「ここにもいない、か」
ひとりごちて、溜息を吐く。はたしてこの溜息は探し物……ならぬ探し人が見つからないことへの憔悴感からか、はたまた──安堵感からか。
アスナはキリトが眠りながらに口にした「サチ」というキャラクターネームを捜していた。
あの日、結局眠れなかったアスナは楽しみにしていたキリトとの朝の挨拶もそこそこに彼とは別れた。あまり一緒にいると、問い質してしまいそうだったからだ。
しかしそんな権利は自分にはないことはわかっていたし、何故その名前を知っているのかも説明するにはやや憚られた。
まさか覗き見ていたなんて言えるわけがない。ましてやその方法、使ったアイテムがたいしたことのないアイテムだった、と嘘をついてしまってまでいるのだ。
一つ嘘を吐けばそれがネズミ算式に増えていくというのは聞いたことがあるが、まさにそんな状態だった。後には引けない袋小路。こんなことなら本当にさっさと手放すべきだったと後悔しても今更後の祭りなのは明らかだ。
こうなってしまったからには仕方がない。アスナはやや開き直って聞き込みを開始した。自身の血盟騎士団副団長という職権も活用して騎士団内のネットワークを使い心当たりや実際に知り合いがいないか尋ねてみたりもした。
当初はすぐにわかると思っていた。プレイヤーネームなら余程酔狂なソロプレイヤーでもない限り誰かとは袖振りあっているものだ。
その余程酔狂なプレイヤーに分類されるであろうキリトですら、名前は広く知れ渡っている。と言っても彼の場合はプレイヤーネームではなく、“ビーター”という蔑称が一人歩きしているせいでもあるのだが。
そういった意味では別の意味で有名人でもある彼だが、存外彼の顔を知る人間は少ない。つまり、そういうものなのだ。
名前は知っていても顔は知らない、会ったことはない。実はそういったケースは多い。だから今回もその人の細かな情報は入って来ずともプレイヤーネームに聞き覚えのある人はすぐ現れるかと思われた……のだが。
未だその進展はなく、サチというプレイヤーは聞いたことがあるという人さえ出てこない。アスナは訝しんだが、そこで一つの可能性に気付いた。
“プレイヤーであるとは限らない”のだ。そうなれば探すのはさらに困難極まる。サチというキャラクターがNPCならば、簡単には見つからない可能性は十分にありうる。
ちなみに、リアルでの知り合いではないとアスナは確信していた。根拠はない。だが、何故かアスナはそこだけに確信が持てた。それは恐らく、二年もの間培ったここでの経験がそう直感させるのだろう。
NPCはそれこそ数えるのも億劫なほど各層に存在している。その中で全員に名前があるわけではないが、少ないわけでもない。
それらを全部把握しているのはそれこそ製作者側……このデスゲームに一万人もの人間を巻き込んだ狂気とも取れるゲームマスター、茅場晶彦くらいのものだろう。
星の数ほどいると言っても過言ではないNPCにいちいち全部話しかけ、なおかつ名前まで憶えているプレイヤーなどそうはいまい。まして攻略組なら尚更だ。
通常、攻略組は常に最前線の迷宮に挑み、レベルアップを繰り返してマップを拡張し、フロアボスを倒してデスゲームを一日でも早くクリアせんと奮闘している。
それ故にNPCと関わるようなことは中層以下のプレイヤーと比べて格段に少ない。アスナの所属する血盟騎士団はギルドでもトップクラスである。当然騎士団員は選りすぐりの者たちばかりでそのほとんどが攻略組を名乗れるほどの強さを持つプレイヤーだ。
それは同時に、サブイベント的なことは半ば捨ててきている者たちばかりでもある。万一、サチという名前がNPCのものだった場合、アスナがそれとなく聞いて回った騎士団員達にも覚えがないのはむしろ当然と言える。
トッププレイヤー故の弊害。プレイヤー間のやり取りはそれなりにあっても、NPCとの関わりは極端に少ないのだ。それはアスナ自身にも言えたことではあるが。
新聞の尋ね人を使えばあるいは早く見つかる可能性もあるが、アスナはそこまでしたくなかった。それではキリトに自分がサチを捜していることがばれてしまう恐れがある。それは避けたかった。
そもそも、自分はサチという人を見つけてどうするつもりなのだろうか。NPCならば尚更だ。彼との関係を聞く? 明らかなマナー違反だ。NPCならそれ以前の問題である……はずだ。
それでも、何故か探すのを諦めるという選択肢をどうしても選ぶ気になれず、こうして日がな空いた時間にNPCめぐりに興じ始めたのがほんの数日前のことだ。
ある程度の大きいポイントの名前のありそうなNPCを渡り歩いて名前を確認していく。レベルが上がるわけでもないしサブイベント……クエストの発注があってもたいていはスルーする。
そんなものをこなしている時間はないし、手に入るアイテムも今や下位のものばかりだ。上位のものの情報はほとんど出尽くしているだろうし、今いるのは比較的下の階層であることも理由のひとつだ。手に入るもののランクなどたかが知れている。
何故低層にいるのかと言うと、そんな低階層だからこそ、一気に駆け抜けてきたが故に上位プレイヤーには落としどころが多かったりするのだ。それはアイテムにも言えることで、必要な素材が随分低階層のレアアイテムだったりすることは割とある話だ。
今回探しているのはアイテムではなく人……ことによってはNPCだが、そこではたと気づいた。
上位メンバーで固められている血盟騎士団の誰もが知らないと言う。考えてみれば聞いて回ったのも比較的最前線に近い層の知り合いが主だ。
頼った伝手のほとんどが上位メンバー。その上位メンバーはどれだけ下位の層に精通しているのか。……少なくとも自分はそこまで精通していないことをアスナは理解している。
聞いて回った人たちも、自分と同じようなことをして今に至るはずである。ならば、スピーディに駆け抜けた場所ほど記憶や情報は薄いはずだ。
そう思い立ったアスナは低層の比較的大きいポイントを渡り歩く作戦に出てみたのだった。ちなみに小さいポイントを無視しているのはとても歩ききれないからだ。
隠れクエスト用NPCとかならお手上げだろうな、と内心で思いながらもアスナはNPCへの聞き込みをやめない。
どうしても気になって仕方がないのだ。最近は、そのせいでまともに眠れないほどに。これでは、色を失っていたかつての時と変わらなくなってしまいそうな焦燥が彼女の中で燻り、それが驚くほど精力的に彼女を突き動かしていた。
そんな状態だったから、それは本当に驚いた。
まったくの収穫なしな状態に相変わらず嬉しいのか悲しいのかわからない感情を持て余し、まさかこの名前はモンスターやボスモンスターの名前では、とまでで疑心暗鬼になり始めた時、その声はかけられた。
「あれ、アスナ? 珍しいな、こんなところで」
「……え? キリト君?」
こんなところでまさかキリトと会うと思っていなかったアスナは目を丸くする。いかなソロプレイヤーの彼とはいえ、こんな低層に用があるなど……と思ってから急速に思考パズルのピースが組みあがった。
彼が用もなくここに来ることは考えられない。無論それは自分自身にも言えることだ。では自分はここに何をしにきたのだ?
彼の口から出た「サチ」なる人物を捜してだ。今のところNPCが濃厚だが決してプレイヤー名ではないと言い切るには判断材料が足りない。
しかしながらこんな偶然がそうあるとも思えない。流石にアスナもここで会えたのはTHE・運命、などと乙女チックな妄想を広げるほど能天気ではなかった。
彼の知人──と言っていいのかは定かではないが──を捜して彼に出会うと言うことは、少なくとも考えの方向性は間違っていなかった、もしくは近いという可能性が高まる。
加えて言うなら、今会ってきたばかりかこれから会うのか、この階層に相手がいる可能性がある。そう思いついた瞬間、アスナはまた言い表しようのない寒気を背筋に感じた。
風邪をひいてしまうときのようなものとは違う、不快極まりないゾクリとした感覚。同時に生まれる理不尽な怒りにも似た感情。
だが、それがいかに自分勝手極まりない思いであるかを自覚できないほどアスナも子供ではなかった。
もっとも、
「ちょっと気分転換にね。そういうキリト君こそ珍しいね。どうしたの?」
「あ、ああ……ちょっとな」
彼の言動と行動から答えを求めようとするくらいには自身を抑えられない子供でもあった。
彼の濁すような言葉に、アスナは益々自分の考えを確信に変える。間違いないかも、と。ここで同時に、先日同様の「これ以上はもうやめておこうよ」という自身を諌める警鐘が胸に響く。
一度それで失敗、後悔しているのだ。これ以上土足で彼に踏み込むような真似はやめた方がいい。彼には彼の、彼だけのプライベートがあってしかるべきなのだ。
そう、頭ではわかっていても、心が納得してはくれなかった。
(本当、自分が嫌いになりそう)
そう内心で自分を蔑みながら、理性的な自分とは裏腹に心が思考を支配してしまう。どう聞けばいいか。当たりさわりがないか。
あるいは、ここでそれを知ってしまってスッキリし、自分を納得させたいという思いもあったのかもしれない。
彼との関係がたとえこれで最後になってしまおうとも。
「何処かに行ってきたの?」
「……まあな」
キリトの言葉に、予想は前者、今会ってきたばかりなのかと思いつつ、念の為に続ける。「もうやめなよ!」とけたたましく自分の中で警鐘が鳴っているが、口は勝手に動いていた。
彼の発言からすでに用事が終わったことが伺えるが、念の為に裏を取る。あらゆる可能性をシミュレートし、彼の言葉の真実を探ろうと貪欲なまでに思考が加速される。
「……ふうん、そっか。それじゃあこれからホームに帰るところ? 今日はもう結構遅いし」
「あ、ああ」
「じゃあこれから時間はあるわけだ」
「? まあそう言えなくもないが」
内心でガッツポーズ。思わず「やたっ」と言ってしまいそうになるのをグッとこらえた。
今の問答である程度の情報を得られた。やはり彼はこの低階層で何かをしてきた後だった。その何かが「サチ」なる人物との密会……ではなく逢瀬だったかはわからないが。
しかし「サチ」を捜してここまで来たアスナとぶつかったことから、まったくの無関係とは思えない。
それだけでもかなりの収穫だ。しかし一番の収穫なのは、
「じゃあこの後宿屋に一緒しない? 今度のボス攻略のこととか話しておきたいし」
今日の彼はこの後フリーなことがわかったことだ。先ほどまであれこれ悩んでいたのが嘘のようにその一点にアスナは着目してしまった。
まったく我ながら現金なものだ、と思いながらも心を躍らせる。結局、どんな状態だろうと彼と時間を共有したいと思う心に変わりはないのだ。
そしてこれまで、彼が単なるお茶の誘いはあまり乗ってこないのに対して攻略の話には食いつきが良いことは経験からわかっていた。
だからワクワくしながらいつもの彼の「ああ、わかった。良いよ」というお決まりの言葉を待ち望んでいた……のだが。
「え……あ、いや……」
彼が驚いたような、困ったような表情を浮かべた。その瞳には、これまで彼が見せたことがなかった辛そうな、悲しみの色が渦巻いているようにも見える。
まさか戸惑われる、場合によっては断られるとは全く予想していなかったアスナは、そのキリトの言葉の濁しように一抹の不安を感じた。
「どうかしたの?」
「その、えっと……この階層の宿屋には、ちょっと……」
尚も言葉を濁すキリトに、ますます訝しいものをアスナは感じた。この階層の宿屋になにかがあるのだろうか?
彼が宿屋に足を向けたくなくなるような何かが。もしそうだとしたら、果たしてそれは一体いかなるもの、いかなる理由によるものなのか。
わからない……そう思っていた時のことだった。
「よお! キリトじゃねぇか!」
「クライン? 久しぶりだな、まだ生きてたか」
クライン。それは確かにアスナにも聞き覚えのある名前だった。ギルド名《風林火山》。少数だが、今や攻略組の主力組織の一つと言って差し支えないほどのトッププレイヤーが集うギルドだ。
アスナも攻略会議や実際の攻略で顔を合わせたことが何度かあったことを思い出す。その顔は確かにその時のものとぴたりと一致した。
やや髭を伸ばした野武士のような顔にバンダナを巻いた風貌。“和”……というよりも“倭”をイメージさせる侍のような防具。
たしか曲刀のエクストラスキル、カタナを使うプレイヤーだったはずだ。彼のカタナ裁きはカタナプレイヤーの中でも随一と聞く。
「あったりめぇよ! しかし、まさかまたこの階層で会うとはな」
「…………」
「あ、わり……」
その時、空気がやや変わったのをアスナは見逃さなかった。話だけを聞けばクラインがキリトとこの階層で会うのは初めてではないというだけの、単なる知己との再会の言葉にしか聞こえないが……他にも意味があるのだろうか。
あるいは、過去ここで会った時に何かがあったのか。なんとなく、場の空気がその予想が恐らくは正しいもの……当たらずとも遠からずだろうとアスナに感じさせる。
一体何があったのかは大いに気になるところではある。これまで、自分を除けばキリトにここまで親しく話すプレイヤーは自身御用達の鍛冶師プレイヤーとキリト御用達の商人プレイヤーくらいしか見たことは無い。
やや失礼ながらも交友関係は比較的少なそう、狭そうだと思っていた自分の予想が外れているとは思わない。だからこそ意外だった。
そんな当のクラインは、少しばかり凍てついた空気を和まそうと話を変えることにしたらしい。
「そ、それにしてもお前が誰か他のプレイヤーといるなんて珍しいな!」
「あ、いや……アスナとはたまにパーティを組むくらいで……俺は相変わらずソロだよ」
「アスナ……? っておまっ!? まさかこの方は……!」
クラインが驚いてアスナをまじまじと見、やや硬直する。アスナは不思議そうに首を傾げるが彼の視線はアスナに釘付けのまま動かない。
苦笑気味に肩を揺らして、キリトは一歩前に出て口を開いた。
「一応紹介しておくか。攻略会議とかでお互い顔を合わせたことくらいはあるだろうけど、こちら血盟騎士団の副団長でアスナ」
「どうも」
「んで、こっちがギルド《風林火山》のリーダー、クライン」
「…………」
「……おい? なんだよラグってるのか? なんとか言えよクライン」
「…………」
硬直したまま動かないクラインを訝しげにキリトは見つめ、彼の目の前で何度も手を振る。「おーい」などと声をかけているキリトの様がどうにも微笑ましい。
やがて硬直の解けたクラインは満面の笑みを貼り付けてアスナにへこへこと頭を下げた。
「しっかしよぉ、まさかお前がかの有名な閃光様とこんなに親しい間柄だったとは」
「……別にそんなんじゃないさ」
「あ、酷いなーキリト君」
「そうかあ? 彼女もこう言ってるぞ」
「からかうなって。アスナも悪ノリするなよ」
「ははっ、ま、それはおいておくとしても……良いことだろ?」
「……どう、なのかな」
「少なくとも俺はお前が他のプレイヤーといるのは嬉しいぜ。“あの時以来”かたくなだったお前が……」
「っ!」
場が明るくなってきたところで、また異変。クラインが零した言葉に、キリトはそれまで浮かべていた微笑を崩して俯いてしまった。
それはやはり、彼に過去何かがあったことを匂わせる。そして……それをこのクラインは知っているのだ。
彼に近しいプレイヤーの一人として実はそれなりに隠れた自負があったアスナだが、クラインとキリトの間でしか知らないことがあることに、僅かばかりの嫉妬を覚える。
まったくもって馬鹿馬鹿しいことだが、彼の事を自分より知っている人間がいたことがアスナは面白くなかった。
(私って、こんなに狭量だったっけ)
そう自問してしまうほど、アスナ自身も驚いてはいる。キリトの隠している何か、だと思われるその内容、あるいは一端を把握しているだろうクラインへの羨望と、どうして自分ではないのかという嫉妬。
なぜ彼には話せて自分には話してくれないのかという理不尽極まりない思いが小さな暴風となって内心で吹き荒れていた。
「っと、悪いな、今日はどうも口が辺に滑っていけねぇや。どうだ? 一緒にメシでも」
「……いや、この階層には長くいたくないんだ。悪いな」
「……そうか」
「それじゃあな、アスナも。また」
「え、あ……うん」
キリトは手短に会話を切ると、とぼとぼと転移ゲートの方へと歩きだしてしまった。そういえば宿屋に誘ったのに、ということを思い出したのは彼が転移してからだった。
しかし、今の彼の背中はこれまで見てきた中でも特別頼りなさげで、弱弱しかった。吹けば倒れそうな、とても最前線でソロプレイができるとは思えない儚さだった。
一体、彼に何があったというのだろうか。
「あいつはまーだ引きずってやがんのか」
そんな時だ。まだ隣に立っていたクラインの口から漏れた言葉がアスナの意識を急速に引き込んだ。
“まだ引きずっている”というのはどういうことか。クラインは一体何を知っているというのか。
「あの」
「ん?」
「キリト君のこと何か知ってるんですか?」
「……あ~、キリトに何があったのか、ってことですかい?」
バツが悪そうにクラインは後頭部をガリガリとかきながら明後日の方を見る。どうやら自身の言葉が失言だったと思っているようだ。
だがその仕草がアスナに確信させる。キリトのあのかたくなまでのソロでいることへの拘り。その理由をこの人は知っている、と。
羨ましいと思う一方、純粋に知りたいとも思う。彼に、一体どのようなことがあってそうなったのか。
クラインはやや気まずそうに、アスナの顔を伺いつつ口を開いた。
「あんまり人に言うようなことじゃないんですが……」
「他言はしません」
「……まぁ、アスナさんなら大丈夫かな。攻略会議でどんな人かはなんとなくわかってるつもりだし、あのキリトがパーティを組むことがあるってんだから。あ、そうそう、これも言いにくいんだが……あいつがビーターだってのは……」
「知っています」
「あいつはそのことを引きずっていましてね」
「それもなんとなくわかってます」
「そんなあいつでも、一度ギルドに入ってたことがあるんです」
「……え」
「初耳でしょ?」
「え、ええ」
重そうに開かれた彼の口から出た言葉は、アスナにとって予想外の事実だった。キリトのギルド所属経験。
そんな話はこれまで聞いたことなどない。クラインを疑うわけではないが、そんなことがあれば自分の耳に届かぬはずはないのだが……とアスナは訝しむ。
だいたい、彼ほどの人間が加わったギルドならもっと有名になっていてもいいはずだ。
「経緯とか全部知ってるわけじゃねぇんですが、確かにあいつは一度ギルドメンバーに入った。確か名前は『月夜の黒猫団』だったかな」
(月夜の黒猫団? やっぱり聞き覚えのない名前のギルドだけど……キリト君が参加していてそんなはずは……)
「……あいつは本当は優しくていい奴なんだ……なんですよ」
「? それはわかってます」
「そうですかい? ならいいんですけど……」
クラインはそこで一旦会話を切ると苦い表情をした。言いにくい、と言わんばかりの迷っている表情だ。
これ以上を本当に口にしてしまってもいいのか、と今更ながらクラインは葛藤しているのだろう。気持ちはわかる。他人の秘密を第三者においそれと話してしまうのは気が引けるものだし信用問題になりかねない。
だがアスナはどうしても知りたかった。キリトに何があったのか理解したかった。真っ直ぐな目でクラインの言葉をグッと待つ。
その姿勢にクラインは誤魔化すことを諦めたのか、はたまた心の底から彼女になら話しても大丈夫だろうと感じたのか、再び重い口調で言葉を続けた。
「何があったのか、あいつはちゃんとは俺にも言ってくれなかった。ただ……あいつ以外のギルドメンバーは全滅した」
「!?」
ギルドメンバーの全滅。それはつまり、ギルドの崩壊、ギルドの消滅をも意味する。同時に、聞き覚えが無かった理由を瞬時に悟った。
すでに無いからだ。彼が所属していたギルドそのものが。いつ、どの段階だったのかはわからない。だがキリトがずっとソロであると信じて疑わなかったアスナは、少なくともそう最近のことではないと確信する。
そうでなければいくらなんでも知らないはずはないからだ。
「あいつの端々の台詞と偶然の目撃者からおおよその経緯はこうでしょうなあ」
クラインは、自分の知る範囲での、予想を含めた経緯を語り始めた。
要約するとこういうことだ。
その日、資金がたまった月夜の黒猫団はリーダーがギルドホームを買いにいき、他のメンバーはレベル上げに向かった。
しかし、そこでなんらかの罠にかかるかしてしまい、メンバーはキリトを残して全滅してしまった。
クラインが聞いたところによると、メンバーの一人が宝箱の罠を発動させたらしいとのことだが、キリトはどうもそれを自分の責任だと深く思っているようだった。
「一つ確定情報なのは、リーダーがそれを知った時、キリトを蔑んで自殺したって話です。これはたまたま目撃者がいて、そいつから聞いた話だけど」
「……そんな」
「それからあいつはかたくなさをより一層増しました。誰かと関わることをより怖がるかのように」
「そんなことがあったなんて……」
胸がキュンと締め付けられる。今すぐ彼の傍にいってギュッと彼を抱きしめてあげたい。彼が今生きていることの意味をより深く感じて欲しい。
ある程度わかっているつもりで、彼の事を誰よりも理解しているつもりで、その実全然理解できていなかったのだという事実が、アスナに自分の思い上がりを苛立たせる。
どうして、もっと早く気付いてあげられなかったのか。何故、人に教えてもらうまで思い至らなかったのか。
実際にはそれを知るには尋ねるよりほかなかっただろうが、それでもアスナは自分を許せなかった。キリトに何かしてあげたかった。
そんなアスナに追い打ちをかけるように、クラインの語るキリトの冒険譚……辛い過去は勢いを増していく。
「それから少ししてのことなんですけど……ほら、クリスマスイベントがあったでしょう?」
「あ、確か蘇生アイテム……」
「そう……あいつはそれに躍起になってた。協力しようと言ったがあいつはかたくなにソロでいることにこだわって……当時のレベル上げには最適なスポット、一グループ1時間ずつの蟻スポットにソロで潜り続けてた。多分あの時のあいつは二、三日寝ないのはザラだった」
「…………」
アスナもそのスポットには覚えがあった。アスナ自身もそこで当時は幾分稼がせてもらった記憶がある。しかしあのスポットを一人で戦い続けたなど正気の沙汰ではない。
それは実際に経験したことのあるアスナだからこそわかる。当時なら経験値も申し分なく蟻の湧出(ポップ)も早いお得な場所だ。だが、問題は湧出(ポップ)が異常に早いということだ。
うっかりするとあっという間に囲まれる恐れのあるあの狩場は、最低でもフォーマンセル、四人一組で動くのが望ましい。スリーマンセル、三人組ですらやや不安が残ると言うのに一人で挑むなど自殺行為だ。
当時のキリトに今会うことができるなら、どんなに嫌われようと叱りつけてでもやめさせるだろう。そんなことをしていては命がいくつあっても足りはしない。
同時に、先日も思った彼の強さ、経験の幅の広さは「やはり」と思わざるを得なかった。
「オマケに当時の聖竜連合にも目をつけられちまった。まあこれは俺のせいでもあったんですが。キリトは何故か不明だったフラグボスの出現ポイントを絞り込んでて……間抜けな話だが後をつけた俺の後を奴らもつけてきていやがった」
「それで、どうなったんですか?」
「聖竜連合が来たのは俺のせいだ。だからあいつは先にいかせて俺を含めたギルドメンバーは聖竜連合に対峙しました。当時の連中はフラグボスの為なら一時オレンジカーソルになるのも厭わなかったし……中々に大変でしたけど上手いことデュエルでの決着で話をつけて、撃退に成功しましたよ。それから少し経ってからかな、あいつは結局そのアイテムを入手して戻ってきた」
「……でも、あのアイテムは……」
「そう、蘇生は死亡してからわずかな時間しか有効じゃなかった」
「……」
それを知った時の彼の心境やいかなるものだったのだろうか。そもそも一年に一度のフラグボスと一人で戦うなど尋常ではない。それも勝って帰ったというのだから驚きだ。
聞けば聞くほど胸が痛くなる。彼の強さが同時に儚くも思える。そんなことを続けていれば、いずれ死んでしまうと不安に押しつぶされそうになる。
「キリトの奴は絶望してましたよ。俺にそのアイテムをよこしてあいつはまた何処かへいっちまった」
「……そうでしたか」
それは想像するに難くない事だった。そうまでして手に入れたかったもの。手に入れたのに、望むものではなかったもの。その失望感など推し量るに余りある。
彼は一体、あの小さな体にどれだけの物を背負っているのだろうか。今更ながらにアスナはそう思う。
そして、可能ならその重荷を少しでも受け持ってあげたいと願う。彼は、もっと周りに……自分に頼っていいのだとそう思ってやまない。
恐らく、クラインも同じ気持ちなのだろう。だからキリトの事を気に掛ける。それは単なるデスゲームに巻き込まれた者同士、という仲間意識だけではないような気がした。
そんな考えを読まれていたかのように、クラインは続ける。
「あいつはさ、俺の恩人、師匠みたいなもんなんです」
「……?」
「初めてSAOにログインしたあの日、まあデスゲームの開始日でもあるんですが、そうと知る前に出会ったアイツは一目でβテスターだって思って、いろいろ教授してもらったんですよ。今の自分があるのはあいつのおかげです」
「では、キリト君とはかなりの初期から……」
「ええ。そのあとみんな広場に集められて、これからのことを知った時も、あいつは俺を連れて行ってくれようとしたし」
「え……」
それは……失礼ながら少々意外な話ではある。アスナ自身、彼をビーターと蔑むつもりは微塵もない。だが、βテスター達はゲーム開始後すぐにリソースの独占に走ったことで嫌われている事実がある。
βテスターであった以上、そして自身をビーターとして名乗りを上げた以上、彼もまたその一人ではあったはずなのだ。
始まりの街から初めて外に出た時のことはアスナとて忘れてはいない。右も左もわからず、いつモンスターに襲われて死ぬのかビクビクしながら満足に戦うことなどできなかった。
最初は誰しもそんなものなのだ。そんな相手を、もしくはそれに近い相手を連れて出るのはリスクアップでしかないのに、彼はそれを厭わなかったのか。
だが、続けられた言葉にアスナは納得する。
「けど、俺にも他に約束してた仲間がいた。俺一人ついていくわけにはいかなかった。キリトもそこまでの大人数を抱え込むのには不安があったみたいでした。当然です」
「……じゃあ」
「……結局、俺はあいつの誘いを断った。あいつは泣きそうな顔でまたな、って言ってくれましたよ」
キリトはやはりソロで旅立っていた。しかし、その旅立ち方は思っていたよりも違っていた。βテスターでも、彼はやはりアスナの知る彼そのものからのスタートだった。
それが、なぜかアスナは嬉しかった。別に彼がβテスターとしての知識をフル活用して一人リソースの独占を図ろうとしていた、と聞いても思うことは特にない。
このような状況ではそれも仕方のないこと。自分だってそうしていたかもしれないのだ。ましてやあの時の自身の精神状態を思えば、自分こそ何をしていたかわからないと思う。
そのような状況下で、それでも他人を気遣うという優しさを持っていたキリトに、なぜかアスナは誇らしさすら感じていた。まるで我がことのように喜びが込み上げる。
そんな、やや満足そうなアスナに、今までよりもさらに神妙な顔つきになったクラインは震えるような声で言った。
「えっと、頼みがあるんですが」
頼み、とはなんだろうとアスナは疑問符を浮かべながらクラインを見つめ、息をのむ。
そのあまりの真剣な表情に、一瞬緩んでいた感情を引き締めた。何故か真面目に聞かねばならない、そう思わせるほどに彼の佇まいや表情は先ほどまでと一変していた。
「そんなことがあったあいつだから、きっと人一倍誰かと一緒にいるのを怖がってるんだと思うんです」
「そう、でしょうね」
「けど、アスナさんとはパーティを組むことがあるんでしょう?」
「私が半ば無理矢理に誘ってるんですけどね……」
「それでいい、それでもあいつが一緒にいてもいいって思える人は貴重なんです。だから、それでいいからあいつを一人にしないでやってくれませんか。俺はあいつに死んでほしくないんだ」
「……っ」
「頼むよ……! ……頼む……! この通りだ……!」
必死で頭を下げるクライン。その顔は真面目で、誰よりもキリトのことを心配しているのが読み取れた。
クラインも、彼に“魅せられた”一人なのだろうとアスナは確信する。それは、彼の頭を下げる必死さからもひしひしと伝わってくる。
「あのバカタレを……キリトを、頼む……!」
その痛切な声……願いは、アスナの心に、耳に、深く深く残り刻み込まれた。