「やあっ!」
「おっと」
裂帛の気合いで、真剣を大上段から振り下ろす。
それを黒衣の影妖精族(スプリガン)の少年はひらりとかわしてみせた。
しかしその行動は予測済みだ。振り下ろした剣を素早く横薙ぎに一閃させる。
間髪いれない返し技に《今度こそ》よけきれまいと自信を深めた……のだが。
驚いたことにその剣に合わせて黒衣の影妖精族(スプリガン)の少年は自らの剣を縦に構えて受けきり、素早く水平に切り返して来た。
一撃、もらってしまう。だが良いようにはやらせないとよろける体に鞭打って彼に剣を構えた時、再び驚いたことに彼は既に自分の斜め後ろにいた。
速い──と思った時には既に遅く、さらに横腹を切られ、振り返った時にはもう一撃。
結局、彼に再度相対する前に都合四度の高速水平斬撃を受けて、風妖精族(シルフ)随一の剣士であるリーファは負けを喫してしまった。
「ああん! また負けた! 何今の!? ずるいよお兄ちゃん!」
「はっはっはっ! まだまだだなリーファ」
「うわーん! お兄ちゃんが虐めるよぅアスナさぁん!」
リーファは薄いブルーのロングヘアをたなびかせている、現実とほぼ出で立ちの変わらない女性水妖精族(ウンディーネ)プレイヤーの《アスナ》に泣きついた。
アスナはよしよしとリーファの頭を撫でながら苦笑する。
「もうキリト君、それはちょっと反則だよ」
「実際に《ソードスキル》使ってるわけじゃないぞ。そもそもALOには無いしな」
「そうだけど……でもソードスキル知らない相手にいきなり《ホリゾンタル・スクエア》使うかなあ、普通」
アスナの苦言にもキリトはどこ吹く風といった顔立ちでかつてのように剣を左右に振って背中に収めた。
どうやら今の戦闘はかなりお気に召したらしい。それは言葉とは裏腹になかなかリーファが強敵だったことを意味している。
「だってさ、さっき空中で散々バカにされたから……」
「もう、大人気ないなあ」
キリトの子供じみた言い訳に笑いつつ、アスナの胸の中でようやく気分を回復させたらしいリーファが顔を上げる。
その目は再戦の炎を燃やしていた。
先ほどまでの哀しみに満ちた表情は既にない。
結局、勝っても負けても楽しいというのがありありと伝わってくる。
それだけ、リーファはこの世界が好きなのだろう。
久しぶりのログインとくれば、それも一入のはずだ。
そう、現在三人は新生アルヴヘイム・オンラインにログインしていた。
運営を停止したはずのアルヴヘイム・オンラインの運営が再開されているのには、きちんとしたわけがあった。
キリトの当初の読み通り、茅場の残した《ザ・シード》の拡散は早く、また非常に効果的だった。
数多くの中小企業から果ては個人までがお手軽感からVRワールドへの進出に乗り出し始め、あっという間に縮減の一途を辿っていた仮想世界ブームはその勢いを取り戻した。
おかげで、既に当初危惧していたVR産業の衰退は避けられたとキリトはこの状況を見ていた。
だが、ことはそれだけに留まらず、キリトの予想の上を行く展開も見せた。
ALOプレイヤーでもあったベンチャー企業の関係者が、共同出資で自ら会社を立ち上げ、レクトプログレスからほとんど無料に近いような低額でALOの全データを譲り受けた。
その全データを彼らが新たに用意したサーバ群で再生し、自らが愛した世界を復活させたのだ。
それを知ったキリトは妹である直葉/リーファや明日奈/アスナに早速連絡を入れ、すぐにアルヴヘイムの世界へと舞い戻った。
全てのデータを譲り受けた新運営団体はプレイヤーデータも受け継いでおり、誰もが自分のアルヴヘイムのキャラをそのまま使うことが出来た。
また、譲り受けたデータの中にはレクトが管理を委託されていたSAOのデータも丸々混ざっており、そのプレイヤーデータも存在したことから、SAOプレイヤーについてはSAOプレイヤーデータを引き継げるよう運営は取り計らった。
全てのSAOプレイヤーは、運営再開一ヶ月以内に限り、SAOのデータ引き継ぎにおける詳細な設定が可能とされた。
それを受けてアスナは、迷った挙句に自身のアバター名を《ASUNA》へと変え──戻した、という方が正確かもしれないが──プレイヤーデータを姿形を含めて引き継いだキャラクターにした。
やはり、こちらの方が馴染みが深い。水妖精族(ウンディーネ)にしたのはみんながみんな同じ種族ではつまらないだろうという考えからだった。
しかし一方で既に僅かな愛着が生まれていた《エリカ》を失うのは少々辛かった。
そこで運営に問い合わせてみると、そのケースを考慮し、これも運営開始一ヶ月以内であればステータスが引き継げるのは一キャラクターのみだが、容姿がそのままの初期ステータスキャラクターとしてなら二つ目のアカウントを用意してくれるサービスを行ってくれた。
これには旧SAOプレイヤーから大層喜ばれた。アスナが世界樹攻略に向かった際のSAO生還者達はそのほとんどが自分の本来の姿に戻りつつ、一度作ってしまったキャラクターを取っておくことを好んだ。
だが、その一方でキリトはSAOデータの引き継ぎこそしたものの、彼のアバターは最初にランダム生成されたものそのままとした。
結果、彼は鼻や耳が少し長めで浅黒い肌に髪の毛がツンツンと逆立った──これは後にユイの頼みによってカスタマイズして下ろした──現実の彼とは些か異なる姿になった。
それについてアスナが尋ねたところ、「ビーターの姿を残しておきたくなかったんだ」と言われ複雑な心境になった。
それでも過去のステータスはやや惜しかったらしく、それらはそのまま残した。
かくして、VR事情に革新的変化が世の中には起こっているのだが、驚くべきことは他にもあった。
これについてはまだ、この場ではキリトの胸のうちにのみ留めている。
アスナとリーファを驚かせたい、という思いから《その日》が来るまでは黙っているつもりだった。
新体制の運営が譲り受けたデータに、《伝説の城》がそのまま残っていたという事実は。
もうしばらくしたら、大規模アップデートに《かの城》が復活する。その際、今使った技のシステムアシスト……《ソードスキル》も復活する予定だとキリトは聞いていた。
実は先ほどからちょこちょこ《ソードスキル》をシステムアシスト無しという自分だけの感覚で再現して披露しているのは、リーファ/直葉に対する《兄心》からだったりする。
いざそれが使えるようになった時、見たことのある、触れたことのあるものとそうでないものには雲泥の差がある。
まだ全てを語る気はないが、触りを知っておいて損は無いだろうという隠れた思いやりだった。
もっとも、先ほど《随意飛行》のコツを教えてもらうのにさんざん苦労して笑われたことの腹いせが全くないかといえば、そんなことはないのだが。
その証拠に、一切負けてやるつもりは無かった。だからこそ、アスナは《大人気ない》と彼を諌めるような言葉をかけたのだ。
彼が何かを妹に伝えてあげようとしているのはわかっていた。およそ容赦のないやり方で。
もう少し大人になって優しく指導してあげればいいのに、と思いつつもあれが彼らの兄弟としての距離なのだろうと感じ、実際に手を出すことまではしなかった。
「シリカちゃん、今日も来ないのかな……」
再びデュエル──HPが全損までするタイプのデュエル方式ではない──によって敗れたリーファは、フレンドリストのログイン状況を見て溜息を吐いた。
唯一、ALOが復活しても心が晴れないのが、珪子/シリカの現状だった。
彼女は急にピナが居なくなったことにショックを受けた。その上ALOの運営停止。その心情は察するに余りある。
ALOが復活した最初の日こそログインしたものの、ピナがやはりいないとなるとシリカは儚い顔でログアウトしてしまった。
メールやチャットで直葉は度々連絡を取り合い、励ましているが、どうにも元気は取り戻し切れていないようだった。
そのことについて相談されたキリトは、腕を組んで迷ったものだ。
《伝説の城》の大規模アップデートについて話すか否か。これについては結局迷った末話すのはやめた。
単に秘密にして驚かせておきたいわけではなかった。言わなかったのは、キリトにも確実にピナが戻ってくる確証が無かったからだ。
新運営はエギルの伝手先でもあるらしく、多少の繋がりはあった。無論その情報の全てをもらえるわけではないが、最大限エギルにはピナについて聞いてもらった。
エギルもシリカについては胸を痛めていた為に何とか力になりたかったのだが、運営ですら何とも言えないと回答してきた。
それは単に秘密にしているからではなく、彼らもまだ判断がつかないのだそうだ。
そもそもテイムモンスターは半分プレイヤーの付属物的な扱いになるが、もう半分はアクティブなMobでもあるらしい。
《伝説の城》稼働時に《伝説の城》に存在するアイテムやモンスターは復活の予定だが、復活した途端にそれが主の元へ戻るのかは現状では検証してみないと何とも言えないようだった。
《フェザーリドラ》は現れるが、それが《ピナ》としてシリカの前に現れるかは断言できない。
それを聞いたキリトは期待をさせておいていざ無理でした、となるよりはその時まで黙っていることにした。
吉と出るか凶と出るか、わからないが万一の時は自分もできる限りの力にはなるつもりでいた。
「さて、それじゃ一旦家に戻ろうぜ」
「お兄ちゃん家まで飛べるの?」
「む、馬鹿にするなよ。もうコツは掴んだからな」
キリトとアスナは共同で新体制になってから新たに世界樹の上部に作られた都市、《空中都市イグドラシル・シティ》に大き目のプレイヤーホームを借りていた。
旧ALOには存在しなかったそこは、当初のグランドクエストの謳い文句にあったものを現実のものとした形になる。
借りた部屋はそれなりのお値段ではあるが、最初にログインした際にSAO時代のコルがそのままユルドに変換されており、この部屋をまる一年借りてもたっぷりとお釣りがくるほどの蓄えがあった。
少しばかりチートな気がしないでもないが、これも昔取った杵柄として有効活用に役立てている。
ちなみに一ヶ月を過ぎてからのSAO生還者のALO参入者にはこの特典は与えられなかったりするので、その意味でも早めにこの世界に来ていて良かったというものだろう。
ついでに言うと、全てのアイテム・コルをSAO時代の結婚システムによって共通ストレージ化していたアスナとキリトは、最初にログインしたアスナに全ての所有権が移っていた。
キリトはログイン時、ステータスこそ引き継いだが所持品は初期のそれのみだった。
普通はそれが当然なのだが、アスナはせめて持っているユルドを二分しようとキリトに提案した。
キリトは男気たっぷりに「それは全部アスナのものでいい」と言ったのだが、その直後にリーファが「せめて装備を整えるくらいはしたら?」と発言し、いざ武器屋に行ってみると彼の興味を引く武器がいくつかあるものの、初期からの所持ユルドでは当然買うことはできない。
キリトは渋々、アスナに頭を下げてユルドを譲り受け──いつか絶対に返すと言ったキリトに対し、アスナも強情にそれはキリト君のお金だと珍しく揉めた──装備を整えた。
その様を見ていたリーファは、
「まるで旦那さんが奥さんに頭下げてお小遣いもらってるみたい」
などと言い出し、一瞬の険悪な雰囲気もなんのその、二人は赤くなってお互いチラチラと顔を見つめ合い始めた。
言い出しておいてなんだが、これはこれでただ見ているリーファとしては些か面白くなかった。
そこで突如思い出したかのようにキリトへ《随意飛行》の指南をしたのだが。
キリトは最初、情けないことに飛べなかった。いや、正確には制御できなかった。
翅を動かし、飛び上がることはできた。しかしロケットのように直上に勢いよく飛んだあとは制御が上手くいかずに変な方向へひたすら飛んでは激突していた。
その様があまりにおかしくてリーファは大笑いし、些か根に持っていたらしいキリトが先のような状況を展開させたのだ。
小馬鹿にするようなリーファの言葉に少しばかりムッとなりながら自信満々にキリトは翅を広げる。
アスナはその態度に苦笑した。彼は存外負けず嫌いなのだと改めて思う。
先ほど、自分はそこまで苦労しなかったと伝えるとムキになって飛び方を練習していた。
今度は対象がリーファになるだろう、と予想しながらはるか遠くに見える世界樹へと翅を羽ばたかせる。
比較的遠くの狩場に来て突発的にデュエルを行っていたが、帰るのにはさほど苦労しない。
というのも、新体制になってから《イグドラシル・シティ》の新設にあたってもう一つ、このALOには革新的改革がなされている。
それが《滞空制限》の撤廃だ。これによって、飛行不可能エリアでない限り、プレイヤーは自由に好きなだけ飛べる仕様となった。
速く飛ぶことを好み、《スピードホリック》などと揶揄されがちなリーファはそれに大層喜び、運営再開初日などはログインしてからずっとホバリングし続けたりしたものだ。
「じゃあ競争しようよ! お兄ちゃん達の借りてる家まで誰が一番先に着くか」
「よーし受けてたとう。アスナは?」
「え? 私も構わないけど……」
突然の提案に一瞬きょとん、としたアスナだが特に異論は無い。
それはそれで面白そうだ。
意見が纏まったところでアスナの肩を定位置として座っていたユイが現在のマスターであるキリトの胸ポケットへと入り、顔をぴょこんと出して口を開く。
「では私が合図しますね。いいですかー?」
「おう」
「おっけー」
「うん、良いよ」
三人ともグッと腰を下げ、足に力を込める。
仮想世界と言えど肉体を動かそうとする感覚は現実のそれとあまり変わらない。
長く仮想世界にいればいるほど分かってくるが、人の行動というのは詰まるところ脳からの伝達命令によるものだ。
仮想世界ではそれをいかに速く、正確かつ緻密に行えられるかが動きの善し悪しを決める。
違うところがあるとすれば現実では自身に与えられた肉体のプロパティが日々変動し、数値的な意味合いでの上昇は時間がかかるのに対して、仮想世界でのプロパティはそのゲームにもよるが一定スパンでほぼ確実に上昇し、およそ数値化されたものを最大限に発揮できることだろう。
もっともALOはスキル重視という観点からSAO時代にはあった筋力や敏捷力と言ったステータス的概念が無い為、現実の運動神経をより色濃く反映される仕様となっているが。
それは逆を言えば、現実で強い人ならプレイ時間に関係なくこの世界ではのし上がれる可能性がある、ということでもある。
実際にはそれだけでトップを取れるほど単純な世界ではないが、大きな一つの要素ではある。
現実でなら現在の運動量トップを誇るのは間違いなく直葉/リーファだろう。剣道で鍛えているその肉体は伊達ではない。
しかし、仮想世界には実際の筋肉を必要としないというメリットが存在する。
思考速度、伝達速度が増せば増すほど筋肉の断裂等の憂いのない仮想アバターは指示通りの性能を発揮してくれる。
これは現実で肉体的なビハインドがある人でも仮想世界で五体満足になれるという側面さえある。
そこに必要とされるのはセンスと──集中力。
故にそれを乱されれば、出せる力も出し切れない。
「よーい……ちゅっ」
「なぁ!?」
「ユイちゃん!?」
「どーん!」
小妖精の姿をしたナビゲーションピクシーのユイは、小さく片手を上げたかと思うと、身を乗り出してキリトの頬に唇を押し当てた。
それにリーファは目を丸くし、アスナも驚きを隠せなかった。
唯一、動揺が少なかったキリトはユイの続く「どーん!」という声に一息で羽根を大きく羽ばたかせて加速した。
やや遅れてそれに気づいた二人がやられた、と歯噛みしつつ慌てて一人+一人を追いかける。
しかし初動の遅れは致命的だった。加えて、リーファはキリトの飛行スピードを見てその速さに流石だ、と内心での賛辞を贈らざるを得なかった。
彼の速度はほぼ自分のそれに迫るものがある。ついさっきまでまともに随意飛行をこなせなかった彼が、この瞬間にはほぼ自分と変わらない飛行能力をマスターしている。
あの域に達するのに自分はどれだけかかっただろうか、と思うと少しばかりその適応力の高さに嫉妬を禁じ得ない。
だが、僅かずつその距離は縮まっている。これなら家に着くまでには良い所までいけそうだ……とリーファがそう思った時。
フッとキリトが横目で振り返った。お互いの距離を確認して、また視線を正面に戻す。
それにリーファが首を傾げていると……だんだんおかしいことに気付いた。
先ほどまで僅かずつ縮まっていた差が、縮まらない。お互いの距離が、変わらない。
そんな馬鹿な、と思いつつも彼女の長年の経験による距離感覚は一向に縮まっているようには感じ取れなかった。
いや。
それどころか、僅かに引き離され始めたようにさえ感じる。
馬鹿な。兄はALOを始めてまだ日も短い。いくら仮想世界で一日の長が彼にあったとしても、それほど簡単に飛行で差を詰められ、ましてや抜かれるなんて考えられなかった。
すると、これまた信じられないことに、ほぼ斜め後ろの位置をキープしていたアスナが、段々と自分の隣にまでやってくる。
アスナの目は真剣そのもので、正面しか見据えていない。いや、見据えているのはキリトの背中だろうと直感的にリーファは悟る。
一瞬、自分のスピードが落ちているのかと思ったが、彼女の感覚はそれを否定している。
単純にキリトが速く、それに置いて行かれないようにとアスナの速度が引っ張られるように上がってきているのだ。
(なんなの……この二人……)
末恐ろしい、なんてものではない。
やや異常とも取れるその適応振りにリーファが戦慄仕掛けた時、視界に《イグドラル・シティ》が見えた。到着はもうすぐだ。
そうリーファが思った時だ。街へ入ってすぐに、何気なく下を向いた時、街中の一人の火妖精族(サラマンダー)プレイヤーと目が合ってしまった。
「あ」
見なかったことにしたかったのだが、生憎と向こうにその気は無いようだった。
既に視線を外してはいるが、なんとなく後を追ってきている感覚があるのは恐らく気のせいではないだろう。
やばいなあ、と思っているとルルルと電話の呼び出し音のようなサウンドエフェクトが聴覚を刺激する。
これはリーファの登録しているメッセージの着信音だ。やむなくリーファはやや速度が落ちるのも構わずメッセージを確認した。
幸い先ほど目が合った相手ではなく、リアルでも知り合いの《レコン》からだった。
迷いは一瞬、リーファはメッセージを開封する。半分は今回の勝負を諦めているからこその行動だった。
【家の前に着いたけど誰もいないよー?】
レコンのメッセージにはそうあった。
そこで思い出す。今日はレコンとも合流する約束があったのをうっかり忘れていた。
もっとも会えたら会おう程度のものだったのだが、彼はそういった約束を彼女として結局会えないで終わることはこれまで無かったのも事実。
ただレコンはログイン前にいくつかリアル事情が重なり、来れても遅くなると連絡があったので、先にキリトとアスナの借りている部屋の場所を教えておいたのだ。
もちろん二人には教えるにあたって先に許可をもらっている。それを思い出したリーファは手早く【もうすぐ着く】とだけ打ち込み、最速へと切り替えた。
視線の先では丁度キリトは到着するところだった。そこに、勢いを殺さずにアスナが突っ込む……勢いを殺さないで?
「ちょっ……?」
後ろから見ていてもアスナは減速が間に合うようには見えない。
案の定「ひゃああああ~!?」などと声を上げながら着地したキリトにアスナは激突した。
どんがらがっしゃーん! と縺れ込んで回転するように二人は吹き飛んだ。
アスナは「あいたたた……くないんだった」と頭を押さえて上半身を起こす。
「びっくりしたなあ……」
「目が回りました~」
その彼女の下敷きになるように、キリトはいた。
端的に言ってアスナが馬なり状態となって彼の上に乗っていた。
それに気づいたアスナはバッと飛びのいてから、じぃ、とキリト……の胸ポケットにいるユイを見つめていた。
それに気付いたユイはアスナに微笑みつつ首を傾げる。
「ず、ずるいよユイちゃん、あんなことするなんて」
「パパが少しだけ不利でしたからね、ああすることで均衡が取れると思っていました」
「そ、そうだけどそうじゃなくて……うぅ~!」
「怒らないでくださいママ」
ユイはフワと飛び上がるとアスナの肩に降り立ち、チュッとアスナの頬にも口づけした。
満面の笑みでユイがアスナの顔を覗き込む。
これでパパびいきじゃありません、とその顔は告げていた。
そういうことではないのだが、その笑顔を見ているとこれ以上何かを口にするのが馬鹿らしくなる。
アスナはふぅ、と息を吐くとなでなでとユイの頭を撫でて機嫌を直した。
「あの~、今なんか凄い音がしたんだけど……」
丁度そこに、先に来ていたレコンが顔を出した。
「かんぱーい!」
レコンを部屋に招き入れ、再開と初顔合わせのお祝いに乾杯の音頭を取ってワイングラスを皆であおる。
キリトとアスナの共同で借りている部屋は相当に広く、きれいに磨かれた板張りの床の中央には大きなソファーセットが置かれ、壁にはホームバーまで設置されていた。
最近ではちょこちょこ顔を出すクラインがいそいそとお酒のコレクションを置いていき、度々ユイにもお酒を勧めるのでアスナとキリトはそんなクラインに目を光らせたりしている。
ちなみに仮想世界のお酒は味こそするが実際には酔わない。
また、本当にアルコールを摂取しているわけではないので肉体に害はない。
しかし、仮想世界での《飲酒》というカテゴリーについては現在一つの社会現象を巻き起こしている。
仮想世界で飲酒できるのを良いことに、現実でも未成年の飲酒に拍車がかかっていると統計が出ている。
一方でお酒の飲めない体になった人や禁酒をしようとしている人も、仮想世界で飲むことによって満足感を得られるという実績が上がってきている。
現在、未成年は仮想世界でも飲酒を禁じるか否かの話も持ち上がっているが、その制限自体も年齢などほぼ自己申告に等しい問題から現実的でなく、規制するには仮想世界そのものの規制が求められる。
《ザ・シード》が猛威を振るっていると言っても未だに仮想世界に嫌疑的な人は多い。
仮想世界は無くすべき、という人は恐らくこれから先無くなることは無いだろう。ひょっとするとその内訳の中にはSAOによって家族を亡くした人も多いのかもしれない。
飲酒の問題に限らず、様々な問題は今後浮き彫りになっていくことだろう。
だが、それでも今のキリト達はこの世界があることを喜び、純粋に祝いたかった。
「初めまして、かな、レコン君」
「レコンでいいですよキリトさん」
レコンはキリトと名乗る影妖精族(スプリガン)に返しつつ、まじまじとその装備やら風貌を見て、失礼ながらあまり冴えない人だなあと思った。
自分も大概人の事は言えないが、こう《強そう》というオーラが感じられない。
レコンはキリトについてALOは初めて間もない、ということとリアルでの直葉/リーファやアスナの知り合いということしか聞かされていなかった。
それ故、何故彼がALOをやるに至ったのかは知らないが、直葉/リーファに惹かれてのことだしたらビシッと言っておかなければならない、とリーファの騎士を隠れながらに自称するレコンは思った。
プレイ時間から言っても全てにおいて今なら自分は彼に劣らないという自信もレコンにはあったのだろう。
堂々と釘を刺しておこう、と思ったまさにその時だった。
ドンドン、と部屋の戸を外から叩く音がする。
通常部屋内部は外部の音が遮断される仕組みとなっているが、ノック等は外部からの連絡手段としてその限りでは無かった。
レコンは出鼻を挫かれ、ノックの主に内心で悪態を吐くが、それを知ってか知らずかノックと言う名のドンドンとした叩きつけるような音は段々と増していく。
それを聞いて、リーファは「あちゃあ……」という顔をした。
「やっぱり来ちゃったかあ……流石に家の中まで押し入ることは無いと思ってたんだけど」
「リーファの知り合いか?」
「知り合いっていうか……」
キリトがリーファを呼び捨てにしたことにレコンはムッとなりながら事態を見守っていると、アスナが応対するために戸を開いた。
どちらさまですかー、と間延びした可愛らしい声に返ってきたのは、荒々しい男性プレイヤーの声と火妖精族(サラマンダー)プレイヤーの容貌だった。
「俺の嫁、エリカはどこだリーファ。式の段取りを考えたい」
開口一番、挨拶も無しにそう言ったのはかつてエリカ/アスナが戦闘経験のある伝説武器(レジェンダリーウェポン)の持ち主、火妖精族(サラマンダー)プレイヤーのユージーン将軍だった。
未だに彼は戦闘能力においてALOでトップだとの定評がある。
同時に、嫁馬鹿でもあるとの噂がある。強い嫁を作ることにえらく執着している、と。
ユージーンの登場にリーファはやっぱり、とげんなりとした表情を作った。
街中で目が合った時から予想はしていたのだ。
リーファを除く他の面々は少々面食らっていたが、その中で意外にも最初に我を取り戻し口を開いたのは、キリトだった。
「アスナ……?」
彼のアスナを見る目は若干の怯えが混じっていた。
エリカ、というのがアスナの別のアバターだということはキリトも知っている。
アスナはブンブンと首を振った。誤解だと。
「また来ましたね! ママは貴方なんか好きじゃないです!」
ユイがユージーン将軍の前に躍り出るが、それは逆効果となった。
ユイに見覚えのあるユージーンはここに《エリカ》がいるものと確信する。
「お前はあの時のエリカのピクシーだな。俺とてここしばらく遊んでいたわけではない。強者と呼ばれるプレイヤー巡りをしてきたのだ。だが、エリカの言うようなプレイヤーはいなかった。つまりあの時のあれは方便か何かだったのだろう? ならば問題はあるまい」
エリカ/アスナはきちんと自分には相手がいると伝えている。
その相手は自分よりも強い、とも。
しかし、それを真に受けたユージーンはそのプレイヤーをあれから延々と捜し歩いたらしい。
結果、彼の眼鏡にかなうプレイヤーに出会うことは無かった。
つまり、エリカが嘘をついていた、とユージーンは最終的に考えたのだった。
「貴方なんかパパにかかればイチコロです!」
「ふん、またその話か。空想の相手には確かに勝てんが所詮は空想だ」
「パパは空想じゃないです!」
ユイは涙目になりながらキリトの元へと飛んでいく。
それにレコンは首を傾げた。何故あの影妖精族(スプリガン)の元へ? と。
ユージーンもそれは同じだったらしい。
「誰だお前は? 見かけないな。そのピクシーの知り合いということはエリカの知り合いか?」
「パパです!」
それに答えたのはキリトではなくユイだった。
キリトの肩に乗って半身を隠しながら手をグーにして高々と上げる。
反動でユイの長い黒髪がキリトの頬を撫でた。
「お前が……? ではお前がエリカの言っていた相手か? 見たところ、装備は全て購入できる物という精々中位プレイヤーのようだが」
訝しそうにユージーンはキリトを見つめる。
その眼光はさすがに鋭く、歴戦の強者を思わせた。
が、すぐにその目は嘲りへと変わる。
「つまり、お前に勝てば俺は晴れてエリカと結婚できるということか、なるほど」
ユージーンが一人納得したように言った言葉に、キリトは反応した。
キリトはもう一度アスナを見るが、彼女は相変わらずブンブンと首を振っている。
そんなキリトに、ユイが耳元で囁いた。
「パパ! あの人ママのストーカーなんです! ママに結婚を迫ってるんです! 叩き潰してください!」
「あー、うん……わかった。とりあえずユージーンさん、だっけ? 外に─────出ようか」
語尾が、一瞬にして彼の空気を変えた。
体感的に、数度は室温が下がり、重力が増したのではないかと思わせるそれに。
その態度に「ほう」とユージーンは感嘆の声を上げる。
その変わりようにキリトを好敵手と感じたのかもしれない。
話を蚊帳の外で見ていたレコンは、リーファに耳打ちした。
彼、大丈夫なの? と。それにリーファは一瞬きょとん、としてからくすくすと笑いだした。
「心配なら、ユージーン将軍をした方がいいかもよ」
「ええ?」
レコンは何言ってるのさ、と目を丸くする。
リーファは尚も笑っている。彼女は嘘を吐くような人ではないとレコンは百も承知だが、こればっかりは冗談か何かだろう。
相手は伝説武器(レジェンダリーウェポン)を持つALO最強プレイヤーだ。ポッと出の素人に勝てる相手ではない。
そう思っていると、キリトがリーファに声をかけた。
「リーファ、ちょっと剣を貸してくれ」
これにはリーファも意外だったようで、首を傾げつつ剣を手渡した。
彼は元々自分で持っていた剣と合わせて二刀をぶら下げ部屋を出て行く。
その姿を見て益々初心者の格好つけだとレコンは確信した。
(いるんだよなあ~ああやってよく知りもしないで二つ剣を使う俺恰好いいとか、強いとか思っちゃう人)
呆れさえ混じるレコンの考えは一説には正しい。
ALOでは同時に二種類の武器を使うためにそれ専用のスキルは必要ない。
だが、これまでALOで名を馳せられるほどのメイン武器を二つ使うスタイル保持者は出てきていなかった。
それだけ二つの武器を同時に扱うのは難しいのである。これは惨敗確定かな、などとレコンが思っていると、アスナから信じられない言葉が発せられた。
「うわあ、キリト君本気出す気だ……ユージーンさんちょっと可哀相だなあ……」
「はあ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げるレコンに、アスナは心底不思議そうな顔をした。
アスナがエリカであることはレコンも既に聞き及んでいる。
その彼女が、可愛そうなのはキリトとかいう影妖精族(スプリガン)ではなく相手であるユージーンだなどとは流石に笑えない。
なんとなくレコンの意図に気付いたアスナは微笑みながら彼にイタズラっぽい声色で告げた。
「見てればわかるよ。前に私が言った意味」
そう言われては見ているしかない。
確かに前に、彼女の言う人物は自分よりも強いというのを聞いたことはあったが、どうにもその凄さを想像できずにいた。
レコンは部屋に付いている窓から外の二人を見やる。
リーファもわくわくとした様子で見入っていた。
何かを話しているようだが、やがて二人は距離を取って……構えた。
ごくり、とレコンが息を呑んだ瞬間、信じられないことに───キリトが消えた。
「嘘っ!?」
正確には消えたのではなく速すぎて見えなかった。
それほどのスピードを出せるのは驚嘆にも値した。
レコンは即座にキリトというプレイヤーの強さレベルを自身の中のランク付けリストで上方修正する。
しかし、驚くのはまだ早かった。
ユージーンの持つ《魔剣グラム》最大のメリット、エクストラ効果である相手の武器の透過をどうにかしなければ勝ち目はない。
《エセリアルシフト》、これを防いだプレイヤーは現在いないとさえ言われている……のだが。
それをユイから聞いていたのだろうか。キリトが二刀を使った意味を始めてレコンは理解した。
彼は二刀を用い、透過された剣をもう一方の剣で受け、さらに攻めている。
その動きには無駄が無く、信じられないことに二刀を使いこなしていた。
驚きはそこに留まらない。彼の速度がどんどんと増していき、ユージーン将軍が防戦一方へと追い込まれていく。
なんて素早い二刀連撃。息つく暇もない。
わかっていても防げないから伝説だったはずなのに。
「あ~パパ、手加減してますねえ、それともアシスト無しでは上位剣技までしか再現できないんでしょうか」
「そうだねえ、一度見せてもらった最上位剣技の方は使わないっぽいね」
「まあ使わなくてもパパ勝っちゃいそうですけど」
いつの間にか戻ってきていたユイとアスナの会話に、レコンとリーファはあんぐりと口を開けた。
あれで全力ではないなどと、どんな化け物プレイヤーなのだ。
相手は伝説武器でこちらはその辺の武器屋で購入できる武器だというのに。
「本当に私相手にも手加減してたんだあ……《お兄ちゃん》」
リーファ/直葉の言葉に、レコンは「え」と固まってしまう。
お兄ちゃん? あの人が? というか既に彼女は彼と戦ったことがあったのか?
そんな思考がぐるぐると回っていると、どうやら決着がついたようだった。
キリトが剣を左右に振り払い、背中へと持っていく。
一本は鞘が無い為に空振りし、頭をかいていたがその近くにはチロチロと燃えている赤いリメインライトがあった。
残念ながら一分の猶予以内に彼が生き返るのは無理だろう。そんなことを驚きと共に漠然と理解したレコンはしかし、急に何かを忘れているような気がしてきた。
「パパー!」
ユイがキリトの元へと飛んでいく。
彼女の花びらのようなスカートが捲れそうで捲れない。
見えそうで見えなかった。だがそれがいい……などとレコンが思っている時、キリトの肩の上に乗って何か話しているユイと視線が交わった。
途端、レコンは思い出す。かつて、ユイに蹴られてその花びらの中身を見てしまったことがあることに。
鼻の下を伸ばしてユイの組んだ足を見たことがあることに。
ユイの話を聞き終わったらしいキリトが、レコンをジッと見つめた。
……やばい。
瞬間的に危険を察知した──いろいろ思い当たる節もあり過ぎる──レコンは、部屋を飛び出して逃げた。
ここで彼は冷静になるべきだった。そのまま部屋にいれば、最悪の事態は防げたかもしれないのだ。
しかし、やばいという強迫観念に駆られた彼は逃げに徹してしまった。
恐る恐るレコンが振り返って見ると、案の定キリトが凄い速度で追いかけてくる。
先の戦闘を見たばかりだと、会った時と変わらないその顔がとても怖く感じた。
キリトの飛行速度は速く、レコンは逃げきれないとすぐに悟る。
そんな彼の取った最後の手段は……強制ログアウトだった。
《イグドラシル・シティ》の外に出てしまっているが、関係ない。
【フィールドでは即時ログアウトはできません。よろしいですか? YES/NO】
即座にイエスを押して彼はログアウトする。
現実に戻った彼はふぅ、と一つ安堵の息を吐いた。
その後、残された仮想アバターがどうなったのか、それを知る者はいない。
尚、翌日キリトに求婚するユージーンが再び現れたが、無名の水妖精族(ウンディーネ)によって一息に貫かれ、その家に出禁を固く言い渡されたのは余談である。
『こんばんはママ』
「こんばんはユイちゃん。珍しいね、ユイちゃんが予め夜に話そうって言ってくるなんて」
今日は桐ヶ谷親子の都合で早めに皆がログアウトした。
その例に漏れずにアスナもログアウトしている。
だが、ログアウトする際、ユイに今夜電話で話したいことがあると言われ、約束した時間にアスナが彼女へ電話していた。
「キリト君は部屋にいるの?」
『いえ、パパは今直葉さんとお母様と一緒に外出されています』
ユイの本体は今やキリトのパソコンの中にあった。
キリトは基本ユイの活動の妨げにならぬよう、自身のパソコンを起動させたままにしている。
小さい駆動音とファンの音が、無人の和人の部屋で唸っているが、今それを感知するものはいないだろう。
「そうなんだ。それで話って?」
『はい。ママ、今日の事を覚えていますか? 私がパパにしたことです』
「ユイちゃんがキリト君にしたことって……あのキス?」
『はい』
「そりゃ覚えているけど……いいユイちゃん? 簡単にキスなんてしちゃダメなんだからね?」
『わかっていますママ。前に一晩かけて教えてくれましたね、大事な家族以外にキスをしたら相手は恋人さんということです』
「うん……?」
なんだか、どことなく文法や文脈がおかしい、ような気がしないでもない。
だがまあ間違いではないし……何よりユイの言葉変換処理が追いついていない可能性はある。
時折ユイはそういった間違いではないがおかしい表現をすることがある。
彼女がAIであるということを考えれば仕方がないのかもしれない。
そこに一抹の寂しさを感じながらもアスナはあえて訂正はしなかった。
そういった内容は話せば話すほど薄っぺらくなってしまうような気がしたからだ。
間違った教育はしていないはず……と自分に言い聞かせて一旦そのことは忘れる事にし、アスナは本題を尋ねた。
「それで、あの時のことがどうかしたの?」
『……ママ、おかしいと思いませんでしたか?』
「びっくりはしたけど……まさかユイちゃんがあんなことをするなんて思っていなかったら」
『他に気付いたことはありますか?』
「え……?」
真剣な声色で言われ、アスナは眉を寄せた。
気付いたこと……? 何だろう、と考えてみる。
あの時は比較的自然な流れで飛行の競争になった。
中立、だと思われたユイがスタートの合図をしたがこれが思わぬ肩入れレフェリーだった。
おかげで競争はキリトの勝利。まさにユイの機転がキリトの勝利を掴んだ、というようにしか見えない。
「ユイちゃんがキリト君の為に少しだけズルしたってこと?」
『近いですけど違いますママ。でも重要なのはそこです』
「……?」
『それがズルになりえた、という事実が問題なんです』
「どういうこと?」
『逆にお聞きしましょうママ。ママの知るパパが、私にキスされて平然としていられますか?』
「あ……!」
何故、言われるまで気付かなかったのか。
あの時、彼は平然、ではなかったかもしれないが、明らかに一番冷静だった。
アスナの知るキリトなら、たとえ娘のように思っているユイからであろうと、不意打ち的に口づけなどされたら動揺するはずだ。例えそれが頬にであっても。
取り繕うことは可能だろう。だが直後の彼の飛行を見る限り、やはり彼の心は凪いでいたと見るべきだ。
『ママ、以前私は言いましたね。パパには長期的な治療が必要だと』
「……うん」
アスナは携帯端末越しに頷く。
ユイの真剣な声色に自身も真剣な顔つきになった。
『少し話が前後しますが……この間、一週間くらいパパがママに連絡しない時期がありましたね?』
「うん」
『ごめんなさいママ、半分は私の判断です』
「どういう、こと……?」
『ママ、私がどういう存在だか覚えていますか?』
「えっと……」
アスナの高性能な記憶装置である脳は即座に検索を終了する。
ユイは自分と彼の娘。しかしそれとは全く別個に切り離せない事実がある。
人工知能。それも《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》という人間のメンタルヘルスケアを目的とされた感情模倣機能付きのAIだ。
「メンタルヘルス・カウンセリング……」
『その通りです。パパの娘でありたい私とは全く別個に、私本来の能力が皆無なわけではありません。そのもう一つの、本来の用途である私が、パパの状態に危険信号を感じています』
「危険、信号……?」
『はい。それ故に少しの間私はパパにママへ連絡するよう進言しませんでした。もしあの期間中に一度でも私がパパに進言していればパパは連絡を取ったでしょう。どうしても《今後の治療方針》を決める上で必要なことだったのですが、そのせいでパパは結局ママに連絡を取りませんでした』
「治療、方針……」
『……ママは恐らく気付いていないと思いますが、パパはママや私がいない場ではほとんど笑いません。それどころか感情が希薄なんです』
「え……?」
『直葉さんに聞いてみれば、すぐに裏付けは取れるでしょう。今のパパは私やママがいないとなかなか感情を見せてくれないんです』
それは本当に意外な話だった。
アスナの知る彼はいつだって表情多感な人物である。
その彼の表情が無い顔など、ALOで囚われていた時の彼くらいしか見たことが無い。
『ママには、とても辛い言葉を言わねばなりません』
「辛い、言葉……?」
『重い心の病に数値的な意味での完治は、ほとんどありません。極力表面に出てこなくさせる、というのが現在の医療の現場での限界だと言われています。パパのケースは、私のデータベースにある限り、その部類に分類されると思われます』
「そん、な……」
『心の病だと分かる部分を表面に出させなくする。それを自然体だと思えるようになってくる。これが擬似的な回復の傾向です。そこに本人がストレスを感じなくなれば本人はおろか他人にも病のことなどわからない。そこまで行けば完治と《呼ばれはする》でしょう。ですが、そうしたものは何かの弾みで再発する恐れを消せません』
「……」
『ですからママ、今のうちに聞いておきたいことがあります』
「聞いておきたいこと……?」
アスナの問い返しに、ユイは初めて少しだけ黙った。
なんとなく迷っている、というのがアスナには分かった。
彼女にも何か思うことがあるのだろう。
事実、これからユイがする質問はアスナにとっても、キリトにとっても……さらに言えばメンタルヘルスAIであるユイにとっても重いものだった。
場合によってはユイは、自身の中の《最優先》を書き換えねばならなくなる。
プログラムでしかないユイの、模倣された心がキリキリと痛む。
だが、彼女は決断した。
『ママ、先ほど言った通りパパの治療は長期的になります。完治は、限りなく難しいと思います』
「……うん」
ユイはアスナの相槌を聞いてから、再び数秒の間を開ける。
アスナは目を閉じて彼女の言葉を待った。
やがてこれまでよりも小さい声で、アスナの耳にそれをユイは問いかける。
『ママ、パパを一生支える覚悟が、ありますか……?』
その質問はなんとなく予想していた。
だから、アスナは間髪入れずにすんなりと答えた。
「私は────────────」
アスナの答えに、ユイは何も答えなかった。
ただこの日、ユイの《最優先》が、書き換わった。