「……っ」
息が切れる。足はぷるぷると震え汗が額をてらてらと濡らしていく。
苦しい。肺が酸素を求め、足は既に限界だと訴えている。
「はぁ、っ……!」
それでも、止めるわけにはいかない。
決してここで諦めるわけにはいかない。
何故なら、
「ほら、頑張ってキリト君!」
視線の向こう、僅か数メートル先には彼女、明日奈/アスナが待っているから。
その両手を突きだして速くこっちへおいでと、今か今かと和人/キリトの到着を待っている。
それを見るたびにキリトは挫けそうな心に喝を入れて足をゆっくりと一歩ずつ前に出していく。
一歩を踏み込むたびに節々にかかる負荷がいちいち重い。
ただ歩くという行為をこなそうとするだけで、二年もの間その活動を最小限に抑えられていたキリトの肉体は悲鳴を上げていた。
「く、そ……っ!」
額の汗が頬を伝って流れ、顎からぽたりと床へ落ちて跳ねる。
着ている病院服の首元は既にぐっしょりと濡れていて、これが終わったらとにかくシャワーでも浴びて着替えたい。
そんなことを考えながら、また一歩キリトは踏み出す。
ぜえ、ぜえ、と激しい息遣いが聴覚を嫌味なほど刺激する。心臓は過剰なほどバクバクと働いているし全身も怠い。
ワーカーホリックな心肺機能に内心で悪態を吐きつつ、それでも望まぬストライキを敢行していた肉体に「動け」と命令を下す事はやめない。
あと三歩……。
あと二歩……。
あと一歩……!
「とう、ちゃく……!」
「お疲れ様!」
通路の向こうで待っていたアスナに倒れ込むようにしてキリトは今日のノルマ、筋力回復プログラムの一つである歩行リハビリテーションをクリアする。
もうだめだ、とキリトは荒い息をアスナの腕の中で繰り返し、アスナはそんなキリトに「よくがんばったね」と声をかけながら頭を撫でていた。
「はいはーい、ラブシーンは他人のいないところでやってね」
「も、もう安岐さんっ!」
アスナは照れたように目の前にいる看護師の名前を呼んだ。
アスナより二十センチ近くは高いだろうという長身で、薄桃色の看護師服に身を包み、ナースキャップの下には長い髪が三つ編みされて先っぽを白いリボンで結んでいる。
左胸に付けているプレートには今アスナが言った《安岐》という名前の入ったプレートが付けられていた。
彼女はキリトの入院している病院に併設されたリハビリテーション・センターのナースで、キリトの担当でもある人だ。
なんでもスポーツジムに通っているらしく、その筋肉によって裏付けされたプロポーションは思わずアスナでさえ「うむむ」と唸りたくなるほどメリハリが出ている。
「照れない照れない。しかし君もこーんな可愛い彼女にリハビリ手伝ってもらえるなんてラッキーだねえ、普通はそんなご褒美ないよ?」
「まあ、それは感謝してます。アスナ、ありがとう」
「ううん、私が来たくて来てるだけだし」
「あー熱いわー、なんかここだけ室内温度の設定おかしいんじゃない?」
二人の会話を聞いて茶化すように安岐ナースはパタパタと手で自身を扇ぐ。
それに二人で頬を染めながらようやく落ち着いたキリトは「よっ」と一声上げてアスナから離れた。
「もう大丈夫?」
「ん、平気だよ。しかしここまで筋力が衰えてるとはなあ……歩くのに苦労するなんて流石に思ってなかったよ」
「寝たきりだったからね。半年も寝たきりなら案外落ちるものよ。二年なんていったらそりゃ筋肉なんてなくなってるわ」
「私もリハビリは辛かったよー」
安岐の説明とアスナのしみじみとした言葉にキリトは苦笑しながら部屋へと足を向ける。
とりあえず今は着替えたかった。
安岐もそれを理解して、手元にある書類に何か書き込むと、「今日は終わり!」と言ってウインクを投げ、スタスタと去っていく。
「大丈夫? 肩貸そうか?」
「平気だって。病室くらいまでなら……それにあんまりアスナにくっつくと汗臭さが移っちゃうし」
「別に気にしないよ」
「俺が気にするって」
キリトは笑いながらゆっくりとしたのしのし歩きで進む。
壁に手をついて一歩一歩ゆっくりと。今の彼にはそれが精一杯の移動方法だった。
二年もの寝たきり生活を余儀なくされたキリトは、日常生活を送るために必要な筋肉までもがごっそり抜けおち、リハビリを必要としていた。
それは目覚めた当初のアスナも同じことで、正直最初の一ヶ月間はアスナも地獄を見たものだ。
「悪いな、いっつも来てもらって」
「それこそ良いってば。私が来たくて来てるんだから」
「でも、毎日出歩いて親御さんが心配しないか?」
「……ん、平気だよ」
「そうか」
キリトは安心したようにホッと息を吐いて再び歩く。
その姿を見つめながら、アスナはここ数日の母親とのやりとりを思い出した。
といってもやり取りらしいやり取りは、ほとんどない。
三日前、アスナが須郷を刺した時から、母親は何処かアスナを避けるようになった。
警察の取り調べで、須郷がやったことはある程度明るみに出ているが彼は黙秘していて、参考人としてアスナやキリトも話を聞かれた。
無論あの晩にキリトの病室で起こったことも嘘偽りなく話した。
キリトは心配していたが、アスナはそれを隠す気は無かった。
幸いにも監視カメラはそこかしこにあり、アスナの証言はほぼ真実で、正当防衛に類する緊急避難に該当するだろうという見方が強くなっている。
争点としては相手方の須郷がその件について傷害事件として起訴してくるかが鍵となっているが、今のところその気配はない。
争ったとして勝つ見込みは低いとわかっているのもあるだろうが、自身の裁判を長引かせることが出来るというメリットも存在するので、まだ安心はできない。
理由の一つに彼の罪状が明らかになっていないという点も関係しているのだろう。
主な罪状は傷害だが、彼の行ったSAO被害者の仮想的拉致は既存の法のどれに該当するのか、という問題がまだ整理されていないと予測される。
取調べ等でさらなる事実が究明され、それによって罪状が明らかになったところで彼が動き出すことはありえない話ではなかった。
ちなみにその須郷だが、実は彼を捕まえたのは何を隠そう先ほどの安岐さんだったりする。
病院内を徘徊する血を流した須郷に患者たちは怯えた。
「殺してやる」「殺される」など意味不明で危険な言葉を連発し、通りかかった安岐が得意技らしい踵落としの一撃で彼をノックダウンさせた。
その場にいた老人の男性患者は「足が百八十度近く上がって、綺麗なピンクの……死ぬ前に良いものを見た」と手を合わせた、というのがこの病院内でのみ広まっている噂だ。
アスナの父親は「人を見る目が無かった」と肩を落とし、自身の会社での立場を辞す考えでいるようだが、仕事人間である父親を良く知っているアスナは、仕事自体を辞めるつもりではない父を見抜いていて、そんなに心配はしていなかった。
問題はやはり母親である。父は今回の事に関してアスナを責めずにただ謝るばかりだった。
ただ母親は、アスナを心配こそしていたが、まだ「自分の娘が人を刺した」という事実を自分の中で昇華しきれていないようで、どこかアスナに怯えている節があるのを感じていた。
無理も無いとは思う。しかしアスナにとってそのことは後悔していない。もしまた同じ事が起きたら迷わず須郷を殺そうとするだろうという予感もある。
それとなく、警察の取り調べが終わって帰宅してから母親に事の成り行きを説明している時にその事を匂わせてから、母親はアスナを少し避け始めた。
距離感に戸惑っているというのもあるだろう。危ない真似をしないで欲しいという不安もあるだろう。
だが、アスナは母親の考えの向こうに「人を刺したことがある」という過去が、今後の未来展望に関するマイナスイメージの重さに繋がる事を気にしている事がわかっていた。
良い学校、良い就職先、良い将来。
それらを問題なく満たす為には不要かつ足枷にしかならないそれを母は快く思わない。
純粋な娘への心配が無いわけではない。でもどうしても母親からは将来のことばかり心配されているようでいてならなかった。
アスナはそれを全て理解した上で、母親に須郷を刺したことを弁解するつもりはなかった。
社会的に考えて、今の自分の考えが少しおかしいことは理解している。人を刺すことを恐れず、悪いことをしたと思わない。
恐らくは常人なら正当防衛といえど相手に怪我をさせてしまったり《最悪殺してしまったり》したら、自分を深く責めるだろう。
なんてことをしてしまったんだ、と。
周りの目を気にもするだろう。あいつは人殺しだと思われるかも知れない。
だが。
アスナはそれでも後悔はしていない。
同じ事が起きれば同じ事をする。何かを間違えて相手を殺してしまっても、恐らく後悔しない。
それがおかしいと思える自分がいる一方で、その時がくれば問題なく動ける自信がある自分がいる。
なんだか自分が二人いるようなモヤモヤがアスナの胸の内には残るが、それら全てをキリトに語ることはしない。
全ては自分と家族の問題だ。今の彼に迷惑はかけたくない。
だから強がりでも彼の前ではそんな自分の胸の内を隠そうとアスナは決めていた。
それに一つだけ良いこともある。完全に良いこと、とは言えないかも知れないが、今回の件で母親は毎日の外出についても咎めなくなった。
相変わらず家庭学習は続いているが、一先ず彼の元へ来るのに問題は無い。
「アスナ、俺ちょっと風呂いってくるよ。せっかく来てくれてるのに悪いけど、汗が酷いから」
いつの間にか病室には到着していて、キリトは洗面用具を片手に持っていた。
この病院には小規模ながら温泉が設置されている。と言っても医療用のため肩まで浸かれるような深い浴槽ではなく、精々膝下程度までしかない足湯に毛が生えた程度のものだが。
一緒にシャワーも併設されていて、入院患者は入浴が可能となっていた。
「手伝おっか?」
「い、いいって!」
顔を紅くしながらブンブンと首を振るキリトが面白くてアスナはクスクスと笑った。
彼の退院予定はおよそ一週間後で、それまでに日常的なある程度の歩行は可能な状態へ持って行くことになる。
無論それ以降もリハビリには一月ほどは通い続けることになると思うが、退院まで彼は汗をその病院内の施設で流すことしか出来ない。
自分だったらちゃんとしたお風呂に入りたいなあ、などと思いながら彼を見送ってベッドに腰掛け、アスナは足をブラブラさせて帰りを待つ事にした。
「おっ、これから汗を流しに行くの? 桐ヶ谷君」
「あ、安岐さん」
先程別れた安岐が、丁度前方から歩いてきていた。
彼女もキリトのみが担当なわけではないし、リハビリの介助だけが仕事ではない。
……の割に時折暇そうにしているのは何故だろうか。
「可愛い彼女に背中を流してもらわないの?」
「……もらいません」
「ええ~、もったいない。彼女なら頼めばやってくれそうじゃない?」
「……」
否定の声を上げたいが、つい先程その事でからかわれたばかりなのでキリトは押し黙った。
沈黙は金。昔から対人スキルの熟練度が初心者(ニュービー)の域を中々出ない彼の得意技の一つだ。
「もう、黙っちゃって」
「……」
「はいはい私が悪かったですよー」
「……それじゃ、風呂行きますんで」
「ん、行ってらっしゃい。足は特に疲れているはずだからよくマッサージしてね」
「はい」
「あ、後で彼女にやってもらうのも良いよ、なんだったら彼女にやり方レクチャーしといてあげようか?」
「……」
「……君さあ、さっきはあんなに楽しそうに笑ってたのに、彼女さんがいないと途端に能面みたいな顔になるね?」
「……すいません。そんなつもりじゃ、ないんですけど」
「ん、まあそうなんだろうけど。私としてはこーんな美人にまるで興味ありませーんって言われているようでちょっと傷つくなあ」
キリトは苦笑する。それが、唯一《アスナが傍にいない時に出来る》キリトの感情の発露だった。
自覚が全くないわけではない。少し自我が希薄というか、弱いことは何となく理解している。
異常、なのだろうという事も朧気に理解していた。最初はそこまで気にしていなかったのだが、お見舞いに来た妹の直葉に心配されてからは少しだけ自分の状態に向き合うようになった。
このことはアスナには話していない。話すつもりもない。
ただでさえいろいろ大変な目にあったのだ。これ以上負担や心配をかけたくは無かった。
「……桐ヶ谷君、ずっとそうしてたら君、潰れちゃうかもしれないよ?」
「……」
「もし、彼女がいなくなったらどうするの?」
「っ!」
考えないではなかった。
むしろ考え過ぎてしまうくらいだった。
アスナが、いなくなってしまったら。
何かの病気、事故による死別。
もしくは彼女に相応しくより良い男性の登場。
それによって物理的、あるいは心情的に離れ離れになってしまったら。
「ごめん、ちょっと意地悪だったね。君らがあんまり仲が良いものだから、からかい過ぎちゃった。お風呂、いってらっしゃい。病室で彼女待たせてるんでしょ?」
「……はい、それじゃ」
わかっている。
この人はからかいでこんなことを言ったのではない。
純粋に心配して言ってくれているのだ。それは理解できている。
それでも、その心遣いに笑顔を返せるまで、キリトの心は回復していなかった。
重い足取りでキリトは浴場へと消えていく。
それを眺めながら「あちゃあ……」と安岐は頭を抱えた。
安岐とてあそこまで踏み込むつもりは無かった。
ただ、彼の在り様があまりに儚く見えて、つい手助けしたくなったのだ。
しかし、往々にして心の問題に正解という答えは存在しない。
よかれと思ってかけた言葉が全く逆の効力を発揮してしまうこともある。
そんなことはわかっていたはずなのに。
キリトの背中を見ながら失敗したなあ、と少し申し訳ない気持ちになった安岐は、彼の病室へと足を向けた。
せめてものお詫びに、やはり彼女に彼へのマッサージ療法を伝授しておこうと思いながら。
「彼女にやってもらうマッサージは格別だよ、桐ヶ谷君♪」
白いナースシューズでパタパタとリズミカルな足音を立てる。
その踵が、少しだけ汚れていた。
「ただいま」
「あ、おかえり~、ささ、ベッドに横になって」
「……アスナ、安岐さんに何か吹き込まれたろ」
「な、何のことかなあ?」
「やっぱりなあ、そうなってる気はしたんだよ」
「いいじゃない。せっかく教えてもらったんだから。ほらほら」
「わ、わかったわかった。今横になるから」
アスナのやる気に根負けしたキリトはやれやれと溜息を吐きながら表情を緩ませ、ベッドにうつぶせになった。
それを確認したアスナはギシッとベッドに自分も乗り、彼の背中に馬なりになる。
その体勢はいろいろと予想外だった。
「マ、マッサージって足じゃないのか?」
「ん? 足も習ったよー」
「……」
や、やられた……と今更ながらに安岐の嫌がらせじみたマッサージの伝授を恨めしく思いつつここに来てキリトは無駄な抵抗を試みてみた。
かつてこれが成功した試はほとんどない。が、やらないよりはマシだった。
「あ、足だけでいいかな、なんて……」
「んー、じゃあ《今度》からはそうするねー」
「こ、今度からは……ですか。あの、つかぬことを尋ねますけどねアスナさん。それって……またやる気ってこと?」
「うん、私がいるときは毎日やってあげるよー」
「……勘弁してくれ。こんな姿を家族に見られた日には会話に困る」
「ええー? 大丈夫だと思うけど」
アスナはうきうきしながらキリトの背中をグイグイと押し始めた。
ゴリゴリとした感触と時折パキパキと鳴る背中の骨が心地よい。
最初こそ気持ち的な抵抗のあったキリトだが、その心地よさにそれ以上の文句を言う気にはなれず、されるがままになっていた。
アスナの細い指が背中を撫でるのがわかる。グッと掌を強く背中の中心を押してグイグイと上方向へずらしていく。
本来これは疲労回復と言うより背骨のズレを治す整体の一つに近い療法だが、体をほぐすという意味では無関係ではない。
安岐はとりあえず最初はこれをやってから足のマッサージをしてあげて、とアスナに教えていた。
次回以降からは足のみで良いとも言われているので、結局はキリトに言われずとも次回以降は足のみのマッサージに変更していただろう。
キリトの細い背中を加減しながらアスナは押しつつ、安岐が言った意味深な言葉を思い出す。
『彼のこと、ちゃんと見ていてあげた方が良いよ。結構危なっかしく見えるし』
似たようなことを、あの日に《ピナ》扮するヒースクリフこと茅場晶彦にもアスナは言われていた。
彼から目を離さない方が良い、と。しかしアスナの見る限りそんなにキリトに変化があるようには思えない。
そこにどうにも言いようのない違和感をアスナは覚えていた。
「次は足にするねー」
「あぁ──」
少し眠たそうな声で返事をするキリトに苦笑しながらアスナはキリトの肉が落ち、痩けた脹脛を丁寧に揉んでいく。
その足は実に頼りなさそうで、アスナが全力で掴めば折れてしまいそうな程脆い。
「キリト君の足、だいぶ細いね」
「……ああ」
「腕もそうだけど、全体がすごく痩せちゃって……筋力って意味ではあの世界とは正反対だね」
「……ああ」
「……壊れちゃいそうな程細い。ちゃんと食べて、一杯運動して、すぐ良くなろうね」
「……」
「キリト君?」
「……すぅ、すぅ」
「寝ちゃったか」
先ほどから同じような返事しかしていないな、とは思っていたが、彼はどうやら眠ってしまったらしい。
無理もない。あれほどハードに筋力回復プログラムをこなしているのだ。
次いで風呂にも向かい、マッサージを受ければ眠くなるというものだろう。
それというのも、あの須郷の事件があった翌日に来た役人の言葉が影響していることは想像に難くない。
それは四月にはSAO被害者の為の学校が開校する、というもの。
都立高の統廃合で空いた校舎を利用し、入試なしで受け入れ、卒業すれば大学受験資格も付与される。
カリキュラムプログラムは人それぞれ変わってくるだろうが、学生ならば年齢に関係なく基本同じ校舎で同じ時間に授業を受けられる。
その入学に、キリトはどうしても間に合わせたいのだろう。
アスナは眠ったキリトの髪を優しく撫でた。彼の髪は既に散髪されて手入れもされている。
あの日もう一度眠った彼が起きて、まず最初に望んだのはそれだった。よっぽど嫌だったのだろう。無理もない。
彼の今の頑張りは、恐らく自分と一緒に学校に通うためだ。それはアスナも望んでいる事で、だからこそこうやって毎日のように彼の元へ顔を出している。
せめて少しでも手伝おうと。彼に会えなかった時間を取り戻したいという気持ちも無いではなかったが。
「頑張ってねキリト君。私も、頑張るから」
えい、とほほを軽く突きつつ、アスナはかつてのログハウスでそうだったように、彼の寝顔をしばらくの間堪能していた。
「それでは、お世話になりました」
キリトの退院の日。
毎日のようにアスナは病院に訪れて彼のリハビリを手伝い、その甲斐あって予定日には問題なく退院の許可が下りた。
筋力はまだまだだが、日常歩行程度ならそう大きな問題は無いだろう。長距離歩行やランニング、悪路の歩行となってくるとまだ荷が重いだろうが。
この日もアスナはキリトの退院を祝い、荷物等を持つ手伝いに来ていた。
彼の家族は多忙で、母親は仕事、父親は海外出張、妹の直葉は一番来たがっていたが学校にどうしてもいかなくてはいけない用事があり、付き添いはアスナだけだった。
「ん、元気でね桐ヶ谷君」
「はい、安岐さんも」
軽く握手をしてから会釈して、キリトとアスナは病院を出て行く。
キリトの体感としては一週間ちょっとの滞在だが、実際には二年近くここにいたことになるので、それを思うと少しだけ感慨深い、ような気がしないでもない。
アスナはキリトの隣でキリトの着替えが入った鞄を持っていた。
「あのさ、やっぱり自分で持つって」
「いいからいいから。今のキリト君は私よりひょろひょろなんだよ? 遠慮しない遠慮しない」
彼女は笑顔でそう言ってキリトの荷物を手放さない。
既にこのやりとりは今日三回目だが、それでもキリトは自分の持つべき荷物を女の子、それもアスナに持たせてしまっているという状況に納得できずにいた。
無理矢理取ってしまおうか、という些か危険な思考が湧かないでもないが、悲しいかな、彼女の言うことはもっともで、今のキリトの腕力ではそれを持ち続けることは少々辛い。
加えて、彼女と鞄の取り合いになったら力負けしてしまうという予想もついており、それこそ情けないのでその考えは無理矢理グッと押し込める。
……納得は出来ないが。
「お店寄って行くんでしょ?」
「ああ」
「でも何の用事?」
「挨拶と報告にな」
「……ふぅん」
あやしいなあ、という目でアスナはキリトを見つめる。
キリトは前から退院するその日にエギルの店に寄ると言っていた。
だがその理由は何故か釈然としないもので、彼はいかにも何か隠していますというように目を合わせず、歩き方にも硬さが感じられる。
まるで、かつて彼に片手直剣装備でありながら盾を装備していないのはおかしい、と問い質した時のようだ。
あの時も彼は結局何も言わなかった。彼がそうしていた理由が《二刀流》というユニークスキルのせいだと知ることが出来たのは偶然だろう。
今はもう、その偶然の出来事を好んで思い出したくはないが。
だから、アスナは少しだけ彼の隠し事に不安を抱いた。また、あの時のようなことが起きてしまうんじゃないかと。
でも、彼が言わないなら、言いたくないのなら、無理に聞くことはしない。
ただ、もしそんなことが本当に起きてしまったなら、今度こそ自分が彼の盾になろうと心の中で誓いは立てていた。
それぐらいは、許してもらわないと困る。
(言ったら許してもらえないのはわかってるから絶対に言ってあげないけど。お互い様だもんね)
アスナはクスリと笑みを零した。
キリトはそんなアスナにややバツが悪そうな顔をしている。
大方隠し事をしていることに後ろめたさを感じているせいで、突然笑みを零した自分の事が気になったが声をかけられないでいるのだろう。
アスナはおおよそのキリトの心情を看破しながらもあえて何も言わない。
隠し事をしている彼への、ささやかな抵抗だった。
千代田区にあるキリトの病院から台東区御徒町のエギルの店まではさほど遠くは無い。
しかしキリトにあまり長く歩かせるのは不安と感じたアスナは、近場のタクシー乗り場からエギルの店の近くまでタクシーで移動することにした。
キリトは苦笑していたが、アスナは日々の彼のリハビリに付き合っていたから今の彼の限界を良く理解していた。
徒歩で行ってしまうとお店までは良くても、きっとキリト自身の家に着くのは相当に難しくなることが予想された。
その為半ば無理矢理に彼をタクシーに押し込めたのだ。
「いらっしゃい、来たな」
ダイシー・カフェに入って開口一番、店長であるエギル──本名アンドリュー・ギルバート・ミルズ──はかつてのアインクラッド五十層にある街、《アルゲード》で営んでいた店の時のように、馴染みの客を歓迎した。
馴染みの客、と言ってもキリトがここに来るのは初めてだ。だが、エギルにとってみれば、彼は馴染みの客だろう。
「久しぶりだな、エギル」
キリトは拳をエギルに向け、エギルも拳を突きだす。
ゴツン、と互いに拳をぶつけ合わせて二人は微笑んだ。
これが、この二人の距離感だった。それを眺めていたアスナは、少しだけエギルを羨ましく思う。
自分も彼の信頼を得ているという自覚はある、だがそれとは全く別個の信頼関係がキリトとエギルの間にはあるように見えた。
いうなれば男同士でしか築けないような絆。見ようによってはそれは、自分とキリトの絆よりも強そうに思えた。
「退院おめでとう、これからが地獄の後半だがな」
「本当にな、我ながらこの体たらくが情けないよ」
エギルもリハビリを得た身であるためにその苦労はよくわかっていた。
退院してからが、ある意味大変なのだということも。
病院にいるあいだは、身の回りのことは家族や看護師がある程度してくれる。
キリトの場合その大半はアスナがしてくれていたのだが、自身の負担量という点では他のSAO被害者とそう変わらない。
しかし退院すればその介助は激減する。いや、普通に戻るというべきか。
それをこなしていくのがリハビリ第二段階、というところだろう。
これも慣れるのには地味に時間がかかったりする。
「ははっ、あっちじゃお前は特にパワーファイターだったからな。筋力ばっか上げてたのに、現実じゃ真逆ってのはそりゃ堪えるよな」
「笑い事じゃないっての」
まるでSAOの《アルゲード》に戻った時のような距離感。
ここがあの場所だと言われれば信じてしまいそうな空気がそこにあった。
それを、キリトが取り出したある《異質》なものが現実へと思考を呼び戻した。
キリトが取り出したのは一つのメモリチップだった。
「エギル、電話で話してあったとは思うけど……」
「……《例の件》か、わかった。解析してみよう」
「すまない。恐らくあんたくらいにしか頼めないと思っていたんだ」
「良いさ、俺も少しだけ興味があるしな」
「そう言ってもらえると助かる。けど、ヤバいようなら深入りはしないでくれ。解析時は念の為にまずは完全オフライン環境で頼む」
「わかってる。これで本当にシリカちゃんを元気に出来ればいいんだが……」
「……そうとう落ち込んでるらしいな。スグから聞いたよ。ピナがいなくなったって」
「そうか。とりあえずこれが何なのかわかるまで軽はずみなことは教えない方がいいな」
「ああ」
アスナにはよくわからない会話が彼らの中で繰り広げられる。
そこに、どことなく寂しさを感じる。ここのところ、彼につきっきりだったせいもあるだろう。
どこかで、彼にはいつも自分がいて、彼の事で知らないことは無いと思いつつあったのかもしれない。
「アスナ?」
「えっ? な、何キリト君?」
「何って……アスナから手を握ってきたんじゃないか」
「え……えぇっ!?」
どうやら、突然湧いた寂しさにいつの間にか手が伸びていたらしい。
確かにアスナの手はキリトの手を掴んでいた。キリトは不思議そうに彼女を見つめている。
彼女の意思に関わらず、急に遠のいてしまったように感じたキリトへと彼女の手は伸びていた。
無意識の産物ではあるだろう。だが、意識してしまっても、アスナはその手を放したくなかった。
「おいおいお前ら、こんなところでイチャつくな」
「い、イチャついてなんか……!」
「どうかな、もう少しで他にも一人客が来るんだ。そいつが見たらなんて言うか」
「客? 誰だよ? 俺も知っている相手か?」
エギルがその問いに答えるより速く、店のカウベルがチリンチリンと鳴った。
自然と視線がそちらへ集まる。
そこには恐る恐るという表情でドア開けた女性──記憶の中の《彼女》からは想像もできない──がいた。
彼女はウェーブかかったブラウンのショートヘアの前髪をピンで留め、小さなそばかすをふっくらとした頬に乗せている。
ベージュ色をした厚手のトレーナーを着こみ、黒地のホットパンツから延びる足は同じく黒いストッキングで包まれている。
四人の視線が絡まり、一瞬の間をおいてからいち早くアスナが口を開いた。
唯一、《素の彼女》を見たことのあるアスナが、それに思い至ったのだ。
「リズ……?」
「ア、アスナ……?」
そこにいたのは、あの世界のように桃色に髪を染めたわけでも対お客様用じみたメイド崩れの姿でもないリズベットだった。
リズベットはアスナを見て目を丸くし、二、三歩よろけるようにしながら入店すると、アスナへと駆け出した。
すぐにがっちりと彼女を抱きしめ、えぐえぐと涙を流す。
「アスナ、ごめん、ごめんよぅ……!」
「な、何!? どうしたのリズ!?」
「うぅ、私、私……ユイ守れなかったよぅ……! 気付けばユイ消えちゃって……それで……私、責任もって預かったのに……! ごめん、ごめんよ……!」
リズベットはアスナを抱きしめながら大粒の涙を流していた。
彼女の中のSAOはまだ終わっていなかった。友人から預かった少女を、目の前で助けられず、知らぬ間に現実に戻され、今に至るのだ。
この二ヶ月半、ずっと彼女は塞ぎこんでいた。ほとんど誰にも心を開けなかった。
そんなリズベットの髪を撫でながら、アスナは気まずそうに言う。
「あー、えっと……リズ?」
「ごめん、ごめん……!」
「リズ、ねえ聞いて?」
「……?」
涙を流し、弱り切っている親友の今にも壊れそうな儚い表情にアスナは思わず「うっ」となるほど庇護欲をそそられる。
だがそこはぐっとこらえ、その罪の呵責の源を断ち切らせるべく、真実を告げた。
「ユイちゃんは、無事だよ?」
「………………はえ? え……? ほんと?」
「うん、もう会ってる」
「は? ちょっ? え、何それ!? ちょっとエギル!?」
ほとんど睨みつけるようにリズベットはエギルに視線を送るが彼も慌てて首を振る。
その動作は「俺も知らなかった」と告げていた。
「っていうかアスナ! それならそうとすぐに連絡しなさいよ! どれだけ私が心配したと……!」
「あぅ……ごめんなさい」
アスナは謝罪の言葉を口にするが、それはある意味で酷というものだった。
リズベットは知る由もないが、アスナとてキリトのことで一杯一杯だったのだ。
目を覚ましてからこっち、ずっと胸の中に爆弾を抱えているような心情だった。
他の事を考える余裕など、リズベットと同じく無かった。
ALOに入ってからはそれこそ濃密な数日を過ごして今に至るのだから。
何より、アスナは彼女の連絡先を知らなかったのだが。
「もう……相変わらず変なところで抜けてるわね……なんだったのよ私の二ヶ月は……ん? あんたキリト?」
「ああ、久しぶりだなリズ」
「うっわぁ、ガリッガリじゃない! どうしたのよアンタ!?」
既に店に入ってきたときの儚げな様子は微塵も感じさせないいつもの彼女のスタイルで、リズベットは会話を再開しだした。
この方がリズらしい、とキリトは苦笑を漏らしながら、かいつまんで経緯を説明する。
自分が目覚めたのはつい最近のこと。最近世間を賑わせているアルヴヘイムに囚われていた三百人の中にいたこと。
アスナが助けてくれたこと。今日やっと退院したことなど。
「へえ、そうだったの」
「うん。それでねリズ……あっと里香……さん?」
「今まで通りでいいわよ。しっかしアスナはネトゲ初心者とは思ってたけどリアルネームとはねえ」
「うう、言わないでよ」
本名の交換も済ませた四人はそれこそ話に花を咲かせた。
この二ヶ月を取り戻すかのように。
だがその会話も、リズベットの質問で唐突に終わりを告げる。
「ところで、ユイって今どこにいるの?」
「え? ……あ……あ────────っ!」
「何か言いたいことはありますか、ママ?」
「……ありません」
小妖精、と呼ぶにふさわしいユイがぷかぷか浮かんでいるその目の前で、風妖精族(シルフ)に扮するアスナ/エリカは土下座していた。
リズベットの指摘でユイとはキリト救出以降会っていなかったことをアスナは思い出した。
すぐに店を出て、キリトを駅まで送り──駅からは一人で大丈夫だと言われた──お互いに家に戻ってALOにダイブする約束をして別れた。
再会したユイはそれはもうプンスカと怒っていた。実に一週間以上の放置プレイを彼女はアスナから受けていた。
その憤怒たるや推して知るべし。キリトの事で頭が一杯だったアスナはキリト救出以降一度もログインしていなかった。
ユイとてパパ──キリトの事が心配でしかたなかった。早く会いたかった。
だが、なかなか二人がログインしてこない。これではユイにコンタクトの取りようは無かった。
現在、キリトは真っ直ぐここアルンへ向かっている。到着にはまだしばらく時間がかかるだろう。
スプリガンを選択したらしい彼は、ちゃんとスプリガン領からのスタートになる。
ユイとエリカはアルンにいるためすぐに再会とはならなかった。
彼は寝ないで来る、などと言っていたのでそれまではアスナも寝るつもりはない。
むしろこちらからそっちへ向かおうかとも思っていたのだが、ご立腹のユイ相手にそんな暇は無く、ひたすら平身低頭していた。
ユイは小さい胸を反り返らせてプンプン怒っている。
ママばっかりパパを独占してずるいだの、すぐに会わせて欲しいだの、放っておかれて寂しかっただの、心配していただの。
エリカとて忘れていたわけではない。忘れていたわけではないのだが、つい、キリトの事を考える毎日でうっかりしてしまっていた。
ユイの言い分はもっともなので、エリカ、もといアスナはひたすらに謝り続けた。
ユイはふわりとアスナに近づくと、その髪に自身の小さい頭を埋めて体を震わせながら泣き始めた。
エリカは益々申し訳なくなり、ユイをそっと抱きしめて何度もごめんねごめんねと謝る。
数分して、泣きやんだユイが顔を上げた。
「本当は、怒ってないですママ、でも寂しかったです。不安だったです」
「うん、ごめんね?」
「もういいですよママ。それより、早くパパを迎えに行きましょう! こちらからも行った方が早いです!」
「うん……うん! そうだね、行こう!」
それから、実に十時間近いダイブを経て、二人+一人は再会した。
現実時間では既に朝だと思われる。それでもユイの喜びようを見て、アスナもキリトも微笑んだ。
のだが。
「え、ええーっ!?」
「ま、まあまあアスナ」
ユイがキリトと一緒に寝ると言い出した。
流石にそろそろ時間もやばいということで、少しでも二人は眠ることにした。
だがそうなるとユイはまた一人になってしまう。そこでユイはそれなら久しぶりにキリトと一緒に寝たいと言い出したのだ。
その為即時ログアウトではなく、宿に入って寝落ちログアウトを敢行することになったのだが、そこから雲行きが怪しくなり始めた。
最初、宿は一部屋につき一人しか入れなかった。システム的なものだろう。宿代は騙せないということだ。
もっともユイはナビゲーションピクシーである為にプレイヤーにはカウントされないので、同室は可能だった。
以前はエリカ……アスナと眠ったので今度はキリトと、という彼女の願いはわからないでもない。
わからないでもないが、アスナは少し面白くなかった。
そんな時に、宿屋の親父さん(NPC)がパーティを組んだメンバーなら、二人部屋に二人での同室は可能だと説明してくれた。
その際にはちゃんとパーティーメンバーである二人分の宿代を払う必要があるが。
これ幸いとさっそくパーティを組んだ二人だったが、入った部屋のベッドは二つあるものの小さく、三人ではとても寝られそうになかった。
元の姿に戻っているユイは珍しく強情にキリトと寝ることを諦めず、ベッドは固定オブジェクトで移動もできない為、このままではアスナは指をくわえて二人が寝るのを眺めていなくてはならなかった。
それに納得しきれないアスナがしゅんと項垂れる。
それを見かねたキリトが、ユイにピクシーの姿になってくれるよう頼んだ。
ユイは最初、少しだけ迷ったようだった。だが、すぐにアスナのしゅんとした姿に自身をピクシーへと変貌させた。
「これなら、詰めればなんとかなるだろ」
親子三人川の字、というにはいささかバランスが悪いが、最高の落としどころだった。
このベッドは二人でもやや狭いが──一人用ベッドの為に二人で寝ることは想定されていないのだろう──お互いに抱き合うようにして、さらにその間にピクシーと化したユイを挟んで、かつてのような配置になる。
そのまま眠るかと思われたその時、キリトが正面にあるぱっちりと開いたエリカ/アスナの瞳を見つめながら口を開いた。
「なあアスナ」
「なあに?」
「ユイのデータ、俺に送ってもらってもいいか?」
「えっと、できる? ユイちゃん?」
「出来ますよー、マスターもパパになりますけど」
「でもどうして?」
「ここじゃなくても現実でさ、ユイと話せるようにユイを展開してやりたいんだ。そうしたら、ユイももう寂しくないだろ?」
「パパ……!」
ユイは嬉しそうにその小さな体でギュッとキリトの首元を掴んだ。
それに微笑みでキリトは応える。
アスナはそんな二人に少しだけ焼き餅を焼きながら、どことなく懐かしさを覚えた。
ああ、そうだ。この距離感が、一番楽しかったあの家での距離感だ。
アスナは、ユイがキリトに抱き着くと決まってほんの少しだけジェラシーを感じてしまう。
そのジェラシーの対象はキリトだったりユイだったりと定まることはないが、一つ確かなことがある。
「おやすみ、アスナ」
「おやすみなさい、キリト君」
それは、彼の一声、彼の一動作でそんなものはいつも吹き飛ばされてきたということ。
おやすみ、と声をかけたキリトは、左手でかすかにエリカ/アスナの頬を撫でた。
その行為が、アスナの中にわずかに灯る嫉妬の炎を鎮火させる。愛おしさを倍増させる。
(大好きだよ、キリト君)
彼の閉じられた瞼を見ながら、アスナもまた仮想の微睡の中に身を投じた。
久しぶりに、良い夢が見られそうな、そんな予感がした。
その次の日、まさにギリギリのタイミングでALOの運営が停止されてしまった。