和人/キリトが、最初に自分で自作PCを組み立てたのは六歳の時だった。
その姿を見て、彼の母親は──正確な血縁上は伯母だが──言ったものだ。
「私のPCマニアの血が遺伝したのね、精神的に」
それの意味を正確に理解できたのは十歳の時だった。
キリトが興味本位で調べた住基ネットの自らの情報の抹消記録。
それが、自分は本当の家族ではないということの証明だと分かった時、周り全てが作り物に見えてしまった時期がある。
故に、キリトは以降ますますPC環境、それもネットに深く埋没するようになった。
ネットでの他人との関係は、作り物が前提だ。それならば、立場は皆同じだと、そう思っていた。
今ではそこまで卑屈じみた考えはない。
もっとも、そうきちんと思えるようには何の皮肉なのか、SAOでの経験によるものが大きい。
SAOでの他人との関わりは、全てが本物だった。今ならそう思える。
どんなに皮をかぶっても、中に本当の人間がいることに変わりはない。
そんな、当たり前で簡単なことに気付けていなかった。今なら少し疎遠になっていた妹──血縁上は従妹──とも、きっと仲良くできる。
キリトはそう思いながら、《人籠》にある唯一のドア、そこに付けられている金属のプレートと睨めっこしていた。
十二個のボタンがそこには陳列されている。
このプレートが液晶で、少しでもシステムを弄る為のものなら、キリトにも僅かに希望はあった。
しかしこのプレートは純粋にボタンだけの開閉装置でしかない。
それ故、キリトは早々に正攻法を半分諦め、システムプログラムの穴を探すべく二ヶ月間奮闘していたわけだが……結論から言うと無駄だった。
その様がオベイロンに言わせると滑稽で彼を非常に楽しませたりしたのだが。
傍から見れば滑稽そのものだったことだろうという自覚はキリトにもある。
まず彼はデバックミスを期待してありとあらゆる壁に突撃をかましてみた。実際に販売されるようなゲームのテストプレイには同じ壁にキャラクターを数百回ぶつけて通り抜けてしまわないか、という確認テスト作業があったりする。
それのデバッグが完璧ということは実はほとんどない。その穴を必死に探してネットで公開するような暇……もといやる気と根気のあるゲーマーも世の中にはいるほどだ。
とりあえずキリトはありとあらゆるオブジェクト、壁、システム障壁、それらに突撃した。
──その結果は、ここにまだ囚われている事が言わずとも答えになるだろう。
穴はどこにも見つけられなかった。これが娯楽目的でここにいるのならその完璧ぶりに舌を巻くが、そうでは無い以上憎々しいことこの上ない。
ならば、と次にキリトはありとあらゆるポーズを試した。
右手左手を何度も振るのはもちろんのこと、およそ考えうるシステムメニューを呼び出す動作を試してみた。
結果はやはり成果ゼロだった。メニューを開くこともできない。
彼の企みはシステムの裏をつくことだけにとどまらなかった。何とか人籠の檻を上まで登り、そこから下へとダイブ。
床……タイルももちろん破壊不可能オブジェクトであることは確認していた。しかし彼の目的は破壊ではなかった。
床に激突するのと同時に「ぐわあああ!」と痛がる声をだし、バタリと倒れる。キリトは実にそのまま三時間、横になったまま過ごした。
三時間後に、オベイロンが呆れた顔をして部屋に入ってきた時、言ったものだ。
「君ねえ、君にはHPも無ければペイン・アブソーバで痛みも感じないんだよ? 馬鹿な寸劇をやって恥ずかしくないのかい?」
……すごく、恥ずかしかった。
だがそれが妖精王をより楽しませ、彼のお気に入りとなっていく要因でもあった。
閑話休題。
そんなこんなでありとあらゆる手を尽くしキリトは脱出を試みたが結論は「無理」だった。
……これまでは。
最初に諦めた正攻法。
それを行うために必要なファクター、すなわち暗証番号を見ることにキリトは成功した。
よっぽど機嫌が良かったのだろう。加えてキリトの様子から《そんな元気はもうない》と思われたのだろう。
彼は背中に視線を浴びながらプレートを操作した。
「まさか、バッチリ見てる中で押すとはなあ……これまでの二ヶ月はなんだったんだ……」
キリトはそうぼやくが、これがかなりの幸運だということは理解していた。
恐らく、今日以外ならこんな幸運には恵まれなかっただろう。オベイロンとて警戒心はそれなりに強い。
だからこそ今までは正攻法を諦めていたのだから。
しかし、キリトも全て思い通り、とはいかなかった。
「……8……11……」
ボタンを押して、あと三つというところまで来て、迷う。
実は、キリトはラスト三つのボタン操作が見れなかった。
角度の問題だったのだが、無理矢理見ようとして不信がられるのも上手くないと思い、キリトは抑えた。
結果、あと残っている数字は2・3・9の三つとなるところで、手が止まってしまう。
「確率的にはまず三分の一か……」
おおよそ三十三パーセント。
得てしてゲームでは低いとは言えない数字ではあるが……、
「リアルラックが試されるな……う~ん三分の一だし、3いってみようか」
キリトは恐る恐る3を押してみる。
………………クリア。
……どうやら当たりのようだ。三分の一の確率、三十三パーセントの壁を見事乗り越えた。
「ふぅ」
息を吐いて、再び迷う。
かといってこういうのは入力の間隔が開きすぎるとエラーになってしまうので、時間はかけられない。
次に押すのは2か9か。どっちだ……?
確率的には二分の一、五十パーセント。半分の確率で当たり、半分の確率で外れる。
ムムム、と悩んだキリトは奥の手を使うことにした。
「ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な・ア・ス・ナ・の・い・う・と・お・り・!……っと」
指を交互に振って、キリトは選ばれた数字……2を押した。
……クリア。当たりのようだ。流石アスナだ、などとキリトは笑みを零す。
最後に9を押して、ガシャン……とキリトを閉じ込めていた《人籠》の重い錠はようやく開くサウンドを発生させた。
「良く考えれば最後は2・9……肉、か。アスナのご飯、食べたいなあ……」
ホッとしたせいで気が緩んだのか、はたまた余裕を取り戻したのか、キリトはこの二ヶ月で初めてそんなことを思う。
自分にしては珍しく、これまで食事についての欲望が湧きあがってきていなかった。
なんとなく、非常に良いことのように思える。自身の心が平常運行になりつつあるとキリトは自覚する。
僅かに開いた扉を手で押し広げて《人籠》から出る。それだけで、空気が変わったような気がした。
「でかい樹だな……」
世界樹、と呼ばれているだけあって、その樹は途方もない大きさだった。
自分が今立っているのは一つの小さい枝に過ぎない。現実では本当にありえない大きさだ。
キリトはとりあえず、巨木の幹に向かって枝の道を歩く。途中にシステムコンソールか何かは無いかと思いながらキョロキョロと首を回すが、残念なことにそれは見つからない。
足下は本当に樹の上を歩いているような感覚で、幼い頃の木登りの記憶が蘇る。
大きな世界樹の葉をひょろりひょろりと避けながら、そんな僅かばかりの懐古にやや感傷的になりつつ、感覚的には数百メートルほど進んだだろうか。
ようやくと太い幹とこの枝の接合部分にたどり着いた。枝と幹の接合部分にはぽっかりと黒い穴が開いている。
キリトはまるでダンジョンの入口みたいだ、などと思いながらその穴へと入ってみると、これまでファンタジー一色だった風景に初めて現実の面影を見せるような、金属の扉が待ち受けていた。
扉にはタッチパネルが据えられていて、恐らく開閉はこのパネルで行われるものだと思われる。
キリトは恐る恐る近寄り、念の為に辺りをキョロキョロ見回してから、そっとパネルに触れてみた。
ガシュッ。
音を立てて扉はスライドし、キリトに新しい道を開いてくれた。
思わず右腕を曲げて「よしっ!」と拳を握りしめる。ここまでは順調だ。ザマアミロ妖精王。
キリトは扉の中に入る。中はついさっきまでの幻想的ともとれるファンタジーワールドではなく、現実……よりもSFを思わせるような機械的な通路だった。
機械的、といっても近未来的なもの、ではない。逆に何も無いのだ。
真っ白。上も下も右も左も真っ白な通路。唯一、左右の壁の下に等間隔で薄いオレンジの灯りがぼんやりと浮かび上がっている。
「手抜き通路、かな……通れればいいっていう……」
なんとなく、ゲーマー心をくすぐられつつ「この通路のグラフィックは無いな」と厳しめの採点を下しながらキリトは真っ白な通路を進む。
他に道は無い。行くしかないのだ。
「……長いな」
真っ白い通路を歩いてどれだけ経っただろうか。
既に数分は経っているような気がするが、実のところは数十秒かもしれない。
行けども行けども変わらぬ風景というのは不安を煽る。ここは仮想世界だ。
もしかするとこの先に果てなど無いのではないか、という不安にもかられてしまう。
走っても走っても果てない通路。ゲームのダンジョンなどでは実際にあることだが、自分が今体験しているのかと思うと少しだけゾッとした。
そんな時に再び先ほどと同じような扉が現れた。ホッと息をついてキリトはパネルに触れる。
ガシュッ。
同じように音を立てて扉は開く。
今度は直線ではなく左右に分かれるT字路のような場所になっていた……と、その時だった。
「あ……」
たった今入ってきた扉が消えてしまった。
つなぎ目すら見えない。パネルも無い。
念の為に少し触ってみたが、扉があった形跡さえ既に無かった。
「本当にダンジョンみたいだな、オマケにボス部屋間近、みたいな。ここからは撤退不可ですよってか。脱出アイテムや魔法も無効なんだろうなどうせ。『大魔王からは逃げられない』とはよく言ったもんだ」
そんな魔法やアイテムは持っていないが、キリトはやや冗談交じりにそう呟く。
飽くまでゲーム、そんな体勢を崩さないようキリトは必至だった。
やはりどれだけ取り繕おうと、中々恐怖には抗えない。いつ見つかり連れ戻されるか、それを思っただけで足はガクガクと震え、鉛のように重たくなる。
だが、撤退できない以上進むしかない。なら、せめてお気楽なフリでもしないと。
そうしていないと、キリトは緊張に耐えられそうになかった。
キリトは少し迷い、まずは左に進んでみる。
どうやら今度の通路は真っ直ぐではなく円弧を描いているようで、もしかするとさっきの場所までぐるりと一周することになるかもしれない。
「お」
そんな事を思っていると、ライトグレーの壁に下向きの三角ボタンが浮き出ており、隣にはスライドドアがあった。
現実のエレベーターのそれを想起させる。キリトは通路の奥を少しだけ睨み、ボタンを押した。
通路の奥はやはり円弧を描いている。恐らくこのまま歩いても一周してしまうだけだと判断した結果だ。
スライドドアは静かに開いてキリトの侵入を受け入れる。四つほどボタンがあることから、四階層に別れているのだろう。
キリトは迷わず最上階から一つ下の階層を選んでボタンを押した。
ここはダンジョンだ。ならばいきなり最下層は危険すぎる……そんな勘が彼には働いていた。
どちらにしても虱潰しに探索するなら一つずつ順番に行った方がいい。
三角ボタンが下向きにしか無かったことから、恐らく自分が最初にいた場所は最上階。
だからキリトは一つ下の階層を選んだ。
スライドドアが閉まると、驚いたことに僅かな降下感覚を伴って小さい箱部屋が動いている……ような気がする。
エリア移動時のラグをアバターにそういった感覚を与えることによってよりリアルさを追求しているのか、それとも単にリアルに四階層ビルのような場所としてここは作られているのか。
だとするとその真意が気になるところではある。仮想世界には必ずしもリアリティを追求しない部分が存在するのだ。
例えばこのエレベーターだが、仮想世界間のエリア移動なら《ワープ》を用意することは可能だ。
実際SAOでは転移結晶や転移門からのテレポートが可能だった。
さらに言えば地続きである必要性も無い。四回層あるなら、大きな空間に四つの部屋、でも良いわけだ。
あらゆる可能性を可能に出来るのがこのVR世界である。
それを、あえて現実に近い環境で行う理由、それは……、
「ここは、VR世界ではあってもゲーム世界じゃないってこと、かな」
仮想世界がゲームオンリーとは限らない。
例えば、VR世界に大きな会社の建物を用意し、全国でダイブした人達がその会社で働く。
流石にそこまで世の中が進んでいるとは思えないが、VR世界でも仕事は可能なのだ。それこそ、IT関連なら特に。
そこで、キリトはハッと思い出す。妖精王が言っていた悪魔のような研究を。
「そうか。ここでなら……仮想世界内部で研究すれば、情報の秘匿は現実よりは強固で楽、か……?」
SAOサーバー、という単語が頭を掠める。
恐らくは世の中でも悪魔の代名詞となっているこれに、そう易々と入り込んでくる輩は多くはあるまい。
何せ人命がかかっている。中には愉快犯や《だからこそ》ハックをしかける者もいるだろうが、SAOサーバーの守りがその程度で貫けるなら一万人のプレイヤーはとっくに解放されていただろう。
ここはSAOではない、というのはオベイロンの言葉の端々からキリトは理解している。
しかしここが非常にあの世界に近いそれであることは想像に難くない。ならば守りも劣らず盤石だと考えるべきだ。
「いつも思うけど、悪巧み考える奴の方が、発想力っていうか、凄いこと思いつくもんだよな……」
と、そこで降下感は無くなり、目の前のスライドドアが開く。
念のためにこそこそとドアの左右に人がいないか確認してからキリトはエレベーターを出た。
システム検索をかけられたらこんなことをしていても一発で見つかってしまうが、極力細心の注意は払いたい。
数歩進んで、初めてまともな部屋らしき場所を見つけた。
扉の前にパネルがあり、《データ閲覧室》と書かれてる。
(これは……!)
キリトは内心で喝采を叫ぶ。
思わぬ収穫、というところだろうか。期せずしてシステムの中枢らしき場所を見つける事に成功した。
落ち着け、とやや荒くなった息を整える。呼吸はSAOと同じく必要ないはずだが、仮初めの心臓はバックンバックンとオーバーワーク気味にキリトの緊張を増大させた。
ふぅ、ふぅ、ふぅ。
何度か小さく深呼吸して、キリトはパネルにそっと触れてみる。
ガシュッ。
問題なく扉は開くがキリトはまだ入らない。
少しだけ耳を澄ます。内部での人の会話、システムサウンド、なんでもいいから情報を拾いたかった。
「……?」
だが幸か不幸か、得られた情報は皆無。いや、正確に言えば何も聞こえなかったという情報は得られた。
恐る恐るキリトは内部を覗いてみる。
「……誰もいない、か?」
《データ閲覧室》はそれなりに広い。
現実世界と違い、サーバー容量内で賄えるならどれだけ大きくしようと問題ないのだから、それはおかしな事ではない。
ただ、こうも広いと中に誰かがいてもわかりそうにない。
部屋の中央にいくつもディスプレイが付いた大きな円柱があり、いくつかゲームセンターの格闘ゲームのような端末も据え置きされている。
他にも床には至る所に何かの台のような機械がいくつもあり、その殆どは天井に向けて光の柱を生み出していた。
中央の円柱は楕円だと思われ、天井とくっついているが、あまりの太さに柱というよりはメインコンピュータだと考えるのが正しいだろう。
キリトはごくり、と息を呑んで《データ閲覧室》に足を踏み入れた。あれがメインコンピュータなら自分をこの世界から出すことが出来るかも知れない。
無駄なこと、だと理解しながらもキリトは腰を低くして、こそこそと中央のメインコンピュータへ近づく。
そろりそろりと出来るだけ音を殺して。ひっそりと。
あと五歩、四歩……三歩…………二歩………………一歩……………………!
ドッと跳ねそうになる心臓を、そこに無いと分かっていても左手で胸を抑えて、キリトは落ち着かせる。
同時に右手はメインコンピュータのコンソールへと伸ばして……止まった。
「え」
ふと、視線を感じた。
そんな気がして、怯えつつも右をちらりと見る。
そこには───────信じられない《人》がいた。
「あ、あ──────────────」
光の柱。
名前もわからない床にくっついている台座のような機械から天井に向けて──もしかしたら天井から床の機械に向けて、なのかもしれないが──薄ぼんやりとした光柱が伸びている。
その、光の中に、忘れたくとも、忘れられない存在がいた。
台の上で、こちらを見つめているその存在は、白い足を浮かせ、水中をたゆたうように上下にゆっくりと僅かに動いている。
黒い、忘れようも無いほど黒い髪。
短めの、ややおかっぱじみたその髪型はしかしそれほど幼さは感じさせなくて。
華奢な肩幅から伸びる細い身体のラインは、思った通りのもので。
一糸纏わぬ姿。
だが一切いやらしい気持ちは湧き起こらない。
掠れた自身の声が、遅れて偽物の聴覚を刺激した。
「サ、チ──────────?」
台座の上で、たゆたいながらこちらを見つめているのは、もう二度と会うことはないと、そう思っていたはずの……少女。
光の柱の中で、うっすらと微笑みさえ称えながら、彼女はそこにいた。
だが彼女は死んだはずだ。
──それなら彼女は何だ?
彼女はもう二度と戻ってくることはない。
──それなら彼女は何だ?
彼女はサチではない。
──それなら彼女は何だ?
サチは光の柱の中で微笑んでいる。
今にも口を開きそうだ。
『ねえキリト、久しぶりだね』
そんな懐かしい彼女の声が、耳に届いた、ような錯覚。
いいや、錯覚なものか。
だって、目の前にはサチがいるんだ。
「サ、チ……サチ……」
『どうしたのキリト?』
「ハ、ハハ、ハハハ……」
キリトは、ゆっくりと光の柱に手を伸ばす。
たゆたうサチは、それに合わせるように腕をキリトへと伸ばしてきた。
ああ、懐かしい。彼女はここにいた、ここにいたんだ!
その時だった。
キリトに与えられた偽物の聴覚は、侵入者を察知する。
だが、今はこの手でサチの感触を確かめたくて、ただひたすらその時を待っていた。
「だからさあ、やっぱ女性アバターの出来が言い訳よSAOのは!」
「わかったわかった、でもあんまりSAOデータ引っぱって遊んでると上に怒られるぞ? 仕事はちゃんとしろよ」
「わかってないなあ、あれにNPC突っ込んで夜の相手させたら凄いぞきっと!」
「お前趣味悪いなあ、だいたいNPCなんて同じことしか言わねぇだろ」
「んー、プログラムから作ってもいいけど面倒ではあるな。あ、そうだ、ほら、感情模倣機能付けたメンタルヘルスAIあったじゃん? あれ流用できないかな?」
もう少しで、あと少しで彼女の手に触れる。
失われたはずの彼女が、ここにいると確かめられる。
「お前、そういうこと考えるのはいつもすげえな」
「へっへーん……っておい、誰かいるぞ?」
「? 見たこと無い奴だな、あんな可愛い子いたか?」
「……ありゃSAOサーバーからのジェネレートアバターじゃない! 誰だ!?」
もう少しもう少しだ。
手が触れる。
サチはそこにいる!
「おい! アバター消せ! 侵入者だ! 上にばれると厄介だぞ!」
「わかった!」
キリトが手を伸ばした先で、サチが同じように手を伸ばしたまま、二人が触れ合う前に。
それは、起こった。
────パリィン。
「─────あ」
サチが、消える。
微笑んだまま、サチが消える。
結晶になって、ライトエフェクトを振りまかせて、かつてのように、その姿を拡散させながら彼女は消えていく。
「あ、あ、あ────────」
『……ありがとう、さよなら』
フラッシュバック。
あの時の記憶が、蘇る。
声が妙にリアルに再生される。
「ああああああああああああああああああああ!」
膝をつく。
わかっていた。
彼女は死んだのだと。
わかっていた。
死者は蘇らないのだと。
わかっていた。
ここに彼女がいるはずがないと!
それでも信じたかった。
縋り付きたかった。
だって、その姿を見てしまったから。
「おいお前! ……っ!?」
白衣を着たひょろひょろの眼鏡男がキリトの肩を掴んで彼を引っぱり、息を呑んだ。
白衣の男は、言葉を発せられなかった。
《その目》を見て、二の句を告げられなかった。
だが、肩を掴まれたキリトは相手の肩越しに、もう一人、見つけてしまった。
「……ア、アス、ナ……アスナ……アスナ……!」
間違える筈の無い彼女が一瞬視界の隅に映った。
白衣の男を押しのけて、彼は駆け寄る。
何か後ろで叫ぶ声が聞こえるが関係ない。
部屋の隅の台座の上で、光の柱の中、たゆたう彼女。
耳上で編み込んでいるブラウンのロングヘアが揺れる。
彼女もまた一切何も身体に纏わず、生まれたそのままの姿で、そこにいる。
神々しい。
眩しいとさえ思えるほどそれは美しい。
華奢な肩。そこからすらりと伸びる手は思いも寄らぬ敏捷力を兼ね備えていると知っている。
伸びる白い脚。随分と細いその脚から生まれる脚力は恐ろしいほどのパワーとスピードを生む。
彼女の、全てが愛しく、美しい。まさに美の頂点。理想的なライン。
「アス、ナ……」
光の柱の中で瞼を閉じ、ゆっくりとたゆたう彼女に、吸い込まれるようにキリトは近寄っていく。
助けを求めるように。許しを求めるように。癒しを求めるように。
あれはアスナだ。間違える筈がない。アスナだ。間違えよう筈がない!
「おい! 何やってる! 早く全部消せ!」
「わかってるって!」
「お前いつまでその《ナメクジアバター》でいる気だ!? だから遅いんだろうが!」
「うるさいな!」
視界の隅に大きいナメクジが見えたが、どうでもいい。
アスナに触れたい。アスナと言葉を交わしたい。
アスナと時間を共有したい。
全ての希望だった。この二ヶ月、彼女との再会を夢見て頑張ってきた。
彼女ともう一度会いたくて、必死だった。
本当に、ただ彼女と会いたい。それだけだった。それだけだった……!
やっと、会えた……!
たゆたう彼女の前に、ようやく辿り着いたキリトは、万感の思いを込めて彼女の名を呼ぶ。
「……アスナ」
呼ばれた《アスナ》はゆっくりとその瞼を開いていき、
「……え」
───キリトを、冷たい眼差しで見下ろした。
こんな彼女の目を、キリトは見たことがない。
彼女から向けられた事がない。
「アス、ナ……?」
震えるような声で再び名前を呼んでも、彼女は答えない。
ただ、知らない相手を見るような、冷たい眼差しで見下ろすのみ。
感情の無い瞳で、まるで興味がないとキリトを見つめる。
『ごめんね、和人くん』
「あ、そん、な……」
再び膝を付く。項垂れてしまう。
全てが溢れ、零れていく。
キリトの中の、《大事な何か》が零れ出ていく。
最後に、もう一度だけ、期待を込めて、顔を上げてアスナの顔を見る。
彼女もキリトを見ていた。
──何の感情も映さない、その瞳で。
「アスナ……」
そんな目で見ないでくれ。
興味の無いような、知らない人を見るような、そんな目で。
『ごめんね、和人クン』
彼女に触れたくて、手を伸ばす。
だが、彼女の瞳の色は変わらない。
《興味がない》と目が語っていた。
それでも、きっと。
触れれば、あの笑顔をきっと。
見せてくれるんだろう……?
壊れそうな期待を、縋り付きたい思いを、全てを込めて伸ばした手の先で、
────パリィン。
彼女は、ポリゴンの結晶となった。
まるで自分から逃げるように。
まるで自分を避けるかのように。
まるで自分とはもう一緒にいられないと言うかのように。
「あ、あ……アアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
彼女が消える。
アスナが消える。
結城明日奈が消える。
目の前で、彼女が消えていく。
瞳の色は、最後までずっと変わらず、酷く冷めたままで。
彼女が、手の届かない所へ、行ってしまう。
『ゴメンネ、カズトクン』
頭の中で、その言葉が、抑揚のない無感動な彼女の声で、再生される。
「ア────────────────────────」
「お、おい……?」
大きなナメクジが──正確にはそれを模したボディのアバターが──キリトに声をかけるが、反応は無い。
突いても、耳元で大声を上げても、彼は反応しない。
瞳にも一切輝きが無い。ハイライトは消え失せ、瞳孔は開ききったままどこを見ているのかわからない。
既に、彼の中の時間は────止まってしまった。
(エリカさんらしくないなあ……)
直葉/リーファが最初に思ったことは、それだった。
ルグルーで再び落ち合ったメンバーは、変わらず三人+一人の組み合わせでルグルー回廊を抜けることに成功した。
ルグルーから出口までは近く、苦労はさほど無かった。
そのままぐんぐん行軍は進み、森の中に小さい村を発見した。
リーファは「はて? こんなところに村なんてあったっけ?」と首を傾げていたがアスナ/エリカが勝手に入ってしまい、エリカを追いかけた二人も村に入ったことで、《それ》は発動してしまった。
一言で言うなら、罠。村だと思ったこの場所は大きなミミズ型モンスターの口の上だった。
ミミズは口の周りの突起を建造物に見せるという、いわゆる撒き餌を使って冒険者を呼び寄せ、吸い込むという最低最悪なものだった。
ぱっくりと開いた穴からは抗えぬほどの吸引力が発生し、全員ミミズの胃の中へと収容されてしまう。
大変に気持ち悪い粘液が体に纏わりつきながらも、幸か不幸か全員死なずにどことも知れぬ場所へと放り出された。
胃酸によって溶かされると言う食べ落ちエンドを一瞬覚悟したリーファは、助かったのはこれ僥倖と思いつつ辺りを見回して……戦慄した。
ミミズの体の外に出られて一安心、とは残念ながらならなかった。
一面雪景色で空は暗く、翅も光を失っていて飛べない。飛行不可能フィールド。
それもさることながら、映像でしか見たことのない、邪心級モンスターがたった今目の前を闊歩していった。
あの類のモンスターが出るフィールドは一つしかない。
闇と氷の世界、《ヨツンヘイム》。
現在見つかっている隠しフィールドでも最難関フィールドにして未だ未踏破のフィールド。
大戦力を投入しても邪神級モンスターには全滅させられるのが常と専ら評判の最低最悪最凶の地下世界。
どうやら何故かそこに迷い込んでしまったらしい。
本来はやたらと難関なダンジョンを攻略しなければ来られない場所である。
まさかこんな裏ワザがあったとは。
アルンの東西南北にある大型ダンジョンの最深部にここヨツンヘイムへの入口たる階段があるそうだが、話によると、エリカですら手こずった──あのままやっていたら負けたであろう──相手であるユージーン将軍でさえ、その階段を守護する邪神モンスターには、一人で挑んで十秒程度で殺されたという情報がある。
現状のメンバーではとても攻略、踏破共に絶望的な場所と言えるだろう。
しかし、知らなかったとはいえ、あのエリカが何の考えもなしに村へ──正確には罠へ──入ってしまうだろか。
リーファは非常に高くエリカのことを買っていた。彼女の戦闘力もさることながら人柄はもちろん、冷静さや判断力も彼女はずば抜けている。
人の上に立つ資質、とでも言うのだろうか。そういったものをリーファは彼女に感じていた。
だが今日の彼女は危うい。昨日までのそれが嘘のようにやや落ち着きが無いように思える。
(現実で、何か嫌なことでもあったのかな……)
そう思いつつ、リーファはそれ以上の詮索を止めた。
ネットゲームで他人に対して深く入り込むことやリアルの詮索はマナー違反だ。
今は、どうやってここを脱出するか考えよう。
ずっとプライベートピクシーであるユイに慰められている、責任を感じて萎んだような顔のエリカを見つめながらリーファがそう決めた時のことだった。
「リ、リリリーファちゃん! リーファちゃーん!」
透明になる魔法を使える為、自信満々に偵察を買って出て周辺の探索に出ていたはずのレコンが、大声を上げて戻ってくる。
どうでもいいがそんな大きい声を出すとMobモンスターを呼びかねない。
「こらレコン! もう少し静かにしなさいよ! アンタそれでも隠密の達人なの!?」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ! 早く来て! こんなのそうそう見れないよ!」
「なんだってのよ……?」
「いいから!」
レコンがリーファの手を掴んで引っ張る。
エリカも何事かと思い、沈んだままの表情で顔を上げ、その後をついて行った。
レコンの目指す方向に近づくにつれ、何やら激しい音がする。
ぼすんどすん。
ぼすんどすん。 ぶるるるるぅ。
ぼすんどすん。
ぼすんどすん。 ひゅるるぅ、ひゅるるぅ。
──嫌な予感がした。
だが、その悪寒が働く頃にはすでにリーファの目にも音源の主たちが見えていた。
「ひえぇぇ!?」
思わず声を上げてしまう。
そこには、高さ二十メートルはあろうかという邪神級モンスターが二体いた。
これはレコンのイタズラか? 逃げられないと悟って最大限のイタズラを敢行したのか?
だったら殺す。一度デュエルで血祭りにあげる。
リーファがそんな危険な思考に至った時、エリカが小さく呟いた。
「戦ってる、の……? ALOってMobモンスター同士も戦ったりするのね」
「……え?」
言われて、リーファは二体の邪神級モンスターを見やった。
確かに二体の邪神級モンスターはこちらには目もくれずに戦っているようだ。
一体は縦に三つ連なった巨大な顔の横から四本の腕を生やした巨人のようなフォルム。
腕にはそれぞれ無骨な鉄骨のような剣を持っていて、顔のそれぞれが「ぼるるぅ!」と叫び声を発している。
対してもう一体はやや小型で──それでもリーファ達からみると相当に巨大だが──象のように大きい耳と鼻みたいな口吻を持ち、饅頭のような楕円の胴体から何十本も触手のように足が生えていた。
足の先は鉤爪になっていて、それで三面巨人が四本の腕に持つ、鉄骨のような無骨な剣をつかった攻撃をなんとか捌こうとしているが、追いつかない。
パワーが違うのか、振り回される四本の剛腕に下半身が水母のような象邪神……いや象水母邪神は何度も叩きつけられていた。
その度に痛い痛い、助けてと求めるような「ひゅるるぅぅぅ……!」という声を上げている。
象水母邪神は何度も離脱しようと試みるが、三面巨人はそれを許してくれない。
「ひゅるるぅぅぅ……!」
血しぶきのようなライトエフェクトが飛ぶ。
リーファの胸が、その度に痛んだ。
「……助けよう」
だから、ついその言葉を彼女は漏らしてしまった。
漏らしたことに自分でも驚いてしまった。
「ちょ、正気なのリーファちゃん!?」
レコンが至極まっとうなことを言う。
この場合、彼の発言は正しい。助けるとしてもどうやって?
そもそもプログラムでしかないモンスター相手にいちいち心を痛めていたらとても狩りなどできない。
こんな感情を持つこと自体、おかしいのだ。
リーファとて、それはわかっている。
だが可哀相だと、思ってしまったのだ。
レコンの信じられないというような視線を受けて、彼女は顔を伏せる。
「リーファちゃんて、私が捜してる人みたいだね」
「ちょっと、パパに似ていますね」
その時、エリカとユイの優しい声が聞こえた。
「え?」と顔を上げると、二人とも気にせず友好的に微笑んでいた。
レコンは目を丸くして「正気かよ!?」と零している。
「え、いい……の?」
「う~~~ん、まあ、良いんじゃない?」
「パパが言っていました! イジメカッコ悪い、です!」
「いや、それと今の状況はちょっと違うような……でもまあ、そういうことだね、うん」
エリカはリーファに微笑む。
彼女のMobモンスターを助けたいという言葉に、エリカ/アスナはキリトを思い出していた。
以前に、SAOでの攻略に際し、NPCを囮に使う作戦をアスナは立てたことがある。
その作戦に、キリトは最後まで反対した。
「NPCだって生きている」
彼の言葉を、今なら素直に受け止められる。
でも、それは彼という人がいなければ一生かかっても辿りつけない境地だっただろう。
その境地に、リーファが自分で辿りついていることが、アスナ/エリカは少しだけ羨ましかった。
「ちょちょちょ、ちょっと待ってよ! 本気なの!?」
既に行動が決定されたような空気の中、ただ一人まともな意見としてレコンが抗議の声を上げる。
邪神級モンスターの喧嘩に関わるなんて正気の沙汰ではない。
「レコン、今日は短い冒険だったわね」
「レコンさん、それでは」
「嫌なら一人で逃げても良いんですよ~?」
リーファ、エリカ、ユイにそれぞれ怖い笑顔で迫られ、彼はそれ以上の発言を許されなかった。
一言「わかりました……」と言って肩を落とす。
それにみんなで苦笑しながらどうするかと考えているうちに象水母邪神の触手がとうとう一本断ち切られてしまった。
時間が無い。
しかし、その戦いを見ていたエリカには閃くものがあった。
「今、斬られる時、どうしてもっと多くの触手で防ごうとしなかったの……? あ、そうか、このコ、自分の体重を支えるので精一杯なんだ……! ユイちゃん!」
「はいママ!」
「この近くに湖はない?」
「待ってください……あります! 見つけました! 北に約二百メートル行った場所に氷結した湖があります!」
「オッケー! みんな、作戦はこうだよ!」
瞬時にエリカがたてた作戦はこうだ。
遠距離魔法で三面巨人のヘイト……ターゲッティングを取り、目標をこちらに変えたところで猛ダッシュ。
湖まで逃げて、あの三面巨人を湖に落とす。氷結しているとのことだが、あれだけでかければ氷も割れることだろう……というか割れてください。
割れなければ「おおゆうしゃよ、しんでしまうとはなさけない」という言葉を甘んじて受けねばなるまい。
……このゲームでは王様に生き返らせてもらうわけではないが。
首尾よく湖の氷が割れればあの巨大邪神は湖の中だ。そうなれば、恐らく象水母邪神にも勝機はある。
水中なら、あの邪神はその触手を十全に使えるはずで、逆に三面巨人は戦力ダウンするだろう。
全て現実の事象に事をあてはめた推測でしかない。また、よしんば上手くいったとして最後には三面巨人が可哀相になったり、助けた象水母邪神に殺される可能性もある。
それでも、リーファはやると決めた。エリカはその姿勢に《彼》を想起させられ微笑む。
最後まで不満気だったレコンも覚悟を決めた。
果たして作戦は──これ以上ないほど上手くいった。
ほぼ全てエリカの目論見通り、三面巨人は湖の氷を割って中に落ち、動きが鈍り、逆に象水母邪神は水を得た魚のように優勢に立った。
不思議と三面巨人が可哀相にはならず、見事水中で三面巨人を倒した象水母邪神に三人+一人は拍手を送ったものだ。
それに気を良くしたのだろうか。象水母邪神は触手を伸ばして三人を捕まえると自らの丸い背中の上に乗せて進み始めた。
そこで初めて、レコンが閃いたように口を開く。
「これ、イベントクエストなんじゃないかな」
リーファは頷きながらも、だとすれば厄介だと頭を悩ませる。
ALOには依頼型クエストと参加型クエストがある。
前者はクエスト終了後に報酬が必ず用意されている。加えてスタートログも出るはずだ。
しかし今回はスタートログが出ていないので、可能性としては後者になる。
参加型クエストは、一連のドラマに参加するような形になるので、必ずしもハッピーエンド足りえない。
選択を誤ると、報酬が無いどころか死亡という最悪なペナルティをもらうこともしばしばある。
かくいうリーファも、以前ホラー系の参加型クエストに挑み、魔女に釜で煮られて死んだという苦い経験があった。
もっとも、エリカはホラー、と聞いただけで震えあがり、ユイを抱きしめてぷるぷると怯えてしまい、リーファの詳しい説明を半分も聞いていなかったが。
とにもかくにも、とりあえずの危機は去った、と思っていた。
どこに向かっているかはわからないがこの邪神は怒っていないとユイは言う。
リーファやレコンは首を傾げたが、エリカはそれを信じた。それならば悪いようにはならないだろう、と。
それ故三人+一人は象水母邪神の上で緊張を解き、このモンスターに名前までつけた。
トンキー。
それが決定された名前だった。
リーファが昔読んだ絵本に出てきた象の名前だ。
その話はエリカも知っていて、自らの案の「ダンボ」を取り下げた。
ちなみにレコンの案は「クラーケン」だったのだが、イカではないと満場一致の反対を受けてしくしく泣いていた。
「象でもないじゃん」という彼の不満は最後まで聞き入れられなかった。
トンキーの背に乗りながら一行は途中でヨツンヘイムの天蓋から垂れさがる大きな逆円錐の建造物にも気付いた。
リーファがあれは目的地である世界樹の根っこだと説明する。以前にスクリーンショットで見たのだと。
つまり、世界樹の根っこがヨツンヘイムの天井から延びてきていて巨大な氷を覆って逆円錐を形成しているのだ。
まさに世界の、いやゲームの神秘。そんな言葉がレコンから洩れた。
それまでは、ある意味平和だった。
エリカの膝の上で、足を組んで横になるユイにエリカが「はしたないよ」と怒り、「パパの真似です」とユイは照れる。
リーファは、なんとなくユイの仕草に記憶の隅をちくちくと突かれながらも、その組まれた足を鼻の下を伸ばして見つめているレコンに制裁を与えた。
そんなほのぼのとしたやりとりをしていると象水母邪神、改めトンキーはぴたりと停止して三人を降ろす。
そのままトンキーは、死んだように動かなくなった。
実際には生きていているが、一体どうしたのだろう、と訝しがりながら一行はトンキーが止まった先を見た。
そこには大きな黒い穴がぽっかりと開いており、ユイのアクセスデータによるとこの下にはマップが存在しないとのことだった。
つまりこの穴は底なしなのだ。
逆に上を見てみると、ここは先の世界樹の根っこが抱きかかえている氷柱の真下のようだった。
間接的にここは世界樹の真下と言う事にもなる。
氷柱の中にはうすらぼんやりと光があり、ところどころに階段やら通路が見え、ダンジョンを思わせた。
恐らくはとんでもない隠しダンジョンなのだろう。もしここに《彼》がいればはしゃいだに違いない、とエリカは思う。
ここに自分たちを連れてきてトンキーは何をしたかったのだろう、そう思った時のことだった。
「っ! プレイヤーが近づいてきます! 一人……その後ろに、二十三人……!」
大規模プレイヤー集団。
リーファの読み通りなら、このヨツンヘイムに来るパーティは重武装壁役プレイヤー八人、高殲滅力の火力プレイヤー八人、支援・回復役プレイヤー八人というところだろう。
ユイの言葉から相手は二十四人。先の読みは単なる通説だが、恐らく間違ってはいまい。
ヨツンヘイムに来るほどのパーティがここに向かう理由、それを瞬時にエリカは看破した。
「あんたら、その邪神狩らないのなら俺たちがもらうぜ」
水色の髪をしたプレイヤー。
一目でそうとわかるほどの強力そうな装備一式は、その水妖精族(ウンディーネ)がハイランク・プレイヤーだと言外に告げていた。
目的はやはり《トンキー》だった。
トンキーはあれから何故か動かない。弱っているのだろうか。
しかし、そんな理由など、普通のプレイヤーには関係ない。
倒しやすそうな邪神モンスターがいる。となれば狩らない手はないだろう。
過去の自分でもそうする……とエリカは昔の自分を思い返して、胸が傷んだ。
別にそれがおかしいわけではない。間違っているわけでもない。
でも。
「お願い! この子を殺さないで!」
今度も、先に動いたのはやはりリーファだった。
つくづく彼女は《彼》のような行動をする。それに心打たれるのと同時に、エリカの胸には僅かばかりの嫉妬が入り混じった。
どうして、《彼》を知らない人が、そこまで《彼》のように振舞えるのだろう。
そう思うと、酷く自分と《彼》の距離が遠い気がした。身も心も。
だがすぐに首をぶんぶんと振ってエリカはリーファの横に並んで同じように頭を下げた。
今できることは、誠意を伝えることだけだ。例え、無駄だろうとも。
「おいおいあんたら……って、随分なかわいこちゃん二人だな」
一瞬、水妖精族(ウンディーネ)のプレイヤーの声に、いやらしさが混じった。
現在、どんなゲームにも言えることだが、乙女ゲーでもない限り、ゲームユーザーは圧倒的に男性がそのシェアを占めている。
SAOもその御多分には洩れなかったし、ALOにおいてもそれは同じだった。
故に、美人の女性プレイヤーは重宝される傾向にある。
パーティメンバーにとっても、プレイヤーキル対象にとっても。
──リーファはすぐに嫌な予感がした。
「そうだな、あんたらがいろいろ楽しませてくれるってんなら、少しだけ考えないでもないぜ」
その予感は、的中する。
プレイヤーの中には喜んで女性を狩るプレイヤーや嫌がらせをするプレイヤーも多い。
セクシャルハラスメント対策の保護コードは存在するが、戦闘であればその限りではない。
こういった輩に会うのは、リーファも初めてではない。だが、その時は殲滅するか逃げるか、どちらにせよ《身を守る》行動が可能な状態の時に限られていた。
鳥肌が立つ。下衆な考えがその表情に映っているかのようだ。単なる嫌味な笑いなのだろうが、一度そう思ってしまうととことんこの相手が下卑た相手に見える。
水妖精族(ウンディーネ)の男が、そっとエリカの肩に触れる。
その時だった。
「ママに触れていいのはパパだけなんです!」
ユイが猛然と抗議し、エリカの胸ポケットから飛び出す。
水妖精族(ウンディーネ)の男は一瞬驚いたが、ニヤリと笑って呟いた。
「交渉決裂だな」
バッと片手をあげる。
途端、高位魔法がトンキーめがけて放たれ始めた。
目を背けたくなるような光景。トンキーのHPがみるみる減少していき、「ひゅるるるぅぅぅ」とか細い声で鳴いている。
リーファの胸に去来する哀しみと怒り。
エリカの胸に去来する憤怒と嫌悪感。
ユイの胸に去来する同族への憐憫。
だが、最初に爆発したのは、意外にも彼だった。
「うおおおおおお!!!」
レコンだ。それまでただ黙っていたレコンが一人、高位魔法を連発しているメイジ隊へと走り込む。
その意外な様に、リーファは動けなかった。信じられない、という気持ちもある。
彼は人一倍臆病で、戦闘の矢面に立つことを嫌う。その彼がどうして?
リーファにはわからない。
だが、それは当然の帰結でもあった。
リーファ以外預かり知らぬことだが、彼女達のパーティで、もっともゲーム経験が長いのは彼である。
それ故に、彼はパーティメンバーの誰よりもゲームというものの楽しさを知っていた。
ゲームを長く楽しめるということは、それだけ世界にのめり込めるということでもある。
リアルとゲームをきっちり分けられる人間ほど、実はその傾向は強い。
彼は、口にこそ出さずとも、トンキーを気に入っていた。
それは、トンキーを助けるのにゲーマーとしてこれ以上無い理由だった。
恐らく、リーファも、そしてエリカも彼の真意を掴めることは無いだろう。
唯一、ユイだけは彼の中に灯る思いに、気付いているかもしれない。その思いに、感動さえしているかもしれない。
ゲーム世界を、心から楽しみ、自分の現実とする。
レコンは、長くゲームをやっているが故に、ゲーマーとしてはその域に達していた。
心から楽しむ人は多くとも、ゲーム世界を現実と混同する人は多くない。
現実をゲームと混同する《にわかプレイヤー》は世に蔓延っているが、その逆は、非常に珍しい。
故に彼は、ゲームの中では基本感情の赴くままに動く。
その感情が、トンキーを助けたいと彼を動かしていた。
彼の体を深い紫色のライトエフェクトが包み込む。
それは闇属性魔法の輝きだった。複雑な立体魔法陣が展開する。かなりの高位魔法のようだ。
こんな魔法も使えたのか、とリーファはレコンの一面に驚愕する。
それに気付いたメイジ隊が顔を青くした。どうやら相手はこの魔法のことを知っているらしい。
「正気かよ!? どんだけデスペナあると思ってるんだ!?」
「……」
それにレコンは珍しく答えず、ニヤリと笑みで返す。
次の瞬間、複雑な光の紋様が一瞬小さく凝縮し、大爆音と共に閃光を生み出した。
大爆発!
彼の事を知っているリーファですら唖然とするその威力には、愕然とせざるを得ない。
驚いたことに、実に八人いた高メイジを五人、護衛に戻りかけた前衛剣士プレイヤーを三人、計八人ものプレイヤーをレコンは一瞬で葬ってしまった。
人数だけで言えば一パーティそのものを彼は一人で壊滅させてみせた。だが、その代償はとても大きい。
「レコン……? あっ!?」
リーファの視線の先で、緑色のリメインライトがチロチロと燃えている。
それで彼女は全てを察した。レコンが使ったのは、禁呪と呼ばれる自爆魔法だったのだ。
あれは通常の何倍もデスペナルティを課せられる諸刃の剣だ。
リーファは慌てて《世界樹の雫》という高価な蘇生用レアアイテムをメニューから取り出し、レコンのリメインライトに使用する。
すぐに彼は実体を取り戻した。横になったままの彼のその顔は、やや照れが入っている。
「う……少し、熱くなっちゃったよ……僕の事は、放っておいても良かったのに」
「馬鹿」
リーファは、彼を見直したように微笑んで上半身を抱き上げる。
エリカもユイも彼の働きに同じように微笑む。
彼のやったことは決して褒められたものではない。
だがその生き方は、嫌いではなかった。
「あんたら……!」
だが、脅威が全て去ったわけでもなかった。
怒り心頭になった水妖精族(ウンディーネ)の精鋭部隊は完全にターゲットをトンキーからこちらに変えている。
──それが、彼らの敗因だった。
トンキーの楕円の胴体が、割れる。
純白の閃光が一帯を包み込む。傷口となったひび割れた肌、いや殻が白い光と共に吹き飛んで、より一層眩い光を生んだ。
あまりに強い光で目が眩み、一秒ほど経って視力が回復し、トンキーを確認すると、彼もしくは彼女は既に水母ではなくなっていた。
四対八枚の翼。
象っぽい顔からは先ほどまで無かった純白のそれが伸び、楕円形だった胴は細長い流線型に変化している。
腹からは相変わらず触手が伸びているが、その先は鉤爪ではなく、植物の蔓を思わせるようになっていた。
と、トンキーが四対八枚の翼を羽ばたかせ、浮き上がる。その翼が青い輝きを帯びた。
次の瞬間、恐ろしい太さの雷撃が雨のごとく降り注ぐ。
次々に水妖精族(ウンディーネ)を屠っていく。体勢を立て直そうと彼らは一旦離れ、魔法を使い始めるが、トンキーは翼に純白の光を纏わせ、「くわぁぁん」と甲高い音を鳴らした。
それによって、全ての魔法はキャンセルされてしまった。
範囲解呪能力(フィールド・ディスペル)。
全ての魔法効果を打ち消してしまう、一部の高レベルボスだけが持っているとされた能力だ。
それをトンキーは使用した。水妖精族(ウンディーネ)の精鋭部隊は悔しそうな顔をしながらも即座に撤退を始めて、見る間に消えていく。
その逃げ方も見事で、パーティはあっという間に影も形もなくなった。
トンキーはそれを見届けるとレコンの上空まで来て滞空し、しばらくレコンの体をその触手で撫でていた。
お礼のつもり、なのだろうか。レコンは「くすぐったいって!」と言いながらも笑っていた。
トンキーは再び三人+一人を乗せると、これまでとは違い上空へと舵を取り出した。
上空には世界樹の根がある。もしかしたら世界樹の真下に出られるかもしれないという淡い期待が浮かびあがった。
その時だ。世界樹の根っこに絡まれている氷柱、その下部に一際金色に輝く光があることにリーファは気付いた。
何とはなしに遠見水晶の魔法で覗いてみる。
「はああああ!?」
思わず、驚いてしまった。
どうしたどうしたと二人と一人は彼女に近寄る。
レコンはリーファが用意した遠見の魔法を見て、絶句した。
「わあ、綺麗な剣だね。凄いレアものっぽい」
暢気そうなエリカに、レコンは言う。
そりゃそうだよ、と。
「あ、あれは写真でしか見たことないけどこれまで所在すらわかっていなかった《聖剣エクスキャリバー》だよ! うわーすげぇ!」
「なんだかパパが喜びそうな武器ですねぇ」
レコンの説明にユイが零す。
途端、エリカはむぅ、とその剣を凝視した。
その目が「あれどうやって取るんだろう?」と物語っている。
その目的は言わずもがなだろう。
下で見た通り、氷の中はなかなかのダンジョンのようだ。
では入口は、と思ったところでそれを見つけた。
氷の中ほどがバルコニーになっている。トンキーがこのまま行ってくれれば飛び移ることは可能だ。
しかし、同時にその先にある木の根っこが階段になっているのも発見した。間違いなく、地上への脱出経路だろう。
飛び移れば、戻れないかもしれない。どうするべきか。
「ママ……」
「うん、わかってるよユイちゃん」
不安そうなユイの声に、エリカはしっかりと頷いた。
今は、再会することが先だ。だから……、
「今度、一緒に取りに来ようね」
「はい! その時はパパも一緒です!」
「むぅ、できれば内緒で渡したいんだけどなぁ」
そんな、微笑ましい会話をしながら、三人+一人は、無事にヨツンヘイムを脱出することに成功した。
トンキーに見送られ、階段を上ると、そこは世界樹にもっとも近いALO最大都市《アルン》だった。
古代遺跡めいた石造りの建築物が縦横にどこまでも連なっていて、プレイヤーもこれまでとは違い多種族が多く入り混じっている。
その様はルグルーの比では無かった。
とうとう、辿りついた。それは同時に目的の達成と別れが近いことも示している。
もともと、お互いの目的の為に世界樹へと向かっていたのだから。
「着いちゃったね」
リーファの思いが籠ったその言葉の意味を、エリカは察して微笑んだ。
「ありがとうリーファちゃん。貴方がいなかったらきっと私ここまで来られなかった」
「そんなことない……ですよ」
「ううん、きっと来られてももっとすごく時間がかかってた。そうなったら、多分、私は気力が持たなかったかもしれない」
儚そうな顔をするエリカに、なぜかリーファは胸を締め付けられる。
このまま、彼女と別れたくなかった。だから……、
「そ、そうだ! 私この町で友達と待ち合わせしてるんです! 良かったら紹介くらいさせてください!」
「え……? うん、そうだね。良いよ、私も会いたい」
一瞬きょとん、としたエリカだが、すぐに微笑を戻して快く承諾してくれた。
レコンにも視線を向けると「当然!」と胸を張っている。そんなレコンに苦笑しながらリーファは彼女……シリカに連絡を取ってみた。
返事はすぐに来る。
「あ……丁度近くにいるみたいです。あっちで落合いましょう」
リーファが先導し、移動する。
場所はアルン中央市街入口の大きな石造りゲート。
三人+一人がそこに着くと、既に一人の少女が待っていた。
ツーサイドアップに髪を留め、猫妖精族(ケットシー)特有の獣耳に、首には鈴付きのチョーカー。
猫毛を思わせる薄いブラウンを基調とした髪色で、装備品は腰から下げている短剣だと思われる。
(あれ?)
だが一番の特徴は、頭の上に乗っているモンスターだろう。
エリカはそのモンスターに見覚えがあった。たしかあれはアインクラッドの比較的低層で稀に出現するモンスターではなかったか。
このゲームにも同じモンスターがいるのか、と思いつつ記憶がちくちくと突かれる。
何かを忘れているような。
だが、アスナはそれ以上考えることが出来なかった。
彼女が初めまして、と自己紹介を始めた時、ユイが急に叫んだのだ。
「パパ、パパがいます!」
「ほ、本当に!?」
「間違いありません! このプレイヤーIDはパパのものです……座標は真っ直ぐこの上空です!」
それを聞いたアスナはいても経ってもいられなくなった。
自己紹介の途中だと言うのに構わずバッと翅を広げる。今にも飛び出しそうだ。
リーファが目を丸くしていると、尚もユイが続ける。
「パパ! パパ!? 聞こえますか!? パパ……!? えっ────!?」
「どうしたのユイちゃん?」
ユイの、尋常ならざる驚きの声に、一抹の不安を感じたエリカ/アスナは飛び出すのを堪え、ユイに問いかける。
やや語気が強まってしまったかもしれない。
「パパの声が、僅かに聞こえました、偶然、だとは思います……たまたま拾えた、だけで……」
ユイは、話しながらもボロボロと大粒の涙を流し始める。
一体何があったというのか。エリカ、いやアスナは嫌な予感がした。
「ママ、どうしましょうママ……!」
「落ち着いてユイちゃん! なんて、なんて言ってたの?」
ユイが涙を抑えきれずに、掠れた声で、彼の言葉を代弁する。
信じたくない、その言葉を。
「……死にたい……って」
途端、エリカ/アスナの顔から表情が消え失せた。