十月初旬。
今年の春、ALO内に現れた新生アインクラッドの追加アップデートが先月九月に行われたが、その内容はアスナの満足のいくものではなかった。
難易度にケチをつける気はない。むしろ当時よりも難易度は高めだろう。
フロアボスに至っては「倒させる気を感じられない」と思う程無茶振りなステータスだったりする。
さらに新生アインクラッドのフロアボスモンスターはHPゲージが見えない仕様が採用されている。
これにはさしものSAO生還者(サバイバー)も調子、ペースを崩された。
故に、ゲームの内容にアスナは一片たりとも不満はない。
現実の死、という本来ありえないほどのリスキーさが無ければ、既に仮想世界に魅せられた一人としてはむしろ望むところとさえ言える。
問題なのはゲームとしての仕様ではなく、新生アインクラッドの現在解放されている階層情報だった。
「……う~」
アスナは呻きながらALO内部に流通する情報詩を穴が開くほどに見つめる。
見出しには二十層まであと五層! と大きく書かれている。
五月に大規模アップデートによって現れた伝説の城、浮遊城アインクラッド。
たくさんの思い出が詰まるその場所が現れた時は、やはり嬉しさが大きかったのだが、問題が一つあった。
五月のアップデートでは一層から十層までしか解放されなかったのだ。
難易度が上がっているとは言え、かつてとは違いこれは純粋なゲームである。
加えて蘇生という概念があるALOでは、いずれ十層にまで上りつめるのは当然の事ではあった。
そこで運営は九月にさらなるアップデートとして上層を解放した。
十一層から二十層。
それが新規に解放された階層である。
アスナは知らず少しばかり肩を落とした。
何故、あと五層くらい頑張ってくれないのかと。
もうちょっと多めにアップデートしてくれても良いじゃないかと。
具体的に言って二十二層まではアップデートして欲しかった、という切なるアスナの願いは残念ながら運営には届かない。
アスナは可能ならすぐにでも思い出の《ログハウス》を購入したかった。
その為にキリトと二人、共同でユルドをそこそこ溜めてもいた。
ゲーム内のお財布を上手く管理し、少々武器や防具の衝動買いに走りたがるキリトの手綱をしっかりと掴んで目を光らせていた。
とうに目標額は超えているのでこれだけあれば恐らく購入は問題あるまい。
だが肝心の家のある階層まで行けなければその願いは叶うことは無い。
次のアップデートでは間違いなく行けるだろう。それはわかってはいるのだが、その時をただ待つだけ、というのがどうにももどかしかった。
「ねえキリト君……あ」
少々の不満、思いの丈を彼に聞いてもらおうと、アスナは静かにしていた影妖精族(スプリガン)のアバターを操るキリトに声をかけた。
しかし、すぐにその口は閉じてしまう。
アスナの視線の先では、目を閉じて大き目の揺り椅子に腰かけ、すやすやと眠るキリトの姿があった。
しょうがないなあ、と内心で思いつつアスナはキリトに近寄っていく。
瞳を閉じた彼の顔はあどけなさを残している。
アバターの姿だけはSAO生還者(サバイバー)の特権であるSAOからの引き継ぎを行わなかったキリト。
それでも中にいる彼が一つばかり年下だとわかっているせいか彼の行動一つ一つが幼く見えてしまうことがある。
かと思えば急に大人びた顔をしたりと、彼の表情は統一性に欠けミステリアスさで一杯だが、これも惚れた弱みというヤツだろうか。
アスナはそんな二面性のあるキリトが愛しくてたまらなかった。
つんつん、とキリトの頬をつつくと、キリトは「ううん」と小さく呻いてからまたすやすやと寝息を立てる。
アスナはその場でしゃがみ、膝を抱えて斜め下からキリトの顔を見上げるようにしてジッと見つめた。
仮想世界とは本来、眠ってしまうと強制自動ログアトが発生する。
これは安全機構の一つだが、いくつか例外も存在した。
それが、《ホームによる仮眠》である。
プレイヤーホーム内において、オプションで設定しておけば二時間までは睡眠をとってもシステム検知の対象外となることが出来る。
また、二時間以上の睡眠によって強制ログアウトになってしまっても、通常のログアウトとは異なリ《一時ログアウト》扱いとなる。
きちんと設定さえしておけばプレイヤーホーム内に限り、いわゆる寝落ちを防いでVRワールドとの接続はサスペンド状態を保てるのだ。
もっともそうまでしてホームで眠ることにこだわるプレイヤーがいるのかは疑問ではあるが、少なくともこの機能をキリトと、そしてアスナは重宝している。
都合が合えば、夜は一緒にここ、世界樹上空の《イグドラシルシティ》にある共同出資のレンタルプレイヤーホームで過ごしていた。
眠るときもあのログハウスでのようにユイを挟んで三人で眠る。
二時間、という時間の縛りは一方が眠ってしまってもしばらく相手の温もりを得られる利点がある。
そういった使い方をするユーザーが他にどれだけいるのか定かではないが、アスナとキリト、そしてユイにとっては既に無くてはならないものだった。
惜しむらくは目覚めた時には現実で自分一人、という点だろうか。
「良く寝てるね」
アスナはキリトの寝顔を見て小さく零す。
彼が今使っている揺り椅子は知人による贈り物だ。
クリスハイト、というALOでは新規のフレンドとの最初の狩りに出かけた時、追憶の洞窟なるダンジョンでクリスハイトがドロップしたアイテムだ。
彼はまだゲームを始めて間もなく、プレイヤーホームなどもちろんない。
そんな彼には家具系統のアイテムなど使い道が無かったので、お近づきの印にと贈られたものだ。
アスナは、このクリスハイトなる人物のことを完全には信じていない。
悪い人、と言うと些か誇張表現だが、底の見えない人ではある。
そう思う一番の理由は、彼がリアルの知り合いでもあるからだった。
クリスハイトの中の人、リアルユーザーは旧総務省SAO事件対策本部の役人だった。
今はSAO被害者が一応全員解放されたので一部の名残を残して対策本部は解体されたが、この役人はそのまま仮想世界における問題についての監視をする部署に配属された……と聞いている。
総務省総合通信基盤局高度通信網振興課第二別室、省内での名称は通信ネットワーク内仮想空間管理課、通称《仮想課》。
それが現在の彼の所属する部署と肩書きだ。クリスハイトは「VRMMOをプレイすることでキリト君たちともっと仲良くなりたい」などと殊勝なことを言っていたが、キリトは「情報集活動の一環だろう」と推測している。
そんなキリトに苦笑を零したアスナではあるが、同じように信じすぎて良い人ではないという予感がアスナの中にも燻っている。
例えるならそう、クリスハイトからは時折ヒースクリフに似た何かを感じるのだ。
とは言っても特段現在までに迷惑を被ったことがあるわけでもなく、さらに言えばSAO解放直後にキリトと引き合わせてくれた恩人でもあることから、今のところはその交友関係に無用な亀裂を作るつもりは無かった。
キリトも同じ考えだろう、とアスナはなんとなく予測している。
「でも本当……良く似ているなあ」
そのキリトが現在眠っている揺り椅子だが、既に彼は愛用の域に達している。
理由の一つには恐らく、この揺り椅子がかつての愛用物によく似ている、ということが挙げられるだろう。
その揺り椅子はデスゲームだった旧アインクラッド、その五十層主街区である《アルゲード》で営業していたエギルの店の二階にあったものとうり二つだった。
結婚祝いだ、と間借りしていた二階を出るときにエギルが二人にそれを譲り、以降二十二層のログハウスでもキリトはエギルの揺り椅子を愛用していた。
彼がこうやって眠ってしまった時は、誘われるようにアスナも彼の傍により、同じように甘い眠りを享受したものだ。
そしてそれは、今もそう変わらない。
この譲り受けた揺り椅子について唯一違う点はその大きさだ。
見た目はほぼ同じだが、少しばかり大きいこの揺り椅子は前よりも楽にキリトの横に滑り込むことが出来る。
アスナはかつてのように眠るキリトの横に滑り込んで、彼の肩に頭を預けた。
クラリ、クラリとゆっくり揺れる感覚が心地よい。
不思議なことに彼の眠る様を見ていると急激な眠気に襲われてしまう。
アスナは、キリトの等間隔に息を吐くシステム的な音を偽物の聴覚で捉えながら、うとうとしだしている意識を完全に放棄した。
経験からここまで来ると抗うことは非常に難しいことをアスナ知っていたので、どうせなら素直になるがままに任せよう、というのがアインクラッド時代からのスタイルである。
やがて、揺り椅子からの寝息は一つから二つになり、時折ギィと木造の椅子のしなる音だけが部屋に木霊する。
「……」
そんな二人を見つめる双眸が、ゆっくりと近づいた。
長い黒髪はしなやかな純和風をイメージさせるが、未成熟な体は彼女がまだ幼いことを示している。
と言ってもその彼女は人間ではないのでこれ以上の肉体的成長という概念は存在しない。
姿を変えることは可能だろうが、それは生物の成長とは異なるものだ。
アスナとキリトを親のように慕う彼女は今、ALO内における《ナビゲーション・ピクシー》としての姿ではなく、《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》として作られたかつての姿だ。
彼女はその特異性から姿を自由に変えられるが、ALO内でこの姿になることは実はあまり多くない。
精々三人で眠るときくらい、だろうか。
それ以外は基本ナビゲーション・ピクシーの姿でいるのが常だった。
だいたい、ピクシーの姿ではない本当の姿とも言えるこの姿をALOで見たのは、キリトとアスナの他にはあと一人くらいのものだ。
その彼女が今、珍しくかつての姿で眠っている二人に近寄った。
一メートルほど手前で止まると、ジッと二人を見つめた後にその綺麗な素足がフッと浮き上がる。
今の彼女にALOアバター特有の翅は無い。しかしいかな機能を使っているのか、僅かに彼女は浮いていた。
真っ白なワンピースのスカート部分はゆらゆらと揺れ、体は淡いブルーの光を放ち始める。
「……」
言葉は無い。
ただ、慈しむように二人を見つめるその瞳は、どこか哀しげだった。
深い、深い海の底から浮き上がるような感覚。
ぼやけていた感覚器が徐々に明細化していく。
目を覚ますとき特有の通過儀礼。
眠りが深ければ深いほどゆっくりと時間をかけて水上に浮上するかのように低速で意識が昇って行く。
「お目覚めかい?」
聞きなれた声がその速度を一気に引き上げる。
とてもとても大切な声。聞き間違えることなどありえない声。
この声で目覚めることが出来るのは、それだけで至福。
同時に少しばかりの落胆。
彼の声が聞こえると言うことは彼が先に目覚めてしまったということだ。
アスナは彼より少し先に起きて、彼が瞼を開く瞬間を眺めているのが好きだった。
残念ながら今日はその願いは叶わないらしい。
そんなことを思いながら、もうほとんど浮上している意識を覚醒へと導いていく。
急速に感覚器は正常に作動していき、しかしその感覚器から伝わる《感覚》から自分が未だ仮想世界にいることを理解する。
そもそも彼の声が聞こえたということはそういうことだろう、と覚めやらぬ頭に鞭打ってアスナは《ふかふかの原っぱ》に手を付いた。
「……あれ?」
そこで初めておかしい、と気付いた。
自分はALOのプレイヤーホームにある揺り椅子で眠っていたはずだ。
目覚めるならそこでなければおかしい。
しかし今自分の手が触れているのは紛れもなくフィールドの草である。
ホーム、ましてや《安全圏》であるはずの街の中ですらない。
これがベッドに、ということならば理解できる。
眠ってしまった自分をキリトがベッドまで運んでくれたのだと思える。
しかし街区圏外となると首を捻らざるを得ない。
──何だか頭の片隅がハッキリしない。もしかしたら夢を見ているのだろうか。
それともまだ覚醒しきっていないのか。
そんなことを朧げながら考えつつ視線は無意識に声のした方、キリトへと向けられる。
一際立派な樹の根元で、ダークグレーの革コートを纏い、やや大ぶりな片手剣を抱くようにしながら彼はアスナを見つめている。
「キリト……くん?」
また違和感。
彼の姿に間違いはない。間違いはないのだが、彼のアバターは現実のそれとほとんど変わらない……いや、少しばかり幼い姿をしている。
彼のALOでのアバターにはその特性の引き継ぎをしなかったはずだ。
それに、彼にしてはやや見た目の装備が貧弱だ。
これはそう……SAOがまだ第一層のフロアボスさえ攻略されていない頃の、初期の頃の彼の装備に良く似ている。
アスナがキリトの姿にそう混乱していると、キリトもまた、驚いたようにアスナを見つめた。
その目には些か猜疑心が宿っているように見えなくもない。
「……以前どこかでお会いしましたっけ?」
「……へ?」
何を言っているの? という言葉はすぐに出てこなかった。
何かのイタズラである可能性も考えなかった。
キリトがやる類のイタズラではない。
何より、彼の視線が本当に自分を知らないと告げているようだった。
だがそんなことはありえない。
ありえない、はずだ。
そこで気付く。なぜか自分は全身を覆うようにウールケープを羽織り、顔も隠していた。
もしかしたらこれのせいで気付いていないのかもしれない。そう思ったアスナは躊躇いなくフードを外してブラウンのロングヘアを偽物の外気へと晒した。
「私だよ」
「……えーと、ごめん。どちら様だっけ」
しかし期待むなしく、目前のキリトはまるで初対面だとでも言うかのようにアスナに応えた。
これには流石にアスナも胸の奥がズキンと痛む。
何か彼の気に障ることでもしてしまっただろうか、と真剣にアスナは考え始める程だった。
その時、丁度キリトは何かを思い出したように「あ、もしかして……!」と零す。
一瞬期待が胸をよぎるアスナだったが、「いや、そんなはずないか」とキリトは結局自己完結してしまい、アスナはガックリと項垂れる。
キリトはそんなアスナの落胆ぶりに戸惑いながらも「とりあえずこれだけは言わせてくれ」と改めて口を開いた。
「あんな無茶はもうしない方が良い」
「あんな、無茶?」
「ああ」
いまいちキリトの言っていることがわからない。
あんな無茶とは一体何のことだろうか。少なくともアスナには思い当たる節は無かった。
そもそも自分は無茶とは無縁の絶対安全圏であるプレイヤーホームで眠ってしまったはずなのだ。
だいたい自分が何故ここにいるのかすらわからない。というかそもそもここはどこだろうか。
アスナはキョロキョロと周りを見渡し、自身の中の記憶と一致する場所を脳内検索する。
これはすぐにヒットした。幸い知らない場所ではなかった。
比較的最近も来たことのある場所、アインクラッド第一層、迷宮区への入り口付近。
百メートルかそこらには天蓋まである迷宮区がそびえ立っているのが見える。
ALOにアインクラッドが実装されてからすぐに駆け抜けた場所だ。
しかし、現在位置がわかったところで疑問は解決されない。
「どうして私はここに……」
「……そうか、記憶が混乱してるのか。君は迷宮区で無茶な戦い方をして倒れたんだ」
「……はい?」
なんだそれは。
アスナの最後の記憶とは随分と食い違っている。
……だというのに記憶の微かな部分がチリチリと反応している。
既視感、というのだろうか。似たような会話、シチュエーション。
《覚えがある》という程度のものだが、どうにも霞がかったようにその全容を思い出せない。
「えっと、私が迷宮区で倒れたの?」
「そうだけど……」
「それでキリト君がここまで運んでくれた、と」
「…………」
「キリト君?」
「……一応、そういうことになる」
一瞬、彼の警戒するような顔が強まった。
アスナにはその意図がわからない。何か気に障る様なことを言ってしまっただろうか。
しかしすぐにより大きな疑問によってその考えは一旦流される。
キリトの態度は気になるが、アスナの中ではそれ以上に現状のことが気になっていた。
迷宮区で倒れた、というのはどういうことだろうか。
迷宮区に足を運んだ記憶はないし、そもそも第一層の迷宮区で自分が後れを取るとは思えなかった。
「何で私、倒れたの?」
「……無茶したからだろ」
「何で私達迷宮区に来たの? イグシティにいたよね?」
「……いぐしてぃ?」
キリトの不思議そうな顔に、アスナはそれ以上言葉を続けるのを止めた。
悪ふざけにしてはやはりおかしい。本当に彼は何も知らないと思うべきだ。
これらの情報を改めて頭の中で整理し、早々にアスナは解答を導きだした。
(うん、夢だこれ。間違いない)
そうとしか考えられない。
アスナにとって明晰夢はさほど珍しいものではない。
決して良い記憶ではないが、度々そういった夢をアスナは見ている。
ただこれまではそのシチュエーションが殆ど変わらなかったのに対し、今回は初めてのパターンだというだけのこと。
そう自分の中で折り合いを付ける。早めにこれが夢だと気付けるのは非常に稀だが経験が無いわけでもない。
よくよく思えば意識の片隅にも靄がかかったような感覚がまだ僅かにあり、アスナはより一層夢だと確信する。いや、《確信したかった》。
そんなアスナの僅かにほつれている思いの穴を、まるで狙っていたかのようにキリトは一つの提案を口にする。
それは、アスナにとって間違いなく《覚えのある》ものだった。
「……えっと、これから初めて第一層のフロアボス攻略会議が始まるんだ。あんたも迷宮区にまで来てるプレイヤーなら一応クリアを目差しているんだろう? それなら無茶な戦いをするよりとりあえず参加してみても良いんじゃないか?」
「……え」
初めての攻略会議。
その一言に強く記憶が刺激される。
アスナの中でSAO時代の古い記憶が呼び起こされる。
あれはまだ、SAOでの戦い方もろくに理解していない頃。
そのくせ全てを理解した気になって、見える景色がいつも曇天のように薄暗く、モノトーンに染まっていた時代。
SAO正式サービス開始、同時に理不尽なデスゲームが開始されてからおよそ一月ほどが経過した頃だ。
途端、ALOで雷撃の魔法でも受けたかのような衝撃がアスナの中を駆けめぐる。
これまでの夢に、《今がいつ》だという要素は殆ど無かった。
理解しようとしていなかったし、そんなことを《考えよう》と思わなかった。
夢なのだから当然かもしれない。では、その当然がたった今無くなった《これ》は何だ?
現実?
いや、そんな馬鹿な。
そんなことがあるわけがない。
SAOは終わったのだ。
本当に?
さっき何を思った?
何を考え考慮した?
何故夢だと思った?
────《これまでの全てが夢》で、《今が現実》じゃないという保証が何処にある?
迷宮区最寄りの街、トールバーナ。
直径およそ二百メートルの谷あいの街で、巨大な風車塔が立ち並んでいる。
【INNER AREA】
街に入った途端浮かぶシステムメッセージが圏内であるとプレイヤーに伝える。
その何もかもがアスナの記憶通りだった。
アスナはキリトの提案に従い、彼の後について来た。
正直何処をどう歩いてきたのかなんて覚えていない。
頭の中がぐちゃぐちゃで、訳が分からなかった。
そんな現実を信じたくない気持ちで一杯だった。
前にも同じようなことを考えた気がする。少なくとも初めてではない。
ならば杞憂だと思うことは簡単だが《今度こそ現実》だったら、と思うと怖くなる。
目の前にある背中が近くて何処か遠い、そんなことばかり考えていた。
「会議は四時からだ」
「……うん」
「……」
「……」
「……大丈夫か? 顔色が少し悪い気が、するんだけど。いや、SAOはフェイスエフェクトが過剰だから、さ。うん」
彼の心配するような声が、少しだけ嬉しい。
同時に、この上ないダメージとなる。
彼の知らない人間に対するような気遣いを自分が受けている、というのはどうにもアスナの心を乱れさせた。
「珍しいナ」
そんな時だ。
これまたアスナにとっては覚えのある相手が現れる。
この時点では面識などほぼ無かった……はずの相手だ。
全身を麻布で覆い、隙間から見える防具は革製のもので、小型のクローを装備し、腰には投げ針が見え隠れしている。
鼠のアルゴ。
アインクラッドの情報屋として凄腕のプレイヤーだ。
「アルゴか」
「キー坊もついにソロを卒業カ」
「残念ながらそういうわけじゃない。で、何のようだ? もしかしてまた例の件か?」
「……話して良いのカ?」
アルゴはちらりとアスナに視線を向けるが、キリトが「構わない」と頷くとアスナのことは気にせずにアルゴは話始めた。
既に何度目かになるキリトの所有するメインウェポンを買い取りたいという交渉話。
現在キリトの剣はクエスト報酬で手に入るアニールブレードを使用している。
現在の剣のプロパティはアニールブレード+6(3S3D)。
その話をぼんやりと聞きながら、アスナはこの当時は数字やアルファベットの意味がわからなかったな、などと思い出す。
《鋭さ(Sharpness)》《速さ(Quickness)》《正確さ(Accuracy)》《重さ(Heaviness)》《丈夫さ(Durability)》
その意味を知ったのはもう少し後だったはずだ。
……じゃあなんで今の自分はその知識がある?
「二万九千八百コルまで出すそうダ」
「ニーキュッパ、ときたか」
「応じるカ?」
「……いや。……その依頼人の口止め料は1kコルだっけ?」
「上乗せするのカ?」
1k。kとは千のこと。
そんな常識さえ、この頃は知らなかった筈だ。
では何故今その意味が理解出来る?
夢で見たにしても、知らない知識を先に得ているというのは些かおかしくはないだろうか。
いや、最初に熟読したSAOのマニュアルに説明があって記憶の片隅に引っかかっているという可能性もあるのだろうか。
アスナはぼんやりと内向的な思考の渦に巻き込まれていた。
そんなアスナを、一瞬現実に引き戻させる言葉がキリトから放たれる。
「いや、止めとくよ。何だか馬鹿らしいし。でもどっかの女性プレイヤーが俺のパーソナル情報をお買い求めになった時はその情報をくれ、相手の情報買うから」
「……え? えええええ?」
ぼんやりしていたアスナの思考がキリトの言葉で一瞬クリアになる。
彼の情報を女性プレイヤーが買ったらその情報を買う。
買ってどうするの!? という疑問は尽きない。尽きないが、
(私、何回キリト君の情報買ったっけ……!?)
過去の自分を顧みて、その回数や内容に唖然となる。
それらが全て筒抜けだったのかと思うと羞恥心は天元突破してしまう勢いだ。
どうしよう、と思っても後の祭りである。
アスナが頭を抱えて悩んでいると、アルゴとキリトが奇異なものでも見るような視線を送ってきた。
特にアルゴの目は「面白い情報を見つけたゾ」という怪しい輝きも混じっている。
しまった、と気付いた時には再び時既に遅し。アルゴと話せばその倍の情報は持って行かれるとは良く噂になったものだが、まさにその通りだった。
経験が無いわけでは無いのにうっかりしていた……と思ってから違和感。
経験がある?
そうだ、記憶の中にはこの情報屋アルゴとのたくさんのやり取りも残っている。
だとするとこれはやはり現実ではない?
これが現実なら彼女の事をアスナは殆ど知らない筈なのだ。
もしそうならキリトは実際に女性の情報を買う、などとは言っておらず、また買ってもいないのかもしれない。
僅かだが希望が見えてきた。
よし、と片手で小さくガッツポーズを作って顔を上げると、そこには既にアルゴはいなかった。
「あいつならもう行っちまったけど」
「あ、そうなんだ……」
何となく先の目つきが頭から離れないが今は気にしないことにする。
これが夢ならいくら気にした所で関係のないことだ。
……多分。
「さて、と」
キリトは《右手》を振ってシステムメニューを呼び出した。
それを見てハッとする。念のためアスナも同じように右手を振ると、問題なくシステムウインドウはアスナの目前に呼び出された。
それでここは、SAOなのだと実感する。例え、夢の中の世界だろうと《設定》はSAOなのだと。
アスナは開いたウインドウから所持アイテムやステータスを確認した。
当時の自分はこんなものだったかな、と既に霞の向こうにある自分のステータスを思いつつ、装備武器である《レイピア》とその在庫に苦笑した。
そうだ、当時はレイピアを五本持って迷宮に篭もったりなどという無茶をしたものだ。
そこで思いだした。
キリトの言う無茶とはそのことだったのだと。
言うなればこれは彼とのファーストコンタクト。
それを思い出すかのように明晰夢として見ているかもしれない。
「アンタも食べるか?」
キリトの誘うような声に振り向くと、懐かしいクリームの瓶がそこにはあった。
あれは記憶にある。
あれのおかげで久しぶりにまともなものを食べた、と思えたものだ。
彼には断った手前内緒にしていたが、実はあの後こっそりクリーム欲しさにクエストをやりに行ったりもしたのだ。
「《逆襲の雌牛》……」
「なんだ、知ってるのか」
「……まあ、一応は」
キリト君が教えてくれたんだけど、とは喉まででかかったが止めた。
同時に今の会話でこれは九割九分九厘夢だと確信した。
自分がこのクエストを知ったのは彼に教えてもらったからだ。
でなければ知り得ない情報。それを知っていて尚かつ情報が正しいということは、かつて本当に彼に教えて貰ったという事に外ならない。
その自信をアスナは強めた。
アスナは目覚めてから初めてようやくホッと息を吐き、彼が座ったベンチの隣に腰掛けて自分も価格一コルという格安のパンを取り出した。
キリトが置いたクリームを「もらうね」と一声かけて付けさせて貰う。
それで使用回数を終えたクリームの瓶は星くずのようなライトエフェクトを散らして消えていき、アスナのパンにはべったりと美味しそうなクリームが塗りたくられた。
迷うことなくそのパンを一口含むと、堅くてお世辞にも美味しいとは思えなかったあのパンが柔らかく甘いパンへと変貌しているのがわかった。
初期の頃は主食にさえしていたこの懐かしい味に少しだけ感動する。
いつの間にか食べなくなっていたこの味。しかし一度食べるとつい食事が捗ってしまう味だ。
当時、美味しいモノを食べに来たわけじゃない、と意地を張った自分が酷く馬鹿らしい。
あっという間にパンを平らげてしまい、空を掴む手を見つめる。
それは間違いなく自分の手であり、同時に間違いなく本物ではない。
仮想世界の構成物は全てデータによる再構成によってできた紛い物だ。
いや、紛い物と言うには今回は少し語弊がある。
これは現実ですらない自らの脳内世界。故にこれは現実ではないが偽物でもない。
────そう、これは非現実であっても偽物ではない。
この夢は、本当にあったことの再現だ。
記憶の片隅でちかちかと明滅するように既視感がちらついている。
それを証明するかのように、彼について行った広場での攻略会議の流れはキバオウのことも含めて知っているものだった。
今は亡きディアベルによる召集。もし彼が第一層で失われなければその後の攻略はどうなっていたであろうか。
なんとなくそんなことを考える。
彼が死ななければそのカリスマ性によって攻略組でも中枢を担うギルドを立ち上げていたかもしれない。
何より、キリトが《ビーター》になることも無かったかもしれない。
いつ覚めるかもわからない夢の中でいくら言おうと詮無いことだが、考え出すと吹き出す水のように止まらなくなる。
だから、気が付かなかった。
「あのさ」
「うん」
「いつまでついて来るんだ?」
「うん……え?」
会議が終わった後、アスナは知らずにキリトの背中を追いかけていた。
そこに考えがあったわけではない。無意識の産物だった。
考え事に集中しすぎて、勝手に自然な、慣れた行動をとってしまったのだ。
キリトの少し困ったような顔にアスナは現状を思い出す。
本来ならこの後はお互いそれぞれの宿に戻るのが常だ。
最近はいつも一緒だから《別々の宿》という思考が無かった。
そういえば昔はそうだったな、と思い出したようにアスナは内心で納得する。
昔はそれが当たり前だったし、彼はとことん図太く、また鈍感だった。
……あれ?
フッと《何か》が頭をよぎる。
なんだかとても《大切なこと》のような気がした。
一瞬思考に引っかかったそれ。それは、ここで《気付かねばならない何か》ではないかと予感が奔る。
いや、もしかしたら今自分は《それに気付くために》この夢を見ているのではないだろうか。
「おーい?」
「あ……」
またもキリトの訝しむ声に考えを霧散させる。
とりあえず今は宿のことを考えねばならない。
夢の中で寝床を考えるというのはなんとも馬鹿らしいが、まだ夢が続くなら必要なことではある。
とは言ってもアスナは第一層に関してのみ宿屋事情には詳しくなかった。
知らない、と言い換えてもいい。
アスナはキリトに教えてもらうまで《INN》と表示のある宿屋にしか顔を出さず、その宿屋の部屋はどこも彼女の満足のいくものではなかった。
第二層からはキリトに言われた通り《INN》と看板がついている所以外の上宿を探すようになったのだが……とそこで思い出した。
確か彼にそのことを教わったのは丁度今時期である。
この勘と記憶、そして夢の再現率が正しいのなら今の彼の宿泊先は《あそこ》のはずだ。
「キリト君はどこに泊まってるの?」
「俺は農家の二階をまるまる借りてるよ。結構広いし二部屋あってミルク飲み放題のおまけつき。ベッドもデカイし眺めもいいし風呂までついてるんだぜ」
フフン、と自慢げに鼻を高くする彼に、再び頭の片隅を針で突かれるかのような《何か》を感じる。
まるで《気付け》と心が警鐘を鳴らしているような気がしてならない。
だが今はそれよりも記憶の正しさによる喜びが勝った。
そう、彼の今借りている部屋は《広くて風呂付き》なのである。
「ねえ」
「なんだ?」
「良かったらそこに私を泊めてくれない?」
「……えっ」
キリトはかなり驚いたような顔をし、次いで訝しむようにアスナを見つめた。
そこで気付く。アスナにとっては何でもないことのような提案だが、《今のキリト》にとってはそうでもないだろう。
彼にとって自分はまだほとんど知らない女性プレイヤーでしかないはずだ。
夢の再現率が高いなら、断られてもおかしくない。
これまでのお誘い断られ率や逃亡率を頭の中でざっと計算するとその可能性は著しく高いことが予想された。
というか最初はよくよく断られていたなあ、という過去を思い出して少し暗くなる。
避けられているのかも、と仮想の枕を濡らした日も──実際には濡れないが──両手の指では足りないだろう。
彼の探るような視線に、アスナは胸の奥がズキズキと痛む。
彼はこの世でもっとも信頼している人だと言ってもいい。その人にこうも疑いの視線を向けられることは夢の中と言えど悲しかった。
これ以上その目を向けられるのは辛い。そう思ったアスナは早々に切り上げることにした。
宿など適当に探せばいい。どうせ夢なのだ。それこそまた迷宮区の安全地帯で休んでしまおうか。
アスナはそう心を決めた。だから、
「わかった、良いよ」
「……えっ?」
続くキリトの言葉には、驚かされた。
霞の中に埋もれつつある記憶群の中に、徐々に迷彩を取り戻すように景色が浮かび上がっていく。
案内されたそこは、あっという間に色彩ある記憶の中そのままの場所だった。
トールバーナの東の牧草地沿いにある農家の大きな家。
敷地の脇には小川が流れ、水車がごとんごとんと音を鳴らして回っている。
かなり大きめの母屋で、厩舎と合わせれば現実世界のアスナの家とそう変わらない大きさだった。
家に入るとにっこり笑って出迎えてくれるNPCのおかみさんにアスナは軽く会釈しつつキリトに続いて階段を上る。
突きあたりに一つしかない扉をキリトが開錠して開け、「どうぞ」と促されてアスナは懐かしい部屋に踏み込んだ。
「適当に座っててくれ」と言われ、アスナは大き目のソファセットの一つにゆっくりと腰掛けつつ辺りを見回した。
あの時はまじまじと見る心の余裕が無かったが、改めて見ると良い部屋だと実感する。
およそ二十畳程度。東にある寝室も似たような広さのはずだ。
そして極めつけはやっぱり何と言っても【Bathroom】のプレートが下がったドア。
恐らくは第一層の宿のなかで一、二を争う上宿ではないだろうか。
アスナがそんなことを考えているうちに、コトンと目の前にミルクの入ったグラスがテーブルに置かれる。
対面のソファにキリトも腰掛け、彼は少しだけ言い難そうな顔をした。
一度ごくり、と喉を鳴らしてから意を決したように口を開く。
「えっとさ、君に聞きたいことがあるんだけど」
「なあに?」
「……なんで俺の名前、知ってたのかな」
「……!?」
ドクン、と心臓が跳ねる。
果たして今のは仮想のものか、それとも現実のものかと考える暇は今の彼女にはない。
そういえば、彼の名前を知ったのは第一層攻略時だったと今更ながらにアスナは思い出す。
彼の疑問はもっともだ。よくよく考えれば今の自分たちはお互いの名前さえ知らないはずなのだ。
「……えっと」
「アスナ、私の名前」
「アスナ、さん?」
「さんはいらないよ」
「じゃあ、えっとアス、ナ」
「うん」
「なんで、なのかは言えない、かな」
「……」
言っても良い。
言ってしまっても構わない。
それによって何が変わるわけでもない。
でも。言ったことによって彼に「大丈夫だろうかこの人」といったような目で見られるのは嫌だった。
「私は今夢を見てて、この先のことも全部わかってるんです」と言ったところで「ああそうだったんですか」となるわけもない。
十中八九奇異な目で見られるだろう。
例え夢の中でも、彼にこれ以上そういう目で見られるのは避けたかった。
だから、せめて誠意は見せないと。
夢の中でも、夢として割り切って彼相手にアスナは好き勝手なことはしたくなかった。
「言えない、か」
「……」
アスナは再びの問いかけに時間がかかりながらもコクンと頷いた。
キリトの顔は複雑そうだ。当然だとは思う。
なので早速誠意を見せることにする。
「私、キリト君のことを騙そうとか思っている訳じゃない」
「……」
「信じられなかったら私のアイテムストレージの中身をコルも含めて全部渡してもいいよ」
「!? い、いやそこまでしなくても……」
アイテムをコルも含めて全て渡す、というのはSAOでは自殺行為に等しい。
そこまでやる人間はそうはいないだろう。
流石にこれにはキリトも慌てて、首をぶんぶんと振る。
そんなことまではしなくていい、と。
そこでキリトは「あ!」と思い出したようにウインドウを開いてスクロールし、一つの武器をオブジェクト化させた。
「レイピアを何本も持つより、一、二本は予備にして一つ強いメインウェポンを持った方がいい。丁度ドロップした新品の良い細剣があるから、譲るよ」
「……これは」
アスナの目が、キリトがオブジェクト化した剣に釘づけになる。
その剣は、アスナがSAOでの相棒だと決めていた剣だった。
最後の最後まで、その《魂》は共にあったと言える。
アスナにとって人として相棒がキリトなら、物としての相棒はそれだと言っても良い。
「《ウインドフルーレ》。結構軽いことが特徴の細剣(レイピア)だよ。あとで強化しに行こう。四回くらいまでならほぼ間違いなく強化できると思う」
「……ありがとう」
アスナは差し出された剣を受け取ってギュッと抱きしめる。
キリトは意外な行動に慌てているようだが、今だけはそんなキリトの事を考えず腕の中の剣に意識を集中した。
既に、失われてしまった剣。
いつも一緒だった最高のパートナー。
これがあったから最後まで戦い抜けた。
今なら、そう言い切れる。
しばらくアスナは剣を抱きしめていたが、やがてアイテムストレージに収納する。
アスナが顔を上げると、キリトは既にからっぽのグラスをごくごく飲むふりをしていた。
ぷっ、と吹き出してしまう。そういえば、彼はそんなユーモラスなところがあった。
緊張に押しつぶされるとおかしくなったり逃げたりするのだ。
以前「対人熟練度は激低なんだ」と言われて笑ってしまったほどだった。
アスナの腰には、懐かしいウインドフルーレの四段階強化バージョンがあった。
ウインドフルーレ+4(3A1D)。
《正確さ(Accuracy)》を三段階、《丈夫さ(Durability)》を一段階強化している。
クリティカル率にそこそこのボーナスがつく強化値だった。
あの後、気まずい時間を僅かに過ごし、空気を変えるためにアスナは再びお風呂を借りた。
しかしウインドフルーレの嬉しさの余りうっかり忘れていたことがあった。
アルゴの訪問である。アスナは再び入浴中にアルゴに風呂場に侵入されるという珍事件に巻き込まれてしまった。
今も耳に残る「わあア!?」という声とキリトの目を丸くした顔。
ただ以前とは違って《そういう関係》になっていたせいか、彼に対しては前ほどの羞恥心ではなかった。
と冷静に自己分析したところでリアルでの初体験のことを思いだしてしまった。
まさか彼の妹と事後に鉢合わせるとは思っていなかった。
それだけならばまだいい。いやよくはないが、まだ立ち直れた。
しかし二人で彼の部屋に戻った時に立ち上がっているディスプレイを見た時には本当に動けなくなったものだ。
彼を責める気にはならなかった。どういう状況になっているかは前もって聞いていたことがあったし、それは娘の為だったのだから。
彼のPCが起動中はユイも自由なのだ。部屋にあるカメラで彼の部屋を見たり、PC備え付けの集音マイクから部屋の音や声を聴ける。
だから彼が部屋で彼女に呼びかければいつでもユイは返事ができるようになっていた。
カメラ作動中はモニターがスリープ状態から切り替わるが、集音マイクオンリーの場合は一定時間後スリープになっても稼働し続けている。
あの日は、《空気を読む》という自己学習を既に会得してしまっているユイが息を殺して音だけ聞いていたというなんとも恥ずかしい結果になってしまった。
あの日以降、《次》にやるときは《ホテル》に行くことになった。
もっともホテルに入るには場所によって少々勇気が必要だったり学生の身では高かったりと問題はあったのだが……閑話休題。
キリトは隣をやや距離を空けて歩く。
そこまで離れなくても良いのだが、と思って近づくと彼はまた同じように距離を取る。
当時の自分ならそれぐらい離れている方がきっと良かったのだろうが、今となってはその距離は遠く感じてしまう。
手を繋いで歩ける距離。それが今のお互いの距離のはずなのだ。
そう思うと、少しだけ切なくなる。手を伸ばして彼に触れようとしてみるが、気付いているのかいないのか、彼の速度はまた少し上がって手は空を切ってしまった。
彼の部屋に戻ってくると、キリトはアスナにベッドを勧めた。
自身はソファで寝るからと言われ、やはり距離感を感じてしまう。
「ベッド大きいし、一緒に寝ても良いよ」
それによって思わずした提案は、キリトを固まらせ「ちょっと出かけてくる」と彼の部屋からの逃亡を許す結果になってしまった。
ズダダダ! と凄い勢いでいなくなる彼の速度は第一層ではちょっと考えられないAGI(敏捷力)だったが、深くは考えないことにする。
深く考えると余計なことを考え過ぎて暗くなりそうだからだ。
アスナは苦笑してソファに座り、彼の帰りを待つことにした。
もう良い時間のはずだが眠気はこない。夢の中なのだからそれは当然なのかもしれないが、夢の中で何もすることがないというのも暇なものだ。
なので目を閉じてゆっくりと思考の海に埋没する。
今できることといえばそれぐらいしかない。
今自分が見ている夢の意味。それを考えてみる。
必ず、とは言い切れないが、何か意味があるような気がしてならないのだ。
先ほどから時々チクチクと記憶の片隅を突くように訴えられているような気もする。
もう少し、もう少しでそれが何なのか掴めそうな気がする。
……キィ。
そうしているうちにキリトが戻ってくる。
それを気配で感じつつも、アスナは目を開けなかった。
キリトの戸惑う気配が伝わってくる。
こんな時、彼がどうするのかアスナは知り尽くしていた。
スッと力強い腕に抱きあげられる浮遊感。
案の定、キリトはアスナを抱き上げベッドに連れて行った。
目を閉じているだけのアスナはそれを感覚だけで理解する。
夢の中でも、初期の頃でも、やっぱりキリト君はキリト君だと思う。
キリトはアスナを優しくベッドに寝かせると、寝室を出て行った。
ここまで全て予想通り。しいて言えば願望はここでそのまま彼も眠って欲しかった、ということくらい。
閉じられた戸をアスナはジッと見つめる。
あの戸の向こう、先ほど自分が座っていたソファに恐らくキリトは身を横たえて眠るのだろう。
夢の中の住人である彼が眠れるのかは知らないが、その姿を想像すると無性に可愛らしく思えてきた。
本当なら近くにいって観察したいが、今の彼は恐らく自分がここから出たら気付いてしまうだろう。
それはいけない。夢といえどこれ以上彼に迷惑をかけるような真似はしたくない。
だからアスナはぱっちりと開いた瞳で戸を凝視し続ける。
そこに彼がいると想像しながら。
眠気は、まだ来ない。