走る。決して息の上がる事のない疾駆。
仮想世界だからこそ出来る芸当。現実ならこの半分の距離を走っただけでも息が絶え絶えになるに違いない。
シノンは相棒である銃《PGM・ウルティマラティオ・ヘカートⅡ》をアバターが持つ数値上筋力パラメータのゲインを最大まで引き上げて担ぎ、足を止めることなく駆け続けていた。
「やった……!」
彼女の顔には獰猛な微笑みが張り付いている。右手で小さくガッツポーズを作りながら予め決めておいたルートを迷うことなく突き進んでいく。
ちらりと背後を見れば、もうもうと立ち上っていた爆炎エフェクトがうっすらと消えていくところだった。
都合三人目。シノンが総勢三十人ほど参加しているこのバレット・オブ・バレッツ本大会中に討ち取ったプレイヤー人数だ。
開始二十分強でこのペース。自分以外にも当然ドンパチは各所で起こり、リタイアしていくプレイヤーは多々いるだろうから、既に大会は中盤に差し掛かっていることだろう。
残りはおよそ半数。それがシノンの予想であり同時に自分の現在の順位だと彼女は予測する。
加えて言うならその状況を作り出すのに一人で本戦出場プレイヤーを三人も討ち取った彼女は現在の所《撃墜王》候補と言えるだろう。
一人目は間抜けにも警戒不足。二人目は駆け引き勝ちの勝利、といった所か。
三人目は半分ほどは運だった。相手はかなりの重武装で、防御に重きを置いているプレイヤーらしく、一発命中させた所で殺しきれないのは目に見えていた。
どうにかダメージの通りやすい場所への狙撃を試みたかったが隙がない。さらにはどんどん離れていくそのプレイヤーに半ば諦めようと思った時、そのプレイヤーの腰にある武装に気付いたのだ。
プラズマグレネード。たいして重量も無くかさばることも無い上威力が高いことから最終的に持てるSTR(筋力)分だけ持つプレイヤーも多いスタンダードかつ心強い武装の一つだ。
だが、当然デメリットも確かに存在する。
シノンはヘカートⅡでプレイヤーではなくグレネードに狙いを定め、引き金を引いた。
見事命中したグレネードは爆発を起こし、持ち主であるプレイヤーごと吹き飛んだ。あれは間違いなくHP全損は免れまい。
未だ覚めやらぬ自身の快挙にほくそ笑みながらシノンは辺りを警戒しつつ足を止める。
そろそろ十五分に一度の《サテライト・スキャン》が行われる時間だ。
この情報を出来るだけ正確かつ多く頭に叩き込まねば不意打ちの憂き目にさえ合いかねない。
先程倒したプレイヤーもまさか腰の小さなグレネードをスナイプされるとまでは考えていなかったが故の敗退だろう。
明日どころか一瞬後は我が身なのだ。油断は僅かたりとも出来ない。
と、思っていたその時だった。
シノンは目端にプレイヤーを捉える。距離はかなり近い。狙撃を主とするシノンからすると許して良い接近距離を大きく超えている。
しかも相手には見覚えがあった。本戦開始前、その正体が露見した《二股集り男》こと《Kirito》というプレイヤーだ。
シノンは友人であるシュピーゲルからキリトにはさんざん貢がされたと聞いていた。
決して無理矢理ではないが相当な額のクレジットをつい提供してしまったのだそうだ。
もっとも「なんでそんなことになったの?」という問いに対して彼は「女の子だと思ってさ」と渇いた笑いを浮かべていたので完全にシュピーゲルの側につこうとは思わない。
むしろその時はシュピーゲルを少しばかり睨んだ程だ。言ってみればシュピーゲルの恰好付けが招いた結果なのだから。
自身もリアルで時々お世話になっている身としては強く出られないのが本音だが、無論シノン/詩乃も無理矢理奢ってもらっているわけではない。
彼が自分から奢ってくれるのだ。だからその時はさしてキリトに対して《集り男》というイメージは持っていなかったのだが、使ったクレジット額を聞いてその考えは百八十度逆転する。
会ったばかりの相手に使ってあげる額にしてはちょっと度が超えていた。シュピーゲルはその件については自分が勝手にやったこと、と言っていたがいくらなんでもそういう問題じゃない。
シュピーゲルの話を断る事だってできたはずなのだ。そんなわけで彼女の中のキリトというプレイヤーへのイメージはマイナスに傾いた。
それだけならまだ良かった。BoB本戦にて遭遇したら痛い目にあわせてやろう、程度の考えでしかなかった。
だが事態はより悪くなる。総督府や待機ドームなどで予選決勝でのアスナとキリトの戦いが話題になっていたのだ。
主にアスナが悪者として。
既にアスナのことをこれまでにきちんとできたことのない同性の友人だと思っているシノンにとってこれは許せなかった。
本当にアスナが悪いことをしたのならば仕方がない。だが、どういう流れがあったにしろ戦略的に勝利した彼女が悪者扱いされるのはどうにも看過できなかった。
それでも、シノンの中でキリトの評価はまだ好ましくない相手、で留まっていた。そこに最後の追い打ちがかかるまでは。
アスナと待機ドームで会った時に、偶然にもキリトはそこにいた。それだけでも驚きだがアスナの紹介がよりシノンを驚かせる。
キリトというプレイヤーはリアルでのアスナの彼氏。
それを聞いた途端、シノンはアスナとのファーストコンタクトを思い出していた。GGOではなくリアルでのことだ。
シュピーゲル/恭二から紹介された女性と彼女の連れのアスナ、二人が同じ相手と付き合っているという情報。
シノン/詩乃は確かに聞いたのだ。あの時に同席した女性、里香から和人という男性が彼氏だと。だがその話をアスナにすると彼女は《良い笑顔》で里香を問い詰めていた。
里香は非常に気まずそうにしていたのが詩乃には印象的で、すぐに悟らされる。あの人はアスナとも付き合っているのだと。
それはつまり……二股だ。
それを知った時にあらゆる意味でキリトというプレイヤーの評価が詩乃/シノンの中で地の底に落ちた。最低男として。
思い出されるのは彼から言われた台詞だ。
『しかし二股か……なんでその相手の男もそんなことするんだろうな』
『男の風上にもおけないな。俺なら絶対そんな真似しないぞ』
今なら言える。どの口がほざく、と。
メラメラとシノンの感情が燃え上がる。
アスナの友人として。女性として。GGOプレイヤーとして。
様々な観点からシノンの怒りが増幅され、もはやシノンにとってキリトというプレイヤーは《悪》以外の何者でもなかった。
そのキリトが、今目の前にいる。
引き金を引くのに、これ以上の理由はいらなかった。
シノンの中で急速に溜まっていた汚泥。それらを弾けさせるかのようにシノンは愛銃であるヘカートⅡを突きつけた。
この距離ならば構えるのには十分。同時にシノンのスキルレベルから必中の距離であると瞬時に推測できた。
シノンに気付いたキリトは無謀にも銃を構えず突進してくる。彼のメインアームが光剣である事実は既に周知。
ハンドガンも装備しているようだがアスナと同じならばログインして日が浅い彼はまだ銃撃戦に不慣れなのだろう。
照準を合わせることに自信がない初心者(ニュービー)にはよくあることだ。
照準を合わせない方法を取るか、必中の距離まで詰めるか。それが初心者(ニュービー)に多い選択。
シノンは瞬時にそうと理解し、滑らかな動作でボルトアクション。ガシャンと音を立ててから半秒後には引き金を引いていた。
この距離ならばスコープを覗くまでもない。裸眼目視で十分だ。彼女の銃には《インパクト・ダメージ》という追加効果がある。
仮に彼へ命中せずともその甚大なるダメージはHPを根こそぎ奪うのに支障は些かもない。
そう思った時には雷鳴のような轟音を立ててマズルフラッシュを放ち、一瞬シノンの視界を閃光が奪う。それだけで彼女は勝利を確信していた……のだが。
視界が奪われていたのは本当に一瞬。だが、その一瞬だけでも視界を奪われたことがシノンにとって命とりとなってしまった。
「え」
一瞬の視界不良。それが回復した時にシノンが目にしたものはキリトを中心として左右にVの字を描いて飛んでいく何かと、自身に肉薄するキリト本人だった。
思考がスパークする。斬られた? 嘘。ありえない。でも彼は健在。攻撃しなければ。
瞬時に左手でサイドアームの《MP7》を引き抜くが、その時にはキリトの光剣が目前まで迫っていた。
経験からわかる。彼女は斬られると確信した。だから、その時点でシノンは負けが確定する……はずだった。
「はいそこまで」
聞き知った声が、キリトの高速、いや光速とも呼べる光剣の動きを封殺する。
光剣は慣性の法則など知らぬとばかりにシノンの左肩近くでピタリと止まった。
光剣の速度はまさに光速と冠するに相応しいものだったのだが真に驚くべきは全くブレることなく光剣を止めたその技能の方こそだろう。
バチッとエネルギーの奔流が音を立てるのをシノンの聴覚野が認識する。
あまりに耳に近いせいか、その音はとても力強く感じられた。
目の前の黒髪の少女、否、男と視線が交錯する。黒曜石のように黒いその瞳には若干の戸惑いが含まれているようだった。
それに気付いたシノンはそこで初めて現状を悟り、沸々と《怒り》と呼べる感情が込みあがって来るのを感じた。
「ふざけないで! どういうつもりよ……アスナ!」
シノンが振り向くと、そこには案の定長い桃色の髪に小柄な体躯という少女のアバターが佇んでいた。
いつからそこにいたのだろうか。こんな状況下でも周囲への警戒はさほど怠っていなかったから隠れていたわけではないだろう。
だがそんなことは関係なかった。今あるのは怒りだけだ。
「ごめんねシノのん。でも提案があるの」
「この状況で提案も妥協もありえない! どちらかが死ぬ! それだけよ!」
加えて言うなら死ぬのは自分のはずだった、と。
今ここで自分を助けたつもりでいるのならそれは大きな間違いだとばかりにシノンは怨嗟の籠った眼差しでアスナを睨む。
彼女にとって今の瞬間は間違いなく《敗北》だった。それは、自身の弱さが露呈することの何よりの証明。
だが自分は《生き延びてしまった》。これが単なる敗退という結果なら悔しさもあるが次のステップへのバネにすることを考えられる。
しかし生かされたとなっては話は別だ。これより以降、このBoB本戦においてシノンは何をしようともう満たされることは無い。
すでに敗退しているのだ。まだHPが全損していないだけで。実際に撃たれたわけでも斬られたわけでもないのだから《負け》ではないというプレイヤーもいるだろう。
だがシノンに言わせればそんなものはプライドも何もない奴の言うことだ。
自分はあの瞬間、確かに戦闘において負けを喫した。これは自身の中で決して揺らぐことのない事実だ。
もとよりシノンの《目的》はBoB本戦において《死なない》ことではない。
《殺し尽くす》ことにこそ《目的》があった。負けない為に戦っているのではない。強いことの証明が欲しくて戦っているのだ。
シノンにとって勝利は当然のようについてくる副産物でしかない。
キリトに接近を許し、ヘカートⅡの弾丸を斬られた──これは未だに信じられないことではあるが──時点でシノンの中での第三回BoBは終わりを告げている。
負けて尚生き恥を晒すことはシノンにとって我慢できなかった。それがこのような大会でなかったのならばまだいい。
儲けものだったと納得することもできる。だがこと大会においてのこの行為はシノンの思惑の全てを奪う侮辱に外ならない。
「シノのんが怒るのはもっともだと思う。でもこっちも凄く重要なことなの」
「ある意味日本中のVRユーザーが注目しているだろうBoB本大会において勝敗を分ける以上に大切なものって何よ!」
「……人の命がかかっているんだ。それもリアルでの」
「──────えっ」
キリトの口から飛び出た言葉が、それまで激昂していたシノンの感情を急速に冷やしていった。
つい口籠ってしまう。本当に人の命がかかっている。そう言われてシノンは戸惑ったものの、すぐに再び感情を燃え上がらせた。
「何馬鹿なこと言ってるのよ、これはゲームなのよ?」
「でも事実だ。俺とアスナは実は総務省の役人からの依頼でこの世界に来ている」
「……証拠は?」
「今提供できる証拠はないな。だが君も《死銃》の噂くらいは聞いたことがあるだろう?」
「《死銃》って……ああ、あれか。あんな馬鹿な噂を信じてるの? 嘘を吐くならもっとマシな……」
「嘘じゃないのシノのん。撃たれた二人はリアルで死亡していることが確認できているの」
「……あのゼクシードが、死んだ?」
唐突に与えられた情報に、シノンの表情が変わる。
おかしい、とは思わないでもなかった。あの《ゼクシード》が、今回のバレット・オブ・バレッツには予選段階から参加していない。
それどころか目撃情報まで激減していた。相方と言われた女性プレイヤーの方も。
ゼクシードというプレイヤーに強い思い入れがあるか、と聞かれればシノンは「ない」と即答できる。
だが全く知らない仲ではない相手、それも前回のBoB優勝者だ。自身もこのゲームが稼働された初期からの古参プレイヤーだからわかることがある。
ゼクシードは絶対にこのBoBに参加する。もし、どうしても何らかの理由で参加出来ないのならせめてその理由を目一杯流布するだろう。
もっともシノンの知るゼクシードなら何があっても参加するだろうが。だからこそ、ここに来て二人の話の信憑性が増してきてしまう。
ゼクシードが今回のBoBに不参加なのはリアルで死亡しているから、というのは一見荒唐無稽に見えて納得もできる理由だった。
少しだけ、シノンの中に波紋が広がる。少なくとも話だけは聞いてやろうという気にはなってきた。
「それで? 提案っていうのは?」
「信じてくれるの? シノのん」
「話だけは聞いてあげるわよ。……負けた身としては」
「ありがとうシノのん!」
アスナは感激したようにシノンに抱き着いた。
リアルではややシノン/詩乃より背の高いアスナ/明日奈だが、ここでの彼女のアバターは小柄で背も低い。
一見すると妹が姉に甘えているようにも見えるが、年上なのはアスナの方である。
なんとなくそんなことを考えながら、キリトは「オホン」と一つ咳払いをしてウインドウを立ち上げた。
「教えて欲しいことがある」
アスナの抱擁に満更でもなさそうだったシノンだが、キリトに声をかけられたことで再び目端が釣りあがる。
その目は未だキリトへの敵愾心は消えていなかった。
少しばかり戸惑いながらキリトはシノンにウインドウを見せる。
そのウインドウはこのBoB本戦においてのプレイヤー名簿だった。
「この中で、見たことの無いプレイヤー名はいるか?」
「……これって重要なことなの?」
「お願いシノのん」
「まあ、BoBも三回目だしほとんどは顔見知りよ。この中だとそこのKiritoって奴を除けば知らないのは……三、いや四人いるわね」
「四人……それは何て名前なんだ?」
「えっと、《ペイルライダー》、と《銃士X》……これは読み方ジュウシエックスで良いのかしら? それに《Yuuki(ユウキ)》と《Sterben(スティーブン)》ね」
シノンの上げた名前を聞いてキリトとアスナは視線を合わせた。
お互いに悩む素振りを見せる。
「何なのよ? 二人の間だけで空間作っちゃって。これに何の意味があるの?」
「……恐らくだが、その四人の誰かが《死銃》だと思う。俺とアスナにはもう一つ別の世界でのソイツ……アバターの中の人が同じヤツに心当たりがあったんだが、どうやら名前を統一しているわけじゃないらしい」
「なんかイマイチ要領を得ないんだけど、そのもう一つの名前ってナニ?」
「……」
「何で黙るのよ」
キリトは苦虫を噛み潰したような表情で口を閉じた。
僅かに視線もずらし、口を開かない。その態度にシノンが眉をピクリと動かした時、アスナが口を開いた。
「私たちもね、ちゃんとは覚えていないんだ。だからその名前を思い出す為にもそのプレイヤーと会わなくちゃいけないの」
アスナが少しだけ儚い笑顔を見せる。その瞬間、シノンは雷に打たれたかのように閃いた。
二人の態度と別の世界での心当たり。
シノンはアスナから彼女はSAO生還者(サバイバー)である事実を聞いている。
ならば、今回追っているその相手もまたSAO生還者(サバイバー)なのではないかと。
そう考えれば急にキリトの口が重くなったのにも頷けた。
「それってもしかして……ううん、やっぱりなんでもない」
シノンは聞こうとして、止めた。それは踏み込んではいけない領域だと思ったからだ。
実際のデスゲーム。それは体験した者にしかわからない悩みや苦しみがあるはずだ。知らない者がズケズケと踏み入って良い話ではない。
だから思考は《次》へと移り変わる。
「それで? 私はどうすればいいのかしら? 言っておくけどここで別れてまた何処かで会ったら戦いましょってんならお断りよ。忌々しいけどあの瞬間私はソイツに負けたの。負けたのに未練がましく戦うのは性に合わないわ」
クイッとシノンはキリトを睨む。キリトは困ったような顔をした。
どうにも彼女からは敵意ばかりを向けられているように思える。
「う~ん、シノのんがそう言うなら……途中ログアウトなんてできないんだし私たちと一緒に来てくれる?」
「おいアスナ! 危険じゃ……」
「はいはいりょ~かい。それじゃ行きましょアスナ」
シノンはアスナの手を引いて歩き出す。
キリトはシノンの態度に益々顔を困らせた。
その表情はアバターの女性っぽさも相まって思わず「あ、可愛い」と思ってしまえるほどのものだったが、シノンはすぐに頭を振ってそれを吹き飛ばした。
やがて諦めたのか、キリトは少し距離を置いて追いかけてくる。
それをちらりと横目で確認しながら、そう言えば、と気づいた事をシノンはアスナに尋ねた。
「さっき、いつの間に私の後ろにいたの?」
「え? ああ、いた、というか来た、というか。もともとキリト君と合流する予定を立てていて、《サテライト・スキャン》で位置を確認しながら来たら二人がいたの」
「え……あっ!」
それを聞いたシノンはとんでもないミスをしたことを思い出した。
《サテライト・スキャン》……それを見逃したことに。やむを得なかったとはいえ、また十分少々立たなければプレイヤーの位置は判明しない。
と、そこで気付く。今更どうでも良いことだ、と。自分はもう敗退しているも同然なのだ。それを気にしたところで仕方がない。
キリトとの戦いが無ければ間違いなく確認していたはずだが、もう負けたも同然──仮にこれから最後の一人になったとしても納得できない──なので考えることを止める。
シノンは再びちらりと横目で離れて付いてくるキリトを見やる。
彼女、ではなく彼は顎に手を当てて考え事をしていたが、シノンの一瞬の視線に気づき視線を合わせてきた。
すぐにフイッとシノンは視線を正面に戻す。
今のやり取りだけで、シノンはキリトというプレイヤーが底知れないことを感じ取っていた。
狙撃を得意とするシノンは《視線》にちょっとした自信がある。目端はもちろん視力についてもそうだが、一番は気取られない視線の送り方だ。
上位プレイヤーになってくると相手の殺気とも取れる《何か》を感じ取れる猛者が出てくる。
その際、スナイパーなどは特に無心となってスコープを覗かなくてはならない。
せっかく弾道予測線(バレットライン)が見えていない状況を作り出しても、気取られては意味が無い。
だが、どんなに気配を殺そうとキリトは決してこちらを見逃さない。なんとなくこうして傍にいると彼のその鋭さを肌で感じられた。
自身を負かせた相手なのだしそれぐらいなのはむしろ望むところなのだが、どうにも彼に気を許せない点が一つシノンにはあった。
それは……表情。
初めて会った時の彼はシュピーゲルの横で能面のような顔をしていた。
だが今はどうだ? 非常に柔らかい顔をしている。感情表現も先ほどから実に豊かだ。
以前と違うのはアスナがいること、だろう。そうなるとやはり《二股》という言葉が思い出される。
連鎖してアスナはこの男に騙されているのでは、とまで勘ぐってしまうほどだ。
しかし彼の強さを肌で感じ取り、負けた身としては是非リベンジの機会も欲しい。
故にここであまりにも露骨な拒否をし続けるのはどうか、という葛藤はシノンにもあった。
少なくとも、いずれ再戦はしたい相手。そう思えるほどキリトを《強者》と見る思いがシノンにはあった。
「ねえシノのん?」
「ん?」
「さっきから随分とちらちらキリト君の方を見てるけどどうしたの?」
「えっ、そんなこと無いけど……」
「そう?」
何故だろうか。一瞬シノンは何かの地雷を踏んでしまったような錯覚を覚えた。
だが所詮は錯覚。シノンはすぐにそれを忘れた。
目の前にはとても良い笑顔のアスナがいる。ならそれで良いではないか、うん。
と、シノンはふと思いつく。そういえばアスナもヘカートⅡの弾丸を斬ったことがある。
予選決勝では紆余曲折あってキリトとアスナの戦いはアスナに軍配があがっているが、あれが純粋な勝負で無かったことについてはシノンも認めるところだ。
技能的に言って、キリトとアスナ、実際にはどちらの方が強いのだろうか。
またちらりとキリトに視線を送ってみる。その度にキリトは視線をシノンに合わせてくる。
「シノのん? もう五回目だよ?」
「え? 何が?」
「シノのんがキリト君を見たの」
「……うっそォ」
その回数は心外だ、と思わないでもないが言われてみればだいたいそれぐらい見た気がしないでもない。
急に気まずくなったシノンは先ほどの疑問をぶつけることにした。
「そ、そういえばさ、アスナとあの人って実際はどっちの方が強いの?」
「え? キリト君と私? そりゃあ……」
「アスナだろ」
それまでただ後ろに付き従っていたキリトが突如として会話に参加してきた。
彼曰く、実際に戦えばアスナが勝つ、と言う。
しかし、
「そんなことないよ。実際私負けたじゃない」
「いやいや、それなら俺も負けたよ昨日」
「あ、あれは……その」
「負けは負けだしなあ」
「い、イジワル!」
「何のことやら」
アスナが頬を染めながらキリトのおちょくるような言葉に必死に言い返す。
その様は互いにとても子供っぽく微笑ましいものではあるが、何故かこう胸がムカムカするものがある。
ああ、これがバカップルってヤツなのね、リア充ならぬVR充爆発しろ、という言葉をシノンはおぼろげながら理解した。
「じゃあまあ、実際問題油断さえなければアスナの方が上ってこと?」
もしそうならば、アスナを倒せば間接的にスタイルの似ているキリトをも倒せたことになる……かもしれない。
だが、アスナは首を振った。
「キリト君全然本気じゃないもん。その証拠に剣一本しか持ってないし」
「どういうこと?」
「キリト君の最強スタイルは二刀流なの。キリト君の二刀流は……別次元の強さだから」
少しだけ、アスナの表情が暗くなる。
その意味を、シノンは理解できないでいた。
「おしゃべりはここまでだな」
キリトが小声で二人に告げる。二人も頷いた。
あれから次の《サテライト・スキャン》まで、幸か不幸か三人は他プレイヤーと接触しなかった。
本大会開始と同時に自動で配られる受信端末。それによると三人が合流したポイントは大会フィールド南東側の森林エリアだ。
本大会の舞台はおよそ直径十キロメートル。だいたい中央に当たる位置に近未来的な廃墟都市……都市廃墟エリアと呼ばれる場所があり、北は砂地広がる砂漠エリア、西は草原、東が田舎の民家や畑が群がる田園エリアとなっている。
南には山岳エリアもあり、山岳エリアと田園エリアの丁度中間あたりに今いる鬱蒼とした草木が生い茂る森林エリアが広がっていた。
今回の舞台には北西、北東、南寄りに大き目の川が流れており、南側の川にのみ鉄橋も存在する。
三人は《サテライト・スキャン》でプレイヤーの位置を確認して、とりあえずの方針を決めた。
まずは近くにいるシノンも知らない先の四人のプレイヤーに接触を試みる。実際に会わなくても良い。近くまで行ってそのアバターを確認する。
《サテライト・スキャン》によると、ここから北方向にある田園エリアにある輝点が先の四人の一人、《ペイルライダー》であり、今の自分たちの位置から見て例の四人の中でもっとも近い位置にいることが受信端末でわかった。
そこで一先ずの目標は《ペイルライダー》というプレイヤーだと決める。
同時に、その傍にはシノンの知るプレイヤー、《ダイン》と言うキャラネームの輝点もあり、恐らくはペイルライダーとダインの戦闘が起きることが予想された。
そうしてたどり着いた古式ゆかしい民家の立ち並ぶ田園エリアでは案の定、ドンパチが始まっていた。
田園エリアは民家等の人工的な遮蔽物が多く、砂漠ほどではないにしても畑などで足を取られやすいエリアだ。森林エリアなどとは別の意味で隠れる場所には事欠かなかった。
一つの民家の屋根の上に登ってうつ伏せ状態になり、既に始まっている戦闘を窺う。
ウッドランド迷彩の上下、ヘルメットの下に覗く四角い顎。そして両手で抱えたSIG SG550アサルトライフル。
シノンが小声で「あれがダインよ」と話す。ダインはSG550アサルトライフルのマガジン全弾を撃ち尽くす勢いで引き金を引いて銃撃音を轟かせていた。
対するのはひょろりとした長身を青白い迷彩スーツで包んでいるアバターだ。黒いシールド付きのヘルメットを被っている為顔までは見えなかった。
武装は右手にぶら下げている《アーマライト・AR17》ショットガンのみ。恐らくこのアバターが《ペイルライダー》だろう。
そのペイルライダーは驚いたことにダインの放つ無数の五・五六ミリ弾の雨を《避けて》いた。
近くの木箱めがけて飛び、その勢いで民家の屋根に左手を伸ばし、左手一本で軽業師のように屋根の上に登ったかと思えば転がるようにまた屋根から降りる。
突然のアクロバティックな動きにダインはついていけずにマガジン内の弾丸を空に打ち切ってしまう。
その動きを見ていたシノンはペイルライダーの強さを肌で感じていた。名前も知らない相手だが、かなりの猛者だと。
恐らく軽業(アクロバット)スキルをかなり鍛えているのだろう。加えてSTR……つまり筋力にパラメータを大きく振っておきながら装備重量を抑えることで機動力へとブーストしている。
それによってAGI(敏捷力)とはまた違った意味での《速さ》が生み出され、身軽さを武器の一つとしているのだ。
一瞬の攻防でシノンはそうペイルライダーの強さを分析する。
マガジン内の弾を全弾撃ち尽くしてしまったダインは即座に予備の三十連マガジンを再装填するが、それよりも早くペイルライダーが持っていたアーマライトが火を噴いた。
ダインの体には問題なく着弾エフェクトが瞬き、同時に大きく仰け反らされる。それがショットガンの利点の一つだ。
アサルトライフルのような連射こそできないもののその威力の高さからダメージ量と相手への仰け反り効果(ディレイ)は非常に大きい。
ダインは大きく体勢を崩される。が、ダインとて本大会に出場できる程の手練れ。仰け反りながらもマガジンの換装は見事終わらせていた。
だがペイルライダーの猛攻も止まらない。再び放たれた轟音の元凶にダインは為すすべなく仰け反らされる。
やむなくダインは仰け反ったままがむしゃらに引き金を引くものの、それらは全て明後日の方向へと飛んでいき、三発目のアーマライトの前にその身を沈めた。
倒れた彼の上には赤い字で【Dead】と立体文字が表示され、ゆっくりと回転し始める。ダインはここで本戦リタイアだ。
「キリト君、どう思う?」
「……わからない。あいつがあのマントの中身なのかどうか」
勝者であるペイルライダーの戦いを見ていたキリトは、一分の隙も見逃さないよう食い入るように戦い方を見ていた。
だがわかったことと言えば手強いプレイヤーだという事実だけだ。
キリトが一度だけ会ったという死銃らしいプレイヤーがペイルライダーなのかはまだ判断がつきそうになかった。
判断材料としてはまだ足りない、そうキリトが思っていた時……それは起こった。
「あ、ペイルライダーが撃たれた……!」
「っ!?」
シノンの声にキリトとアスナは声を殺して耳を澄ませた。
撃たれたというペイルライダーは既に倒れているが、どうやら死んだわけではないようだ。
ともかく今はペイルライダーを撃った発射音を確認しなければならない。
音の発生先やその音色だけでもかなりの情報を得ることが出来る。三人は耳に神経を集中させた。
だが、いくら耳を澄ませていても木霊する銃の炸裂音は聞こえてこなかった。
「聞き逃したか?」
「ううん、確かに音は鳴っていなかったと思う。……シノのん、どっちから撃ってきたかわかる?」
「急に肩のあたりに着弾エフェクトが出たから……だいたい向こう、西側、としか」
「西側、か。しかし音がしなかったのは一体どういう……」
「作動音が小さい光学ライフルか、もしくはサプレッサー付きライフルかもね」
「サ、サプ……なんだって?」
キリトの疑問に珍しくシノンが答えるが、キリトは突如として出てきた専門用語に難しい顔をした。
キリトの銃知識は著しく乏しい。せいぜいが銃にはリボルバーとオートマチックがある、という程度のものだったのだから。
「減音器のことだよキリト君。サイレンサーとか聞いたことない?」
「ああ、なるほど」
「……何にも知らないでよくこの世界にいられるものね、ホント。こんなヤツに負けたなんて……」
シノンがブツブツと苛立ち混じりに呟き始める。
キリトはそんなシノンの呟きに頬をひくつかせながら、たった今撃たれたペイルライダーの異変に気付いた。
ペイルライダーが、立たない。
「妙、だな。倒れたまま動かないぞアイツ。ん? 何か、青い電気みたいなのが体に奔ってないか?」
「あれは……電磁スタン弾!? 普通対人戦ではめったに使わないんだけど……」
電磁スタン弾はその名の通り命中した相手をしばし麻痺(スタン)させる特殊弾だ。しかしこの弾は大型のライフルでなければ使用できない。
しかも一発一発がとんでもなく高価に設定されており、パーティプレイでボスクラスのMobを攻略する際に使われるのが一般的だった。
それを使い、あまつさえ命中させるとは。
その技術にシノンが心の中で感嘆していた時、そいつは現れた。
ゆらり、と滲み出る黒いシルエット。微妙に輪郭がぼやけて見える。
よく注視して見ればそいつは全身を灰色のぼろぼろフードマントで覆っているようだった。
スナイパーが着る《ギリースーツ》ならぬ《ギリーマント》と言ったところか。
あのマントは余程高い隠蔽効果が付与されているのだろう。
徐々にぼろマントが倒れて動けないペイルライダーへと近づく。
それを見たシノンはどうしようもない違和感に襲われた。
あれほどの狙撃を成功させる腕のあるプレイヤーが、何故わざわざ姿を見せて近寄ってきたのか。
動けぬ相手ならばあとは頭を吹き飛ばせばジ・エンドだ。時間をかけて姿を見せるメリットはどこにもない。
この違和感は……なんだ?
シノンの頬を、偽物の汗が伝ったような……気がした。
同時に、隣にいるキリトが息を呑む音が聴覚野に届く。
彼の声が喉奥でヒュウヒュウと震えているのがわかった。
「アイツ、まさか……?」
絞り出すように出たキリトの震え声。
何故か妙に焦るようなキリトのその声が、不思議と耳奥に残っていた。