リーファは部屋に入ると、ログアウトの前にメールを打ち込む作業に入った。
《アルン》で待っているであろう《彼女》に現況報告をする。
「えっと……」
【今ルグルーにいるよ、何も無ければ明日中には合流できると思う。成り行きで三人パーティでそっちへ向かってる。遅くなってごめんね、シリカちゃん】
彼女は怒らないだろうが、すぐに駆けつけると言っておきながらなんやかんやで遅れているのが申し訳ない。
せめて状況を言っておこうと思いそのメールを送信して、リーファはベッドで横になった。
良い時間だし、このまま寝落ちログアウトした方が楽だろう。目覚めた時は現実の朝だ。
そう思ってリーファは瞼を閉じ、今日あったことをなんとなくゆっくりと反芻する。
……なんだこれ。
すぐにその言葉が出てきた。漫画みたいな一日だった。
ゲームの世界なんだから不思議というほどでもないが、この一年ここの住人と言って良いほどこの世界にいるリーファにとって、今日は久しぶりに刺激が強い一日だった。
全てはエリカ、という会ったばかりのプレイヤーによるものだろう。
「エリカ……さん、か」
どうしても、さん、と付けてしまう。
付けるのが、自然になってしまう。
恐らく、現実で自分はあの人をさん付けで呼んでいるのだ、という気がしてならない。
「明日会ったら、お礼を言わないと」
だが、今は彼女の正体よりも感謝の気持ちを伝え忘れた事に申し訳なさを覚えた。
ユージーンなどという、最強プレイヤーに正面から挑み、自分を守ってくれた。
シグルドに関しても、彼女は動くつもりだったのだろう。全てではないが、レコンとの会話は聞こえていた。
シグルドとは同じパーティにいた。彼の不遜さは余り好きではなかったが、確かに彼は強い。
リーファは束縛されるのが嫌いだった。せっかく自由に飛ぶことの出来る翅があるのだから、何物にも囚われないで大空を好きに羽ばたいていたかった。
だから彼のパーティに勧誘された際、パーティを自由に抜けられることと、狩りに参加したくない時は参加しないという口頭での約定を結んで参加した。
……破綻は速かった。彼は思った通り強い。しかしその不遜で傲慢な所がどうしても鼻につき、リーファとは衝突した。
それを見たレコンが、そのやや根暗根性を遺憾なく発揮して彼をゲーム内で《毒殺》してやろうと彼を《ホロウ・ボディ》という透明化する魔法を使って尾行したらしい。
その時に、レコンは見てしまったのだ。彼、シグルドがサラマンダープレイヤーと通じている事を。
聞いてしまったのだ、彼が領主であるサクヤを売り、サラマンダーに恩を売ることで、近いうちに導入予定と噂の《転生システム》によって自らを現在最高勢力であるサラマンダーへと種族変えを行い、それなりの地位を用意してもらうと。
それを知ったリーファは少しだけ迷った。この時に、丁度現実でネットを介して知り合った《シリカ》と世界樹を攻略する約束をしてしまい、すぐにでも合流すると言っていたのだ。
しかし彼女は気にしないで、と言ってくれた。事件が解決するまで待ってるから、と。
その為リーファは彼の罪の所在を糾弾した。彼女にとっては自由こそ全てで、領地争いにはさほど興味が無かったが、かといって自分の種族の、大好きになった場所を裏切りによって汚されたくないという思いはあった。
レコンがバッチリ証拠を取っていたおかげで、シグルドの考えはすぐに白日の下にさらけ出され、彼は追放処分となった。
速くこの件を片付けてしまいたかったという思いもあったせいか、全てはリーファが率先して行い、領主サクヤの判断も速かった。
だが、それが余計にシグルドからの怨みを買う結果になった。
彼は最後、視線で人を殺せるんじゃないかというほどリーファを睨み付けて、スイルベーンを去ったのだ。
それが今日の結果を招いた。
ユージーンについてはその数日前にまで事は遡るが、シグルドを含めたパーティでの狩り中に会い、戦闘になったことから、今思えばあれもシグルドの手引きだったのかもしれない。
今日の二人にはやや顔見知りのような雰囲気も見受けられたので、その可能性は十分に考えられた。
「ふぅ、何かやだな……」
こうしてみると、自由を求めていたはずが、知らぬ間にしがらみに囚われつつある。
世界樹攻略の為に今回領地を出ることにしたわけだが、これによって少しは変わるだろうか。
しがらみという名の糸を、引きちぎれるだろうか。
蝶は蜘蛛の糸に絡まってしまうとそう簡単には助からない。
そうはなりたくないとリーファは思う。
「VRゲームって、どんなゲームでもこうなのかな。それなら……《お兄ちゃん》はどう思っていたのかな」
リーファ──《直葉》は、そんなことを思いながら、眠りに落ちた。
「……朝、か」
明日奈/アスナは目覚めてまず、眠る前にはあった筈の身体にしがみついている娘の温もり、その質量がない事に溜息を吐いた。
わかってはいたことだが、ゲームから出てしまえばユイと接触する術はない。
SAOでなら、目覚めた後も彼女の抱きつくような重さが心地良かったりした。
時々……いや大体半々くらいの確率でそれが彼、キリトの方にも向かっていて、いろんな意味で羨ましいと思ったりしたものだ。
アスナは一度目を瞑ると大きく息を吐いて……起きあがる。
今日は家庭学習を粗方片付けねばならない。流石に二日間《宿題》を無視したとあっては何を言われるかわからない。
ALOで知り合った子とは夕方に合流する約束をしたことだし、今日はそれまで机の上に積まれた分厚い参考書類を片付けていこうと決める。
味気の無い朝の通過儀礼を一通りこなして、机に向かい、用意された参考書を手に付けて数時間。
そろそろお昼かな、などと時計を見ながらたった今全ての問題を終えた参考書を閉じる。
あと二冊は同じような本が残っているため、合流時間までに全てを終わらせられるかは微妙だった。
だがこのペースなら恐らく母親からの文句もあるまい。いくらあの母と言えどそこまで速度は求めていないはずだ。
既に生まれ始めていたマージンにホッと一息吐き、この数時間を振り返る。
一心不乱に文字を目で追い、頭の中をそれらで一杯にした。
もともとこういった作業には慣れていたこともあるが、今は余計なことを考えたく無いという点でこの勉強は都合が良かった。
溜息を吐いて椅子から腰を上げる。そろそろ昼食の時間だ、そう思ってリビングに顔を出して……絶句した。
「やあ」
そこには、見たくない顔の男が座っていた。
何故、この男が今ここに座っているのだ。
「須郷さん……来てたんですか」
掠れそうになる声を必死に隠す。
正直、一秒たりとも長くこの場にはいたくない。
高そうなスーツを着込み、青と白のネクタイをして、ややブラウンがかった髪をワックスでしっかりとオールバックに硬め、フレームレスの眼鏡の奥に細く優しそうな目をした好青年。
須郷伸之。アスナの父親が会社で信を置いている須郷さんの息子で、彼自身にも父は多大な期待を寄せている事がアスナにはわかっていた。
だが、
「つれないね、昨日も君は食事の約束を反故にしていたし」
「……用事があったんです」
アスナにとってこの男は嫌悪の象徴だ。
嫌らしい欲を、両親の前では巧みに隠し、自分や兄の前ではそれをひけらかす。
何より、その時の目と、爬虫類を思わせるような舌なめずりする癖が、アスナの生理的に受け付けなかった。
「ふうん、そうかい」
「それじゃ」
「食べていかないのかい? もうすぐお父さんも来るよ」
「……いりません」
この男と食事など、御免だ。
約束させられていたのなら嫌々でも参加するが、今日はそういうわけでもない。
ここで一緒に食事する必要性を感じなかった。
「退院してまだ日が浅いんだろう? 食べておいたらどうだい」
「食欲が無いので」
まさか面と向かって「貴方とは一緒に食べたくない」と言うわけにもいかないアスナはさらに断りを入れる。
さっさとここを離れたい、という思いがどんどん膨れあがっていく。
アスナは彼に背を向け、足早に去ろうとしたところで、須郷は嘲笑が混じったような声でポツリと口を開いた。
「彼、桐ヶ谷君って言ったっけ?」
「っ!」
アスナは足を止めて振り返る。優しそう、と形容した目は《やはり》、一瞬で爬虫類……いや肉食獣が捕食物を見つけた時のような目に変わっていた。
その目、視線が舐めるようにアスナの全身を視姦しているような錯覚を彼女は感じる。いや、錯覚などではないのかもしれない。
「どうして……」
「君の両親が話していたよ、よくお見舞いに行っているそうじゃないか」
楽しそうな口調にはやはり何処か嘲りが混じっていて、アスナを苛立たせる。
この男の口から、彼の名前が出たこと自体、アスナは生理的不快感を持っていた。
「彼、SAOでは君のなんだったんだい?」
「貴方には、関係ありません」
「ふむ、それもそうか。いや気になったものだからね、つい」
「SAOサーバー内の事は国のお役人さんからも口外しないように言われているので、みだりに口にしない方がいいですよ」
……特に自分の前では。
アスナは吐きそうになるようなこの男との会話を、必死に耐えながらそう返した。
出来れば、もう二度とこの男から彼の名前など出て欲しくない。
「そうだったね、これは失礼。でも心配だよねぇ、せっかくSAOはクリアされたって言うのに目覚めないなんて」
「……」
全く心配そうではない、心にもないような声色で言われる言葉に、吐き気が倍増する。
意識が沸騰しそうになる。いい加減、この男の声を聞いているのが不快だ。
そもそも彼の名前が出たからと言って足を止めたのがまずかった。さっさとここを離れよう。
「ところでさ」
そう思っているのに、この男はどうやらまだ会話を打ち切らせる気が無いらしい。
身体が震える。怒りにも似た激動が体内を滝の激流のごとく駆け巡る。
「そのSAOって今どうなってるんだろうね?」
「……どういう意味ですか」
「SAO事件の後、開発元のアーガスが解散したって話は知ってるかい?」
「……話だけは」
ソードアート・オンラインを開発していた茅場晶彦の会社は、膨大な賠償金を求められ解散を余儀なくされた。
それはアスナも話としては知っていることだ。
「ん、良かった。知っていて。それじゃあその後、SAOサーバーはどうなったか知ってるかい?」
「え……」
アスナはあまりそういった方面に詳しくない。先の話も自分が目覚めた時に大々的にニュースで取り上げられていたのを偶々見ただけに過ぎない。
考えたことも無かったが、普通に考えれば、国が預かり保障しているのではないだろうか。
そんなことをアスナが考えていると、
「今現在、SAOサーバーの維持、管理を任されているのは《レクト》だよ。当然僕は部門的にもそこの統括管理主任ということになっている」
「ッッッ!」
驚くべき事実を知らされる。
この男が、現在SAOサーバーの管理者。
ここにきて、彼が珍しく長々と自分と話をしていたことをアスナはようやく理解した。
「どうする……気ですか」
「別に? ただねぇ、君も目覚めたことだし僕にとってはこれ以上負債しか生まないあのサーバーを維持する意味ってあんまり無いんだよねぇ、当然会社なわけだから利益を求められるわけでさ、そろそろ部下達の不満や上からの圧力にも耐えかねちゃいそうでね、ここは一つ、サクッとサーバーを止めちゃおうか……なんて」
「……!」
「ククク……君もそんな顔をするんだねぇ」
須郷の言葉に、一瞬にしてアスナは恐怖を顔に貼り付けた。
万一、SAOサーバーに手を出して、その中に未だ囚われている人達に……彼に何かあったら。
そう思うと恐くて仕方がない。
「そんなこと、出来るわけが……」
「うん、そうだね。でもそれは技術的に不可能なんじゃなくて、やらないだけで《出来ない》わけじゃない、この意味、賢い君ならわかるだろう?」
「……何を、させる気?」
「随分と恐い目で見るんだね、もう一度わかりやすく言っておこうか。今、彼……桐ヶ谷君の命は僕が維持していると言ってもいい」
「っ!」
いやらしい笑みを貼り付けた捕食者を気取る目に、アスナは何も言えなくなる。
この男は、彼、キリトを人質だと暗に言っているのだ。不用意な真似は……出来ない。
その時だった。
「すまんね須郷君、おお明日奈、丁度良かった。これから食事なんだ、一緒に食べないか」
明日奈の父、レクト・プログレスのCEO、結城彰三がリビングに現れる。
須郷は立ち上がり頭を下げつつ先程までとは打って変わった本物の《ような》笑顔で軽く答える。
「いえ社長、全然待っていませんよ。明日奈さんは私も誘ったのですが少々体調が優れないそうですので」
「そうなのか。大丈夫か明日奈?」
「……うん」
「本当に具合が悪そうだな、出来ればせっかくの機会だし昨晩の話も詳しくしておきたかったのだが」
「社長、急ぐ必要はありませんよ。私はいつまででも待つつもりです。気持ちが第一ですから」
「そうかね? うむ悪いな須郷君」
「いえ」
微笑む須郷に気をよくした明日奈の父、彰三は、その後少々気まずそうに明日奈に振り向く。
やや視線を泳がせながら彼は娘の名前を呼んだ。
「あー、明日奈」
「何? お父さん」
「今すぐというわけではない。だが、お前は将来……この須郷君と結婚してもいい、とそう思えるかい?」
「ッッッ!? な、なん……でそん、な」
自分が、彼、キリト以外の男性、それも──嫌悪の象徴でしかないこの男と結婚?
絶対に嫌、と即座に否定したかった。
否定しなければいけなかった。
だが、須郷の目が、面白そうにアスナを見つめていた。
その返事如何では、どうなるんだろうね? とそれは言外に物語っていた。
SAOサーバーの話をされた後とあっては、迂闊な事を言う勇気を、アスナは持てなかった。
今アスナに出来るのは、悔しいことに、とりあえずの《逃げ》だけだった。
「ごめん、なさい……お父さん、今は、ちょっと気分が悪いから、そんなこと、考えられない」
「そうか、悪かったなこんな時に。部屋に戻って休みなさい」
「……はい」
アスナはビクビクと震えながら、リビングを後にする。
突然の事に本当に顔色が悪くなったアスナは、幸いにも父親に不審がられず、純粋に体調を心配されながらリビングを《脱出》出来た。
アスナのいなくなったリビングからは、父親と須郷の楽しく談笑する声がアスナの耳にも届く。
それを聞きたくなくて、耳を塞ぎながら足早にアスナは自室へと移動し、ベッドに飛び込んだ。
不意に、涙が零れる。
「キリト君……会いたいよ、キリト君に、会いたいよ……!」
そこにいない彼が、アスナは恋しくて仕方がなかった。
彼の温もりに触れ、安心したかった。
彼さえいれば、他に何もいらなかった。
「キリト君……っ!」
ギュッとシーツを強く掴む。
彼女の枕が、涙で濡れた。
「いらっしゃい」
店のドアを開けて入ってきた少女に、店主である大柄で浅黒い肌にスキンヘッドの男性──エギルは笑顔を向けた。
その手はグラスを丁寧に磨いている。
店の名はダイシー・カフェ。喫茶店とバーを兼ねたような店だが、その境は曖昧だ。
「お久しぶり、ですねエギルさん」
「そうだな、元気だったかシリカちゃん」
「はい」
彼女は小さく微笑んで頷く。
エギルが小さく手招きして目の前のカウンター席を指差し、それの意図を理解した珪子/シリカはとてとてとカウンター席に腰掛けた。
シリカはゲーム内でもそうだったようにツーサイドアップに髪を留め、上は黄色いセーターを着込み、下は長めのスカートという出で立ちだ。
エギルは磨いていたグラスを置くと、奥の冷蔵庫からオレンジジュースの瓶を取り出してトクトクと注いだ。
「これは俺の奢りだ」
「良いんですか?」
ああ、と微笑むエギルにシリカは「ではいただきますね」とグラス取り、口を付ける。
途端、目を丸くした。
「す、酸っぱい……」
「はっはっはっ、そうだろう? 本来の百パーセントオレンジジュースってのはそんなもんなのさ」
「うぅ」
「待ってろ、今薄めてやるから」
「お願いします……」
エギルはイタズラが成功した子供みたいに笑いながら改めてオレンジジュースをシリカの前に置いた。
今度は普通のオレンジジュースだ。
「それにしても……驚きました」
普通の味になったオレンジジュースに口を付けたシリカはグラスを置いて、意外そうに呟く。
今日ここに来たのは、彼から連絡があったからだ。
「まあ何人かは現実でも連絡を取れるようゲーム内で連絡先を交換していたし、偶然俺のことを担当した国の役人が話せる奴でな、と言っても完全に信用できそうな奴では無さそうだったが……そいつに情報提供の代わりに俺の提示するプレイヤーの連絡先を教えてくれるように頼んだのさ」
「ああ、それで……」
彼から連絡があった、とは実は正確ではない。
正確には自分と連絡を取りたいというSAOでのプレイヤーがいるが、引き合わせても良いか、連絡先を教えても良いかという問い合わせが総務省SAO事件対策本部から彼女に来ていた。
相手の名前がエギルだと聞き、また彼の連絡先を先に教えられ、簡単に本人確認を取って今日二人は再会する運びとなったわけだ。
「まあ商人だったせいもあってな、仲の良かった奴の安否は気になって……ってわけだ」
「そうですか、でも私もこうやって現実でも会えて嬉しいです」
シリカはSAOでよくよくエギルのお世話になっていた。彼が中層プレイヤー支援に力を入れていたおかげかもしれない。
稀に店でキリトに会えるせいもあって、シリカは店に通っているうちにエギルとも打ち解け、エギルが行おうとしていたキリトのマイナスイメージ、ビーターの悪名払拭を少しばかり手伝っていた。
シリカにとってもキリトは恩人だ。彼の力にはなりたかった。
もっとも、もし本人の耳に入れば絶対「そんなことはしなくてもいい」と言われるだろうが。
「お互い無事で何よりだ」
「そう、ですね……」
「どうした?」
「あ、いえ……」
シリカは少し悩み、しかしエギル相手ならばいいか、と話すことを決めた。
だいたい、いつも二人の共通の話題は彼から始まり彼で終わるのが通例だ。
「キリトさんのことを、エギルさんはご存じですか?」
「……シリカちゃんは知っているのか?」
「はい」
「……どうやって知った?」
「その様子だと、エギルさんも知ってるんですね?」
「……どこまで知ってる?」
「どこまで? いえ、私が知ってるのはまだ目覚めていないってことくらいしか……他に何かあるんですか?」
意外そうにシリカが尋ね、逆にエギルは少しだけ苦々しい表情に変わった。
少ししゃべり過ぎた、という顔だ。
咄嗟に、シリカには何かあるという直感が働いた。
「何か知ってるなら、教えてください」
「その前に、シリカちゃんはどうやってキリトの事を知ったんだ?」
「偶然、みたいなものです」
「偶然?」
「はい、例のSAOサイト、知ってます?」
「ああ、あのサイトか。結構生還者プレイヤーが出てるな」
「退院してからあそこに私も時々顔を出していました。そこで、SAOの事を尋ねている同じ年くらいの女の子と知り合ったんです」
「女の子?」
「彼女は、偶然にもキリトさんの妹でした」
「な……!? そんなことが……」
「私も最初は信じられませんでした、でも、キリトさんから聞いた、キリトさんの家族しか知らないであろうことを彼女は本当に知っていたんです。それで私は確信しました」
「その子のリアルネーム、わかるか?」
「はい」
「直葉、かい?」
「!? 知ってるんですか?」
「名前だけはな、良かった。本当に本物のようだな」
エギルはホッとする。
そういった類の詐欺やら何やらは警戒しすぎて困ることは無い。
「で、その子からまだキリトは目覚めていないと聞いた、と」
「はい。直葉ちゃんは少しでもキリトさんの事を調べるためにあの掲示板で情報収集していたみたいでした」
「なるほどな……」
「今度はエギルさんの番ですよ」
「む……」
エギルは少し困った顔をした。言ってもいいかと迷っているようだ。
しかしこちらは話したのだから、聞かねば割には合わない。
そんな視線でエギルを見ていると、彼は諦めたように溜息を吐いた。
「わかった。ただし、言えないこともある」
「どうしてですか?」
「他のプレイヤーが関わっているからさ。そのプレイヤーの情報は伏せさせてもらう。別に悪い相手なわけじゃないが、勝手にそいつの情報を漏らすのはいろんな意味でまずい」
その理由にはシリカも頷けた。
仮にエギルがシリカの事で知りえた情報をバンバンと勝手に他人に回していたらと思うと良い気はしない。
それには納得せざるを得なかった。
「わかりました」
「よし。じゃあまず俺がキリトのことを知っていた件についてだが、大まかなことはそのプレイヤーから聞いたのさ。妹のことも含めてな」
「なるほど」
ではエギル自身よりもそのプレイヤーがキリトに近い所にいる、ということだろうか。
一体誰だろう? とシリカは脳内で知っているプレイヤー名簿を検索する。
「ここまではお前が持っていた情報と中身はほとんど同じだ。んで次がこれだ」
エギルはそう言うと、数枚のカラープリントされた紙をカウンターに取り出した。
ややドットが荒いそれは、無理矢理大きさを引き延ばしたものだろうと予想がつく。
その紙には、長い黒髪の女の子と思われるような誰かが檻の中にいる、というものだった。
「これがどうしたんですか?」
「……やっぱ《普通》はそうだよなあ」
「???」
「よーく顔を見てみろ」
「顔……?」
言われてからシリカはじぃぃっと顔を注視する。
荒い映像からはやや判別がしづらいが、不満そうな顔をしていて……少しばかりボーイッシュにも見える。
そう、例えば、キリトの髪を長くしたらまさにこのような感じに……。
「え、そんな、まさか」
「ああ、俺も似たような心境だった」
「これキリトさんなんですか!?」
「わからん」
シリカのやや裏返ったような声に、エギルは肩をすくめた。
本当に彼にもわからないらしい。
「でも直葉ちゃんはまだ入院してるって……これ、どこで撮られたものなんですか?」
「ゲームの中だよ、アルヴヘイム・オンラインっていう」
「えっ」
途端、シリカは言葉を失った。
そのゲームは今まさに、彼女が手掛けているゲーム名だった。
「んで、さっき言ったプレイヤーってのが、一目見て相当自信満々にこの写真の相手はキリトだって言い張るんだよ。今頃その事実を確認するために頑張ってる頃だろうさ」
「……あの」
「ん?」
「私も、今そのゲームやってるんです」
「は……? な、なんだと!?」
「しかも、直葉ちゃんと一緒に」
「お、おいおい……マジか」
流石のエギルも口をポカンと開けて驚愕の顔を隠せないでいた。
それは……なんていう偶然なんだ?
「これ、アルヴヘイムの何処で撮られたものかわかっているんですか?」
「確か、世界樹って呼ばれるゲーム最終目的のでっかい樹の上の方、って話だ」
「……私、そこの攻略に近いうちに行くんです、直葉ちゃんと。早ければ今日か明日にでも行くことになると思います」
「……偶然、なんて言葉じゃ片づけられないような話だな」
「はい……あの、エギルさん」
「ん?」
「やっぱり、そのプレイヤーの名前、教えてもらえませんか」
「……向こうで協力するつもりか?」
「もし、その写真の人が本当にキリトさんなら、協力したいです」
「……後悔しないか?」
「……はい」
シリカはしっかりと頷き、真っ直ぐにエギルを見る。
エギルはその真摯な眼差しに自身の後頭部を軽く撫でた。
「これだから俺はアルゴの真似事はできねぇんだよなぁくそ。本当は勝手に教えちゃまずいんだろうが……」
「……」
「ええい、わかったよ。教えておく。そのプレイヤー名は《アスナ》さ」
「え……アスナって……」
「血盟騎士団の副団長、加えて言うなら、ゲーム内で最後はキリトと結婚していたよ」
「け、結婚……!?」
それは初耳だ、とシリカは耳まで真っ赤になる。
まさかキリトがゲーム世界で結婚しているとは思わなかった。
知っているなら教えてくれても良かったのに。
「まあ結婚のことまで知っていたのはプレイヤーでも本当にごく一部だ。二人は有名だからな、必死に隠そうとしていたよ」
「まあそうでしょう、ね……」
それは頷ける話だ。
血盟騎士団の閃光アスナ、と言えばSAOでも一、二を争う美人プレイヤーで、その強さもトップレベルだと聞く。
キリトもビーターという悪名こそ先行していたが、その強さは折り紙つきで、最後には非公式だがファンクラブまでできてしまったほどなのだ。
ちなみにシリカとエギルは二人とも早期にそのファンクラブ、《FCKoD》に参加していたりする。
シークレット写真と銘打たれた写真の半分程度はエギルがこっそり撮ったものを提供して儲けていたのは余談だろう。
「そっか、そのアスナさんがキリトさんを捜してるのか……」
「まあ、あいつら本当に最後は……いや、なんでもない」
「……」
エギルは口を閉ざす。やはり言うべきことでは無いと判断したのだろう。
それが、彼らに配慮してなのか、それともシリカの内心を配慮してなのかは定かではないが。
「……とりあえず、向こうで会えたらそれとなく話してみて、協力できそうなら協力してみます」
「ああ、わかった。何かあれば連絡をくれ。俺もいくらかはSAOプレイヤーとの伝手があるからな、協力できることは協力するさ」
「わかりました」
「それとだな」
「……?」
「絶対にキリトだって保証があるわけじゃないんだ。とりあえずはそのゲームを純粋に楽しむことを考えた方がいいぞ」
「……はい、ありがとうございますエギルさん」
簡単な挨拶を済ませて、シリカはダイシー・カフェを出た。
胸の中には少しばかりの寂寥感が渦巻いている。
それは、恐らく久しぶりに会えたエギルとの別れを惜しむ物ではない。
「結婚、かあ……」
一つの、小さい思いが、人知れずにピリオドを打たれ、もう顔を出すことがない、ということ。
最初に宣言したとおり、後悔は無い。後悔は無いが、やっぱり、ちょっとだけ、胸が痛い。
釣り合わないとは思っていた。思いも届かないとわかってはいた。
でも、それが決定的になると、やっぱり辛いものだ。
「いいもん、私には……ピナがいるもん。現実でも《あっち》でも」
気丈に背筋を伸ばして、シリカは帰途につく。
リーファ/直葉からのメールで、速ければ今夜、もしくは明日の晩くらいにはアルヴヘイムのアルンで合流出来る。
そうしたら、目一杯頑張るんだ、と心に決めて。
ついでに、本当についでに、そこでキリトに会えることを、少しだけ期待しながら、シリカは家に着くまで無理矢理背筋をピンと伸ばしていた。
涙は、最後まで流さなかった。
妖精王オベイロンは、少々肩透かしを食らっていた。
今日はどのようにして《彼》をいじり倒してやろうかと考えながら意気揚々と仮想世界の牢獄に赴いてみれば、閉じこめていた《玩具》は力なく項垂れたままだ。
いつもは最低限不機嫌そうな顔をするか、寝ているか、馬鹿な逃走方法を考え実践しているかで、その滑稽さに笑わせてもらえるのだが。
どう見ても《少女》にしか見えない男性アバターの《彼》は、妖精王の気勢を大いに削いでくれた。
それは妖精王の求めるところではない。彼はこれまで実に良い玩具ぶりを発揮してくれていた。まだもう少しはそのままでいて欲しいものだったのだが。
(前回はちょっと加減を誤ったかな、まあいい。《壊れる》ならそっちの《プラン》を繰り上げてこいつを使うだけだ)
妖精王は前回の彼との戯れに、少々失敗を感じながらも修正は可能だと脳内決済を回す。
《どう転ぼうと》彼には実用的な使い道がある。そう妖精王は思っていたし、事実そうなるよう《プラン》は組まれている。
さらに趣味……というよりも実に丁の良いストレスの捌け口、サンドバッグにもなるのだからエコロジーなことこの上ない。
仮想世界ではエコロジーも何も無いが、研究の一環として使える上、自分の苛立ちやストレスの矛先としてこれ以上無いほど最適な彼はまさに一石二鳥にも三鳥にもなる。
妖精王としては彼にはもう少しの間はそのまま頑張って自我を保ってもらって、研究《ついでに》自分の玩具に徹してもらいたかった。
玩具が玩具の体を為さなければ研究と《交渉材料》にしか使い道が無くなる。それでは妖精王オベイロン自体は楽しめない。
付加価値的なものであったはずのそれだが、今や妖精王にとってはそれこそが自身にとっては一番比重を占める彼の利用価値だった。
といっても彼も馬鹿ではないし、立場や状況を蔑ろにするほど自己欲求に忠実でもない。使えなくなったのなら泣く泣くとはいえ切り離す。
それが彼の利点であり、今の地位を築くまでに至った一つの要素だろう。
だから、もしかすると今日が最後かな、などと思いながら彼は今日も少女のような少年、《キリト》で楽しむ作業に入った。
「今日はこれまた随分と沈んでいるじゃないか、僕としても元気の無い桐ヶ谷君は気味が悪い。ガラにも無く心配をしてしまうよ」
「……」
「だんまりかい? 君が初手からだんまりを選ぶのは非常に珍しいね」
「……」
「聞いているのかい?」
「……」
「おい」
「……」
「聞いているのかと言ってるんだ、いつまで僕を無視する気だ? 随分と偉くなったもんじゃないか」
「……」
「玩具は玩具らしく持ち主の思い通りに動いていれば良いんだ、今は口を動かせと僕は命令してるんだよ」
「……」
「チッ、システムコマンド! 《ペイン・アブソーバ》、対象のレベルを8へ変更」
いつまでも項垂れたままのキリトに業を煮やした妖精王オベイロンは、システムの痛覚遮断レベルを変更する。
まだツマミ二つ程度だが、これを弄る事によって仮想世界内なら通常死ぬほどのダメージを受けても僅かな不快感しか感じない筈の痛覚を、本当に伝え、感じさせる事が出来る。
キリトの状態設定を変えると、妖精王オベイロンは《木刀》を手元に《生産(ジェネレート)》し、それをキリトの左肩に勢いよく叩きつけた。
「っ!」
「ほら、声を上げろよ」
ベッドに腰掛けたまま項垂れていたキリトは木刀の激しい鈍打に僅かに声を漏らして体勢を崩し、白いタイルの上に倒れる。
それを舌打ちしてつまらなさそうに妖精王オベイロンは眺めた。
彼からの期待したような反応は窺えない。本当に潮時のようだ。つまらない。
「なんだよ、もう壊れたのか? あっけなかったな」
「……」
「今日は約束通り君の病室へ明日奈と行って結婚報告をしたから、それをわざわざここまで足を運んで教えに来てやったのに」
「……」
「君には妹もいたんだねぇ、祝福してくれたよ」
「……」
「君の目の前で結婚報告をして、頭を下げた。いや実に笑えたよ、君とこうしてここで何度も会ってるからね、笑いを堪えるのが大変だった」
「……」
「最後は君の前で明日奈と誓いのキスを交わしたよ、彼女なんて言ったと思う?」
「……」
「ごめんね和人クン、だってさ、アハハハハハハ!」
「……?」
「……なんだ?」
キリトはこの時初めて、妖精王の言葉に反応した。
不思議そうな顔で、彼を見つめる。
「何か言いたい事があるのかい?」
「……アスナが、そう言ったのか?」
「ああそうだとも。残念だったねぇ桐ヶ谷クン!」
再び反応を示し始めたキリトに妖精王は気を良くした。
なんだ、まだ使えるじゃないか、と。
「彼女は少しだけ震えていたよ、罪の意識に似たものもあったのかもしれないねぇ」
「……」
「でも僕の口付けで彼女はもうメロメロさ。ごめんね和人クン、は最高の別れ言葉じゃないか?」
「……アスナが、本当にそう言ったんだな?」
「しつこいな、そうだって言ってるだろう? 信じたくない気持ちはわかるがねぇ、アハハハハハ!」
「……そうか」
キリトは起きあがり、再びベッドに腰掛ける。
だが、その目は少しだけ、本当に少しだけ輝きを取り戻していた。
オベイロンは彼がまだ使えることに満足してこの牢獄……《人籠》から出て行く。
その背中を見つめながら、キリトは僅かだけ希望を見出していた。
──和人くん。
どうしても、キリトには彼女が自分のことをそう呼ぶ姿をイメージ出来なかった。
彼女の口から発せられるのはいつだって「キリト君」なのだ。
それ以外の呼び名を、キリトは考えられなかった。
とすれば、全てはあの妖精王の狂言の可能性がある。そう思うと、少しだけ、本当に少しだけ希望が見えた気がした。
だからだろう。
脱出を試みよう、なんて《思ってしまった》のは。
それが彼の精神を崩壊させる序曲に繋がろうとは、僅かな希望に縋り付きたかった彼には、思いもよらなかった。