「アスナ、話があるんだ」
互いにベッドで横になり、見つめ合うような体勢を取ってから彼、和人/キリトは珍しくそう切り出した。
彼らが横たわる豪奢な天蓋付きの大きなベッドは現実ならゼロが五つ程ついてもおかしくないが、バーチャルワールドであるここ、ALO──アルヴヘイム・オンライン──では現実ほど手が出ないというものでもない。
世界樹の上に位置する街、《イグドラシルシティ》。その街にある共同出資にて借りているプレイヤーホームの一室。
寝室として使用しているこの部屋は今遮光カーテンによって外の光はほぼ遮られている。
時間が合えば月明かりを楽しむが、生憎と今のALOは昼間だった。
ALOは現実と時間の感覚が違う。一日二十四時間ではなく、十六時間で一日となる。
恐らくは社会人など同じような時間にしかプレイできない人の為への配慮だろう。
同じ時間にプレイしていてもいずれは昼間と夜の両方を楽しめる。
夜、あるいは昼で無ければ発生しないイベントも多々あることから不思議な話ではない。
なのでそのシステムに意を唱える気持ちはこれから眠ろうと思う二人にも全く無い。
室内唯一の明かりであるランプの炎がゆらゆらと揺れる。
リアルと違いVRワールドでは火事の心配がない。その心配さえ無ければこの明かりもなかなかに良いものだ。
ましてSAOでは近代文明的なアイテムはほとんどなく、こういった物が主流だったので懐古の念と共に慣れてきている感覚も否めない。
「どうしたの?」
明日奈/アスナはランプの灯りによって色濃く影が見える彼、リアルとは些か違う出で立ちのスプリガンアバターでいるキリトの頬を撫でながら尋ねた。
彼が寝る前に改まって話題を振るのは珍しい。
思い出したように何か話すか、そうでなければ比較的すぐに眠ってしまうのが常の彼だ。
もっとも、アスナはそこに不満があるわけではない。
眠った彼を見ているだけでどことなく落ち着けるし、かつて伝説の城で経験したような幸せな気持ちが溢れてくる。
現実ではあらゆるしがらみがまだ一緒になることを赦してはくれない。
こんな素敵な部屋と豪奢なベッドも用意できない。
しかし《ここ》ならそのどれもが叶うのだ。
その為アスナはそんなここ、ALOのことをとても愛していた。
だから、
「俺、このALOの《キリト》をちょっと別の世界にコンバートさせる、かも」
「え……」
その言葉はアスナの愛してやまない世界を揺るがしかねない可能性を孕んでいるように聞こえた。
コンバートとは《ザ・シード》によって作られた別のVR世界へ渡るとき、今あるキャラクターのステータスをその新たな世界の中で同列の物に変換してくれる機能だ。
単純に言えば、筋力の強いキャラクターが別の世界に行けば、その世界にある筋力パラメータ、もしくは筋力が強いキャラクターで新しい世界を楽しむことが出来るというもの。
レベルで言うならレベル五十のキャラクターが別世界へ行けばレベル五十相当の強さを持つキャラクターからスタートできるということだ。
ただし持ち物やお金は様々な理由からコンバートは不可とされている。出来るのは飽くまでステータスのみだ。
それ故通常コンバートは《観光目的》ではなく《移住》を意味することが多い。
ちょっと別のゲームも体験してみよう、というよりは今やっているゲームを辞めて別のゲームで楽しもう、というニュアンスが強いのだ。
それを知っているアスナとしても心境穏やかではいられなかった。
「キリト君、ALO辞めちゃうの……?」
アスナは仮想の涙さえ滲ませた。
彼女には夢があった。まだやりたいことがあった。
いや、永住さえ考えていた。まだ二十層までしか解放されていない伝説の城、浮遊城アインクラッド。
次のアップデートでは間違いなく二十二層に辿りつけるはずだ。
そこであの時のログハウスを購入し、彼と一緒に住む。
それはもうすぐ叶うはずだった。今年のクリスマスに次のアップデートがあることは既にALO中に知れ渡っている。
それなのに彼は別世界へ行ってしまうのか、と。
アスナの悲しそうな声にキリトは慌てて否定の声を上げた。
「ち、違う違う! ちゃんと再コンバートして戻ってくるよ! ただ今回はちょっと訳ありで別のVRMMOの様子を見てこなくちゃならなくて……」
「別のVRMMO……? それなら新規でこれまでも何度かあったじゃない……?」
「そ、そうなんだけどさ。今回は総務省の人に頼まれて……」
「クリスハイト、菊岡さん、か……」
一瞬安堵しかけたアスナは、再び不安げな声を上げた。
彼女もまた、彼と同じく菊岡という男を善意百パーセントの男とは感じていない。
「それならしょうがないのかもしれないけど……気をつけてね」
「う、うん」
アスナはこつん、とキリトの額に額を重ねた。
漆黒の瞳の中に映る自身の青い髪が見える。
「君が帰ってくるのは、ここなんだから、ね?」
「わかってる。ちょちょいと終わらせてすぐにアスナのとこに戻ってくるよ」
いつもと変わらないアスナを安心させてくれる不敵な笑み。
彼女と居る時だけはキリトも素の表情をさらけ出す。
「うん、よし。それじゃおやすみなさい」
「ああ、おやすみアスナ」
キリトの胸にアスナは顔を埋める。
キリトはそんなアスナの背に腕を回した。
ユイはいない。彼女は時々彼らを二人きりにする。
その意図としては「パパとママの好きなことをして下さい」とのことだが、言っている意味は明らかだ。
思い出されるのはこの春にテキストエディタ越しで伝えられた言葉。
出来れば思い出したくはない出来事だ。顔から火が出そうになるほど真っ赤になったのはあれが初めてかもしれない。
そんなユイの真意に思い当たらない程鈍い二人ではなかったが、そのような気を使う必要はないと何度説明しても珍しく彼女はその件についてのみ強硬に意見を崩さなかった。
現在マスター権を持っているキリトが名前を呼べばすぐさま現れるが、マスターのいる街区圏内は自由に動けるという仕様をフルに活用してユイは夜な夜ないなくなる。
このことについてアスナとキリトは深く話し合い、結局ユイの好きにさせることにした。
呼べばすぐに戻らせることは出来るのだ。なら彼女がどんな存在だろうと可能な限り自由を行使させてあげたいという親心にも似た気持ちからそういう結論に至った。
かといってユイの真意通りになってあげるつもりもなく、二人きりにされたからといってALOでは文字通り大人しく一緒に寝るだけで済ませている。
流石に二度同じ轍を踏む気はない。
ユイにとっては善意からの行動なのだろうが、キリトとアスナは慎重すぎるほど慎重にもなっていた。
やがてキリトから小さい寝息が聞こえ始める。
彼の寝付きは凄く良いか酷く悪いかのどちらかしかない。
オマケにアスナの知る限り彼の寝付きが悪くなる確率は本当に少なかった。
結果、アスナはこうして至福の時間をほぼ毎夜手に入れることが出来る状態にあった。
寝息を立てるキリトを眺め、撫でる。ただそれだけのことがこの上なく幸せだった。
幸せなんて物は常に目の前にある、普段はそれに気付けないだけ。
よくそんな言葉を耳にするが、まさにその通りだと思う。
同時に、自分はそこに気が付くことが出来て本当に運が良かったとアスナは思っている。
だから────先程のキリトの言葉から生まれた不安という名の見えない銃弾がアスナの胸の中で脈動していた。
彼が全てを語っていないことにはすぐに気付いた。
嘘は言っていないのだろうが意図的に全てを話していない。
恐らくは何かそうせねばならない事情があるのだろうことは予想できた。
だがアスナの中ではそのことが不安となってドクンドクンと脈打っている。
キリトに《別の世界へコンバートする》と言われた事を引き金に胸の中に打ち込まれた不安は、不思議なことに彼と一緒にいても燻り続けていた。
こういったことは初めてではない。大小差はあるが、《良くないことの前兆》として経験したことのあるものだ。
必ずしも毎回その予兆が正しいわけではない。取り越し苦労であることだって珍しくはない。
それでも。不安が膨らむのは止められそうになかった。
こうなると少しばかりしまったな、と思わなくもない。
ユイの配慮に初めて甘えてみるべきだったか、とそこまでアスナの心に弱さが表れ始めた時、それは聞こえた。
──コンコン。
ノック音。
ALOはSAOと……いや、《ザ・シード連結体(ネクサス)》によって稼働しているVRMMOはその基本構造システムがSAOと同一だと言って良い。
通常建物の外……扉を隔てた先の音は聞こえない。
基本閉じられた扉を透過するのはノック音と叫び声、戦闘の効果音に限られる。
だが逆を言えば、現実とは違いノック音はほぼ聞き逃すことなく聞こえるのだ。
それはアスナに夜更けの客が来たことを理解させた。
こんな時間に? と訝しみつつ念のためにフレンドリストを見やる。
来ているのが知り合いかどうかをまず確かめてみた。
(え……?)
思わず驚く。今来ているのは少なくとも初対面の人間ではないことはわかった。
フレンドリスト内にいる人物だ。だがその人物自身には些か問題があった。
何故《彼》が《このタイミング》で現れるのか。
アスナはやや作為的なものを感じながらちらりとキリトを見やる。
彼は既に熟睡に入っている。そう起きることは無いだろうがあまりグズグズしているとこちらが眠る前に彼がこの世界からシステム的に強制ログアウトされかねない。
オマケに彼の腕の中、という現実でもそうそう享受できない甘美的な空間にいる身としては、非常に動きたくはない。
だが。
それらを全て我慢してでも、今この相手とは会っておくべきだとアスナは判断した。
ウインドウに表示されている名前の主、《クリスハイト》に。
アスナは名残惜しみながらキリトの腕を優しく持ち上げてベッドを抜け出す。
素早くタップして着替えを済ませ、ドアを開けた。
「こんばんは、菊岡さん」
「やあこんばんは。ってちょっとアスナ君、ここではその呼び方はマナー違反なんじゃないのかい?」
「そうね、ごめんなさい菊岡さん」
アスナの容赦ない口調に菊岡/クリスハイトは少しばかり怯んだ。
アスナと同じ水妖精族(ウンディーネ)のクリスハイトは、ひょろりとした長身を簡素なローブに包み、マリンブルーの長髪は飾り気のない片分けで、特徴の無いのっぺらとした顔には銀縁の丸眼鏡をかけている。
クリスハイトはアスナの態度から状況が思わしくないことにはすぐに気付いた。
それとなく注意したそばから同じことを言っている時点で明確な意図があるのは明らかである。
覚えのないアスナからの重圧に少々焦りながら菊岡は用事を済ませるべく尋ねた。
「……ええと彼、キリト君はいるかな? ちょっと用事があったんだけど」
「彼なら今寝てるわ。もう少しで強制ログアウトしてしまうんじゃないかしら」
「……もしかしてお楽しみだったって奴かな? これは申し訳ない」
「勝手に妄想するのは自由だけど口に出した発言はVR世界でも取り消せないから注意した方が良いわよ」
取りつく島もない。
ぐうの音も出ないほどの正論で責められ菊岡は冗談を言う空気を完全に封殺された。
同時に悟る。彼女の怒りのようなものが混じった態度、その理由に。
「彼から何かを聞いたのかい?」
「貴方の依頼で別のゲームにコンバートすることになった、ということくらいだけど……それだけじゃないわよね?」
「……彼がそう言ったのかい?」
「いいえ。でもその答えで十分理解できたわ」
「……君は敵に回したくないな」
「キリト君の敵に回らない限りそれは無いと言っておいてあげる」
短いやり取りでアスナは確信を深めた。
やはりこの件は何かある、と。
ふぅ、と小さく息を吐くとクリスハイトが苦笑を漏らした。
「驚いたよ、君はそんな顔もできるんだね。それともそのキツイ感じが素なのかい?」
「あえて言うならどちらも素よ。これでも私、SAOじゃずっとああだったの」
「へえ」
最近ではナリをひそめてしまっているが、それは事実だ。
もっとも素、と言うには些か語弊がある。気を張ってああいう態度を取っていたら気の緩め所がわからなくなってあのままでいた、と言う方が正しい。
それを型破りな方法で緩めてくれたのが他ならない彼、キリトであるのだが。
今でも時折あの時のような態度を取る時はある。その時はよくキリトに「副団長モード」と呼ばれたりしていた。
それをいちいちこの相手に説明する気にはなれないが。
「まあ僕もまだまだ君たちのことで知らないことはあるってことだね。やれやれ、キリト君が既に休んでいるんじゃ仕方がない。出直すことにするよ」
「待って」
早々に離脱を試みようとするクリスハイトの腕を、アスナは掴んだ。
このまま「はいさようなら」と帰すわけにはいかない。そのつもりならわざわざキリトの腕の中という至福から抜け出したりなどしてこない。
クリスハイトは気まずそうにアスナを見やる。その顔はやっぱり、と物語っているように見えなくもない。
「……化かし合いは結構よ。キリト君に何を頼んだのか聞かせて」
「それは出来ない」
「どうして?」
「僕からは君を巻き込めないことになっているんだ。彼との約束でね。これを破ると二度と彼の協力を得られなくなってしまう」
「ふうん、じゃあなんであなたはここに来たの?」
「それはだから彼に話したいことがあって……」
「化かし合いは結構って言ったわよね? 私もいることがわかっているのに訪ねて来ている時点であなたにその気は無いんでしょう?」
「そんなことはないさ。こう見えも僕はキリト君が気に入っている。彼との約束を破るような真似はしない」
「約束は破らない。けど約束していないことはその限りではないってことね? そう、例えば私から彼と同じ件の協力について願い出る、とか。貴方言ってたわよね? 貴方からは巻き込めないって。それって多分キリト君が出した条件なんでしょう?」
「……本当に君はやりづらいなあ」
困ったような顔をするクリスハイト。
今日初めて、彼の素の顔を見た気がするとアスナは思った。
「悪いけどそれでもまだ弱いよ。僕としても君に協力依頼はしたかった。でも彼に『巻きこんだらもう協力しない』って言われちゃっているからね。そうなっては僕としても非常に困る」
「それじゃ私は泣いてキリト君に貴方の依頼を断るよう頼むことにするわ」
「……なんだって?」
「本気で頼めばキリト君ならきっとわかってくれると思うから」
「……」
これにはさすがのクリスハイト/菊岡も閉口した。
流石にそこまで言われることは予想していなかったのだろう。
そしてもし彼女が本当にそれを実行すれば、キリトは依頼をキャンセルするだろうことはクリスハイト/菊岡にも予想が出来た。
「なるほど。僕がキリト君に協力してもらうためには君に協力を仰がないと不可能、ということだね」
「そういうことになるわ」
「……もちろん彼のフォローは頼めるんだろうね?」
「それは貴方次第よ」
「……ずるいなあ」
やれやれ、とクリスハイトは頭をかいた。
恐らく彼の中のシナリオでも最終的にはこれに似た形だったのだろう。
だが、ここまで一方的に会話をリードされるとは思っていなかったらしい。
「前にクライン氏に言われてたんだよなあ。昔は凄かったんだぞ、って。今になって体験するとは……」
「……ごめんなさい。無理を言ったのは悪かったと思うわ。でも、どうしても引っかかってしまって」
「わかったよ。でもそのかわり今後も彼の協力が得られるよう手伝ってよ?」
「それは……やっぱり《クリスハイト》次第ね」
「……君、結構強かだったんだねえ」
しみじみと初めて気付いたとばかりにクリスハイトは溜息を吐いた。
ようやくキャラネームで呼ばれて緊張が解けたのかもしれない。
そうしてクリスハイトは全てを語った。
GGOでの事件、キリトに依頼した内容を。
死銃と名乗るプレイヤーの銃撃事件から始まるリアルプレイヤーの不審死。
昼間キリトにしたのと全く同じ説明が彼の口からアスナへと伝わる。
「ゲーム内の銃撃で本当に人を殺せるかどうか、か……」
「僕と彼の結論としては不可能、ということにはなっている」
「そうでしょうね。でも……」
無関係とも思えない。
理性的に不可能と思えるのとは全く裏腹に見えない糸が絡みついている予感がする。
同時に彼がそんな危険なことを独断で受け、あまつさえ自分に知らせないようにしたことに少しばかり怒りも感じた。
「あ、そうそう。ここに来た本来の目的を忘れるところだった」
アスナが考え込んでいると、思い出したかのようにクリスハイトはウインドウを呼び出した。
何度かタップした後、アスナを見つめて尋ねる。
「その死銃氏の声がもう一件見つかってね。念の為に彼に聞かせようかと思って持ってきたんだ。君が代わりに聞くかい?」
どうせそれは口実でしょ、と喉まで出かかった言葉をアスナは飲み込んだ。
これ以上彼をやり込めるのは個人的な感情の爆発でしかない。つまるところ八つ当たりである。
いろいろ思うところはあるが、既に彼を心配しているが故の発言・行動にしては度が過ぎ始めていることをアスナは理解していた。
「……一応聞かせてもらうわ」
だから、それは本当に何気なく、何気なく言っただけだったのだが。
まさかそれが、この件に強く引き込まれるきっかけになるとは思ってもみなかった。
クリスハイトはいろいろ設定をタップしている。
恐らく特定プレイヤーにしか聞こえないようにしているのだろう。
設定が終わり、目で合図されてからアスナの聴覚システムはここではないどこか別の場所の音を再生し始めた。
うっすらと聞こえ始める雑踏のノイズ。その奥から金属質な声が聞こえる。
『俺と、この銃の、真の名は、《死銃》……《デス・ガン》。俺は、いつか、貴様らの前にも、現れる。忘れるな、まだ終わっていない。何も、終わっていない』
瞬間、アスナの中に何かが駆け巡る。
激しいデジャヴ。
『──“カップル”は、撲滅する』
「ッッッ!?」
声にならない声が漏れた。
知っている。自分はこの相手を知っている……!
─────イッツ・ショウ・タイム……!
そんなフレーズが脳裏にこびり付いて離れない。
前にも、前にもこの相手のことを思い出そうとしたことがあったはずだ。
あれはいつだったか。少なくとも最近ではない。
現実でもない。ALOでもない。
SAOだ。
ソードアート・オンライン。
デスゲームと化したあそこで、自分は確かにこの声の主と会っている。
声質は違えども、話し方特有のブツ切り感がそれを思い起こさせる。
さらにラストの言葉が記憶に深い。
ここまでくれば逆にイッツ・ショウ・タイム、と聞こえなかった方が不思議なほどだ。
いや、もしかしたら言っていたのかもしれない。丁度録音データはそこで切れていたから、入っていないだけでこの男は言っているのかもしれない。
……言っている気がする。それはもはや、確信にも近かった。
だが相手の名前を思い出せない。《あの時》も思い出せなかった気がする。
あれは、確かSAOでお祭りイベントがあった日。ふとしたきっかけでそれを思い出そうとして……できなかった日。
ただ、アスナの記憶の底に、シュウシュウといった擦過音だけが印象深く残っていた。
クリスハイトはオレンジ色の夕焼け空を飛んでいた。
まるで《彼》の時のように死銃の生音声を聞いたアスナは黙ってしまった。
訝しみつつもクリスハイトは声をかけると、意外なことを彼女は提案してきた。
「この件、私も手伝うけど……キリト君には私の事は伏せておいて。もしばれたら私が全力でフォローするって約束するから」
それはキリトが提示した条件とよく似ていた。
本当にこの二人は良く似ている、と思いつつクリスハイトは頷いた。
本音を言えば協力し合ってもらうのがベストで、それを目的にここへ来たようなものだったが、こうなってしまっては仕方がない。
クリスハイトは「彼らのことだから結局中で協力し合うことになるだろう」という希望的観測に縋ることにした。
(もともと百パーセント接触できる可能性があったわけではないし……有力プレイヤーの協力が増えた分良しとしておこう。……まあバイト代についてはさすがにあの金額を二人分は辛いから後で二人で分けてもらうよう伝えよう。うん、後で)
頭の中で一通りの整理を済ませたところで翅を動かしセーブポイントまで一気に飛翔する。
もう良い時間だし、そろそろ眠らないと明日からの業務にも響きかねない。
「あ」
だがそこで思い出す。
一つ伝え忘れたことがあることに。
「しまった……キリト君に聞かせたのとは少しばかり印象が違う気がするって話をし忘れた……」
菊岡は後頭部をかきながら、「まあいいか」と自己完結した。
これについては然程重要なことではないだろうとの思いもあった。
VR世界のアバターは現実と姿が違うのもあってリアルとは全然違うスタイルになる人も少なくない。
だがそういう人に限って時折リアルの自分をそのまま出してしまい、他人からは別人のように思われることがある。
同性なら確かにアミュスフィアさえあれば成り変わることは可能なのだ。
同性兄弟や友人同士の中には同じキャラクターを使いまわしている者もいると聞く。
それ自体は様々な理由から推奨されていないが、歯止めもかかりそうに無いのが現状だった。
クリスハイト/菊岡は仕事上そういった議題についても度々触れねばならないことがあり、これまで時折キリトの知恵も拝借していたりした。
だから今回もそう深く重要視はしなかった。
この時、彼がそれを伝えていればこの事件はもう少し楽に解決していたのかもしれない、などとは流石にわかるわけが無かった。
「ごめんねアスナ」
「ううん、構わないよ」
あれから数日後、明日奈/アスナは里香/リズと二人、肩を並べて文京区内を歩いていた。
アスナにとってはほとんど未知の街だがリズにとってはブランクこそあるものの勝手知ったる街みたいなものだ。
今日は先日リズが電話にて頼んできた「会ってほしい子がいる」との頼みにアスナが応じ、面会することになっていた。
「この喫茶店が待ち合わせ場所なんだ。あ、今日は奢りだから安心して」
「良いのリズ?」
「良いの良いの。ちゃんとその分は預かってるから」
「……?」
いまいちよくわからないことを言うリズにアスナは首を傾げながら誘われるがままリズの指定する喫茶店へと足を踏み入れた。
ウエイトレスに禁煙席へ案内され、それぞれホットのブレンドコーヒーを注文して向かい合う。
「それで相手はどんな子なの? 銃に酷いトラウマがあるって話しかちゃんとは聞いてないけど」
「う~ん、私も会ったのは一度だけだしなあ。というか会ったって言っていいのかねあれは」
「え? それじゃどうして……」
「まあその子が私の知り合いの知り合い、みたいな子でね。ほら前に話したことあったじゃない? 今年高校に入学した男の子の話」
「ああ……」
そういえばそんな話を春に聞いた気もする、とアスナは納得する。
つまり今日来る相手はリズの直接の知り合いではなく、知り合いを通した相手なのだ。
「女の子だからさ、自分よりは同性の方が相談しやすいんじゃないか、って言われてね。まあ私もそう思うし、アスナそういうのに詳しそうだから」
「買いかぶりだよー。私だって知らないことは一杯あるし事実それでキリト君の症状改善が捗っているわけじゃないから……」
「……そっか。ごめんね、何か」
「リズが謝ることじゃないよー」
アスナの屈託のない笑顔に、一瞬失言だったかと気を落としかけたリズはホッと胸を撫で下ろす。
そこへ注文したコーヒーも届き、二人が同時に一口飲んだ時、リズの目に本日の主役が映った。
「あ、こっちこっち!」
手招きしながら声をかけると、呼ばれた少女、朝田詩乃は訝しがりながら近づいてきた。
詩乃は先日、恭二に助けられたとき彼の頼みでここへ来ていた。
会ってほしい人がいる、きっと力になってくれるからと言われ、渋々ながら了承した。
相手はあの時恭二と一緒にいた女性だと聞いていた。
詩乃は彼に頼まれた時のことを思い出す。
「大丈夫朝田さん?」
「うん、もう大丈夫」
仄かな湯気が立つティーカップ。
その中に入っている紅茶を一飲みしてから詩乃は恭二へ答えた。
安心した恭二は思い出したように「そういえば」と言い出す。
「大活躍だったらしいね。ミニガン使いの《ベヒモス》を殺ったんだって?」
「うん……そんなに有名な人だったの?」
「そりゃそうさ。あの人は集団戦で殺されたことが無いって言われてたんだから」
「へえ……でも《バレット・オブ・バレッツ》のランキングでは見たことが無かったよ?」
「いくらミニガンが強力だって言っても弾薬を五百発も持てば重量オーバーで走れないからね。《BoB》はソロの遭遇戦だから遠くから狙い撃たれたら終わりだよ。でもそのかわり集団戦でちゃんとした支援があれば無敵の強さを誇るんだ」
いつものことながら恭二の知識は的確だ。
詩乃は感心しつつ頷いた。そうだったのか、と。
「朝田さんは今度の《BoB》にも出るの?」
「そのつもり。ある程度上位プレイヤーの情報は集めたし、じゃじゃ馬な《あの子》の扱いにも慣れてきたから今度は持っていこうと思う」
「そっかぁ……置いてかれちゃったなあ」
「新川君はエントリーしないの?」
「う~ん、僕は結構ステ振りミスってるからなあ……」
詩乃にとってこの町で唯一敵ではないと言える相手が恭二であり、様々な面から感謝さえ抱いている相手でもあるのだが、一つだけ彼の嫌いな所があった。
それは自身がVRMMOで使用しているキャラクターの強さについて、《ステータスの振り分けミス》のせいで十分な強さが得られないという持論である。
彼はゲーム運営開始当時、AGI(敏捷力)を上げれば強いという風潮から己の分身のステータスをほとんどAGIに振り分け、AGI一極型ビルドとして成長させていた。
ところが最近ではそれはあまり良くないものとされ始め、彼は自身のキャラクターに自信を喪失し始めていた。
詩乃に言わせればステータスの振り分けによる強さなど、後から付いてくる付加的なものでしかないと思っているが、こればかりは個人の感情だ。
なのでその件についてこれまで詩乃は苦言を呈したことは今のところなかった。
「そっか……まあ勉強もあるしね。予備校の高卒認定試験コース通ってるんだっけ? 模試とかはどうなの?」
「ん、大丈夫。学校行ってた頃は維持してる。目標は来年中に高認合格してその後大学受験用に別の予備校、かな」
「へえ、凄いね。新川君結構ログイン時間長いからさ」
「メリハリが大事なんだよ。ちゃんと昼間は勉強してる」
「そっか。うんエライエライ……あ、でもこの前いなかったよね」
「この前?」
「うん、ほら前にゼクシードが《MMOストリーム》に出てた時。《BoB》で二位だったAGI一極型の闇風と一緒に招待されてたじゃない? 新川君闇風が結構好きみたいだったし《シュピーゲル》と一緒に見ようかなって少し思ったけどその日はフレンドリスト見たらインしていなかったから……」
「あ、あ~……うん、その日はちょっと、ね」
「……?」
少し気まずそうな顔になる恭二に詩乃は首を傾げる。
何かまずいことでも言っただろうか、と。
恭二は視線を少しばかり泳がせ、しかしやがて意を決したように真っ直ぐ詩乃に向き直った。
その彼が、言ったのだ。
「朝田さん、今度会ってほしい人がいるんだ」
誰? と尋ねた詩乃に、恭二はさっきの人だよ、と軽く応じた。
やっぱり彼女だったのではないか、という予感が少しよぎったが、恭二は詩乃がそれを口に出す前に否定した。
ただ、信用できる人ではあるから朝田さんの事で相談してみるといいと思う、などと言われ詩乃は返答に窮した。
誰かに相談するつもりなどは微塵も無かった。
ただそのトラウマに負けないよう強くなりたかっただけなのだ。
しかし世話になっている恭二からの厚意を無下にするわけにもいかず、詩乃は頷いた。
当日は適当に話を切り上げて帰ろう、などと思いながら。
そんな経緯を経て詩乃は今ここに来ていた。
「あの……朝田詩乃です。初めまして」
「篠崎里香よ、よろしく」
「結城明日奈です。よろしくね」
簡単な自己紹介を済ませたところでリズ/里香が詩乃を先ほどまで自分が座っていたアスナ/明日奈の対面に座らせ、自身は明日奈の横へと滑り込んだ。
詩乃も二人と同じコーヒーを注文し、それが届いたところで里香が切り出した。
「えっと、それでなんだけど……」
「はい」
「なんていうか、自分なりに克服できそうな光明は見えてきてるの?」
「まだなんとも……今そのために新川君に教えてもらったVRMMOをやってますけど」
「そういえば結構なハイプレイヤーらしいわね。恭二が言ってた」
「はあ……別にそこまでじゃ……」
ぎこちない会話はお互いの緊張を中々ほぐしてはくれなかった。
当然と言えば当然で、昨日今日会ったばかりの人にそう簡単に自分の深層をさらけ出すことは難しい。
逆もまた然りで、会ったばかりの人のことをそう簡単に理解できれば苦労はしない。
里香は今それを痛感していた。
それは詩乃も同じで、何を言って良いかもわからず既に帰りたい気持ちが強く浮上していた。
もともと乗り気ではなかったのだし、自身がやっているVRMMOの大規模イベント……《バレット・オブ・バレッツ》も近い。
それに向けて最終調整をしたい気持ちも強かった。
そんなちぐはぐなようで合っているともいえる空気を壊したのは明日奈だった。
「あの……私詳しいことはまだちゃんと聞いてないんだけど、どうしてそんなに銃が苦手になったの?」
里香はしまった、と思った。
もう少し、せめて最低限の情報は与えておくべきだったか、と。
勝手に「人を殺してしまった過去がある」と言っていいものか迷い口にしなかったことをやや後悔した。
そんな質問はされても困るだけだろうし答えたくはないだろう。
だが里香の危惧とは裏腹に、詩乃は案外すんなりと答えた。
「幼い頃、母と一緒の時に強盗にあって……母を護ろうとその時強盗が持っていた銃で私が強盗を撃ってしまったから……だと思います」
詩乃にしてみれば、思い出したくない過去ではある。
正直口にしたくないものでもある。
だが、どのような手を使ったのかは知らないがクラスメイトの女子がその情報を仕入れてきた時点で隠すことの意味を詩乃はあまり見出せなくなっていた。
むしろ、上辺だけの付き合いしかない人には上辺だけ知ってもらって離れてもらった方がいろいろと楽なこともある。
開き直りにも似た考えだが、それが詩乃が遠藤達に過去を知られた際に覚悟した処世術だった。
この話を聞けば大抵相手は自分を《人殺し》として見るか、勝手に精神構造の推測を重ねた《可哀相な人》として見てくるかのどちらかになる。
殺人犯を見る目と変わらない目か、あるいはこちらの心をわかっている風な言葉を吐く。
そのどれもが詩乃には苦痛だった。
殺人犯として見られるのはもちろんの事だが、「辛かったね、わかるよ」などと言われるのはもっと嫌だった。
何度「じゃああなたは人を殺したことがあるの?」と問おうとしたことだろう。
知った風な口をきかれるなら人殺しと罵られる方がマダマシとも思えた。
だが今はそれに少しだけ感謝する。これで話は早々に切り上がり帰ることができるだろう。詩乃はそう踏んでいた……のだが。
「そっか。お母さんが大好きなんだね」
「……へ?」
詩乃としては予想よりかなり斜め上方向な返答だった。
間違いではないが、少なくともこれまでそのようなことを即座に返事として言ってくる輩はいなかった。
大抵は目が忌避の色に染まるか「辛かったね」といった勝手な心の推測を押し付けられるものだったので、てっきり今回もそうなると思っていた。
「間違ってはいませんけど……私は人を撃ったんですよ?」
「うん」
「殺して……しまったんです」
「うん」
「あの……失礼ですけど本当にわかっていますか?」
あまりの自然体に、詩乃は少しだけイラつきながら明日奈の顔を見た。
彼女の態度があまりに普通過ぎて、肩すかしというか……真面目に話をしているように思えない。
神妙な顔をしろとは言わないが、もう少し雰囲気にも気を使うべきではないかと詩乃は思った。
「わかってるよ」
だが彼女の言葉は軽い。
軽すぎて、また小さい針が突き刺さるようにイラッと来る。
しかもその手の答えは詩乃のもっとも嫌う答えだ。
「わかっている」などと軽々しく答えて欲しくない。
どうせ本当にわかるわけがないのだから。
その想いが、これまで決して言う事の無かった言葉を詩乃に吐かせた。
「じゃああなたは人を殺したことがあるんですか」
これまでに溜まっていた鬱憤もあったのだろう。
その声は酷く尖っていて、言った本人でさえ初対面の人に言うべきことではないとわかっていた。
それでも口に出してしまった言葉は取り消せない。
そこに僅かな罪悪感を覚えながらも、もう二度と会うこともないだろうという勝手な推測が彼女の精神的負担を軽くし始めた時、詩乃にとって再び驚くべき答えが返ってくる。
「殺したことはないけど、殺そうとしたことはあるよ。私も」
「……え」
それに驚いたのは詩乃だけではなかった。
里香もまた、ぎょっとした顔で明日奈を見つめた。
里香は全く知らなかったわけではないが、その話をするとは思っていなかった。
詩乃は必死に心を落ち着かせていた。
殺したことがあるのと、殺そうと思った、では天と地ほどの差がある。
口だけでは何とでも言えるが実際に手を下してしまったらそれほど平然となどしていられない。いられるわけがない。
だというのに、彼女の纏う空気がそんな軽いものではないことが詩乃には理解できてしまった。
言うなれば《同族》の匂いとでも言うのだろうか。
詩乃が自身に感じている《それ》が、より濃密になったものを明日奈は纏っている。
つい先ほどまでは感じなかったそれが、明日奈の発言の後何故か感じられるようになった。
それは詩乃に《口だけではない》と強く思わせる何かを孕んでいた。
遊びや冗談で「殺してやる」「殺す」といった言葉は日常的に使われている。
だが、詩乃が認識し使うその言葉はより真実味が増す。
今明日奈が発したそれも、同種のように感じられた。
「貴方だけ身の上を話すのは不公平だよね。私も話すよ、SAOプレイヤーなんだ私」
「っ!?」
瞬間、詩乃は理解した。
一時世間を騒がせた死のゲーム、ソードアート・オンライン。
そのゲームの中での死は現実の死となる。だというのにそこでは実際に殺人を犯すプレイヤーがいた、という噂はまことしやかに流れている。
目の前の彼女がそうだとは思わないが、相手を殺さねばならない状況に追い込まれたことがあるのだろうと予想は出来た。
そこには詩乃が思いもしなかったさらに明確な差が存在する。
それは、
《殺す気があったか無かったか》
当時の自分にはもちろんその気はなかった。
ただ必死だった。どうにかしたかっただけだった。
だが今の話を聞く限り彼女は間違いなく「殺す気」があった。
それはある意味詩乃の領域を凌駕する。
なのに彼女は先ほどまでそうだと感じさせないほど平然としていた。
その在り方に、詩乃は興味を惹かれる。それこそ自分が追い求めた強さの一旦ではないか、と。
同時に。少し嫌悪感を持ってしまった。
人を殺したこと、いや正確には殺そうとしたことだが、そこに彼女は恐らく負い目を持っていない。
その精神が、酷く歪んで見えた。
強くはなりたい。だがそう歪みたくはない。そんな相反するかのような気持ちが詩乃の中で揺れ動く。
「大切な人を護りたいって思う気持ちは、そんなにおかしいものじゃないよ」
「明日奈……それくらいにしておきなよ」
「……うん。ごめんね変なこと言って」
「いえ……」
「まああれよ。明日奈も今でこそ落ち着いてるけど昔は結構ピリピリしてたからね。男でもできれば変わるもんよ?」
場の空気を和まそうと、里香は詩乃にウインクを送る。さりげなく恭二の事をアピールしてあげているつもりもあった。
もう! と少しだけ不満げな顔をする明日奈だが、それが照れからくるものであることは詩乃の目から見てもわかった。
里香の意図を理解した詩乃は場の空気を変えるべくそのまま話に乗ることにした……のだが。
「それは里香さんも同じなんでしょう? えっと、《和人》さんでしたっけ?」
先日の僅かな記憶を辿り、詩乃はその名前を出した。
途端、この場の空気が再びカキーンと凍る。
ギギギ、と明日奈が里香の顔を見つめて、冷たい空気を纏いながら尋ねた。
「ネエリズ、ドウイウコトカナ?」
「えっ、あ、いやっ、こ、これは違っ、っていうかとりあえず落ち着いて! ねえお願いだから落ち着いてアスナ!」
「オチツイテルヨ? ネエリズ」
青白い炎が明日奈を纏っている姿を幻視しつつ、余計なことを……と恨めしそうに里香は詩乃を睨む。
詩乃は最初、意味がわからないようだったが、やがてすべてを理解したかのように眉間に皺を寄せた。
「もしかして、二股なんですかあの人」
「……リズ?」
「やっ、だから違ッ!?」
明日奈の突き刺さる氷の視線に脂汗を流す里香は、明日奈の説得及び説明に忙しくなる。
実際に冷気を纏っているかのような言葉は時折リズの体感すらも奪い、室内だというのに外にいるかのように徐々に寒気さえ感じた。
明日奈とてすべてを疑っているわけではなく、半ば先ほどの里香への意趣返し的な意味を込めて悪ふざけしているだけなのだが、そうだとわかっていても明日奈の声色に僅かに混じる《本気》を里香は感じ取り、慌てていた。
そしてまだ二人との付き合いに日が浅い詩乃にはそのようなことがわかるわけも無く、彼女の中では《和人》という男は最低の二股男というレッテルが貼られてしまった。
同時に、これ以上は邪魔になると思い、詩乃は腰を上げる。
「今日はありがとうございました。そろそろ私は失礼します」
「ええっ!? ちょ、ちょっと待って!? 今明日奈と二人きりにしないで!?」
「リズ? ウフフフフ……?」
そんな二人に詩乃は苦笑を漏らす。
益々自分に介入は不可と思い、早々に切り上げることにした。
「ごめんなさい。帰ってやりたいことがあるので」
「あ、そういえばVRMMOやってるんだっけ? 何だっけあの銃が一杯出てくる……」
「《ガンゲイル・オンライン》、略して《GGO》です。新川君に教わってトラウマ克服になればと思いプレイしています」
その詩乃の言葉に、先ほどまでリズに絡みつくようにしていた明日奈が瞬時に素に戻る。
驚きの表情で詩乃を見つめ、明日奈は念のために聞き返した。
「GGO、やってるの?」
「え? あ、はい」
「結構凄腕らしいわよー」
「そんなことはないですけど……」
里香と詩乃のやり取りに、しばし明日奈は考える素振りを見せてから、意を決したように顔を上げた。
その目は真っ直ぐに詩乃の瞳を見据えている。
詩乃が少したじろぐのと明日奈が口を開くのはほぼ同時だった。
「私、今度そのゲームにちょっとコンバートするの。良かったらゲーム内でいろいろ教えてくれない?」
翌々日、GGO世界の中央都市《SBCグロッケン》に、コンバートしたアスナは立っていた。
空は一面曇天じみた不気味な黄色に染まっている。ところどころに薄い赤を帯びているその空は何処か世界の終わりをイメージさせた。
菊岡からようやく準備が整ったと言われ、聞いていた詩乃の連絡先に連絡し、この世界に降り立って数分、《それ》を見たアスナはログインするまでのあれこれといった出来事を一瞬すっぽりと忘れた。
GGOはこれまでアスナが体験してきたことのあるSAOやALOといったファンタジー世界よりもSF色が強く、メタリックな質感を持つ高層建築群が天を衝くように黒々とそびえていた。
それとはやや毛色の異なる初期キャラクター出現位置に設定してあるらしいドーム状の建物。
アスナはそこから出てきてそのままふと外壁を飾るミラーガラスに視線を向け、自らの出で立ち確認して固まってしまったのだ。
「な、な、なぁ………!?」
そこに映っていたのは────明らかに背は低く、無駄な脂肪が一切感じられないほどに体は細く、胸は現実のそれよりはるかにボリュームが減り、整った綺麗な顔立ちに長い睫、鳶色の瞳をした……《チェリーピンクカラー》のロングヘアを持つ少女の姿だった。
黒いニーソックスに白いブラウス、黒いマントにミニスカートというおよそ銃撃戦を想定したアクション系VRMMOには相応しくない初期服飾より、アスナは理不尽な《それ》について魂の叫びをあげた。
「なんでよりによって髪がこの色なのおおおおおおおっ!?」
アスナの心の叫びは、その場に来た詩乃/シノンを含め居合わせたほとんどのプレイヤーを驚かせた。
だが、つい先ほど同じようなことがあったことは、幸か不幸か彼女の耳には入らなかった。