──────ここではない何処か。
──────別の世界で、常に付きまとっていた、悪寒。
それが、今再びキリトの身を襲った。
なんと形容していいのかわからない。だが、彼の第六感が告げている。
あのぼろマントに《撃たせてはならない》と。
言うなればそれは……嗅覚。《死》という物に染まりすぎたが故に、《死》を敏感に感じ取ってしまうキリトの特殊な嗅覚から来る警告だった。
「──ッ! 《沈黙の暗殺者(サイレント・アサシン)》ッ……!」
そうキリトが感じた時、今度はシノンが震えるような声で呟いた。
いつの間に取り出したのか。彼女の瞳は愛銃であるヘカートⅡのスコープを通して現れたぼろマントを見ていた。
正確にはぼろマントが持つ主武装(メインアーム)を。それはヘカートⅡに迫るほどの全長を持つ大型のライフルだった。
シノンは感心すると共に一人内心で成程と納得する。
《沈黙の暗殺者(サイレント・アサシン)》。正式名、《アキュラシー・インターナショナル・L115A3》。
使用する弾は338ラプアマグナムで、シノンの持つヘカートⅡの50BMG弾と比べると絶対的な威力では劣る。
しかしこれはヘカートⅡと違い、対物ライフルではなく対人ライフルだった。
人を撃つことに特化している武装。ある意味こういった遭遇戦の《対人》バトルロワイヤルであるBOB──バレット・オブ・バレッツ──のような大会に限って言えば使い勝手としてはヘカートⅡを凌ぐだろう。
無論使い手によっては宝の持ち腐れになるし、シノンとてヘカートⅡを使用しての撃ち合いで負けるとは思わない。
だがそれだけの潜在能力を持つ武器なのは確かで、同時に遠距離からの狙撃を成功させ、またこの決勝に残っていることからも、その腕が伊達ではなく決して油断して良い相手ではないと窺える。
「シノン、あいつを撃てるか……?」
シノンは返事をする代わりに愛銃を構えた。片目はずっとスコープ越しのぼろマントを覗いている。
不思議とこの時ばかりは反発心は湧かなかった。心がザワついている、とでも言うのだろうか。
撃たなければいけないような、そんな予感がシノンにもあった。
ドクンドクン、と脈動する鼓動が静かに伝わってくる。
やることはいつもと何も変わらない。ただ無心になって、鼓動とリンクする着弾予測円(バレットサークル)が小さくなったその時に、寸分違わずぼろマントを捉えて……鉄の引き金を引く。
既にもう何十何百、何千何万と繰り返してきた動作。そこにミスはありえなく、狙いも完璧。
──轟音。
大型マズルブレーキから炎が迸る。いつもならそれだけで命中する前に手応えさえ感じる……のだが。
この時、シノンは手応えを感じられなかった。必中であると思い、幾百と繰り返した動作には些かのミスも無い。
だがシノンの勘は《当たらない》と告げていた。何千発と目標を撃ち抜いてきたシノンだからこそわかる《撃ち抜く》感覚。
それが、今のショットには感じられなかった。それを裏付けるように、シノンが引き金を引いた時にはぼろマントはゆっくりと上体を大きく傾けていた。
それだけ。たったそれだけのことでシノンの狙撃はミスショットとなる。
同時に、シノンは見た。ぼろマントを羽織るプレイヤーの顔部分……眼窩の奥に灯る仄かな赤い光を。
いや、正確にはゴーグル越しだろう。だが重要なのはそこではない。問題なのは……闇に紛れたぼろマントの口元が、僅かに歪んだことだ。
決して見えるはずの無いそれを、シノンは確かに視た。《見た》のではなく《視た》。
嘲りとも取れるそれを、シノンは確かに感じたのだ。
「あいつ……気付いてた! 最初からこっちのことに気付いてたんだ!」
「馬鹿な、あいつは一度もこちらを見なかった!」
「でも、あの動きは弾道予測線(バレットライン)が見えてなければ絶対に不可能! どこかであいつは私を見ていて、それがシステムに認められていたってことだわ!」
キッと睨みつけるようにシノンはキリトに顔を向けた。
その瞳を、強張った顔でキリトが受け止めた時、アスナが小さく声を上げた。
「あっ」
その声に反応した二人は、ばね仕掛けのようにぼろマントに向き直る。
そこではぼろマントが自動拳銃らしきハンドガンをスタンし倒れているペイルライダーに構えている所だった。
──────どくん、とシノンの心臓が大きく跳ねた。
遠目の為に詳しい判別まではすることができないハンドガン。
だが、何故かその銃に胸騒ぎを覚えた。
理由はわからない。しかしザワザワと胸の中に溜まる泥のような何かは徐々にその体積を増しているかのように思えた。
だいたい今この瞬間にハンドガンを使うメリットは些かもない。もうすぐスタンも解けてペイルライダーは自由になってしまう。
だというのに威力の低いハンドガンなどでトドメを刺そうと思うなら、明らかに威力が足りない。
あれほどの長距離狙撃を成功させる熟練者がそのことに気付かないはずもない。
一言で言って妙。スタンを成功させた時から思っていたことだが、それがここに来て爆発的に意味を深めていく。
そしてその謎、違和感は次の瞬間最高潮に達した。
ぼろマントは手をフードの額に当て、次いで胸、左肩、右肩へと動かした。
そのままの意味で捉えるならいわゆる十字を切る、というような動作と取れる。
だが、この瞬間、このタイミングで行われるそれには一体どんなメリットがあると言うのか。
遠くから狙撃された直後である。無駄な動作をするのは自殺行為と言えるだろう。
それとも、こちらの攻撃など絶対に避けられるという自信でもあるのだろうか。
だと言うのなら、少しばかりシノンのプライドが刺激される事案ではある。
その時だ。
一発。たった一発だけぼろマントのプレイヤーはハンドガンの引き金(トリガー)を引いた。
軽業師のようなアクロバティックスキルを会得しているペイルライダーだが、スタンしている以上避ける術は無く、ぼろマントの銃弾を甘んじて受けた。
もっとも予想通りハンドガンの一発ではペイルライダーのHPを吹き飛ばすことなどできなかった。
ペイルライダーのアバター中央を撃ち抜いたダメージはクリティカル判定ではあろうが、それでも彼、もしくは彼女のHPを一割削る程度が関の山だろう。
だというのにぼろマントはそれ以上の追撃を行わない。
シノンに撃たれた後だというのに逃げもしない。もう一発撃ってやろうかとシノンが思った時、とうとうペイルライダーの動きを封じていた電磁スタン弾の効果が切れた。
ペイルライダーは体操選手のように跳ね起き、アーマライトをぼろマントの体の中央に押し付ける。
自動拳銃などとはわけが違う。このまま文字通り零距離でショットガンをぶち込まれれば即死は免れない。
だというのにぼろマントに慌てた様子は無かった。まるで、《この後起こることがわかっている》かのように。
結論から言うと、ペイルライダーの持つAR17ショットガンが、その咆哮を上げることは無かった。
ペイルライダーは突如として膝を付き、アーマライトを手放した。
そのままペイルライダーはゆっくりと倒れこむ。その時、シノンからはヘルメットのシールドに隠れていたペイルライダーの口元が僅かに見えた。
何かを叫ばんばかりに口を開き、喘いでいるかのような口元を。
ペイルライダーは先ほどまでの素早い動きが嘘のように弱々しく自身の胸をギュッと掴むと、突如としてその姿を消失した。
ペイルライダーというアバターを象るポリゴンが一ドット余すことなくこの世界から消去されたのだ。
《大会中においてプレイヤーはログアウト不可》のはずのBoBで。
最後に残った光が【DISCONNECTION】という文字を作ったが、それもすぐに消える。
ただ、電子的な風に乗ってボイス・エフェクターを使用したような機械音声でぼろマントの声が聞こえた。
「俺と、この銃の、真の名は、《死銃》……《デス・ガン》。俺は、いつか、貴様らの前にも、現れる。そして、この銃で本物の死をもたらす。俺には、その、力がある」
キリトの呼吸が荒くなる。目は剣呑なものを帯び始めていた。
同様に、アスナにも何か感じるものがあった。チクチクと記憶の隅を突かれるような感覚。
それが何かは未だ思い出しきれない。だが、霞みがかった記憶の奥で、シュウ、シュウと何かが擦れる音がしている。
「忘れるな。まだ、終わっていない。何も、終わって、いない。……“カップル”は、撲滅する」
─────イッツ・ショウ・タイム……!
最後の言葉が聞こえた時、キリトとアスナは同時に飛び出していた。
ガシャン、と音を立ててタンブラーが割れた。
割れたタンブラーはすぐにポリゴン片となって霧散していてく。
「ちょっとなにやってるのよ?」
リズベットは固まったまま動かないクラインに唇を尖らせた。
今彼が床に落として割ったクリスタルのタンブラーは彼女の制作物の一つである。
クラインに頼まれ、友人のよしみから渋々武器ではない物を手掛けたのだ。
リズベットは、リズベット武具店というSAO時代の自分の店からもわかるとおり基本武具を主目的とした鍛冶師、工匠妖精族(レプラコーン)である。
オーダーメイドで他の物も作れなくはないが基本的には武器以外の物を喜んで彼女が作ることは無い。
それは彼女の中の武器職人としてのプライドとマナー精神の現れでもあった。
彼女は武器を作ることにそれなりの誇りを持っているし自信もある。それ故に他の鍛冶仕事にまで大きく手は伸ばさない。
何故なら手を伸ばせば伸ばしただけ本業が疎かになってしまう気がするからだ。
加えて、自分のような考え方を持つ他のプレイヤーへの配慮でもある。同じような考えを持つプレイヤーというのは少なくない。
その中にはリズベットとは対照的に武器の類ではない別な物の製造を専門にしているプレイヤーもいる。
その人たちに比べていい加減な仕事になってしまうかもしれないし、何より顧客を奪うような真似はしたくない。
やるなら堂々と、自分の分野でのぶつかり合いのみに徹したかった。
だから、クラインがタンブラーを割ったことにリズベットは些か怒りを感じた。
自分の中の矜持を友人の頼みということで曲げて制作したものなのだ。いくらゲーム内のことと言えどせめてもっと大事に扱ってほしかった、と。
だがクラインはそんな不満げなリズベットの声を気にもかけずにモニターを凝視していた。
彼にしては非常に珍しい態度だ。クラインはグループ内の男子の中ではキリトとは裏腹に非常に良く口が回る方だ。
放っておいても話すのを止めないことだってあるほどで、こう言った時はとにかく謝罪やら自己弁護の羅列を捲し立てるのが常だった。
リズベットはそんな様子のおかしいクラインに唇を尖らせながらモニターを見やる。モニターにはGGOにて開催中の大会イベント、BoB──バレット・オブ・バレッツ──のストリーム中継が流れていた。
「さっきの人、クラインさんの知り合いなんですか?」
クラインがおかしくなったのは、たった今不思議な勝ち方をしたプレイヤーを見てからだったように思える。
クラインの態度が気になった風妖精族(シルフ)であるリーファがそう尋ねると、クラインはやや怒気を孕む声で口を開いた。
「そういうことか……キリトにアスナちゃんよぉ……! くそっ、水くせぇ……!」
「ちょっと……何急にキレてんの? 意味わかんないんだけど」
リズベットは未だ割られたタンブラーの事が頭から離れないのか、イライラしながら腰を手に当ててクラインの前に仁王立ちした。
そこでようやくと我に返ったのか、クラインは苦笑いしながら一言「悪い」と口にする。
「それはいいから。一体なんだったのよ?」
「……さっき変な勝ち方をしたヤツ。奴ぁ《ラフコフ》だ」
「ッッッ!?」
リズベットは息を呑み、それまで不思議そうに傍観していたシリカでさえ席を立ち上がっていた。
一人、置いて行かれたようにリーファだけが首を傾げる。
「《ラフコフ》って何ですか?」
「そうか、そういえばリーファちゃんは知らないのか。《ラフコフ》ってのは……SAO時代、相手がどうなるか理解しながらPKを繰り返した最低最悪のレッドギルド、《笑う棺桶(ラフィンコフィン)》のことだ」
「そんな、それって……まさか!」
リーファのまさか、というような驚愕の表情がわからないわけではない。
死が実際に隣接している世界で、人を殺すような真似を進んで行う者が、《集団(ギルド)》で存在していたとは、信じたくない話だ。
だが、デスゲーム時代のSAOを知る者にとっては周知の事実であると同時に恐怖の対象でもある。
一体あのゲームで帰ってこなかった者のうち、何人が彼らの手にかかったのかはもう知る術が無い。
「さっき奴の吐いた言葉……《イッツショウタイム》……って言葉は奴等のリーダー、PoH(プー)って野郎の決め台詞だったんだ」
「じゃ、じゃああの人がその……!」
「いや、PoHの野郎じゃねぇ。話し方や態度が全然違う。だが奴に近かった幹部の誰かだろう。多分、キリトやアスナちゃんはそれがわかったから今回GGOにまで行ったんだ」
「そんな……」
クラインの説明を聞いて、リズベットも同じように「水くさい」と思った。
何故話してくれなかったのか、と。もしそれを聞いていたなら……こんな馬鹿げたこと止めたのに。
いや、それがわかっていたからこそアスナは言ってくれなかったのだ。どうせ「巻き込むわけにはいかないもんね」などと言っていたに違いない。
場が、暗い空気で静まりかけたその時、これまで黙って話を聞いていたユイが口を開いた。
「クラインさん」
「ああ」
「今すぐクリスハイトさんに連絡を取ってください」
「クリスハイトに? 何でまた?」
「非常時なので情報開示しますが、クリスハイトがパパとママに今回GGOへ行く依頼をした張本人です」
「なんですって!?」
リズベットは声を荒げた。
場合によっては今後の対応、いや今すぐにでも行動を起こさねばならないかもしれない。
「彼のリアルネームは菊岡誠二郎。皆さんも知っている元SAO対策本部所属の役人です。その伝手で彼からパパにGGOへの調査依頼が来ていたんです。最初パパは本来の依頼内容を隠していましたが、ママによるクリスハイトさんへの《交渉》により彼はパパが隠した内容について口を割りました。ゲーム内での銃撃で実際に死亡したプレイヤーがいるから調べて欲しい、と。銃撃したプレイヤーは《死銃》と名乗ったそうです」
「《死銃》って……!」
《死銃》というのはつい今し方モニターに映ったプレイヤーが名乗った名前だ。
もし愉快犯でなければ同一人物である可能性はグンとアップする。
同時にリーファは思い出した。そういえば、兄──キリト──はやたらと高額なアルバイト料をもらう予定だったな、と。
今にしてみればむしろ納得出来る。むしろ何故そこで何かきな臭いものを感じられなかったのかとあの時の自分の鈍ささえ苛立たしく思う。
「私の知っている情報では、SAOのレッドギルドがこの件に関わっているとの情報はありません。クリスハイトさんの真意を問い質しておく必要があると思います」
「でもよぅユイちゃん。今見てみたがクリスハイトはログインしてねェしリアルの連絡先なんて俺知らねェぞ?」
「エギルさんなら知っている筈です。パパとママの緊急事態だと言えば教えてくれるでしょう」
「お、おお……成る程。んじゃちょっくら行ってくる!」
クラインは素早くウインドウをタップし、アバターをそこに残したまま落ちた。
恐らくはすぐに戻ってくることだろう。彼が実行したのは完全なるログアウトではなく一時ログアウトと呼ばれるものだ。
何らかの用事で一旦VRワールドから離れる時、接続をサスペンド状態のままにしておける機能である。
これを行うことにより、再ログインの際にはログイン過程のセットアップステージをすっ飛ばしてログインが可能となるのだ。
もっとも時間が経ちすぎると勝手に接続はカットされるので、長時間の離席には使えない。
「クリスハイトの真意、か。ユイはどう思ってるの?」
リズベットはユイの言った事を反芻し、尋ねる。
この場で最も冷静さを保っていると思われる彼女の意見が聞きたかった。
ここで言う真意とは、クリスハイト──すなわち菊岡誠二郎が死銃とレッドギルド……SAO時代の負の遺産とも呼べる《笑う棺桶(ラフィンコフィン)》との繋がりについて知っていたか、どうかということだ。
「わかりません。ただ……」
「ただ?」
「………………」
「……ユイ?」
黙ったユイを訝しむと同時に、一瞬ゾワリとした感覚が込み上げる。
リズベットは反射的にユイの顔を見て、言葉を失った。
一体どうして、何故彼女が最も冷静だなどと思ったのだろう?
彼女がAIだから? 彼女が的確に今すべき指示を出したから?
だとしたら……なんて間抜け。
今一番冷静じゃないのは……彼女に外ならない。
《変わってしまった》キリトを思わせる感情を感じさせない能面のような表情。
なまじ普段から笑顔が絶えない少女なだけに、その違和感は……恐ろしくすらある。
無理もないのかもしれない。彼女にとってキリトとアスナは親で、大好きな存在で、今危険の渦中にいるのだから。
ユイの瞳は一切瞬かない。開き続けたままモニターを見据え、じっとしている。
ユイの見つめるモニターの中では、飛び出した二人のプレイヤーが死銃と名乗ったプレイヤーに対峙している所だった。
リズベットはその異様な姿のユイにしばし目を奪われる。だからだろう。
「……もし、あの人がそうだと知っていて送り出した、もしくは隠していたのなら……後悔させてやります。……必ず」
ユイの発した小さな返答は、耳に入らなかった。
仮想肉体と言えども、脳からの電気信号によって動くことに変わりはない。
だから昨今のVRゲームにおけるハードウェアは軒並みヘッドセットタイプが多く採用されている。
脳に干渉する機械ならばその方が都合が良いからだ。
当初は人間の身体全体をボックスで覆うようなものからの開発だったそうだが、一般向けのナーヴギアの頃にはそれこそフルフェイス程度のヘルメットタイプまで軽量化されたし、ナーヴギアが危険だとされ安全措置をこれでもかという程施したアミュスフィアについてはさらに軽量・コンパクト化を成功させたゴーグルタイプにまでなっている。
その分野の研究は今もって急ピッチに進み、今が過渡期と言っても差し支えない。そのうち誰もが常に携帯するような形で、簡単に身につけられる物に変わっていくだろうとキリト/和人は睨んでいる。
その時はAR技術、拡張現実も進歩し、仮想と現実の境が良い意味でも悪い意味でもより曖昧になるはずだ。
それは同時にいくつかの危険も孕むことにはなるが、和人にとっては望ましい進歩の一つだった。
何故なら、ユイの干渉できる現実が増えるからだ。ユイを実の娘のように思うキリトにとって、それは願ってもないことだった。
だが今の技術力は脳への直接干渉に留まっている。つまり、仮想世界においての行動は全てにおいて脳からの指令によって為されると言うことだ。
一方で人間の《反射》と呼ばれる肉体的行動は、全てが脳からの指令というわけではない物もある。
人体において緊急を要する際、脳を経由することなく人の身体は動くことがある。主に脊椎反射と呼ばれる事象だ。
わかりやすい例題を上げるならば、人は熱いものに手を触れた時、即座に離す。
これは脳が《熱いから危険》だと判断し、命令して動くという従来の動きでは無く、脊椎にある反応中枢を介して脳への伝達・命令を省いて即座に離れさせるというものである。
咄嗟の反射的行動には多くの場合このケースが当てはまる。そのせいか、VRゲーム世界において無意識的な《反射的行動》は極端に少ない。
それは安全機構の観点からペイン・アブソーバを介した痛覚などの薄弱化によるものでもあるが、一番の原因はやはりハードとシステムの問題だ。
中には反射と取れる動きをする者もいるが、それは現実に置ける脊椎反射とは厳密には異なるものであり、その電気信号的スピードは現実とは比べるべくも無い……はずなのだ。
しかしそうとは思えぬスピードを捻り出す者は皆無ではない。
例えば、今のキリトやアスナのように。
二人が飛び出したのは殆ど同時だった。二人に気付いたぼろマント、もとい死銃が向き直った時、互いに死銃の正面に立たぬよう左右に分かれて飛び跳ねる。
死銃は構わず的を一人に絞ってきた。相手は……黒衣の少女、ではなく少年の……キリトだった。
アスナは迷うことなく腰のホルスターからハンドガンを引き抜いてトリガーを引き絞った。
オートマッチックとは言え連射には程遠い銃声が響き渡る。だが死銃の狙いは尚もキリトのままのようで、アスナのハンドガンをのらりくらりとは避けるものの、その存在に意識を向ける様子は無い。
それが益々アスナを焦らせた。記憶の片隅をチクチクと突くような既視感。
(前にも、前にもこんなことがあったはず……!)
必死に彼、キリトに追いすがろうとする凶刃。彼には届かなかったものの、酷く恐怖を感じた何か。
記憶の中にあるそれがアスナの中で不安となって膨れあがっていく。
先ほど見た光景がそれをさらに助長させていた。死銃による銃撃での、実際の死。
疑う余地は無かった。先のプレイヤー、ペイルライダーは間違いなく死銃に《殺された》のだとアスナは直感した。
そしてそれはキリトも同じだろう。だから二人は飛び出したのだ。
これ以上犠牲者を増やすわけにはいかない、と。
「餌に、かかったな。それも、まさか、二人、とは」
だがそれはむしろ相手の思うつぼだったらしい。
ぼろぼろのフードの奥で、アバターを通したプレイヤーそのものが嗤ったような気がした。
アスナの記憶の中で、再びシュウ、シュウとした擦過音がよぎる。
「まんまと乗せられたわけか」
「やはり、お前、キリト、だな」
「さあね」
「もう、隠しても、無駄だ。仮に、違った、としても、お前は、殺す…………っ!?」
一際大きな銃声。
それまで余裕を崩さなかった死銃が、初めて少しの焦りを見せた。
理由は明白。遠距離からの狙撃に僅かに驚いたのだ。
忘れていたわけではないのだろうが、目の前に二人いて狙撃まで気にしていては、流石に分が悪かったのだろう。
先の回避よりも些かぎこちない避け方だった。それほどまでにシノンの援護射撃は今の死銃にとって厄介だったのだ。
──────それがいけなかった。
「……邪魔、だな」
「!?」
死銃がそう呟くのと同時に、死銃のアバターはみるみる消えていった。
突然の事にキリトとアスナは混乱する。テレポートの類は無いはずなので、完全に虚を突かれてしまった。
お互いに視線を巡らせ、僅かな異変さえ見落とさないよう感覚を研ぎ澄ませる。
右を見つつ左も意識し息を呑む。腰を低く落として全ての異変を取りこぼさぬよう鋭敏化させた神経を集中させて次なるアクションに備えた。
一秒。
五秒。
十秒が過ぎた所でゴクリとキリトが息を呑んだ。
その時だ。再びシノンがいる方から銃声が上がった。
そこで悟る。どうやったのかはわからないが、死銃は透明化か何かする術を持っており、それを使用してキリトとアスナの二人をやり過ごし一番厄介だと感じたシノンの方に向かったのだと。
次いで爆音。二人は一目散にシノンの居る方へと駆けだした。
シノンはスコープ越しに見ていた死銃に軽く舌打ちする。
今のは惜しかったと思う。完全に油断していた筈だ。こちらに意識を割いてもいなかった。
それでも避けられたのはやはり弾道予測線(バレットライン)が見えているせいだろう。
とはいえ今のを完全に避けられたことには驚かされた。
しかしいつまでもミスショットに気を取られてはいられない。シノンは思考を切り替えてこれからどうするかスコープ越し死銃を睨みながら考える。
と、一瞬スコープの中の死銃と目が合った、気がした。背筋に言いようのないヒヤリとした感覚が奔る。
その時だった。スコープの中の死銃が消えた。思わず「えっ」と声を上げて高速移動によるターゲットロストを疑ったが、キリトとアスナの様子もおかしい。
どうやら本当に消えたようだ。そんな馬鹿なと思いつつも頭の片隅に一つの可能性が浮かび、次の瞬間視界の隅に映ったものでそれはほぼ確信に変わった。
「まさか……メタマテリアル光歪曲迷彩(オプチカル・カモ)!?」
一瞬目端の景色が揺らいだ。多分、ヤツはそこにいる。
こちらに向かってきている。信じられない事だが、死銃なるプレイヤーはこれまで一部の超高レベルネームドMob(ボスモンスター)のみのアビリティだと思われていたメタマテリアル光歪曲迷彩(オプチカル・カモ)を可能とするアイテムか何かを持っているらしい。
メタマテリアル光歪曲迷彩(オプチカル・カモ)は早い話が光を歪曲させて透明化するアビリティだ。
素早過ぎる動きには時折揺らぎのようなものが見えるが、じっとしていれば他のプレイヤーにメタマテリアル光歪曲迷彩(オプチカル・カモ)を見破る術は今のところほぼ無いと言っていい。
シノンは一瞬迷い、しかし決断したかのようにプラズマ・グレネードを腰のポーチから取り出した。
相手が何処にいるのか分からなければ範囲攻撃であぶり出す。万が一にもクリティカルすれば御の字だ。
そのつもりで構えたグレネードだが、次の瞬間には腕に奔る衝撃でグレネードを落としてしまった。
(撃たれた!?)
すぐに現状を理解し、シノンは我を忘れたように一歩を踏み出すと頭を抱えて大きく跳んだ。
その刹那に、爆発。シノンの落としたグレネードが作動し、シノンは背中に爆風を受けその衝撃でごろごろと地面を転がった。
いくら仮想世界と言えど2Dのゲームと違ってリアルさを追求しているVRワールドは仮初の三半規管のようなものも存在する。
ありていに言えば眩暈などの症状を起こし、平衡感覚を失うのだ。
爆風にさらされ地面を転がればそれも無理もないことと言える。現実なら生きていたとしてもすぐに動けない程の怪我を負っていてもおかしくはないのだ。
さすがにHPという点においてのダメージは最小限に留めたが、それでも眩暈等のバッドステータスとも取れる状態異常は避けられなかった。
シノンが眩暈によって揺れる視界に頭を小さく振りながら起き上がった時、すでに煙の切れ目から《ソイツ》は見えていた。
「あ……」
突きつけられる銃。
それだけならこれまでにも幾度となくあったことだ。何度も経験し、その度に窮地を切り抜けても来た。
だが。
「シノン、だな。お前も、殺す。いや、お前は、殺す。《朝田、詩乃》」
「ッッッッ!?」
名前を呼ばれる。《リアルネーム》を。
シノン/詩乃の目の前には死銃と名乗るアバター。
それだけならば、まだシノンは戦えた。戦う意志力を失わずにいられた。
だが。
突きつけられる《黒い銃》。
それには縦に滑り止めのセレーションが刻まれた全金属製のグリップとその中央に存在する小さな刻印があった。
円の中に星。黒い星。
それが今、詩乃の《シノン》を動けなくしていた。
一九三三年、ソビエト陸軍が《トカレフ・TT33》という拳銃を正式採用した。
やがてその銃を中国がコピー生産し《五四式・黒星(ヘイシン)》と称した。
三十口径、つまり七・六二ミリ径の鋼芯弾を使用し、後発のハンドガンの主流である九ミリ径よりも小口径だが火薬量は多く、銃弾の初速は音速を超え拳銃の中でも最大級の貫通力を有する。
故に反動は大きく、その後は小型化された九ミリ弾使用の《マカロフ》が正式採用となった経緯があった。
その《五四式・黒星(ヘイシン)》が、今詩乃の目の前に突き付けられている。
詩乃を一日して《人殺し》へと変えた《五四式・黒星(ヘイシン)》が。
あの日、強盗が持っていた銃は、《五四式・黒星(ヘイシン)》だった。
いつか、この銃を持つ敵と出会い、それを平然と倒すことでシノンは最終的に自分のトラウマを完全に乗り越えられると思っていた。
乗り越えなくてはダメだと思っていた。
しかし、
「う、あ、ああ……っ!」
現実は仮想世界と言えど時として残酷だ。
詩乃は力と言う力が一切入らなくなってしまった。
腰が抜けたように動けなくなり、喉奥が仮初の酸素を無制限に取り込んでいる。
現実なら過呼吸となっていてもおかしくない程だ。
詩乃の脳裏には急速にあの時の事が蘇えってくる。幼き日のあの日のことが。
やがてフラッシュバックのように視界をちらつく強盗と、目の前の死銃の姿が重なり始める。
強盗の、死銃のその目が、アバターを通してプレイヤーの中の詩乃自身を見ていると彼女が思った時、彼女の中で何かが弾けた。
無制限に溜まっていた胸の裡の泥が、決壊する。
「いやああああああああああっ!!!」
あの幼き日にも上げなかった少女の……慟哭。
かちっ、とハンマーが起こされる音は、彼女の耳に届かない。