「朝田ぁ」
学校の帰りに、朝田詩乃はスーパーとゲームセンターの間にある細い路地裏からの声に呼び止められた。
スーパーで買い物をしてさっさと帰ろうと思っていた詩乃にとっては面倒な事この上ない。
さらに相手が《彼女達》とあっては尚更だった。
詩乃は白いマフラーの中で溜息を吐くと、小さく「なに?」とだけ尋ねる。
声を発するとマフラーの中で跳ね返る吐息が暖かい。
そんなことを感じながら萎えそうになる心に喝を入れてセルフレームの眼鏡越しに相手を睨む。
「こっち来いよ」
三人ほどの女子高生のグループは詩乃と同じ制服を身に纏っていた。
もっとも彼女たちのスカート丈は詩乃それよりもだいぶ短かったが。
彼女たちは詩乃のクラスメートだった。
彼女たちの中のリーダー的存在である遠藤が、手を招く。
無視して何処かへ行こうと思ったのだが、その前に一人の女生徒が詩乃の左手首を掴んで路地の奥まで引っ張ってきてしまった。
「わり、朝田。ちょっと電車賃貸してくれない? これだけ」
指を一本立てる。
百円でも千円でもない。
無論一円であるはずもなく、一万円という意味だ。
彼女達からあからさまな金銭要求はこれが二回目だった。前回は持ち合わせがないと断ったのだが。
春に彼女達の本性を知らぬまま、マヌケにも友人として付き合い始めたのが運の尽き。
いろいろな事情から彼女らについていけないと思った詩乃は付き合いを無理矢理やめたのだが、そんなに簡単な話なわけもなく。
詩乃が見切りをつけたことを知った後も彼女たちは詩乃に寄生するようになかなか離れなかった。
あるいは彼女たちの復讐でもあるのだろう。
詩乃は彼女達に勝手に一人暮らしの自室を使われ、見知らぬ男性まで部屋に上げられていた事に恐怖し、警察に訴えた。
それから、彼女たちの行動は酷くエスカレートしだしたのだ。
「そんなに持ってるわけない」
「じゃあ下ろしてきてよ、すぐ近くのコンビニにATMあるっしょ」
「……」
今日は逃がさないとばかりに捕食昆虫じみた印象の遠藤はラメ色の唇をぺろりと舐めた。
非常に面倒かつやっかいなこと極まりない。
ここでお金を貸せば返ってくることなど考えられず、次も容赦なく集りにくるのは目に見えている。
言いなりになってはいけない。弱い心はいらない。
そう自分に言い聞かせて詩乃は小さく息を吸い込み、拒否の言葉をはっきりと告げる。
「嫌。貴方たちにお金を貸す気は無い」
「は? 舐めてんのか?」
遠藤の顔つきが笑みから怒気へと様変わりする。
だがどれだけ凄もうとたいしたことはできないと詩乃は踏んでいた。
一度警察沙汰になった彼女たちだ。これ以上は大事の事件にしたくないだろう。
しかし。
「あーさだぁ?」
「ッッッ!?」
遠藤がニヤニヤと手を《銃》の形を真似る。
それが詩乃に向けられた時、詩乃の心臓はドッと跳ねた。
「バーン!」
「ひっ……!?」
弱い声が漏れる。
これが自分だと思うと情けなくてイライラするが生理的嫌悪は意識的に制御できない。
うっ、と胃から何かが込み上げ、その場に戻してしまう。
理由はハッキリしていた。
自身の《トラウマ》によるもので、彼女たちはそれを正確に突いたのだ。
警察の件があって以降、どうやって調べたのか遠藤らは詩乃の過去を洗いざらい調べ、詩乃の弱点を見つけ出した。
彼女の過去にまつわる黒い歴史を。
「おいおい汚いな、吐くなよ朝田ぁ」
面白がるように笑う遠藤の声が酷く耳障りだが、今は激しくなった動悸でそれどころではない。
弱い心をどうにかしたいと思っているのに、現実の彼女は《銃》を見るといつもこうだった。
足から力が抜けそうになる。
(……誰か、助けて………………)
「……それで?」
「だ、だから里香姉さんに相談を……」
喫茶店の中で、向かい合うようにして座っている男女が一組。
そのうちの女性、篠崎里香は不満そうに頬杖をついて対面に座る男を睨む。
対する男は気まずそうに汗をだらだら流しながらなんとか弁解を試みようとしているようだった。
男は痩せた小柄な少年で、黒いベースボールキャップを被りジーンズにナイロンパーカー姿。席の隣には深緑色のデイパックを置いている。
顔の輪郭は丸みを帯びていて幼さを醸しているが、両目のあたりに宿る濃い陰影が年相応さを表している。
「あのねえ恭二」
「う、うん……」
「相談ならもっと別の事を早くしなくちゃいけなかったんじゃないの?」
「う……」
里香は言葉に詰まる恭二を尚睨む。
目の前にいる少年、新川恭二は里香の幼馴染の少年だ。
今日は彼に相談があると呼ばれて会ったのだが、彼の近況を聞いた里香は怒りを通り越して呆れてしまった。
「学校に行かなくなったのは……不登校し始めたのはいつ頃なのよ」
「二学期からは一度も……」
「はぁ!? じゃあアンタ進級に日数足りてんの!?」
「い、いや学校はもう自主退学しようかな、って……」
「あんたねえ! 同じ学生の身の私が言うのもなんだけどさ、せっかく高校に入れたんだしちゃんと卒業しておかないと後々困るわよ!」
「う、うんそれはわかってるんだけど……」
「で、理由は上級生のイジメ? バッカじゃないの? ガツンとやってやんなさいよガツンと!」
「うう……」
「……バカ。そういうことこそさっさと相談に来なさいよもう」
里香は溜息を吐いて店員の置いていった伝票でコツンと恭二の頭を叩く。
恭二は顔を伏せてしまった。
里香はガシガシと自身の後頭部をかく。
恭二は昔から押しが弱い。イジメに遭ったのも初めてではない。
その都度彼女は相談しなさいと言ってきたが、臆病・弱虫・意気地無しの三拍子揃うこの男は里香にそういった類の弱さを漏らしたことは殆ど無い。
それは恐らく、彼の中に残った僅かばかりの男としてのプライドなのだろう。
それがわからないわけではない里香だが、取り返しがつかなくなる前にせめて話して欲しかったと思う。
弟のように思っていた相手ならば尚更だった。
「それで今アンタはどうしてんの? 学校止めるなんて親父さんが許さないと思うけど」
「まあ……父さんとは結構揉めたけど、結局《高認》──高等学校卒業程度認定試験──を受けてノータイムロスで父さんの卒業した大学の医学部へ行くっていう約束で一応落ち着いたよ。今は予備校の高卒認定試験コースに通ってる」
「ふぅん、何か普通より大変そうねえ」
「そうでもないよ。本当に勉強するだけだから学校へ行くよりは気楽だし、カリキュラムも一年だからね」
「へ? じゃあ一年経ったらどうするの?」
「とりあえず年二回の高認受けて高等学校卒業程度認定をもらう、かな。一回ではダメでも合格ラインに達した科目は次の受験で免除になるから残った科目を集中的に勉強すればいいし」
「……ちょっと待って。それってすぐ受けられるものなの? 十八歳からとかじゃ……」
「えっと、《高認》は受験年度中に十六歳になっていれば受験可能だよ確か」
「……アンタ、それって普通に高校卒業するより早く大学に入学出来る可能性もあるんじゃないの?」
「いや、それは無いよ。例え早々と合格できても十八歳の誕生日までは大学受験資格はもらえないんだ。それに合格基準はそこまで高くないから大学受験用にまた別の予備校に通う必要もあるだろうし。そもそも大抵の大学は受験資格の一つに高卒で十八歳以上って決まりがあるよ。特例もあるらしいけど殆ど摘要事例は無いんじゃないかなあ」
「へえ、何だか車の運転免許みたい」
「く、車の免許って……」
確かに制度に似通っている部分はあるが一緒にはしないで欲しい、というのは恭二の我が侭だろうか。
しかしいつしか塞ぎ込むような態度だった恭二は里香に乗せられるように会話を続けている。
里香はこうやって沈んでいる恭二を持ち上げるのが上手かった。長年の経験によるものでもあるのだが。
恭二は自分の知っている知識を披露することを好む。知っている事を聞き、それを説明させ、こちらが感心すると得意げに饒舌になるのだ。
ただしそこに態とらしさがあってはいけない。本当は知っているのに尋ねると、それだけで恭二は機嫌を損ねる……もとい自分の殻に篭もる。
恭二を励ます為に意図的にこれが出来るのは、恐らく里香くらいのものだろう。
「しっかしねえ、こうなる前に私には一言欲しかったわやっぱり。そーんなに私が信用無い?」
「そ、そうじゃないけどさ……」
里香の意地悪そうな視線に恭二は目を逸らした。
初心な奴め、と里香は内心で笑う。
恭二が里香に弱みを見せないのは男としてのなけなしのプライドだが、感情的にはやや異なる。
恭二の初恋相手が里香だったからだ。
「あ~悲しいわ。あんなに私に一途だった恭二が私を頼ってくれないなんて!」
「む、昔の話だよ! それに今頼ってるじゃないか!」
「他のオンナのことで、なんて言われるからちょっとビックリしたわよ。アンタにそんな甲斐性があるとはね、でも姉さん悲しいッ」
「ひ、人のことをあんなに盛大にフッておいてそれはないよ……」
顔を真っ赤にしながら恭二は自分の目の前にあるクリームソーダのストローを加えて一気に吸い込む。
そんな恭二を見ながら、里香は微笑んだ。
里香にとって恭二はどこまでいっても弟みたいなものだった。
面倒見の良さから恭二のことを良く理解してあげていたが、恭二からしてみればその性格も相まって親しい女友達などいなかった為に心奪われるのは必然だった。
それからというもの恭二は泣き言だけは里香に言わなくなった。
急に自分を頼らなくなった恭二に当時は里香も少々混乱したがそれほど気には留めなかった。
精々ようやく手がかからなくなったかな、程度の認識でしかなかった。
それからしばらくたったある日、恭二は里香を近所の公園に呼び出した。
精一杯のおしゃれをした恭二は緊張ながらに里香に言ったものだ。「将来結婚して下さい」と。
それに対する里香の言葉は実に冷ややかだった。
「やだ。だってアンタ弱虫だもん」
ずぅぅん、とその場に崩れ落ちる恭二。里香からもらう初めての拒絶の言葉だった。
里香は「そういうところがだめなのよ」と言いつつも「言い過ぎたかな」と心配する。
恭二が幼いながらに自分に好意をらしきものを寄せているのには気付いていた。
しかし里香にその気は微塵も無かった。面倒をみなくてはいけないという責任感から来る姉のような心境しか恭二には抱いていなかったのだ。
それでも面と向かって「結婚して」なんて言われるとは思っておらず、些か照れと混乱が入り交じった里香は普段以上にキツイ言葉で恭二を否定してしまった。
だが珍しく恭二はめげなかった。立ち上がり、里香の肩を掴んで「どうすれば良いの!?」と揺さぶりながら尋ねてくる。
あまりの必死さに初めて恭二に少しだけ恐怖を抱いた里香は一瞬萎縮してしまい、言葉に詰まった。
しかし何を思ったのか恭二は、その時の里香を見て自分を認めた物と勘違いしてしまった。
里香の潤む瞳が自分を待っていると思い込み、彼女と唇を重ねようとし……情け容赦の無い顔面パンチを頂戴したのである。
そのまま怒った里香は帰ってしまい、恭二は自室に引き籠もった。
だが次の日、里香は何事も無かったかのように一緒に習い事に向かうべく恭二の家を訪れた。
恭二は部屋から出てこなかった。部屋で塞ぎ込んでいた。
そんな恭二の部屋に里香は無理矢理侵入して恭二を部屋から叩き出した。
ビシビシと背中を叩き「遅刻する!」と渇を入れて無理矢理に連れて行く。
そのあまりにいつも通りの様子に恭二はワケがわからなくなった。
そんな恭二に、里香は目を合わせずに言ったものだ。
「アンタは私の弟みたいなもんなの。それ以上にはなれないけどそれ以下にもなれない。覚えておきなさい」
ギュッと掴まれた手の暖かみを恭二は今も覚えている。
その時、何故かスッと納得したのだ。彼女とは結ばれない。だけど、距離が離れることもないと。
だから、当時里香の耳が赤くなっていたのは里香だけの秘密だったりする。
恭二が里香に頼る時、未だに自身のことについては弱音を吐かないのは当時のことが少なからずあるのだろう。
それが里香にとっては少し寂しくもあり、嬉しくもある。
見栄を張っていても、頑張れるという成長ぶりが見られるからだ。
もっとも、溜め込み過ぎて今回のように相談される前にことが終わってしまっていては本末転倒だが。
「アンタはもう、それでいいって決めてるのね?」
「う、うん……そうなんだけど」
煮え切らない。
こう言う時は大抵「それでいい」わけではないと相場が決まっている。
里香は内心で溜息を吐きつつ、とりあえずは追求の手を一旦緩めた。
その事は後でたっぷり搾り出すとして、今はここに呼ばれた本当の目的について考えてやることにする。
こちらも根掘り葉掘り聞かねばなるまい。主に里香が楽しむために。
「それで? アンタが知り合いの女性のことで相談したいことってのはナニ?」
「あ、うん。実はその子にはちょっとトラウマがあって、克服するにはどうしたら良いのかなって。ほら里香姉さんはそういうのに無縁そうだからさ、その図太さの秘訣を……」
「……ほう」
里香の瞳がすぅっと細くなる。
彼女は恭二にだけ視認できるんじゃないかと思うほどの禍々しいオーラを纏い、その右拳をテーブルから持ち上げた。
失言に気付いた恭二は慌てて言い改める。
「じゃなくて! 美しい里香姉さんの素晴らしき女性としてのお考えをお聞かせ願いたく……」
「……敬語おかしいわよバカ。あんたも懲りないわねえ」
持ち上げた拳を里香はゆっくりと降ろす。
恭二はホッと一息吐きながら恐る恐る里香を見ると里香は不機嫌そうにストローでクリームソーダを飲み干したところだった。
コロン、と氷がグラスに擦れて音を立てる。
「里香姉さん、同じ物でいい?」
「いいわよ、そんなに気を使わなくても」
「いいからいいから。お小遣いだけは一杯くれる親父だから。すいませーん、クリームソーダもう一つお願いします」
恭二は店員にクリームソーダをもう一杯注文する。
昔からこういう気の使い方だけは恭二は上手かった。
ただそこには財力に物を言わせる部分が多少なりともある。
女性がそれで喜ぶかどうかは一概には言えないが、奢られて嫌な気分になる子は少ないだろう。
ただし、それも相手によりけりで、齢を重ねればズルイ考えを持つ奴はそれなりに多くなり、集ることを覚える者も少なくない。
恐らく恭二が学校でイジメられたのもその辺りに原因の一端があったのだろうと里香は推測する。
気前よく奢った後、それが当たり前になり、エスカレート。
上級生からの命令、となれば断り難い部分もあるのだろう。
里香は最初に恭二に対してガツンと言ってやれ、と己の情けなさを諭すようなことを言ったが、内心では恭二の苦しみに何もしてやれなかったことをそれなりに悔いていた。
無論恭二自身にも悪い部分はあったのだろうが、そこにつけ込んだ上級生達はもっと悪いと里香は理解している。
「お待たせしました」と追加のクリームソーダが届くと、恭二は再び語り始めた。
「その子、とても「銃」が苦手なんだ。昔、嫌なことがあったらして」
「嫌なこと、ねえ。苦手ってどれくらい?」
「モデルガンとか見たら発作が起きて、悪い時は戻しちゃうくらいに。写真ならなんとか耐えられるみたいだけど、手を銃の形にしているのを見るのも恐いみたいなんだ」
恭二は右手の親指を立て、人差し指を伸ばして中指から小指までを握り、銃の形を作る。
それを里香の顔に向けて「バン」と言って人差し指を天上へ向けた。
「こんな仕草でも凄いことになる。前にふざけてやった人がいて、そのあとが大変だった」
「そりゃ重傷ね。一体何があったっての?」
「……誰にも言わないでよね。本人はあまり知られたくないみたいでわざわざ遠くからこっちの方まで来たみたいだから」
頷く里香に恭二は説明する。
幼い頃、その子は郵便局で強盗に出くわしたのだと。
父親は物心つく前に交通事故によって亡くなっており、彼女の知る親は母親だけだった。
母親は夫、父親が亡くなったショックで精神を少しばかり患っており、その子は幼いながらに母親を守る気概を持っていた。
その郵便局に母親と二人で出かけた際、強盗に巻き込まれ、その子は母親を護ろうと必死に戦った。
強盗は銃を持っていたが、彼女が怯むことは無かった。
その時、いかな詳細な事情があったのか、流石に恭二は聞かされていない。
ただ事実だけを言うならば、結果的にその子は強盗の持っていた銃で強盗を殺してしまった、ということだ。
名前も知らない男を、まだ小学生の女の子が。
その後の経緯についても詳しい事を恭二は知らない。
だがおおよその想像をすることはできる。恐らく、そう遠くはないだろう。
人殺しのレッテルを貼られ、周囲からの視線が強かったに違いない。
恭二からの話を聞いた里香はなんとなくそう思った。
「トラウマ、PTSD、とかいうヤツだっけ」
「正しくはPosttraumatic stress disorder……心的外傷後ストレス障害だよ」
「へえ、流石医者の子ね」
「う、うん……」
「……?」
里香は褒めたつもりだったのだが、恭二の反応は鈍い。
バツが悪そうに視線を逸らすその仕草は昔からあまり触れられたくないことについての話なのだとわかる。
同時にそれについて深く悩んでいるであろうことも。
その件についても後でたっぷり《取り調べ》をすることを頭の片隅にメモしておき話を続けた。
「それでその子は銃を見ただけで様々な症状に苛まれるようになった、と」
「うん、過呼吸からの全身硬直、見当識の喪失、嘔吐、酷い時は失神までするみたい。ショック症状としてはやっぱりそれなりに酷い方だよ」
「ふぅん、《月のもの》でもそういった子が偶にいるけど、それともちょっと違うみたいだし……」
「《月のもの》?」
「あら? 医者の息子ともあろう者がわからないの? オンナノコの月に一回は来るモノよ」
「え? あ、あ~~~!! せ……」
「ストップ! 私が何のためにボカして言ってると思ってるのよバカ! アンタは気が利くんだか利かないんだか頭が良いんだか悪いんだか本当にわからないわね」
「ご、ごめん……」
「もう……で、さっきの話だけど、オンナノコの中には似たような症状を月イチで経験している子はいるのよ。その子も女の子ならその苦しみはわかるはず。それでも尚辛いとなるとやっぱりキツさのレベルそのものが違うと見るべきね。そうなると……」
里香は「う~ん」と思い悩む。
相談されたのだから力にはなってやりたいが、正直どうアドバイスして良いものかわからない。
だいたい、精神、トラウマに対する特効薬、治療があるのなら、《こちらが聞きたいくらい》の気持ちではあるのだ。
SAOプレイヤー達が解放される為に尽力した英雄──本人はそう呼ばれるのを好まないが──キリトは、まさに今精神的病巣を抱えていると言っても良い。
日常生活に支障をきたす程のものではない。
だがアスナ/明日奈がいないときのキリト/和人は時折見ていられないことがある。
人をくったかのような小憎たらしい雰囲気。周囲を和ます笑み。自然と微笑んでしまう子供っぽさ。
それらの感情の表出が悉く今の彼は薄い。
友人としてなんとかしてあげたいと思う一方、できることがほとんど何もないことが悔しかった。
「里香姉さん? どうかした?」
「え? あ、ううんなんでもない」
恭二の心配そうな声に里香は我に返った。
少し考え過ぎてしまったらしい。
「でもごめんね恭二。あんまり力にはなれないかも。そこまでいくと専門分野の方が良いだろうし」
「……やっぱり、里香姉さんもそう思うのか……うん、よし」
「……?」
意味深な恭二の独り言に里香は首を傾げる。
恭二はそんな里香には気付かず、ふと思いついたように口を開いた。
「そうだ里香姉さん、もし良かったら今度その子と会ってあげてくれないかな」
「へ? なんで?」
「僕より同性の方が話しやすいこともあるかもしれないし。それに里香姉さんなら信じられるから」
「……そっか、まあ恭二の頼みだしね。クリームソーダ二杯分くらいは働いてやるわよ」
「そんなつもりで奢ったんじゃないんだけど……」
「アンタねえ、そこは爽やかに笑っていればいいのよ」
「さ、爽やか?」
意味がわからないと恭二は首を傾げ、里香はそんな恭二の顔を見て微笑んだ。
先の予想は恐らく大きく外れていない。
多分、その子はあまり友人もいないのだ。信用できる人すらも。
だから恭二は自分に頼り、良ければ話し相手になって欲しいと頼んだ。
もしかしたら今日の一番の目的はそれだったのかもしれないと里香は恭二の考えを予想する。
話も纏まってそろそろ出ようか、という流れになり、伝票を取って会計に向かう恭二の背中を見ていた里香は、ふととあることを思い出した。
「ねえ恭二」
「うん?」
「同い年くらいの可愛い女の子紹介してあげよっか?」
「………………は? えっ、ちょ、なんで!?」
恭二の戸惑いぶりにお腹を抱えつつ、里香は心の中で年下の友人に謝る。
こりゃダメだ、と。
(ごめん珪子、こりゃどのみち紹介できそうになかったわ)
「ありがとうございました」と店員の声を背中越しに聞きつつ、二人は喫茶店を出た。
十二月の風は否応なく二人の体温を急激に奪う。
喫茶店内は暖房が効いていたが一歩外へ出ればこうなることはわかっていた。
「う~さむさむ!」
「里香姉さんなんかおば……」
「何よ」
「……なんでもないです」
ギロリと睨みつけられた恭二はそれ以上何も言わなかった。
非常に賢明な判断だったと本人は自負していたのだが、残念なことに里香には看破されていた。
OSHIOKIという名の容赦ない拳骨が恭二の後頭部に直撃する。
「あいたあ!?」
「ふん!」
里香の不興を買ってしまったことに遅ればせながら気付いた恭二は頭をさすりながら先を歩いて行く里香を追う。
その背中はプリプリとした怒りを体現しているようだが、傍から見ると可愛らしいことこの上ない。
(そういうところは、昔から乙女なのになあ里香姉さん)
なんとなくまた失礼なことを考え始め、恭二はぶんぶんと頭を振った。
これ以上の不興を買うと我が身がリアルで危ない。
なんとかご機嫌取る方法を考えながら恭二は里香に追いつく。
里香が向かっている方向は駅なので、帰るのだろう。
別れる前に気の利いたことを一つでも言っておかないと後が怖い。
そう思っていた時のことだ。
駅に向かう途中にあるスーパーとゲームセンターの丁度間にある細い路地から、恭二は聞き知った声と名前を聞いた。
「────朝田ぁ」
恭二は足を止めて暗い路地の奥に目を凝らした。
うっすらと見えるそこにはやはり自分が通っている……否、通っていた学校の女生徒の制服姿が見えた。
いつもの恭二ならそこで無関係を気取るところだが、その女生徒の姿を見るとそういうわけにはいかなくなった。
「……っ、朝田さん……!」
恭二の様子がおかしいことにやや先行していた里香は気付いた。
小走りで戻ってくると、恭二の見ている細い路地奥では何やら誰かがいるようだ。
「知り合い?」
「……さっき相談していた子だよ。多分今、絡まれてる。なんとかしないと…………!」
「しょうがないわね…………あ、おまわりさーん!!」
里香の大きい声に、路地奥から戸惑いが伝わってくる。
いける、と思った里香はさらに声を張り上げた。
「すいません、こっちこっち! 誰かが絡まれるみたいで……!」
すぐに数人の女生徒が逃げ出していくのが気配でわかった。
恭二は慌てて立ちすくむ少女の元へ駆け寄る。
「……大丈夫? 朝田さん」
「新川……君? あれ、警官は……?」
「出任せだよ、上手くいくもんだね」
「そっか、ありがとう……」
力が抜けたみたいにその場に倒れ込みそうになった詩乃を恭二は咄嗟に支える。
そこへ遅れて里香も近寄ってきた。
「どう?」
「なんとか」
少しぐったりしている少女を見やって、里香は恭二が言っていたトラウマが相当に酷いことを再認識した。
一目で憔悴ぶりが窺えるほどの少女を見ると、里香としては何故彼女たちがこんなことをするのかわからないとばかりに怒りが込み上げてくる。
「う……え? あ、と、どちら様……?」
里香に気付いた詩乃は少し怯えた顔で里香に尋ねた。
考えてみれば初対面なので当然だが、先の声を張り上げたのは恭二ではなく里香だ。
その時点で女性もいる、と思ってもおかしくはないはずだが、そこに気付けないほどショック状態によって混乱していたのかもしれない。
「あ、えーっと……」
恭二がなんて言おうか迷っているような声を出す。
詩乃はそんな恭二の態度で、勝手に理解を示した。
「あ、そっか。ごめんねデートの邪魔して。綺麗な彼女さんだね、私はもう大丈夫だから新川君は彼女さんと……」
「なぁっ!? い、いや違ッ!?」
恭二のとんでもない慌て振りに、里香は頭を抱える。
本当にバカだよこの子は、と。そこまでオーバーに反応したら逆に怪しい。
恭二としては力強く否定したいところなのだろう。特にこの子相手には。
里香は先の相談の件からおおよその恭二の心境を推測している。
(全く色気づいちゃって……)
若干の寂しさを覚えないではないが、応援したい気持ちの方が強い。
しかしこの流れは良くないのも事実だった。
さてどうしたものか、と里香が考えた時、
「あれ? リズ?」
偶然とは続くものなのか、知り合いの声が聞こえた。
里香は咄嗟に振り返り、そこに黒髪の少年の姿を見る。
彼は無表情にこちらを眺めていた。
恐らく実はあれでも不思議そうな顔をしているつもりなのだろう。
そのギャップに少しばかり胸を痛めつつ、彼がこんなところにいる珍しさに里香も驚いた。
しかしすぐに現状を打破する最高の案を思いつく。
「キ……和人! おっそいわよ! ほらほら!」
里香はわざと大き目の声でそう言うと、無理矢理そこにいたキリト/和人の腕を掴んでまるで恋人のように歩いていってしまった。
ちらり、と恭二にアイコンタクトを送る。
──上手くやんなさいよ。
珍しく恭二はその意味を正しく把握する。
心の中で「ありがとう」と告げつつ恭二は詩乃に勘違いであることを冷静に説明することが出来た。
「お、おい……? リズ?」
「ごめんごめん」
里香は謝りながら手を離す。
声のイントネーションには焦りや疑問が内包されているのにその顔には些かも表されていない。
そこに僅かな哀しみを覚えながら里香は説明した。
「あの場に私の知り合いの男の子とその子が好きな女の子がいてね。私が彼女だと勘違いされそうだったからその子の為にちょっと一芝居うったのよ」
「なるほど」
それで納得したらしい和人はそれ以上何も聞かなかった。
代わりに里香が尋ねる。
「そういうキリ……和人はなんでここに?」
「外ではキリトでもいいよ。リズもそう言ってただろ?」
「あ、うん」
「俺はちょっと呼び出されて……」
「誰に? っていうかアスナはいないの? 珍しいね」
「ああ、まあ……今日の呼び出しは総務省の人だったから」
「あ、そうか……うんわかった。ごめん、何も聞かない」
里香は察したようにそれ以上の追及を止めた。
和人は今でも総務省の人とそれなりに繋がりがあるのは仲間うちならある程度知っている。
里香はそれをSAO事件での中枢に近いプレイヤーだったから、と認識している。
他のみんなも似たようなものだろう。
それも無いわけではないが、実際にはそういうわけではない。
SAOでの話はほとんどケリが付いている。和人が菊岡の用事に応じるのは借りの返済のためだ。
しかし和人はそれを説明するつもりはなかった。
勘違いしているなら、この件に限ってはそれでいいと和人は思っている。
菊岡が百パーセント信じられない以上、和人はみんなに極力リアルでの接触の場は広げたくなかった。
ゲーム内ではクリスハイトとしてそれなりに仲良くなってきている。
繋がりとしてはそれだけで十分だと和人は考えていた。
唯一、アスナだけはその辺の事情を理解している。
「それじゃ俺、こっちだから」
「あ、うん。またね」
「ああ、それじゃ」
駅に着いたところで二人は別れた。
和人の背中を見つめながら、里香は溜息を吐く。
精神的ショックへの対処療法は、やっぱりこちらの方が知りたい、と。
その時、里香の携帯端末が振動した。
確認してみると恭二からで、いつ彼女と会えそうか連絡が欲しいという旨の内容だった。
そこで閃く。
和人はあんな調子だが、唯一アスナにだけはその限りではない。
それは二人の関係もあってのことだろうが、アスナ自身も胸を痛め、同時になんとかしたいと思っているはずだ。
彼女のことだからその為の努力も惜しんではいまい。
それなら先の女の子と会うときにはアスナもいた方が良いのではないだろうか、と。
早速その旨のメールを恭二に返信する。全てを説明するわけではない。
心強い女友達を一人一緒に連れて行っても良いか、というだけのメール。
恭二はすぐに返信してきた。
その文面を見て、里香はアスナに電話をかける。
「あ、もしもしアスナ……? ちょっと頼みと言うか、今度でいいから付き合ってほしいことがあるんだけど……」