十二月、東京都文京区。
埼玉県川越市に在住のキリト/和人はめったに足を踏み入れる事の無かった地域へと来ていた。
SAOに囚われ、解放されてからはいろいろな事情から東京自体には頻繁に通うようになっていたが、それでも一部地域のみの往復でしかない。
そもそも和人は他人とのコミュニケーションを取るのが苦手だった。
引きこもりと言うほどではないが、好んで人の多い場所へ行くほどアクティブな人間ではない。
そういった意味でも、彼が単身未知の都心と言っても良い場所へ乗り込む図は非常に珍しかった。
無論、彼は好き好んで自分からそのような場所へ来たのではない。
可能ならば今すぐにでも回れ右をしてコンビニにでも寄り、暖かい缶コーヒーをカイロ代わりに買って電車に揺られながら自宅へ戻り、新品のアミュスフィアを装着してぬくぬくとした仮想世界のプレイヤーホームで仲間達と談笑していたい。
それが許されるならどんなに良いことか。
「……やっぱ今からでも帰っちゃおうかな」
白い息を吐きつつ、和人は折れそうになる心をなけなしの意志力によって無理矢理支え直した。
今日、彼が未知の都心に赴いたのはある人物に呼ばれたからだ。
和人は度々似たような呼び出しを受けては相談に乗ったり協力したりしている。
無論頼まれれば断れないから、などという助け合いの精神がマキシマムなわけではない。
では人付き合いが苦手で割と他人とはドライな接し方をしてきた和人が他人の頼みをこうも聞くのは何故か。
答えは簡単だ。相手には借りがあるからである。
菊岡誠二郎。元総務省SAO事件対策本部に所属していた役人で、一応は恩人と言っても良い相手だ。
彼はSAOに監禁されたプレイヤー達のリアルを守る為に奔走した一人で、和人やアスナ/明日奈の担当でもあった。
さらに言えば、本来はそう簡単に教えられないプレイヤーのリアル情報を、秘密裏にとはいえ一部開示してくれた人でもある。
SAOで仲の良かったメンバーとリアルで連絡が取れたのは彼のおかげと言っても良かった。
何より、明日奈が目覚めた時に駆けつけ、和人の病院を教えて連れて行ってくれたのも彼、となればこちらもそれなりにその恩に報いることには吝かではない。
……例え、胡散臭い人物だと思っていても。
国家公務員だと言う菊岡誠二郎の現在の所属は、総務省総合通信基盤局高度通信網振興課第二別室と呼ばれる部署だ。
省内での名称は通信ネットワーク内仮想空間管理課、通称《仮想課》だと聞いている。
そこに偽りは無いだろう。
だが、それだけではない何かを和人は感じていた。
意図的に公表しない、あるいは出来ない裏がこの男にはある。
証拠は無い。だが、簡単に全てを信じても良いと思えるほど和人は相手の事を知らないし、何よりSAOで培った人を見る感覚告げているのだ。
この男の全てを信用してはならない、と。
明日奈も似たような感覚を覚えていることから、付き合いを止めることこそしていないが心を許し過ぎぬよう警戒は厳にしていた。
最近では仮想世界であるALOでもキャラクターを作成していて会う機会も増えている。
クリスハイト──菊は英語でクリサンセマム、岡はハイトという安直な合成だが人の事を言えない和人はそこには突っ込まなかった──というプレイヤーネームで、みんなともっと仲良くなりたいと本人は言っていたがその裏では情報収集を謀っているのだろうと考えていた。
どうにも彼の持ってくる協力依頼の問題がVRMMOの闇に触れるものが多いせいもあるのかもしれない。
もっともそれについては《ザ・シード》の広まり以来仕事が増えたと泣き言を言ってもいるので、《ザ・シード》拡散者の隠れた筆頭である和人としては罪悪感が無いわけでもない。
そういった経緯もあって直接何らかの迷惑を被らない限り和人はもうしばらく言いなりに甘んじるつもりではいた。
少なくとも学生である──菊岡らが用意した学校へ通っている──間は。
再び白い溜息を吐いて肩を震わせる。
十二月ともなれば寒気も強くなってくる。
上着のポケットに入れた手は出せそうに無い。
どちらにしても話を聞いたら早く帰ろう、と決めながら待ち合わせ場所の高級喫茶へ足を急がせた時、《それ》が和人の目に留まった。
壁一杯のショーウインドウ。よく磨かれたそれは展示物を曇り無く見せて、いや魅せてくれる。
和人が目を惹かれたのはややアクセサリーに傾きすぎているお店のようで、ブティックと言うよりはアクセサリーショップ、それもブライダル関連に根深い店舗のようだ。
普段ならそんな場所には目を向けることすらしない和人だが、どうしても目に入った《それ》が気になってしまった。
和人は冷え切った空気にさらさぬようポケットに入れていた左手をおもむろに取り出し、ジッと薬指を凝視する。
そこにうすぼんやりと《かつてあったシルバーリング》を幻視してからショーウインドウを再び見つめた。
「……似ている。あの指輪と」
ショーウインドウの中にはいくつものアクセサリーが陳列されている。
その中の一つに、この中ではあまりグレードが高くないらしく申し訳なさそうに薄く輝く指輪があった。
それは、かつてアインクラッドで和人/キリトが用意した物とそっくりだった。
鈍い光沢は存在の主張を控えめに。決して派手ではないそれはしかし、シンプルさ故に惹かれる物があった。
アインクラッドの中でもマリッジリングは無数にデザインが存在するが、やはり現実同様凝った物になればなるほど要求されるコルも跳ね上がった。
新居購入に当たって懐の厳しかったキリトはNPCショップにて迷いに迷った。財布と相談しつつ気に入る指輪を目を皿のようにしてシステムウインドウを眺めたものだ。
場合によってはこっそり一人で迷宮に行って狩りを行い、予算を増やそうかと効率の良いコルの荒稼ぎポイントを脳内シミュレートまでしていた時、あの指輪を見つけた。
思い出すといろいろと感慨深い。あの日、彼女は告白を受け入れてくれて……他人ではなくなった。
仮想世界での《初体験》もあの日だった。
思い出せばキリがない。それほど濃密な時間を彼女と過ごした。
その為のトリガーだったと言っても良い指輪にそっくりなものが、今目の前にある。
茅場晶彦がいかな天才だろうと全てのデザインを己一人で創出したわけではあるまい。
オリジナルは無論多くあるだろうが既存のデザインを踏襲したものも少なくは無いはずだ。
そう思うと、アインクラッドにあった指輪はこれがモデルだったのではないかと疑いたくなる。
「あの時、アスナは喜んでくれたよな……」
決して忘れることのない彼女の涙。
それは悲しいものではなく、喜びから来るもの。
あの時は用意して良かったと心の底から思ったものだ。
結婚の手続き自体は簡易的過ぎた為にそれは益々意味のあるものとなった。
今となっては手続き前に指輪を嵌められなかったことも良い思い出である。
そんな事を思い出しながら和人は値段を見てみた。
学生の身でこのような高価なものは買えないだろうと思っていても、僅かに期待せずにはいられない。
これを渡した時の彼女の顔が忘れられないのだから仕方がないとも言える。
「……えっと、ゼロが一、二、三、四……と十五……一、十、百、千、万、十万……いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん………………」
何度か数え直し、見間違いではない事を確認する。
同時にガックリと肩を落とした。
「ジュウゴマン……十五万か……」
金額──十五万円也。
当然の金額ではある。
むしろ相場としては安い方なのかも知れない。
だが悲しいかな、学生の身には雲の上……天上のごとき金額である。
手は残念ながら届かない。というかかすりもしない。
和人は未練たらしく指輪を見つめながら、はぁ、と息を吐いてショーウインドウを白く曇らせ止めていた歩みを再開させる。
わかっていたことだが、無理だ。悔しいが仕方のないことだ。
いっそのことアルバイトでもしようか、と考えるが、学生アルバイトとなるとかなりの長期的なものでもやらないと目標額に届かせるのは難しい。
アスナと会う時間も激減するだろうから、望ましくない。そもそもそんなことになれば彼女は悲しみ、理由を話せば一緒に働き出すと言いかねない。
流石に自分の思いつきで彼女にそんなことまでさせたくはなかった。
そもそも溜めている間に売れてしまってもう在庫はありません、なんて日には頑張る意味が無くなってしまう。
こんな思いをするなら見つけない方が良かった、そもそも今日こんな所に来なければ……と和人は内心で今日自分を呼びつけた相手を罵りながら待ち合わせの店まで足を急がせた。
カラン、と小さいベルが鳴り、「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」とウエイターが静かに声をかけながら寄ってきた。
室内が仄かに暗いのはエギルの店である《ダイシー・カフェ》とそう変わらないが、ここをあそこと同列に扱う事は出来ない。
その一番の理由は店内にちりばめられた調度品の品位の高さだろう。
どれをとっても高級感溢れるそれは見えないオーラを纏っているようでさえある。
高級喫茶だとは聞いていたが和人の目から見ても「うわ、あれ高そう」と分かるほどにそれらは自己主張が激しかった。
まさにセレブ御用達の場、といった所だろうか。こんな事でもなければ一生入る機会は無いだろう場所だと思える。
店内に控えめな音で流れる上品なクラシックがその思いを一層加速させた。
和人にとっては間違っても好み、進んで入る類の店ではない。
「おーい、こっちこっち!」
和人がウエイターに待ち合わせなんです、と答えたのとその無遠慮極まりない声が上がったのは殆ど同時だった。
途端、上流階級のマダム達から和人は冷ややかな視線を浴びせられる。
意訳するなら「静かにして」だろう。
和人は首を縮め、声の主に近寄りつつ内心でたっぷりと罵りの言葉を放った。
「やあ、待っていたよ」
「……」
しかし残念ながら心の中の怨嗟の声はこの男、菊岡誠二郎に届くことはなかったらしい。
黒いフレームの眼鏡に短めに刈り上げているしゃれっ気の無い頭、全体的にガリッと細い線の持ち主の菊岡は和人の前に店のメニューを広げた。
「ここは僕が持つから好きに頼んで良いよ」
「……」
せめてこれまでの不満を──手に入らない指輪を発見してしまった件も含めて──ぶつけるべく無言を貫き通して和人はメニューを見つめ……息を呑んだ。
素早くメニューの左上から目を順に走らせ、戦慄する。
(た、高い……!)
何かの間違いだろう、という言葉は幸いグッと堪えた。
流石にマダム達の射抜くような視線の雨をもう一度受けたくはない。
ゆっくりと、冷静に、そうと気付かれないよう呼吸を整える。
……シュー・ア・ラ・クレーム、千二百円。
これが、メニュー内で最も安い商品だ。名前から察して恐らくシュークリーム、もしくはその親戚か何かだろうが、千二百円は高くないだろうか。
何気なく菊岡の方を見てみると、スプーンでプリンの山の一角を削っている所だった。
あのプリンもこのメニューによると相当高い。あのスプーン一杯に何百円の価値が……という計算はもう恐ろしくて出来なかった。
しかしプリンを美味そうにぱくつきながら不思議そうな顔している菊岡を見るとどうにも苛立ちを思い出してくる。
和人は適当に三品ほど注文してからさっさと本題を切り出させるべく口を尖らせながら糾弾した。
「で、わざわざ俺をこんな場所まで呼んで今度は何をさせる気なんだよ」
「連れないねえ、わざわざご足労もらったのは悪かったけど。僕と君の仲じゃないか」
「……帰ろうかな」
「わあ! 待った待った! 悪かったよ。でもそんなに怒らなくても良いじゃないか。一緒にALOでも遊ぶ間柄ではあるんだから」
「……」
残念ながらそれは事実である。
菊岡──クリスハイト──とはALOでも交流はそれなりにある。
かといって親密な仲と言われるのは少々心外だ。
「君はあれだね、リアルで会う時はいつも無愛想になるね。ALOではもう少し表情が軟らかいというか……フランクなのに」
「……」
それはALO……仮想世界だからではなく、大抵傍にアスナがいるせいだろう、とは言わなかった。
既に各所から耳にタコが出来るほど言われ続けている事だ。
自覚もあるだけにこれ以上その件については聞きたくなかった。
せめて勘違いしているのなら勘違いさせたままにしておこうと和人は決める。
「それで?」
「やれやれ、取り付く島もないな」
「世間話をしに来たわけじゃないからな」
「美人の彼女と待ち合わせでもしてるのかい?」
「……」
「そんなに睨まないでくれ。羨ましさから来る僻みだよ」
「……アスナは今日用事で夜まで会えない」
「そうなのか。あ、だから君はご機嫌ナナメなのかい?」
和人は降ろしていた腰を浮かせた。
これ以上話すことは無いとばかりに立ち上がり一歩進もうとしたところで、「お待たせ致しました」とウエイターが先に注文していた三品を持って来た。
和人は溜息をついて腰を再び降ろした。
以上でお揃いでしょうか、という言葉に菊岡が応え、和人に気まずそうに向き直る。
「俺はからかわれる為にここに呼ばれたのか?」
「ごめん、わかった。もうからかわない。だからこれ食べて機嫌直してよ」
流石に菊岡もやり過ぎたと思ったのか軽口を閉じた。
最初の頃こそ和人は目上でもある彼に対して敬語を使っていたのだが、こういったからかいじみた会話も多いので、そのうち彼とのやりとりはぶっきらぼうなものに形成されつつあった。
菊岡は軽口を閉じた代わりにタブレットを取り出して一人の男性の写真とプロフィール情報を和人に見せる。
「……誰だこの人?」
「先日亡くなっていることが発覚した新保勇一氏、二十六歳。発見時彼はアミュスフィアを装着したままだった。死因は心不全、と診断されている」
菊岡の説明を聞きながら、見たことも無い男の顔写真を液晶越しに眺める。
彼が発見されたのは死後五日は経っていたということで、大家が異臭に気付いて鍵を開け発覚した。
変死ということで司法解剖は一応行われたが、結果わかったのは死因が心不全だった、ということ。
念のために調べた限りでは脳には異常は検出されなかった。そもそもナーヴギアではない安全機構を施されているアミュスフィアでは脳にダメージを与えられない構造になっている。
「彼は胃がからっぽで二日ほどほとんど何も食べていなかったらしいけど……」
「じゃあそれが原因じゃないのか?」
二日程度の絶食をするVRMMOプレイヤーはこの昨今珍しくない。
一種の社会現象にもなってしまっているが、仮想世界の飲食は空腹を紛らわせてくれる。
味覚再生エンジンが可能な限り味も再現してくれるので、仮想世界で美味しいモノを食べていればお腹は空いていないと《錯覚》することは出来るのだ。
それを利用して廃人プレイヤーなどは二、三日は飲まず食わずで仮想世界へダイブしている者は少なからずいたりする。
結果、栄養失調で病院に運ばれたり発作を起こしたりして倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまうような事件は、交通事故で人が亡くなりました、というくらいポピュラーな物になりつつあった。
故に眉を顰めるような生活であることに違いは無いが、これといって取り上げる程のことでも無い。
そもそもそういった仮想世界と現実の両立弊害はこれに限った事ではなく、多々存在し、大まかな点は菊岡がこれまで和人に相談してきたことのある内容でもある。
亡くなられた方やその親族の方には気の毒だったとは思うが、それだけでは事件性は見えて来ない。
「う~ん……九割方そうだとは思うんだけどねえ……」
「煮え切らないな、十割じゃないならその理由は?」
「彼が死ぬ直前までプレイしていたゲーム、いや、正確にはゲームじゃないか」
「どういうことだ?」
「《MMOストリーム》という放送局の番組に出演していたんだそうだ。彼はとあるゲームのトッププレイヤーだった」
「ああ……Mステの《今週の勝ち組さん》か。そういえば《勝ち組コンビ》の時に一度ゲストが落ちて番組が中断したって話を聞いたような気もするな」
「恐らくそれだね。出演中に心臓発作を起こしたんだと思うよ。放送局のログによって秒単位での時間が割り出せている。死亡推定時刻から言っても間違い無い」
「なら何も問題無いじゃないか」
「問題があった……のかどうかはまだ定かじゃないんだけど、おかしな点は一つあったんだ」
「おかしな点?」
「彼がやっていたゲームの中でちょっとね」
「トッププレイヤーだって言ってたな、何て言うゲームだ?」
「《ガンンゲイル・オンライン》……通称GGOだそうだ」
「へえ……GGOか、凄いなそれは」
「……?」
Gun Gale Online……通称GGOはいわゆる《プロ》がいることで有名なゲームだった。
その理由はVRMMOでも数少ない──日本では唯一と言っても良い──ゲーム内マネーのリアルマネー化が可能なゲームだからだ。
リアルマネーとは言っても電子マネーに換金できるというものだが、今の世の中電子マネーで買い物出来ないものは殆ど無いと言っても良い。
運営本部が外国なこともあっていろんな意味で過激であり、日本の規制スレスレ──もしくは抵触──なゲームで、サポートは全て英文である。
不思議そうな顔をした菊岡に和人は説明する。
「ゲームコイン現実還元システム?」
「ああ、ようするにゲームのお金を現実の電子マネーに換金出来るのさ。めったなことでは設けられないギャンブルみたいなものだけど、時折大当たりする人もいるらしい」
プロ、というのはそんなゲームでコンスタントに稼ぐ人達のことだ。
現実のお金に跳ね返ってくるとあらば通常のゲームより情熱を注いでいるプレイヤーは少なくない。
もっとも、先も言ったとおり通常のゲームよりその競争率もとんでもなく高い事になっているが。
それでもプロは月に二十万から三十万は稼ぐという。そんな過酷なゲームでトッププレイヤーだったとなれば、亡くなった新保勇一は相当に凄腕のプレイヤーだった事が窺える。
「それで、GGOで何があったんだ?」
「亡くなった彼のGGOでのプレイヤーネームは《ゼクシード》。そのゼクシードが発作を起こしたと思われる時に彼が映っているモニターの銃撃事件がGGO内であったらしいんだ」
「銃撃事件? それはつまりGGO内の酒場か何かで、っていうことか?」
「そう。仮想世界でも配信動画などは見られるだろう? MMO関係の放送局が流す番組はたいていの仮想世界では至る所で流れている。代表的な所で言えば君の言うように酒場だったりするね。で、GGOの首都、グロッケンという街のとある酒場でもそれが放送されていたんだ。その酒場で問題の時刻に銃撃事件が起こり、ゼクシードは発作を起こした」
「時間は秒単位でわかっているって言ってたな……ってなんで銃撃された時間がわかったんだ?」
「偶然音声ログを取っているプレイヤーがいてね、それによると誤差は十数秒しかない」
「……確かに気にはなるけど、偶然じゃないのか?」
総じてゲームのトップに位置するプレイヤーは尊敬の眼差しを受ける側であるのと同時に妬みの対象でもある。
SAO時代、和人/キリトもそんな輩に狙われたことが無いワケではなかった。
なのでGGOほどの序列に厳しく変動激しいゲーム内ならそのような事件はあっても不思議ではない。
もっともデスゲームだったSAOとは違い、たいていの場合は自身を抑えられない子供のやる無意味な発散程度にしか見られないが。
「これ一件なら僕もそう思うところなんだけどねえ、もう一件あるんだよ実は」
「……もう一件? 犯人は?」
「多分同じ……だと思われているよ。目撃者の証言と名乗った名前から、ね」
「名前を名乗ったのか……」
「もちろん本物のプレイヤーネームでは無いようだ。もしそうならとっくにそのプレイヤーは吊し上げられるだろうことくらいはVR世界に入って日も浅い僕にだってわかる」
堂々と悪いこと──およそ現実世界では眉を顰める、法的に許されないなど──をして自らの名前を広告する輩は存外少なくない。
それも一つの仮想世界のアミューズメントポイントではある。
SAOとは違い、現実の死……及び肉体的に影響を及ぼさないまさに《ゲーム》であればそれは否定されるほどのことではない。
だが、現実の死が連結されてくるとなれば話は別だ。といっても、そんなことは起こりえないはずなのだが。
「で、その犯人の名前とやらは?」
「ええと……自分の名前と武器の名前を言ったみたいだね。《シジュウ》……それに、《デス・ガン》……だそうだ。これが本当の力だ、裁きだ、などとも言っていたらしい」
デス・ガン……シジュウ……死銃。
頭の中で意味を把握する。恐らくは《死銃》と書いて、《シジュウ》と読み、同時に無理矢理英語にして《デス(DEATH 死)・ガン(GUN 銃)》としているのだろう。
安易と言えば安易だが悪趣味でもある。
「そこで本題なんだけど」
「ああ」
「君にこの死銃氏に接触してもらいたいんだ」
「………………なんだって?」
和人は返事に数秒を要した。
何かの聞き間違いかもしれない。
念のために聞き返す。
「いやあ、ハハハ。死銃氏に接触してもらえないかな~……なんて」
「……正直に言ったらどうだよ菊岡サン。それは実際に死銃に撃たれてこいってこと、だろう」
「いやあ、ハハハ」
「………………」
「い、いやあ、ハハハ……」
徐々に菊岡の笑いが渇いたものになっていく。
和人はそんな菊岡をギロリと睨み付けていた。
最近、《悪意》に類する《感情の発露》だけはそれなりに出来るようになってきた。
あまり嬉しくない改善──と言えるのかは定かではない──状態だが、今だけはそれに感謝しておく。
アンタが自分で行け、と和人の目で訴えるような冷たい視線に高級官僚サマは珍しく汗をダラダラと流し始めて弁解しだした。
「し、しょうがないじゃないか。どうにもこの自称死銃なるプレイヤーはハイプレイヤーの男女カップルの男の方を狙う傾向にあるらしいんだ」
「……はあ?」
呆れたような声を和人は出した。
なんだそのコアなターゲットは。
「死銃氏の言葉にあるんだよ、カップルは死ね、みたいな言葉が。その話を聞く限りじゃ僕には逆立ちしたって無理だよ。モテないし強くもない」
「俺にだって無理だよ! プロにそう簡単に勝てたら苦労しないって」
「なんならそのプロの稼ぐ分と同じだけ……これだけ報酬として出すから!」
菊岡は指を三本立てる。
流石に和人も驚いた。こんなおかしな話にそこまでお金をかけて調査しようとするなんて。
何か裏があるのではないかと勘ぐってしまいたくなる。
「三万円、ってオチか?」
「とんでもない! きちんと三十万、払うよ!」
「さんじゅうまん……」
グラッと来てしまった。
いろいろ勘ぐりつつもその魅力的な数字に心が動かされる。
普段の和人なら断るだろう。お金は欲しいし魅力的ではあるがリスクなどを考えれば身を引くことを考える。
だが。
今日は《偶然にも》大金が入用……というより大金が欲しいという理由が出来てしまっている。
あの指輪は十五万円。例え指輪を買っても半分、もう十五万は残る。
それだけあればニューマシンとまでいかなくてもカスタマイズ用の大容量メモリなどは購入可能だ。
だが益々怪しさが増して来たとも言える。
「なんでそこまでしてこの件にこだわるんだ?」
「上が気にしていてね。僕ら仮想課はVR世界の監視や事件処理がたいていの業務と化しているけど、本当は各分野において今後活躍するだろうVR世界を一つの産業ともとらえているよ。それ故に自由かつ大規模な発展を望み、安全が約束されるのはもちろんのことだがそれ以外のことでは不必要に規制を敷くべきではないと考えているんだ。でも規制は必要だって派閥もあってね。SAOの時にも規制一歩手前までは行ってたんだよ。故に僕らはそうならないようこの手の情報は可能な限り把握しておきたいのさ。さらに対処ができれば完璧だね……というあたりで理由付けとしてはどうだろうか?」
上が気にしているんだ、という彼の話の全てを鵜呑みにすることはできない。
しかしVR世界の今後を憂いているという点については善意的に解釈しておくことにする。
主に三十万円の為に。
「……わかったよ。アンタの言う仮想世界への深い理解に免じて今回はやるだけやってみる」
「本当かい? いやあ助かるよ、正直さっきので断られたらどうしようかとヒヤヒヤしていたんだ」
「ただし何もできずに接触すら起きないかもしれないぞ」
「うんうん、それでも僕がやるよりは格段に確率は上がるからね」
ほとんど報酬のバイト代に釣られたようなものだが、そこは安いプライドがそうだと認めさせたくなかったので飽くまでそういうことにしておく。
対する菊岡は上機嫌でワイヤレスのイヤホンを取り出した。
「とりあえず参考までにこれを聞いてくれ。さっき言っただろう? 一件目については偶然ログを取っていたって。女性プレイヤーとコンビを組んでいたゼクシードが、彼女とのコンビネーションとリアルにおける関係を尋ねられたあたりに事は起こったそうだよ。今二件目の方も音声データをあたっているんだけど……」
菊岡は言いながらタブレットを操作する。
和人は言われた通りに耳にイヤホンを付け、そこから流れる録音内容に耳を澄ませた。
『これが本当の力、本当の強さだ!』
聞こえてくる声はやや遠く、金属質の響きを帯びた声だった。
恐らく録音していたプレイヤーは死銃の傍にはいなかったのだろう。
死銃の為に録音していたわけではないだろうからそれも当然と言える。
『恐怖に怯えて死に狂え雑魚プレイヤー! 俺とこの銃の名は《死銃》……《デス・ガン》だ! カップル撲滅ゥ! ヒャハハ────』
「────な、に……?」
思わず、喉の奥から声が漏れた。
尻すぼみに小さくなっていく笑い声。録音はここまでらしい。
だがその声は和人、いや、キリトの脳髄の奥にこびり付くようにして、記憶を揺さぶる。
この笑い方をする男を、自分は知っている。
何か聞き覚えのある言葉もあったような気がする。
チリチリと焦げるように脳の奥が突かれるが、答えが形成されない。
何かを忘れている。重大な何かを。
思い出さなければならない何かを、忘れている。
そう言えば《つい最近も似たようなこと》を考えた気がするが、それとは近いようで遠い気がした。
「二件目の方は相方の女性と一緒にスコードロン──いわゆるギルドのことらしい──内で檄を飛ばしていた《薄塩たらこ》氏が銃撃され同じようなことを言われたらしい。現実の彼も遺体で発見されていて状況はゼクシードこと新保君と殆ど同じだね」
「……」
「相方はなかなかの美人らしくてね、ベストカップル賞なんてものをもらったこともあるらしくてその点については死ぬほど羨ましいと思わないでもないけど、実際死んでしまっているからね。そうまではなりたくない、と思うのは不謹慎かなやっぱり」
「……」
「そうそう、カップルが狙われるんだから君の彼女も一緒に参加すればより接触の可能性が……」
「──ダメだ!」
和人は自然と大き目の声を上げていた。
力強いその声は菊岡を驚かせる。
周りのマダム達の視線が刺さるように向けられるが、今の和人は気にしない。
それよりも重要なことがあった。
この声の主と《アスナ》を会わせてはいけない。
形さえ見えない記憶だが、菊岡が言った彼女と一緒に、という言葉からそれだけが掬い出される。
「この件はアスナには言わないでくれ。いや、関わらせないでくれ。もしその約束が守れないなら今回の件も含めて今後協力は一切できない」
「……君がリアルでそこまで感情を見せるのを初めて見た気がするよ」
「今は俺の事はいい。その条件を呑めるのか」
「う~ん、構わないけど一人ではカップル狙う相手に目を付けてもらうのは難しくないかい?」
「……もともと百パーセント接触出来る可能性があったわけじゃないんだ。それはアンタも了承しただろう」
「……わかったよ。僕から彼女への協力依頼はしない。これでいいかな」
「……ああ」
「まあ僕が行くよりは君の方が遥かに確率はあるし、リアルでは……いや別の仮想世界でもだけど恋人持ちなんだから存分にそんなオーラを撒き散らしてくれ」
「……アンタって奴は」
菊岡の冗談じみた軽口が復活する。
真面目な話は終わり、ということでもあるのだろう。
何か言い返したい所ではあるがここはグッと堪えておく。
十分な安全措置は取るし細かい日程などは追って連絡する、ということで話も固まったので、和人は今度こそ席を立ち、菊岡も止める素振りは見せなかった。
そのまま和人は席を離れ、店を出ようとしてドアノブに手を触れようとした時、目前のドアが勝手に開いた。
正面には女性の来店客。
和人は邪魔にならないよう一歩下がってから右横に寄り、道を譲った。
「ありがとう」
まだ妙齢と評しても差し支えないだろう女性は小さくそう言うと、きびきびとした歩きで和人の横を通り過ぎていく。
仕事の出来る女性、そんな言葉が和人の頭に浮かんだ。
眼光は鋭く、ワインレッドのレディスーツをピシッ着込んだその立ち振る舞いには一分の隙も見せない。
なんとなく印象に残る人だな、と思いつつ和人は今度こそ店を出るべくドアに手をかけた。
背後から近寄ってくる別の人の気配を感じたので、彼女も誰かと待ち合わせだったのだろう、などとぼんやり考えつつベルを鳴らして外へ出る。
閉じる直前のドアの向こうから、
「お待ちしていました、京子先生」
そんな会話が聞こえた。
「……偶然って恐いねえ」
和人の背中を見送りながら、菊岡は結局一つも手を付けなかった和人のデザートを処理していた。
フランボワズのミルフィーユを口へと運びつつその視線は和人と擦れ違った女性に向いている。
そのうちテーブルの上の品物を粗方食べ尽くすと、菊岡は会計を済ませて店を出た。
総計はギリギリ諭吉さんに届かない額だった。経費で落としているので彼の懐は痛まない。
しかし国民の血税で美味しい思いばかりをしていると益々官僚の立場は悪くなりそうなので、そう何度もやるわけにはいかない。
「だから今度はちょっとグレードの落としたあそこにしようかなあ。最近行ってないし。美味しいんだよねえあそこのモンブラン」
冗談交じりにそう呟きながら菊岡は携帯端末を取り出す。
先に使ったタブレットとは別のものだ。タブレット端末でも通話をすることは可能だが、極力菊岡はタブレットでの通話はしない。
タブレットでの通話はオーソドックスなネット回線経由で行われる。
セキュリティが高いとは言えず、《盗聴》を警戒するなら使わない方が無難だ。
「もしもし? あ、僕だけど、うん……うん。いやあ、確かに君の言うことも一理あるけどねえ、僕としては《彼》がやはり適任だと思うよ、言いたいことは分かるけど《お姫様》の方はねえ」
菊岡は苦笑しながら携帯を持つ手を持ち替え、念の為に背後を振り返る。
そこには誰もいない。
「確かに父親は電子機器メーカーの人間だけど……うん、うん、わかったよ。彼の《精神状態》は確かに芳しくない。《お姫様》を使う事も視野に入れるさ。……というわけで、ちょっと頼みがあるんだけどさ──迎えに来てくれない?」
菊岡の少々笑いの混じった迎えの要請に、電話の相手は残念ながら応える気は無かったらしい。
ちゃんと自分で帰ってこい、というような旨の内容を叩きつけられ電話を切られる。
電話の相手とは決して不仲ではない。しかし忙しさから言って電話相手の彼に頼むのは確かに酷だったか、と菊岡は納得する。
「さて、タクシーを拾うか自分で歩くかだけど……しょうがない。ここは自分で歩こう、国家予算の為に」
タクシー代を経費で落とせるか考え、不可能ではないと計算しつつも菊岡は自重した。
その代わりに、やっぱり次の外勤では経費でグレードの高い美味しいモノを食べようと決めながら。