レコンの回復を待たずに彼を置いてけぼりにして、歩き出した二人+一人──ユイはアスナの肩に乗っている──は、風の塔に向かう前に装備を整えることにした。
初心者(ニュービー)とはいえ初期装備では心許ない。そう思って所持ユルド──SAOでは《コル》だったが、ALOではお金を《ユルド》と言うらしい──で整えられるだけ整えていきなよ、とリーファは勧めた.
と言っても所持ユルドはたかが知れているだろうから初期装備に毛が生えたくらいにしかならないだろう。
そう思ったリーファは、少しは援助してあげようかな……などと考えていた。だが、驚いたことにエリカはかなりのユルドを所持しているようだった。
「パパのおかげですね!」というユイにリーファは「ああ、そういうことか」と得心する。
恐らくは、世界樹にいるかもしれないという探している人──ユイがパパと呼ぶ相手──からかなりのユルドをもらっていたのだろう。
初心者だから、というのもあるのかもしれない。だがそれなら迎えに来ても良さそうなものだが。いや、そもそも探しているのだから会ったことはない、のだろうか。
(それとも会ったのは相当前? それなら何故まだ初心者(ニュービー)なの?)
グルグルと思考が巡るが、結局リーファはそれ以上尋ねる事は止めた。無用な詮索はマナー違反だ。
リーファの勧めでNPC武具店からそれなりの装備を整え──ついでにユイのワンピースの中身を購入し──ようやく当初目的である世界樹へと向かう為、風の塔へと足を向けた。
ここスイルベーンでは風の塔が最も高い建造物だ。滞空制限のあるこの世界では、遠い場所へ行く時は飛距離を稼ぐために極力高いところから飛ぶのがセオリーとなっていた。
滑空だけでもかなりの距離を稼げるからだ。
二人が風の塔に着くと、既にそこには回復したレコンが待っていた。
「遅いよ~、何処に行ってたのさ~?」
「アンタ反省してるの?」
「反省? 何の?」
そのあっけらかんとした物言いに、リーファは「こいつ、開き直ったの? 最低ね」などと小さく呟く。
女性のパンツやあまつさえその中身──いくら生身の人間ではないプライベート・ピクシーとはいえ──を見たのにその悪びれない様子はちょっとこれからの付き合いを考えざるを得ない……そうリーファに思わせた、のだが。
「だいたい何で僕あんなところで倒れてたんだっけ?」
「へ?」
次にレコンから飛び出てきた言葉にリーファは目を丸くした。
何を言っているのだ彼は。まさか忘れたフリでもして全て無かったことにするつもりだろうか?
いや、既にこの世界で一年程の付き合いになるが、彼が根暗気味な性格をしているとはいえ女性に対してそこまで無遠慮ではないはずだ。
だとするとこの違和感は一体……、
「早く行こうよ~」
待ちきれないとばかりにエリカは既に風の塔の中に入っていた。
彼女にも彼に対して険しい感情は見受けられない。
これはどういうことだ? とリーファはまるで狐に抓まれたように首を捻る。
「ね、ねぇリーファちゃん……」
「ん? 何よ?」
「な、何でかな、今あの初心者(ニュービー)の子を見たら背中がゾクッてなったんだけど……僕なんかしたっけ?」
「……」
「ちょ、ちょっとリーファちゃん!? 何とか言ってよ!?」
リーファはレコンをジッと見つめた後、ススス……と回れ右をして何も言葉を返さずにエリカに続いて風の塔に入った。
レコンがぎゃあぎゃあと騒ぎながら追いかけてくるが無視だ。彼女はそれ以上この件について考えるのを止めていた。
何故って──これ以上考えても恐いだけだからだ。
三人+一人は風の塔のてっぺんから背中の翅を使って飛んだ。
目指すは世界樹、と言っても飛行だけで届くほど近い距離にそれはない。
「まずは一番近い湖まで飛びましょう」
「うへぇ、そんなところまでいけるかな」
リーファの見繕った予定ポイントに早速レコンが弱音を吐くが、彼女は聞き入れない。
今日中に《ルグルー》には辿り着きたいところだ。
風妖精(シルフ)のホームである《スイルベーン》から北に向かうと鉱山地帯があり、尾根険しい山々の標高はとても滞空制限ある翅では攻略できない。
その為猛々しい山岳地帯を越えるには《ルグルー回廊》と呼ばれる洞窟ダンジョン──フィールドと言ってもいい──を通るのがセオリーとなっている。
世界樹に向かうルートはいくつか存在するが、風妖精(シルフ)がスイルベーンから向かうルートでは、このルグルー回廊を使うのがもっとも速いのだ。
無論その分危険も多い。モンスターは当然、ルグルー回廊は特に多種族プレイヤーと接触する機会が多く、戦闘になることも考えられる。
遠回りをすればもう少し安全に向かうことは可能だが、リーファは可能な限り急ぎたかったし、エリカもそれに同調した為に進路はこのルートが採択された。
飛行していた三人+一人は予定よりやや手前でやはりレコンがへたってしまい、やむなくそこで高度を落としてライディングする。
ポイント的にはルグルー回廊とスイルベーンの丁度中間あたりに位置する森、《古森》のややスイルベーン寄りと言った所か。
ここからはしばらく徒歩になるだろう。翅の回復も必要だ。ここアルヴヘイム・オンラインの飛ぶ原理はフライト・エンジンによる物だが、システム的には翅に《光》を当て飛行可能状態にする事が必要になる。
アルヴヘイムで飛ぶためには《光》を必要とする。その為、光の届かぬダンジョンや地下などは現在飛行不可能エリアとして設定されていた。
「ほらレコン、キリキリ行くわよ」
「うぅ、わかってるよ」
飛行に少々酔いのようなものを感じるレコンは、よくよく飛行直後は動きたがらない。
しかし彼も今日ばかりは珍しく根性を見せ、愚痴も零さずに着地後はややだらしない足取りで歩を進める。
そんなレコンの姿に少しだけリーファは見直した。
(へぇ、やれば出来るんじゃない)
彼はやれば出来る人間ではあるのだ。そもそも自分よりフルダイブシステムには精通しているはずだしゲームの知識だって豊富だ。
ゲームに触れていた時間、という一点で考えればリーファは彼に敵わない。
このゲームにおいてはリーファが自分に見合ったスタイルを見つけ出し、また現実との兼ね合いもあって妙にマッチした結果、彼よりも上位プレイヤーという位置にいるが、全てそううまくいくかと言えばそうではない。
彼には彼の得意不得意分野があり、偶々不得意分野に天秤が傾いているのがこのALOなのだろう。
そんなことを思いながら歩いていたリーファは、しかしすぐに意識を切り替えた。
彼女の鋭敏な感覚がモンスターの湧出(ポップ)を察知する。毎回察知できるわけではないが、比較的注意深く意識していればフィールドモンスターの湧出(ポップ)について気付くことは可能だった。
既に上位プレイヤーとしての立場を確立している彼女がこの辺りのフィールドで遅れを取ることは珍しい程だ。
敵よ! と声を上げ注意を促そうとしたリーファはしかし、直後に面食らってしまう。
「え」
リーファが湧出(ポップ)に気付いた時にはエリカは既にそのポイントに抜刀した状態で突っ込んでいた。
バカ! と思ってから一拍おいてその異様さに驚く。
彼女は自分より早く《モンスター》に気付いたのだ。でなければあの反応速度はありえない。
だが初心者(ニュービー)であるはずの彼女が何故自分よりも早く?
しかし思考はまたしても許されない。
「ハァッ!」
エリカの裂帛の気合いが込められた鋭い刺突──だと思われる──がモンスターを直撃する。
驚かされたのはそのスピードと……威力。モンスターは既に八割近いHPを奪われていた。
アルヴヘイムにはプレイヤー自身を強化する類のレベルは存在しない。レベルを上げれば攻撃力が自然と高くなるというものではなく、武器の攻撃力と後は自分自身の《性能》によるところが大きく影響する。
この場合、相手の何処に攻撃を当てるかというような《正確さ(アキュラシー)》とその速度(スピード)が特に色濃く関わってくる。
今の攻撃を、リーファは信じられないことに全てを目で追えなかった。こんなことはいつもデュエルイベントで優勝争いに参加している彼女にとって初めての出来事だ。
エリカは即座にモンスターの残りのHPを切り払って奪い取る。
「ちょっとオーバーキルだったかな」と今の戦いに納得のいかないような仕草で。
全く持って信じられない。他のゲームでそこそこ鍛えているとは聞いていたが想定以上の強さだ。
今のモンスターは初級ダンジョンのボスクラスの強さがあったのだが、全く危なげない動作で戦闘を終えてしまった。
無論、リーファにとっても既に敵ではない相手だが、あそこまで華麗に倒せるレベル……いや境地に至るには相当数の時間と場数を要した。
その不可思議な強さに、リーファ少しばかり彼女の《正体》について懐疑的になる。
邪推、とでも言うのだろうか。実は初心者(ニュービー)と偽って相手を油断させ、プレイヤーキルによるアイテム強奪を生業とする高位プレイヤーなのではないか。
ヒヤリ、と背中に冷たいものが流れるような錯覚が彼女を襲う。少しばかり冷静に話を聞いてみようか。
丁度今の戦闘についてプライベート・ピクシーとエリカが何か話している。
「ママ、いつもより踏み込みが少し甘かったですね」
「やっぱりそう? うーん何せ初めての相手だし」
……あれでまだ全力ではないのか。
聞かなければ良かった。いやいや、これはこちらを動揺させる為の罠かも知れない。
冷静に、冷静に。
「気にしなくても大丈夫だと思います。パパならもっとガーッ! って感じで行きますよきっと」
「そうかなぁ……うん、そうかも。ワーッていってガーッってやってドーンって感じだよね」
……擬音だらけの会話を聞くともの凄く馬鹿らしくなる。
い、いや冷静に冷静に。す……リーファ、COOLになるのよKOOLに。
「はぁ、ちゃんと世界樹で会えるかな」
「パパはいますよ」
「え? ユイちゃんわかるの!? だって最初わからないって……」
「場所はわからないです。でもパパがいるような気はします、パパのことを感じます」
限界だった。
冷静さ? ナニソレ美味しいの?
「感じるってそんな曖昧な……プライベート・ピクシーってそんな言葉まで言うんだ……」
つい、リーファは言葉を挟んでいた。
冷静に言葉の端々を分析しているのが馬鹿らしくなってきていた。
「わかりますよ」
だがユイは自信たっぷりに小さい胸を張る。
その言葉にも、顔にも、ついでにも胸にも自信たっぷりに。
思わず「へぇ」と感心しそうになるが、その様にリーファは少しだけムクムクとイタズラ心が湧き上がってきた。
「どうやって? とてもそんな機能まであるとは思えないんだけど」
「愛の力です!」
「あ、愛って……」
予想外の言葉に流石にリーファは面食らう。ホントにこの子は単なるAIなのだろうか。
いやAIだから愛なのか。…………これじゃまるで《兄》の思考回路だ。しっかりしろ、す……リーファ。
瞬時に気持ちを切り替えてリーファがユイを見ると、こちらを挑戦的な目で見つめている。
なんだか実はこの子の中に小さい生身の人間がいると言われても信じてしまいそうだ。
そんなことをリーファが思っていると、突然エリカが目を閉じて唸りだした。
「うぅ~~~~~~~~~~~~ん……」
頭を両手で押さえ、かと思ったら偽物の空に伸ばしたり、振ってみたり。百八十度回転してみたり、もう百八十度回転して戻ってきてみたり。
集中しているような顔ではあるが、何をやろうとしているのか皆目検討がつかない。
うんうんうんうんと唸って、やがて諦めたかのように地面に膝を付いて頭をガックリと下げた。
何をそんなに落ち込んでいるのだろうか。
「うぅ、私わからないよ……」
「ぷっ」
リーファは思わず噴き出した。
エリカはユイの言った事を真に受けたのだ。いや、心からではないのかも知れないが、それでも張り合おうとした。
愛の力で感じる、と言ったユイに。馬鹿らしいと思わないでもないが、口には出さない。
リーファだって、そういうものを信じたくないわけではない。あったら良いな、と思うくらいには身も心もうら若き乙女だった。
同時に、ついさっき懐疑的になった事柄もどうでもよくなった。
あえて言うなら「こんな天然入ったような子達がそんな真似できっこない」という彼女の中の経験則から生まれる勘だ。
これで騙していたのならたいした役者だよあなた達、と既に万が一騙されていてもいいやと思えるくらいにリーファは彼女たちの正体がどうでも良くなっていた。
「おお~い、早く行こうよぉ~」
そんなことがあったせいだろう。
意外なことに、レコンが一人で先頭を歩いていた。
慌てて二人+一人は先頭のレコンを追いかけ、「急いでるんじゃなかったっけ」と一睨みにして膨れているレコンを宥めながらルグルー回廊の入り口へと辿り着いた。
途中数回戦闘はあったものの、やはりエリカの戦闘力は凄まじく、リーファの懸念したモンスターによる死は殆ど無いように思えた。
といっても、
「エリカさんて、強いけど……ちょっと危ない戦い方だね。あれじゃ魔法に対処しきれないよ」
リーファにはそのような感想が浮かぶ。
彼女の《物理的》な攻撃特化(ダメージディーラー)ぶりは本当に並ではない。
だが、この世界で戦っていてそれなりの時間を過ごすリーファは、エリカの戦いに危うさを何度も覚える。
何故そこでもっと間合いをあけないのか。退かないのか。足を動かさないのか。
この敵はいいけどもしあの敵なら、という不安が何度ももたげてしまう。
彼女の対モンスターでの戦闘力は絶大だ。しかし、それは相手が物理ばかりで尚かつ少数であることが前提だった。
彼女を見ていると複数相手でも物理オンリーならなんとかなるかもしれないが、《魔法》が存在するこのアルヴヘルムにおいてそんな奇跡が長く続くかと言えば、望むべくもないのは明らかだ。
「う~ん、魔法がある世界って初めてだから……」
「へぇ」
その言葉は妙に説得力があった。
それならば先程までの戦いぶりとの違和感にも頷ける。
先も魔法のことがわからずに使える魔法を自分のプライベート・ピクシーに尋ねて辿々しくスペルを唱えていた。
かつての自分を思い出すようなその様はいっそ微笑ましくすらあったものだ。
と言っても彼女は何処まで規格外なのか、あっという間にコツを掴んでしまい、オマケにやたらと長いスペルの暗記をものともしない凄さを見せつけたのだが。
世の中不条理だ、と口には出さずにリーファはエリカを見やる。
若草色のショートヘア。カラーリングはシルフ故だろうが小柄な彼女にはよく似合っていた。
だが。
同時にそこはかとない違和感を覚えるのも事実だった。
いや、それは違和感というには些細なものだ。どちらかというと《勘》によるものかもしれない。
だが、この勘と言う奴が中々バカに出来ない。人間の第六感(シックスセンス)は本能に基づく未来予知に限りなく近いそれだという説がある。
直感、と言い換えてもいい。それが、リーファの中で小さく囁く。
エリカの事を、自分は知っているのではないか────と。
何の根拠もない。
ただ、そんな気がするだけ。
でも、何処か否定しきれない。それだけ、彼女の存在が記憶の片隅をちくちく突くような真似をするのだ。
その勘が、告げている。
自分は彼女を知っている、と。
「どうしたのリーファちゃん?」
「あ、ううんなんでもない……です」
「???」
不意に、敬語を使ってしまった。
これまで名前こそ「さん」付けだったが言葉遣い自体は友人に使うそれと大差無かった筈なのに。
勝手に、意識して、頭の中が、彼女を《───》と変換、認識して……《───》って誰だっけ?
誰? 誰のこと? 知ってるはず。会った機会は多分多くない。話した機会も多くない。
でも、胸がそんなにざわざわしないってことは嫌な相手でもないはず。
「ねーねーリーファちゃーん」
「わっ!?」
眉がムムム、と寄り始めた頃合いを知ってか知らずか、レコンがリーファに声をかけた。
おかげでリーファの集中力は霧散してしまい、どれだけ思い出そうとしても記憶は霞のさらに奥へと引っ込んでしまう。
「もうバカレコン! 何か思い出せそうだったのに!」
「へ? 何が?」
レコンは不条理ともとれる怒りに面食らうが、リーファは頬を膨らませつつもそれ以上は言わない。
それは八つ当たりにすぎないことを彼女も理解しているからだ。
「何でもないわよ、それで何? 何か用?」
「あ、うん……っていうか今日は随分僕に厳しいね、エリカさんには優しいっていうか敬ってるようにさえ見えるのに」
「アンタがくだらないこと……って、敬ってる? 私が……?」
別に人を敬うことのない人間なわけではないが、リーファは本物の顔も見えないゲーム内で露骨にそういうことをする方でもない。
彼女の属する風妖精(シルフ)の長ですらリーファは呼び捨てでタメ口だ。
別に彼女を敬っていないわけではないが、自然とそういう形がゲーム内では身についてしまっている。
(……ゲーム内では? やっぱり私、エリカ……さんのこと、知って、る……?)
初めて会う相手に敬称をつけないほど不遜ではないが、ある程度親しくなったりすれば相手にもよるが敬称は自然と取れる。
だが、エリカ相手にリーファはさん付けを止められる気がしなかった。
それは《本能》がさん付け……敬称を必要としていると判断しているからに外ならない。
しかし、またしてもリーファはそれ以上思考を続けられなかった。
「わあ、洞窟内部に湖かあ! この橋の奥に見える大きい門がルグルーなの?」
「え?」
気付けば、洞窟内部をかなりハイペースで進んでいたらしい。
目の前にはエリカの言う通り青黒い湖の中央を石造りの橋が一直線に貫き、その向こうに天井までぶつかる城門が屹立していた。
エリカの言う通り、とりあえずの目標予定としたルグルーはもうすぐそこだった。
だが、
「っ! 誰か、いる!」
橋の向こうから歩いてくる人影。
その影にリーファは見覚えがあった。いや、忘れることなどできようはずもない。
「あ、同じ風妖精(シルフ)みたいだよ、良かった良かった」
微笑むエリカだが、リーファはドッと跳ねる仮想の心臓を必死に落ち着かせていた。
流れるはずのない汗を顎下から滴り落とすような錯覚を抱きながら、橋の向こうから歩いてくる風妖精(シルフ)を見つめる……いや、睨む。
その風妖精(シルフ)は、リーファにとって因縁の相手だった。
「こんにち……?」
「久しぶり、でもないわね。《シグルド》」
「……フン」
エリカが挨拶しようとしたのを手で止め、エリカを隠すように彼女の前に立ってリーファはシグルド、と呼ばれた同種族のプレイヤーを睨む。
シグルド、と呼ばれた男性プレイヤーはかなり高い部類に入る背丈で、別に体格でゲーム内の良し悪しが変わるようには設定されていないだろうが、それでも男性ならその身長は羨む部類に入る物だ。
アバター容姿がランダム精製されるこのゲームでは余程の幸運かそれなりの《投資》をしなければそのような容姿は得られまい。
その彼はシルバーの分厚いアーマーを着こみ、大ぶりのブロードソードを腰から下げ、額にはSAOにあったギルドの《風林火山》のそれかと見まがうようなバンダナを巻いている。
と言っても彼らの侍然とした旧体系の《和》をイメージするようなカラーではなく、銀色という西洋の寸鉄を思わせるもので、顔もそうとうに鋭い。
いや、鋭いというより厳つい、というべきか。表情に怒りが混じっているようにみられるのがそれを後押ししている。
波打つようにして肩まで伸びたダークグリーンの髪はやはり風妖精(シルフ)のイメージカラーからくるものだが、その表情と相まって少々恐怖心さえ対峙する相手に与えていた。
「どうして脱領者《レネゲイド》のあなたがここにいるの?」
「俺がどこにいようと勝手だろう、まさか自分の目の届く範囲には現れるなとでも言うつもりか?」
「……」
「フン、冗談だ。お前を待っていた」
「そう、やっぱり。でもどうしてここが」
「《アルン》に行くと散々言っていたからな、猪突猛進のお前のことだ、必ずこの道を選ぶと思っていた」
「……なるほどね」
言われて、気付く。
確かに自分は猪突猛進なところがあり、それ故多角的な角度から物事を見ることを忘れてしまうことがある。
今回の事で言えば、彼がここで待ち伏せてくることは予想してしかるべきだった。
と、そこで小さくレコンが呟く。
「……だから言おうと思ってたのに」
「何よレコン」
「僕の《索敵》に誰かが引っかかったから用心しよう、って言おうと思ったのに全然リーファちゃん聞いてくれないんだもん」
「そ、そういうことは早く言いなさいよ!」
「言おうとしたらいきなりバカレコン! って怒ったんじゃないか」
「あ、あれは……」
確かにそうだ。確かにそうなのだが……どうにも釈然としない。
そもそもあそこで無駄話をしなければ……いや、止そう。これ以上レコンを責めても得られるものは何もない。
結局は自分の不注意が生んだ結果なのだ。予想してしかるべき事態の予想を怠り、あまつさえ危険であることは承知の上ですらあった。
「話は終わりか? ならば始めさせてもらうが」
「戦わないって選択肢は……無いんでしょうね」
「無くはないが。だがその時は俺が一方的にお前をいたぶるという少々味気ない結果になる」
「冗談でしょ、ごめんよそんなの」
「あ、あのぅ……?」
まさに一触即発。これから戦闘が始まるというピリピリとした空気に、エリカは気まずいながらも口を挟み恐る恐る挙手をした。
まったく全然、これっぽっちも状況がつかめない、という顔だ。
「なんだお前は。見たところ新顔(ニューフェイス)のようだが……」
「この人は関係ない、手を出さないで」
「それを俺が聞いてやる義理は無い。むしろそう言われてはこいつを殺った方が気がまぎれるかもな」
その言葉に、リーファは抑えがきかなくなった。
自分に突っかかってくるのはいい。だが、無関係な人を巻き込むなんて許せない。
ニヤリと笑ってブロードソードを構えたシグルドに、リーファは素早く切り結んだ。
「相変わらず早いな、だが」
「っ!」
リーファは一度距離を取る。
彼は膨大なプレイ時間に裏付けされたスキル値がその強さをより確固たるものにしている。
装備も一流で、リーファが彼と戦うときにはいかに動いてその防御を崩すかがいつも鍵になっていたのだが。
「良いのか? 俺はこの女を攻撃することも出来るぞ」
「っ! この!」
その挑発に、挑発とわかっていてもリーファは乗るしかなかった。
自分のせいで誰かに嫌な思いは極力させたくなかった。それがたかがゲーム内のことと言えど、リーファにはそれが嫌だったのだ。
だが、そうなるとこの戦いは途端にリーファの分が悪くなる。
彼とリーファが叩く時はその強固な防御をいかに崩すか、がリーファの戦いになる。
その為には運動量を生かした物量と根気、集中力、そして何より時間が必要だった。
だが、彼はその時間をリーファに与えない。エリカを襲うと言われれば悠長にしている暇は無いのだ。
自分の存在を忘れ去ったかのように目の前で繰り広がる戦闘を、エリカはどうしたものかと思いながら眺める。
彼女にも、ややリーファが劣勢になることは見えていた。
そのエリカの傍にトコトコとレコンがやってくる。
「エリカさん、悪いけどここまでだ。君は先にルグルーに入りなよ、街へ入れば多分安全だ」
「どういうこと?」
「言ったでしょ? あいつがシグルドって奴さ」
「さっき脱領者(レネゲイド)とか言われてたけど……」
「ああ、あいつは僕たち風妖精(シルフ)の領主、《サクヤ》を天敵種族であるサラマンダーに売ろうとしたんだ」
「それって……」
「最低な裏切り行為だよ。領地争いしているプレイヤーにとってはあってはならないことさ。それにいち早く気付いた僕がリーファちゃんと相談して、彼女の活躍で上手くそれは阻止できたんだけど……当然彼はスイルベーンから追放処分さ。そのことを恨んでるんだよ」
「……それなら」
「割り込む、なんて考えちゃダメだよ。きっとそんなことされたらリーファちゃんにすっごく怒られるから」
「でも……」
「大丈夫、いざとなったら……僕がなんとかするよ。“その為に”僕はついてきたんだ。僕は怒られるのは慣れてるから」
少しだけ笑うレコンに、エリカはようやくハッとなった。
彼は……彼の中にあるその思いは。
「……レコンさん、あなたはリーファちゃんが……」
「……僕と彼女はリアルでも知り合いなんだ。でも、僕の気持ちが彼女に届くことは無いってもうわかっているんだ」
「そんな、そんなことは……!」
「いいんだ、彼女には、彼女の思い人がいる。それがわからない程僕も鈍感じゃない。だからそれは良いんだ」
レコンが、今までに見たことのないほど穏やかな顔で微笑む。
こんな顔もできたのか、というほどその表情は晴れやかだった。
「僕がなんとかあいつを引き付けて戦闘不能にするから……ここに残るつもりなら、怒るリーファちゃんを連れてルグルーに入ってよ」
「でも、じゃあレコンさんは……?」
「僕は……スイルベーンからやり直しかな、多分」
「そんな、それじゃあ……! それなら私が彼を……」
「うん、多分だけどエリカさんならシグルドを倒せるのかもしれない。でも、それをリーファちゃんは絶対に許さない」
「どうして……」
エリカの不思議そうな顔に、レコンはクスっと笑う。
彼女はああ見えて結構な頑固者なんだ、と。
「じゃあ僕は行くよ。そろそろ、リーファちゃんが押され始める」
「っ!」
エリカは、そのレコンの背中に、かつてのアインクラッドの仲間の背中を幻視した。
たくさんの仲間を失った。
この世界では死んでも甦ることが可能だ。本当に死ぬわけではない。
だからこの感情は大げさなものだ。頭の中でそれがわかっていても抑えきれない。
安全なゲームといえど《死ぬ》ということに拒絶反応的な何かがエリカの中を駆け巡る。
その時だった。
「もう一人プレイヤーが近くに来ています!」
ユイの叫び声が上がる。
それに、その場の全員が一瞬動きを止めた。
しかしそれは文字通り一瞬のことで、一番早く我に返ったシグルドが隙の出来たリーファに左斜め上から袈裟切りにブロードソードを振るった。
「うっ!」
「死ねリーファ! お前の、お前のせいで俺は……俺はぁ!」
強固な防御を貫けないリーファにはジリ貧で、今の攻撃は致命的だった。
彼女のライフが残り二割程度にまで落ち込んでしまう。
それで勢いづいたシグルドは目を血走らせ──そこまでシステムは表情を再現した──ブロードソードを強く握りしめる。
「もう少しだったんだ、あれが上手くいって、転生システムを利用すれば、もっと上へ行ける筈だったんだ! こんな、弱々しい風妖精(シルフ)などとはオサラバの筈だったんだ!」
「種族のせいじゃ……ないでしょう……!」
いつもならどうにかクリティカルは避けられるのだが、ユイの言葉に一瞬動揺した隙を突かれたリーファは無防備なポイントを攻撃されてしまった。
既に瀕死に近いリーファの、しかし消えぬ闘志をその瞳に見たシグルドはさらに怒りを露わにしてブロードソードを構える。
このままでは、もう数分ともたない。レコンもそれを察して覚悟を決め、一歩を踏み出して……止まった。
「な、なんでお前がここに……!」
ユイの言ったもう一人のプレイヤー。
レコンの目には自分たちが通ってきた道から歩いてくる《そいつ》が目に入った。
短く、剣山のように逆立てた炎髪というほどに燃え上がる赤い髪。
広い額の下には灼眼の双眸。浅黒い肌に包まれた逞しい身体と猛禽に似た鋭い顔立ち。
一目で超レアアイテムとわかる赤銅色のアーマー。身の丈近くもある巨大なソードを背負った……男性サラマンダー。
その姿を見たシグルドまでもが、優勢のままにリーファを切り捨てようとした体勢のまま、固まってしまった。
「《ユージーン》……だと? 馬鹿な、何故奴がこんなところにいる!?」
「俺の《嫁候補》を殺されては困る。それは、俺の獲物だ」
「誰が嫁よ!」
「そうだそうだ!」
突然現れたプレイヤーに、またもエリカはおいてけぼりをくらってしまった。
しかもこのサラマンダーは今、聴覚野が正常ならばリーファのことを《嫁》と呼ばなかったか。
「言ったはずだリーファ。お前を倒した時、お前には俺と《結婚》してもらうと。安心しろ、プレイヤーホームは購入済みだ」
「知らないわよ! 貴方が勝手にした約束でしょそんなの! 無効よ無効!」
「そうだそうだ!」
ユージーンの静かな声に、リーファは電撃のごとき素早さで噛みついた。
そんなの無効、と。しかし対するユージーンは何処吹く風、と聞く耳を持っている素振りすら見せない。
そのままスタスタと二人に近づいていく。
シグルドは慌ててリーファにトドメを刺そうとするが、ユージーンの《魔剣》によってブロードソードは止められてしまった。
「悪いがやらせるわけにはいかないなシグルド、こいつを最初に倒したプレイヤーが嫁にする権利を得るのだから」
「無いわよ!」「そうだそうだ! ……あれ? じゃ僕にもチャンスが?」「無いわよ!」というリーファと何度も取り巻きその一みたいな声をあげるレコンを無視し、先程までとは打って変わってシグルドにはユージーンが立ちはだかっていた。
その姿を見て、エリカは確信する。ユージーンというプレイヤーは相当の手練れだと。
彼からは、SAO攻略組の中でもトップクラスに近いような、それと同等のオーラのようなものを感じる。
それこそ第六感、勘みたいなものだが、何となくアスナは強さを纏うオーラ、みたいなものを感じることには少しばかり自信があった。
副団長、という役職だったせいもあるのかもしれない。相手を見る目は、それなりに鍛えられているという自負もある。
シグルドはみるみる表情を変えていく。相手がユージーンでは分が悪いと分かっているのだろう。
しかし瀕死に近いリーファなら、もう少しで殺せるのだ。彼はそのために、ここで一日張り続けていた。
念のために仲間を世界樹近くのアルンに置き、彼女がまだ着いていないという報告を糧に、復讐の時を待ち続けていた。
その念願が叶う、というこのタイミングで……現在ALOで《最強プレイヤー》と謳われるユージーンと何故剣を交えねばならないのか。
ギリギリ、と苛立ちで歯を噛みしめる。そんな仕草さえ表現しているアバターの精度は見事だが、それに感嘆する気など彼には微塵も無い。
「このまま退くというのなら俺はお前には手をださん、しかし、退かないなら……ぬんっ!」
「ッッッ!」
「えっ」
エリカは目を疑った。
ユージーンの剣がシグルドの剣を《通り抜けた》のだ。
そんな馬鹿な。
「ユージーンの剣は《魔剣グラム》。伝説武器(レジェンダリー・ウェポン)って呼ばれてて、この世界でも最高クラス、オンリーワンの限定武器だよ。その特性として、相手の防御を通り抜けちゃうなんていうチートじみた効果があるんだ」
いつの間にか隣に戻ってきていたレコンが、驚愕しているエリカに説明する。
エリカはグラム、と聞いて確か北欧神話に出てくる剣……などと記憶を掘り返していた。
レコンの説明によると北欧神話から取ったのだろう《魔剣グラム》という銘のその剣は、相手の防御を《一段階透過する》というとんでもない特性、エクストラ効果《エセリアルシフト》が付与されている。
「剣を交えても、その剣を透過して相手へと刃が届く。この剣に対するには《聖剣エクスキャリバー》しかないと言われてるよ。それがどこにあるのかはまだわかっていないけど」
レコンも説明しながら震えている。
その目で魔剣の戦闘を見るのは初めてなのだろう。
「く、くそぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
シグルドは苛立ちから、撤退ではなく戦闘続行を選んだ。
結果は……考えるまでも無かった。
「ふん」
短く呆れたような声色で、ユージーンは息を吐く。
刹那、ユージーンはやや細まっていた目を開き、剣を縦横無尽に振り払った。
エリカの目から見ても《そこそこ》速い。
シグルドはあっという間にやられてしまった。
「くそおおおおおおっ!」
最後に叫び声を上げて、風妖精(シルフ)独特の死亡エフェクト、緑色の旋風が彼を包む。
《エンドフレイム》と呼ばれる死亡エフェクトで、後には種族色である緑の炎がチロチロと魂のように残る。
《リメインライト》と呼ばれるそれは蘇生猶予時間、つまりこうなってからおよそ一分以内であれば魔法やアイテムで蘇生可能なのだ。
しかし彼を助けるものは無論おらず、一分後に彼のリメインライトは消えてしまう。
それをややつまらなさそうに見届けたユージーンは、しかし剣を下げずに今度はリーファにその切っ先を向けた。
「さて、決着を付けよう。《あの時》のお前は俺相手に実に《十四秒》という健闘をしてくれたが、今のお前はどうかな」
「っ! やっぱそうなるわけ」
「安心しろ、蘇生はしてやろう。そのまま我が領地のホームへと連行するが」
「……冗談じゃない」
リーファは未だHPが二割強程度だった。
回復する暇が無かったわけではないが、シグルドとユージーンに気を回し過ぎて自身の状態回復を怠ってしまった。
全快だったとしてもそこまで差はないかもしれないが。
そのリーファの様子を見て、エリカはユージーンの前に立ちはだかった。
「なんだ?」
「結婚ってのは無理矢理するものじゃないですよ。たとえそれがゲームの中であっても」
「わかっている。だから条件を付けた」
「気持ちが第一です」
「俺は好きだ」
「リーファちゃんの気持ちを聞きましたか」
「もちろん」
エリカはチラとリーファを見るが彼女はブンブンと首を振る。
どうやらお互いの認識には大きな相違があるらしい。
かといって彼は話してわかる相手ではないようだ。
「……仕方ない、かあ」
「なんなんだお前は。リーファの知り合いのようだが見たことの無い顔だな。そこを退く気はないのか」
「はい。どうしても彼女と戦いたいなら、まずは私を倒して下さい」
「エ、エリカさん……!」
リーファの困ったような、驚いたような声が上がるが、エリカにももう退く気はないようだった。
ユージーンは呆れたような顔でエリカを見つめる。
今の戦闘を見ていて、万に一つでも勝ち目があると思っているのか。
エリカ、という名前やこの姿はこれまで全く見たり聞いたりしていないことから、さほどの有名プレイヤーでないことはわかっている。
ということはそこまで力が無いかゲームをやって日が浅いということだ。
その程度のプレイヤーに自分が押さえられるわけがない。しかし、《王者》として君臨していると言ってもいいユージーンにとって、《挑戦》は例えどんなザコプレイヤーだろうと受けない訳にはいかなかった。
「良いだろう、三十秒、持ちこたえて見せろ。リーファの倍の時間だ。それなら彼女を諦めよう」
「わかりました」
エリカはニコリと微笑み、すらりと細剣を腰の鞘から抜いて、
「っ!?」
ユージーンが気付いた時にはHPが一割ほど減っていた。
馬鹿な、と思う。何だ今の────《ありえない速さ》は。
彼の目を持ってしても、初撃を全てとらえることが出来なかった。
知っている者から言わせれば当然だろう。
ALOがオープンしてから一年。初期からプレイしていたとしてもそのプレイ時間はせいぜい一年。
エリカは、実に二年という時間、この細剣一本というスタイルで生き抜いてきている。
文字通りの意味で《生き抜いて》きている。
そんなの彼女のその姿を、誰が呼び始めたのか、瞬く間の光と形容しだした。
《閃光》
そう呼ばれる彼女の、そのスピードと正確さは、ゲーム内で最大の反応速度を持つという《彼》をもってして、敵わないと言わしめるほど。
その彼女の、本気のトップスピードの連撃を、そうやすやすとは防げない!
「な、なぁっ!?」
速い、速い速い速い!
だが、ユージーンがもっとも驚愕するのはそのあまりの速さよりも、正確さ(アキュラシー)だった。
《剣を交えれば》その時点でユージーンの攻撃は通ったも同然だ。しかし、彼女はあろうことか、恐ろしいことに《剣を交えず》正確にユージーンの身体を貫いていく。
同時に回避力が半端ではない。攻撃速度が速ければ間合いからの離脱速度も速い。
彼女の攻撃を防ごうとしても隙間を縫うように貫かれる。
ならばダメージ覚悟で攻撃しようとすれば彼女は間合いを素早く外す。
ユージーンの攻撃が《当たらない》のだ。これでは、魔剣グラムの特性を生かせない。
ユージーンは普段から決して武器の特性に頼ってなどいない。そのような物が無くても彼は十二分に強い。
彼の剣技はALOの中でも一流と言って良く、全く同じ剣を使っての戦いだろうと負けることはほとんどない。
だが。
SAOで《最速》の名をほしいままにしていた彼女に、ALOでの常識は通用しない。
彼女の鍛えられた《観察眼》が、この戦いを可能にしていた。
「もう三十秒は経ちましたよ」
再び間合いを空けたエリカが、涼しい顔で言う。
ユージーンはその顔を見つめ、静かに剣を鞘に収めた。
前言は守る、ということだろうか。
「強いな、世界は広いといことか……名前は?」
「アス…………エリカです」
「そうか。エリカ、約束通りリーファの事は諦めよう。時間制限アリにすべきではなかったな」
その言葉にエリカはホッとするのと同時に苦笑した。「ばれてる」と。
余裕を見せていたエリカだが、長引けば負けるのはわかっていた。
彼女は彼の全てのHPを吹き飛ばす事は考えず、三十秒を生き抜くことを戦いとしていたのだ。
もしもうしばらく戦っていればエリカのスピードに慣れたユージーンは必ずや合わせてくる。
それだけの戦闘センスを、彼は持っていた。
そうなれば今のエリカでは恐らく彼を倒しきれなかっただろう、という予感が彼女の中にもあった。
もし、ソードスキルがこの世界にあったならその限りでは無かったかもしれないが。
だがこれで……とエリカが思ったのも束の間、彼の言葉はまだ終わっていなかった。
「その代わり」
「?」
「エリカ、お前が俺と結婚してくれ」
「………………はい?」
ユージーンの言葉に、エリカは目をぱちくりと瞬かせた。
何をイキナリ言うのだこの人は。
その様子を見ていたリーファは呆れた顔をしていた。
その顔は「私の時と一緒だ」と言外に物語っていた。
「えーと……リーファちゃんが好きだったんじゃ」
「無論。だが今この瞬間、お前の方が好きになった」
「はぁ」
「家は既にある」
「いえ、あの……」
「種族が違おうと関係ないと誓おう」
「だから」
「俺は強い相手が好きだ」
「人の話を」
「よし、今度お前を倒したら俺と結婚だ」
エリカが必死に言葉を挟もうとする中、ユージーンはマシンガントークで自己完結してしまう。
ああ、こうやってリーファちゃんの時も今の事態が引き起こされたんだな、と遅まきながら大体の全容を掴んだエリカだが、その彼女がお断りの声を上げる前に強い否定の言葉が洞窟内を木霊した。
「そんなのダメです! ママはパパとじゃなきゃダメなんです!」
ユイがいつの間にか出てきて、ユージーンを睨み付ける。
ユージーンは「何だこのピクシーは?」と不思議そうにしていた。
「ママも! 浮気はダメです!」
「ユイちゃん、大丈夫だよ。私にその気は全く無いから」
アスナはユイを宥めるとハッキリと告げた。既に自分には心に決めた相手がいるのだと。
そもそも、彼女の頭に《彼》以外の人と未来を共に歩む姿がイメージ出来ない。例え、それがゲーム内のことであっても。
納得のいかなそうなユージーンはいずれその男と会ってデュエルすると口にしたが、彼は私よりもかなり強いですよ、というエリカの言葉にユージーンと周りは絶句していた。
今のエリカよりもかなり強い、というレベルを想像できない。どんな化け物プレイヤーなのだそれは。
似たような考えを持ちながら、ユージーンはその場を後にした。レコンが思いついたように「そういえばどうしてここに来たんだろう」という疑問を口にするとそのスピードは速くなり、みるみる姿は見えなくなった。
苦笑しながら、三人+一人はようやくルグルーへと入る。今日はもう時間も時間なのでそれで落ちることとなった。
目抜き通りを歩き、最初に見つけた宿に足を運ぶ。
「ママ、ママがログアウトするまで一緒に寝てもいいですか?」
簡単なやり取りと明日の合流時間を決めて部屋の前でリーファ達とは別れた。
部屋に入ると、すぐにピクシーの姿から元の姿に戻ったユイがエリカ──アスナに恐る恐る尋ねる。
「もちろん、おいでユイちゃん」
先にベッドで腰掛けていたアスナは、喜び飛び込んで来るユイを両腕で抱き留めた。
懐かしい質量。かつてアインクラッド二十二層のあの家で、何度も何度も味わったこの子の存在の証。
決して忘れたくない、質量を持った大切な思い出。
ログアウトするにはボタン一つでも可能だ。だがアスナはユイとこうしていたくてそれをしなかった。
このゲームでは……というより大抵のVRゲームでは、一定時間以上仮想世界で眠ると自動ログアウトされる仕様が多く採用されている。
アスナはその自動ログアウトに自身のログアウトを任せることにして、しばし娘の温もりに浸っていた。
二ヶ月間、ずっと寂しかった。彼──キリトと本当の意味で会えないことが。
戻ってきたのに、生きているという心地がしていなかった。そこに彼がいないだけで、かつてのように世界がグレーに染まってしまいそうだった。
(キリト君……私はここにいるよ。ユイちゃんもここにいるよ。後は、キリト君だけだよ……)
会いたいよ、と心の中で呟く。
会って、抱きしめて、キスして、彼の質量と温もりを感じていたい。
今こうしてユイを感じているように。
「ママ、泣いているんですか?」
「っ、ごめんねユイちゃん、何でもないから」
「ママ……」
ユイは強くアスナ──エリカのアバターだが、彼女にとっては母親であり、アスナだ──にしがみつく。
アスナの寂しさを、少しでも受け持とうとするかのように。
ありがとうユイちゃん、とアスナはユイの額に口付けして髪を撫でる。
「大丈夫ですよママ、きっと、きっとすぐにパパに会えます」
「うん……」
「パパのことだから、相変わらず暢気にその辺で買い食いしてるかもしれないです」
「うん、そうだね」
「パパったらきっと買い食いし過ぎて今頃お腹パンパンです」
「うん……うん……」
「パパはそれでもママの御飯はいつも一杯食べます」
「うん……」
「パパは全然苦しいって顔を見せないで美味しい美味しいって言ってます」
「…………」
「パパはママが大好きです」
「…………」
「……おやすみなさい、ママ。せめて、良い夢を見て下さい」
瞳が閉じられ、ゆっくりと眠りについたアスナにユイは微笑む。
アスナがシステムにその睡眠を検知されるまではまだ少し時間がある。
それまで、出来る限りくっついていよう、とユイはアスナにしがみつく力を強めた。
「大丈夫、大丈夫ですよね、パパ……」
不安そうなユイの声が静かに木霊する。
感情模倣機能が、無理矢理その不安を吹き飛ばそうとアスナにしがみつく。
アスナも、ユイもまだ気付けない。知る術がない。
そのキリトの心が、今にも壊れそうなことに。
これから、さらに追い打ちがかかってしまうことに。