あの後、「すいません無茶言って」と照れたようにまた何度も頭を下げたクラインと別れたアスナは、思うところがあって転移ゲートには向かわずまだその階層を歩いていた。
と、探していた看板をすぐに見つけ、駆け寄っていく。《INN》と書かれた看板は、アスナに「ここだ」と確信させた。
《INN》の看板の示す店……宿屋自体には入らず、裏に回ってみると小さい樹があり、そこに……まだ新しい花束が置いてあった。
この世界でのオブジェクトには耐久値が存在する。武器や防具に留まらず、破壊不能オブジェクトを除いて等しくそれは存在し、食べ物や小物は圏内だろうと耐久値が減っていく。
この花束にも耐久値が存在するのは見て明らかだった。しかしその耐久値はまださほど減っていない。と言ってももともとがそんなに長く持つものではないので、放っておけば二、三日後には人知れずポリゴン片になって消えてしまっているだろうが。
「この階層の宿屋が少なくて助かったわ」
アスナはそう呟くと、少し迷ってから目の前の樹に手を合わせた。そこにはお骨も遺品もないだろう。
それでも、そこを墓と思う人には確かに墓なのだ。その気持ちはよくわかる。ギルド《血盟騎士団》にも、ボス攻略等で亡くなった団員のお墓があり、アスナは時折手を合わせていた。
このゲームで人が死ぬと、たいていの場合死んだ人の物は何も残らない。それがわかっているからこそ、このデスゲームにおいて犠牲者、死人を出してしまうのは最大の禁忌、タブーだ。
死んでしまっては何にもならない。それが一部を除いたプレイヤーの共通認識で、死ぬよりは無様でも逃げろ、が信条とされている。
転移結晶と呼ばれるアイテムは高価でレアだが、命には代えられない。危険を感じたらすぐに使うのはもはやセオリーでもあると言えた。
人によってはHPバーが黄色ゾーンに突入したら構わず転移結晶を使うほどの安全マージンを取るプレイヤーさえいる。しかしそれを誰もが臆病者とは蔑まない。
生きていれば、いずれチャンスは来る。このゲームは確かに、茅場晶彦の言う通りゲームであっても遊びではないのだから。
「さて……《覗き見》スキル」
アスナは手を振りシステムメニューを展開させて、スキルを発動させた。耳にはすでに《盗賊のピアス》が装備されている。
なぜ今このスキルを使ったかと言えば、この《盗賊のピアス》による《覗き見》と呼ばれるスキルにはとんでもない付加効果がついていたからだ。
当初、これは盗賊の力が得られる、ということで透視能力や聞き耳能力のパラメータ、スキルの底上げがなされる装備品、だと思っていたのだが、それ以上のとんでもない機能が隠されていた。
「このスキル、本当は内部分裂や犯罪抑止のためのものなんでしょうね」
アスナはそう呟きながらメニューウインドウの必要項目をタップしていく。普通、このSAOではスキルを使用する上でタップや口語を求められる物は多くない。
そのスキルにもよるが、基本は肉体自身の強化、補助、オートシステムによるアシストが主だからだ。料理や鍛冶スキルにはいくつか求められるものもあるにはあるが、こうまで複雑ではあるまい。
そもそも、アスナがこのトンデモ機能に気づいたのも半ば偶然ではあったのだ。
「まさか過去にあったことまで覗き見できるなんて……」
それはすでに覗き見としての言葉……能力を超えている気もするが、確かに過去の出来事の再生は可能のようだった。
ようだった、というのは実際に使ってみるのはこれが初めてだからだ。機能には気付いていてもこれまで実際に使う気にはなれなかった。
だがクラインと話し終わったアスナは、キリトの軌跡を辿ってみることにした。
普段なら、そしてこの機能にも気付いた時も、犯罪の証拠を上げる以外では絶対に使わないようにしなくては、と心に決めていたのだが、アスナは今それを使うことを決めたのだ。
クラインに頼まれたから、だけではない。自身が彼を知って、彼を支えてあげたいという思いが、アスナに決心させた。たとえこの行為で彼に嫌われることになっても。
キリトには理解者が必要だ。その理解者はきっと彼の背負っているものを知らなくてはならない。たとえその理解者に自分がなれなくてもいい。彼の理解者を作ってあげられるなら、それでいい。
その為なら、憎まれ役でもあえてなろう。かつて彼がそうしたように。
恐らく、最初に彼に踏み込む役……今回で言うならアスナ自身は割を食う可能性は高い。けれども、誰かがやらなくてはいけないのだ。
何も知らないくせに何を勝手な、と罵られるかもしれない。誰に断って、と蔑まれるかもしれない。これはそれほどの罪にもなる行為だ。
「それでも、私はやるよ。ごめんねキリト君……」
彼に嫌われる覚悟までして、彼の軌跡を《覗き見》する。ゆっくりと、ぼやけた影……ホログラムが像を結び、半透明なキリトが目前に浮かび上がった。
メニューにある縮尺を変えて、上から箱庭を見るかのように彼の当時の生活を垣間見る。彼はこの宿屋の部屋で横になっていた。
「多分、これでいいはず」
アスナはそうして、半透明なホログラムが勝手に動くに任せ、過去のキリトを見つめ続けた。
やや成り行きを見守っていると、キリトの寝室に入ってくるプレイヤーが一人。
キリトと同じく黒髪の、少女だった。
「サチ、また来たのか」
「……うん」
息が止まる。同時に「やっぱり」という感情が胸に灯る。クラインの話を聞いてから、アスナは「サチ」というのは恐らく、その全滅したギルドメンバーの一人だったんだろうと当たりを付けていた。
しかし、いざこうして現実を突きつけられると、胸がざわめく。トクトクとそこに無いはずの心臓が早音を打つ。
そしてそれは、次の瞬間ピークに達した。
「え……な、なぁ……っ!」
口から零れるのは驚愕と、信じたくないという心の声。アスナの目の前で動く、過去を映した半透明なホログラムはアスナにとってそれほどの衝撃的な映像を見せた。
あるいは、これはやはり大罪と言って差し支えないこの《覗き見》行為に対する罰なのかもしれない。
アスナにとっては、もっとも見たくないものの一つを、まざまざと見せつけられることになったのだから。
そこには、ベッドに入るキリトと……同じベッドに入り込むサチの姿が映っている。
「……っ!」
彼に嫌われる覚悟はしていたつもりでも、彼の女性関係を傍から見てしまう覚悟など、アスナはしていなかった。内側から込み上げてくる奔流を、止められそうにない。
涙腺、などと言うものは無いはずのアバターの瞳から、僅かにそれ……涙が零れる。もう何度目かの、アバターの過剰演出への悪態が即座に内心で組みあがるがそれよりも。
予想していたはずなのに、突きつけられた現実が辛い。
二人は特に何を話すわけでもない。ただ、お互いにベッドの端で横になっていているだけだ。不自然に空いた真ん中のスペースが、これから埋まっていくのだろうか。
そう思うとアスナはこれ以上その映像を見ていられなかった。知りたいのは彼がどんな経験をして……ギルドが全滅したのかであり、彼の女性関係ではない。
無理矢理に思考を切り替えて映像を切り替え、早送りする。初めて使う機能なだけあって、どうすればいいのか四苦八苦したが、どうやら上手いことリーダーらしき男性抜きでの迷宮区へ出発する映像を見つけ出すことに成功した。
しかし、アスナはぼうっとそれを見つめながらも、一瞬自分の目的すら忘れて、思考は別なこことで埋め尽くされていた。
(二人は、もしかして恋人だったのかな……じゃあキリト君は……もう……)
胸がギュウギュウと締め付けられる錯覚。形のない痛みに耐えられず、胸元で作った拳をより一層ギュッと握った時、ホログラムで動くギルドメンバーの一人、恐らくシーフである少年が宝箱に食いつく。
キリトはそれを止めた。しかし、皆は疑問符を浮かべるだけだった。彼らしくもない理路整然としない止め方だったのもその一因だろう。
だが、次の瞬間、それは起こった。
シーフが宝箱を空けてすぐ、けたたましいアラームが鳴り響き、モンスターが続々と押し寄せてくる。
アスナの目からみても、これは無理だと思った。意識を映像に集中させていなかったとはいえ、ちゃんと現状は把握している。彼らの戦力も然りだ。
アスナの血盟騎士団で培ったその目で見る限り、彼らの手に負える相手、トラップではない。当時、ここが最前線近くであったことも起因しているのだろう。
これを単独突破できるのは恐らく攻略組くらいのものだ。そう、嫌なほど冷静な自分が頭の片隅で分析をする。さっさと転移結晶を使った方がいい、と。
ホログラムのキリトも同様だったようで、皆にすぐそうやって指示していた。しかし、そこで予想外のことが起こる。
なんとそこは転移不可能エリア……結晶無効化空間だったのだ。これには見ていたアスナも息をのんだ。同時に理解する。ああ、だからなのか……と。
そこからは、見るに絶えなかった。みな善戦むなしく、ポリゴンの欠片となってライトエフェクトを弾けさせ、迷宮の闇へと消える。
唯一キリトは敵を屠っていたが、一人が奮闘したところで数の暴力、暴風には抗えなかったようだ。一人、また一人、消えていく。
あと残っているのはサチとキリトの二人のみ。だが、当然と言うべきか、サチはそのモンスターを捌ききれない。
それに気づいたキリトは必死に手を伸ばすが……その時、サチを背後から襲った攻撃が、彼女のHPバーを1ドットも残すことなく奪い去った。
最後、キリトの伸ばした手に掴まろうと飛び込み、宙に浮いたまま彼女は、
「……ありがとう、さよなら」
「───────!」
そう言い残して、ポリゴンの光となって消えた。思わず耳を塞ぎたくなるような、声にならないキリトの声が上がる。
だが、アスナはギリギリでその手を耳にあてるのを我慢した。彼を知るためにこれを見たのだ。
ならば自分は余すことなく彼を見届ける義務がある。彼の慟哭を、聞き届ける義務が。
彼の、激しい慟哭は鳴りやむことはなく、けたたましく鳴り響く宝箱を壊せば止まるアラームを無視してひたすらに寄ってくるモンスターを彼は切り裂いていた。
やがて、湧出(ポップ)しつくしたのか、モンスターが途切れ、そこでキリトは宝箱を真っ二つにして蹴り飛ばした。二つに割れた宝箱はすぐにポリゴンの破片となって消え、場に静寂が訪れる。
その場にやや立ち尽くしたキリトは、あたりを見回し、何もないことを改めて確認して、肩を震わせていた。ようやくと歩き出した彼の足取りは重く、フラフラと倒れそうだった。
そんな、憔悴しきった彼に待っていたのは、
「ビーターのお前が、僕たちに関わる資格なんてなかったんだ」
彼への、最大級の侮蔑だった。ケイタという《月夜の黒猫団》のリーダーは、キリトにそう吐き捨てるとスタスタと外周へ向かいだす。
ケイタの言葉に、何も言えず固まっていたキリトは、しかし「あぁ!?」と声を上げた。視線の先では、ケイタが外周から飛び降りたのだ。
すでに何人かが試しているが、一定距離アインクラッドから離れると……この場合たいていは外周から落ちることを意味するのだが、一定ラインを超えたところで、HPバー全損と同義扱いにされる。
つまりゲームからも現実世界からもログアウトというわけだ。早い話が、自殺になる。
「~~~~~~~っ!!!!!!!!!!」
また、キリトの声にならない慟哭が上がる。手を伸ばしても僅かにケイタには届かず、彼の視線の先でケイタは雲間に消えていった。間違いなく、死んだだろう。
彼の慟哭が胸に響く。哀しみが我がことのように渦巻いては胸中で吹き荒れる。なんて、なんて経験をしているのだろう。
「これが……これがキリト君の過去……なんて、なんて……!」
耳に残る彼の叫びが、頭から離れない。張り裂けんばかりの、ただ音としてしか機能していないその声に、彼の感情はオーバーフロー……吹きこぼれ爆発しているのが嫌でもわかる。
ここまでの経験をして、いやここまでの経験をしたからこそ、彼は他人を遠ざけるのだろう。同じ道を歩まぬように。
頼る者を、頼ってしまった相手を失わぬように。だがそれは辛く険しい。彼は果たして……一人で平気だったのか?
そんなわけがない、とアスナは瞬時に答えを出す。こんな時こそ、他の誰かの温もりが欲しいはずなのに。
なのに彼は一人で歩んで。誰かに頼ることなく、これまでひたすらに前線でソロプレイをし続けて。まるで罪を償うにはそれしかないと言わんばかりに。
だから、誰かが言ってあげなくてはならない。貴方はすでに十分すぎる償いをしていると。そもそも、それは貴方が一人で被るような罪ではないと。
そしてそれは、今すべてを知った自分の役目だ。クラインにキリトを一人にしないでやってくれ、と頼まれたからではない。
自分がそうしたいと思ったから、彼の傍にいて、彼を支えたいと思うから。例え、それが彼に届かなくても、自分だけは彼を赦す存在になってあげたい。
彼にとって、自分がただの同じSAOプレイヤーでしかなかったとしても、恐らくは並々ならぬ関係であっただろうあのサチという少女を忘れられないままでいたとしても、その気持ちは変わらない。
「……友達、親友としてでも、それでも、私……彼の支えになりたい!」
それが、全てを知った上での、アスナの決意だった。
音を立てずに役目を終えたホログラムは消える。それには構わずアスナは駆け出した。
やるべきことは一杯ある。だがとりあえず、今は一刻も早く彼の顔を見たかった。足は自然加速しながら転移ゲートへと向かう。
その耳には、未だ外していない装備《盗賊のピアス》がついている。金色に輝く輪の光が──やや鈍る。
この、一見とんでもない装備アイテムは、アスナの当初の予想以上に凄い機能を備えていた。今はそのおかげでアスナもキリトの過去を垣間見れた。
しかし、こういった良いアイテムには必ず落とし穴がある。アスナは、まだそれに気づけていなかった。
それがわかるのは、まだもう少し先の事である。
「あ、キリト君!」
「アスナ? 最近本当によく会うな、待ってたのか?」
あれから、アスナは三日と空けずにキリトに会いに行くようになった。無理矢理時間を作ってはキリトを誘い、迷宮に挑み、時に素材集めをしに低層のクエストをこなしたりと……世界そのものを楽しむかのように……楽しめるように。
それは攻略だけを第一に考えていた以前のアスナからは考えられない行動で、血盟騎士団内のアスナを心酔している者たちからはそれはもう訝しがられた。
だがその程度で揺れるほど、アスナの決意は軽い物ではなかった。周りにどう思われようと構わない。ただそうしたいと思ったから行動する。
くしくもそれは、「自分がなんとかしなくては」と思い立って始まりの街を出た時の決意にも似ていた。今日もアスナはキリトが帰ってくるであろう時間帯を予想して迷宮の出口で壁を背にし、とんとんと靴の爪先で地面を蹴りながら待っていた。
本当は一緒に行きたかったが、血盟騎士団の副団長ともなれば自分勝手が許されない場面はある。そんな時のためにアスナは、彼の行動をシミュレートし、これまでのおおよそのルーチンワークも聞き出して、だいたいの彼の行動範囲や行動時間に検討を付けるようにしていた。
一緒に迷宮にいけないならば彼が帰ってくる頃合いに顔を合わせる。それだけこれまでよりもグッと距離が縮まるような気がした。
そしてそれが続けば、いかな朴念仁のキリトと言えどこれが偶然ではなく以前に話した自分との会話から行動を読まれたことは想像できていた。
「ん~、そんなには待ってないよ」
「そんなにはって……俺何か約束忘れてる……わけじゃないよな?」
「え~、酷いなぁキリト君、忘れちゃったの?」
「え? 嘘だろ? いや、そんなはずは……ないんだけど……本当に、約束したっけ? いや、してない、ような……」
「あはは、冗談冗談。嘘だよ」
「なんだ、やっぱり嘘か。でも何で最近はそんなに俺の所にくるんだ? フレンド登録はしてるんだから用事ならメールを飛ばせば済むだろ?」
「生存確認だよ」
半ばお決まりになりつつある軽いやり取り。決してキリトも嫌そうな顔はしない。お互い相手をからかうような会話から自然に微笑みが零れる。
思えば、キリトは最近表情が柔らかくなった。本当の意味で笑う所こそ見ていないが、口端を釣り上げた、不敵というか小生意気な笑みに似た表情は散見している。
それでも、彼は真の意味ではほとんど笑わない。笑みを浮かべられるだけで、心から笑っていない。“笑顔を出せる”のと“笑うことが出来る”のでは天と地ほどの差がある。
それをアスナは理解していた。まだ、足りないな、と。
「今日はもう終わりでしょ? 夕飯作ってあげようかなって」
「いいのか? 流石にラグー・ラビットの肉なんてレアな食材はもう持ってないぞ」
「あれほどのものをそうポンポンドロップされたらゲームバランスが崩れちゃうよ」
アスナは笑いながら気にしないで、と手を振る。次いで「何かリクエストある?」と視線で尋ねた。キリトは「そうだなあ……」と顎に手を当てて考え出す。
どうにも不思議なのだが、キリトはこと食べ物に関するアイコンタクトだけは意図を外さない。正確に読み取って返してくる。
最初こそ、アスナはキリトとの以心伝心振りに内心でガッツポーズしたものだが、今のところ上手くいくのがこういった食事の誘いやリクエストを求めるときだけということに気付いてその喜びは些か下方修正されている。
「シェフのおすすめで頼む」
「またそれ?」
「だってさ、アスナの作る料理ならなんでも美味いし。NPCレストランにもういけなくなっちゃうよ俺」
「も、もう……! 褒めても何も出ないんだからね!」
「えぇー……じゃあアスナの夕飯は無し?」
「残念そうな顔しないの。そういう意味じゃないよ」
「良かったぁ」
プッ、と二人で同時に吹き出して笑う。いや、本当に笑っているのはアスナだけだ。アスナ自身もそれは気付いているがあえて言うような真似はしない。
彼の笑みは貼り付けられただけの笑みだ。彼は、まだどこかで心に重荷を背負っている。背負うことを自身を戒める枷として必要としている節すらある。
いつかその枷を外してあげたい、そう思いながらアスナは彼を再び61層にあるセルムブルグの自宅へと誘った。
「いつ食べてもアスナの料理は美味いな」
「あ、ありがと……でも現実世界の料理の方が私は好きだわ。SAOの料理は簡略化されすぎているもの」
食事を終えて、二人でアスナブレンドのお茶を飲み喉を潤す。これもまた、アスナが何種類もある素材から試行錯誤して作ったオリジナルブレンドだった。
伊達に料理スキルを完全制覇(フルコンプリート)していない。
「現実、か……凄いな、アスナは」
「何が?」
「俺なんてさ、戦闘用スキル以外まともに熟練度上げてないんだ。必要だと思うことばっかりやってさ、そのくせ自由奔放にソロでいーかげんにやっててさ。なんか、そう思ったらアスナが凄いって思えてきたよ」
「……そんなことないよ」
本当に、そんなことはないと思う。彼の言ういーかげんなところに、アスナは救われ、惹かれたのだから。
今でも忘れることは無い。自分の見ている世界に色が戻った、そのきっかけを。
『今日はアインクラッドで最高の季節の、さらに最高の気象設定だから、こんな日に迷宮に潜っちゃもったいない。お前も寝ていけ』
まさか、本当に眠ってしまうとは自分も思わなかった。あの時、アスナはそれまで押しつぶされそうなほど重く感じていた肩の荷が、すとんと落ちて軽くなったようにさえ感じられた。
「キリト君が言ったんだよ」と口の中だけで言う。あの台詞とあの時の気持ちは、今も胸の中の一番大切なところに仕舞われている。
その日から、すべてが違って見えた。視界が信じられないほどに開けた気がした。生きているって実感が、強くなったような気さえした。
彼と……キリトといると、不思議と心地よくなる。嫌なことを忘れて、頑張ろうっていう気持ちが後から後から込み上げてくるのだ。
だからだろう。極力彼と時間を過ごしたいと思うのは。
最近はただでさえどことなくおかしく、息苦しくなり始めていた血盟騎士団は、アスナにとって居心地が悪い物になりつつあり、気が滅入ることもしばしばだった。
いや、もともとその兆しはあった。護衛などという見知らぬプレイヤーを幹部に付けると言い始めたあたりから、どんどんおかしくなってきてはいたのだ。キリトとデュエルまでしたクラディールがその最たる例と言える。
ただ、血盟騎士団がそういう方向性に向かったのには、ひとえに過去の自分の攻略ホリックとも言える鉄の意思が無関係ではないと考えるアスナは、責任も感じていた。
そんな板挟みな感情を持て余している時でも、彼といると不思議と心が安らいだ。彼の為と言いながらも、自分も彼のそんなところを欲している。
ただ、アスナは与えられるだけの人間で終わりたくなかった。こと彼に関しては。だから、だから行動するのだ。自分の思うままに。
「私は、誰かさんのいーかげんさを見習って少し肩の力を抜いただけですぅ」
「ほぅ、そんないーかげんな奴がいるとは。是非会ってみたいもんだね、今度紹介してくれよ」
「わかって言ってるでしょそれ」
「さてね」
「……必要だって、思うから」
「ん?」
「戦って生き抜く為のスキル以外にも、生きていくには必要だって、思うから」
「……そうだな」
「はい! というわけで明日から二日間キリト君には私に付き合ってもらいます!」
「……へ?」
「明日はこの下の層でお祭りイベントがあるらしいし、明後日は私オフだから朝から一緒に迷宮ね」
「お、おいおい? そんな急に……」
「何か用事や約束があるの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「そうよね、あるわけないもんね。友達いなさそうだし」
「おい」
「だから私がキリト君の用事作ってあげる」
「……はぁ、一応聞いておくけど拒否権は?」
「今日の食事代♪」
「……オーケイ、わかったよ。この食事の代金なら納得だ」
***
翌日、俺はアスナとの待ち合わせ場所に腰を下ろしていた。約束の時間まであと十分程度。アスナはギルドでの政務が少しあるからと普段よりもやや遅めの時間を指定してきていた。
最近のアスナはとにかく活発だ。出会った頃はそうでもなかったように思えるのだが、こちらが彼女の素の顔なのだろうか。
「それにしても……いつぶりかな」
こんなにも、独りじゃないのは。独りじゃない時間が、予定が、明日が楽しみなのは。
孤高のソロを気取っているつもりはないけど、ソロで居続けることに執着している自分は自覚している。
《月夜の黒猫団》の事があってからは、特に他人との関わりに壁を作っていたと思う。いや、ケイタが残した言葉が今も俺の胸にそれが正しい物として残っているからだろう。
『ビーターのお前が、僕たちに関わる資格なんてなかったんだ』
それは真実だ。疑うべき所など一つもない真理の一つ。全く持って正論のその言葉に、返す論なんてものを俺は持ち合わせていない。
俺は誰かと関わりを持つべきではない。薄汚いビーター。全く持って正しい表現ではないか。別に自分を卑下しているわけではない。だから俺は既にこれを蔑称だと思っていない。
ただ俺を示すのにこれ以上相応しいものも無いな、とは思う。初めてビーターを名乗った時からそれは覚悟していたことで、むしろ当然のことなのだから。
これは決して自虐なんかじゃない。俺はひたすらに正しいと認識しているだけだ。皆の持つβテスターへのイメージ、それ自体に偽りはないのだから。
クラインを置いて始まりの街を出たあの日から、俺に弁解する余地なんて残っちゃいないしするつもりもない。
だから、俺は誰とも深い関わり合いを持つべきではない。持つべきではないんだ。一度学習する機会さえ得ている。だというのに、
「こういうのもいいやって思えるのは……悪いこと、なのかな」
クラインやアスナ、エギルあたりが聞いていたなら顔を真っ赤にして怒るかもしれない。いや、エギルなら豪快に笑い飛ばす、かな。
ただ、あいつらは優しいから。きっと「悪くない」と即答、豪語してくれるだろう。でも、その優しさに浸ってしまったら、俺は罪を忘れてしまいそうになるから。
それだけは、いけない。忘れては、無かったことにしてはいけないんだ。でも……少しくらい、休むことは……許されるのかな、と思えるようになった自分がいる。
俺が、そういう考えを持てるようになったのは間違いなく、
「キリトくーん! お待たせー!」
彼女のおかげだろうな。やれやれ、全くそのことを彼女はわかっているのだろうか。
そのアスナはと言えば手を振りながら俺の居る場所まで栗色のストレートヘアを揺らして駆け寄ってくる。
忙しい中の合間にわざわざ「はぐれビーター」の俺などに構わなくてもいいだろうに。ましてや明日はせっかくのオフに一緒に迷宮へ行こうとまで。
アスナほどの人間ならオフというのはレアアイテム並に貴重だろうに、勿体ないとは思わないのだろうか。
どうも彼女の考えていることはわからない。一度はもしかしたら《血盟騎士団)に俺を引き込むための引き抜き人員ではないかと疑ってさえいたのだが、どうにもそんな素振りはない。
だが、そんな彼女の“気まぐれ”とも思える行動に俺が救われつつあるのは事実だ。
「キリト君、早く行こうよ! ほらほら」
「ああ、わかってるって」
アスナに促され、俺も立ち上がって歩き始める。
その足取りは、このSAOに囚われてから今までで、一番軽い気がした。