アクセルが踏み込まれる度に、激しいエンジン音がかき鳴らされる。
道行く人はその騒音にやや顔をしかめつつ、一度はその音源である一二五CC・2ストロークのタイ製おんぼろバイクに振り返っていた。
だがそのおんぼろバイクにタンデムしている一人、運転手の腰にしっかりと掴まっているアスナ/結城明日奈は耳をつんざくような騒音も通行人が向ける不快そうな視線も気にならなかった。
運転中の彼曰く、2ストロークエンジンは十数年も前に排出ガス規制によって廃止されたエンジンであり、現存していることさえ珍しい代物ではあるが、ここまで酷い騒音ならせめて4ストロークエンジンのものにすべきだったと語っている。
もっとも相変わらず機械関連について全く詳しくない明日奈はそのことについて「ふ~ん」としか言いようが無かった。
彼、キリト/桐ヶ谷和人の妹でもあるリーファ/桐ヶ谷直葉などは後ろに乗るたびに文句をぶつぶつと言うそうだが明日奈には不思議とそういった感覚は湧いてこない。
どんな騒音も、通行人の送る視線も、目の前にある温かみの前では霞んでしまう。
温もり、と言い換えても良い。ドクン、と定期的に静かな鼓動を伝えてくれるそれは明日奈にとって何よりも心地よいものだった。
このままずっと、どこか遠くへ行きたい。後ろに乗るたびに思うのはいつもそんなことだったりする。
ファミリーレストランで直葉と別れた二人は、彼女にユイの事を任せGGOへログインするお茶の水の病院へと向かうことにした。
和人の乗るおんぼろバイクに二人で跨り、たいした会話も無いまま病院が近づいてくる。
当初彼がバイクの免許を取った時は驚いたものだが、今となってみれば彼の後ろに乗ってどこかへ行くのは明日奈の楽しみの一つになっていた。
(いつかキリト君と二人で本当にどこか遠くまで旅行に行けたら素敵だろうなあ)
長期休暇、冬休みや春休み、ゴールデンウィークや夏休みなどには、そんな提案をしてみるのもいいかも知れない。
そんなことをアスナは考えつつ、和人の鼓動を感じていた。
最初こそ彼に合わせて自分も免許を取ろうかと思ったのだが、一度彼の後ろに乗ってその気は完全に無くなってしまっていた。
彼の運転する傍にいることが心地よすぎるのだ。故に明日奈は免許の取得をせずにいる。
自分もなにがしかの免許を取ってしまえば、彼の後ろという甘美な席へのチケットを捨てるに等しい行為なのだから。
スゥッと彼の運転するバイクの速度が落ちていく。気付けば目的地に到着していた。
門から奥にある駐車場へと向かい、バイク置き場の端に和人はおんぼろの愛車を停める。
「はぁ、今時本物の鍵式のイグニションキーなんて見つける方が難しいよ。やっぱエギルには廃品掴まされたかな」
「良いじゃない。私は後ろに乗ってるの好きだよ?」
明日奈の言葉に和人は少しだけ首を傾げた。おかしなことを言うなあ、と。
和人にとってはそうなのだろう。持ち主というせいもあってか普段から周りの不快そうな視線を受けることが多く、内心運転する度に通行人に申し訳ない気持ちを抱いているのかもしれない。
彼は思ったよりも精神的に脆いところがある。もっとも明日奈はそんなところも彼の《可愛さ》として受け止めているが。
そんな取り留めもない思考を重ねながら二人は自動ドアをくぐって病院内へと入った。
まずトイレに向かい用を済ませておく。これは長い時間フルダイブするにあたってかなり重要かつ必要なことだったりする。
一応安全機構として排泄の類を催した時は即座にログアウトされるよう作られているが、場合によってはログアウトしたくない時や《出来ない》場合もある。
VRMMOに限らずネットワークを介した生身のプレイヤー同士によるやり取りは、その公平さを期すために一方の都合による勝手な遮断を許さない仕様を採用していることが多いのだ。
GGOで言うなら、今回行われるバレット・オブ・バレッツにおいて敗北者はすぐに転送されない。
死体、としてアバターと意識はそこに残り続けることになっている。こういった戦闘の際、簡単に切断や再接続を許すと一部のプレイヤーは様々な穴を付いてルール外のチート行動を起こすことを考える。
現にGGOでも過去にそういった経緯があるらしい、という話を明日奈はすでにシノン/朝田詩乃から聞いていた。
トイレの入口でお互いに分かれ、数分もしないうちに合流。
明日奈が戻ってくると、和人は壁に背を預けて大きなガラス壁から外を見ながら待っていた。
その顔は何処か憂いを帯びていて、明日奈の胸を締め付ける。
恐いのだろう。《死銃》なるプレイヤーの真意。本当にゲーム内で殺人を犯す力があるのかどうか。
もし本当だったとき、自分たちは生きて戻って来られるのか。
和人には何か思うことがあるのだろうと思う。それは予選の決勝戦で彼と会った時に確信した。
彼には、何かがあったのだ。明日奈の知らぬ間に、何かが。
それは直接、あるいは間接的に《死銃》の力を裏付けるかもしれないものなのだろう。
なんとなく決勝戦の彼の様子から明日奈はそう考えていた。
《死銃》について彼は何らかの核心に近い憶測を持っている、と。
「キリト君」
「ん?」
和人が呼ばれて振り返る。自然な動作で壁から背中を離したまさにその瞬間のことだった。
二つのシルエットが重なる。明日奈が仮想世界さながらのような瞬発力を生かして一歩を詰め、彼のぽっかりと開いた口を塞いだ。
一拍遅れてその意味を悟った和人の瞳が驚愕に彩られる。あまりに突然のキスだった。
「呪い回収」
「う……」
えへ、と可愛らしく笑う明日奈に和人は紅くなる。
明日奈は時折今のように大胆になることがあった。そんな時は決まって和人は不意を突かれる。
仮想世界ではいつも不測の事態に心の何処かを研ぎ澄ませている和人だが、現実の明日奈の突拍子もない行動には未だに驚かされてばかりだった。
「……絶対に帰ってこようね」
「……ああ」
ギュッと握られた手を、和人は握り返した。
この温もりだけは、二度と失わないと心に誓いながら。
「やっ、ほぉう?」
途中から変なイントネーションで挨拶をしてきたのは、ここ数日毎日のように顔を付きあわせている看護師、安岐だった。
あれえ? と不思議そうな顔で病室に一緒に入ってきた和人と明日奈を見やる。
二人はすぐにその意味を悟った。
「結局、お互いゲーム内で出会っちゃいまして……バレたんで開き直りました」
「ああそうなの? てっきり私何かミスしたかなーと思って焦っちゃったよ。あー良かった」
安岐は安心したように胸を撫で下ろした。
次いでニヤリといやらしい笑みを浮かべる。和人の入院中に何度か見たことのあるタイプの顔だ。
和人は既に本日何度目かの嫌な予感がビンビンとしていた。
「それで? 二人は産婦人科には行ってきたの?」
「……どうしてそういう発想になるんですか、安岐さん」
和人はすぐに否定の意味も込めて切り返した。
この人とのそういう会話は早々に話を切り上げないとどんどん深みに嵌っていってしまうのだ。
いろんな意味で口では勝てないと思わされる相手だった。
「あははは、まあいいじゃない。ヤることヤってるんでしょ?」
「ノーコメントにさせて頂きます」
「桐ヶ谷くーん? そこは否定しないと肯定と取られるよー?」
「……ノーコメントにさせて頂きます」
「あはははは!」
すっかり顔を紅くして黙ってしまった明日奈に代わり和人が応対するも分が悪い。
和人はさっさと仮想世界へダイブして現実から逃げたくなってきていた。
ベッドに腰掛けていた安岐は立ち上がると、機器の準備をしつつふと思い立ったように一つの提案を口にした。
「もう隠す必要無いんならさ、いっそのことここで一緒に仮想世界に入る?」
「……はい?」
「いや、いつもモニターで隣の部屋の桐ヶ谷君見ながら明日奈ちゃんを見たり、十分おきくらいに座ってる部屋変えたりしていたんだけどこれが結構面倒なのよね。もう隠す必要が無いんなら一緒に寝てくれると私としては楽なんだけど」
安岐の言い分はわからなくもない。万一の事が無いようモニターをしているのだ。だが一人で二人を監視しているのに隣の部屋とはいえ別室に居られては百パーセントの安全保障に支障を来す恐れがあった。
少しでもリスクを減らすならその提案は何ら不思議なものではない。
和人は明日奈と目を合わせて頷いた。
「ええ、構いません」
「そっか。助かるわ~。それじゃ二人でこのベッドに横になって」
「はい」
「わかりました」
「…………あれ?」
安岐が勧めたベッドに、何の疑問も浮かべず抗議の声も上げずに二人は座る。
そのあまりの自然さに今度は安岐が驚かされてしまった。
慌てふためく二人の姿を見る為のからかい文句だっただけに、こうも自然に返されてしまっては予想外と言うよりない。
「安岐さん?」
「え? ああごめんなさい。今準備するから」
しばし我を忘れた安岐だったが、声をかけられてから気を引き締めた。
飽くまで安全措置。だが《万一》を考慮するなら万全を期さなければいけない。
安岐はプロナースの目となって機器を準備し、電極を手に持った。
「はい、じゃあいつも通り電極付けるから……えっと桐ヶ谷君は後ろ向いてようか」
和人に背を向けさせて安岐は明日奈の身体にぺたぺたと電極貼っていく。
靴下は脱いでもらい、足首にぺたり。シャツの中にもぺたり。
和人にも同じように電極を付けていき、準備を終わらせる。ちなみに和人はシャツの着用を認められなかった。
「う~ん、シャツの中に電極付けてると、なんかむずむずする……」
「我慢してね。でも桐ヶ谷君に見られてもいいならシャツ脱いでも良いよ? あ、それとももう桐ヶ谷君は見慣れちゃってるのかな?」
「……ノーコメントにさせてイタダキマス」
和人は相変わらずの黙秘権を行使し続けるが、明日奈の紅くなった頬が全てを物語っていると言えなくもない。
ニンマリと笑いながら安岐は機器のチェックを行い正常運行を確認する。
これでもういつでも安全にダイブすることが可能な環境となった。
安岐が「もう良いよ」と告げると、和人と明日奈は一度お互いを見つめ合って手を繋ぎ、ゆっくりと目を閉じて一緒に口を開く。
「リンクスタート」
すぐに二人の意識が現実から切り離されたのが見ていた安岐にはわかった。
ここからがやや退屈な時間になる。モニターしていると言えば聞こえは良いが要するに異常が起きないかひたすら状況を見続けているだけなのだ。
かといっていつ来るかもわからないその一瞬を見逃して彼らの危険信号を見抜けなければ、彼らは最悪帰らぬ人となりかねない。
酷くやる気の出ない、それでいてリスクの高い仕事だった。普通の看護師ならばこんなことを望んでやりはしないだろう。《普通の看護師》ならば。
安岐はしばし二人の顔を見つめて、問題なくダイブしていることを確認した上でスカートのポケットから携帯端末を取り出した。
滑らかな動作で着信履歴から電話をかける。無論、病室の機器に影響はないことは最初からわかっている。
そもそも、いつでも連絡を取れるようそういった配慮をすることも安岐の仕事だったのだから。
電話の相手は二コール目にして気の抜けたような声で応答した。
『やあ』
「……何の用ですか?」
『ごめんごめん、彼らは?』
「今し方ダイブしたところです」
『そいつは良かった。彼らには聞かせたくないことだったからねえ』
表面上は謝っているが、然程悪びれた様子は感じられない。もっともそれはいつものことで、電話の相手が神妙になっているところを安岐は見たことが無かった。
そのせいか電話の相手と話していると彼が本気なのかそうでもないのかわからなくなってくることがある。
オマケにゲテモノ趣味があるとくれば然程モテないのも頷けた。
悪気の無い嫌な上司、そんな言葉が良く似合う相手だ。
「だったら電話するタイミングを少しズラしても良かったでしょう」
『う~んそうなんだけどね。これは念のために早めに伝えておかないといけないと思って』
「……何かあったんですか?」
安岐の顔が再び引き締まる。
もとより彼が電話してくるということはそういうことだった。
冗談みたいなことをよく口にする彼だが、実際冗談みたいなことをしたことはほとんどない。
飄々としているようでその実、良く磨かれたナイフのように鋭い思考を持つのが彼である。
『マークしていた《あの男》、動きがあったんだ』
「《あの男》というと……」
『うん。あの茅場晶彦と同じ研究チームにいて、さらには今年の初めに明らかになったALOでのプレイヤー監禁事件、その首謀者である須郷伸之氏だよ』
安岐はあやうく携帯端末を取り落としそうになった。
あの男に動きがあった、となれば《こちら》が警戒するのはむしろ必然とも言える。
いや、ある意味では《それも含めて》ここに安岐がいるのだ。
「それで、どうなってるんです? まさか今回の件とも関わりが?」
『まだ大きくは目立っていないけど海外に逃げる算段をしているようだね。GGOとの関与は今の所見つかっていないし多分無関係だ。彼は恐らく保釈されたら即座に高跳びする気なんだと思うよ』
「止められないんですか?」
『こちらも動いてはいるけど何が起きるかはわからないからねえ。それに、あの須郷氏が出てきたらキリト君やアスナ君に危害を加えないとも限らない。だから君に連絡したわけだ』
安岐は考える。既に海外逃亡の算段を立てているということは、須郷には外部との連絡手段があるということ。
外部との連絡が取れるなら、須郷がキリトやアスナに対して何かしらのアクションを起こせる可能性が皆無ではないということだ。
つい先ほどまであった安岐の鬱々とした気持ちが漂白される。
『彼を僕らの中では一番よく知っている《比嘉君》によれば、須郷氏の性格上何もしないのは考えにくいそうだ。もっとも誰かにやらせるよりは最終的に自分で手を下したいタイプ、だそうだから実際には保釈時期の方が危険らしいけど』
「安心する要素には足りない、というわけですね」
『うん、だからくれぐれも二人を頼むよ。必要なら応援を要請してくれ。近場に数人待機させておくから』
「諒解しました、《菊岡二等陸佐》」
『……う~ん、今は《出向中の身》だしそう呼ばれるのは本意じゃないなあ《安岐二等陸曹》』
「……失礼しました」
『まあ良いよ。あ、そうそう今度一緒に食事でもどうだい? おいしいお店見つけたんだけどさ』
「……業務に戻りますので、これで失礼します。それでは」
『あれ? そうかい? せっかく──────』
彼の話が終わる前に電話を切る。上官に対してあるまじき行為ではあるが彼なら咎めまい。
むしろこれ以上話を聞かされた日にはこちらが彼を訴えねばいけなくなる。
彼の話、とりわけ食べ物の話は大抵クサイかキモイかのどちらかなのだから。
「しっかし、こりゃ益々気が抜けなくなったわね」
張りつめた息を吐いて安岐ナース……もどきは似非ナースキャップを取った。
本来、彼女はこれを付ける程綺麗な看護師ではなかった。
「《軍属》って辛いなあ……永久就職はいつになることやら。あー明日奈ちゃんが羨ましい」
安岐は眠る明日奈の顔を眺めつつ小さくぼやき、念の為に部屋の戸締りを再確認した。
こうなると今日は二人が同じ部屋にいたのは僥倖だった。
恐らくはまだ何も起こるまい。あの上官の先見の目は確かだ。まだこちらはさほど危険ではないだろうしキリト達のダイブ先の事件とも関係はないだろう。
しかしやっておいて損はない。《何か起きてから》では遅いのだから。
ここ数日で、自分の生活……身近な環境は随分と大きく変わったと朝田詩乃は思う。
何をするにも一人が当たり前だった詩乃にとって、ゲーム内でもそれは変わらない。
BoBの為にランキング上位者のいるスコードロンに所属したことはあっても基本はソロプレイだった。
一番一緒にプレイしたことがあるのは恭二/シュピーゲルだが、それも他の人と比べれば、という程度でしかない。
だから、自分に悪意や害意の無い人間と長く一緒にいるのは、それだけでどことなく詩乃の世界が変わったように感じられる。
『おーい? 聞こえてるぅ?』
今こうやって他人と電話で話しているのも、その一つだろう。
少し前は電話する相手さえいなかったのだから。
詩乃はベッドの上に座り、用意してあるアミュスフィアのランプが明滅を繰り返しているのを眺めながら、携帯端末を耳に当てる。
ディスプレイの中で光っているのは《篠崎里香》という文字だった。
「すいません、聞こえてます」
『んー、電波悪いのかなあ』
「あ、いえ……ちょっとぼんやりしていて」
『そうなの? 大丈夫? 今日が本戦なんでしょ?』
「大丈夫です。よくあることですし、中に入ってしまえば気になりませんから」
『そっかそっか。それでどう? アスナの方は』
「かなり筋が良いです。本戦まで残りましたし……私から見ても強敵ですよ」
『へえ! 恭二曰くGGOでも有数のプレイヤーらしいシノンさんのお墨付きかあ! 流石だねえアスナは』
「……新川君、そんなこと言ったんですか? 大げさですよ」
少し意外そうに詩乃は返した。決して自分はそこまでプレイの上手いユーザーではない。
しいて言うなら自分の弱さを克服するため人一倍《殺すこと》に執着しているだけだ。
それが大会などで強敵と戦い、実績として残っている部分もあるに過ぎない。
『そう? でも実際あなたも本戦に残ってるんだし相当なもんじゃない? 今日は友達と別のゲームの中から中継見て応援してるからねー』
「私は、そんなんじゃ、ないです……変に期待されても」
少し声が震える。どうしても現実だと自分が酷く脆弱な人間だと感じてしまう。
早くこの弱さから脱却したいと切に願う。
その為にも、今日こそ《残らず殺さなければ》。
『……まだ自分に自信が持てない?』
「えっ」
先ほどまでと違い、急に詩乃の内心に触れる質問。
思わず詩乃は言葉に詰まってしまった。
自分の事を話すのは得意ではない。
『私が言うのもなんだけどさ、恭二は人を見る目はある方だと思うよ? その恭二が言うんだし、大丈夫』
「あ、はい……どうも」
一瞬のヒヤリとした感情が徐々にほぐされていく。
この人はどうも話が上手い、というより気風の良いお姉さんのようなイメージがある。
そういえば恭二も姉弟でもないのに「里香姉さん」と呼んでいたのを詩乃は思い出した。
『ん~まだ元気ないなあ』
「いえ、そんなことは……」
『恭二は信用できない?』
「え? いえそんなことないですよ。いつもお世話になっていますし」
それは本音だ。詩乃にとって恭二は数少ない敵ではない相手と認識できる人だった。
彼のおかげでGGOを知ることが出来たのも事実。そこに感謝はあっても嫌悪は無い。
『そっか。良かった良かった。こう見えて私も心配してたんだ。恭二ってほら、学校行ってないでしょ? だからさ……あまり良いイメージないんじゃないかって』
「あー……」
言われてみればそれは理解出来る。
客観的に見ればそう取るのはむしろおかしくないかもしれない。
学校に通っていない人間に対する世間の風当たりはそこそこに厳しいことくらいは世の中の事に疎い詩乃にも理解できた。
なのでそこは嘘偽りなく、自信を持って答える。
学校には来てほしいけど、不登校であることを気にはしていません、と。
そもそも今彼は学校を自主退学するつもりだという話も聞いている。
そのまま《高認》──高等学校卒業程度認定試験──を経て医大に進むつもりだ、とも。
『……それって恭二から直接聞いたの?』
「え? ええまあ。それが何か?」
『……あのさ、恭二が医大で何を目指すつもりかって聞いてる?』
「いえ……でもきっとお父さんの跡を継ぐんでしょうからお父さんと同じ道に行くんじゃないんですか?」
『……』
「……? あの」
急に黙り込んだ里香に、詩乃は首を傾げた。
だが同時に現在時刻が目に入る。そろそろダイブしておかないといけない時間だ。
『あの子は、恭二はさ、アンタのために────「すいません、そろそろ時間なので!」────え? あ、ちょっ!?』
まだ里香は何か言いたそうだったが、詩乃は電話を切った。
申し訳ない気持ちはあったが今は自分の為に集中したい時だった。
その為にここまでゲーム内での腕も上げてきたのだ。それがいざ最終戦で準備不足でした、などとは冗談にもならない。
詩乃はすぐにアミュスフィアを装着して横になり目を閉じた。
里香の話は少し気にはなるものの、今は忘れることにする。
そのかわり、今朝送られてきた恭二からのメールを思い出していた。
短い文面で、今日のBoB決勝戦頑張って、という淡泊なものだが詩乃にはそれぐらいの方が丁度良い。
詩乃は少しずつ自分の中の心を凍てつかせて、研ぎ澄ませていく。
今日は、今日だけは余分なことを考えない最強の自分になるための戦いをする。
「リンクスタート」
呟きとともに、詩乃の意識はガンゲイル・オンラインへと吸い込まれていった。
静かな詩乃の部屋で、アミュスフィアのランプが明滅していた。
「あ、おかえりなさい」
「おかえりなさい。お邪魔してます」
「ただいまー、シリカも来てたんだ?」
篠崎里香/リズは先ほどまでダイブしていた仮想世界、アルヴヘイム・オンラインの中へと戻ってきた。
詩乃に激励をしようと一旦一時ログアウトしていたのだ。どうやらその間に直葉/リーファが呼んだのか、この場には猫妖精族(ケットシー)である珪子/シリカも来ていた。
場所は変わらずクライン一押しの隠れた酒場だ。本来は全プレイヤーに対してオープンな店だが、要求ユルドを満たせば貸し切りにすることもできる。
お店の規模によってはかかるユルドは莫大だがここは幸いさほどでもなかった。
この酒場でもGGOのBoB──バレット・オブ・バレッツ──はストリーム放送を視聴可能なのでこれ幸いにこの場で見る流れとなっていた。
ちなみに酒場の貸切ユルドの支払いは全額クライン持ちとなっている。
クラインは不満だったが、リズとリーファに「全てを報告しても良い?」と笑顔で尋ねられ、ユルドの支払いについて首を縦に振るよりなくなってしまった。
アスナやキリトのユイへの溺愛振りはそれはもう凄いものがある。かつて恐怖を味合わされたことのあるクラインは、流石にもう一度それを経験したくは無かった。
カウンターに突っ伏すクラインをユイは労わるようになでなでと小さい手でその頭を撫でる。
その優しさがクラインには嬉しく、また同時に余計なネタを女性陣に与えてしまいそうで怯えてもいた。
「はい、キリトさん達が出ると聞いて」
「どうなるか見ものねー」
「お兄ちゃんとアスナさんだから……ポロッと優勝しちゃうかも」
あははは、まさかあ、などと笑いながらアスナとキリトを知る各々のメンバーは酒場にある大きなディスプレイから流れるバレット・オブ・バレッツの開始を待っていた。
和人/キリトと明日奈/アスナはガンゲイル・オンラインの総督府近くで手を繋いだままの状態でログインに成功した。
これが現実で手を繋いでログインしたせいなのか、それとも前回のログアウト時もこうだったからなのかはわからない。
どことなく興味を惹かれる気もするが、今はそれについて検証している暇は無かった。
二人で近場のバーへと足を運び、そこで作戦会議という名の打合せを行う。
そのバーは先日アスナがシノンにパフェを奢ってもらった場所でもあった。
「本大会ではまず合流を優先しよう」
「うん」
本大会の舞台は直径十キロと広大だ。アインクラッドの低層がだいたいそれぐらいだったはずなので、キリトやアスナにしてみればアインクラッド一層分を丸々使ってバトルロイヤルを行うような感覚だった。
そう考えるとプレイヤーと遭遇するのも大変そうなものだが、これが中々そういうわけでもない。
一定時間……十五分ごとにプレイヤーには全プレイヤーの位置が送られてくる。衛生から受信される、という設定なので洞窟内などにいればその限りではないが洞窟に隠れていることを看破されグレネードでも投げ込まれようものならプレイヤー燻製の一丁上がりだ。
なのでここは最初から協力し合う事が必要になってくることが予想された。
「幸い俺たちは互いのプレイヤー名も容姿もわかってる。近くに行ければ合流はしやすいだろうし簡単にやられはしないだろう」
「そうだね。ってそういえばキリト君、気になっていたんだけど……」
「何だ?」
「どうして私だってわかったの? このアバターは私の面影なんてそんなに無い気もするんだけど……」
アスナは小首を傾げる。アスナの今の姿は桃色のロングヘアに現実よりも小柄な体躯で、服装も似ても似つかない。
自分でさえ鏡でこの姿を見て、「これが私?」と思ってしまうほどだったのだが。
しかしきょとん、としたキリトはすぐに「何を言ってるんだ?」と不思議そうな感情を孕んだ声で言った。
「俺がアスナのことをわからないわけないじゃないか」
「え……あ、う……うん」
忘れていた。彼の持つ反則級なトンデモシステム外スキルのことを。
彼はよくよくアスナの心に入り込む。簡単に一番深い所に入り込んで中々出て行かない。
何て罪作りな人。今の疑問を予選の決勝戦時に尋ねなくて良かった。
もし尋ねていたなら、今の台詞をあの時に言われていたなら、負けていたのはアスナの方だっただろう。
「とにかくまずは死銃の正体、そのアバターを突き止めることから始めよう」
「キリト君が昨日見たって言うのだけが唯一の目撃情報だしね」
「ああ。けど……多分間違いない。アイツが《死銃》だと思う」
「そっか」
キリトはそれ以上を語らない。語ったのはその時に見た外見、アバターの容姿だけだ。
ぼろぼろに千切れかかったダークグレーのマントを羽織り、目深にフードをかぶっていて顔全体を覆えるほどのゴーグルを装着。
開示した情報はそれだけだ。
本当は接触したその時に他にも何かあったのだろう。アスナには何となくそんな想像がついていた。
《死銃》の正体が記憶の片隅に引っかかる《笑う棺桶(ラフィンコフィン)》の誰かなのであれば、その可能性は決して低くない。
だがアスナは尋ねない。キリトも答えない。
お互いを信じていないわけでは決して無い。しかし、二人にとっても《笑う棺桶(ラフィンコフィン)》とは苦い思い出でしかない。
出来るならそっと蓋をして二度と思い出さなくて良い深い深い所へしまっておきたい。
実は何かの勘違いで無関係であって欲しい。そんな僅かな希望的観測を二人とも……少なくともアスナは捨てきれないでいた。
そのせいだろう。途端に二人の間には会話が消える。
キリトは気まずそうに注文していたストロベリーシェイクをストローでチュウチュウ吸いながら奥でやっている弾避けゲームの成り行きを見ていた。
アスナはそんなキリトを見て、ふと思い出す。
そういえば先日あのゲームをクリアした者が現れたとか。なんでもそのプレイヤーは女性だったらしいが……。
「どうかしたか? アスナ」
「ううん、結構儲かったのかなあ……って」
「……? ああ、そういうことか。そうでもないよ、カツカツだ」
「ふうん」
察したようにキリトは答える。
なるほど、やはりクリアしたのは彼だったのだと今の会話からアスナは納得した。
予選の決勝戦後に聞いた所によると、キリトの持つ光剣──その名を《カゲミツG4》と言う──は結構な高額商品なのだそうだ。
「さて、そろそろ行こうアスナ」
「そうだね。準備もあるし」
立ち上がったキリトに続く形でアスナも席を立った。
本戦に向けて行わなければならない準備がまだいくつかあるのだ。
あまりゆっくりはしていられない。
二人は西部劇に出てくるようなウエスタンドアを押してその場を後にする。
最後にキリトがちらり、と弾避けゲームに振り返ったことには、アスナは気付かなかった。
本大会一時間前。
詩乃/シノンは自分の中の意識を切り替えながら最後の準備をするべく総督府地下にある待機ドームへと来ていた。
ここで最後のチェックと精神調整を行い、一時間後には《試合》ならぬ《死合》が開始される。
といってもシノンの視点からすれば本当に殺すわけではない。飽くまでゲーム内において相手のライフを蹴散らすという意味合いだ。
それでも《殺す》ことに変わりはない。それを成し遂げることで、今度こそ自分の弱さを克服する。
そう勢い込んで入った待機ドームで、すぐにシノンは見知った桃色のロングヘアを視界にとらえた。
流石に挨拶も無し、というのは礼儀に欠ける。本戦で気兼ねなく《殺し合う》為にも簡単にけじめくらいはつけておこう。
そう思ったシノンは彼女、アスナに近づいた。
「アスナ、準備はどう?」
「あ、シノのん。うんバッチリだよ」
「そっか。それは良かった。本大会じゃ真剣勝負だから容赦しないわよ」
「あ、うん……そうだね」
「何よ、浮かない顔して」
シノンはやや歯切れの悪いアスナを訝しむ。
彼女は言葉とは裏腹に万全ではないのだろうか。
それではたとえBoBで勝ったとしても満足できない恐れがあるのだが。
と、そこで気付く。そのアスナが誰か別のプレイヤーと一緒にいることに。
「アスナ、私の他にも知り合いがいたのね……ってあれ?」
「どうも……ん? 君は確か昨日シュピーゲルに紹介された……」
瞬間相手が誰だか互いに気付く。
キリトは自分に良くしてくれたプレイヤー、シュピーゲルのフレンドとして。
シノンからはシュピーゲルの知り合いにしてアスナの予選決勝の相手であり、そして、
「アンタ……アスナを嵌めた集り男!」
「は、はぁ!?」
敵として。
シノンの発言にキリトはやや声を荒げる。
キリトにとっては不名誉極まりない、オマケに《半分ほどは》身に覚えの無い言いがかりだ。
「知らないとは言わせないわよ。あの決勝の後アスナが何て呼ばれてるか。悪魔よ悪魔! 《Pink Devil(ピンクデビル)》なんて噂が立ってるんだから」
「ええ!?」
これにはアスナ自身も驚いた。よく周りを見れば、存外アスナに敵意を向けてくるプレイヤーが多い気がしなくもない。
一体自分は何をしただろうか、とふとアスナは考え込んでしまう。
「ま、待ってくれ! それと俺と何の関係があるんだ?」
「昨日の予選決勝で貴方に同情票が集まったのよ。騙された男プレイヤーに同情を、って。馬鹿みたい」
「……騙された? ああ、そういうことか! 昨日の試合……あれ中継されてたんだもんなあ」
恐らく外野はこう思ったことだろう。
最後の勝負について、相手が男性プレイヤーであることを逆手にとって女性プレイヤーは色仕掛けを使ったに違いない、と。
確かに客観的に見れば、確実にキリトが優勢だったのにアスナの抱擁で骨抜きにされ武器まで盗まれた、と見えても不思議ではない。
というか半分ほどは事実でもある。見ていた男性プレイヤーはそこに憤っているいのだろう。
確かに騙された男性プレイヤー──キリトのことだ──は馬鹿だったが、しかし男の純情を弄ぶとは何たる悪魔の所業だ、と観客プレイヤー達は思ったわけだ。
「まああれは確かにアスナも悪かったと思うけど。でも変な気は起こさないことね。アスナにはリアルで恋人がいるんだから」
「あ、あのシノのん?」
話を聞いていたアスナが恐る恐るといった様子で口を挟む。
シノンは一つだけ誤解している。それを解かねばならない。
「そ、そのね? この人が、私の彼氏だったの」
「………………は?」
たっぷり三拍分は置いてシノンは間抜けな声を出した。
理解がしばし追いつかない。キリトの苦笑を見てポツポツと点が線となって繋がれていき真実が見えてくる。
つまり、アスナが決勝で戦ったここにいる女っぽい男アバターの彼はシュピーゲルの知り合いで、シュピーゲルに散々集りまくった──これはシュピーゲルからシノンに伝えられていた──集り男で、アスナのリアル恋人である、と。
それなんて偶然? と思うより早く、シノンはもう一つの情報を思い出した。
「つまりこの男が二股男なの!? 二股集り男ってこと!? 最低!」
その情報は里香による《彼氏発現》だ。
キリトは弁解する余地も与えられずにシノンから二股最低男の烙印を押されてしまった。
そうしたまま、BoB──バレット・オブ・バレッツ──の幕が上がる。