普段通りでいられただろうか。
動揺を悟られていないだろうか。
明日奈/アスナはそんなことを思いながら、純白色という見た目と違い清楚な色をした四対八枚の翼を羽ばたかせる邪神系モンスター、《トンキー》の背中に座っていた。
昼休みに和人/キリトと合流してからの自分の行動、言動を今イチきちんと思い出せない。
何事も無く笑っていた気もするし、特に何も話さなかった気もする。
覚えている事は結局彼の用事の内容や、一緒にいたという女の人のことを尋ねられなかったことだけだ。
「おーいアスナ?」
一緒にトンキーの背中に乗っている黒衣の影妖精族(スプリガン)を使役アバターとしているキリトが、俯いたまま何も喋らないアスナの顔を心配そうに覗き込む。
アスナは突然視界に入ってきた黒いアバター、キリトに驚いて飛び退き、そのまま遥か上空を飛ぶトンキーから落ちそうになったところでキリトに腕をグンと引っぱられた。
現実とは違い、力強いその腕力は問題無くアスナをトンキーの中央、キリトの胸の中へと誘う。
とくん、と鳴った胸の音は果たして一体どちらのものだったのか。
数秒間はたっぷりと彼から得られる仮初の温もりにぼんやりしていると、「オホン」という小さい咳払いが偽物の聴覚を刺激してアスナに現状を思い出させた。
リーファがわざと背中を向けながらチラチラとこちらを覗っている。
直視するのが恥ずかしいのだろう。アスナにとっても、まじまじと見られているわけではないとはいえ、少しでも見られているという事実に羞恥の感情が呼び起こされる。
笑いや羞恥は伝染する、などという話はよくあるが、アスナは今まさにそれを実感していた。
彼女は慌ててキリトから一歩離れ、再びトンキーの背中で体勢を崩しかけたが、そんなアスナを今度はユイが小さい体で背中から押すことによって体勢を立て直した。
今いるのは日の光の無い地下世界、ALO内の《ヨツンヘイム》と呼ばれる場所で、通常のプレイヤーは飛行をシステム的に認められていないが、プレイヤーのサポート役たるナビゲーションピクシーの身であるユイは、その限りではないらしい。
アスナはユイに「ありがとう」と言ってその場に腰を下ろした。目的の場所まではもう少しだ。
今夜は、かつてキリト救出の際に偶然発見した伝説武器(レジェンダリーウェポン)、《聖剣エクスキャリバー》の事をキリトに話し、大いに興味を持った彼を含めたアスナとリーファ、そしてユイという三人と一人のパーティで偵察に向かうことになっていた。
当初はレコンも来る予定だったのだが、パーティにキリトがいると聞いた途端「用事を思いだした」と言って彼は不参加になった。
これまでの彼からは考えられないことだ。リーファは首を傾げながらも気を取り直して一路《ヨツンヘイム》を目差すことにした。
流石にいきなりブツを手に入れられるとは思っていないが、何かの手応えくらいは得たい。
頑張ろう、と気合を入れたリーファだが、気付けばちょっと目を離した隙に体勢を崩して落ちそうになったアスナをキリトが抱き留めて二人の時間は現実どころか仮想世界からも切り離されている所だった。
小さい咳払いで決して踏み入れることのできない領域への壁をどうにか突破したのだが、リーファは少しばかり腑に落ちなかった。
アスナは比較的分別をわきまえている人だと直葉/リーファは思っていた。
今のようなことがあっても、普段の彼女なら照れながらお礼を言ってすぐ離れるのではないだろうか。
そもそも、彼女ほどのセンスがあればトンキーの上でそうそう体勢を崩すことなど無いと思われる。
「アスナさん、調子悪いんですか? 今日は止めときます?」
「ううん、大丈夫だよ。ごめんね心配かけて」
アスナのはにかむような笑みからは全くその心情を読み取れない。
言葉通り心配はいらないようにも思える。
だがリーファ……いや直葉の中の《女の勘》が言葉通りではないのではないかと警鐘を鳴らしていた。
「無理しないでくださいね」
「うん、ありがとうリーファちゃん」
リーファの気遣いに笑顔で答えるアスナを見て、一旦リーファは会話を切り上げた。
これ以上は話しても意味が無い。アスナの事は少し心配ではあるが彼女がそう言う以上他にできることも無かった。
となれば今は新しい冒険にワクワクしなければ損である。
トンキーに目的の場所まで連れて来てもらった一行は、さっそく氷で出来た逆ピラミッド型空中ダンジョン、その最下層部にある《聖剣エクスキャリバー》を目指して進行を開始した……のだが。
「うわ!? 何これ!?」
リーファはいきなり泣き言を上げた。といいより心が折れた。それはもうポッキリとあっけなく。
中にはうじゃうじゃとトンキーを虐めていた四本腕の邪神系モンスター、その親玉らしい巨大人型邪神がわんさかといたのだ。
一匹ですら手練れの大部隊で挑むのがセオリーの敵。それの親玉がうじゃうじゃといるこのダンジョンはまさにカオスだった。
当然三人+一人では一匹の相手ですらまともには出来ない。
ユージーン程の手練れですら一人では通常の邪神相手に十秒戦い抜くことさえ適わなかったという話があるくらいなのだ。
これは偵察すらままならないと即座に判断したリーファは撤退しようと提案した。
キリトはそれに応えた。上手いこと邪神の攻撃を受け流しつつ反動で退路へとバックステップする。
しかし、アスナは状況的に撤退できそうになかった。退くに退けない……猛烈な攻撃を続ける邪神相手に張り付くことでクリティカルヒットを避けているが、徐々にHPは削られていくという悪循環。
こと戦闘に置いては実は撤退の方が難しい場合も多々ある。背を向けた瞬間の恐怖。
バックアタックほど怖いものはない。今のアスナは邪神から距離を取れば即HP全損という憂き目を見る可能性は高かった。
普段の彼女ならそうなる前に比較的早い段階で退くことを選ぶだけに、この構図は非常に珍しかった。
リーファが離れたところから自身がそのモンスターのタゲを取るべく遠距離魔法を打ち込んでヘイトを稼ぐが、あの邪神は一番近いプレイヤー、アスナを執拗に狙い続けていた。
四本の腕から繰り出されるクワトロロンドはアスナの退却を決して許さない。
一本の腕が振り下ろされればそれをステップでかわし、逆方向から薙ぐように振られる剛腕を飛んで避け、宙にいるアスナに振り下ろされる刃を上手く自身の細剣をぶつけることでパリィしてノックバックを生むも残る最後の一本から繰り出される一撃の回避が完全には間に合わない。
これは決してアスナの動きが悪いのではない。
確かに普段のアスナならそこまで追い込まれる前には退路の確保を考えるが、現在の動きという一点においてのみ言えば最高に近いスペックを発揮している。
むしろユージーンの戦果を考えれば彼女は猛戦し過ぎているほどだ。
だが当然この最難関ダンジョンのモンスター相手にいつまでもそんな僥倖は続かない。
一撃をパリィしそこねてからは早かった。
体勢を崩したアスナに雪崩のように四方向から攻撃の雨が降る。
見る間に彼女のHPゲージが減って行った。この期に及んで尚クリティカルをもらわぬよう転がるように回避するその様は見事だが、既に仮想の死は時間の問題、そうリーファが思った時だった。
隣にいるキリトが彼女のHPゲージが減るごとに小さい声を漏らし、震えはじめる。
それが瞬く間に危険域にまで突入した時、彼はとうとう動いた。
「アスナァァァァァ!!」
キリトが恐いくらいに鬼気迫る形相で飛び出した。
その声は仮想とはいえ喉が焼けるんじゃないかと疑いたくなるような叫びで、一瞬身震いしてしまう程だった。
それほどまでに緊迫感ある声でキリトはアスナの元へ駆けつける。
今まさにアスナのHPを全て奪わんとした攻撃を払いのけ、残りの攻撃を自らの仮想体を盾として差し出す事で防ごうとした。
キリトのHPが一瞬で赤く染まる。危険域だ。
次の攻撃は掠っただけでもキリトのアバターはリメインライトと化してしまうだろう。
この状況下で一分以内に蘇生できる可能性は限りなく低い。
だが彼は構うことなく、アスナを抱き上げると脱出経路……リーファのいる方へと力一杯彼女を放り投げた。
ワケもわからない一瞬のうちに翅を使って飛ぶのとは違う、やや不快な滞空感をアスナは得ながら無理矢理に戦場から離脱させられる。
「スグ! アスナを連れて早く逃げろ! 頼む!」
兄、キリトの叫び声が聞こえる。
先ほどアスナがやっていたように四つの無作為な攻撃をキリトはどうにか耐えていた。
あまりの事に唖然としていたリーファだが、兄の異常さに逆に冷静さを取り戻した。
兄であるキリトは比較的切り替えをキチンと出来る人物である。
彼が仮想世界で本名をつい呼んでしまったことは少なくともこれまで無かったと記憶している。
その彼が今、プレイヤーネームである《リーファ》ではなく、リアルネームである《直葉》を兄だけが使う愛称の《スグ》という呼び名で呼んだ。
ネットゲームでのマナーについては意外にもそこそこ厳しい兄にしては珍しい、いや、ありえないと言っても過言ではない出来事だった。
それだけ今の兄には余裕がないことが窺える。
何をそんなに焦っているのだろう、という疑問は尽きなかったが、そうまでして助けられたアスナを放っておくわけにはいかない。
一瞬のことに頭の整理がまだ追いついていないらしいアスナの手を取ってリーファは駆けだした。
この世界の死はただのシステム的なゲームオーバーであってリアルの死とは直結しない。
だがSAO経験者──本当のデスゲーム経験者──にとってはゲーム内の死であろうと軽くは無いのかもしれない。
(特にお兄ちゃんにとっては……そうなのかも)
兄であるキリトが精神的疾患を患っていることは妹の直葉も理解している。
深いところでの原因はわからないが、おそらく鍵はこの人……アスナなのだ、という予感は朧気ながらにあった。
羨ましい、という思いが皆無ではない。
ただ、それ以上に直葉にはアスナをいろんな意味で応援したい気持ちがあった。
アスナとのデュエルで、彼女が言ってくれたことが未だにリーファの中には熱く灯っている。
『私、斬れないよ。リーファちゃんには一杯お世話になったもん。意味もなく斬れないよ』
『直葉ちゃんも、キリト君の事、大好きだったんだね』
『でも、直葉ちゃんがいないところでキリト君と仲良くなって……』
『私、ずるかったね……ごめんね……ごめんね……!』
ずるかったのはどちらか、という応酬。
あのやり取りで、直葉は救われた気がした。
アスナという女性の事を本当の意味で知ることが出来た。
ある程度走った所で、システムメニューからキリトの状態を確認してみると、どうやらあれから間もなくやられてしまったらしい。
もう少ししたらイグドラシル・シティの家で復活するだろう。
途中から我に返ったアスナは何度も後ろを振り返っていたが、リーファがそれを告げると途端に彼女はしょげてしまった。
「アスナさんのせいじゃないですよ。あそこは今の最難関、って言っても良い場所だし」
「……うん、分かってはいるんだけどね。でも……」
アスナの顔は晴れない。
リーファにも気持ちはわからなくもなかった。
仲間がやられて気にしないパーティなんてそういない。
突然の成り行きで組んだ野良パーティでさえそういうものなのだから。
まして二人は恋人同士。気にするな、と言う方が無理だろう。
たかがゲーム内の死。されど親しい相手のそれは心が痛んでしまうものだ。
何処か陰鬱としたアスナを引き連れて、リーファは戦闘を避けつつ何とかダンジョンからの撤退に成功した。
迎えに来てくれたトンキーの背に乗ってヨツンヘイムの天蓋……アルンへと向かう。
アスナの落ち込みぶりから会話は殆ど無かった。
何とか元気にしてあげたい、直葉はそう思って考え込み……ぱっと閃くものがあった。
「あの、アスナさん」
「なあに?」
「今度の土日空いていますか?」
「……? 今のところ予定はないよ」
「じゃあ、土曜日の晩、もし良ければお兄ちゃんの為に夕飯作りに来てもらえませんか?」
「え……?」
アスナの不思議そうな顔に、直葉はイタズラを思いついた子供のような顔を浮かべた。
この兄妹、いや親子は時々こんな顔をする。
決まってそうなるとアスナに為す術は無かった。
「私、次の土曜日は部活の合宿でいないんです。お母さんも校了が近いから家には帰ってこないだろうし。そうなるとお兄ちゃん、きっと面倒くさがって御飯を疎かにするから」
「ああ、成る程」
アスナは得心したように頷いた。
彼女の提案はシンプルなドッキリ作戦だ。
家族のいない日に突然アスナがお邪魔し、夕飯を用意するというもの。
どことなく彼をイメージさせる茶目っ気の入ったイタズラ心満載の気遣いと言ったところだろう。
思えば確かに彼は食べることにそこそこの楽しみを覚える人物ではあるが、そこに自分での一手間を加えることまではあまりしない。
家族の当番としての食事作りは最低限こなすが、それが自分一人のためとなると急にやる気を無くしてしまうのだ。
最悪カロリーメイトで済ませたり、食べないなんてこともあり得る。
何かに夢中になっていれば尚更その傾向が強くて、SAOでもキリトはレベリングに夢中になりすぎて食事を抜いていたことがあるのをアスナは知っていた。
「お願いできますか?」
「ん、良いよ。任せておいて。しっかりと食べさせておくね」
アスナは直葉に微笑んだ。
その顔は言外に「ありがとう」と告げていた。
アスナにもそれが彼女の気遣いだということは分かっていた。
だから今はそれに甘えさせてもらうことにした。
二人はトンキーに「くおーん!」と見送られ、出口の《アルン》から《イグドラシル・シティ》まで飛んだ。
キリトが生き返っているとすればそこだからだ。案の定、キリトは《イグラシル・シティ》の入り口で待っていた。
「おつかれ」
「ただいまキリト君、ごめんね私のせいで」
「良いさ、俺が勝手にやったことだよ」
「そうだけど……もうあんなことはしなくても良いんだからね? ここは、SAOじゃないんだから」
「……わかってる」
(……本当に分かっているのかな、キリト君……)
返事の遅かったキリトに、アスナは少しだけ不安そうな顔をした。
「じゃ、そうしようか」
「うん、そうだね」
どことなく微妙な空気になり始めたのを感じ取ったリーファの提案で、アスナとキリトの共同で借りている家に戻った一行は反省会も兼ねた今後の話し合いをしていた。
話し合いの結果、攻略はもっと強くなってからの再挑戦に賭けることで全員意見は一致した。
今日の戦いで今はまだ無理だ、というのが共通認識だった。
話が纏まったところで今日はお開きとなり、各々自由に落ちることにした。
リーファは二人の家を出た後、すぐに落ちようか考え、そういえば大分手持ちの回復アイテムが尽きてきていたのを思い出した。
今日ダンジョン内でもいくつか使用したことを考えると、買い足しておかなければ不安になってくる。
リーファは手元のシステムメニューで粗方在庫を確認すると、道具屋で仕入れを済ませてから落ちることにした。
そうと決まれば、と数歩踏み出したところで彼女に背後から声がかかる。
「リーファさーん!」
「あれ? ユイちゃん?」
ユイがリーファの後を追うように家から出てきた。
いつもキリトかアスナの傍をなかなか離れようとしない彼女にしては非常に珍しいことだ。
「どうしたの? 珍しいね」
「今日はパパとママぎこちなかったですからね。少し二人きりにしてあげようと思って」
なんでできた娘だろうか。
思わずそう思ってしまうほど親思いの良い子である。
ユイの正体は既に聞き及んでいるリーファだが、本当に彼女はAIなのか疑いたくなってしまう。
「良い子だねえユイちゃん」
「ありがとうございます。それでもし良ければリーファさんについて行こうかなって」
「私は構わないけど……できるの? そんなこと」
「街の中であれば、パパが街にいる限りある程度は可能です」
「そっか。じゃあ一緒に買い物にいこう!」
「はい!」
元気の良い声にリーファも気を良くしつつ数歩進んでから、彼女はふと今日思ったことを口にした。
いや、前々から気にはなっていたのだ。今日はそれが特に顕著だっただけで。
そのことについて、もしかしたらユイなら何か知っているのかもしれない。
ユイの正体を聞かされているリーファには、そんな予感も何処かにあった。
「ねえユイちゃん」
「何ですか?」
「今日のお兄ちゃん、ちょっと変だったよね? あんなに必死になって……昔はいつもああだったの?」
「……」
昔、というのがSAOでのことを意味しているのは明らかだった。
言外に、そこで何かあったの? という意味も込めているつもりだった。
その質問に、ユイは口を噤む。表情からはつい今し方までの愛らしさは消え、その目には哀しみさえ垣間見えた。
「……リーファさん」
「う、うん」
「そのことを、パパに聞いたりしましたか?」
「え? 聞いてない、けど……」
「そうですか。では」
ユイは一瞬安堵の表情を見せてから、これまでにないほど怖い目でリーファを見つめた。
その視線に、リーファはごくりと息を呑む。彼女の、これほど何かを強く訴えるような目は見たことは無い。
怜悧、とは違う凄く機械的な瞳。
──ユイの纏う空気が、豹変する。
「パパには……いえ、パパとママには絶対にその質問をしないでください」
どうして、とは聞けなかった。
有無を言わせぬ迫力があった。
これまでにない強い語調で告げられるユイの宣告に、どこかヒヤリとさせられる。
まるで冷たい氷の刃を背中に突きつけられているかのような。
だがそれも一瞬。ユイは次の瞬間には穏やかな表情を取り戻した。
だからこそリーファは鳥肌が立つかのような恐怖に駆られた。
ここまで、機械的に感情を切り替えられる人間など、そうはいない。
ユイは人間ではないと頭ではわかっていても、これまではどこか懐疑的だった。
それは良い意味で感情表現が人間的だと感じていたからだ。
そのユイに、初めて畏怖の念を覚えた。
何故そんなに簡単に、今の会話がまるで無かったかのような態度が取れるのか、と。
同時に。
これは、《決して触れてはいけない何か》なのだと、リーファは直感的に理解した。
アスナは「うーん」と唸っていた。
学校近くのスーパーで野菜やお肉と睨めっこしながら頭の中に浮かぶレシピを一つ一つ吟味していく。
ここのところ二日間、放課後は全く同じ事を繰り返していた。
せっかく彼の家で彼の為に夕飯を作るのだ。それなら何かこう驚かれるものを作りたい。
最初はシチューにしようかとも思った。あの世界において二人で食べたS級食材、ラグー・ラビットの肉を使ったシチューはまさに絶品だった。
しかしあれを再現しようと思うと食材の調達からして時間がかかりそうだ。あれほどの美味しいお肉はそう多くない。
近い味を出すためにも研究は必須だろう。
アレを現実で完成させるには圧倒的に時間が足りないことはわかっていた。
その為今回はやむなくメニューからスルーする。しかしかといってあまりお手軽なものを作るのもアスナの中にある乙女心が許さなかった。
せめてお弁当では出来ない類のものにしたい。それもアッと驚かせて尚且つ喜ばれるものが良い。
そうなると一体メニューはどうしたら……とアスナは悩み、真剣に食材を吟味していく。
しかし結局メニューは定まらずにアスナはスーパーの自動ドアをくぐって外に出た。
五月も末になってくるとちょっと前まであった寒気が嘘のように暖かくなってくる。
ランニングシャツにハーフパンツを穿いて走っている人もチラホラ見かけるようになったし、着実に夏に近づいてきていた。
それがさらにアスナの頭を悩ませる。
暖かいもので攻めるか冷たいもので攻めるか。
一体彼が喜ぶものはなんだろうか。
約束の日は明日にまで迫ってきていたが全然メニューが定まらなかった。
アスナは満足のいく案の出ぬまま溜息を吐いて、帰路へ着こうとしたまさにその時だった。
道路を挟んで向かいの歩道を、彼が歩いていた。
彼の方が今日も遅い時間に学校が終わるから、それ自体は不思議なことではない。
しいて言えばそんな時間まで夢中になってメニューを考えていた自分の行動の方が不思議だ。
しかし偶然とはいえこれは運が良いとアスナは彼に近寄ろうとして、先日の事が頭をよぎった。
──昨日の帰りに一緒にいた綺麗な女の人って誰なんだ?
足を止めて、彼の背中を見つめる。
特段おかしい所はない。足取りや方向から見ても、帰宅するのだろうと予測できる。
でも。
それとはまったく別にアスナの頭の中にはまだ見ぬ女性との親しげなやり取りをするキリトのイメージが浮かんでしまい、胸が苦しくなる。
彼の姿が通りの向こうに消えると、その想いは一層強くなった。
自然と足が動き出す。
彼が通り過ぎた道を辿って。彼が角を曲がれば同じ角を曲がって。
──何をやっているんだろう?
唐突に自分の事をアスナはそう思った。
私、何をしてるの? という自問。それに対する明確な答えは即座に用意できる。
彼の背中を追いかけている、と。
何をやっているの?
彼を追いかけている。
何故そんなことをするの?
彼の事を知るため。
何故本人に聞かないの?
それは……。
それは……何故だろうか。
決まっている。怖いからだ。
彼が自分から離れていってしまうのが怖いからだ。
自分の知らない彼が、遠い存在になってしまうかもしれないことが怖いからだ。
だが同じように彼を信じたい気持ちも多分にある。
彼がそんな人ではないという気持ちも多分にある。
では信じていると思いつつ今やっていることはなんなのだ。
酷い裏切り行為ではないのか。
段々とそんなことを思い始めた時には、既に気付かれないように同じ列車に乗っていた。
たまたま人が多かったからばれなかったが、もう少し人が少なければ気付かれていたかもしれない。
そこまで思ってから自己嫌悪。見つかっていたかもしれない、ということは見つからなくて良かった、ということだ。
先ほどまでの罪の意識とは別に、自分はまだこの追いかけっこを続けるつもりでいるのだろうか。
いまいち自分のことがアスナはわからなくなりつつあった。
そんなことを考えつつアスナがキリトを見ていると、その表情に違和感を覚えた。
いや、さんざん聞かされてきたことを初めてちゃんと実感した、というべきか。
キリトの表情はまるで能面のように何も映していなかった。
ただ静かに佇むその姿は、およそアスナの中にいる感情豊かなキリトには当てはまらない。
何度か隠れて見たことはあったものの、すぐに自分に気付いて笑顔を見せてくれるので、これまでどうしても重要視できずにいた。
ここにきて、やっぱり今の彼はそうなんだと思うと同時に、少しばかりの優越感が彼女を満たした。
自分といるときは、安らげていてくれるのかもしれない、と。
彼を支えてあげられるのは自分だけだ、と。
──また自己嫌悪。
何だこの考えは。これでは今の彼の状態をまるで喜んでいるようではないか。
それは違う、それだけは絶対に違う。
彼の現状を憂いているのは紛れもないと言い切れる。
それだけは自分の中でいろんなことがあやふやになりつつある今、数少ない確固たる思いだった。
と、そんなアスナの心臓がドクンと跳ねる。
彼が、家に帰るつもりなら降りる場所ではない駅で降りたのだ。
アスナは慌てて自分も同じ駅で降りて彼の背中を追いかけた。
一体どこへ向かうつもりなのか。そんなことを思いながらこそこそと後を追っていく。
頭の中では自分以外の人と今の彼が笑顔を交わすイメージが浮かんでは消えていく。
追いかけている自分に嫌悪し、これ以上追いかけることにも恐怖を感じ始める。
キリトは淀みなく進み、その足に迷いは感じられない。
やはり目的があるようだが、その目的がわからない。
そうして十分。ようやくキリトは足を止めて一つの建物に入って行った。
アスナはごくりと息を呑んで彼が入っていた建物に近寄る。
道路側は全面ガラス張りになっていて中の様子が透けて見える三階建ての建物。
上には大きくスポーツジムと書いてあった。
スポーツジム?
「え……ジム? ええ!?」
予想外な場所に流石にアスナは首を傾げた。
何で彼がこんな場所に?
言ってはなんだが彼とはあまり縁のなさそうな場所だった。
アスナがポカンとしていると、ガラスの向こうでは着替えたらしいキリトが必死にトレーニングを行っている。
近くには女のインストラクターさんらしき人がいて、細かい説明を受けてもいるようだ。
彼女は女の人にしては背が高く、流石はインストラクターというべきなのか、遠目からでもスタイルが良いのがわかる。
アスナは未だ信じられない思いでそれに見入ってしまっていた。
理解が追いついていなかった。アスナの中にこんな可能性は全く考慮されていなかった。
思考がフリーズしてしまったアスナはガラスの向こうのキリトを見つめ続けていた。だからだろう。
その女のインストラクターさんらしき人と目が合ってしまった。
同時に気付く。その人が、自分の顔見知りの相手だと。
「あ、安岐さん!?」
キリトに説明をしていた女のインストラクターさんらしき人は、彼が入院していた病院のナースだった。
僅かに鼻腔をくすぐる、天然木の芳しい香り。
樹種すらわからない──実在するのかすら疑わしい──それによって建てられたログハウス。
大きくはないが二人、いや三人で暮らすには十分とも思えるその家の一室。
「……あ、れ?」
慣れ親しんだはずのその場所でゆっくりと目覚めたアスナは、自分がここにいることに酷く違和感を覚えた。
いや、既視感と言うべきか。
前にもこんなことがあった気がする。
シンと静まり返った家の中。人気の欠片も感じられ無い木製のベッド。
今し方自分はここで目覚めたというのにベッドには使われていた形跡さえ見込めない。
仮想世界という場所を思えばおかしいと思うほどのことではないが、それでも拭えない違和感。
ぼうっとした思考が視線を巡らせる。誰もいない閑静とした寝室。
いるはずの存在がいないことが、ズキンと頭の奥で痛みを奔らせる。
彼がいない。彼女もいない。
ベッドから立ち上がり、寝室を出ても、そこは伽藍堂としていて、人気が無い。
──なんだか、嫌な予感がする。
家の中に誰もいないなら外のはずだ。
彼らが自分に黙ってどこかに行ってしまうなんて考えにくい。
──前にも、こんなことがあったような。
外へ出てみれば案外駆け回っている二人にすぐ会えるかもしれない。
そう思い、どこか焦燥気味な心を無理やり押さえつけて扉に手をかける。
──開いちゃダメだ。これを開いたら《ヤツ》が──
一瞬、この扉を開くことにすごく抵抗を感じた。
何度も開け閉めを繰り返したことのある何の変哲もない扉なのに。
開けばそれだけで良くないことが起きるような。《思い出す》ような。
でも開く以外の選択肢もない。アスナは力強く戸を開く。
あっけなく、思ったよりも簡単にそれは開いた。杞憂だったのだろうか。
燦々と降り注ぐ偽物の日差しに手で日傘を作りながらとぼとぼと歩いて辺りを見回す。
──やはり誰もいない──いや、いる。
フッと影が差す。
それまでアスナに降り注いでいた大きな日差しは《それ》によって遮られる。
バッドラックの象徴、《The Hell Scorpion》。
紅い金属のような肢体を持つ蠍型ボスモンスター。大きな特徴として尻尾が二つあることがあげられる。
本来は最前線の迷宮区にしか湧出(ポップ)しないはずのモンスター。
ああ、またか。
ここでアスナは悟る。
むしろ何故気付かなかったのか。
それとも気付きたくなかったのか。
あの場所で過ごしたあの時間へ帰りたいと、心のどこかで願っているのかもしれない。
【Immortal Object】
相手の攻撃が命中するが、《相変わらず》不死属性によって全ては防がれる。
もう何度も見てきた夢だ。嫌というほど見た夢。
またか、と思うのと同時に……ハッと気づいた。
今は、《いつ》だ?
SAOが終わってすぐ?
それともちゃんと彼を助けた後?
まさかこれが本当は夢じゃない、なんてことは……。
今までのことが全部夢だった、なんてことは……。
【Immortal Object】
機械的なメッセージがむしろ懐かしい。
懐かしいほど機械的に明滅を繰り返す。
(やめて。それを私に見せないで)
【Immortal Object】
【Immortal Object】
【Immortal Object】
繰り返される攻撃に、律儀に立ち上がるシステムメッセージ。
不快感しか与えてくれないこれは、アスナの精神を蝕む。
いい加減にしてほしい。もうわかったから。これが夢だってわかったから。
そろそろ覚めて。いつもならもう覚めても良いころのはず。
【Immortal Object】
【Immortal Object】
【Immortal Object】
激しい攻撃を繰り返す不幸の象徴に、無感動で仁王立ちしたまま無機質メッセージを見つめる。
火花が散ってチカチカと目が眩むが一切自分に影響はない。不死というシステム的属性がすべてを遮断する。
……おかしい。いつもならもうとっくに目覚めても良い頃なのに。
そう思った時だった。
「アスナ!」
「え」
忘れることなどできようはずもない彼の声。
黒い、おなじみのコートを纏ってレアドロップの片手直剣、《エリュシデータ》を握り締め走り寄ってくるその姿。
忘れようはずがない。
「キリト、くん……!」
夢では、決して会うことの無かった彼。
その彼が目の前に。目の前に!
「キリトくん!」
手を伸ばす。彼へ届けと。
彼も手を伸ばす。お互いの手が繋がれた時、嘘のように綺麗なポリゴン片となって不幸の象徴は消え去った。
ああ、これで終わりだ。
この夢ももう見ることは無い。
(すべては終わったんだ……そうだよね、キリト……く、ん……?)
夢にしてはリアル。
索敵スキルの視界も健在。
視界にはキリト。《毒》状態のキリト。
「アスナ……」
え?
なにそれ?
知らないこんなの知らない。
こんなのこれまで見たことない。
「ありがとう」
え?
嘘?
何?
「さよなら」
「ッッッッッ!!」
消える。
ガラスが割れるような音がして、フッと手の感触が消えて。
《質量の消える》感覚。もう二度と味わいたくなかった感覚。
あ、ああ、アアアア、アア、アア亜亜アアアあアアアア……ッ!!
「キリト、君……!」
「キリト、君……!」
「呼んだ?」
「……ふぇ?」
唐突に聞こえた真横からの声。
そこには黒のコートに片手直剣……ではなく黒のジーンズに黒いフリースを来たキリトこと桐ヶ谷和人がいた。
途端に思い出す。今日は土曜日。
アスナ/明日奈の記憶はついさっき公園のベンチに二人で座った所から途切れていた。
どうやら自分は彼の肩を枕代わりにしばし夢のアインクラッドへ旅立っていたらしい。
「……私、眠ってた?」
「ああ、五分くらいかな。うなされ始めたみたいだから起こそうと思ったら丁度俺の名前を口にしたんだ」
キリト/和人のこちらを見つめる黒曜石のような瞳を見て、つい先ほどの夢で見た映像を思い出す。
思わず明日奈は怖くなって彼の首へと腕を回して引き寄せた。
彼は驚きの声を上げたが、今だけは許してほしいと心の中で謝罪しながら力を抜くことはしない。
彼は確かにここにいる。その実感が欲しかった。
明日奈の突然の行動に和人は抵抗しなかった。
なんとなく彼女の様子がおかしいことがわかったのかもしれない。
明日奈はたっぷり時間をかけて彼の《質量》を確認してからゆっくりと腕を緩めた。
和人の「もういいのか?」という問いかけるような瞳に照れたように頷いて口を開く。
「ごめんね、急に」
「いや、いいけどさ。あんまり寝てないって言ってたし」
「それとは関係……なくはない、けど」
明日奈は昨晩からあまり寝ていなかった。
理由はいろいろあるが、一番の理由は今日が彼からのお誘いデートだったからである。
今まで、アインクラッドでのことも含めて、彼主導のデートというのはほぼ記憶にない。
そもそもアインクラッドでデートらしいことなどほとんどないのだが。
明日奈はそのつもりでも、彼にその気が全くなかったのだから。
明日奈が嬉しさ余って興奮し、眠れなくなるのも仕方のないことだった。
だいたい、翌日彼と会うことが決まっていた日は、アインクラッドの時でさえ緊張しあまり眠れなかったことがあると言うのに、その辺ことを彼はちゃんと理解してくれているのだろうか。
「……なんだよ?」
「ううん、なんでもない。きっとわからないだろうなあ、って」
「何がだよ?」
和人の疑問符を浮かべた顔に笑いながら、彼は絶対わかっていないと明日奈の中で決断を下す。
彼に乙女心のなんたるかがわかるわけがない。むしろ、わかってもらっては困るのだ。
「……ごめん、疲れちゃったかな?」
「え? ううん、そんなことないよ。ボートも楽しかった」
「そうか」
今日の最大の目的、それがボートだった。
それがそのまま、和人が明日奈に黙ってジムに通った理由でもある。
明日奈は安岐の話を思い出した。
「いやー、何? 彼女さん桐ヶ谷君をつけてたの?」
「あ、いやそういうわけじゃ……」
安岐に見つかった明日奈は中に呼びこまれ、あっという間に和人にも見つかってしまった。
彼は目を丸くして驚き、バツの悪そうな顔をしていた。隠し事をしていたことに引け目を感じているんだろう。
明日奈も何故自分がここにいるのか、という理由を言えずに気まずい空気が出来上がる。
安岐はそれに気付いてか、聞いてもいないことを解説しだしてくれた。
もともと明日奈も和人のリハビリ中に安岐がスポーツジムに通っている話は聞いていた。
そもそもの始まりは、和人が退院後に通院でのリハビリをしている際、安岐にそのジムを紹介してほしいと頼んだことから始まっていた。
明日奈はそこで首を傾げる。彼がジムに通ってまで体作りをしたいと思った理由が思い浮かばない。
そんな明日奈の視線に和人は照れたように頭をかきながら答えた。
「どうにもゲームでの自分と現実の自分にギャップがあり過ぎてさ」
「あ、あぁ、それはなんとなくわかるかも」
明日奈とて思い当たる節が無いわけではない。
そう言われれば納得もできる、と頷こうとした時、面白そうに安岐が付け加えた。
「というのは建前でね」
「ちょ、安岐さん!?」
和人の慌てようにどうやらそれが事実であることを明日奈は悟った。
嘘ではないのだろうが、何か大事なことを隠しているのだろう。
むぅ、と不満げな顔を和人に向けると、和人は困ったように視線を泳がせた。
だがどうにも彼は語る気は無いらしく、その口元は真一文字に結ばれている。
しかし和人にとっては残念なことに、安岐さんは口を噤む気は無いようだった。
「それがねえ、桐ヶ谷君ったらさあ」
「ふむふむ」
「ああっ! ちょっと安岐さん!」
「キリト君は黙ってて」
「むふふ♪ 桐ヶ谷君てば君に荷物を持たせたのを気にしてるみたいよ。男なのにーって」
「え……?」
「まあ今の桐ヶ谷君は貴方より腕っぷしが無いことがどうにも嫌だったらしくてね。彼も女の子みたいな顔して男の子ってことよね。貴方にいろいろ言われたのも気にしてるみたいだったけど」
「あ……」
言われてみれば思い当たる節はいくつかあった。
明日奈はこれまでにも何度か今は自分の方が力があるんだから、と和人に言い聞かせて彼を介護してきた。
その方が彼の為だと思っていたのだが、男の子的にはなかなか辛い言葉だったのかもしれない。
和人は諦めたように肩を落として一人トレーニングをしに行ってしまった。
ペッグデックマシン──腕を開いては閉じて主に大胸筋・三角筋前部を鍛える機械──に座り、苦しそうな声を上げながら腕を開いては閉じる。
肩甲骨をグッと寄せて座り、肘を伸ばして大胸筋を十分にストレッチさせる。
大きく動いて同じペースで続けるのが望ましい、と明日奈は隣にいる安岐から説明を受けた。
その真剣な姿を見て、知らないうちに彼を傷つけていたのかもしれない、と明日奈は思う。そんな明日奈の思考を見計らったかのように、安岐が続けた。
「彼ね、もう一つ本当の理由があるのよ」
「もう一つ?」
「うん、なんだと思う?」
「さ、さあ……」
「ボートだってさ」
「ボート?」
「彼が最初に私に言ったのがそれなの。人一人をボートに乗せて、問題なくオールを漕げるだけの筋力が欲しいって。どうも貴方を誘いたいみたいね」
「あ……!」
それは、第二十二層の湖でのこと。
ボートで水に揺られながらの遊覧は、本当に楽しかった。
彼は、現実でもあれをやろうと思ってくれているのか。
その為に、内緒でこんなに頑張っていてくれたのか。
明日奈の胸に熱いものが込み上げてくる。
同時に恥ずかしいと思った。彼の事を、結局信じ切れていなかったのだ。
だから自分はここまで来た。来てしまった。
もう二度とこんなことが無いよう、何があろうとも彼を信じようと改めて心の中で誓う。
その日の帰りに、どうせばれちゃったから、と前置きしてキリトは土曜日に目的のデートにいかないか、と明日奈を誘い、明日奈は二つ返事で了承したのだった。
手を繋いで、遊歩道を歩く。
ただそれだけのことが、とても楽しかった。
少し前につないだ時より、和人の手はだいぶ逞しくなっていた。
無論仮想世界とは力強さにおいては比べるべくもないのだろうが、明日奈にとっては十分強いと思えるほどの逞しさに成長していた。
彼の部屋のベッドに腰掛け、自分の掌を見つめて今日の事を思いだし、グッと握る。
帰ってきてからは、直葉に頼まれていた通り明日奈が夕飯を用意した。
あれほど悩んでいたメニューは驚くほど簡単に決まってしまった。
アインクラッドでそうだったように、彼に一言聞くだけで良かったのだ。
今日は何が食べたい? と。
明日奈が夕飯を頼まれていることを知った和人はやや驚いたが──直葉の思いつきイタズラ作戦が成功した瞬間だったとも言える──すぐに微笑んでお決まりの台詞で答えた。
「シェフのおすすめで頼む」
途端におかしくなって明日奈は笑ってしまった。
肩肘張って見栄を張ろうと思ったのがそもそもの間違いだった。
至ってシンプル。それでいいのだと気付かされた。
作りたいものを作る。それだけでいいのだ。
まるで、あの頃の二人の時間が帰ってきたかのよう。
そう思っていると、コーヒーを二つ持ってキリトが部屋に戻ってきた。
明日奈は「私がやろうか」と言ったのだが、和人の「ここでは明日奈は一応お客さんだぜ」という苦笑気味の返事にそれ以上手を出すのはやめた。
和人にとって明日奈の料理とは何にも代えがたいものではあるが、わざわざ家にまで来てもらって作ってもらうとなると申し訳なさを禁じ得ない部分もある。
故に和人としても自分の家ではせめてこれくらいはやらせてくれ、という意思表示をしておきたかった。
それがわかる明日奈だから、《その件》については何も言わない。
明日奈にカップを手渡し、隣に腰を下ろした和人は、黒い液体が中ほどまで入っているカップの中心を見つめながら考える。
今日という日は、あとどれぐらい残されているだろうか、と。
日は今し方沈んでしまったことだろう。
そろそろ明日奈を送っていくことを考えなくてはいけない。
それがあとどれほど先のことなのか。
和人はいつも明日奈と会う時、それを考えてしまう。
あとどれだけ一緒にいられるだろう、と。
終わりの時間を見立てて、計算して、それまでは目一杯一緒にいたいと思う。
和人にとって今日という日は、夜中の十二時、二十四時間という時間の枠組みではなく明日奈を送って行って一人になった時に終わるのだ。
カップの中を見つめたまま黙っている和人を見て、明日奈はなんとなく彼が考えていることを察した。
目が、置いて行かれる捨て犬のようなそれに近い気がするのだ。
その姿を見て、今日一日いつ言おうか迷っていた《とある事》が頭をよぎる。
しかしいざ、となると勇気が萎んでしまってなかなか言い出せない。
その間にも刻々と時間は過ぎていく。いつの間にか、もらったカップの中身はからっぽだった。
どうやら和人もそれは同じらしく、和人はカップを明日奈から受け取って、下に置きに行く。
戻ってきた和人は少しだけ寂しそうな顔をしながら、コートを羽織っていた。
「そろそろ良い時間だ、あまり遅くならないうちに……送っていくよ」
その言葉に、明日奈は顔を伏せた。
ジッと膝の上に置いた自分の拳を見つめている。
和人は明日奈の予想外の態度に訝しんだ。
彼女の家は比較的門限等にも厳しい。
その観点から彼女は帰り支度は早々に済ませると思っていたのだが。
和人が明日奈に近づいていくと、明日奈の細い指が震えながら和人のコートを弱弱しく掴んだ。
「アスナ……?」
「あの、ね……今日、なんだけど」
「あ、ああ……」
「うち、お父さんもお母さんも出張で出かけてて、帰ってこないから。だからお手伝いさんにも今日は掃除が終わったら帰って良いですよって伝えて来たの」
「?……ああ」
「それで、それでね……」
明日奈は決して顔を上げない。
ただ弱弱しく彼のコートを掴んだまま視線は自身の膝に張り付いている。
「えっと、だから、その……」
「アスナ……?」
和人はイマイチ明日奈が何を言おうとしているのか掴めずに首を傾げた。
今日は少しくらい遅くなっても大丈夫と言いたいのだろうか。
それは嬉しいがあまり遅くに出歩くのは明日奈の為にならないのでは、と和人が心配し始めた時、予想の遙か先を行くことを明日奈が言い出した。
「外泊しても、大丈夫……だと、思う」
和人にとってある意味ヒースクリフが茅場晶彦だった時以上の驚きと緊張が奔る。
それはつまり、今夜は桐ヶ谷家に泊まっていくということなのか。
明日奈の顔は既に耳まで真っ赤に染まっていて、和人のその考えがあながち見当違いではないと思ったのは本当に閃光の一瞬。
次の瞬間にはそれ以上の衝撃が和人を襲った。
真っ赤な顔をようやく上げた明日奈は、若干の涙さえ瞳に湛えて、口を開く。
「私が、は、初めての晩に言った時のこと、お、覚えてる……?」
瞬時に和人の脳裏に光速でシナプスが駆け巡る。
初めての夜。それは、間違いなく第二十二層でのことだといくら鈍い和人でもすぐにわかった。
とくれば、その言葉とは……、
『今度は、現実世界で、しようね』
男女の関係が確定的になる行為。
それ以外に思い当たる節は無く、明日奈を見る限り間違っていないことが和人には予想できた。
「~~~~~っ!」
予想できたからといって、急にそんなことを言われても、和人の容量はオーバーフローである。
むしろ一ヶ月程度前から約束していたとしても感情のオーバーフローを起こす自身が和人にはあった。
明日奈としてもここまでが限界だったのか、真っ赤になった顔を再び伏せて黙ってしまった。
「えっと………………………………アスナ」
「……うん」
「ここで、ってことで、いいの、かな」
「……うん。前に初めてここに来たとき、こっちでの初めては、なんとなくキリト君の部屋がいいなって……」
「そ、そうか……」
そろそろ和人の方も顔の火照りが限界だった。
笑いや羞恥は伝染するという迷信は信じざるを得ないと和人は認識を新たにしつつ明日奈の頬に手を伸ばす。
明日奈はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は迷いと羞恥で潤み切っていて、今にも大泣きしそうだった。
今からやっぱり止めよう、と言うのは簡単だった。だがそれを言えばこの顔を酷く歪ませてしまうことくらい和人にも理解できていた。
彼女にここまで言わせたのだ。そういった思いが和人に無いわけでもない。
ゆるやかに和人は明日奈の唇へと近づいて行った。
「今日は呪いのせいじゃ、ないぞ」
触れる程度の軽いそれから、啄むように。
徐々に、長く長く。
最終的に一分近く触れあっていた──などという生易しいものではなかったが──唇からは透明な糸の橋がつぅと出来上がる。
もう、この後どうするかは決まっていた。
和人はコートを脱ぎ捨て、部屋の明かりをリモコンで消す。
月明かりだけが部屋を満たし、ベッドに腰掛ける明日奈がより幻想的に見える。
彼女がここにいるというだけで、慣れ親しんだはずの自分の部屋が自分の部屋で無いような錯覚が起こる。
和人は再び明日奈に近づいていき、今度は彼女の首筋へと唇を押し当てた。
明日奈の甘い声が耳朶を撫でる。
どうやら、危惧した今日の終わりはまだまだ先のようだった。
鈍い頭痛と共に、和人はうっすらと目を開いた。
なんだか体が怠い。風邪、とは若干違うようだ。
ボーッとした思考は纏まらないうちに視線を彷徨わせた。
見飽きる程知っている自分の部屋。
PCの小さい駆動音とファンの音。
大きな机とディスプレイ。
壁にある傷やシミ。
そのどれもが本当にいつもと変わらない自室であると訴えてくる。
だが。
隣には、すやすやと寝息を立てて美しい少女が快眠遊ばされていることを忘れるほど和人も馬鹿ではない。
部屋中に一通り視線を彷徨わせて時間稼ぎをした後、恐る恐る彼女を見てみれば、本当に優しい顔で彼女は眠っていた。
思えば、彼女の寝ている時の姿を和人は見た記憶があまりなかった。
一番記憶に根深いのはアインクラッドで最高の季節に外でついうっかり彼女が熟睡してしまった時だろうか。
いや、二十二層のログハウスでもあったか、と和人は記憶を掘り起こす。
長い睫を閉じてすやすや眠るその顔の造形は本当に美しく、いつまで見ていても飽きない。
そういえば前にも同じことを思ったな、と和人は内心で苦笑する。
結局のところ、ずっと彼女への思いは自分の中で変わっていないのだ。
大好きな女性。その立ち位置が揺らぐことは無かった。
むしろ強くなっているのかもしれない。そんなことを思いつつ、寝息に合わせて小さく口元が開いては閉じてを繰り返すのを見ていると、不思議と衝動的に唇を重ねたくなる。
これが呪いの力か、などとふざけてみるが、一度沸き起こった衝動にどうも折り合いが付けられず、和人はせめて起こさぬようにと明日奈の額へ小さくキスをした……のだが。
同時にぱちりと明日奈の瞼が開いてしまい、和人は慌てだす。
明日奈は何も言わずに、ただ微笑んでいた。それが余計和人に「起きていたのか」という羞恥心を与えて、顔を紅くさせる。
「おはよう、キリト君」
「お、おはよう、アスナ」
あまり長くこうしていると和人がグレてしまうことを明日奈はわかっている。
彼は恥ずかしい感情などが一定以上を超えると途端に殻に閉じこもってしまうのだ。
それがわかっている明日奈はここら辺が潮時と声をかけた。
和人にしても、いつから起きていた、とは聞きにくく、まるで今の事を無かったことにするかのように返事をする。
朝にお互い顔を合わせて挨拶。二十二層の時には当たり前だった出来事。
それがとても懐かしく、嬉しい。
「さて……あ」
明日奈が右手を宙で振った。
当然何も起こらない。あまりの懐かしさに習慣が呼び起こされてしまったようだった。
和人は苦笑しながら、一人だけベッドを出て手早く着替える。
「俺、部屋出てるから」
その間に着替えなよ、と。
和人の言いたいことに気付いた明日奈だったが、少し迷って彼を引き留める。
「待ってキリト君、ちょっとシャワー借りてもいいかな」
「あ、そうか……うん、そうだな。それじゃ……そのシーツで体を覆ってくれないか? アスナがシャワー浴びている間に纏めて洗濯するよ」
「あ……うん。ごめん」
カア、と明日奈の頬に赤みが差す。
昨晩はその……いろいろと凄く、確かにシーツは洗濯の必要があった。
現実ではそういったところがシビアだな、と仮想世界との違いに改めて気づいたりする。
明日奈は言われるがまま、シーツを体に巻いてシャワーを借りにいった。
和人は自分の服などを洗濯機へと放り込み、最後に明日奈が置いていったシーツもぶち込む。
ちょっと多めだが、何とかなるだろうと思い、洗剤を入れて蓋をし、スイッチを押す。
「ふぅ」
洗濯機に背中を預けて軽く息を吐いた。
現実世界でも「そういう関係」になる行為をしたという実感が遅ればせながら和人の胸に広がっていく。
なんと表現していいのかわからない感覚。
しいて言うなら一つ大きくなったような気がする、というところか。
なんとなく大らかでいられるような気がする。
そんなことを和人が思っていた時だった。
「あれ? お兄ちゃんこんな朝から洗濯? 珍しいね」
「ああ、ちょっと……な……? え、スグ!?」
「? どうしたの?」
「あれ、お前合宿は?」
「行ってきたよー。ってそっか、帰る時間は言ってなかったっけ。今日の早朝には帰ってくる予定だったから」
な、なんだってー。
間抜けっぽい自分の声が脳内に響く。
というかそういうことはきちんと伝えておいて欲しかったと思う。
聞かなかった方も悪いのかもしれないが。
と、今はそんなことを思ったり言ったりしている場合ではない。
和人は高速で現状を打破するための方法を考え始めた……のだが。
一つ忘れていることがあった。
彼女、明日奈/アスナの二つ名は……閃光である。
光速ならぬ高速では、光を冠する閃光には敵わない。
「ねえキリト君、悪いんだけど………………………………」
バスタオルを体に巻いただけの明日奈は和人が何かをする前に登場してしまう。
直葉は、明日奈がこんな時間にこんな恰好で家にいることに驚き、兄である和人と明日奈を交互に見て最後に洗濯機を見つめ、顔を真っ赤にさせる。
なんとなく察してしまったようだ。
明日奈も予想外のことに固まってしまっている。
何故ここに直葉がいるのか、と。
彼女の記憶の中の直葉は確かに言ったのだ。
『私、次の土曜日は部活の合宿でいないんです。お母さんも校了が近いから家には帰ってこないだろうし。そうなるとお兄ちゃん、きっと面倒くさがって御飯を疎かにするから』
なのに何故、と思ったところで気付いた。部活の合宿で《土曜日》はいないと言われたが、《日曜日》もいないとは彼女は言っていない。
なんで気付かなかったのか。明日奈も和人と全く同じ気持ちになっていた。
和人と明日奈は顔を真っ赤にした直葉と三竦みのようになって動けない。
ただゴウンゴウンと洗濯機の音だけが鳴り響く。
この硬直は実に三十分ほど続き、三十分後、明日奈がくしゃみをするまで動き出すことは無かった。
動き出した後、二人はこれ以上のトラブルはごめんだ、と深く反省し《次》はもっと注意を払おうと各々心に固く誓うのだが、実はもう一つ、忘れていた事実、盲点があった。
二人がそれに気付けるのは、さらに一時間以上後のことである。
無人の和人の部屋で《いつも通り》PCの小さい駆動音とファンの音がする。
これはPCの起動中を意味していることに外ならない。
と、ディスプレイが勝手に発光し、画面上にテキストエディタが立ち上がる。
誰が打ち込んでいるわけでもない。ここは無人である。
だというのに、そのテキストエディタは一つの文面を勝手に自動で作り上げた。
【昨夜はお楽しみでしたね ユイ】
(ALO編終わり)