ほぼオープン直後からALOにいる直葉/リーファにとって、ALOプレイ歴は一年ほどになる。
当然古参と言っていいレベルで、経験も知識量も圧倒的に多い。
それに裏付けされた能力ももちろん持ち合わせていて、もしALO内で種族間を無視した全プレイヤーによるデュエル大会等が行われたら、上位にランクインできるのは確実だろう。
純粋にプレイヤーのナンバーランク序列を付けるなら、数万人はいるALOユーザーのうちベスト100に入ってもおかしくはない実力を持っていると言っていい。
ハイプレイヤーの中でも中堅以上のレベルに彼女はいる。
そのリーファをして、目の前で起こっていることは目を疑う光景だった。
ガーディアンの攻撃を皆紙一重でかわしては重攻撃を当てていく。
大きく横に薙ぐ攻撃をしたプレイヤーは当然隙だらけになる。だというのにそのプレイヤーは空中宙返りの要領で背後に迫ってきていたガーディアンをかわした。
空を飛ぶことが出来、尚且つ空中だからこそできる芸当だが危険すぎる。それにガーディアンの数は決して少なくない。
すぐにそのプレイヤーの頭上には別のガーディアンが現れる。リーファは今度こそダメだと思うが、そのプレイヤーは今度も首を捻るだけで見事ガーディアンの攻撃をかわして見せる。
その様には驚愕するばかりだが、今度こそダメだ。三方向からガーディアンが同時に攻めてくる。
体勢も崩れたその状態で捌ききるのは不可能だ。そう思った時、他のプレイヤーが絶妙な手助けをしてそのプレイヤーは危機を脱した。
いや。
あのプレイヤーに焦りはなかった。
《あの程度》は予定調和で、危機ですらない、ということなのだろう。
なんて人たちだ。自分なら絶対にそこまで踏み込まない間合い。そこに、躊躇いなく彼らは踏み込む。
知識が無いからではない。無鉄砲なわけでもない。
答えは単純明快。
リーファですら躊躇うその間合いが、彼らにとっては安全マージン内だという事実。
それを目の当たりにして、リーファは言葉を失った。
どうして今の攻撃をかわせるのか?
どうして今の攻撃を当てられるのか?
どうして今の攻撃に合わせられるのか?
どうして今の攻撃に退く事が出来るのか?
どうして今の攻撃がその瞬間に出せるのか?
どうしてあの瞬間に味方が助けに入るとわかったのか?
まさに阿吽の呼吸とも呼べるそれは、リーファの知らない一段上の世界だった。
さらに驚いたことに彼らのほとんどは魔法を使わない。
この数のガーディアンではその方が良いのかもしれないが、どうしてもこの世界の熟練者は魔法に頼ってしまう傾向がある。
これほどの物理戦闘をこなせるものがこんなにもいたのか、というリーファの驚嘆は次の声に上塗りされた。
「みんな! ちょっと勝手に動きすぎだよ! ちゃんと手近なグループにわかれてスイッチして!」
エリカの目から見ればこの戦闘はまだまだということなのだろう。
本当に彼女達には驚かされてばっかりだ。
エリカは一人上空で高度を保ったまま戦い続けている。
高度が上がれば上がるほど難易度は増しているはずだから、それはそれで驚嘆に値するが、さらに下の様子を確認し指示まで出すとはもはや凄いとしか言いようがない。
「おい副団長の命令だ! お前とお前、あとお前! 俺と同じA班な!」
副団長、といういまいちリーファには聞き馴染みの無い言葉で、プレイヤーの一人がA班を名乗り、人数を決定する。
それに習い、各々が声を出して次々に戦闘中ながら五つの班が即席で作られていった。
エリカはそれを待っていたかのように、声を張り上げる。
「B班、C班は下の殲滅、一班構成は三人一組、POT枠一人!」
「了解!」
「A班、D班! 今私のいる一帯を受け持って! POT枠は二班で一人!」
「あいよ!」
「E班! お願い、私の為に道を作って!」
「よしキタァァァァァァ!!!!」
E班は一際盛り上がりを見せてびゅん! と強い羽ばたきで一直線に上空へ移動する。
すぐにガーディアンが邪魔に入るがそれらをA班D班が足止めする。
「行かせるか!」
戦局が目まぐるしく変わっていく。
だが、E班の特攻ぶりがゲートへ一筋の道を作った。
エリカは、ここだ! と一気に加速する。
あともう少し。
もう少し。
もう、少し……!
届け! とエリカが手を伸ばしたその先で……急激にガーディアンのポップが発生する。
ゲートを護るようにポップしながらガーディアンはエリカに突撃を敢行した。
それを、
「させない!」
そのツーサイドアップの髪をこれでもかと揺らしながら高速移動したシリカが割って入って止める。
視線だけでエリカは彼女の意図を理解した。
行ってください、と。
エリカは緩めたスピードを再び加速させる。
すると、シリカを相手していたはずのガーディアンはエリカに向かい始めてしまった。
ここまで来るとゲートに近いプレイヤーをオートトレースするのかもしれない。
そのガーディアンを、今度は追いついたリーファが両断した。
「ここは私達が止める!」
その声だけで、エリカは背後で起こっていることを察した。
ありがとう、と心の中でお礼を言って、剣を構える。
最大まで引き絞って、エリカは扉に向かって渾身の力で細剣を突き穿った。
届け! と強く願う。
行け! と声な声援を背中に受ける。
背中に、たくさんの人の思いが上乗せされる。
上へと押しやってくれる。
届け! 届け! 届け! 邪魔は─────させない!
途端、ゲートの目前にポップしたガーディアンは《案の定》エリカの細剣に貫かれた。
そんなことだろうとエリカは予想していた。このゲームはきっと何がなんでもここへ通さない気だったのだ。
だがそんなことは知らない。今は、ここを通らねばならないのだ。
自身の最大剣速を引き出したアスナの剣は、ガーディアンを貫きとうとうゲートへと届く。
甲高い金属音を鳴り響かせた細剣がゲートへと突き刺さった。
その音を聞いたプレイヤー達が一斉に声を上げる。
ある意味で目的の達成だと思ったのかもしれない。
しかし。
一人、エリカだけは焦燥していた。
ゲートは辿りつけば開くものだと思っていた。
しかし十字に亀裂の入った円形のリングゲートは、何の変化も起こさない。
「ど、どういうこと……? なんで、なんで開かないのっ!?」
「マ、ママ……! この扉はクエストフラグによってロックされているのではありません! 単なるシステム管理者権限によるものです!」
「シス、テム……管理者……?」
「つまり、この扉はプレイヤーには開けらないようになっています!」
エリカの元に戻ってきていたユイが、悲しそうに叫んだ。
プレイヤーには開けられない。なんだそれは。
なんなんだそれは。ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな!
あともう少しというところで、また邪魔をするのか。まだ邪魔をするのか!
システム、システムシステムシステムシステム!
何が、システムだ。
そんなもので、彼と私を、隔てないで。
お願いだから、お願いだから……!
「私を、行かせてェェェェェッ!」
目一杯に、声を張り上げ、零れる涙も無視して、細剣を再び突き立てる。
相変わらずの無味な金属音。それにエリカが絶望しかけた、その時。
聴覚システムが、獣の声を、捉えた。
シリカは、エリカを追おうとするガーディアンをひたすら抑えていた。
ここは通さない! とその意思を瞳に宿して、かつてのアインクラッドの時以上に自分を鼓舞させていた。
だから、剣が突き刺さる音を聞いた時は本当に嬉しかった……のだが。
シリカは異変にすぐ気が付いた。
ゲートへ辿りついたはずのエリカが、その場から動かない。ゲートが開いていない。
どうして? と思うもシリカに余計なことを考える余裕はさほど無い。
今は、全てをエリカの、いや、アスナの為に。彼女をキリトの元へと送るために。
ただそれだけを思ってひたすらにガーディアンを屠り続けた。
その時、上空から悲痛な声が上がる。
「私を、行かせてェェェェェッ!」
どくん、と胸打たれるほどの感情が込められた声。
それを聞いた時、いつも傍にいる彼女の相棒が、ビクンと体を震わせて動きを止めた。
それを目端で捕らえたシリカが何か考えるより速く、事態は急変した。
次の瞬間彼女の相棒、《フェザーリドラ》の《ピナ》は初めてご主人様の傍を離れてはるか上空へと羽ばたいて行ってしまう。
「ピナ!?」
シリカの驚愕をよそに、ピナの高い鳴き声が響く。
同時に、それが《鍵》であったかのようにエリカの前にあった扉から光が漏れ、転移結晶を使った時のような光の粒子へとエリカはその姿を変えられた。
光の粒子は瞬く間に発行するゲートへと吸い込まれていく。
とうとう、ゲートが開いた!
その歓喜にプレイヤー達は湧き立った。
さらに、ガーディアンの異常なまでの湧出(ポップ)が突然止まる。
クエストクリアということなのだろうか。
さらに湧き立つプレイヤー達は残りのガーディアンを瞬く間に一層してしまった。
増えないガーディアンなど、もはや彼らにとって脅威では無かった。
「ようシリカちゃん、お疲れ」
「お疲れ様ですクラインさん」
全員、下へと降りて勝利の歓喜に酔いし入れていた。
目的は達成された。あとはエリカに任せるだけだ。
その意味ではシリカもホッとしていたが、どうにも気になることがある。
「あの、クラインさん」
「ん?」
「ピナ見ませんでしたか?」
「あのフェザーリドラかい? いや、見てねえなあ。そういやいつもシリカちゃんの傍を飛んでるのに見かけねえな」
「ピナ……?」
シリカは不安そうな声を出した。
これまで、ピナが勝手な行動をとったことなどほとんどない。
ましてやシリカの目の届かない場所へ行くことなどSAOでも無かったことだ。
シリカは言いようのない不安に襲われ、辺りを見回していると、何人かのプレイヤーが彼女に寄ってきた。
「な、なあシリカちゃん」
「は、はい……?」
なんだろう?
今はピナを捜したいのだけど。
「ずっと気になってたんだけどさ」
「はい」
「なんで、シリカちゃんは──────《SAOと同じアバター》なの?」
「えっ」
空気が凍る。
どよ、と周りのプレイヤーが一様に黙って彼女を見つめた。
気にしたことなど無かった。
だが、このゲームは確かに《アバター》が《ランダム生成》される。
だというのに。何故今の彼女はSAO、ひいては現実と同じ《ツーサイドアップ》の髪型で──色合いや特徴こそ猫妖精族(ケットシー)のものだが──アバターの《基本構造》は《彼女自身そのもの》なのか。
「それにさ、ちょっと調べてみたんだけど」
「……?」
「どうもこのゲームはSAOとセーブデータのフォーマットが似ていてね。SAOデータの引き継ぎみたいなことが起きてるんだけどさ、《ゲームコンポーネント》は全く別個なんだ。同じなのはシステム回りくらいだよ。セーブデータ以外はシステムメニューとか補助AIとかそれぐらいだと思う」
ゲームコンポーネントって何?
それが私に一体何の関係が?
この人は、何を言っているの?
「それでさ、一応気になって調べたらフェザーリドラってSAOオリジナルモンスターみたいでALOにはいないっぽいんだけど」
─────なんでいるの?
アスナ/エリカが気付いた時、そこは真っ白な通路だった。
通路はやや湾曲していて、なんの飾り気もない。
ここは何処だろう。無味乾燥としたこの場所は面白みの欠片もない。
「ユイちゃん、ここが何処だかわかる?」
そこにいるはずの娘に、エリカは尋ねる。
しかし、予想に反していつもなら呼べばすぐに何か反応を返してくれる彼女は、珍しく即答しなかった。
「……? ユイちゃん?」
「……さっきのは、まさか」
「ユイちゃんてば」
「はい!? あ、えと、なんですかママ?」
「どうかしたの? ここが何処か聞きたかったんだけど」
「あ、いえ……ええとここは、世界樹の中ですね。あ、パパは近いです! この上にいます!」
「ほんと!?」
「はい! こっちです!」
ユイの奇行、と呼ぶほど大げさなものではないが、やや気になる態度は少しの間棚上げしておいて、エリカはユイの示す道を急ぐ。
もうすぐ、もうすぐ彼に会える。
そう思うだけでいてもたってもいられず、速度は自然と加速していった。
ユイに言われ、壁についているエレベーターのスイッチらしき上向きの三角ボタンを押して、扉を開く。
迷わずに最上階を押して、現実のエレベーターのような浮遊感を味わいながら今か今かと到着を待った。
目前の扉が開いてからは足早にエレベーターを出て、ユイの案内通りにさっさと歩く。いや、走る。
最初は歩いていた。だが我慢できずに段々と早歩きになり始め、今やほとんど走っているような状態だ。
途中で一度、ユイに言われて曲線の通路に一本だけある分かれ道を曲がり、ひたすら直線になった通路を走る。
なんの装飾もオブジェクトもない通路。一切の興味を惹かれないその場所は、エリカにとって速く駆け抜けたい場所でしかない。
ようやく出口らしき扉に辿り着いた時、少しだけ目が眩んだ。
今まで通ってきた通路は、何も無い真っ白な通路にオレンジの光が申し訳程度の明かりを提供する場所でしかなかった。
エリカが辿り着いた扉の向こうは外だった。システム上のとはいえ、その疑似太陽光に一瞬目が眩惑される。
すぐに回復した視力は、辺りが大きな樹の幹や枝であることを教えてくれた。
ここが、世界樹の上部なのだ。
「……あれ? でも世界樹の上って空中都市があるんじゃ……」
「ここに、都市のマップは作成されていません。もしかすると運営の作った話なだけでまだ未実装なのではないでしょうか」
「そんな……じゃあグランドクエストって……」
「本来はクリアされることを想定していない……クリアさせられないようにしていたのでしょう。あ、パパです!」
ユイの言葉に、エリカは思考を止めた。ユイが飛んでいく先を見つめながら後を追うと、大きな縦横の金格子で出来た鳥籠が目に入る。
エギルから見せて貰った写真と同じものだ。弥が上にも足を向けるスピードは上がっていく。
太い枝の上を走り、大きな葉を掻き分けて数分────エリカはようやくその鳥籠に辿り着いた。
エリカの双眸には、長く黒い髪で、女の子のような出で立ちをした《彼》が、《開いているドア》の向こうで、ベッドに座っているのが見えた。
ようやく、会えた。
もう一度、会うことが出来た!
エリカ、いやアスナは迷い無く開いているドアから籠の中の彼、キリトの元へと向かう。
一足先にユイが彼の元へと飛んでいき、その肩に降り立った。
「パパ! 会いたかったですパパ! ……パパ?」
しかし、ユイの声に、すぐに不吉な感情が彼女の胸を駆けめぐった。
自身も彼に駆け寄り、その手を掴んで声をかける。
「キリト君、私だよ、アスナだよ。やっと君を見つけたよ! ……キリト君?」
声をかけても、彼からの返事は無い。
項垂れたまま、長い髪が彼の表情の全てを覆い隠している。
────嫌な予感がした。
掴んだ彼の手は、握り返されることはない。
項垂れている彼は微動だにせず、ユイや自分の声にも反応を示さない。
かつて、彼が例えイタズラでも、こんな真似をしたことがあっただろうか。
いや、それ以前に《ドアが開いているのに》何故彼は逃げなかったのか。
「パパ……パパ……そんな……!」
ユイが、涙を零しながら身体を震わせた。
その意味が、アスナにはわからない。わかりたくない。
────死にたい。
脳裏に彼の言葉だというユイが聞いた台詞が蘇る。
最悪の事態がアスナの脳内をシミュレートして、ブンブンと頭を振った。
「キリト君、返事をしてよキリト君!」
アスナの痛切な叫びと共に、彼の身体をガクガクと揺らす。
黒く滑らかなロングヘアーが、その振動によって揺れ、奥に隠れていた彼の表情を一瞬外に晒した。
「え……」
「っ! パパ……!」
アスナは信じられない気持ちで、信じたくない気持ちで彼の髪を優しく掻き分け、その表情を真正面から見つめた。
頬は青く、瞳孔は真っ黒に開ききって一切の輝きを失い、小さく口を開けたまま、動かないその表情を。
「キリト、君……? そんな、嘘でしょ……? ねぇ……ねぇ……!」
肩を強く掴んで前後に強く揺らす。信じられない光景が、アスナに力の加減を忘れさせる。
しかし、彼からのアクションはおろか、リアクションさえ返ってこない。
彼の瞳は、完全に死んでいた。
「パパは、精神に酷いダメージを負っています……治療には、きっと、長い時間が……」
ユイの涙声が、アスナの耳に入っては抜けていく。
聞こえない。理解したくない。
だというのに、自身のお利口様な脳内は優等生よろしく考えることを止めない。
そういえばユイは人間のメンタルヘルスケアを目的として作られたAIで、その見立てに間違いは無いだろうという結論までご丁寧に頭の中に映し出す始末。
「嘘よ……」
そもそも精神の治療には絶対というものがなく、長期的な治療が必要となる場合完治しない例は必ずしも少なくない。
絶対的な心療内科の不足が要因の一つではあるが現状その分野について解決の目処など立ってはいない。
「嘘よ……」
程度の差はあれ心寮内科的療法の必要患者は社会復帰が珍しいとされ、その為に近年理学療法士の応援が必要だという意見も多々あるが今はそれらを組み合わせた新規療法の開拓を必要としている。
しかし理学療法士自体の総数も患者と比較すると絶対数が少ないことから全てに精力的に協力は出来ず、今後の課題になっている。
「嘘よッ!」
溜め込んだどうでも良いような、知った風な知識が彼女の中を一瞬にして駆けめぐる。
頭の中では既に彼がもうどうなっているのか決めつけた上で、今後どうするべきか試行錯誤してそれが絶望的に困難な道である事を結論として出している。
良く知りもしない囓った程度の知識で、しかしおよそ見当外れでも無いと脳内が勝手に決めつける。
一方で感情はそれを全否定していた。
そんなのは認められない。ありえない。ありえてはいけない。
彼は今にも元気な声を聞かせてくれて、いつものように笑ってくれて、お腹をすかせている。
そうだ、彼の為に料理を作らなくては。約束していた裁縫スキルでのプレゼントもまだ用意していない。
まだやり足りないことが、やりたいことが、それこそ山のようにあるのだ。
きっと一生かけてもやりつくせないやりたいことが、たくさんある。
なのに、それが叶わないなんて……そんなの、そんなの……認めたくない!
「キリト君……!」
アスナは導かれるように彼の唇へと自身のそれを重ね合わせる。
アインクラッドでは何度も重ね合わせた。彼の知らない間にも重ね合わせた。
その度に、彼はアスナが心の底から暖まるような反応を返してくれた。
だから、お願いだから……!
「キリト君……!」
お願いだから、戻ってきて。
そう願いを込めたアスナの口付けは────残念ながら彼に何の影響も与えなかった。
彼の目は一筋たりとも輝きを取り戻さず、表情が変わることもなく、動くこともない。
「そんな……そんなの、ヤダよ……!」
見つめる先の、彼の表情は変わらない。
一切変わらない。ただ、真っ黒な瞳が、薄い闇で包まれているだけ。
「う、う、うわぁあああああああっ!」
限界だった。
彼と会ったら最初に何をしよう? 何を言おう?
そんなことばかり考えていた。憎まれ口を叩こうか、それとも恥ずかしいのを承知の上で愛を伝えようか。
彼に抱きつこうか。それとも唇を重ねようか。
彼の表情はどんなものだろうか。自分の表情はどうなるだろうか。
そのどれもが、こんなことは想定していなかった。
いつだって彼は、自分に応えてくれていた。
その怒り顔も、困った顔も、悲しい顔も、照れた顔も、焦った顔も、真面目な顔も、全部、全て、何もかも!
好きだった。どうしようもなく好きだった。彼のどんな表情だって愛せる自信があった。
でも、この顔は、自分を見てさえいないこの顔は。そこに彼がいないその顔は……アスナには堪えきれなかった。
ボロボロと湧き出る水のように止めどなく涙が溢れ零れていく。
彼の無表情を見れば見るほど涙は溢れ続ける。
彼の声が聞きたかった。話したかった。触れたかった。
現実に戻って、同じように過ごしたかった。一緒にいたかった。
「きちんとお付き合いして、結婚して、一生君の隣にいたいって、そう思ってた……本当にそう思ってた……! キリト君……、私、君がいないなんて、ヤダよ……!」
視界がぼやけるほどの涙が溢れて、彼の顔を歪ませる。
だというのに、彼の表情が一切変わっていないのが嫌でもわかってしまう。
「声を聞かせて、お願い……キリト君……!」
彼女の悲痛な魂の叫び。
それに応えたのは、彼ではなかった。
「無駄だよ、そこの彼はもう壊れてしまっているからね」
「!?」
アスナは跳ねるように身体を反転させた。
いつの間にか背後に侵入者を許していた。
『アスナも索敵スキルを上げておけばわかるようになるぞ』
いつだったか、彼がくれた言葉を思い出す。
あの時自分は何と応えたのだったか。
そうだ、スキル上げが恐ろしく地味な作業で気が滅入りそうだから断ったんだ。
……本当は、キリト君が一緒にいてくれればその必要は無いでしょって、言いたかったのに。
思い出すだけで、じわりと視界が霞む。
「……誰?」
「誰、とはご挨拶だねえ、僕はこの世界の王、妖精王オベイロンだよ?」
「……貴方、NPCじゃないわね」
アスナの視線が鋭さを増した。
独特の《人間臭さ》をアスナは目の前の妖精王オベイロンから感じた。
だとすると、この男は敵な可能性が高い。
ここに来られる人間が、こちらに対して友好的である可能性は考えにくい。
ここに来られる人間は、このゲームの運営に携わっていて、尚かつそれなり高い立場にいる人物。
加えるなら、彼をここまで追い込んだ可能性のある人物。
益々アスナの視線が鋭くなる。いや、既に敵意をぶつけていると言っていい。
それを、妖精王オベイロンは面白そうに受け流しながら足を止めた。
「僕としてもね、彼の事は非常に胸を痛めていたんだよ。彼にはまだまだ粘ってもらいたかった」
「何を……」
言ってるの、と言う前に脳内シナプスが高速で駆け巡る。
──粘ってもらいたかった?
それは、まさか、つまり。
「彼は、非常に良い僕の玩具だったんだよ《明日奈》」
「ッッッッ!」
全身が震えるほどの怒りが瞬時に沸き起こる。
沸騰した思考はすぐに、目の前の男への攻撃を命じていた。
しかし。
「っ!?」
「無駄だよ。言ったはずだ、僕はこの世界の王だと」
「……ええそうでしょうね、管理者権限保有者によるシステム制御……それによって不死属性でも付けているのかしら? 《須郷》さん」
「ククッ、アハハハハハ! やっぱり君にはすぐにバレちゃったねぇ!」
『このゲームの運営に携わっていて、尚かつそれなり高い立場にいる人物』にアスナは心当たりがあった。
最初に声を聞いた時から、どことなくその男臭さを言葉の端々から感じ取っていた。予感は的中する。
アスナの抜いた細剣は、妖精王オベイロン……いや須郷の肩の手前で半透明の壁によって防がれてしまった。
システムが、この男を護っている。アスナはギリッと歯噛みした。
須郷はオベイロンの波打つ金髪を片手で抑えながら高い笑い声をあげる。
「彼はねえ! 毎日毎日実に僕を楽しませてくれたよ! ここら出せと喚いてみたり馬鹿な脱出方法を試してみたりねえ! 実に飽きない玩具だった」
「キリト君は貴方のオモチャじゃない!」
「いいや玩具さ、僕の世界にいるんだ、当然だろう? そのうち彼に精神的な揺さぶりをかけるのが一番楽しくなってきてねえ……彼が最近で一番情けない顔をした時の事を教えてあげようか? 僕が君と結婚するって話をした時さ! 傑作だったよ! あの表情を録画しておかなかったのを後悔しているくらいさ! まさにこの世の終わりって顔でね!」
アスナの体が震える。現実なら、握りしめた拳から、流血していてもおかしくはない。
彼は、実に二ヶ月もの間、この男の良いように弄ばれてきたのだ。
「それでも彼はなかなか強情でね、ああ、ちなみに彼はここに来た時からランダム生成されたアバターでそんな恰好しているんだが、実に良くできているとは思わないか? ほんのお遊びで僕の好きな香水の匂いを髪から出るように設定してあるんだが」
そう言うと、須郷はすたすたとキリトに近寄って一掬い髪を持ち上げ、すぅ、っと大きく鼻で吸い込んだ。
恍惚とした笑みが、アスナにこの上ない嫌悪感を与える。
「彼はいつもこの行為を嫌がっていてねえ、その嫌がりっぷりを見るのがたまらなく楽しかったよ。その度に彼のアバターを本物の《女》にすると脅したら彼は引き下がってね。あの元気な姿をまた見たいものさ」
「キリト君を離して! ……!?」
アスナはキリトの髪を持ち上げている須郷を彼から離そうとするが、自身の体が動かないことに気付いた。
それに驚愕したアスナは自分の体を見やる。おかしいところはどこにもない。
ということは……。
「おやおや、本当に君は物わかりが悪いねえ明日奈。ここは僕の世界だと──言ったはずだっ!」
須郷は語気を強めてキリトの髪ごと体を無理やり持ち上げ、彼の体を蹴りつけた。
ぶらぶらと反動で揺れるキリトは、やはり何の反応も示さない。
「ああもう、本当につまらなくなったなコイツ! 全く、《あいつら》くだらないことしてくれやがって!」
「止めて! キリト君をこれ以上傷つけないで!」
「はあ? 何で僕が君の言う事を聞かなくちゃならないのさ? そらっ!」
「キリト君!」
目前で、何度も彼が蹴られるところを見せ付けられて、アスナの胸がギュウギュウ締め付けられた。
悲しい。だがそれ以上にこの男に憎悪を感じる。
ここまでされて、一切の反応を示さないキリトは、いったいどんな目にあったというのだ。
「貴方……こんなになるまでキリト君に一体何をしたの!?」
「別にぃ? 僕は玩具で遊んでいただけさ。もっとも、さっきも言った通り彼は僕のお気に入りでね。調整には少し気を使っていたんだ、遅かれ早かれこうなってもらうつもりではあったがね」
「なんですって……?」
アスナの怒り顔に須郷は気を良くしながら上機嫌で語りだした。
その手は、キリトの青白い頬を撫でている。
「明日奈、僕が何故こんなことをしていると思う?」
「何故って……」
「ここに来たということは気付いたんだろう? 僕がSAO世界の人間をここへ拉致したって。その目的だよ」
「……」
「なんだ、わからないのか。ちなみにこの問い、桐ヶ谷君は即答したよ」
「!?」
明日奈を須郷はつまらなさそうに眺めた。
その目には、本当に彼の興味対象に明日奈はいないように見える。
彼は親指でキリトの唇をなぞりつつ続けた。
「いいかい? ナーヴギアやアミュスフィアは仮想現実を直接脳に見せているわけだけど……脳全体に関わってはいない。じゃあその枷を取り払えたらどうなるのだろうね? 無論完成には無数の人体実験が必要にはなるわけだけど」
「何を、言って……」
「君ねえ、ここまで言ってもわからないの? やれやれ、やっぱり彼はなかなかに得難い人材だね。《実験》が上手くいくことを祈るとしよう。さてどこまで話したっけ? そうそう人体実験ね、いるだろう? 実験用の脳を提供してくれるこん睡状態の人間が何百人も!」
「まさか……!」
「そうだよ! 彼らのおかげで研究は大いに進んだ! 記憶に新規オブジェクトを埋め込み、それに対する情動を誘導する技術はだいたい形ができた。魂の操作──素晴らしいじゃないか!」
「そんな、そんなこと、許されるわけが……!」
「誰が許さないんだい?」
面白そうに、キリトの顔を持ち上げる。
まるで、許さないと言うだろうアスナを怖くない、と言っているようだ。
「キリト君を離しなさい!」
「君、本当に彼が好きなんだねえ、これは益々面白くなってきた。代えの《プラン》ではあるけど、実験を早めようかな」
嫌な予感がする。
いつだって、この男の閃きが良いものだったことなど無い。
「実に世の為人の為になる研究さ。非人道的と言われようと完成すれば引く手数多だろうね。それだけで僕は崇められるだろうよ」
「気は確かなの? こんなことをしておいて」
「この桐ヶ谷君を治してあげるって言ったとしたら?」
「ッッッ!?」
「良い表情だね。考えてもごらんよ、精神的ダメージって見た目ではわかるけど、詳しい内面なんてわかりゃしないんだ。精神鑑定で偽りを示すヤツなんてごまんといる。じゃあ、鬱病から始まって彼みたいな《完全精神崩壊者》にさっき言った記憶操作を行えばどうなると思う?」
「え……」
「完全に社会復帰できてしまうかもしれないよ? それもいとも簡単にね。アハハハ! どうだい? 素晴らしいだろう? 世の中の連中はみんな僕に感謝するだろうさ! 新しい治療法だってね! もっともこの技術はアメリカの某企業に高値で売りつけてやる予定だけど。レクトごとね。でもその前に彼を《弄ろう》かと思ってね。この際人格を女の子にしてアバターも女の子にするのなんてどうだい? 僕の夜の相手ができるよ。まあアバターはそのままでも僕はいける気がするけどね。なんにしろ最初の被験者だなんて実に良い研究への献身ぶりじゃないか」
「この……!」
燃えるような怒りを瞳に宿して、アスナは須郷を睨みつける。
この男の下卑た考えは吐き気がする。
何より、操作された人格なんて、それはもうその人じゃない。別人だ。
「言っておくけど、ここに来た以上、君ももう僕の掌の上だ。君も他人事じゃないんだよ? なんなら君から弄ってやろうか」
須郷が顔をグイッと近付けてくる。
その汚らわしい手がアスナの顎を掴み、頬を撫でる。
それに、《彼女》はとうとう我慢ができなかった。
「ダメェェェッ! ママにもパパにも触っちゃダメですぅ!」
ユイが怒り心頭でオベイロンに扮する須郷に突撃するが、やはり彼には触れられない。
半透明の壁が彼を護り、傷をつけることは許されない。
「なんだお前は? ナビゲーションピクシーか? ふん」
「あっ!? あ、あ、ああああああっ!? いや、助けてママ……パパァ!」
ユイが顔を強張らせて、消えていく。
須郷がコンソールを呼び出してちょっと操作しただけで、ユイはこの場にいることが許されない存在になった。
「ユイちゃん!? ユイちゃんに何をしたの!?」
「君は自分の心配をしたらどうだい?」
須郷のアスナを触れる手つきはどんどんといやらしくなっていく。
アスナの「触らないで!」という言葉を無視して頬を撫でる手つきが唇をなぞり、須郷の手はゆっくりとシャープな顎に延びてするりと首から下へと落ちていく。
鎖骨を二度撫でて、そのまま肩へ指は伸び、脇を軽くこすってから……彼はその指を自らの鼻へと近付けた。
「んぅ、匂いはあまりしないな。あいつら、アバター部分の芳香値を手抜きしているな全く。これだから無能どもは」
屈辱だった。
キリト以外の人に、体を触られることが。
嫌だった。彼以外の人に触れられることが。
それを示すように、動くことをシステム的に止められているアスナはせめて怨嗟のこもる眼で須郷を睨む。
「いいねえ、実に良い目だ。現実の君のようだよ、もっともそのアバターは現実の君をイメージするにはいささかかけ離れ過ぎているかな。嫌いではないが、ここは現実の君に戻ってもらうのもアリか、ふむどちらがいい?」
須郷の手が再び伸びる。今度は若草色の髪へ。
ショートヘアのエリカの髪は、須郷の気に入るものではなかったが、それでもいちいち捩じるように髪を弄るその様は、アスナに不快感を与えるには十分だった。
フッと須郷の手が髪を離れた。アスナの目に、須郷の下衆な笑みが映る。
須郷の手が、ゆっくりと首より下……体の中央よりやや上の……胸へと伸びていく。
アスナは目をギュッと閉じた。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ!
助けて、キリト君…………!
***
痛い。
ふと、そんな感情が湧いた。
いや、それはおかしい。ここは仮想世界。
システムによって痛覚は遮断されている。
どうでもいい。
痛い。
まただ。おかしいな。感じるはずの無いそれが、チクチクと胸を突いてくる。
針で刺しているかのように突いてくる。
どうでもいい。
痛い。
さっきより痛い。どうしてだろう?
痛みを感じないはずなのに、どんどん痛みが増してきている。
目の前で、誰か──いや、アスナが泣いている。
痛い。
痛みが大きくなってきている。
胸が痛い。触れられてすらいないのに、何故か痛みが強くなる。
唇に、彼女の唇が重なる。
痛い。
おかしい。痛い。気のせいじゃない。
でもどうでもいい。もうどうでもいい。
『──本当に、どうでも良いのかね?』
誰だアンタ?
俺に言っているのか?
だとしたら、放っておいてくれ。
『──ふむ。そういうのなら放っておくのに吝かではないのだが。君は彼女に死んでほしくなかったのではないのかね?』
ああそうだ。
でももういいんだ。
俺じゃダメだったんだ。
『──何がダメだったのかね? 彼女は今、君の目の前にいるのに』
どうせ、すぐに消えてしまうんだ。
わかってるんだ。あの時のあれだって偽物だって。
いや、偽物だって思いたいんだ。もう放っておいてくれ。
『──おかしなことを言うね。君は目の前にいるアスナ君が偽物だったら放っておくのかね?』
……え?
偽物だったら放っておく?
いや、だって、それは……。
『──彼女ではないというのだろう? だったらなんなのかね? 君は、中身がからっぽな偽物のアスナ君なら助けないのかね? 要するに、アスナ君とは君にとって都合の良いアスナ君でしかないのかね?』
違う。
それは違う。
それだけは違う。
『──ならば動けるだろう? 動くべきだ。君は、彼女の為に《私との決闘》を受けたのだろう? 立ちたまえキリト君!』
そうだ。
なんでこんな簡単な事を忘れていたんだ。
アスナがどう思おうと、俺はアスナを護るって、決めたんだ。
決めたんだ!
立て。立つんだ。手を伸ばせ!
誓いを果たせ! 彼女を護れ!
「アスナに、触るな……!」
***
アスナの胸に須郷の手が触れようとしたその時、彼の手を誰かが掴んだ。
須郷はぎょっとしてその相手を見やる。
「アスナに、触るな……!」
それは久しぶりに聞く、彼の声だった。
アスナの目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちる。
そこにはアスナに伸びる須郷の魔手を掴む、倒れ伏していたはずのキリトの姿があった。
さらにその横に、シリカのテイムモンスターである《ピナ》が浮いている。
一体いつの間にここにきたのか。
その驚愕は、須郷が一番大きかった。
「な、なんだよお前……まだ元気ならさっさとそう言えよ! それに、なんだよその隣で飛んでるモンスター……僕はそんなモンスター《知らない》ぞ! 僕が知らないモンスターなんて、このALOにいるわけがない!」
須郷は、決して口だけの男ではなかった。
彼は、ALOシステムのほほ全てを一人で理解しきっている。
ごく少数のチームとはいえ、全てを一人で管轄できる人間などそうはいない。
彼は本当にALOに出現する何千種類といるモンスターの全てを暗記していた。そのグラフィックはおろかステータスのそれまで全て。
その記憶の中のモンスター図鑑が、《ピナ》を検索対象外だと告げていた。
その《ピナ》が小さくキリトの耳元で何か呟く。
それを聞いたキリトは、真っ直ぐ、光の宿った瞳で須郷を睨みつけた。
「システムログイン。ID《ヒースクリフ》。パスワード……」
複雑な羅列を口にしていくキリトを、須郷はただ茫然と見つめていた。
気でも触れたのか思う須郷だが、しかし見知らぬモンスターは放っておけないとシステム管理者用のウインドウを立ち上げた時、
「システムコマンド、スーパーバイザ権限変更。ID《オベイロン》をレベル1に」
「なぁっ!?」
須郷のウインドウが突如として消える。より高位のIDに須郷のIDが無力化されてしまった。
何度も須郷は手を振ってウインドウを呼び出そうとするが、残念ながらその手は空を切るばかりだ。
「システムコマンド、ID《アスナ》……いや《エリカ》を自由に」
途端、アスナの行動を戒めていた不可視のシステムは効力を失う。
アスナはそれに気づくや否やキリトに飛びついた。
「キリト君!」
「アスナ、ごめん……俺、大事なことを忘れてた。たった二ヶ月の間に、忘れちゃいけないことを忘れてた。もう二度と、忘れないから」
「良いの……なんでもいいから……キリト君がいてくれたら、それでいいから……!」
キリトは微笑んで、彼女の体を優しく押しやる。
え、とアスナは一瞬泣きそうな顔をするが、すぐにその意図に気付いた。
須郷が睨んできている。この男を、どうにかしなくてはなるまい。
「アスナ、離れていてくれ」
「……大丈夫?」
「ああ、俺がやる」
アスナの心配は力量のことではない。力量のそれなら、心配ないことは彼女が一番よくわかっている。
故に彼女が心配したのは彼の心。これから起きることがなんとなくわかるアスナは、その役目を代わろうかと尋ねた。
しかし彼はそれを断った。ならば任せるのみだ。
「ケリを付けよう妖精王」
「ふざけるなよガキ風情が……!」
「システムコマンド、ID《オベイロン》のステータスを俺と同じに。さらにオブジェクトID《ショートソード》を二本ジェネレート」
二振りの剣がその場に出現する。キリトはその一本を須郷へと投げ渡した。
須郷は危なっかしい手つきでそれを受け取ると、二、三回振ってからキリトへと構える。
だが、次にキリトの口から出た言葉に表情を凍らせた。
「システムコマンド、ペイン・アブソーバをレベルゼロに」
「なっ!?」
ペイン・アブソーバをゼロにするということは、現実と変わらない感覚になるということだ。
それは、この世界で大怪我をすれば現実でも大怪我しているのと変わらない痛みと記憶が脳に植えつけられることを意味する。
同時に、現実の身体に少なくない行為障害を引き起こすことがわかっていた。
「逃げるなよ、アンタがこの二ヶ月散々こき下ろした茅場晶彦は逃げたことは無かったぞ」
「うるさい! あいつの名前を出すんじゃない!」
「……だとさ」
『……』
キリトの、《彼らしい》口ぶりに、アスナは心底ホッとする。
彼が帰ってきた。心からそう思える。速く、あの胸に飛び込んでいたい。
「先輩は結局大馬鹿ものさ! 僕の方が上だ、上なんだよ!」
須郷は大ぶりでキリトにショートソードを振りかぶるが、キリトはその一撃を楽にパリィしてみせ、素早く彼の右手を切断した。
血しぶきに似た赤いライトエフェクトが飛び、宙に浮いたショートソードを掴んでいる須郷の右手は炎となって消え、カランとショートソードだけが落ちる音がする。
「ウギャアアアアアアアアッ!? 僕の、僕の手があああああああっ!?」
須郷が膝をついて自分の失われた手を見つめて叫んだ。
彼は今、現実で実際に腕が吹き飛んだ時と同じ喪失感を味わい、痛みを享受している。
その影響たるや、想像を絶するものだろう。だが、慈悲をかけるつもりはない。
一歩キリトが近づくと「ヒッ!?」と須郷は怯え後ずさり、失った右手を床についてしまってまた叫ぶ。
その叫び声にキリトは眉をびくりと震わせて、剣を振るった。左手が宙に飛ぶ。
「ギャッ、アアアア、アアアアアアアアッ!?」
すぐに剣を戻して両足を切断する。
須郷はまさしく達磨状態にされていた。
「アアアアアアアアッ!? 痛い痛い痛いあああああああッ!?」
不快だ。
この声が不快だ。
人を斬ったようなリアルな感触が不快だ。
全てが不快だ。長くこの声を聞いていたくない。
アスナにもこの声を、この光景を長く見せていたくない。
「アンタはもっと人の痛みを知れよ!」
最後にキリトはそう言うと、頭から胴体を左右真っ二つに割った。
特大の断末魔を上げて、オベイロン扮する須郷の体は白い炎に包まれて消えていく。
キリトは左右に剣を振って背中に剣を持っていき、そこに鞘が無いことに気付いてポイッと剣をその場に捨てた。
「終わったんだね、キリト君」
「ああ」
「私、ずっと会いたかった……!」
「俺も、アスナに会いたかった」
再び胸に飛び込むアスナを、キリトはきっちりと抱きしめた。
強く強く、離さないように。
アスナも、失っていた半身を取り戻すかのように、彼を抱く手に力を込める。
やっと、あるべき姿へと戻れた。肉体は仮想のアバターで、今はお互いSAOの時と大きく姿は違う。
それでも、心は一緒だった。
「……これで、現実のキリト君も目覚められるよね?」
「ああ、大丈夫だと思う。ちょっと待ってくれ……あった。ログアウトは、うん、可能だ。あ、良かった、ユイも無事だ。アスナのナーヴギアに上手く逃げ込んでる。アドレスロックされて入れなくなってるだけだ」
「……良かった。それじゃあログアウトしたら、すぐにキリト君に会いにいくから」
「嬉しいけど、もう結構遅い時間じゃないか?」
「関係ないよ、絶対に会いに行く」
「わかった、待ってるよ」
「うん」
キリトは少しアスナを抱く力を強めながら、アスナをログアウトさせた。
彼女が、光の粒子となって、消えていく。その様を見るたびに、キリトの心は痛んだ。
大丈夫、と言い聞かせる。最後に、彼女は「すぐに行くから」と微笑んだ。
それを見届けて、小さくキリトは呟く。
「それでヒースクリフ、なんでよりにもよって《ピナ》なんだ?」
『……これは私の分散した記憶データの箱舟の一つに過ぎない』
「……また意味のわからないことを。っていうかアンタ生きてたんだな」
『そうとも言えるしそうではないとも言える。今の私は茅場晶彦の記憶の残滓、意識のエコーとでも言うべき存在だ』
「……よくわらないな。まあいいや、箱舟の一つってことは他にもあるのか?」
『あった、というのが正しいかな、先ほど全ての結合は完了した。だからこそこうやって私が表出している』
「そうか……ピナを使った理由は?」
『……そもそも、このフェザーリドラをテイムしたプレイヤーは『姫』という存在になる予定だった。スキルの類ではないがね。本来ならば九十五層を超えたところで圏内というシステムは崩れ、一定時間以上フェザーリドラがテイムされていればフェザーリドラは進化し、『姫』のいる街のみ圏内になる仕様だったのだ』
「姫、か……なるほどね」
『故にテイムできるのは女性のみ、それも一匹だけとしていた。君の《二刀流》とはある意味対になると思っていたのだが、君の隣には力づくでその場に滑り込んだ女性がいたのでね、その時点でフェザーリドラはほとんどシナリオには絡まないと思っていたよ』
「俺は、きっとアスナと一緒じゃなかったらあのゲームを終わらせられなかったよ。っていうか二刀流が女だったらどうするんだよ? ピナだって一度死んだし」
『私はシナリオを全て操作する気はなかった。それがネットワークRPGの醍醐味だろう。今言ったのは用意した一つのシナリオに過ぎない』
同時に、それだけ設定を加えた存在を極秘裏の箱船として使うつもりだった、と彼は言う。
フェザーリドラは茅場晶彦の箱舟。
言われてみればなるほどと思えることはある。
箱舟の意味自体はよくわからないが、ピナは自分の主人を《回復》してくれる。
本当の生死をかけたあのゲーム内では、それはとんでもないアドバンテージだろう。
そのことに、もう少し注目するべきだったのかもしれない。もっとも注目したところで意味は分からなかっただろうが。
「でもそれならもっと速く助けてくれても良かっただろ。……助けられたことには礼を言うけど」
『……それはすまない。今言った通り全ての結合を完了させたのはつい先程なのだよ。それに礼は不要だ。君と私は善意のやりとりをするような間柄ではないだろう?』
「……何をさせる気だ?」
『君のナーヴギアのメモリに贈り物を用意してある。ログアウト後に確認してくれたまえ』
「一体なんなんだよ?」
『……《世界の種子》だ。それの判断は君に任せよう、忘れて消去しても構わない。だがもし、君があのアインクラッドに少しでも憎しみ以外の感情があるのなら……』
「?」
『いや、そろそろ私は行くよ。また会おうキリト君』
「あ、ちょっと待てよ!」
『……なにかな?』
「その、ピナってどうなるんだ?」
『フェザーリドラは私の想像したモンスターだ。私が去れば、このグラフィックもAIも維持されない。消えるだろう』
「……なんとかならないのか?」
『言えば君の選択の幅を狭めてしまうが』
「構わない」
『……先程言った《世界の種子》、それが芽吹けばあるいは、可能性があるだろう。確率としては低いが……しかしフルダイブシステムに魅せられた者の中に力ある者がいれば恐らくは』
「……成る程ね」
『後悔したかね?』
「いや」
『……では、今度こそお別れだ』
ピナ──に扮する茅場晶彦(ヒースクリフ)──は、そのモンスターアバターを発光させて消えていく。
それを見届けながら、キリトは自分も本当の肉体へ魂たる精神を戻すべくログアウトした。
「あれ?」
アスナは首を傾げた。
自分はログアウトした筈だ。いや、してもらったはずだ。
だが今彼女は何も無い真っ白な空間にいた。
右も左も上も下もない、バーチャルなホワイト空間。
何故自分がここにいるのか頭を悩ませ、一瞬嫌な予感が奔った時、それは現れた。
『久しいねアスナ君、もっとも私にはつい昨日のことのように思えるが』
「ヒースクリフ団長……?」
そこには、シリカの傍をいつも飛んでいた小竜の《フェザーリドラ》が浮かんでいた。
だが、声はかつてアインクラッドで聞いたヒースクリフのものだ。
「生きていたんですね……」
『……君たちは本当に似ているな』
「……はい?」
言っている意味がわからない。
アスナの不思議そうな顔に、フェザーリドラは苦笑したようだった。
『いや、何でもない。君に伝えておきたいことがあって僅かばかり時間を作らせてもらった。心配には及ばない、すぐに解放する』
「伝えておきたいこと、ですか?」
『キリト君のことだ』
「っ!? 彼が、何か……?」
『……彼の精神は、快復しきっていない。《Yui》が言っていたと思うが、彼を治すには長い時間が必要だ』
「……そんな、だってさっきは」
『彼は完全ではない。いずれその異変に君も気付くだろう。だから、出来るだけ彼を見ていてあげたまえ』
「どうして、そんなことを……」
『ここがアインクラッドなら口を挟まなかっただろうがね。幸いにもここはアインクラッドではない。ゲームマスターとしての贔屓にはならないだろう?』
「……」
『納得できないかな』
「団長がキリト君を気にかけていたことは何となくわかっています。最後は一騎打ちした相手でもあるから尚更。でも、貴方はそれで彼に無償の善意を向ける人じゃない」
『……やれやれ、鋭いのは相変わらずだな。そう、これは対価だよ』
「……対価?」
『……《彼女》を責めなかったことへのね。本当、あの人は困った人だ』
「それって……!」
『……さらばだアスナ君、目覚めの時間だよ』
「あ、ちょっと待っ……」
待って、とは言わせてもらえなかった。
ばちり、と瞼を開いた時には自分の部屋のベッドの上だった。
ロックを外し、ナーヴギアを両手で引き抜いて軽く頭を振る。
ブラウンのロングヘアーが左右に揺れた。
「……」
最後にヒースクリフ……茅場晶彦が言った言葉が、アスナに《彼女》の存在を思い出させた。
ガラス越しに会った、あの人のことを。
しかし、明日奈/アスナはそれ以上長く思考することを放棄した。
今はそんなことより目覚めた彼の元へ駆けつける事が先決だ。
会いたい、という気持ちは今なお爆発的増加傾向にある。
外は暗かったが、関係無かった。この時間に無断外出などすれば、母親は何を言い出すかわからない。
でも関係無かった。コートを掴むとそのまま走り出す。容姿を取り繕う暇すら惜しかった。
外に出て、走りながらコートを無理矢理着る。ひんやりとした外気が、少しだけマシになったような気がした。
はっ、はっ、はっ、と白い息を漏らしながら何度も通ったその道をアスナは急ぐ。
駅についてからが一番もどかしかった。電車に乗り、窓に映る自分の顔を見て、何度も肩で息をしているのがわかる。
世田谷から千代田までは近いようで遠い。一分一秒でもその時間を短縮したかった。
電車が止まるのと同時にアスナはダッシュする。普段なら混雑している場所だが、今の時間は幸いにもさほど人が多くなかった。
「はぁ、はぁ、はぁっ……!」
息が切れるのがもどかしい。
SAOではこの三倍の距離を走っても息一つ乱さなかったというのに。
ここが現実なんだと改めて認識させられるのと同時に理不尽な怒りさえ覚える。
見えてきた病院にその怒りを鎮めながら、自動ドアを駆け込むように入った。
走らないで下さいね、なんて言う看護婦さんの声が耳に入ったが、今だけは許して欲しい。
記憶してある彼の病室に辿り着くまではこのスピードを緩められそうに無かった。
そうして、《桐ヶ谷和人》と書かれた個室の病室にアスナは辿り着いた。
息が乱れ、肩が上下し、白い息を吐いて、髪が所々跳ね、べったりと汗が張り付いている。
アスナは額に浮かぶ大粒の汗を袖口で拭って、一つ息を吐いてから大きく吸い込み、息をやや整えてから彼の病室へと足を踏み入れた。
そこには、上半身を起こして窓から外を眺める《彼》がいた。
一瞬にして仮想世界で止めどなく流した涙が溢れる。
人の気配を感じたのか、彼……和人/キリトは振り返った。
ALOほどではないにしろ無作為に伸びた黒髪。げっそりとした頬。
腕や指も酷く痩せ細っているが、間違いなくアスナの知る彼がそこにいた。
「キリト、君……!」
「アスナ……」
か細い彼の声が、リアルの聴覚を刺激する。
仮想世界の時よりやや弱々しくも確かな本当の重みあるその声は何よりアスナを喜ばせた。
アスナはキリトに駆け寄って彼の痩せ細った身体を抱きしめる。
彼の本当の温もりを感じる。どくんどくんという鼓動が、初めて彼女に彼が戻ってきたという事を実感させてくれた。
震える手で、アスナをキリトは抱き返す。幼子のようなか細い力だが、関係なかった。
アスナはゆっくりと身体を離して、彼の痩けた頬を優しく撫でる。
照れたような、いつもの彼らしい表情が益々アスナに彼を実感させてくれる。
引き寄せられるように、アスナは顔をキリトへと近づけていき、
ドンッと彼に突き飛ばされた。
え、と一瞬何が起きたのかアスナはわからなかった。
彼に拒絶されるなど考えたこともなかった。
しかし、次の瞬間それが拒絶ではないことを自動的にアスナは悟る。
「ぐぅ……!」
キリトの細い腕には深々とナイフが刺さっていた。
アスナは、全ての体温を奪われたかのような寒気を感じる。
彼が血を流しているという事実が、恐くて堪らない。
仮想世界では光のエフェクトだったそれが、ドロリとした赤い液体に変わっただけでそのリアルさは比べものにならない。
当然だ、これは現実なのだから。
アスナはゆっくりと視線をずらしてその《元凶》を見やる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……! 殺してやる、殺してやるよ……お前等……!」
フレームレスの眼鏡がずれて、血走った目がアスナを睨み付けている。
息をぜぇぜぇと切らし、スーツの襟下から飛び出るネクタイは草臥れていて、いつもなら完全に整えている髪さえもぐちゃぐちゃに跳ねていた。
その男の名前を、アスナは知っている。
「須郷……さん……!」
カラン、というナイフが落ちる音がアスナを現実に呼び戻した。
キリトに刺さっていたナイフが落ちたのだ。
彼はいち早く須郷に気付き、アスナを助ける為に彼女を突き飛ばした。
結果、彼は弱った身体にその凶刃を受けてしまった。
ボタボタと鮮血がベッドのシーツを赤く染め上げていく。
錆びた鉄のような匂いがつんと嗅覚を刺激した。
「あ、あ、あ……!」
キリトが身体をくの字に曲げて腕を押さえている。
見ているだけで痛い。震える手で彼に手を伸ばすがその手は空を掴み、彼はぐらりとベッドに倒れ付す。
──それはまるで、あの質量を失った時のような感覚。
「殺して、やる……っ!」
須郷の狂気の声が、さらにアスナの耳に届いた時、彼女の中の何かが弾けた。
殺してやる? 殺してやる? 殺してやる?
────誰を? 誰が?
────ダレガ? ダレヲ?
視線の先には血濡れたナイフ。
手を伸ばせば届く距離。アスナは、無自覚にそのナイフに手を伸ばしていた。
震えはない。恐怖もない。
いや、恐怖はある。彼を失う事、それが恐怖。
かつて、アスナは人を本気で殺そうと思った事が一度だけある。
あの時は、ユイの視線に彼女は思いとどまった。
この場に、彼女はいない。
彼女を、止めるものは、いない。
ナイフを持つ手に迷いはない。短いが用途を満たせるなら十分。
スタスタとアスナはナイフを持って須郷へと近づく。
「なんだよ? お前も殺してやがああああああああっ!?」
須郷が口を開ききる前に、病室には鈍色の光が一線した。
ピッ、と紅いラインが床に塗れ落ちる。
血液。それはアスナのものでもキリトのものでもない。
「ぎゃあああああああっ!? 僕を、僕を切りやがったああああ!?」
「……」
アスナは応えない。
ただ、その目には慈悲など無く、ひたすらな殺意だけが宿っていた。
興奮状態にあった須郷は、徐々にその表情に呑まれ、冷静さを取り戻していく。
いや、現状を理解していく。
────殺される、と。
その目に躊躇いや迷いはない。
太刀筋に手心も手加減もない。
あるのはその眼に映る明確な殺意。
それを理解した途端、須郷はガクガクと怯えだした。
本能が恐怖を告げている。狩る側であると信じて疑わなかった彼は、今や狩られる側だった。
「う、うわぁぁぁ!?」
尻餅を突きながら須郷はバタバタと後ずさる。
少しでもアスナから離れようと滑稽な動作で。
だがアスナの表情に変化はない。
その目は、明確に殺意をただ宿していた。
ナイフが振り上げられる。
「た、助けてくれェェェ────────!! 殺されるゥ────────!!」
須郷は頭を抱えて病室を逃げ出した。同時にアスナがナイフを振り下ろす。
須郷のスーツの背中が引き裂かれたが、肉体にまでダメージは無いようだ。
彼はまんまと走って逃げ仰せた。
アスナは後を追おうと一歩を踏み出すが、
「……アスナ」
キリトの弱々しい声にハッと我に返り、ナイフを投げ捨てて彼に近寄る。
すぐ傍のナースコールを押しながら必死に手近のシーツを彼の傷口に当てて止血し看護師の到着を待った。
「キリト君、キリト君……!」
何をしていたのだ自分は。
彼を助けたいのならあんな奴は放っておいてすぐにでもこうするべきだった。
あんな、あんな奴のために彼を失うことになったら……!
アスナの瞳に、恐怖が渦巻き始めたその時、ふっとキリトが顔を上げた。
ジッと見つめてくる黒い瞳は、みるみる近くなっていき、すぐに彼の感触が唇に伝わった。
現実世界で初めてのキス。
つい先程邪魔が入ったそれを彼は実行した。
一瞬何が起こったのかわからないアスナに、キリトは苦笑しながら呟く。
「呪い、解けちゃったな……」
「あ……」
それは約束。
七十五層のボス戦前にかわした約束。
ボス攻略に参加しないで欲しいといったキリトに、アスナが咄嗟に思いついた出任せの呪い。
「うん……解けたね」
アスナは、涙を零しながら彼を抱きしめる。
彼が覚えていてくれたことが嬉しい。
彼が生きていてくれたことが嬉しい。
それを、思い出させてくれて嬉しい。
だから、現実でキスしたら言おうと思っていた事を伝えないと。
「でも残念。たった今のキスで別の呪いがキリト君にはかかってしまいました」
「え……?」
「内容は同じです。効力は……私達が結婚するまで、かな」
「なんだそれ……」
意味分かんねえ、とキリトが苦笑する。
それに、アスナも微笑んだ。
「でも特典が解放されます」
「特典?」
「そう、言ったでしょ? 特典があるって」
キリトはそう言えばそんなことを言ってたな、と朧気ながら思い出す。
朧気なのは、記憶が曖昧なのではなく、瞼が、段々と重くなってきているからだ。
「特典はね、キリト君が私の事を好きにしてもいいっていうものだよ」
「は……?」
一瞬浮かんだイケナイ想像にキリトは素っ頓狂な声を上げる。
それを聞いたアスナは苦笑した。
「何でも言うこと聞くよ」
「あ、ああそういう……」
「キリト君のエッチ」
「ち、ちがっ……!」
かつて、似たようなやり取りをしたことがあったな、とアスナは思い出す。
あの時は楽しかった。いや、これからもきっとそんな楽しい毎日が待っているに違いない
いつ以来だろうか。こんなにも明日が楽しみで、明日が来るのが待ち遠しいのは。
「うん、わかってる」
「……前にも似たようなことあったな」
「うん」
彼も覚えていてくれたのか。
それが、なんとなく嬉しい。
「それじゃ、その特典の為に、元気にならないとな」
「うん」
「寝てる場合じゃ、ないな」
「うん」
「……ごめん、やっぱり今、その特典使っていい?」
「うん……うん?」
「悪いけど、少し……眠いんだ。今度は、きっとすぐに起きるから……」
「……うん」
「少しだけ寝かせてくれ。アスナの傍で」
「うん……ゆっくり休んで。キリト君」
キリトは、糸が切れた人形のようにアスナに倒れ込む。
その彼をアスナは優しく抱き留めた。
ちゃんと傍にいるからね、キリト君。
だから今はゆっくり休んで。
心配いらないよ。もう、全部終わったんだから。
もう頑張らなくても良いんだよ。
だって、これまでと違って明日は────きっと明るいから。