「はっ!」
細剣用ソードスキル、その基本技である《リニアー》の突き。
鋭く身体を捻り、同時に仮想の肉体で物理的ブーストを加えることによって従来生み出されるシステム技よりも数段上の威力を叩き出す。
第一層迷宮区に入って、この一撃から二撃で沈まないモンスターは殆どいなかった。
キリトも驚いたようにアスナを見つめる。
「たいした威力だな。昨日よりキレが数段上がってるんじゃないか?」
「そうかな? だとしたらこの剣のおかげだよ」
アスナはウインドフルーレを優しく撫でて惚けたように返すが、ある意味でそれは当然なことだった。
アスナの戦闘におけるシステム外スキルは攻略組七十五層段階でもトップクラスに位置していた。
それほどの戦闘経験は低層フロアにおいてこの上ないアドバンテージとなる。
自分でも当時の自分より技のキレが上がっている実感はあった。
昨夜から結局一睡もしなかったアスナだが、不思議と眠気は襲ってこない。
そんな時、キリトは昨日の会議で決まったボスの情報収集について、可能なら自分の目でも出来るだけ確かめておきたいと言い出した。
これから迷宮へ行くが君はどうする? と尋ねられたアスナの答えは決まっていた。
共に迷宮へと赴き、戦う。それ以外の選択肢は考えられなかった。
第一層迷宮区はアスナにとって既に攻略済みの場所だ。経験済みであるという事実はそれだけで戦闘においてかなり優位に立てる。
「もしかして君は、いや、君も……だとしたら……」
アスナがウインドフルーレの刃を腰の鞘に戻していると、キリトが少しだけ考えるように呟いている言葉が聞こえた。
だが、すぐに彼は首を振って口を閉じる。
アスナにはなんとなく彼の言いたいことが想像できていた。
恐らく、彼はこう言いたかったのだ。
「君もベータテスターなのではないか」と。
しかしそれにはかなりの抵抗があるはずだ。いや、あるいはアスナの中で彼は《抵抗があると思っている》のだ。
ここが自身の夢の中なら、自身の知りえる情報からしか再現されないはずだ。
つまり、自分は彼がベータテスターであるという事実を語ることに苦を感じていると認識していた事になる。
そこまでまじまじと考えたことは無かったが、こうして夢と言う形でそれを見ると、案外強くそう思っていたのだなと知らない自分を自覚した。
なので努めて明るい声を出す。
「さ、次へ行こうよ」
「ああそうだな」
それに応えるようにキリトも背中の鞘に片手剣をチン、と小気味よい音を立てて戻した。
かつても思ったことだが、彼は戦うのが上手い。
今の彼は七十五層まで来た彼ではないはずだが、それでもこの第一層のプレイヤーとしてはやはり群を抜いているだろう。
ベータテスターであることを差し引いてもその強さ、いや《上手さ》は驚嘆に値する。
そもそも、ベータテスターが優位というのは本当に序盤だけの話だった。
キバオウに対し、エギルが会議でも言っていたが、SAOにおいてはベータテスターが必ずしも優位とは言い切れない。
むしろ知識があった分、最初の犠牲者の中にベータテスターは数多くいたことがしばらく後に公式的に情報屋が公表していた。
知っている、わかっているという慢心から十分な安全マージンを取らない無理な行動を起こして結果最低最悪のしっぺ返しをもらうという悪循環。
良くも悪くもそれに歯止めをかけたのはやはり彼、キリトだろう。
彼のビーター宣言には恐らく多くの人が怒りを感じ、同時に心が一つになった。
加えて、残りのベータテスターへの風当たりも弱くなる効果を孕んでいた。
それを狙ってやったのだから、自称対人スキル激低の彼にしては頑張ったものだ。
あるいは激低だからできたことなのかもしれないが、その代償は大きい。
もし、《次》があるなら、そんなことはさせたくないと思う。
「……戦ってるな」
キリトの声にハッとなる。
視線の先では、ボス部屋の扉が開いていた。
既に第一層迷宮区のボス部屋まで辿りついてしまったことに軽い驚きを覚える。
彼と迷宮を一緒に駆け抜けた回数は実は然程多くない。
しかし、そのどれもが不思議なことに普段より足が軽く感じるのだ。
ボス部屋の中からは怒号が飛び交っている。
しかし大きな緊迫感は感じられず、戦線は問題ないようだ。
情報収集を買って出て担当しているのは会議を開催した張本人でもあるディアベル率いるパーティだ。
彼らの偵察が済み次第、会議参加者によるチーム編成でボスを攻略する手筈になっていた。
アスナは視線をキリトに向ける。キリトは首を小さく左右に振った。
それにはアスナも納得する。と、そこで気付いた。
意外なことにアスナのアイコンタクトは正確に伝わったようだった。
遅まきながらそれについて気付いたアスナは少しばかり嬉しくなる。
今のは「私たちも入る?」という質問に対し彼は「止めておこう」と言ったのだ。
攻略戦前に無用な荒波を立てることはない。その件についてはアスナも賛成だった。
ここで厚顔にもボス部屋へ侵入すれば間違いなく軋轢が生まれる。
ここは黙って下がり、この後の会議で彼らの奮迅たる活躍を聞くことが望ましい。
無論ディアベルのパーティが危機に瀕しているのならその限りではないが、どうやらその心配も無い。
しかし、この夢と言うやつは再現率は気にするくせにアスナの意思や都合は無視するらしい。
一通り偵察をし終えてしまったらしいディアベルチームが撤退もかねてボス部屋から出てきてしまい、バッタリと鉢合わせてしまった。
キリトとアスナの二人に気付いた一人の茶色いサボテンのような頭をしたプレイヤーは険しい顔でこちらに近づいてくる。
「偵察は終わりや、さっさとここから離れろや」
背中には大ぶりの片手剣が一つ。放たれる関西弁からは敵意さえ感じられる。
アスナにはこの男に覚えがあった。昨日の攻略会議ではもちろんその後の攻略においても因縁の相手であったと言える。
キバオウ。今後開かれる攻略会議でも彼とは幾度と無く衝突した。
もっとも彼は途中からは殆ど攻略に参加しなくなり、軍と合流して組織強化に力を入れだして以降は直接の関わりはあまりなかった。
最後の記憶では、その横暴さから軍にも居場所がなくなりつつあった、ということくらいだろうか。
そう言えば、その決定打になったのは彼が罪をキリトに擦り付けようとしたことだったと思い出す。
……なんだかイライラしてきた。
「何処でレベリングしていようと自由でしょう」
「あんさんらが勝手にボス部屋に入ってまうかもしれないやろが。まあたった二人でどないできるとは思えんけどな」
嫌味たっぷりに口端を釣り上げて言うキバオウに、アスナは益々内心のボルテージが上がった。
思えば当時は血盟騎士団の代表として事を荒立てないよう最低限気を使っていた為、それが相手をどんどん付けあがらせてもいた。
恐らく、こちらが女の身であることも理由の一つだったのだろう。
一度「所詮おなごの言うことや」と会議中に言われた時は抜刀しかけたものだ。
「じゃあいちいち言う必要は無いでしょう」
「なんや、こっちは親切で言ってやってんのやで、ねえちゃん。こないな奴と一緒にいるとええことないで」
キバオウの睨み付けるような視線がキリトを射抜く。
キリトはキバオウの敵意剥き出しの視線に戸惑い、目を逸らした。
この時点でキリトにキバオウとの面識はほぼ無い。
昨日の攻略会議で見た程度、だと聞いている。
しかし、彼の身の上──ベータテスターであるという事実──から どうやらベータテスター排斥組の急先鋒らしいキバオウにはあまり関わりたくないようだった。
それは同時に、ベータテスターであり情報の独占に走った経緯のある自分を責め続けていることの証だろう。
SAOがクリアされるまでそれは彼の中の楔としてあり続けていた。
いや、恐らくは今もあり続けているのだろう。彼はそれを強く重い罪だと自覚している。
もしかすると、月夜の黒猫団の件がより一層そうさせているのかもしれない。
「キバオウさん。それ以上は止めよう」
「……ケッ」
ディアベルが間に入り、場を取りなす。
やはり彼は上に立つ物の器ではあるのだろう。
以前キリトに彼の事を聞いた時、彼がいればもっと早く攻略は進んでいたかも知れないと零したことがあるのをアスナは思いだした。
その時のキリトの顔は何処か儚く哀しげだったのを印象深く覚えている。
その目は故人を偲ぶ物とは、少し別な何かのような気がした。
「さて、君たちもボス部屋に入るのは出来れば遠慮してもらいたいかな。万一にも攻略戦に戦力が減っていては成功確率や士気が落ちてしまう。疑うワケじゃないけどいつ不運なアクシデントが起きるかなんて誰にもわからないんだ」
「今ボス部屋に入る気はないよ。心配ない」
キリトがやんわりとディアベルに答え、ディアベルは満足そうに頷いた。
それじゃあ後で会おう、とさわやかな笑顔と別れの言葉を残して彼らは離れていく。
彼らを見送りながら、アスナはキバオウに苛立ちを覚えていた。
思えば彼はいつもいつもキリトにつっかかってはいた。
攻略層一桁台はまださほどでもなかった。
彼の力、知識が突出していたせいもあるだろう。
敵に回したくない、敵対勢力に取り込まれたくないという思いが強かったに違いない。
だが二桁に入ってからはその均衡もかなり崩れた。
今思えばあの辺りではすでにベータテスターであることの優位性は皆無だったと言える。
「アスナ、俺たちも戻ろう」
「え? あ、うん……そうだね」
キリトの声にアスナは考えるのを止めた。
考えても詮無いことだ。
アスナはキリトの隣、その半歩後ろに定位置を取った。
真横に立つとキリトが無駄に緊張してしまうのだ。
初心とも取れる態度だが、アスナにとっては避けられているような錯覚が起こり少々心が痛むものがある。
迷宮区で寄れる限界位置が試行錯誤の結果現在はここまで、という理由からアスナは今彼の半歩後ろを歩いている。
戦闘に関しては問題なかった。アスナは元より、キリトもこの時点で十分な安全マージンを取っている。
第一層迷宮区で遅れを取る二人ではなかった。
ただ、それでも戦闘においてアスナは満足のいく戦いが出来なかった。
彼と一緒に狩りをするときは、よくよく《接続》する感覚が得られるのが常だった。
全てが一体になったかのような連結感。
文字取り一つになっている錯覚さえ起こることがあり、それが強ければ強いほど《心地よい》と感じる事が出来る。
しかし、これが夢の中のせいなのか、それとも付き合いの身近さ故なのか、《接続》は一度たりとも起こっていなかった。
戦闘は効率的に無駄なく行えている。危険も殆ど無い。
しかし《満たされる》と思える程の質の高い戦闘は経験出来なかった。
トールバーナに戻ってきた所で、キリトは少しだけ申し訳なさそうに切り出した。
これから人と会う約束がある、と。
申し訳ないがしばらく宿には戻れないので、部屋には入れないから少し時間を潰してくれとのことだった。
アスナが「アルゴさん?」と尋ねると彼は気まずそうに視線を泳がせる。
正直すぎるキリトに苦笑しつつ、アスナは了解した。
彼の背中が見えなくなるまで見送り、反対方面へアスナも足を向ける。
正直に言って、アスナは嬉しかった。
夢の中でも、彼がしてくれることは嬉しいと素直に思える。
彼は今、今日も自分が彼の部屋に泊まることを自然に思ってくれた。
それが嬉しかった。いや、夢なのだから自分の願望通りに彼が提案してくれているだけなのかもしれないが、妙に再現率の高いこの夢においてそれは喜んでも良いところだと思えた。
だから、街の角でばったり《その男》と会ってしまったのは本当に不運だったと言わざるを得ない。
先程のキリトの言葉が自分の願望なら、ここでこの男と会ったのも自分の願望ということだろうか。
……それだけはない、と言い切れる気がした。
「よう、ねえちゃん」
「……何か用?」
自分でも驚くほど冷たく尖った声。
当時の自分は須くこういった態度だった気もする。
最近、いや、キリトと結ばれてからはめっきり出てくることの無かった氷のような自分。
それが、キバオウという男の顔を見た途端、自然に溢れ出てきた。
「忠告したろう思てな」
「忠告?」
「せや、悪いことは言わんからあないな奴とは一緒にいるのを止めとき」
「……どういう意味かしら」
「ここだけの話やけど、あいつはベータテスターや。それも卑怯な手つこてボスのLA(ラストアタック)取りまくったな」
キバオウの顔に苛立ちが混じる。
だがアスナの苛立ちはその比では無かった。
「……何でそれを貴方が知ってるの?」
「とある人が教えてくれたんや。情報屋にえろう金払って仕入れた情報らしいで」
本当にこれは自分の夢なのか、という疑問が起きる。
夢とはよくよく記憶の整理や願望が現れやすいと聞いたことがあるが、これはそのどれにも当てはまらない気がする。
我慢が、抑えがききそうにない。
出来るなら、今すぐこの男をぶちのめしてやりたい衝動に駆られる。
「……何も知らないのね」
「何がや?」
「アルゴさんは絶対にベータテスターに関する情報だけは売らないのよ」
「な、なんやて!? そないな嘘……誰が信じるかい!」
一瞬、表情が驚愕に彩られるも、すぐにキバオウは力強く否定する。
そんなことはありえない、と。
同時にアスナも心の底から意味は違えど同じ言葉を思う。
そんなことはありえない、と。
「嘘じゃないわ。なんなら嘘かどうか聞いてみれば? お金なら私が用意してもいいわよ。いくらだって出してあげる。どうせ絶対に教えてくれないから」
「嘘や! さてはねえちゃんもベータテスターやな! だから……」
「じゃああなたもベータテスターね」
「ちゃうわ! ワイをあないな卑怯な輩と一緒にすなや!」
彼の今後を知る身としては厚顔無恥も甚だしいと言いたいが、それはまだ起きる前のこと。
今言っても信じられるわけもない。いや、そもそもこれは夢なのだから言ったところで意味はない。
しかしただ黙っているのもアスナには耐えられなかった。
「どうやってそれを証明するの?」
「…………」
「もしかしたらあなたにそれを教えた人もベータテスターかもね。そうね、状況的にそれが一番ありえそう」
「そんなわけあるかい! あん人が!」
これまで以上に強い否定の言葉をキバオウは上げる。
それだけは絶対に無い、とキバオウは全幅の信頼をその人においているようだった。
そういえば、記憶の中の彼や、今日の昼間の彼も、同じような目をある人物に向けていたな、とアスナは思い出す。
その相手はディアベルで……と、そこでアスナは閃いた。
当時、第一層フロアボスに最初に手を出し、やられたのは……ディアベルだった。
何故彼はあの時一人で攻めたのだろうか。
あそこは一人で攻めるべき時ではなかったようにも思う。
あの時はそこまで深く考えなかったが、途端に疑念が湧く。
彼のあの行動の意味。それは自身がボスのLAを、引いてはボスドロップのユニーク品を手中に収めるため。
だとすると、ディアベルは物欲にまみれた人間だったということだろうか?
あの……騎士(ナイト)ディアベルが? まさか、という思いはあるが……辻褄は合う。
キバオウのバックにいるのは間違いなくディアベルだ。
問題なのは、《本当にこの時点》でキバオウがキリトの過去を知っていたのかという一点。
今のところ、夢の中の出来事において、齟齬はあっても偽りはない。
最初に思った通り、これは夢──非現実なれど偽物ではない、と思っていいとアスナの勘が告げている。
アスナの記憶から忠実に再現された過去夢。
だと仮定すると、全ての事象はアスナが無意識的にせよ知っている、経験していることから構成されるはずだ。
それらを全て正しいと踏まえると……アスナは思いもしなかった事実に思い当たった。
(え……本当にディアベルさんはベータテスターだった……?)
キバオウにキリトの情報を教えた人物は十中八九ベータテスターであり、彼のバックはディアベルと見て間違いない。
先の声の荒げようと心酔ぶりからも疑う余地はなかった。
もしディアベルがベータテスターだったなら、キリトがベータテスターであった事実は知っている可能性はある。
その情報をキバオウに流し、彼の動きを牽制して自身がフロアボスのLAを取る。
しかしあの人はそんな狡猾な人には見えなかった。
かといって、夢だから事実とは無関係だろうと思うこともできない。
今の予想が事実なら、彼は自身のベータテスターとしての身分を隠しキバオウに接して唆していることにもなる。
結果的に、それがその後のキリトを追い込むきっかけにもなった。
彼、キリトはこの事実に気付いていたのだろうか。……彼のことだ、すぐに気付いていただろう。
アスナは当時の彼を思い出して、確信する。あるいは、彼のビーター宣言はそのせいもあったのかもしれない。
彼にそこまでさせるということは、やはりディアベルは悪い人間ではないのか。アスナには段々とわからなくなってきた。
《あのキリト》にそこまでさせるディアベルというプレイヤーの人柄が。
「……っ!?」
ズキッとこれまでで一際大きく頭の奥が刺激された気がした。
今一瞬、《気付かなければならない何か》に限りなく近づいたような、そんな気がした。
だが、相変わらずそれが何なのか掴めない。
「……チッ、交渉には応じへんか。まあええわ」
キバオウはその時丁度突然届いたメッセージに舌打ちをし、悪態を吐きつつ軽く返信をしてからアスナに背を向ける。
「忠告はしたで」と捨て台詞を吐いてみるみるその姿を闇夜に消していった。
残されたアスナは、キリトが待っているであろう宿へと歩き出す。
既に結構良い時間が経っていた。もう戻っていてもおかしくはない。
なんだか、無性に彼に会いたかった。
翌日。
やっぱり眠気は来ず一睡もできなかったアスナは、ちゃっかり寝たふりをしてソファでキリトの腕を掴んだまま一夜を過ごした。
彼は一晩中どぎまぎといろいろな抵抗──呼びかける、つつく、見つめる──を試みていたが、結局無理矢理振り払うことは無かった。
その後はディアベルの招集で、過去の記憶通りボス攻略戦にキリトとペア……コンビを組み共に赴くこととなった。
偵察戦は例によってアルゴの本により省略された。
──この時、アスナは少しだけ迷った。
フロアボスにおいて、ベータ時代との変更点を自分は知っている。
アルゴの本との相違点、それを言うべきか否か。
これは夢だ。言ってしまえばいつ自分が目覚めてもおかしくはない。
自然覚醒から始まり、キリトやユイ、果ては母親に現実で無理矢理起こされる可能性もある。
言い訳をたくさん並べたが、結局アスナは言わなかった。
理由は、これが夢ではあるが偽物ではないからだ。
夢という事実を否定する気はない。しかし夢でありながら今見ているものは記憶の中にある過去そのものだ。
全ては正しく再現されていると言ってもいい。ではここで自分がその知識を披露したところで信じる者がいるだろうか。
答えは否だろう。外から見ていれば自分でも信じない。
それどころか「おかしい奴」の烙印を押されてしまいかねないし、最悪ボス戦のメンバーから外される可能性もあった。
さらに悪ければ何故知っていたのかの糾弾対象として吊し上げられる事も考えられる。
……この時初めて、アスナはベータテスターの気持ちがわかったような気がした。
結局、攻略会議中に情報を開示出来なかったアスナは、戦闘中に行動でどうにかするしかないと決めていた。
第一層、フロアボスは獣人の王(イルファング・ザ・コボルドロード)。
青灰色の毛皮を纏った二メートルを超える逞しい体躯に血に飢えた赤金色に爛々と輝く隻眼、右手に骨を削って作った斧を持ち左手には革を貼り合わせたバックラーを装備している。
腰の後ろには差し渡し一メートル半はあろうかという湾刀(タルワール)も携えていた。
当初このボスはベータテスト時同様、四段あるライフゲージが四段目に入った途端腰の湾刀を抜き曲刀カテゴリのソードスキルを使うと思われていた。
しかしアスナの記憶として鮮明に残っているのは、この層では強すぎるカタナスキルを駆使してくる最低最悪の初関門の象徴だ。
取り巻きのルインコボルド・センチネルは三匹湧出(ポップ)し、以降HPゲージが一つ減る度に三匹再湧出(リポップ)する。
四本目に入ると、常時四匹湧出(ポップ)するのはこの時点ではまだ誰も知らない。
アスナは戦いながらどう上手く立ち回るかを考えていた。
昨日からいろいろ考えたが、結局人間の人柄というものはいくら考えたところでわかるものではない。
ましてや失われた相手なら尚更である。なのでディアベルの人柄については一旦置いておくことで決定していた。
では今できることは何か。そう思った時に真っ先に思ったのはやはり彼、キリトのことだった。
夢とはいえ、可能ならば彼に再び《ビーター》を名乗らせたなくは無かった。
故に今為すべき事はディアベルの特攻を邪魔して、尚かつボスの変更点をみんなに知ってもらうこと。
その為にはイルファングのHPが四段目に入る時、全員を一旦下がらせ、可能ならばカタナスキルの攻撃を止める必要がある。
「アスナ、スイッチ!」
キリトがルインコボルド・センチネルの攻撃を弾いて隙を作る。
当時、彼の動きには幾度も感心し、また一番の参考にしたものだ。
夜、寝ている時でさえ復習には彼の動きをトレースし……あれ?
(よく考えれば私、当時からキリト君のことばかり考えていたんじゃない!?)
思い返せば、彼の事を考えない夜に何をしていたか思い出せない。
なんだそれは。いくらなんでもそれはないだろう。だが思い出そうとすればするほど記憶は霞どころか形さえ浮かんで来ない。
(~~~っ!)
羞恥心から、放つ《リニアー》に力が入る。
ソードスキルのシステムアシストのみに頼らない仮想肉体によるブーストが、昨日のそれよりも三割増で威力とスピードを嵩上げし、問題なくルインコボルド・センチネルを屠った。
貫かれたルインコボルド・センチネルは宙へと押し上げられ、地面に着く前にはポリゴン片となって消える。
それを見たキリトが苦笑する声が聞こえた。すぐに昔言われた「オーバーキル過ぎるよ」という言葉が思い出される。
「緊張しているのか? 無理もないけど冷静になれ。アスナは強い。そう簡単にはやられないからもう少し肩の力を抜いた方がいい」
キリトの言葉にスッと羞恥に染まった顔……フェイスエフェクトの火照りが醒めていく。
彼の言葉はいつもアスナに計り知れない恩恵をくれる。
現状を再確認したアスナは、第一層という低層故に弛んでいた自己の感覚を再び研ぎ澄ますべく集中する。
夢と言えど、手を抜くことは許されない。
ちらり、とイルファングを見れば、かつてのように危なげなく戦い、既に三本目のゲージが消えようとしているところだった。
ここまでは予想、いや記憶通りだ。
既定事項、とも言える。
その時、近くでルインコボルド・センチネルを狩っていたはずのキバオウと一瞬目が合う。
何やらキリトに耳打ちしていたようだが、その口元がニヤリと歪んだ。
そうだ、前にもこの光景を見たことがある。あの時は何も思わなかったが、実はこの時、キバオウはキリトに対して「ベータテスターにLAは取らせない」というようなニュアンスの話をしたのではないだろうか。
「四本目!」
ディアベルの叫び声が聞こえる。
それを聞いたアスナはひとまずキバオウの事は忘れてイルファングに向かうことにした。
「おい!?」というキリトの声もこの時ばかりは無視する。
初撃を防いでカタナスキルを止めなければ記憶の中の二の舞だ。それを避けなければ彼──キリトがビーターとして名乗る未来が再び来てしまいかねない。
アスナはかつてのように、出来る全速力を出すべく力一杯ボス部屋の床を蹴った。
ドンッという音と共に勢いよくイルファングの前へ飛び出すアスナの様に、驚きの声が一様に上がる。
我先にと飛び出しそうだったディアベルまでもが、その目を驚愕に彩られていた。
「武器が、おかしい!」
力一杯叫びながら、アスナはレベル・スキル熟練度的に《まだ使用出来ないソードスキル》をイメージだけで再現する。
ALOでキリトはシステムにないソードスキルの再現に成功している。
ならば、自分にも出来ないはずはない。彼の背中を守ると誓った自分が、彼と大きく差を付けられては、意味がない!
届け。
届け届け。
届け届け届け!
ここで届かなければ、彼の傍にいる資格は自分にない。
このカタナスキルの発動を止めなければ、再び彼にビーターを名乗らせてしまいかねない。
なら止めないと。何が何でも止めないと!
「とど、けェ──────────────────────────ッ!」
細剣突進技《シューティングスター》。
システムアシストの無いそれは、一見してただの突進にしか見えない。
だが、身体が覚えている。突進のスピード、威力。
イルファングは既に湾刀(タルワール)だと思われていて、その実鍛えられ、研がれた鋼鉄の色合いの曲刀、野太刀を抜いている。
知っている者なら一目見れば一目瞭然だ。輝きからして違う。あの《カタナ》を見て、粗雑な鋳鉄テクスチャの湾刀(タルワール)だとは思わない。
しかし、抜かれてから気付いたのでは遅い。
重範囲攻撃《旋車(ツムジグルマ)》。
どうっと床を揺るがせ垂直に飛んだイルファングは、空中で脂肪たっぷりのような身体をぎりりと捻ってカタナ……野太刀の刀身に深紅の輝きをギラリと灯らせる。
軌道──水平、攻撃角度──三百六十度のそれがもう間もなく繰り出される──その前に!
アスナのウインドフルーレが左腰に見事にずっぷりと突き刺さる。
紅いライトエフェクトが血飛沫のように上がり、イルファングは声を上げて苦しんだ。
アスナの限界まで引き絞った突進突きは見事にクリティカルヒットしたのだ。
強化によってクリティカル率を上げていたおかげもあるだろう。
空中で体勢を崩したイルファングはそのまま真っ逆さまに床へと激突した。
《転倒(タンブル)》状態だ。
「全員! 全力攻撃(フルアタック)!」
素早く立ち直ったディアベルが指示を出す。
ルインコボルド・センチネルはイルファングのHPが四本目に入った時新たに四匹湧出(ポップ)しているが、それらは一度皆無視した。
一人を除いては。
「……っ!」
キリトは唯一コボルドのヘイトを取り続けている。
一人で二匹のコボルドを引き寄せ、戦っていた。
その間にもイルファングのHPはみるみる減っていくが流石に消しきれない。
ここにキリトの攻撃力が入ったとて消し飛ばすことは不可能だっただろう。
ましてやキリトがコボルドの相手を止めれば四匹のコボルドが縦横無尽に動いてプレイヤーに無作為ダメージを与え、イルファングが復活した際に手痛いダメージのまま対面しなくてはいけなくなる。
イルファングは転倒状態時間が終わったのか暴れるのを止め、すぐに立ち上がるモーションに移行した。
アスナが「まずい」と思うより早く、ほとんどのプレイヤーは距離を取る。
しかし、一人だけしつこく攻撃を続けるプレイヤーがいた。
「ディアベルはん!」
キバオウの声が張り上がる。
二撃程度は他のプレイヤーより多めに与えただろうか。
だがその時間は退避マージンを使い切ってしまったことも意味する。
「いけない!」
アスナはコボルド王、イルファングが構えるのを見て再び剣を構え突進した。
あのモーションから繰り出される技をアスナは知っている。カタナ直線遠距離技、《辻風(ツジカゼ)》。
居合系の技なので発動後に動いては対処が間に合わない。イルファングの構える野太刀が緑色の閃光を奔らせる。
アスナは渾身のつもりの《リニアー》を軌道上に撃ち放つ……が、
「っ!?」
緑の閃光は真一文字に解き放たれる。
アスナのリニアーは少しだけ軌跡とずれていた。
アスナの細剣(レイピア)は基本点の攻撃だ。それに対して野太刀は線の攻撃。
点で線を捉えることは難しい。それでもアスナには自信がないわけではなかっただけにその驚愕は一入だった。
夢だ、というのがかつての自分より判断力を鈍らせているのだろうか。緊張感が、足りていないのだろうか。
「ぐあああっ!?」
ディアベルが吹き飛ばされる。
アスナも少なくないダメージを受けるが、コボルド王はどうやら目標をディアベルに定めたらしい。
再び構えるコボルド王に、ディアベルは体勢を立て直すのがやっとだった。
ディアベルの瞳に、恐怖と驚愕が灯る。
そこへ、
「お、おおお、オオオオオォォ────────!!!」
キリトがまるで床すれすれを《飛翔》しているんじゃないかと思う程低く跳躍し、体を捻って渾身のソードスキルを放つ。
片手剣基本突進技《レイジスパイク》。
それによってコボルド王の放つ野太刀は弾かれ互いに二メートル近いノックバックを生み出した。
アスナが素早く駆ける。かつても、この形で戦ったのだ。
まさに閃光のような《リニアー》が突き刺さり、さらにぐいっとボスのHPが減る。
あと二撃から三撃で決着がつくだろう。
「無茶するなアスナ!」
「了解! ごめん!」
「今はそれより先にあいつをやるそ! 手順は同じだ!」
「わかった!」
キリトが再びボスの攻撃を相殺し、ボスをのけぞらせる。
そこにアスナ……とディアベルの二人が攻撃すべく突っ込んだ。
二人の刺突と斬撃を受けて尚、コボルド王のHPは僅かに残った。
あと一撃。
キリトの正確無比なソードスキルは見事に再び大きな野太刀をかち上げる。互いにノックバック。
生まれる隙。そこを狙い澄ましたかのようにディアベルは飛び出した。
彼の剣が振り下ろされる──より速く。
「セイッ!」
アスナの、《閃光》という二つ名に相応しい光速の刺突がぶよぶよの丸い腹を貫いた。
コボルドの王は動きを止め、僅かに振動してから大音響と共に幾千ものガラス片となって散らばる。
アスナの目前には【You got the Last Attack!!】というシステムメッセージが立ち上がっていた。
アスナは満足していた。
夢と言えど、ボス攻略戦において死者を出さなかったこと。
それはかつて攻略レイドのリーダーを任されたことのある身でもあるアスナにとっても大変喜ばしいことだ。
次々に歓声や拍手が湧き起る。
「みんな、お疲れ様! やったな! 俺、みんなとなら絶対やれるって信じてたよ!」
ディアベルの爽やかな声が、さらに全員の喜びを高めた。
ピーピーと口笛を吹く者もいる。
「そして君が今日の立役者だ、ありがとう」
ディアベルは片手をアスナに差し出した。
握手をしようということなのだろう。
アスナは少し迷いながらも自らも手を出してそれを受け入れた。
「強いな君は。どうだろう、良ければ今後一緒にパーティを組まないか? いや組もう絶対に! それがきっと今後の攻略に必要になってくるよ!」
ディアベルの誘い。
そこに、何故かアスナは良くないものを感じてしまった。
視界の隅に、面白くない顔をしているキバオウが入る。
そこで思い出した。ディアベル、彼への疑惑。
今の戦闘でも最後までディアベルはLAを取りに来ていた。
周りでは、いいぞー! 組め組め! 最高の最強コンビだー! と盛り上がっている。
アスナはウインドウを呼び出して、たった今手に入ったものを選びオブジェクト化した。
《コート・オブ・ミッドナイト》。
艶のある漆黒のロングコート。
それを見た途端、ディアベルがごくんと息を呑むのがわかった。
アスナは内心で溜息を吐き、少しだけ彼の評価を下方修正した。
彼の人間性に偽りは多くないのだろう。だが、やはり彼は理由はどうあれLAの為になりふり構わなかったのだ。
途中から指揮らしい指揮をしなかった。目前の取れるかもしれないLAに目が眩んでしまったのだろう。
その目的がどれだけ崇高であったとしても、人を蹴落として得た物には、きっとしっぺ返しが来る。
そういった意味で、アスナは最初とは逆に、本来の攻略においてこの騎士がここでリタイアしていたのは実は良かったのかもしれないと思ってしまった。
考え過ぎかもしれない。しかし彼は中心人物になれる素養があるのと同時に大きな問題を生みかねない危険な卵のような人だと思った。
ディアベルの目は、物欲しそうに漆黒のロングコートを見つめている。僅かに期待もしているのかもしれない。
これがかつての自分であったなら、恐らくこの場はレイドのリーダーであったディアベルこそがこれを持つべきだと譲っただろう。
しかし、今のアスナにその気は無かった。何より、これが似合う人物は一人しかいない。
アスナが辺りを見回すと、一人でぽつんと離れたところに立ってこちらを覗っているキリトを見つけた。
全く持っていつもの彼らしい。勝手に転移門のアクティベートまでいかないあたりマダマシだろうか。
「キリト君」
アスナはキリトに近寄り、首を傾げるキリトの肩に《コート・オブ・ミッドナイト》をかけた。
キリトはきょとん、としているが、そんなキリトにアスナは微笑む。
「これは君に一番良く似合うよ」
次々に文句がそこかしこで上がるが、アスナは気にしない。
キリトは気まずそうにして辺りを見回し、肩にかけられた《コート・オブ・ミッドナイト》を脱ごうとするが、それをアスナは無理やり抑えた。
ディアベルへ振り向くと、少しだけ昏い視線をこちらに向けていた。キバオウに至っては今にも怒り出しそうだった。
だが、それでも構わない。
この装備は、誰が何と言おうと彼、キリト以外には着て欲しくなかったのだ。
アスナはキリトの手を取って駆け出した。目指すは第二層。
ボス部屋にある扉を開けて、まだ小さい怒号が聞こえる中、狭い螺旋階段を勢いよく昇って行く。
「ア、アスナ、いいのかこれ?」
「良いよ。むしろキリト君にしか、使って欲しくない」
「……ありがとう」
キリトの照れたようなお礼の言葉に、ピリッと頭の奥が刺激される。
彼からは数限りなく心の籠ったお礼を言われたが、素直に言う事は実は珍しくもある。
いや、珍しかった、だろうか。
なんだか、凄く何かの核心に近づいたような気がして────急に意識が遠くなる。
急速に視界はホワイトアウトし、頭の重みがもうすぐ現実で覚醒する事を予見させた。
ああ、起きちゃうんだ……となんとなく理解する。
できるならもう少しあのまま夢の中にいたかったような気もした。
と、目覚める瞬間、聞き覚えのある声で何か話しかけられた。
────ママ、早く、早く気付いてあげて────────────
目をバチッと覚ます。
そこは現実ではなく仮想世界だった。
揺り椅子の上。今度こそ記憶に違いなく最後に眠った場所である。
キリトがまだ穏やかな寝息を立てているところを見ると眠ってしまってから時間はさほど経っていないのか。
夢の中では数日経っていたような気がする、と思うと些か不思議な感覚だ。
まるで夢の世界は《体感速度が違ったかのような》そんな気さえした。
アスナはキリトの寝顔をしばし見つめて、彼の髪を優しく撫でる。
そうだ、とアスナは思い立って辺りを見回すが、その視界に娘であるユイの姿は無い。
目覚める瞬間、ユイの声を聞いた気がしたのだが。
おかしいな、と思いつつアスナは揺り椅子から降りてユイを捜しに部屋を出る。
一人揺り椅子に残されるキリト。
彼は未だ定期的に寝息を立てている。
と、そのうち小さく寝言を呟いた。
「第二層……? ビーター宣言を、していない……? 一体、どうなって……」
(SAOP2へ続く)