珪子ことシリカ──逆かもしれないが──は一人で仮想の宙を彷徨っていた。
彼女のアバターは現実のそれと変わらない出で立ちの……SAOのそれに猫妖精族(ケットシー)の特徴を付け加えたもののままだ。
最後にログインしたのは実に一ヶ月以上前になる。
五月に入り、ようやく新しい生活……国が用意したSAO被害者を集めた学校でのリアル生活にも慣れ始めた頃、珍しく友人である直葉ことリーファが強硬にALOのログインを頼み込んできた。
いつも心配してチャットやメールを頻繁にしてくれた彼女にはとても感謝しており、心配をかけているという後ろめたさからその時はOKしたのだが。
いざログインしてみると、やはりどこか虚しさを禁じ得なかった。
常に傍らを飛ぶ小竜の姿が無いだけで、酷く寂しい。相棒、と呼ぶにふさわしい《ピナ》はもういないのだ。
そう思うとどうにもモチベーションが上がらなかった。
リーファとの待ち合わせ時間が迫りつつあったが、シリカはどうしても気力が湧かずに夜空をふわふわと浮遊する。
最初に飛んだ時は楽しかった。飛ぶことに苦労したこともあるが、ピナとより深く繋がったような気がしたから。
リアルでの飼い猫、《ピナ》は相変わらず自分に甘えてくれる。そのピナはとても可愛らしくシリカの心を癒してくれる。
だが、たまたまテレビで猫と飼い主のドキュメンタリー番組をやっているのを見て、リアルのピナはあとどれくらい生きられるのだろうとふと考え込んでしまった。
猫の寿命は人間のそれよりも遙かに短い。
そう思うとこの《ピナ》もあの《ピナ》と同じく自分の前からいなくなってしまう気がして怖くなった。
何も知らない顔でニャーと鳴きながらすり寄ってくる《ピナ》。
肩や頭の上に乗って丸くなることを好んでいた《ピナ》。
「ピナ……」
空には満点の星と、大きな満月が昇っている。
都心ではまず見る事の出来ない景色だろう。
だが、そのような景色を見てもシリカの心が晴れることは無かった。
こんな心境では、リーファに会ってもきっと楽しめないだろう。
彼女には悪いが、後日謝るとして今日はやはりログアウトしようか……シリカがそう思った時、
「見つけた!」
聞き覚えのある声が真上から聞こえてきた。
え、と思う間もなく腕を掴まれる。
「リーファ……ちゃん?」
「待ってたよシリカちゃん!」
薄いグリーンの長いポニーテールを揺らしながら、上空から勢いよく滑空してきたのは、今日ここに誘ってきた本人だった。
どうしてここがわかったのだろうと思ったが、すぐにフレンド探索機能のことに思い当たる。
それでも聞かずにはいられなかった。
「どうして……」
「えへへ、早く会いたくて来ちゃった」
ニンマリと笑う彼女には、どことなくアインクラッドで助けてくれた彼の面影を感じた。
本当の兄妹ではないと聞いているが、そんなことは関係ないのかもしれない。
「リーファちゃん、それ男子に言ったらきっとイチコロだよ……?」
「そうかなあ? でもシリカちゃんも凄い人気だったよ? 前に世界樹攻略を手伝ってくれた人たちはみんなシリカちゃんのファンみたいなものだって聞いたし」
「そんなことないよ……私は、ただ……広告塔にされていただけだから」
そのことを、シリカは自覚している。
それ故、一度ピナに無理をさせて失うという失態まで犯してしまっているのだから。
《竜使いシリカ》などと呼ばれ始めて浮かれていたのだ。自分を誘いたいパーティなどいくらでもあると自負してさえいた。
今思えばなんて愚かだったのだろうと言わざるを得ない。
あの時、キリトに出会えなければ今頃どうなっていたことか。考えるだけで恐ろしい。
「ごめんねリーファちゃん、誘ってくれたのは嬉しいんだけど……やっぱり今日は落ちようと思うんだ」
「んー、ちょっとだけ時間をくれる? あともう少しだから」
「あともう少し?」
「うん。あ、その前に聞いておきたいことがあるんだけど、いいかな?」
「何?」
「もし答えたくなかったら答えなくても良いんだけど、シリカちゃんはさ、SAOのこと……その、憎んでる? やらなければ良かったって。そういう思いが一番強い?」
「……」
難しい質問だ。
SAO生還者にはよくされる質問で、同時にSAO生還者にとってはあまりされたくない質問だった。
答えはとても一言では言い表せない程複雑なのだ。プレイヤーにもよるが多くの人は憎しみの感情を大なり小なり持っていることだろう。
しかし、憎しみしか無いのかと問われれば、中位プレイヤーより上になればなるほど口を噤む者が多くなる。
プレイヤーはあの中でいつも必死に生きていた。無論始まりの街から出ることを恐がり、ずっとただ解放の日を待っていたプレイヤーもたくさんいる。
そんなプレイヤーは振り返っても恐怖と孤独、憎しみの心がとりわけ強いだろうことは想像に難くない。
だが一方で、攻略組と呼ばれずとも毎日せっせとレベルを上げ、クエストをこなし、コルを溜めて生活していたプレイヤーは少なくない。
デスゲームの中にいる、ということを忘れたことは殆どのプレイヤーが無いだろう。
しかし生活サイクルに疑問を感じなくなる程に慣れる、あるいはその生活をそういうものとして受け入れていたプレイヤーは上にいけば行くほど多いのでは無いだろうか。
現実では頑張っても報われない人は多い。しかしあの世界では頑張ればほぼ一定の見返りは約束されている。
それは報酬だったりコルだったりと様々だったが、現実よりも《頑張ろう》と思った人が皆無では無かっただろう。
シリカは自分もそうだった気がする、と思う。
経緯はいろいろあるが、頑張って戦い、装備を調え、日々を生きていくことに充実を感じなかったと言えば嘘になる。
《ピナ》に出会い、《キリト》に出会って益々それは強くなった。
そこに、その世界に、憎しみしかなかったとは、シリカには言えなかった。
同時に憎しみが皆無とも言えない。二年もの時間を奪われた代償は、人によっては一生かけても取り戻せない場合もある。
シリカとて二年という月日が奪っていたものは膨大だ。そこに悔しい気持ちや悲しい気持ちは多々あった。
ただそれらを全て天秤に乗せて考えた時、秤がどう動くか、というのは……わからなかった。
あるいは、《ピナ》がいればその秤は傾いていたかも知れないが。
「……わからない」
「わからない?」
「うん。良いことも悪いことも一杯あったから」
シリカの真面目な顔に、リーファは大きく微笑んだ。
彼女の手を強く引いて急上昇する。
「わっ!?」
突然の事にシリカは驚き体勢を崩した。ツーサイドアップの髪が宙を暴れる。
その勢いのあまりあやうく舌を噛むところでさえあったが、噛んだところで痛みは無い。
しかし、だからといってやって良いことと悪いことはある。
リーファはそこまで強引な子では無かったはずだが……と日々のやり取りで得ていた彼女のキャラクター像に本日何度目かの疑問符をシリカが浮かべていると、リーファが遥か上空に浮かぶ黄金の円に向かって手を伸ばしながら口を開いた。
「じゃあさ、それを決めに行こう!」
「へ?」
彼女の言っている事がわからない。
決めるとは何を? 行くとは何処へ?
そこには、大きな黄金の円……空想の満月しか無いのに。
──と、その時だった。
『ゴーン、ゴーン──────』
聞き覚えのある鐘の音。
忘れたくとも忘れられよう筈がない。
全ては、この鐘の音から始まったのだ。
「来るよ、シリカちゃん」
「来るって、まさか……!」
その瞳に驚愕が彩られながらも、心はそれを予想していた。
鐘の音が、彼女に未来を報せている。
それはかつて、二年という月日、数多の嘆きと悲しみ、そしてたくさんの出会いをくれた場所。
浮遊城アインクラッド……!
世界を震撼させたソードアート・オンライン、その舞台。
絶望を知り、立ち上がって、出会いを得た場所。
そこへの道が、今目の前に用意されている。
空に浮かぶ満月の中心に、円錐型のそれが現れている。
「一緒に行こうよ、シリカちゃん。わからないことを決めに、大切なお友達を探しに!」
リーファの手がキュッと強まる。
何故だかシリカはその言葉に、その手に縋り付きたかった。
いや、わかっていた。飢えていたのだ。
シリカは飢えていた。大切な存在に。大切な場所に。
そしてそれを失う事に怯えていたのだ。
しかし、リーファのその手はそんな怯えを悉く溶かしてくれた。
そうだ。簡単なことだったのだ。失ったのなら、取り戻せばいい。
かつてプネウマの花を取りに行った時のように。
自分が動かなければ、何も取り戻せない!
「……うん、うん!」
手を引かれ、シリカはかつて過ごした事のある城へと近づいていく。
最初は引かれるだけだった手は徐々に力を取り戻していき、最後にはリーファと競争するようにそこへと向かう。
すると、そこには見知った顔が既にたくさんいた。
影妖精族(スプリガン)のキリトや水妖精族(ウンディーネ)のアスナ、工匠妖精族(レプラコーン)のリズベットに土妖精族(ノーム)のエギル、火妖精族(サラマンダー)のクライン率いる風林火山の面々はもちろんのこと……世界樹攻略戦の折りにかけつけてくれたプレイヤー達。
彼らが扇状になって待っていた。アインクラッドへの入り口の前で。
「シリカ、俺たちの最初の一歩はみんな君に譲るってさ」
「え……?」
キリトの言葉にシリカは少しだけ戸惑う。
自分がそんな大役を頂いても良いのだろうか。
シリカは首を傾げながらも、リーファに優しく背中を押されてアインクラッドに入る為の大きな鉄門へ一歩を踏み出す。
途端、彼女は懐かしいエフェクトを発光させて転移してしまった。
シリカが目を開くとそこは始まりの街の大広場だった。それはどうやら仕様らしく、シリカの転移を合図に次々と多くのプレイヤーが転移されてくる。
懐かしい。かつてもこの場所から始まったのだ……とそんな感傷に浸っていると、空に花火が大きく撃ち上がった。
どーん、どどーん、といくつもの花火が綺麗に上がっていく。
「わぁ………!」
綺麗だな、と思う間もなく、ぱらぱらとした火花が何やら文字を象り始めた。
何だろう、と思っていると夜空を黒いスクリーンとして、光の文字が英語を作り上げていく。
【WELCOME TO AINCRAD!】
機械音声による歓迎の言葉が終わるのと同時に、一際大きい花火が上がった。
その花火は、破裂すると《フェザーリドラ》のような形の火花を散らした。
シリカの目尻に涙が浮かぶ。
「ピナ……」
寂寥の思いから小さく彼女が呟いた時、それは起こった。
シリカの前に光の粒子が集まっていく。みるみるそれは実体を象っていき……小さい竜を形成した。
ぱちくりと瞬きした小竜は、小さく羽ばたいて何事も無かったかのようにシリカの頭の上に乗る。
まるでそこが定位置だと言わんばかりに。
一瞬のことに、シリカは固まってしまった。
何が起きたのかわからない。
だが頭の上にあるのは確かに懐かしい忘れようのない重みだった。
恐る恐る両手を頭の上に持って行き、そこにいる小竜をガッと掴む。
「……?」
ぐいっと目の前に持ってくると、そこには不思議そうな顔をした《フェザ-リドラ》の《ピナ》がいた。
シリカは瞳に一杯の涙を湛えてピナを抱きしめた。
わけの分からないピナは苦しいとばかりに暴れたが、この時ばかりはシリカはピナを抱く手を緩めなかった。
キリトはアスナの横でそんなシリカを眺めながらエギルから聞いた話を思いだしていた。
アインクラッドを実装するに当たって、謎のプロテクトがあったことを。
アインクラッド実装に当たって、運営体は一つの壁にぶち当たった。
何故か、《安全圏》をフィールドに設定できなかったのだ。データにプロテクトがかかっていて、フィールドを使用する分には問題ないが安全圏の設定だけがアインクラッドには出来ないでいた。
いっそのこと丸々プログラムを作り替えるか、アインクラッドは安全圏無しというハードなフィールドにするかで運営は相当迷ったのだそうだ。
大体画面がおかしかった。管理者IDによるログインを求める、ならわかるがその細部を弄る為に必要なIDには《THE PRINCESS CODE》と書いてあった。
それを聞いたエギルはキリトから聞いていたヒースクリフによる「姫」の話を思いだした。
ダメもとで《シリカ》のIDを打ち込んでみてくれと頼んでみると、何と驚いたことにシステムログインに成功した。
シリカのIDが、最終的にこのアインクラッド復活に一役買ったのだ。
彼女はそれを知らない。報せる気もない。
そんなことは知らなくてもいいんじゃないか。
今の、ピナを抱きしめているシリカを見ると、キリトはそう思った。
全てが良い方向へと動いている。
アスナ/結城明日奈は日々の生活を通して最近そう思っていた。
仮想世界の存続については安心できる程巻き返したし、友人と言っていい少女の相棒も戻ってきた。
その際、こっそり彼とその相棒をしばらく睨んで《中の人》がいないか確認したが、今のところその兆しは無い。
開校したばかりの新しい学校生活も大変ではあるが、中々に充実している。
この学校はSAO被害者の子供達の為に、統廃合によって使われなくなった校舎を使えるよう急造したと聞いているが、とてもそうとは思えない立派なキャンパスだった。
何より、一学年違う筈の彼と共に机を並べられる日があるのは嬉しかった。
二人は自由選択教科を全て共通にした。おかげでいくつかの授業は一緒に受けることが可能だった。
この学校は従来の学校とは一線を画し、新しい教育方針へのモデルケースにもなっていると明日奈は聞いている。
個人にあったカリキュラムによって授業を選択し、必要な授業を受けていくというコマ割りスタイル。
大学の講義のような形式だが、そもそも年齢がまちまちな生徒を一手に引き受けるので──SAOの性質上、年齢は統一ではないし、教育の遅れてしまった子供を少人数単位で受け入れる学校も少ない──仕方のない側面はあった。
だが逆を言えば異なる年齢の少年少女が一斉に学べる場として、非常に重宝されてくるのではないだろうか。
様々な理由で半年から一年単位での学校へ通えない期間、また勉強が遅れてしまっている子は例年必ず存在する。
外国暮らしが長かった子供などは実年齢の学年より一つ二つ下の学年へ編入されることも珍しくない。
この学校では今後そういう子供達の受け入れをしやすくなっていく可能性が込められてもいた。
昼休みに入り、校舎の外にある小さな円形の庭園内にいくつか設置されたベンチで、明日奈は足をブラブラさせながら待ち人が来るのを今か今かと待っていた。
時折黒光りするローファーの爪先で地面をトントンと叩く。
ここで和人と待ち合わせをするのが、学校で会える日の二人の日課だった。
週三日程しかないのが些か残念だが、一年学年が違うことを考えれば現状は十分恵まれていることを理解している。
贅沢な悩みだな、と思いつつ明日奈は空を見上げた。
そこにあるのは本物の太陽と青空。
透けるような青色はクリアに広がっていて、ポリゴンらしさは欠片も無い。
当然だ、これはリアルなのだから。
本物の太陽、本物の空、本物の雲。
アインクラッドで見るそれよりも本物はやはり何処か色濃かった。
手触りも何もかも、ドット抜けなどすることのない本物を見ると感激してしまう。
久しく忘れていたリアルの触感というものは、仮想世界のそれよりも遥かに敏感で多感だ。
現在の技術力ではそこまで再現出来る能力がないということでもあるのだろうが、それをこれほどまでに実感出来るのはやはり長期間の仮想世界生活の賜物だろう。
長いこと借り物の感覚器によって過ごした体感は、いざリアルに戻った時に戸惑いをもたらした。
まるで二次元から三次元に出てきてしまったかのように、雑然とした読み取れる情報が多くなった。
和人曰く、容量(キャパシティ)の性能差の問題だそうだが、明日奈にはよくわからない。
ただこうやって座っているだけでも、あの世界より体感的に感じられる情報量が遥かに多いのは理解出来た。
その度にここは現実なのだ、と思い直す。
帰ってきたのだ、と。もっとも、そう本当に思えるようになったのは《彼》が囚われの籠から解放されてからのことだが。
だが彼はその際精神に少なくないダメージを負っている。それは娘のユイの話からも間違いなかった。
妹の直葉からも普段の彼の様子を聞いて、その深刻さを改めて認識している。
それでも、日々良い方へと向かい始めている。
明日奈は最近富にそれを感じ取れていた。
この全てがリアルな世界で、時は確実に正しい時間を刻々と刻み始めている。
これまでは何処かリアルとの間にズレを感じていた時間が、徐々にではあるが正され始めた。
同時に、それは少しずつ自分たちが日常へと溶けこみ始めて──戻り始めて──いることを意味していると思う。
デスゲームなどという非日常から日常へと向かうステップライン。
それを踏み始めている。
「楽しいなあ……」
自然とそう思える。
ずっとこんな日が来るのを待っていた。
あの世界に囚われた人の殆どは、きっとそう思っているはずだ。
未来への不安が全くないと言えば嘘になる。考えるべき事は多いし、やらねばならないことも一杯ある。
それでも、良い時の流れに緩やかに乗っていると実感出来る今日この頃を、明日奈はようやく楽しいと思えるようにまでなった。
好きな人と学校に行って。おしゃべりして。一緒にでかけて。
家族と他愛のない話をして。友達と楽しい時間を過ごして。
求めていた世界が、時間が今手元にある。なんてことのないものだが、それが手の届かない場所になってしまった時、初めてその大切さを実感できる。
ふと、視線を感じた。
振り返ってみると、通路の壁影から、こっそりと和人がこちらを覗っていた。
ようやく来た、と内心で嬉しさが膨れあがる。
和人は明日奈の視線に、自らの存在が見つかったのだと気付き、いそいそと近づいて来た。
「お待たせ」
「遅いよー、何でいつもすぐに出てこないかなあ」
「いや、何て言うかぼうっとしてる自然体のアスナを見てると動けなくなるんだよな。見惚れるっていうか」
「も、もう……!」
明日奈は恥ずかしさからぷいっと顔を背ける。
彼はユニークスキル、《意図しない褒め殺し》を思わぬタイミングで使うので油断も隙もあったものではない。
笑いながら彼は隣に腰掛けた。そのままうあー、と間延びした声を出して両腕をベンチの後ろに回し、首を反り返らせる。
「うう、疲れた……」
「行儀悪いよー」
和人は怠そうにしていたが、やがてゆっくりとその身を正し、一度ピンと腕を空に伸ばしてから力を抜いた。
どうにもお疲れのようだ。
「お疲れだね」
「ちょっとな」
「午後はあと何コマ?」
「んーと、二コマかな」
「二コマかー……っと、はいお弁当」
「お、サンキュ」
明日奈は膝上にある籐のバスケットからキリトへと大きめのハンバーガーを手渡した。
今日の作品はこの前味の再現を済ませた明日奈流「アインクラッドバーガー」ではなく、単純な明日奈オリジナルのバーガーだ。
何となく明日奈の中のプライドが、和人にアインクラッドバーガーよりも美味いと感じさせたくて拵えたものだった。
和人は何も気にせずに「いただきます」と手を合わせると、がぶりとバーガーへ囓りつく。
人目を気にすることなく無邪気に大口を開けて楽しそうに食べる和人のその様は、見ているだけで胸の中がポカポカする。
現実でも普段と変わらないそんな彼を見ていると、仮想世界や現実との垣根などどうでも良く思えてくるから不思議だ。
現実も仮想世界もない。ただありのままの自分を生きる。簡単なようでいてそれは凄く難しい。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない」
食べている和人を眺めていると、彼は不思議そうに首を傾げた。
その口には未だバーガーが張り付いているのがどうにも面白い。
先程彼は見惚れると言ってくれたが、明日奈にとっても彼の一挙一動は飽きるものではなかった。
今の彼の姿を見て、一体どれほどの人が彼に心の傷があると疑うだろう。
明日奈の見る限りでは微塵も思えない。それも、明日奈が良い方向へ回っていると思える一要素ではある。
もっとも、自分がいない場での彼はこうではないらしいが。
「ねえ、私午後は一コマだけど良ければ終わるの待ってようか?」
「んー? いや悪いし良いよ。気にしないでくれ」
「そう?」
「ああ」
明日奈は少しばかり唇を尖らせる。
ここ最近はめっきり一緒に帰る機会が無いのが唯一の不満だった。
どうにか時間を作ろうと思っても、彼の気遣いによってそれはスルーされる。
普段は察しが良い癖にこういうことになるとイマイチ彼の察しは悪くなるのがちょっと悔しかった。
いつもの察しの良さを見せてくれてもいいのに、とはアインクラッドに居た時から何度思ったことだろう。
オマケにその内容がこちらを気遣うものだから無理強いするのも気が引けてしまうという抜け道無しの構造がいかんともし難い。
「じゃあ明日は? 一緒に帰れそう?」
「あー明日は……ごめん。ちょっと用事があって」
「むー……そっかあ」
明日は一週間のうち何も用事が無ければ学校のカリキュラム的には同じ時間に終わる。
入学してからその日はほとんど一緒に下校することが当たり前になっていたのだが。
勝手に明日は一緒に帰ることが出来る日だと思っていただけに残念だった。
と言っても夜は二日と空けずに新生ALOで落ち合っているのだから、一日二日くらいの事で声を大にするほどのことでもない。
「あ、そうだキリト君、今度の日曜日の午後って空いてる?」
「日曜日? うーん、二時半過ぎくらいからなら空いてるよ。って、ここではキャラネームは厳禁だぞ」
「あ、ごめん。つい……でも二時半、かあ……ちょっと中途半端な時間だね、どうしようかな」
「何かあるのか?」
「えーと、んー……まだ秘密」
「?」
和人の不思議そうな顔に、ニヤけそうになる頬を明日奈は必死に抑えた。
実は明日奈には一つの計画があった。
だが今回はどうにも時間が合いそうにない。
残念ながら計画の発動は見送るしかないようだ。
和人からの問いかけるような視線を受け、弛みそうになる頬を抑えているうちに、予鈴が聞こえ始める。
この鐘の音はSAOの第一層、始まりの街で鳴るそれと酷似しているのは何かのブラックジョークだろうか。
「それじゃまたね」
午後の授業の開始まであと僅か。同時に別れを告げる合図でもあるそれを受けて、和人のやや戸惑う視線から逃れるように明日奈は立ち上がった。
彼の視線にこれ以上晒されているとつい口を滑らせてしまいそうになる。
それではせっかくの《サプライズ》が台無しだ。そう思った明日奈はバスケットを片手に早足でこの場を去った。
「では少し早いが今日はここまで」
翌日、教師の言葉によって午前最後の授業を終えた教室はがやがやと騒がしくなる。
明日奈は手早く机の上を片付け──と言ってもノートではなくタブレットPCを使用している上、書類のほとんどは紙媒体ではなく無線LANを通して電子媒体で送られてくるので片付けるものは少ない──友人に声をかけた。
「リ……香、ちょっといい?」
「あんた今あっちの名前で呼びそうになったでしょ」
「う……」
明日奈をからかうような目つきで見つめるのは、ピンク色の髪……ではなく黒髪を少しウェーブさせて耳の上あたりの髪を可愛らしいピンで留めたリズベットこと篠崎里香だった。
現実でも以前のまま呼んでいいと言われていた明日奈は、彼女のことをつい「リズ」と呼んでしまいそうになる。
これが学校外なら彼女も何も言わないのだが、校内でのSAOキャラネームによる呼び名は御法度になっていた。
SAOという世界は決して綺麗事だけでは無い場所だった。オレンジギルドと称されるような罪を犯したプレイヤーもたくさんいる。
SAOでのキャラネームを使ってしまえば、それだけでSAOの中に居た時の罪を暴きかねない。
政府は建前上、SAO内での犯罪は立件しないことにしている。
明らかな大犯罪者プレイヤーだとわかっている人間には監視やカウンセリングを行っているが、基本SAO内での出来事は現実で罪に問われない。
デスゲームという過酷な世界に生きてきた彼らの行動に一つ一つの検証を重ねることは難しい。
現行の法律では対処しきれない、というのが本音の一つかもしれないが、SAO内での出来事は《触れない》のが既に世の暗黙のルールとなっていた。
国としてはSAO生還者へみだりにSAOの話をしないよう簡易の箝口令を敷いてもいるが、知りたがりや話したがりは皆無ではない。
全ての人が解放された今、大手のSAO生還者を祝うウェブサイトの有り様についても世論を賑わせていたりする。
「学校では気をつけなさいよ?」
「昨日キ……和人君にも同じこと言われたよ」
同じ歳の二人は授業も比較的被っているものが多い。
こうして一緒になることは珍しくないが、週のうちの半分はこの二人が昼を共にすることはない。
「はいはいご馳走様」
「も、もうなんでそうなるの!?」
まだ何も言ってないのにまるで惚気話でもしたかのような扱いだ。
明日奈にはそんなつもりは無かったので面白くないことこの上ない。
しかし里香にしてみれば彼女の口から彼の名前がでればそれはもう十分に惚気なのだった。
「いいから早く旦那のとこに行ってきなさいよ。いつもならイの一番に出て行くくせに」
「も、もう……あんまりからかうと怒るよ?」
やや頬を紅く染めて睨む明日奈に里香は苦笑してそれ以上言うのを止める。
どうにも里香には明日奈を見ると庇護欲がそそられるのと同時にからかい癖が出てしまう。
ちょっとだけ虐めて、弱った姿を見て守ってやりたいと思うのが一サイクル。
マッチポンプ的なサドっ気ともとられそうな彼女だが、その本質は一歩お姉さんという立ち位置が正しい。
同年である明日奈はもとより、年下のシリカこと珪子、キリトこと和人のことを手のかかる弟や妹のように見てしまう節が彼女にはあった。
周りには昔から「里香ちゃんは面倒見が良いわね」とよくよく言われて育っており、幾分それが影響しているのかもしれない。
二人は教室を出て歩きながら続けた。
「ごめんごめん、で何か用? いつもならすぐに出て行っちゃうのは事実でしょ? だから珍しいなと思って」
「確かにそうだけど……えっとね、今日里香は帰り空いてる?」
「今日は和人と帰るんじゃないの? いつもそうだったじゃない」
「和人君用事があって今日一緒に帰れないそうだから」
「ふぅん、それで寂しくなって私に泣きついたと」
「そ、そういうわけじゃ……」
「あはは、冗談だよ冗談」
「もう……それで放課後は?」
「あ~……ごめん! 私も今日は用事があるのよ」
里香は片目を瞑って右手を挙げた。
掌を垂直にして片手の謝りポーズである。
「そっかあ、里香も用事かあ……」
「うん、実はさ、親の友達の息子が今年高校に無事進学してね。遅ればせながらお祝いの挨拶に行くのよ。親は忙しいから私に行けっていうし。まあ嫌じゃないから良いんだけど」
「へえ……高校生か。まあ私たちも似たようなものだけど」
「私たちは結構特異だからね。その子とは小さい頃に一緒の習い事もしててそこそこ付き合いがあるから……って言っても一緒に通ってたのは短い間だったけど。でも弱虫だったあの子ももう高校生かあって思うとなんだか感慨深いわけよ」
「そっか、ごめんね急に無理言って」
「んーん、こっちこそ付き合えなくて」
「良いよ良いよ。あ、珪子ちゃん来たね」
廊下を歩きながら話しているうちに、シリカこと珪子が合流する。
日にもよるが、珪子と里香は一緒に昼食を摂ることが多かった。
「あれ? 明日奈さんが一緒なんて珍しいですね」
「明日奈はこれから和人のとこ行くのよ」
「そうなんですか。あ、そういえば和人さんの教室はまだ授業やってるみたいでしたよ」
いつものツーサイドアップに髪を留めているシリカは今自分が歩いて来た道を振り返る。
通路の奥を曲がった先にあるのが和人が今授業を受けている教室だ。
時と場合にもよるが、時間一杯まで授業をやる場合や早めに終わる場合、また必ずと言っていいほど五分程度オーバーする場合など、授業内容や教師によって終了時間は様々だ。
お昼前の授業で五分オーバーする授業は嫌われるが、和人が受けている授業はまさに毎回そのパターンだった。
なので教室の友人とはよく食堂などの席を一緒に取り合う約束をしたりする、と明日奈はよく遅れて来る和人から聞いていた。
実はそれがわかっているからこうして里香とゆっくり歩きながら移動してきた、というのもあったりする。
「うん、ありがとうシ……珪子ちゃん。って、そういえば里香、今言ってた子が高校入学ってことは直葉ちゃんや珪子ちゃんと同学年ってこと?」
「ん? そういやそうなるのかな」
「何の話ですか?」
珪子が首を傾げ、里香が改めて簡単に説明する。
それに珪子は得心した様子で頷いた。
「はあ、確かにそうですねえ」
「いやー、こうしてみると同年代の知り合いって結構いるもんなのねー。ほとんど年下だけど」
「そうだねー、あ、私そろそろ行くね」
明日奈が軽く手を振って歩き出すのを合図に珪子と里香もカフェテリアへと足を向ける。
里香が今日は何を食べようかな、と考えていると隣を歩く珪子が不思議そうに尋ねた。
「でももう五月も半ばですよ? 挨拶なら普通四月中には行くんじゃ……?」
「んー? まあそうなんだけど、こっちも結構ゴタついてたし、詳しくは聞いてないけどその子の兄貴がなんかあったみたいでさ……」
「お兄さんもいるんですねー」
「あんまり兄貴の方には会ったことないけどね。あ、そうだ珪子! 今度その子紹介してあげよっか? 同じ年なら話も弾むんじゃない? なんと医者の息子だよ、将来有望……かも?」
「え? えええ? い、いいですよ! 遠慮します! っていうか《かも?》ってなんですか《かも?》って!」
「いや、どーもあの子には情けない印象しかなくて。悪い子じゃないんだけどね」
「そんな人を紹介しようとしないでくださいよ……」
笑う里香に珪子は呆れつつ、カフェテリアへと入った。
二人と別れた明日奈は、足を庭園のベンチへと一瞬向けて、やめた。
普段はあそこで待っているのだが、たまには教室の前で待っていて驚かすのも面白そうだ。
そんなただの思いつきから明日奈は和人が授業を受けている教室の前で待つことにした。
なんとなく教室内から授業がもうすぐ終わるようなオーラを感じる。
誰しもそうだろうが、授業の終わりが見えてくるとそういう空気をよくよく感じるのだ。
時間的にもそろそろだろう。そう思っていると案の定、ガタタッという音がしてから教室の扉が開き、教師が出て行く。
それを発端として次々に生徒が流れ出てきた。みんなカフェテリアにでも向かうのだろう。
明日奈は廊下の壁に寄りかかりながら流れる生徒をぼんやりと見ていた。
生徒の波の向こうで、和人が友人らしい人に呼び止められるのが見えた。
「おーいカズ、食堂行くなら俺の席もとっておいてくれ」
「ダメだってば。カズは今日も謁見の日だろ」
「あ、そうか」
「お前ら……いや、なんでもない」
和人は何かを言い返そうとして、やめた。
言っても無駄だと思ったのだろう。
あながち間違いというわけでもない。
そんな会話の流れを、こんな廊下からでも案外聞こえるものだな、と思いながら明日奈は眺めていた。
もう彼も出てくるだろう。未だ自分には気付いていないようだが、いつ気付くかな……と期待していた時だった。
「あ、そうそうカズ」
「なんだ?」
「昨日の帰りに一緒にいた綺麗な女の人って誰なんだ? 街中を一緒に歩いてただろ? 最近よく一緒にいるのを見かけるよな」
え?
思わず、明日奈は驚きの声を上げそうになった。
昨日綺麗な女の人と一緒に歩いていた?
どういうことだろう?
昨日は、だって一緒に帰るのを断られたはずだ。
いやいや、それは彼が気を使ってくれたからで。
じゃあ最近よく一緒にいるのを見かけるっていうのは?
聞いていない。
何も聞いていない。
急に雑然としだした廊下は雑音が多すぎてもう彼らの会話も聞こえない。
今ある情報はここのところ何かにつけて放課後会う機会が減っていたこと。
その放課後に彼がどうやら綺麗な女の人と会っていたらしいこと。
どういうこと?
最近会えなかったことと関係あるの?
今日一緒に帰れないこととも関係あるの?
日曜日に中途半端な時間を言ったのもそのせい?
その綺麗な女の人と会う為?
声を上げて聞きたかった。
人波の向こうにいる彼に。
手を伸ばしたかった。
……そのはずなのに。
一瞬だけ持ち上がった手は、教室内で《無表情の談笑》をする和人の顔を見て、力なく下がった。
足は、勝手にその場を離れ始めていた。
都内でも、文京区まで足を運ぶことはあまりない。
昔は何度か来たことがあったが、だいぶ街並みは変わっているし、既に勝手知ったる場所、とは言いにくい。
そんな中、薄い記憶を頼りに待ち合わせ場所として指定された裏通りの喫茶店へと入ると、先に来ていたらしい目当ての人物が熱心に雑誌を読んでいた。
久しぶりの再会だが、あの後ろ姿は間違いあるまい。
こちらに気付いていないのか、顔も上げないのでゆっくりと近づいてみると、《目当ての少年》は《拳銃》がびっしりと載っている雑誌を読んでいるようだった。
ひょい、とそれを取り上げる。
「え? あ……」
間抜けそうな顔をした少年は、それを行ったのが顔見知りの人物だとわかるとバツが悪そうな顔をした。
少年は黒い学生服を身に纏い、学校帰りであることが窺える。
当然だ。こちらも学校が終わってから直でここに来たのだから。
「アンタって銃マニアだったっけ? こんな趣味もあんの?」
「割と最近、かな」
少年の声変わりしたらしいその声は、昔よりも可愛げが幾分減っているものの、相変わらずの弱弱しさを含んでいた。
懐かしささえ感じさせるその喋りに内心で苦笑しながら、篠崎里香は少年に微笑む。
「やっほー恭二。久しぶりね、元気してた? あ、それと進学おめでと」
「久しぶり、里香姉さん。ありがとう」
どこにでもいそうな少年、新川恭二は里香の笑顔に何処か照れながらそう応えた。