」
アスナが首を傾げる。
何かの専門用語だろうか。
「ああ、ごめんなさい。ただの当てつけ、あだ名よ。昔ちょっと人気のあったゲームにね、そう呼ばれる人達がいたの」
「その人達はどんな人なんですか?」
「笑っちゃうわ、妄想を現実にできる能力者っていう設定なのよ」
「え」
「しかも科学的に、とかね。本当、真面目に考える分にはくだらないことよ。でも……彼にはそれが出来てしまった」
「フルダイブシステム……」
「ええ、仮想世界では何でも思いのままよ。本当にあの人は妄想を立体化させる事に成功してしまった。だから皮肉も込めてギガロマニアックス、なんてあだ名を彼につけたりしてたの」
アスナは思い出す。彼の最後の言葉を。
アインクラッドが、何処かに実在していると信じているという彼の言葉を。
それに、どれほど強い思いが込められているのか知る術はアスナには無い。
彼にとても近かった筈のガラス越しにいる彼女ですら、恐らくそれを正確には掴めなかったのだろう。
「そのギガロマニアックスは相手の思考、考えていることを読めるから、主人公の男の子は自分のことを《最低の覗き野郎》なんて言ったりするんだけど、まさに彼もそれでね」
「どういうことですか?」
「なんでもかんでも必要だと思ったらデータを取るの。その為にあちこちにカメラを仕掛けたりしたことがあってね。この《覗き野郎》! って怒ってやったことがあったわ」
少しだけ楽しそうにクスクスと凛子は笑う。
思い出すように、懐かしむように、僅かに瞳を潤ませながら。
そういえば、彼はキリトとの戦いでその事について少しだけ触れていたような、とアスナは思い出す。
『ふむ……私にそれを言うのは君で二人目だ』とは恐らく彼女のことだったのだろう。
「あの人には変な……いやらしい目的がない分だけ質が悪かったわ。勝手に見るのはダメって言ったら「仕方ない人だなあ、聞くだけにする」とか言い出してね」
「あ、そういえばSAOの中に《覗き見》をする為のアイテムがありましたよ」
話は、途中から彼女の身の上話になっていた。
あの時はこうだった、ああだった。彼はそういえば……。
そういえば別の人にしつこく求愛されたこともあった、と彼女は苦笑したりもした。
しかしさほどそれを不快だとアスナは思わなかった。彼女の気持ちは、よくわかるから。
あっと言う間に面会可能時間は終了した。
実りが無かったわけではないが、キリトの覚醒については前進出来なかった。
それがアスナには少しだけ残念だった。それを凛子も察したのか、最後に「何かあったら、力になる。それがせめてもの罪滅ぼしだから」と言って面会室から連れて行かれた。
その後ろ姿を見て、何故かアスナには彼女とはまた会うだろうという予感があった。
だから、アスナは誰もいなくなったガラス越しの向こうに、深く頭を下げた。
アスナは手早く着替えを済ませる。
この着替えという行い自体を少しだけ億劫だと思ってしまうのは二年もの仮想世界生活による弊害だろうか。
筋力が一時衰えすぎて、着替えにすら苦労したせいもあるが、なんでもボタン一つで済ませてしまえた便利さは未だ抜けきっていない。
いつか思ったことだが、二年という生活は人の生活リズムを狂わせるには十分な時間だ。
そしてその時の予想通り、かつての自分の生活リズム……サイクルをなんら疑問無くアスナはこなせなくなっていた。
「……また出かける気なの?」
「……うん」
母親がやや咎めるようにアスナ声をかけた。
本当は見つかる前に出かけてしまいたかったのだが、見つかってしまったのなら仕方がない。
母親はアスナが外出するのに余りいい顔をしなかった。それは、まだアスナの体調を心配しているのもあるが……、
「ただでさえ貴方は二年ものビハインドを背負ってしまったのよ? 一切出かけるなとは言わないけどそれを取り戻そうと思ったら──」
「菊岡さんが言ってたでしょ。春から被害者達の為の学校を突貫工事で用意しているからそこに通ってもらいますって」
「そんなの待っている数ヶ月が勿体ないとは思わないの? 今から塾や家庭教師を付ければ春からはそんな怪しい学校じゃなくお母さんの知り合いの教授がいる大学附属高校に編入させることだって……」
アスナは聞きたくなかった。良い学校に行って、良い成績を取って、良い企業に就職して、良い将来を掴む。
エリート街道、とでも言うのだろうか。それはアスナがSAOに囚われる前から親に用意され続けたものでもあり、遠くないうちに破綻の予感があったものでもあった。
そこに、明日奈/アスナは当時から意味を見いだせなくなってきていた。ただ言われるままに面白くもやりたくもない事を続けて望まれるままに進む毎日。
あの時は決して変えることは出来ないんだろうという諦めと「そういうものなんだ」と言い聞かせていた自分。
でも今は、言われるまま望まれるままなだけの先へ進みたくなかった。進むなら、《彼》と共に歩める未来を選びたかった。
でも今まで言われたことに反論したことの無かった自分。それだけ期待されているんだという気持ちが、中々「嫌」と言えずにこの歳まで来てしまった自分。
それを、今すぐ変えろと言われても中々「はいわかりました」と出来ることではない。SAOでボスと戦う時とは全く別種の、異なる勇気が必要になる。
その勇気を持ちたいと思う。自分の思いを貫きたいと思う。だというのに、
「……」
「……まぁいいわ。今後外出は控えなさい。あとせめて家庭学習は行いなさい、お母さんが用意しておくから。それをやってみて学校の事はよく考えておきなさい」
「……はい」
「それと、今日は早く帰ってくるのよ。お父さんと、須郷さんを交えて食事にするそうだから」
「……」
「返事をちゃんとなさい」
「……」
「……全く、目を覚ましてから貴方って子は」
出来ることは肯定と、沈黙だけ。
沈黙できるだけでも成長はしているのかもしれない。でも、その程度の成長では、足りない。
望む未来は、手から零れてしまう。
(キリト君……)
アスナは、心の中で彼の名前を呼んで、今度こそ家を後にした。
***
私はお兄ちゃんの病室にあるパイプイスに腰掛けて、未だ目覚めぬその顔を眺めていた。
穏やかに眠り続けるお兄ちゃんの身体は二年の月日で一層痩せ細っていた。もともと肉付きが良い方じゃなかったそれは、最近特に酷い。
それに加えて頭がナーヴギアで固定されてしまっているせいで髪も伸び放題だ。見えている部分はある程度散髪可能だけど、ほとんど伸びるに任せている。
その姿はまるで痩せ細った女性のようだ。肌も日に当たっていないせいか陶器のように白い。
そんな姿を見て、お母さんはうちの「眠り姫」なんて呼んでいたりもする。
しかし、肉が落ちて身体に皺が寄り始めているお兄ちゃんを見る度に、私は胸が苦しくなった。
このまま目覚めなかったら、お兄ちゃんの寿命はあとどれぐらいなのだろう。こんな生命維持措置を続けても、その時間がさほど多くないことは身体を見れば一目瞭然だった。
今お兄ちゃんは何処にいて、何を思っているのだろう。そんな自分のことを、正しく理解しているのだろうか。
お兄ちゃんがソードアート・オンラインの中でもトッププレイヤーに位置すると予測される、と最初に聞いた時は少しだけ希望が見えた気がした。
頑張って、と応援していた。でも、いざゲームクリアになってもお兄ちゃんが目覚めない。
あんまりだ。やっと、やっとまた会えると思っていたのに。
謝りたいのに。昔みたいな関係に戻りたいのに。伝えたいのに。私はもう私達の《関係》を知っているんだよって。
眠っているお兄ちゃんは等間隔に呼吸を繰り返すだけだ。この二年、ずっと見続けてきてそれが変わったことなんてほとんどない。
その吐息は弱々しくて、今にも消えてしまいそうだったから、いつからか耳を近づけて弱い吐息の声を聞くのが癖になっていた。
最初はドキドキしていた。そのうち、タイミング悪く目を覚まして「スグ? 何やってるの?」なんて耳元で言われたらどうしようって。
でも今日に至るまでお兄ちゃんからその言葉が発せられることは無かった。
慣れてきた私はお兄ちゃんの顔を近くで見るようになった。目を覚まされたら仰天されるな……なんて思いながらほとんどくっつくような距離でお兄ちゃんを観察する。
閉じられた瞼は開かない。時折ぴくぴくって動くけど、開かれることはない。ふうって息を吹きかけても、望んだような反応はほとんど返って来なかった。
代わりに、小さく弱々しい吐息が私の頬を撫でる。小さくふぅ、ふぅ、と吹きかけられるそれが、まだお兄ちゃんがこの世界に存在することの唯一の実感だった。
そんなことをしているうちに、その吐息が唇にかかってしまったことがあった。流石にこの時は慌てた。
心臓がバクバクと鳴り響いて病室の端まで一気に跳ね飛んだほどだった。
でも、お兄ちゃんは起きない。その日は、吹きかけられた唇を指で撫でているうちに一日が終わってしまった。
それから私はお見舞いに来るたびにお兄ちゃんの弱々しい吐息を唇で受けるようになった。
大胆、と言えばそうかもしれないけど、どちらかというと《慣れ》だった。何度かやっているうちに、その距離に《慣れて》しまう。
慣れると、お兄ちゃんが生きているって実感が薄くなってしまうような気がして。だから、とうとうあの日、私は初めて近づけるだけだった唇を、お兄ちゃんのそれに重ねた。
同時に。
扉が開かれて、私の知らない女性が唖然とした様子でこちらを見ていた。
慌てる、なんてものじゃなかった。それまでの若干熱に浮かされたような頭は一瞬で冷水を浴びせかけられたかのように冷え切り、唇をごしごしと袖口で拭いた。
その女性は《結城》と名乗った。ソードアート・オンラインのプレイヤーだと。
ゲームはお兄ちゃんによってクリアされ、目覚めるはずだと。それ聞いて、私は不覚にも《まだ目覚めなくて良かった》と思ってしまった。
キスした瞬間に目を覚まされていたらそれこそ言い訳出来ない。お母さんがお兄ちゃんを「眠り姫」なんて言っているけど、それをキスで起こしたら私は王子様じゃないか。
それってなんかおかしい。普通は逆だよ。そんなことを思っていたから、バチが当たったのかもしれない。
何千人というプレイヤーが目覚める中、お兄ちゃんは何故か目覚めなかった。
あの時、私が《まだ目覚めなくて良かった》なんて思ったから、お兄ちゃんは眠ったままなのかもしれない。
あんなこと、思わなければ良かった。あんなこと、しなければ良かった。
それから、結城さんは定期的にお兄ちゃんに会いにきた。
お兄ちゃんとはゲームの中で知り合って、最後は一緒だったらしい。
けど、お互い今まで面識は無かったから、気まずかった。キスしているところを見られたせいもあるかもしれない。
でも、どうしても聞きたいことがあって、それだけは聞くことが出来た。
「お兄ちゃん、私のこと何て言っていました?」
結城さんは不思議そうな顔をしながら申し訳なさそうに話してくれた。
あまり詳しくは聞いていないけど、と前置きしてから、本当に短い世間話のような会話の中で聞いたという内容を教えてくれた。
最初に会った時、結城さんは脱力したように床に伏せてしまった。私は慌ててかけよって「大丈夫ですか!?」と声をかけた。
結城さんは目が虚ろで、身体は信じられないほど痩せていた。でも、長い栗色の髪は美しくて、お兄ちゃんに負けないような綺麗な肌は、本物の妖精のようだった。
私の目から見てリアルで妖精のように見える、なんて相当だと思う。《本物に近い妖精》を日々見ている身としてそう思う。
でも、この人は誰だろう? とすぐに疑問が湧いた。と言ってもここに来る人なんて理由は大抵二つだ。
お見舞いか、健診か。後者は彼女の様子からありえない。だとすると前者ということになる。
「お兄ちゃんの知り合い、ですか……?」
私の問いに、彼女の瞳が真っ直ぐ私を捉えた。その目は先程までの虚ろさが消えて、強い意志力を宿しているように見えた。
けど、すぐに彼女は悩むような顔をして、小さく呟いたのだ。
「スグ……さん?」
「っ!?」
スグ、という呼び名はお兄ちゃんが私を呼ぶものだ。どうしてこの人がそれを。
私の驚愕する顔に、それで得心が言ったのか、その女性は「私は結城と言います。SAOプレイヤーでした」と自己紹介をした。
そこでゲームがクリアされたこと。目覚めたこと、最後の時にお兄ちゃんと一緒にいたことを聞いた。
一つ一つの話が興味深かったが、最初に「スグ」と呼ばれたことが一番気になっていた。
お兄ちゃんが私の話をしたのなら、それはどんなものだったのだろう、と。
だから再びお見舞いに来た結城さんに、気まずい中勇気を出してそれだけは聞いたのだ。
結城さんの前言通り、たいした話ではなかった。でも、お兄ちゃんが私と距離があるようには見えなかったという言葉が、私に少なくない衝撃をもたらした。
お兄ちゃんは別に私を嫌いじゃないのかもしれない。そう思うだけで、信じられない程心が軽くなった。
でも結局はそれで私は勇気を全て振り絞ってしまった。次に浮かぶ疑問を、結城さんに尋ねることができない。
お兄ちゃんとはどんな関係だったんですか。
今一番気になるそれを、私は聞けないでいた。
でも、何となく予想はついていた。こんな綺麗な人が……という気持ちはあるけれど、足繁くお兄ちゃんのお見舞いに来るこの人は、きっとお兄ちゃんとはそれなりに深い関係だったに違いない。
そう思うと余計に気まずくなった。苦手、と形容してもいいかもしれない。心の整理が付きそうになかった。
聞いてしまえば、私はもうここに居られない気がして恐かった。
だから、お兄ちゃんには早く目覚めて欲しいと思う一方で、起きた時にわかる事実に怯えてもいた。
結城さんは悪い人ではない、とは思う。それは間違いない。よく話をしようともしてくれるし。
でも、その話を聞いてお兄ちゃんと結城さんの関係がハッキリしてしまったらと思うと恐くて、あまり聞けないでいた。
(お兄ちゃん……)
眠っているお兄ちゃんの手を掴む。握り返されないそれは、不安しか与えてくれなかった。
***
明日奈/アスナは、世田谷区の実家から彼の入院している病院……千代田区への道すがら今日の会話の方針を考えていた。
直葉とは未だあまり会話が弾まない。それも仕方のないことかもしれないが、もう少し彼の事を聞きたかった。
避けられている、という思いも少しはある。だから無理強いする気は無いし、多分自分にも僅かばかり苦手意識がある。
キスしていた、という事実がアスナの中ではぐるぐると回っていて、その意図を考えずにはいられない。
直葉と会う確率は今のところ三割から四割程度だった。自分も流石に毎日通っているわけではないが、彼女もそうなのだろうとアタリをつける。
そう言えば彼女には学校も部活もあるのだろうし。
全国大会に出場するような選手なら、部活動も半端ではあるまい……などと考えているうちに病室の前までやってくる。
ノックをして入室すると、そこには直葉が既にいた。お互い軽く頭を下げて視線のみで挨拶する。
どうやって話そうか考えていても、結局最初の一言すら口から出てこない。挨拶程度なら問題ないが、会話を発展させられるほど、言葉はいつも続かなかった。
加えて、
「あ、じゃあ私花瓶の水替えてきますので、ここどうぞ」
直葉が立ち上がる。
直葉に限ったことではないが、つい気まずさから二人でいるのを避けようとしてしまう。
この病室では、特に。
ごめんなさい、いえいえ、という簡単な社交辞令を交わし合って、アスナは直葉が座っていたパイプイスへと座る。
直葉はぺこりと頭を再び軽く下げてから花瓶を取り、病室の出入り口へと足を向けた。
明日奈はそのまま滑るようにキリトの手を両手で掴み、額に当てた。
(キリト君……)
全身全霊をかけるような、祈り。彼の掌から伝わる幼い微熱はかつてアインクラッドで感じた物とはどこか違っていた。
まだ、アスナは本当の意味での彼、和人/キリトを知らない。知りたいと思う。教えて欲しいと思う。
同時に、自分を知って欲しいと思う。だから、今はただ、どうか目を覚ましてくださいと祈ることしか出来ない。
その姿を、直葉は見ていた。見てしまった。
本当は、見るつもりなんて無かった。見たくなんて無かった。
一瞬の気の迷い。扉を後ろ手で閉めなかったそれだけのこと。戸の隙間から、神々しささえ感じる彼女の真剣さが、直葉の目に焼き付いた。
まるで、壊れ物を扱うような手つき。それでいて自分の命よりも大切に扱うかのように優しく丁寧に、心を込めて包み込まれたキリトの手。
それだけで、直葉は彼女が兄をどれだけ大事に思っているか感じてしまった。
今日この日までに、一度だって自分があのような表情をしていることが果たしてあっただろうか。
ただただ相手を案ずるだけのその一途な思い。最近の自分は特に、半分以上己の為のようなものではなかったか。
水の入れ替えなどすぐに済む。でも、ぐるぐる巡る思考が、すぐにあの部屋に戻る気にはさせてくれなかった。
三十分ほど時間を空けて直葉が戻ると、アスナは最後に見た時の姿から微動だにしていなかった。
延々と彼の手を両の手で包み込んで己の額に当て、祈るような体勢で動かない。
その様は、思わず息を呑んでしまうほど綺麗だった。元々美しい人だという思いはあった。
だが、見た目だけではない……この部屋の空気がただそれだけで神聖化されたかのような錯覚を覚える。
そう思うと、直葉は自分が酷く汚れた存在だと感じてしまった。
と、アスナはゆっくりと顔を上げる。どうやら直葉が部屋に入ってきたことには気付いていたようだった。
酷く居心地が悪い。直葉にとってアスナは嫌い、というより自分がどんどん嫌な人間に思えてしまってしかたがなくなる比較対象になりつつあった。
彼女に比べたら自分なんて……と思い消沈する。苦手意識、ともちょっと外れた奇妙な相手と言えた。
「あの……今日は私帰りますね」
だから、ここからさっさと立ち去ろうと思いそう言ってしまったのだが。
それがまさか失策だったとは直葉は思わなかった。
「あ、それなら駅まで一緒に帰ろう? 私も今日は早く戻らないといけないから」
え、と思うがもう遅い。
彼女は腰を上げてしまったし、今更やっぱりここに残るとも言いにくい。
普段なら一時間以上はいるのが常だったから、まさかこんなことになるとは思っていなかった。
病院を出て、並んで歩く。
思えば、病室以外でアスナと直葉は一緒にいたことがなかった。
気まずい、というのがやはり一番の理由だが、外で一緒にいる機会がこれまで無かった、というのが実際のところだ。
いや、機会を作らないようにしていた、というべきか。
それはお互いに同じで、直葉は何か話さなくちゃと思いつつも口を開けず、アスナも誘っておきながら話題があるわけではなかった。
いや、話題ならある。ただそれを話題にして話すのが果てしなく難しいだけだ。
「ひったくりだ!」
そんな時だ。
一際大きい声が上がり、こちらに走ってくる男性がいた。
片手に鞄を掴んだ男は先の声が確かならひったくり犯なのだろう。
その顔には焦りと、同時に「やってやった」という快楽が垣間見えていた。
愉快犯、という言葉が一瞬直葉の脳裏に浮かんだ。
だが、考えていられたのは文字通り一瞬だった。アスナがこちらに向かってくる男に向かって駆けだしてしまったのだ。
直葉は一拍おいてから我に返って慌てた。危険だ、危険すぎる。
だがアスナは臆することなく、道脇に立ててあるノボリ旗を素早く引き抜いて男に突進する。
危ない! と思ったその時、アスナは驚くべきスピードで剣道で言う《突き》を放った。
速い! と直葉が感嘆するほど見事なそれは正確に男に命中し、男に尻餅を尽かせる。
「げほっげほっ! て、てめぇこのアマ……!」
逆上した男はナイフを取り出した。ざわ……と周囲にも驚きが広がる。
刃渡りおよそ二十センチ。ナイフというより包丁だ。
しかし凛とした空気を纏うアスナに、恐怖は微塵もないようだった。
それどころか彼女は一息に距離を詰めた。
「こ、このっ……!」
無茶苦茶に振り回されるナイフ。アスナはそのナイフを正確にノボリ旗の《棒》で突いた。
カァンと音を立ててナイフが吹き飛ぶ。見事な《小手》のようだとも直葉には見えた。
男はポカン、とアスナを見つめ、次いで自分のナイフを掴んでいた筈の手を見、悲鳴を上げて逃げ出した。
それを確認してから、アスナはビュッと斜め下にノボリ旗を一振りすると自らの腰の横に突き刺すようにノボリ旗を振るい、固まる。
まるで武士が腰の鞘に納刀するようなその動きは滑らかだったが、やってしまった、とアスナは硬直の後にいそいそと旗を元の位置に戻した。
強い、と直葉は直感する。剣道をやっている直葉だからこそ思うことがあり、全国大会出場を果たしている彼女でさえその強さに戦慄を覚えた。
「お強いんですね」
あれほど出てこなかった最初の一言が、自然に飛び出る。
口に出してから、自分で驚いてしまうほどだった。
「そうでも、ないよ。大分鈍ってるし」
「私剣道やってますけど、今の《突き》はちょっと捌ける自信が無いです」
「大げさだよ、それに」
「……?」
「キリト君は、私なんかよりもっと強かったよ」
キリト、と言う名前は度々聞いたことがある。兄である桐ヶ谷和人のプレイヤーネーム。
だが驚愕すべきは今の彼女よりももっと強いという言葉。
ある筋から《強かった》と聞いたことはあったが、これまでいまいちイメージが追いついていなかった。
「お兄ちゃんってそんなに強かったんですか?」
「うん。一度だけデュエルしたことがあったけど、全然ダメ。相手にならなかった」
「へえ」
それは信じられないことであると同時に、嬉しかった。
兄である和人は剣道を辞めてしまって久しい。
その兄が強いというのは、直葉にとって何故か自分のことのように嬉しかった。
同時に、これほど気楽に兄の話が出来たことに軽い驚きを覚える。
これなら……今なら……いろいろ話せるかもしれない。そう思った時だった。
「あ」
ケータイが振動する。その意味をすぐに悟った。
《もうそんな時間》だったっけ、とこれ以上長居できないことに心残りさえ覚える。
「すいません結城さん、私、これから予定があるんでちょっと急ぎますね」
「あ、うん。なんかごめんね?」
「いいえ、今度は……もう少しいろいろお話しましょう」
「うん、そうだね。楽しみにしてるよ」
「はい。それでは」
やや名残惜しみながら、直葉は駆けだした。
鍛えているだけあってそのスピードは速い。
走りながら、ケータイを操作する。画面には直葉の予想通り、
【《綾野珪子ちゃん》と約束の時間だよ~】
という自分で設定しておいたスケジュールメッセージが立ち上がっていた。
帰宅したアスナは、ベッドに腰掛けて「ふぅ」と溜息をついた。
その息は重い。原因は机の上にあった。
「家庭学習用意するって……なにもこんなすぐにしなくたって……」
既にアスナの勉強机には五センチほどの参考書の類が積み上がっていた。
見覚えの無いそれはもちろん出かける前には無かった物で、それの意味するところは明らかだった。
せっかく、家に帰ってくるまでは少しだけ明るい気分でいられたのに、台無しだ。
彼の妹だという直葉と、初めてうち解けられそうな空気が出来た。きっと、これからは会えば前よりは楽しい時間を過ごせるだろう。
それが嬉しかったのに、自分の部屋では嫌な現実を目の当たりにさせられる。
自分の家、自分の部屋なのに、どうも落ち着かない。胸の中は暗鬱としていて、霧が晴れないかのようだった。
だが、やらなければやらないで何を言われるかわからない。それを突っぱねられるだけの気力と勇気も、今のアスナには無かった。
アスナは渋々ながらその参考書を手にとって眺めてみる。
これから、どうせ嫌な時間を過ごすのだ。《あの男》が来て一緒に食事をしなくてはならない。
その苦痛に比べれば、参考書でも相手にしていた方がまだ気も紛れるというものだ。
ある程度手を付けて、適当な所で「今途中だから」とでも言って抜け出そう。そう思っていた時、アスナのケータイが鳴った。
「メール……?」
今自分に連絡を取ってくる者は非常に少ない。
もともと少なかったが、二年という月日は家族以外のそれをほぼ無くしてしまっていた。
かといって家族からも多いわけではない。あの母親でさえ余程緊急でもないと連絡はしてこない。
帰ってきたら直接話すのが常だった。
どうせなら今日の食事が中止になりました、とかの連絡なら良いのに、と思いながらアスナがケータイを見ると、そこには意外な名前があった。
「エギルさん……?」
相手はアインクラッドで知り合ったエギルだった。
本名はアンドリュー・ギルバート・ミルズ。彼とはリハビリ中に偶然再会を果たしていた。
アバター容姿がほとんど現実と同じになってしまったソードアート・オンラインにおいて、顔見知りなら会っただけで相手を特定するのは難しくなかった。
彼は偶然にも同じ病院で入院していた。総務省SAO事件対策本部の役人に言わせると、家族の意向を聞きながら望む病院に出来るだけ固めるようにして被害者は運ばれていたと言う。
実際、リハビリ中は面識は無くとも、同じSAO被害者の人達とは数人顔を合わせた。
その時に、これも何かの縁だとエギルとは連絡先を交換していたのだが、実際に連絡が来たのはこれが初めてだった。
メールには画像ファイルが添付されていた。エギルは本文に「これをどう思う?」と短く簡潔にしか述べていない。
アスナは訝しがりながらメールに添付された画像ファイルを開く。酷く粗い。
「女、の子……?」
画像は粗く、所々ポリゴンがボケている。ただでさえ小さい画像を無理矢理引き延ばしたのか、それとももともと粗い画像だったのか。
画像の意味は良くわからないが、籠のような中に、一人のむすっとした女の子……と思われる存在が映っている写真がいくつかあった。
背は低めで、髪は黒で頭頂部から肩甲骨あたりまでと比較的長く、肌は粗い画像の中でも映える程に白い。
清楚ととれなくもない整った顔立ちだが、むすっとした表情が綺麗な紅い唇を歪め、やや男の子みたいに頬杖を拳で付いているのがバランスを崩している。
これではまるで誰かさんの膨れっ面のよう……???
「え」
気付く。いや、わかる。
自分が《この表情》を見間違えるわけがない。
数限りなく見てきた《彼》のこの不服そうな、面白くないと身体全体から発せられるオーラ。
それを、アスナは何度も見てきたのだ。《彼》と心を通わせられるようになってからこの表情を見る機会はめっきり減ったが、一番慣れ親しんだ顔とも言える。
その顔を、見間違えるわけがなかった。
「このむすっとした顔……間違いなくキリト君だ!」
むすっとした顔にはちょっとした定評のある彼のこの顔を、アスナは良く覚えている。
彼を想ってから、何度も見てきた顔、表情なのだ。
その彼の表情を見極めるのに、アスナはちょっとした自信があるくらいだった。
膨れ顔とはいえ、久しぶりに彼の《生きた表情》を見られたことにアスナは嬉しく……、
「ってあれ?」
嬉しく……、
「なんでキリト君女の子になってるのおおおおおおお!?」
嬉しさを通り越して、そこが何処だとか、なんでこんな写真が、と悩むより、彼のあまりに可愛らしい容姿につい突っ込んでしまっていた。