直葉が《彼女》と知り合ったのはほんの一月ほど前、年の瀬が迫る十二月の中頃だった。
SAOがゲームクリアになってからも、兄が目覚めない。それに気落ちしていた直葉は、SAOでは兄がどんな存在だったのか気になっていた。
周りからはどんな風に思われ、どう過ごしていたのか。その世界とは、どんなものなのか。
聞こうと思えば答えてくれそうな人が身近に一人はいた。でも今日までその人とは何処か気まずくて上手く話せないでいた。
だから直葉は、インターネットサイトのSAO帰還者を祝うウェブサイトに頻繁にアクセスしていた。
そこは通称SAO生還者(サバイバー)と呼ばれるSAO被害者はもちろん、彼らの家族の書き込みがたくさんある大型サイトとなっていた。
もともとは、被害者の家族達が互いを慰め合ったり情報交換を目的とした掲示板が発展していったもので、一部では互助団体として活動している人達もいた。
頻度は多くないが、直葉も全国で誰かがSAOから帰ってきたという人がいないかチェックするのに度々このサイトを利用していた。
だが二ヶ月前にゲームクリアが為された今、このサイトは大きく三つのグループに分かれつつあった。
一つ目は戻ってきた人達を祝うグループ。これは純粋に「おめでとう」「やっとか」など部外者が多く集う場所だ。
時折生還者がレスを返すとお祭り騒ぎになるが、“語り”なこともあって、荒れる傾向が強い場所でもあった。
二つ目は戻ってきた人達同士で語り合う場所だ。戻ってきた人達がゲーム内で知り合った人と言葉を交わすのが主な目的になっていて、書き込み内容は探し人から雑談まで幅広い。
そのほとんどが生還者による書き込みなだけあって、一般人にはよくわからない話も多く、生還者以外が書き込んではいけないわけではないがよっぽどのことが無い限り一般人は書き込まないのが暗黙のマナーになっている。
三つ目が、未だ目を覚まさないプレイヤーに対しての情報交換をする場だった。誠しなやかな憶測が飛び交う場でもあるが、励まし合いや今分かっていること、新しい情報などが有志によって書き込まれていて、サイトが立ち上がった時の最初の流れを汲んでいる場所でもある。
SAOがクリアされても兄が目覚めず、三日が過ぎてから、直葉はそれまで時々しか確認していなかったこのサイトの三つ目を頻繁にチェックしていた。
ゲームはクリアされたのだ。それならいつ起きたっておかしくない。そう思って見ていたのだが、あれから新規に目覚めたという《本当の報告》はない。
中には嘘の生還者報告をするものもいるが、大抵はすぐに嘘だとわかる。言葉の端々からそれが伝わってくるのだ。
それに総務省のホームページにはSAO事件対策本部の特設サイトがあって、現在何人のプレイヤーが生存していて、何人目覚め、何人が目覚めていないかのカウンタ表示があった。
きちんとログも詳しく保存されていて、何時何分に数字が変動したのかはわかるような仕様になっている。
それと照らし合わせれば、内容の真偽はすぐにわかる。つまりそれらを見て、日々被害者の家族は溜息を漏らしているわけだ。
直葉はここで一つのトピックを出してみていた。トピックに【兄がまだ目覚めません。どなたかSAOのことを教えてください】と書き込み、レス内容とプロフィール情報をチェックしていた。
このサイトの閲覧は誰でもできるが、書き込みは完全会員登録制になっていて、セキュリティもそこそこしっかりしている。
簡易的なプロフィール情報は登録者同士なら見ることができ、相手が公序良俗に反しているだとか、マナー違反等をしていると運営に報告、事実確認ののち永久BANされる。
嘘のプロフィール情報を作る者もいるので一概に信じるのは危険だが、見つかれば永久BANな上、本当に人の命がかかっているサイトなだけあって、ちょっとした“語り”以上の悪質なイタズラは今のところ報告されていない。
直葉はそこでSAOから生還した自分と同年代くらいの女性がいないか探していた。同年代の女性、としたのは単に話がしやすいかもと思ったからだ。
何人かが返信をくれていたが、信憑性が無さそうだったり、年齢が離れていたりで、話してみる気になれないものが多かった。
そんな中、一人同年代の女の子から「何を知りたいんですか」と短い書き込みが来ていた。
直葉は少し迷いながら、ポツリポツリと聞きたいことを書き、返事が来て、そんなやり取りを幾度かしているうちに少しずつ仲良くなった。
同年代、というのは本当だろうと直葉は確信する。そう確信してからはボイスチャットをお互い使うようになった。
それが、さらに二人の仲を爆発的なまでに縮めるきっかけになった。何気なく直葉が聞いた、強いプレイヤーについて、つい彼女は「キリトさん」という名前を言ってしまったのだ。
すぐにしまった、と相手は思ったようだが、直葉の動揺は彼女以上だった。
そのプレイヤーのことを教えてほしい、と直葉は頼み込んだ。自分はキリトの妹なのだとリアルまで明かして話した。
しばらく彼女は悩み、いくつか質問をしてきた。驚いたことに、それはリアルでの知り合いくらいしか、もっと言えば近い人間、家族しか知らないはずのことばかりだった。
「貴方はスポーツ、格闘技などをしていますか?」
「剣道をしています」
「キリトさんは剣道をしていましたか?」
「はい、今はやめていますけど」
「キリトさんが剣道を止めたのは始めてから何年後のことですか?」
「二年です」
「……剣道を止めたことでキリトさんを怒ったのは……」
「祖父です」
「……あなたはキリトさんの、従妹ですか?」
「なんでそれを……!?」
彼女は主に中層プレイヤーだったと語っていた。
兄は上層プレイヤーだと聞いていたからそこまで親密な接点なんてそう無いと思っていたのに。
直葉は目に見えない相手に初めて少しだけ怖いと思ってしまった。
だが、相手の安堵したような声が、その不安を払拭させてくれた。
「疑ってごめんなさい。私もあなたの事を信じます。今のは全部、キリトさんから聞いていた話です。キリトさんは、私の命の恩人なんです」
そう言って、彼女は自身のプレイヤーネームとリアルネームまで明かしてきた。
信頼とお詫びの証として。
その彼女こそが綾野珪子であり、《シリカ》というプレイヤーネームの持ち主だった。
しかし彼女は「あれ? でも従妹ってことを妹さんは知らないはずじゃ……」と悩みだしたので、直葉はクスクス笑いながら自分の事や知っている理由を説明し始めた。
信頼に信頼で応えるために。自分のリアルも明かした。この子なら大丈夫だと、直葉の勘が告げていたのだ。
兄が囚われている間に、両親から本当の事を教えられたこと。兄ともっと仲良くしておけば良かったと思ったこと。
それを聞いた彼女は一言、「やっぱり兄妹なんですね」と意味深とも取れる言葉を直葉に返した。
その後、キリトがまだ目覚めていないことに珪子/シリカも心配を露わにしたが、今できることは祈る以外に無い。
お互いの立場と事情を深く理解してからは、二人は昔から親友だったかのようにもっと仲が良くなった。
直葉の存在は、別の観点からもシリカにとってターニングポイントであり、良い結果を生んでくれていた。
シリカの父親は電子機器メーカーに勤めていた。その父親の伝手でシリカは幼いながらナーヴギアを手に入れていたのだ。
だが、娘をSAOという最低最悪な世界に閉じ込めてしまったという後悔がシリカの父親にはあり、自分の仕事自体にも嫌悪を感じるようになっていた。
父のせいではない、とシリカは思う。だからそんなに自分を責めないでほしい。優しかったあの頃の父に戻ってほしい。
別に今が怖いとか厳しいというわけではない。でも、ナーヴギアを与えたことを呪い、あんなに楽しそうに電子機器について語っていた父がその話をしなくなるのはシリカにとっても辛かった。
だから、シリカは近いうちにもう一度別のVRゲームをしようと考えていた。もちろん安全性はきちんと調べた上でだ。
それで、父には気にすることなんてないのだと伝えたかった。そんな折だ、知り合ってすぐに仲良くなった直葉から、《アルヴヘイム・オンライン》というVRMMORPGの事を聞いたのは。
彼女のやっているそれならば、と思い、三日程悩んだシリカはそのゲームを始めてみることにした。
その勇気は、彼女にとって最高に嬉しい結果をもたらしてくれた。もう二度と会えることは無い、と思っていた彼女の《相棒》と、まさかの再会を果たせたのである。
初めてアルヴヘイム・オンラインの世界へログインした時、最初に聞き慣れた鳴き声が聴覚システムを刺激したのだ。
「え……?」
そこには、長年の苦楽を共にしたレアモンスターのフェザーリドラ、小さいドラゴン族の《ピナ》の姿があった。
ここはアインクラッドではない。そんなことはありえない。だが、シリカがピナを見間違える筈もなかった。
「ピ、ピナァァァァァァッ!」
喜びのあまりに、シリカはピナを抱きしめる。ピナはいつものようにくすぐったそうにしながらシリカの首筋に額を擦りつけてじゃれていた。
ひとしきり抱きしめた後は、ピナはここが自分の定位置とばかりにシリカの頭の上に座り込む。
その懐かしく慣れた重さはやはりピナのもので、一月ぶりのピナの質量はシリカにとってこれ以上無い幸せだった。
アルヴヘイム・オンライン……通称ALOはレベル制ではなくスキル制というタイプのゲームだ。
スキルの反復によってスキルレベルは上がるが、生命線であるHPはほとんど上昇しない。
レベルアップに伴う敏捷力等のアップも無いため、基本は自分自身のリアルスペックが問われる仕様となっていた。
九つある妖精種族から一つを選んでプレイするこのゲームの仕様で最もハードなのは多種族間ならPK、すなわちプレイヤーキルが可能と言う仕様だろう。
PK推奨と言っているようなものだ。これは種族間の争いになるようにも作られている。ある意味人の嫌な、汚い部分を露わにしたようなゲームだが、人気は爆発的増加傾向にあった。
それは、最大のメリットたる《飛行》を可能にしているからだろう。妖精というだけあって、どの種族もその背に羽が付いていた。
この羽を使い、一定時間なら空を自由に飛べる、というがこの作品の一番のセールスポイントだ。
モンスターのテイミングが得意という説明から猫妖精族(ケットシー)を選んだシリカは、初めてその羽で飛んだとき、楽しくてたまらなかった。
何より、「きゅい!」と鳴くSAO時代からの《相棒》の《ピナ》が並行して飛んでくれているのだから。
何故ソードアート・オンラインでテイムしたモンスターがそのままここにいるのかはわからない。スキルを見ても始めたばかりにしてはおかしい熟練度の物がいくつかあった。
だがその時は考えることを止めていた。せっかくピナと再会できたのだ。その喜びに酔いし入れていたかった。
今の状況にはきっと意味がある、とシリカは確信しながらも、その日はピナと一緒に飛び続けていた。
そんな彼女の、今後の方針が決まったのは、それから一週間後のことであった。
元々は父を安心させるため。そしてゲームでモンスターをテイム出来ると知ってからは《ピナ》のような相棒をまた作りたいという思いがあった。
だが、ゲーム開始直後に殆どの目的は達成されてしまった。ピナとは再会でき、ゲームを平然とやって「楽しかったよ」と父に告げたシリカは、父の涙を初めて見た。
当初目的を初回ログインでほぼ済ませてしまったシリカは、今後の目的について少し迷う。純粋にゲーム世界を楽しむのも悪くはないが、何か目的が欲しかった。
そんな時にこのゲームを教えてくれた直葉が《世界樹》について話してくれた。
このALOには中心に世界樹と呼ばれる大きな樹があり、そこを登り切れば《アルフ》と呼ばれる種族に転生させて貰うことができると。
このゲームでは、いくら飛べると言っても滞空時間が存在し、無限に跳び続けることは出来ない。しかし《アルフ》に転生すればその制限が無くなるのだ。
それがこのゲームをやっている人達の一つの目標、王道なゲームクリアの一つでもある。それを聞いたシリカは世界樹を攻略することに決めた。
《アルフ》に転生したい、とは強く思っていない。滞空制限の解除は確かに魅力的な話だが、シリカにはそこまで必要と感じる物では無かった。
では、何故世界樹攻略を思い立ったのか。この世界にまだいたいという思いはある。種族間の勢力争いには興味を惹かれなかったこともある。
だが一番シリカにそれを決意させたのはこのゲームで誰も達していない頂きが「それ」だという事実だった。
それは、SAOに囚われていた時の攻略に通ずるものがあると彼女は感じた。
いつかは、やがていつかは上層プレイヤーになりたいと腕を磨いた。攻略組に肩を並べたいと。
だが、シリカでは結局最前線に挑める力を付けられなかった。攻略の役には立てなかった。間に合わなかった。
それが、未だに少し彼女の心残りになっていた。
だから、シリカはこのゲームでその頂きを攻略したいと思ったのだ。あの時出来なかったことを今度こそ、と。
──本音を言えば、アインクラッドでキリトの役に立ちたかった……というのが一番ある。
だがあの世界は終わってしまった。いや、終わらせる事が出来た。
あの世界の事に囚われ続けることは、良くない事だとシリカは思っていた。
自分にとっても心配してくれた家族にとっても。
だからそれらを全て清算、断ち切る意味も込めて、シリカは未攻略目的を自分の手で、と決めたのだ。
その思いの全てを、シリカは直葉に話したわけでは無かった。
しかし直葉はシリカの世界樹攻略の決意に「自分も協力するよ」と言ってくれた。
その言葉が嬉しかった。彼女との付き合いは短くとも既に一番の友達と言えた。
だが、ではすぐにでもと思った矢先、直葉は自分の種族の街で少々やっかいごとに巻き込まれてしまい、すぐ旅立てなくなってしまった。
その為、世界樹近辺の街で待ち合わせをして、合流してから二人で攻略に向かおう、と約束していたのだった。
今日は、ようやくその直葉が自分の街を出る予定の日となっていた。
アスナは、母親が言っていた食事のことなど頭から放り投げてエギルに連絡を取った。
あの写真はどういうことなのかと聞きたくて仕方が無かった。
店に来られるか? という問いに二つ返事で答え、家を出ていく。
後で小言を言われるのは目に見えていたが、今はそんなことどうでも良かった。
生まれて初めて、まともな反抗になる行為をしたかもしれない。
それでも、アスナは行動を止める気にはなれなかった。
「どうしてこんなに可愛いキリト君が映ってるの!?」
「……聞くところはそこか?」
エギルは現実世界でもお店を経営していた。Dicey Cafe──ダイシー・カフェ──という昼間は喫茶店、夜はバーにその様相を変えるお店だ。
もっともその時間の境は少々曖昧であってないようなものだが。
二年の月日の間、彼の奥さんがその細腕でのれんを護り続けてきてくれていたという。
台東区御徒町のごみごみとした裏通りにある、煤けたような黒い木造のその店に現れたアスナの開口一番に放った言葉が、エギルを呆れさせる。
女の子はよくよく可愛いものに目が無いというが、このアスナもそうなのだろうか。
それ自体に悪いとは言わないが、今回のケースについては頷き難いものがあった。
とりあえず、重要なのはそこではない。エギルは今のアスナの言葉から一つだけ確信を得る。
「やっぱりこれはキリト、なのか?」
「私がキリト君のこの顔を見間違うことなんてそう無いと思う。可愛いなあ、もともと女顔みたいだったもんねキリト君。今度女装してもらおうかなあ」
「……すまんが真面目な話だ」
「わかってます」
「っ!?」
「これを、一体何処で? ううん───────────《何処の写真》なんですか?」
すぐにアスナは表情を引き締めた。その様変わりにエギルは肝を冷やす。
アスナのその顔は、まるでこれからボス攻略にでも向かうかのような、静謐な檻の中に燃えるような灼熱の感情を留めている顔だった。
アスナの眼光は全てを見逃すまいと釣り上がり、先程までのややとろけているかと見紛うような頬はシュッと鋭く整っている。
凛、としたその佇まいに、一瞬前の少女は既にどこにもいなかった。
《血盟騎士団》副団長、《閃光》のアスナ。狂戦士と謳われた程の彼女が、その《狂気》を放出する瞬間を今か今かと待ちかまえているかのようだ。
思わず、エギルはごくりと息を呑んだ。
見たことが無いわけではない。無いわけではないがあまりの切り替えの速さと、その圧倒的な《殺気》ともとれる彼女のオーラに、少しばかり怯んでしまった。
およそ、見た目通りの少女が発するようなものではないその混沌とした空気に、言葉が出ない。
彼女は業を煮やしたようにチラ、と視線で会話の続きを求める。
彼女は怒っているわけではない。だが睨み付けるのとは違う、刺すような眼力は、それだけでエギルの背中を冷たくした。
(とんでもないな、この子は……)
彼女の中でキリトという存在はそれほどの高い場所に位置するのか。
先程までの乙女的思考の表出など、他者の目を欺くカモフラージュに過ぎないのではないか。
そう思えてしまうほど、彼女の発する空気は重い。重力が増したかのような錯覚さえ起こり、店のグラスが張りつめた空気で割れるんじゃないかと心配になるほどに。
「エギルさん?」
ハッとする。
棘があるわけではない。ただの疑問符を含んだような声。
そこにはとろけたよう少女でも、形容できない凛とした少女でもない、ただの不思議そうな少女がいた。
一体どれほどの時間固まっていた? とふとエギルは気になるが、そのことについてこれ以上考えるのは止めた。
果てしなく長いようで、その実そうでもなかったような気もするが、実際の所はわからない。
わからないことは、いくら考えても無駄だと二年のSAO生活で学んだことだ。
だからエギルは苦笑すると一つ息を吐いて、「サービスだ」と店自慢の辛いジンジャーエールを出しながら自身が知り得た情報を彼女に話し出した。
「これを知ってるか?」
そう言ってエギルが差し出したのは一つのVRMMOゲームのパッケージだった。
深い森の中から満月を背景にファンタジックな少年と少女が剣を掲げて背中から生えた羽で翔んでいた。
アスナはそのイラスト、ゲームに見覚えがあった。
【ALfheim Online】
「アルヴヘイム・オンライン……」
「お、読めるのか。流石だな、俺は最初アルフヘイムかと思ったんだが」
エギルは少々意外そうに言うが、アスナにとってはさほど意外なことではない。単にこのゲームを知っていたというだけだ。
何も知らずにタイトルを見たなら、同じ反応をしていた可能性は十分にある。
ではアスナが何故このタイトルを知っていたのか。理由は至極簡単なものだった。
レクトプログレス。
アルヴヘイム・オンラインを販売、運営している国内最大手の総合電子機器メーカーの一つだ。
今日食事を一緒にする予定だった須郷という男などはここの重鎮の一人であり、システム権利者でもある。
そしてその須郷の上司がアスナの父親だった。もっと言えば、その会社はアスナの父の会社だった。
アスナの父はレクトプログレスのCEO──Chief Executive Officer(最高経営責任者)──なのだ。
父の会社でも人気が鰻登りのゲームタイトルを、アスナが知らないわけはなかった。
「フライト・エンジンが搭載されているっていうVRMMOね」
「知っているなら話が早い。この世界には世界樹っていうSAOでいう迷宮区みたいなものがある。迷宮みたいに百層ほども大きいわけではなく高難度な一つのダンジョン、という位置付けのようだが。まあこのゲームの最終目的の一つ、みたいなものだな」
「この写真はそこの?」
「ああ、何処の世界にも馬鹿なことを考える奴はいるもんでな。世界樹の攻略が難しいから外側を飛んで昇ったらどうだろうって奴等がいたらしい」
「でも確か滞空制限ってのがあるんじゃ?」
「よく知ってるな。その通りだ。だからそいつらは五人で多段式のロケットみたいに肩車して飛んで、飛べなくなったら飛べる奴が飛んで、ってリレーのように飛距離を稼いだんだそうだ」
「へぇ」
アスナは感心しながらも、前に聞いた一つの話を思いだしていた。
確かキリトはアインクラッドで外周を登れないかと試したことがあった、という。
結局はシステムに警告を受け、それに驚いて落ちてしまい、危うくHP全損の憂き目にあいかけたそうだが。
あと三秒転移結晶を使うのが遅かったら死んでいた、とあっけらかんと言う彼に、彼の傍には自分が絶対いなければダメだと思ったものだ。
その時は全財産をはたいて──たとえセルムブルグの自宅を売り払おうと悔いはない──回廊結晶を用意し彼を助けることも厭わない。
まあ実際には用意する暇が無かったらアウトなので最悪自分も一緒に飛び降りることになっていたかもしれないが。
いやいや、そんな危険なことをするなら準備は万全にしていくから一緒にいられればやっぱり大丈夫かもしれない。
いやいやいやいや。
「おーい、アスナ? 聞いてるか?」
「あ、ごめんなさい、続けて」
突如として何事か考え込み始めたアスナを訝しみながらエギルは続ける。
結局その五人目でも上には辿りつかなかったが、枝近くにはいけたので証拠映像として何枚も写真を撮った。
そこに、この金の鳥籠と、中にいる不機嫌そうな《女性キリト》が映っていたらしい、とのことだった。
「……」
「どう思う?」
「……まだ何とも言えないわ、でもこの写真に映っている人は間違いなくキリト君よ」
私が彼を見間違えるはずがない、とその瞳は力強く輝いていた。
自信たっぷりの彼女に、エギルは苦笑する。
何を根拠に、などとは言わない。疑ってもいない。この子には、そういう不思議なところがあるとわかっていた。
「ねぇ、申し訳ないけどこれもらってもいい? お金は今度払うから」
「いらないよ、持っていきな。それでもしキリトが眠りから覚めたら、あいつからその代金を含めた食事代でも請求してやるさ」
「……うん、わかった。ありがとう。あ、でもその時はちゃんと私が払うから」
「わかったわかった」
「それじゃ帰るね。家抜け出して来たから何言われるかわからないし」
「悪かったな、店まで呼んじまって」
「ううん、少しだけ希望が見えてきたし。逆に感謝してる」
「そうか……アスナ」
「うん?」
「キリトを、頼むぜ。あいつには借りを返さなきゃ、返しておかなきゃ気が済まないんだ」
「……うん」
一瞬、ほんの僅かに真面目な顔でエギルは呟く。
少々暗めの店内。アフリカ系アメリカ人のエギルは立っているだけでも威圧感がある。
顔も少々厳つい。だが、この時のエギルは自分の無力さ故なのか、少しだけ見た目に似合わず小さく見えた。
「そんな顔しないで。キリト君が見たら「似合わない」って言われちゃうよ」
「……へっ、その時はあいつの飲食代を二倍にしてやらあ」
アスナの言葉にエギルはニッと笑う。
強い子だ、とエギルは思い直した。この子の強さは儚い。
だが、その芯が定まればこれほど強いものはない。その芯とは、恐らく必ずキリトの存在がついてまわる。
この子はキリトが居る限り強くあれるだろう。その証拠に、話し始めた時の異様な空気はもう微塵も感じない。
彼女の中ではきっと予感があるのだ。キリトに繋がる何かがそこにあると。それが、彼女を支えている。
──だがもし。その支えがなくなってしまったら。
そこでエギルは考えるのを止める。
これ以上を考えるのは、自分の仕事ではない。
それを考えられるのも、考えてもいいのも、何とかできるのもあいつだけだ。
だから、早く戻ってこいよ馬鹿野郎……と思いつつ、エギルは店を出ていくアスナを見送った。
アスナが帰ってきたときには、やはり既に食事は終わっていた。
須郷は帰宅し、父親も所用で会社へ戻っていた。
必然、やはり母親がアスナを迎える。
「どういつもりなの? 言っておいたでしょう?」
「……ごめんなさい」
「ちゃんとわかっているの? 貴方が一度帰ってきたことはわかっているんですからね」
「……」
「いい加減になさい。お見舞い先から早く戻ったのなら、何故家にいなかったの?」
「……」
アスナは何も答えなかった。
経験上、何を言っても無駄なことはわかっていたし、誰かのせいにはしたくなかった。
「また黙る気? 貴方は目覚めてからそれが多くなったわね。本当、二年という月日があなたを世の中からどんどん突き放してしまっているということに自覚はあるの?」
「……」
「……そう、飽くまで話す気が無いならいいでしょう。私にも考えがありますからね。今後、勝手な外出は許しません!」
「……それは」
「何?」
「それは……許して。ごめんなさい、反省してる。でも、どうしても必要だったの」
「だったら何をしていたのか言いなさい。それを聞いた上で判断します」
「……」
「言えないのなら、話は終わりです。全く、今日は貴方の将来について大事な話もあったんだから」
「……」
「まあそれはまた、追々話します。とりあえず今日は家庭学習を済ませてしまいなさい」
「……はい」
アスナはトボトボと肩を落とすようにして部屋に戻る。
部屋に入ると、そのままベッドにボスッと飛び込んだ。
自身の長い栗色の髪が頬をくすぐる。あまりよくないとわかっていても、指先でぐるぐると巻いては伸ばしてみる。
サラリサラリと落ちるそれを見て、溜息を吐いた。
「キリト君は、私の髪を弄るの、好きだったのかなあ……」
時折、キリトはアスナの髪を優しく今のように弄っていた。
夜眠る時、ソファーに座って隣にいる時。
いつ、とは断定できないが、度々彼の手が髪先に延びる。
それをアスナは咎めることもなく、じっと見ていた。時には気付かないふりをして、時には気にしないふりをして。
キリトは視線が合うと気まずそうに触れるのを止めてしまうことが多いから、その行為が始まった時は極力気付かないふりをしていた。
今、その行為を自分でしてみても、何の感慨も浮かばない。
彼に弄られている時も、弄られてるなあ……という以上のものはそんなに無かった。
だが、今自分で弄ってみて、初めてわかる。その天と地ほどの差に。
彼がそこにいてくれていたという安心感。事実が、彼女を満たしていた。
それが無い今、その行為には何の価値もない。
アスナはチラリと机の上を見やる。まだ山積みになっている参考書。
だがすぐにどうでもいいと思考を切り替えた。視線を少し左にずらす。そこには、二年もの間頭に嵌め続けていた呪わしい機械が置いてあった。
父親に相談しようか、という思考は一瞬よぎったが、須郷という男のことを思いだして止めた。
あの男には極力関わりたくない。アスナは須郷が大嫌いだった。
父親に言えば、キリトに関して何かが見つかる可能性はあるかもしれない。だが、それには必ずあの男、須郷伸之がついて回る。
それは避けたかった。最悪、彼のことを知った須郷が、何かをしないとも限らない。
昔から野心家のあの男は、アスナもアスナの兄も嫌っていた。両親にはいつもいい顔をしているが、アスナ達兄妹には自身の利己的な性格を隠そうとしていなかった。
あの男は自分の出世のためならなんでもやる。そんな男だ。
それに彼が関係していると思うこれは、自分の第六感が告げているだけの、他者から見たら何の根拠も無いものだ。
だから、
「……悩む必要なんてない」
アスナはそう呟くと参考書などには目もくれずにその機械、《ナーヴギア》を手に取った。
彼への手がかりがこのゲームにあるというのなら、再びデスゲームに巻き込まれようと構わない。
自分自身の手で彼を取り戻す。例え《何を犠牲にしてでも》。自分の手で行わなければならないのだ。自分の手で行いたいのだ。
既に後継機のより安全でハイスペックな《アミュスフィア》というハードが発売されているが、今回はこれでいいとアスナは決意する。
彼との繋がりを作ってくれたこのナーヴギア。彼を取り戻すにはこれの方がいい気がした。
もっとも、今アミュスフィアを買う、なんて言ったら母親が何を言い出すかわからない、という懸念もあったが。
だが、この判断は正しかったと言える。それは、ゲームを始めてみてからすぐに思うことだった。
手早くパッケージを開封し、ナーヴギアのスロットに取り出したロムカードを挿入する。数秒で主インジケータが点滅から点灯へと変わった。
それを気負いなくアスナは被り、顎下の拘束具を閉めて、ベッドで横たわり目を瞑って呟く。
「リンク・スタート」
瞬間、アスナの視界は薄い明かりすら通さない暗闇へと誘い込まれる。
そこで、SAOログイン時にもあった各種接続テストが行われた。目、聴覚、触感など、一つ一つの感覚器をテストされOKのメッセージが浮かんでいく。
一通りのそれが終わると、ようやくアルヴヘイム・オンラインのロゴが現れ、少しだけ明るい世界になる。
と言ってもここもまだゲーム世界ですらない。単なる仮想アバター登録所、オプションのようなものだ。
最初にIDとパスワードを決める。本来ならここでゲームをするために課金が必要だが、パッケージ版は一か月の無料プレイ期間が同梱されている為、その必要は無かった。
次に機械的な女性のアナウンスが名前を決めてくださいとコンソールを目の前に呼び出す。
最初にアスナはためらいなく【ASUNA】と打ち込んで……手を止めた。
そういえば、と思い出す。後々知ったことだが、本名をプレイヤーネームにするのは珍しいらしい。
もっと言えば危険だし使わないのが普通なのだとか。SAOを始めるときにはそんな常識を知らなかったので本名で登録したが、う~んと彼女は迷い出す。
アスナはしばし迷い、念のためにと打ち込んだアルファベットを消して【ERIKA】──エリカ──と打ち直した。
特に深い意味は無い。なんとなく頭の中に出てきた女の子の名前を打ち込んだに過ぎない。
本名を使うべきではないという常識を知ったが故の行動だった。付け加えるなら、SAO世界の名前を今は使いたくなかった、というのもある。
あの名前、存在は、《彼》と共にあるべきだ。そういった願望が、彼女を動かした。
次にプレイヤーの容姿だが、これは基本ランダム生成されるようで、どうしても気に入らなければ課金して再作成をするしかないようだった。
ずるいやり方だ。もしあまりに変な容姿ならみんな変えるに決まっている。一定確率でそういうアバター容姿が出るようにしていれば、変更者は後を絶たないだろう。
運営は儲かっているだろうなあ、と思ってすぐにやめた。その運営は父の会社だ。悪く思うのはあまりよろしくない。
せめて可愛い姿になってほしいな、などと思いながら次の選択、どの妖精族になるか選択する。
妖精族は全部で九種類あり、それぞれメリットデメリットが存在する。
だが、アスナは元来こう言ったことに詳しくなかった。SAOが初めてまともに手を出したゲームだったのだ、しかもそれですら本来は自分のものではなく兄のものという始末。
SAOで培った経験と知識はあるが、最初に選ぶ種族でそこまで差がつくとは思えない。
「う~ん」
アスナは少し悩んだ。別に長くゲームをやるのが目的じゃないからなんでも良いはずなのだが、それでとんでもないハズレを引いてしまったら目も当てられない。
ここは一つ慎重に、と思ったのだが、かといって慎重に考えられるほどアスナはこのゲームを知らないし時間も勿体ない。
そこで、彼女は困った時に使う最後の手段にでることにした。
「ど・れ・に・し・よ・う・か・な・キ・リ・ト・く・ん・の・い・う・と・お・り・!……っと」
指差しで適当に順番を振っていって最後に当たった種族を選ぶ。
本当なら神様、と言うべきなんだろうが、そこはアスナ──エリカの気分だった。
最終的にキリトによって──実際に彼が選んだわけではないが──選ばれた種族は風妖精族(シルフ)だった。それで全ての初期設定が終わる。
最初は自分の種族のホームタウンからスタートするらしい。世界が再び暗転し、落ちていくような感覚に囚われる。
始まるのだ、アルヴヘイム・オンラインが。
こうして、まだ退けるべき存在の形が見えないまま、アスナ──風妖精(シルフ)のエリカ──の二つ目のVRワールドが幕を開けた。