ジュ~~~。
油を跳ねさせながら、目の前のフライパンにある挽肉の塊が熱されていく。
フライ返しでさっとひっくり返して両面を焼き、良い焼き目が出来たところでIHコンロのスイッチを落とした。
もくもくと白い煙を上げるフライパンから素早く焼き目のついた挽肉の塊、もとい薄いミートパティをまな板へと移動させる。
煙は換気扇へと急速に吸い込まれていき、煙たさは微塵もない。
そのミートパティに包丁を入れて一口サイズに切り分け、菜箸でつまむと「ふぅーっ、ふぅーっ」と息を吹きかけて冷ましてから自らの口へと運ぶ。
「あふっ、あふいあふい!」
まだ冷めきっていないお肉は明日奈/アスナの口の中でその熱された肉汁を遺憾なく放出する。
慌てて蛇口を捻り、コップに水を入れてゴックンと一飲みした。
ふぅ、と一息ついてから改めてもう一度切り分け、アスナは十分に息を吹きかけて冷ましてからお肉を口に含む。
「んぅ、ちょっと違う、かな。でも一応こっちのソースをかけてレタスと挟んで……」
アスナはボウルに入れてあったレタスを取り出し、残りのお肉の上に乗せると鈍色の小さい器に混ぜ合わせてあったソースをかける。
改めてその状態のお肉に包丁を入れて口の中へと放り込み、もぐもぐと咀嚼してからまた「う~ん」と唸った。
目的の味になかなか近づかない。美味しくないわけではないが、どこか違う。
もっと《安っぽい》味にしたいというか、粗末な味にしたいというか。
《完成されたソース》を元にしているせいか、あるいは《既存のマヨネーズ》を使っているせいか。
彼女の目的である《仮想世界にあった味》を再現するのは困難を極めた。
アスナは溜息を吐くと、振り返って自分の携帯端末を見やる。そこには誰からの着信も告げられてはいない。
「もう、一週間だよ……キリト君」
アスナは小さく呟き、菜箸をコトンとまな板の上に置いて水道の蛇口を捻り、包丁を洗い始めた。
てきぱきと一通り片づけを済ませていき、今日作ったソースはラップをかけて冷蔵庫にしまうと、残ったミートパティと向かい合う。
ハンバーガーに入る予定のそのお肉の残り。だが完成が見えない今は失敗作でしかない。
本来ならいけないことだが、アスナは再び小さい溜息を吐いてそれをゴミ箱へと放り捨て、片づけを済ませた。
「やっぱり、あの事を話さない方が良かったのかな……」
キリトと最後に会ってから一週間、彼が退院してからは十日が過ぎていた。
アスナは自室へと戻ると、もう一度携帯端末を覗いて、何の変化も無いディスプレイに肩を落とす。
本当なら毎晩でも会えるはずだった。それが現実の世界ではないとしても。
だがその宛であったALOという世界は、父親が正式にCEOをという立場を降りた九日前にサービスを停止した。
運営チームは解散、レクトプログレスのプロジェクトチーム自体が無くなった。
ユイの受け渡しは済んでいたが、毎夜の逢瀬の宛はそのせいで消えてしまった。
それは残念なことだったが、そう大きく問題視するほどのことでもないとその時は思っていた。
彼から全然連絡が来ない事に気が付くまでは。
思えば、これまで彼から自発的に連絡をもらったことがあっただろうか。
SAO時代を含め、いつも自分が彼のところへ行っていた気がする。
SAOでは自分も忙しかったからあまり気にしていなかった。
ましてや一方通行の時期が長かったのだから。
だけど、そういう関係になったからには偶には彼から声をかけてほしいものだと思う。それとも何かで忙しいのだろうか。
ユイを展開させると言っていたし、リハビリも継続している。
リハビリには付き合おうかと前に聞いたことがあったが、それは退院した時にキリトから断られていた。
そんなにアスナの世話になるわけにはいかないよ、と。あの時は引き下がったがこんなことなら無理矢理手伝いを買って出てカリキュラムや日程を聞いておくんだった。
この一週間、全くコンタクトを試みなかったわけではない。時折送るメールにはちゃんと返事をくれる。だが逆に言えばそれだけだ。
どうしても「会おう」という一言が来ることは無いし、こちらからも言えなかった。
一週間前、最後に会った日に勇気を出して話したある出来事が、彼女から積極性を奪っていた。
今も連絡が無いのが、その時の会話のせいだとしたら……と思うと益々アスナは弱気になってしまう。
何とか会う理由、機会を作る為に《あの世界》の味を再現した料理を用意しようと思ったのは四日前。
しかしその完成も見えてこない今、アスナの胸には不安が募るばかりだった。
「サチさんの話は、まずかったのかな。やっぱり、キリト君はまだ引きずっていて……もしかしたら、本当は彼女が好きだったんじゃないのかな」
そんなことを思いながら、アスナは一週間前のことを思い出した。
ALOがサービス停止になったことに驚き、アスナはすぐにキリトに連絡を取った。
キリトも気付いていて、話によると妹の直葉/リーファも相当落ち込んでいるとのことだった。
さらに、珪子/シリカも益々落ち込んでしまっているそうで、とにかくその打撃は大きかった。
だがそれもやむを得ないことではあるだろう。
ソードアート・オンラインで茅場晶彦が起こした事件は未だに世間にも根深く残っている。
VR世界回復の一打として《安全》を前面に売り出した話題作であるアルヴヘイム・オンラインで似たような事件が起きればそのサービスの停止は簡単には免れない。
むしろ遅かったくらいだとさえ言える。
さらにことはALOだけにはとどまらないことが予想された。
二大ビッグタイトルが犯罪に使われたことで、この仮想世界を主とした産業自体の縮減、消滅さえ危ぶまれる可能性があった。
それは仮想世界に魅せられた者には特に悲しい出来事だ。
今やアスナもその一人だった。キリトと出会えたのは仮想世界のおかげなのだ。それを思えば、仮想世界そのものを全て憎みきることはできそうになかった。
直葉の事を知るアスナは、彼女もまた似たような心境だろうとその心中を察する。
彼女は人一倍飛ぶことを楽しんでいた。それが奪われてしまうのは、本当に悲しいことだ。
さらにアスナは最悪の事態に思い当たる。それは、ユイのことだった。
もし今後加速度的に仮想世界が淘汰されていけば、彼女とはもう会うことが出来ないのではないかという不安。
ユイに触れられなくなるということは、さらにアスナを悲しませた。
ただ、そのことについてはキリトが「少し待ってほしい」と言っていたので、僅かな希望を捨てずにいた。
ALOがサービスを終了してから二日、ユイの進展について気になったアスナがキリトへ連絡を取ると、丁度今日用事があってエギルの店に行き、その足で必要になったパーツを少し調達すると言われた。
アスナはそれを聞いて自分も買い物に付き合うことにした。
ユイの為に何かしてあげたかったし、キリトにも会いたかった。それが、一週間前のことである。
待ち合わせ場所であるエギルの店に入ると、キリトはエギルと難しそうな顔をしていた。
どうやら話し込んでいたようだ。ふと、時間を間違ったかと時計を見るが、約束の時間十分前なので、むしろ早いくらいだった。
アスナに気付いたキリトはエギルに「少し考える時間をくれ」とだけ言い、話を切り上げた。
どうやらこの間の秘密にされている話絡みだろう、とアスナはアタリを付け、何かを追及することはしなかった。
そのまま二人で電気街へと繰り出し、キリト指導のもと買い物を済ませた。
一つ一つを何に使うものなのか丁寧にキリトは説明してくれたが、アスナにとっては全くの門外漢な為、ちんぷんかんぷんで話の半分も理解できなかった。
ただ、一度彼が話している内容を父に聞かせてみたらどうなるだろう、というひそかな企みが彼女の中にはあったりする。
もしかしたら話が合うかもしれない、という期待に胸を膨らませながら。
スムーズに買い物も終わったので、これ以上寄るところは無くなった。キリトの体力の上限はまださほど高くないこともアスナは理解している。
だから、用事が済んだのならお互い帰宅するのがベストだとわかってはいたが、アスナはなかなか繋いだ彼の手を離せないでいた。
もう少し一緒にいたい。そう思ってしまう。段々とそのもう少しがもっともっとと増えていくのは目に見えているのだが、それでも願ってしまう。
何度彼の入院中に滞在予定時間をオーバーして病室に居座ってしまったかわからないほどだ。いや、オーバーしなかった日など無いかもしれない。
そんなアスナの心情を、キリトは握られた手から悟ってくれたのだろう。
彼は家の近くまでは送るよ、と言ってくれた。
アスナは少しだけ迷った。彼にあまり長距離を歩かせたくは無かった。
今無理して体を壊せば元も子も無い。それなら自分が送った方が、と思ったがキリトはアスナを引っ張るように駅に入ってしまった。
やや強引な姿だが、足が微妙にぷるぷる震えているのにアスナは気付き、クスリと笑みを零してされるがままになることにした。
不安や怯え、というよりはちょっとした無理矢理な筋肉の使い方だったのだろう。彼はまだ激しい運動については固く禁じられているはずだ。
その彼が少し無理してでも送ろうと思ってくれたことがアスナは嬉しかった。
だからせめてこれ以上は彼の負担にならぬよう、足を止めることはしないことにしたのだ。
アスナは彼の家が埼玉県の川越にあるとだけ聞いている。おおよその住所も聞いているので地図で検索してみたことはあるが、実はまだ一度も行ったことは無い。
同じようにキリトも住所こそ伝えてはあるがまだアスナの家までは来たことは無かった。
電車は渋谷を通り過ぎる。ここからでも地図によると一時間以上は彼が帰るのにかかる計算だ。
彼の帰りを少しだけ心配しながら、空いている席に二人で並んで座っていた。コトン、と彼の肩に頭を乗せると、不思議とあの世界でこうしていた時のことを思い出す。
手が勝手に編み物の真似事をしだして、笑ってしまった。これはそう、ユイの為にひたすら裁縫スキルの熟練度上げを夜な夜な行っていたのだ。
空中で何も持たずにそんなことをしても、現実では僅かも熟練度は上達すまい。でも、あの世界での幸せな時間を思い出せると、心が温かくなった。
キリトは何も語らない。ただ小さく微笑んでいるのだろう、というのがなんとなくの気配で伝わってきていた。
それは、やっぱりあの世界でのその時と同じで。益々アスナは心がほっこりとする。
世田谷線宮の坂駅で二人は降りた。アスナにとっては慣れ親しんだ場所で、キリトにとってはほとんど来たことのない──あるいは初めての──場所になるだろう。
歩道の煉瓦タイルを一歩一歩踏みしめながら徐々に近づく別れの時にアスナは少しだけ表情を曇らせる。
内心の我が儘をキリトに見透かされ、こんなところでまで送ってもらってしまった。
それなのに、もう少しで別れかと思うと《まだ一緒にいたい》と貪欲に思ってしまう。
だからだろうか。アスナは自宅にほど近い小さな公園に差し掛かった時、彼に公園に寄っていこうと提案した。
彼は不思議そうな顔をした後、頷いてくれた。それがやや痩せ我慢のような表情にも見えたアスナは、悪いことをしたなと思いつつ遊具の方へとゆっくり歩み寄り、近年座ることなど無かった小さいブランコに腰を下ろした。
キリトはその隣のブランコに腰を下ろす。公園には他に誰もいなかった。
ギィ、ギィ……と小さくブランコをこぎながら、アスナはオレンジに染まりつつある空を見上げた。
今日という日はもうすぐ終わる。夜の帳が下りて、月によって照らされ、また日が昇って明日が来る。
それは自分が生まれてくる前から普遍的で、自分の死後も変わらないだろうことは想像がついた。
何をしようと、また何をしなくとも明日は必ず来る。
ただ、その自然の営みが、アスナに伝えなければいけないことを思い出させた。
もう少しで日が暮れ、月が昇る。
月。月夜。《月夜の黒猫団》。
キリトに会った時、すぐにでも謝らなければいけない、と決めていたこと。
アスナがキリトを見つめると、彼は不思議そうに首を傾げた。
その顔を曇らせることはしたくない。だが一方で言わないのは彼に対する酷い裏切り行為のようにも感じられた。
伝えねばならない。そんな強迫観念に駆られたアスナは、迷いながらも震えた声で口を開いた。
「あのね、キリト君。私、どうしても謝らないといけないことがあるの」
「なんだよ、改まって」
彼の顔はいつもと変わらない、少しだけ小憎たらしいような笑顔を浮かべていた。
その表情をこれから一変させてしまうかもしれないと思うだけで、アスナは口を噤みたくなる。
それを口にするのは、相当な意志力を必要としていた。
それでも、彼女は言うことが出来た。
「ALOに初めて入った日にね、スキルの熟練度がSAOのものとほとんど同じだったでしょ?」
「ああ。流石に《二刀流》は無かったけどな。なんでもセーブフォーマットが同じらしいな」
「……詳しいことはわからないけど、ユイちゃんもそんなこと言ってた。でもね、実際はそれだけじゃなかったの」
「というと?」
「アイテムもね、引き継いでたの」
「まあそうじゃなきゃユイもいないよなあ」
「うん……そうなんだけど……ほとんどのアイテムはオブジェクト化もできない文字化けした状態でね」
「そうだろうな。よっぽど同じようなネーミングで同じ形じゃないとバグるよ」
「ユイちゃんは奇跡的に名前も同じで上手くオブジェクトにできて元の姿に戻ったけど、他はほとんど無理みたいだった」
「それはアスナのせいじゃないだろ?」
気にするなよ、とキリトは軽く流すがこれを聞いて彼がそのままでいてくれる自信は、アスナには無かった。
何度か息を吸っては吐いてを繰り返してから、アスナは意を決して本題を伝える。
「そうかもしれない。でもね、そのままアイテムを取っておくのは危険だったらしくて、私、全てのアイテムを処分したの」
「俺だってそうしてたさ。しょうがないよ」
「しょうがないけど……でも、私、知ってたのに、わかってたのに処分したの」
「何を?」
「それがどれかは文字化けしていてわからなかった。でも、キリト君が持ってたあの《録音結晶》。《サチ》さんからの、《贈り物》」
「ッッッ!」
キリトの表情が、一変する。
視線を逸らし、呼吸がやや荒くなっている。
そんな彼に胸を痛めながら、アスナは贖罪を続けた。
「私、その中にあるってわかっていたのに、処分したの。そうするしかないと思った。ごめんなさい、本当に、ごめんなさい」
「あ……っ!」
ユイの為に、ともユイが言ったから、ともアスナは言わなかった。
ユイのせいにしたくはなかった。そのアドバイスをくれたのは彼女でも、選択し実行したのは自分なのだから。
「ごめん、なさい」
「………………」
キリトは、先ほどまでの余裕ある空気が霧散し、圧迫されるかのような威圧感を発生させているように感じられた。
顔を伏せ、口を開かない。
アスナは予想されたこととは言え、胸がギュウギュウと締め付けられた。
何の弁解もできない。罪だと言われれば素直に認める所存でさえある。
「………………」
「キリト、君……?」
しかし、無言というのには耐えられなかった。
何も言わずに項垂れる彼に少しだけ不安が募り、ブランコから立ち上がって彼の肩に手を置く。
キリトはびくりと反応して、ゆっくりと顔をあげた。
その目は、酷く怯えていて、口元が浅い呼吸を繰り返している。
やっぱり、彼にとってサチという人間は大きい存在なんだと改めて認識するのと同時に、言いようのない罪の意識にアスナは苛まれた。
いっそ、彼に罵られた方がいいのかもしれない。
だが彼は罵倒の類を口にすることは終ぞ無かった。
代わりに、か細い消えるような声で、ただ一言だけ呟いた。
「……アスナも、《また》消えちゃうのか……?」
「えっ?」
彼が一瞬何を言っているのかわからなかった。
そんなアスナの驚愕の顔を見て、逆にキリトはハッとなり立ち上がった。
「ごめん、なんでもない」
「え、でも……」
「いいんだ。本当になんでもない。それに、怒ってもいない。……ただ、今日はもう、帰るよ」
「あ……」
アスナが伸ばしかけた手から逃れるようにキリトは二、三歩急ぎ足で進んだ。
その背中には少しだけ拒絶のような感情が込められているような気がして、アスナはそれ以上声を発せなかった。
「……ユイの事に目処がついたら連絡する。それじゃあ、家まで気を付けて」
彼は最後にそう言うと、ふらりと公園から姿を消した。
あの時、声をかけるべきだったのか、追いかけるべきだったのか、未だにアスナにはわからない。
ただ、言えば少しだけスッキリすると思っていた枷は、逆に重みを増したような気がした。
あれから一週間。
キリトからの連絡は未だに無かった。
やはり、彼は件の録音結晶について並々ならぬ思い入れがあり、その心の整理に戸惑っているのではないか。
だとすれば、今それをなした自分がこちらから彼へのコンタクトを取ることが許されるだろうか。
「はぁ……」
アスナは本日何回目になるかわからない、深い溜息を吐いた。
女は度胸、と昔見たアニメで言っていた気がする。
ふとアスナはそんなことを思い出しながら持っているバスケットに力を込めた。
中にはようやく味の再現に満足できたハンバーガーが入っている。
あれから二日、アスナは見事ハンバーガーを完成させると、それを届けるのを理由として彼の家に突撃してみることにした。
電話で予めアポを取らなかったのは単に恐かったからだ。
勇気を出した一歩が出鼻から挫かれたら簡単に立ち直れる気がしなかった。
しかし、駅を降りた所でアスナは少しだけ足が竦んでしまった。
迷惑だったらどうしよう、など今更な不安がこんこんと湯水のように湧き出てきてその歩みを遅らせた。
地図は既に頭に入っている。何度も住所と場所は確認したので間違いは無い、と思われる。
一歩一歩鉛でも足に付けているかのような重みを感じながらアスナは脳内ナビゲーションを頼りに歩いていく。
そうして到着した場所は、古式ゆかしい日本家屋の模範とも呼べそうな家だった。
大きめの二階建て。奥には離れのようなものも見え、あれが以前少しだけ聞いたことのある剣道場なのかもしれない。
アスナはその桐ヶ谷家を一目見て、《開けている》と感じた。
自分の家とは違う開放感。どことなく人を寄せ付けない機械的な防壁をイメージしてしまう自分の家に対し、ここは優しい時間が流れているように見える。
例えるなら、母親の実家のようだった。
庭に面して縁側があり、その前には小さいが池がある。
暖かい日差しの中、あそこに座っていればそれだけで気持ちが良いだろう。
いつの間にか、つい先程までかつてのアインクラッドでフロアボス攻略戦に挑む前の、ボス部屋を固く閉ざしている扉の前にいるような緊張感や不安はナリをひそめてしまった。
きょろきょろと興味深く辺りを見回しながら開かれた石造りの門から入っていき、玄関前のインターホンを押す。
縁側の奥の引き戸が開いていたので、ボーッとその奥の部屋を見つめていると家の中から「はーい」と女の子の声が聞こえた。
「どちら様ですかー? あれ? アスナさん?」
玄関まで応対に現れたのは、アスナも顔を合わせた事のある人物、キリトの妹の桐ヶ谷直葉だった。
現実の彼女はALOと違い和風を思わせる姿で、キリトのそれと同じ真っ黒なショートヘアに下は青のショートパンツ、上はチャック付の赤いジャケットというラフな格好をしていた。
少しだけホッとしながら、アスナは挨拶する。
「こんにちは、直葉ちゃん。キリト君、いる?」
「え……? 今日は一緒なんじゃ……」
「へ?」
アスナの問いに、直葉は首を傾げた。
それに聞き間違いで無ければなかなか聞き捨てならない言葉が発されたように思う。
「キリト君がそう言ったの?」
「えーと、いや、そういうわけじゃないんですけど。今日誰かと外で会うみたいだったからてっきりアスナさんかと」
「そう、なんだ……」
どうやらキリトは外出中のようだ。
しかし、その外出目的が誰かと会う為となると、その相手のことが少しばかり気にならないでもない。
SAOから解放されてまだ間もないのだ、親しい友人と再会の約束などをしていてもおかしくはないが……どうにもキリトのそんな姿をアスナはイメージ出来なかった。
「とりあえず、上がります?」
「え? いいの、かな?」
「良いですよ、どうそー」
直葉は快くアスナを家へと招き入れた。
おじゃまします、と言ってからアスナは丁寧に靴を脱いでフローリングとはまた違う板張りの床を直葉の後を追ってパタパタと歩く。
直葉に案内されたのはリビングで、「適当に座っていてください」と言われ、木造のテーブルに合わせて付けられた木造チェアに腰をかけた。
持っていたバスケットをテーブルの上に置かせてもらい、ふぅと息を吐くと直葉がコーヒーを差し出してくれた。
「インスタントですけど」
「ありがとう」
アスナは黒いマグカップに口を付けて暖かいコーヒーを喉に通す。
インスタント特有の安っぽさはあるが、アスナにコーヒーへの拘りはさほど無い。
それよりも今は暖かい飲み物を飲んだ事によって身体の内からぽかぽかとしてくる気持ちよさに息を吐いた。
二月の外はまだ寒い。風が冷たく、身体は冷えつつあった。そこに暖かい飲み物を貰えば冷えた身体の芯を暖められるというものだ。
「アスナさん」
「……どうしたの?」
「実はそのカップ、お兄ちゃん専用のマグカップなんです」
「ぶふぅ!?」
少しばかり意地悪げな顔で何を言うのかと思えば。
アスナは再び飲もうと口を付けていたマグカップを離してけほけほとむせた。
直葉は「やばっ」と慌てて布巾を持ってきてアスナに手渡す。
それを受け取って、少しだけ吹き零してしまった黒い液体を拭き取りながらアスナは唇を尖らせる。
「もう、イジワルだよ直葉ちゃん」
「あははは、すいません」
「何だかそういうとこ、キリト君に似てるね」
「そうですか? まあ兄妹ですから」
朗らかに笑う彼女には、以前の……キリトが昏睡中の時のような壁はあまり感じられない。
アルヴヘイムで共に冒険した僅かな時間が、二人の間にあった遠慮とわだかまりの壁を壊していた。
中でも一番の理由は、やはり最後のデュエルだろう。
あの戦いによって、お互いへの踏み込めぬ気まずい空気というものは殆ど無くなっていた。
アスナはもとより、直葉も彼女を認めている。
「でも今日はどうしたんですか? 確かアスナさんがウチに来るのって初めてじゃ?」
「うん、そうなんだけど……」
アスナは気まずそうに言葉を濁した。
何て言えば良いのだろう? 喧嘩をしたのとは違う。
だが、現状殆ど会話がない関係を説明するのにベターな比喩表現が出てこなかった。
かといって、全てを正直に話すのも憚られる。事は自分一人でなく、彼のプライベートにまで触れてしまうからだ。
直葉はアスナの葛藤を見てとったのか、それ以上聞くのを止め、代わりに目の前にあるバスケットの中身について尋ねた。
これがなかなか食欲をそそる良い匂いなのだ。
「えっと、その中に入ってるのって何ですか?」
「これ? う~ん言うなればアインクラッド版ハンバーガー、かな」
「あいんくらっどばん?」
「そう、アインクラッドって現実の調味料がほとんど無いの。《既存の食べ物に似た何か》ならレストランとかにあるんだけどね」
例えば、マヨネーズやソースと言った調味料は無い。
しかし、スパゲッティを注文すれば、スパゲッティもどきは出てきたりする。
味についてはどれも今一歩現実に及ばないものが多いが。
「はあ、じゃあこれはその……」
「うん、ワザと味を劣化させたようなハンバーガー。キリト君が気に入ってたから、現実でも作れないかと思ってちょっと研究して作ってきてみたの」
「うわあ……お兄ちゃんずるい」
「そう? 良かったら食べてもいいよ?」
「え? でも……」
「二つあるから気にしないで」
「う、うぅ~……や、やっぱりダメです。この時間にハンバーガーなんて食べたら……」
直葉は自身のお腹を押さえて撫でる。
彼女もお年頃、腹囲が気になるのだろう。
見たところ直葉のスタイルに非の付け所はなさそうだが、同じ女としてその気持ちはアスナにもよくわかった。
「なら半分こしよっか。私と直葉ちゃんとで」
「え? 半分こ? そ、それなら……」
じゅるり、と小さく舌舐めずりする直葉の姿がキリトを彷彿とさせる。
もっとも彼なら腹囲や時間帯など気にせず、食べられるなら一つ丸ごと問題なく食べてしまうだろうが。
ちゃんとした血など繋がっていなくても兄妹だなあ、とアスナはくすくす笑いながら立ち上がった。
直葉は彼女の笑いが自分のちょっとしたはしたなさによるものと思い、顔を紅くして俯く。しかし目は既にハンバーガーから離れなかった。
「台所と包丁借りてもいい? 半分に切ろう」
「あ、私やります!」
直葉も立ち上がり、まな板と包丁を取り出してアスナ謹製アインクラッドハンバーガーにそのまま包丁を入れる。
パン部分が少しばかりくしゃっとへこんだところでアスナがストップをかけた。
乗っかっているパンを取り、中だけを切って、残ったパンも切る。
切り終わったら改めてそれらを重ねた。
そのアスナの手早さに直葉は「ほえー」と見惚れていた。
何も考えずにそのままハンバーガーを切っていれば恐らく形はもっと歪になったり大きさにもおかしな偏りが出来ていただろう。
簡単なことのようで意外と気付かないそれをやってのけたアスナに直葉は感心した。
「料理お好きなんですか?」
「うん、まあね。SAOじゃ戦闘の役には立たないけどスキル値をコンプリートしたよ」
「凄い! お兄ちゃんが言ってましたけどSAOじゃ本当に気が遠くなるくらいの反復使用でスキル熟練度が上がっていくんですよね?」
「うんそうだよ」
「はー、私には無理だなあ」
「そんなことないよ。さ、食べよう。今回のはわざとレベル落としたようなヤツだから、今度直葉ちゃんには何か美味しいもの作ってくるね」
「え? あ、うぅ……嬉しいですけど」
「もちろんあんまり太らないもの」
「楽しみに待ってます!」
直葉の目の輝きにアスナは微笑んで一緒に半分になったハンバーガーに齧り付いた……丁度その時。
玄関の開く音がし、妙齢の女性の疲れたような声が聞こえた。
「ただいまぁ……あら? 美味しそうなもの食べてるわね」
アスナと直葉は二人してがぶりとハンバーガーに噛みついたまま顔を合わせた。
ぱちくりと目を瞬かせてから慌ててもぐもぐと咀嚼して口を開く。
「お、おかえり」
「お、お邪魔してます」
突然現れた女性にアスナは慌てて頭を下げた。
その女性はコットンシャツとスリムジーンズの上に革のブルゾンを羽織った出で立ちで、薄い化粧をして無造作に髪を後ろで束ねている。
全く予想外の邂逅だが、体に染みついた見知らぬ相手への対応力が自然と頭を下げさせた。
「いらっしゃい。初めて見る子ね、直葉のお友達?」
「今日は珍しく早いんだねお母さん、この人がアスナさんだよ、結城明日奈さん」
「ああ! 貴方が……いつも和人がお世話になって」
「あ、いえ……こちらこそ」
深々と頭を下げられアスナも慌ててもう一度頭を下げる。
しかしまさかキリトの母親に会うとは思っていなかった。
こんなことなら服装にはもっと気を使うべきだったかとアスナは少しばかり内心で後悔した。
「礼儀正しいわねえ」
「い、いえ普通ですよ」
「そう? それにしても……こうしてみると貴方たち本当の姉妹みたいね」
「はい?」
「お母さん?」
アスナと直葉は疑問符を浮かべた。
別に悪い気がするわけではないが、何故急にそんな。
そう思ったアスナは、目の前の直葉及びキリトの母が見覚えのある顔をしたことに気付いた。
あ、これ……いつもキリト君が自分をからかうときの顔だ、と瞬時に理解する。
「貴方たち二人ともほっぺにマヨネーズ付いてるわよ」
「「っ!?」」
全く同じ動作でアスナと直葉は頬を服の袖でぐいぐいと拭い、お互い顔を見合わせて、ホッと息をついた。
それを見て笑いを堪えきれないとばかりに彼らの母、桐ヶ谷翠はお腹を押さえて笑い声を漏らした。
その笑い方がまたキリトそっくりで、アスナは間違いなく彼らは親子で、遺伝していると確信した。
……たとえ、それが精神的であったとしても。
直葉と和人/キリトの母親である翠はコンピュータ系情報誌の編集者をやっていて、めったなことでは速く帰ってこない。
校了間近なら尚更で、実際に直葉もこの時間に母親を見るのは久しぶりだった。
今日は珍しく仕事が速く片付いて帰ってきたのだそうだ。
「いや~おかげで良いもの見れたわ」
「もう! お母さん!」
「あはははは!」
笑い合う直葉と彼女の母親を見て、なんだか少しだけアスナは胸が痛んだ。
いつからだろうか。自分が母親と笑い合うことが無くなったのは。
いや、そもそも笑い合ったことがあっただろうか。今はそれさえ思い出すのが難しい。
「あら、どうかした?」
「あ、いえ……」
「うるさかったかしら?」
「お母さんがからかうからだよ。もう良い歳して」
「失礼ね、私はまだそんなに歳じゃありません!」
アスナは微笑ましい家族の光景に、なんだか自分は場違いな気がしてきた。
聞けば久しぶりの早い時間の帰宅だと言うし、流石にこれ以上家族水入らずにお邪魔するのは悪いだろうと思い、帰ろうと考えたのだが。
「もう帰るの? なんだったら夕飯を食べて行きなさいな。いつも和人がお世話になってるんだし」
「アスナさん、良かったら食べていってよ」
どうにも引き留められてしまった。
最初は断ろうと思ったのだが、のらりくらりと話をかわされ、話し込んでいるうちにご馳走になる流れになってしまった。
なんだかまるでキリトを二人相手にしているような気分だった。
アスナはやむなく家にメールを送った。今夜は夕飯を友人の家でご馳走になることになったから、と。
返事はすぐに返ってきた。
『あまり遅くならないように』
淡泊な文字だけの言葉だが、それだけでも返ってきてアスナはホッとした。
以前の母親ならそんな勝手を許さなかっただろう。
帰ってきなさいの一言だったに違いない。
あなたの時間を拘束するような友達は貴方の友達として相応しくない、とまで言われかねない程に母親は口煩かった。
だが、それが無くなるとそれはそれで少しだけ寂しい、と思ってしまうのは何故だろう。
「どうだった?」
「あ、うん。ご迷惑にならないようにって。あと遅くなり過ぎないようにって」
「帰りは和人にでも送らせましょうか。そういえばあの子、何処か行ってるの?」
「あ、うん。昼過ぎに出かけたよ」
「あらそう。折角彼女さんが来てるのに」
「本当だよねー」
「……え?」
アスナは一瞬にして固まった。
あれ? なんかおかしいな。
今、変な言葉を聞いた気がする。
いや、間違ってはいないんだけど。
「しかし和人も可愛い子を見つけてきたもんねー、これがやっぱりVRMMOの醍醐味なのかしら」
「最近のはアバターランダム生成だから何とも言えないよ」
桐ヶ谷親子は問題なく会話を続けているが、どうにも口を挟みにくい。
しかし、せめて先ほど彼女たちの母親から出た言葉だけは確認しておかなければ。
「あ、あのぅ……?」
「あら、何かしら?」
「あの、キリトく……か、和人君は私のこと、その、なんて言ってるんでしょう……?」
「彼女じゃないの? 直葉からSAOで結婚してたって聞いたけど」
「……はぅ」
顔を真っ赤にしてアスナは黙り込んでしまった。
確かにそうだが、これはなんていう不意打ちだ。
この場を切り抜ける良策が何も浮かばない。
直葉がうんうんと首を縦に振っている。いや、間違ってはいないけどその話は流石に親にはまだしないで欲しかったと思う。
今この事態を何事も無く切り抜けるなんて、それなんていう難関クエスト?
初期ステータスのままアインクラッド第一層フロアボス攻略を目指す方がまだ可能性があるような気さえする。
「あら、これ和人のカップじゃない」
「ああうん、アスナさんにコーヒーをと思ってそれ使ったの」
「ああなるほど」
悪魔だ。今わかった。
この二人は悪魔だ。悪魔キリト君だ。
時々人をおちょくるだけおちょくるとき彼はそのようになる。
まさに今この二人は悪魔キリト君化している、とアスナは確信した。
そうなると打てる手は無い。そんなものがあれば第二十二層のあのログハウスで何度も悔しい思いなどしなかった。
悪魔キリト君が二人という強大な戦力。こんなの、神聖剣持ってる団長だってかないっこない。
不死属性? 何それおいしいの?
アスナがそう為すすべなくどんどんと顔の赤みが増してぐるぐると思考が巡り始めた時、ようやくと彼が帰ってきた。
「ただいまー……アスナ?」
「キ、キリトくぅん!」
これ幸いとばかりに彼に抱き着いたが、すぐに失策だと気付く。
背中に突き刺さる生暖かい視線がアスナに振り返ることを拒絶させた。
アスナと自身の家族を交互に見比べ、おおよその事態を把握したキリトは溜息を吐いた。
「おい、アスナをいじめるなよ」
「いじめてないわよー?」
「いじめてないよー?」
嘘だ。絶対嘘だ。
よしんばいじめてなくても遊んでる、絶対に遊んでる。
「とりあえずアスナ、俺の部屋に行こう。丁度良かった、今日連絡しようと思ってたんだ」
「え……?」
アスナは目を丸くした。
事ここに至ってようやく気付いたが、彼は全く持って普通だった。
予想ではこう、もう少し暗くどよ~んとしていて、引きずっている感があると思っていたのだが。
「俺の部屋は二階だ、行こう」
「あ、うん……」
キリトのそんな態度に疑問と安堵を得ながら、アスナはバスケットを片手に彼についていく。
チラと後ろを振り返ると、直葉と翠は苦笑しながら手を振っていた。
ペコリと頭を下げてアスナはキリトの後を追う。
なんとなく、アスナは彼女たちの苦笑の表情が気になりながらも案内されたキリトの自室へと足を踏み入れた。
「和人、あの子の前じゃいつもああなの?」
「うん……ちょっと悔しいけど」
「そう。和人にとって、今はあの子だけが支えなのかしらね」
「多分そうだと思う。話の受け答えはしてくれるけど、《あんなに軽そうに話すお兄ちゃん》は久しぶりに見たし」
和人が退院してきてから十日。家の中での和人は部屋に閉じこもっていた。
なにやらやりたいことがある、と。
だが二十四時間籠りっぱなしというわけではない。
食事やお風呂もあるし、定期的にリハビリにも通っている。
だから直葉は家族として比較的和人の顔を見る機会は多かった。
翠とて毎日のように顔くらいは合わせている。
だが。
和人は退院以降ほとんど喜怒哀楽といった表情を見せなかった。
精神的にも少々辛い目にあったということは聞いていたし、直葉も病院で何度もそのような兄を見ていたので、既に和人はそういう状態なのだと思っていた。
表情が多感に戻るまではまだ少々時間がかかるのだろう、と。
ところがどうだ? あの彼女さんとやらがいるとまるで二年前の和人に戻ったように彼は表情が豊かになった。
「良かったの? 直葉」
「……うん」
「そう。じゃあ夕飯作るから手伝ってくれる?」
「わかった」
「せっかく来てもらったんだもの。美味しいもの食べさせてあげなくちゃね」
「キリト君、怒ってないの?」
「どうして?」
「どうしてって……」
そう聞かれると、応えにくい。
ただあの別れ方がずっとアスナにいろいろ考えさせていた。
「言っただろ? 俺は怒ってないって。そりゃちょっとはショックもあったけど、しょうがないことだよ。そもそもSAOがクリアされた時点で《録音結晶》だって諦めていたことなんだ」
「そう、なの……?」
アスナは何でもないというキリトの顔を見て、どうやら嘘をついていないようだと思えた。
途端にホッとなって、暖かい何かが頬を伝った。
安心しすぎて、涙が零れたのだ。
「ごめん、心配かけちゃったな」
「いいの……良かった」
アスナは涙を人差し指で拭って笑顔を作った。
この涙は悲しいものではない。
ならば、笑うのは簡単だ。
そう思った時だった。
『ああーっ! パパ! ママを泣かせましたね!』
「ほえ?」
ユイの声が彼の部屋のパソコンから聞こえてきた。
アスナは目を丸くしてパソコンに近づく。
マルチディスプレイを使っているらしい彼のパソコンはモニターが三つあり、そのうちの一つにアスナの知るユイの姿が映っていた。
モニターの上には一週間前に一緒に買いに行った小型のカメラも設置してある。
「ユイちゃん……!」
『ママ! お久しぶりです!』
感動だった。
十日近く話さなかっただけで、本当に心配していた。
彼女ともう触れあえないんじゃないか。言葉をかわせないんじゃないか。
それほど、今の世の中のバーチャルリアリティ事情はひっ迫している。
「ユイの展開自体は少し前にはできてたんだ。これでユイの本体をPCに移してユイの声をスピーカー越しに聞ける。でもそれじゃあアスナはここに来ないとユイと会話できないだろ? それで考えたんだ」
『流石パパです!』
ユイとキリトのやや高いいテンションにアスナは首を傾げた。
既に十分嬉しいのだが、これ以上何があるというのだろう。
「詳しい工程は省くけど、どうしてもユイとアスナを自由に現実でも会話させたかった。だからまずはこれを使えるようにしたんだ」
「携帯……?」
キリトは携帯端末を掲げる。
彼の説明によると、携帯端末からユイと会話できるようにしたというのだ。
その設定と必要な自作ソフトをアスナの端末にもインストールし、準備を終了させる。
アスナは恐る恐る登録された「ユイちゃん」という番号にかけてみた。
『もしもしママ!』
「ユイちゃん!」
確かに携帯端末からは彼女の声が聞こえた。
アスナは喜びのあまり再び目尻から涙を零した。
「今はまだ、これが精一杯で、ユイに現実の物を見せるにはパソコンに取り付けたこのカメラ越しかデータに取った画像を取り込ませるかしないとダメなんだ。でもゆくゆくはユイに現実を飛び回れるような実感を与えてやりたい。構想はあるんだ」
視聴覚双方向通信プローブシステム。
まだ仮称で、構想のみの代物だが、手を付けるための下準備には取りかかっているという。
頭が痛くなりそうな話ではあるが、こればかりはアスナも真剣に聞いていた。
大事な娘の今後を左右する重大なことだ。それも仮想世界がきちんと存続してくれるなら、もう少し気楽にいけるのだが。
そのことをぽつりとアスナが漏らすと、キリトは「多分だけど、大丈夫」と言い出した。
「どうして?」
「アスナには安全性が確認できるまで秘密にしてたけど、実はALOで助けられたときにヒースクリフから預かっていたものがあるんだ」
「え、ええええ!?」
どうして言ってくれなかったのか。
そんな不満と不安が入り乱れるが、彼はそういう人だと思い直す。
思い直して、我慢できなかった。
「ばか……」
とん、と彼の胸に額を乗せた。
万が一があれば、彼は再び仮想世界に囚われるようなことだってありえる。
彼でなくとも、世界の誰かがその憂き目にあう可能性だって捨てきれない。
「ごめん……でも完全オフライン環境で徹底的に調べて、エギルの伝手にも頼って大丈夫ってことはわかったから」
「オフライン環境? ああ、お店で言ってた……あれそういうことだったんだ。中身はなんだったの?」
「あいつは《世界の種子》なんて言ってたけどさ、つまるところこれはフルダイブシステム用のプログラム・パッケージだったんだ」
その名前を《ザ・シード》と言い、SAOを治めていたシステム、カーディナル・システムをダウンサイジングし、ゲームコンポーネントの開発支援まで行えるよう設計されたフリーのソフト。
早い話が、回線のそこそこ太いサーバを用意し、パッケージをダウンロードして3Dオブジェクトを作成、もしくは既存のものを配置し、プログラムを走らせれば誰でもVRワールドを生み出せるというものだった。
「プログラムに危険なところは見つからなかった。これをばらまけばきっと仮想世界にみんな手を出すと思う。これまではヒースクリフ……茅場晶彦が作ったシステムを莫大なライセンス料を支払うことによってしかできなかったことを、フリーソフトな上より良い環境で出来るんだから。……でも茅場の真意を全て理解できない以上、それを公開するかは迷ってたんだ。だから、今日とある人に会いに行ってきた」
「……とある人?」
「アスナはもう会ったことがあったんだな。神代凜子さんだよ。会いに行ったって言っても、あの人がわざわざ東京まで出向いてくれたんだけどな」
キリトは「恨み言を言うつもりはありません」と前書きしてから話を聞きたいとメールを彼女に送っていた。
と言ってもメール自体はSAO対策チームの役人のアドレスから連絡用メールとして流してもらっている。
もし、その気になれなければ無視してもらっても構わないと付け加えて。
だが、彼女は会うと言ってくれた。そこでキリトは彼女と会い、茅場晶彦の事を聞いたのだ。
彼の、その死に様を。
彼はフルダイブシステムを改造したマシンで己の大脳に超高出力のスキャニングを行い、脳を焼切って死んだそうだ。
凜子によるとスキャンが成功する確率は千分の一程もなかったというが、キリトは恐らくそれが成功していると感じた。
ALOという仮想世界で茅場が言ってたいたことを今更ながら朧げに理解する。
生きていたのか、という問いにそうでもあるしそうではない、と彼は応えている。
つまりはそういうことだったのだ。恐らく、死ぬほどの高出力スキャンした彼自身を一度分割してネットワークに分散させた。
その《箱舟》の一つがピナだったのだ。
二ヶ月という時間をかけて、彼はその全てを回収し、ネットワーク内での人工知能のような自我として覚醒したのだろう。
今や機械的なプログラム群でしかないが、彼の記憶と思考……つまり大脳内部の電気反応を全てデジタルコードに置き換え本当の意味でネットワークに棲む電脳となったのだと思われる。
その為には全ての脳細胞が焼けるほどの高出力ビームを用いて、ナーヴギアで脳幹を破壊されるよりも遙かに激しい苦痛が長時間続いたはずで、それがわからない茅場晶彦ではないだろうから、全てを覚悟してのことだっただろう。
そうまでして彼がやりたかったことはなんなのか、またそのような姿になってから託したこれがどんなものなのか、神代凜子の意見をキリトは聞きたかった。
そんな彼女も茅場の考えまではわからないようだった。ただ彼女の思う茅場の人となりから、それがそんなに悪いものではないのではないかと口にした。
彼女も最終判断はやはりキリトに任せ、最後に茅場晶彦と同じようなことを口にした。
もし、あの世界に憎しみ以外の思いが少しでもあるなら……と。
「そうだったんだ……」
アスナは納得しながら、少しだけ残念だな、と思った。
出来るなら、もう一度自分も彼女に会い、伝えたいことがあった。
「実はねキリト君、あの日私も団長に会ってるんだ」
「えっ」
それは意外だ、とキリトは目を丸くする。
その驚きようにくすくすとアスナは笑いながら続けた。
「お礼をね、言われたの」
「お礼?」
「うん、彼女を責めないでくれてありがとうって」
「彼女?」
「多分、その神代凜子さんだと思う」
「へえ……」
本当は、それは正確ではない。
しかし、キリトにあの会話を正確に伝える気は無かった。
「ヒースクリフにも、大事な人がいたってことかな」
「多分そうだと思う」
「そっか」
それで話は終わった。お互いにキリトのベッドに腰掛けて、体を寄せ合っていた。
ゆっくりと窓の奥で日が落ちていくのが分かる。
あのログハウスで一緒にいた時のような、静かな時間が流れた。
無限にも感じる優しい時間。と、その時キリトのお腹がグゥと鳴った。
「あ」
「もういい時間だもんね、そうだキリト君。冷えちゃったけどこれ、良かったら食べて」
気まずそうにするキリトに、持ってきたバスケットの中身、ハンバーガーをアスナは手渡す。
キリトは目を輝かせて「いいのか?」と尋ね、アスナがコクリと頷くのを見てそれに齧り付いた。
「こ、これは……!」
「わかる?」
「忘れるもんか! 七十四層の安地で食べたハンバーガーだ!」
「味の再現に苦労したよー」
キリトははむはむと食べ……手を止めた。
アスナはどうしたのだろうと首を傾げる。口に合わなかっただろうか。
ゆっくりと食べかけのハンバーガーを持ったままキリトはアスナを見つめた。
「アスナ、ごめん。心配かけたよな、もっと早く連絡するべきだったよ」
「そんな私こそ」
「ストップ」
アスナは「ごめんなさい」と言わせてもらえなかった。
キリトが無理矢理に口を挟む。彼にしては非常に珍しい強引さだった。
「謝らないでくれ、頼む」
「え? でも……」
「お願いだアスナ、君は、俺に謝らないでくれ」
真摯な眼差しで見つめてくる彼に、それはきっと何か意味があることなのだろうなと察しがついた。
だから、アスナは渋々頷いた。
「でも、私だって悪かったんだから、ううん私の方が悪かったんだから謝罪くらいさせてよね」
唇を尖らせてキリトを睨むと、彼は苦笑した。
相当に無茶を言ったことを自覚しているのだろう。
さて。
実はこちらもそろそろ限界だ。
アスナはそう思いながら笑い声をあげた。
キリトは突然笑い出したアスナに面食らってしまう。
ああ、先ほどの彼の母親はこんな気持ちだったのだろうと思いながら、アスナはようやく彼に《それ》を指摘してあげた。
「マヨネーズ付いてるよ、キリト君」
「酷いな、もっと早く言ってくれても」
「ごめんごめん」
「はいストップ」
「うぅ~イジワル!」
謝罪の言葉は何故か言わせてもらえない。
そこにちょっと意地の悪さを感じながらアスナはキリトと部屋を出た。
キリトの真摯な顔についたマヨネーズは、実にアンバランスさを醸し出していた。
真面目な顔で真面目なことを話しているキリトの頬にマヨネーズ。
思い出しただけで笑ってしまう。その態度にキリトはむくれるも、やり過ぎたかな、と謝ろうとすれば「謝らなくていい」と止められる。
もっとも、先ほどよりは謝らなくてもいい、という語調が柔らかくなったような気はするが。
下では既に用意を終えた直葉と母親の翠が待っていた。
「さ、座って」と席を勧められ、「失礼します」とキリトの横にアスナは腰掛ける。
テーブルの上には大きな皿が二つあった。
レタスとプチトマト、ツナの入ったサラダの皿が一つ、お肉と野菜を程よく炒めた良い香りのする回鍋肉の皿が一つ。
他にはお味噌汁と白米がそれぞれの席に置かれていた。
と、もう一つ。テーブルには《置きっぱなし》になっているものがあった。
黒いマグカップ。
「あれ? なんで俺のカップ置いてあるんだ?」
「ッッッ!?」
アスナはさっきの事を思いだして頬を染めて顔を背ける。
それを敏感に感じ取ったキリトは、母親と妹のしてやったりという顔を見ておおよその経緯を理解したらしい。
自身もニンマリとしてアスナに声をかけた。
「なあ俺のマグカップが何で出ているか知らないか?」
「う、うぅ……そ、それは……」
アスナは彼の顔がその声色から既に小悪魔モードに移行していることに気付いた。
見ればきっと彼の母親も妹もそうなっているに違いない。
悪魔キリト君が三人。それなんて無理クエスト?
二人ですらギブアップだったのに、最後に本物がさらに混じるとか勝てる気がしない。
まだソードスキル無しという縛りをつけて延々と最前線でレベリングしている方が楽だろう。
アスナの初めての桐ヶ谷家訪問は、そんな甘苦い思い出と共に鮮明に記憶に残るのであった。