「お、おいあれ……閃光のアスナ様じゃないか?」
「マジかよ、すげぇ本物だ」
「可愛いなー」
お祭りイベントに集まったプレイヤーの目に、アスナが映るたび似たような言葉が聞こえてくる。血盟騎士団として活動していくうちに、アスナは殆どのプレイヤーからその存在を知られるまでになっていた。
だが、それはアスナの望むところではなかった。むしろ、見知らぬ人が自分を知っていることに内心で恐怖さえ覚える。生来、気が強い方ではなかったのだ。
狂戦士とまで称されたことのあるアスナだが、その実、誰よりも恐がっていた。死ぬこともそうだが、長く仮想世界に捕らわれていることに。
現実世界においての彼女は、狂戦士などとはかけ離れた、いわば正反対の生活を送っていたのだから。
「流石は血盟騎士団副団長殿。大人気だな」
「……何かイヤだな、こうやって周りに騒がれるの。ただの見物客として来てるだけなのに」
「仕方ないさ、有名税みたいなものだよ。実際アスナは攻略組でも必須な人材だからな」
「そうかな」
「ああ、それに圧倒的に少ない女性プレイヤーの中でも五指には入る美人と来ればみんな浮き足立つさ」
「な、な……! そ、そういうお世辞は求めてないから!」
わたたっと手を振って歩くスピードを上げる。頬はすでに真っ赤だ。本当にSAOのフェイスエフェクトの過剰演出が恨めしい。
過剰気味なフェイスエフェクト──今日の場合は過剰と言い切れなくもないが──を隠すように両手で頬を抑えて俯きながら歩くアスナの後を、半歩ばかり下がった位置を保ったままキリトもついてきていた。
この狂戦士姫はそうでもしておかないと後でご立腹なさることをここ最近の付き合いでキリトも学んでいた。
そんなキリトの、お世辞じゃないんだけどな、という内心の声はどうやってもアスナには聞こえるべくもないが、下を向いて頬を手に当てているアスナの口端は釣りあがってしまっていた。
人、それを緩むという。アスナだって女の子、美人、可愛いなどという定型句でも、言われると嬉しいものだ。それが……気にしている相手なら尚更である。
しばらくして、ようやくと火照り……ならぬフェイスエフェクトが通常状態に戻りつつあるのを感じたアスナは背後についてきているキリトの気配が止まった事に気づいて振り返る。
アスナが通常状態に戻ったのを、キリトもまた敏感に察知し、同時にそれを追随するようなポジションからの解放と捉え、ふらりと出店に足を向ける。
「あ、ちょっと!?」
アスナは出店にふらりと向かい始めたキリトの後を小走りで追う。アスナの知らぬスキルでも使っているのか、キリトはフラフラ歩いているようにしか見えないのにアスナの小走りよりもやや早く感じられた。
本当にキリトは食べることになるとどこかネジがおかしい男である。
お祭りイベントというだけあって、古来よりの日本をイメージさせる露店、出店が通路の両端にびっしりと並んでいた。
中には服飾屋も見られ、どうやらイベント限定販売の浴衣も売っているらしい。防御力はもちろん期待できないが、着てみたいという欲求はアスナにもあった。
しかし、ちらりと横目で見た連れの男性の顔を見て、その欲求を溜息に変え却下する。キリトはすでにホットドッグを咥えていた。
考えてみれば彼は以前にもビシッと決めた服装に何も言わなかった前科がある。一大決心と言えば大げさだが、それなりの気構えに肩すかしを食らい、少なくない心の傷を受けたのも内緒の事実だ。
「あうなもふう?」
「……いいです」
差し出されたホットドッグを片手で制して断る。いつものことではあるのだが、アスナはキリトといると調子を狂わされっぱなしになる。
アスナはそれがちょっと悔しかった。キリトは断られて余ったホットドッグも自分の口へと放り込み、再び出店を物色すべく視線を巡らせている。
放っておいたらまた何処かにとてとてと勝手に行かれかねない。そう危惧したアスナは自分でも意外な行動に出てしまった。
「……え?」
「あ」
チョコバナナに目を付けたらしいキリトが一歩を踏み出したとき、アスナは咄嗟に彼の手を握っていた。キリトは目を丸くして口をポカンと開けている。
当のアスナもこんな大胆ともとれる行動をするつもりはなかったので、どうしたものかと思考を巡らせ、そうしているうちにまたフェイスエフェクトが過剰演出効果を表してしまう。
アスナは咄嗟に顔を伏せたものの、キリトの手は放さなかった。なけなしの思考回路で言い訳する。
「キ、キリト君ほっといたら子供みたいにどっかいっちゃいそうだから! それだけなんだから!」
「へ? あ、ああ、そうか、悪い……」
キリトは黒髪の後頭部を恥ずかしそうに掻いた。自分の子供のような行動を今更ながらに恥じているのだろう。
しかしそれはアスナも同じことで、未だ顔を伏せたまま上げることができない。片手が塞がっているので顔を隠すことも難しいのだ。かといって、せっかく繋いだ……繋げた手を放すようなことはしたくなかった。
キリトは頬を小さく二回掻くと、そのままアスナが落ち着くのを待ち、ようやく顔を上げたアスナに恥ずかしそうに言う。
「えーと、チョコバナナ食う?」
「……食べる」
今度はアスナも素直に頂くことにした。
「それにしても、SAOでチョコバナナを食べられるとはな」
「そうだねぇ、考えてみればSAOって現実世界の既存の食べ物ってほとんどないもんね」
SAOの食材はどれもユニークな名前と奇妙奇天烈摩訶不思議アドベンチャーな味を備えているものばかりだ。
どこをどうやったらそうなるのか、料理好きのアスナとしても製作者……茅場晶彦には一言物申したい。
おかげでアスナは聞いたこともない、恐らくはSAOオリジナルの三桁にも及ぶ食材を研究し、現実で自らが知る味付けを作るのに大変な苦労を被ったのだ。
もうここまで来ると、これほど細分化された味と名前、グラフィックを考える方もたいしたものだと感心したくなるほどだ。恐らく、いや間違いなく好き好んでこの料理を極めるプレイヤーは少ないとアスナでさえ思った。
先ほどキリトが食べていたホットドッグにしろ、今食べているチョコバナナにしろ、SAOでは正式名称が妙な名前になっていたりするなんちゃって料理なのだ。
だから本当はホットドッグのようなもの、チョコバナナのようなもの、と言った方がより正確なのだが、見た目も味もホットドッグでチョコバナナならそれはもうホットドッグでチョコバナナなのだ。
たいていのプレイヤーはそう思う。キリトとアスナもその御多分に漏れず、同じような認識だった。
「どうキリト君? 来て良かった?」
「ああ、ありがとうアスナ」
ふわりとした柔らかい笑み。すぐに残りのチョコバナナに取りかかるべく視線を逸らされてしまったが、その顔はアスナの仮想上の網膜と記憶にしっかりと刻み込まれた。
いつもの、見ようによっては小憎らしい笑みではなく、つい零れてしまったというような、自然な表情。以前にも思ったことだが、彼が素だと思われる時は、普段よりも幾分幼く見える。
そのギャップが、アスナの心の奥をトクンと揺らした。頼りになる、強い憧れの剣士。その一方で守ってあげたくなるようなあどけなさを醸し出す少年。
つくづくキリトという少年は、アスナにとって不思議で、興味深く、心の奥底に居ついてしまう存在だった。
「あ、そこのカップル! ちょっといいかな?」
と、その時だった。二人をカップルと呼び話しかけてくる青年がいた。キリトとアスナは繋いでいた手を離し一瞬警戒するが、すぐにその警戒を解く。
一目でその彼がNPC、ノンプレイヤーキャラクターだとわかったからだ。実際に生身の人間が動かすのではない、システムとAIが作り出すひたすらなイエス・ノーの2進数演算を繰り返して行動している魂無き存在。
「俺たちのことか?」
「そうみたい……きっと男女のペアに無作為に話しかけているんでしょうね」
「カップルで踊る盆踊り選手権! 参加してみない? 優勝者には豪華賞品も用意してるよ! あ、踊りならなんでもいいからね」
青年は終始笑顔で誘ってくる。その話の内容に、アスナとキリトはすぐに青年がなんなのか理解した。
彼はキーマン……クエスト発注者だ。イベントには往々にして限定クエストがあるものである。それが、モンスターを狩るとは限らないのが難儀だったりするのだが。
「……なぁ、これって」
「イベント……サブクエスト、でしょうね」
キリトとアスナがクエストについて話をしていると、小ウインドウがオートポップアップされた。
クエスト内容の説明と参加申請である。やはりこれは限定クエスト、イベントだった。イベントによっては話を聞くだけで《フラグ》が立つものもあるが、こうやって参加の有無を求められるものもある。
絶対の法則ではないが、たいてい自動で立つフラグはモンスター討伐が絡むのに対し、有無を求められるのはそれ以外の内容のことが多い。
表示されている今回のイベント内容をかいつまんで言うなら、男女ペアで踊りを披露し、NPC審査員に得点を付けて貰って一番点数のいい人が優勝、というありきたりなもののようだ。
二人の間にポップアップしているシステムメニューには参加・不参加の有無を問う画面が既に立ち上がっており、アスナはキリトが何か言う前に「えい」と参加のボタンをタップする。
「お、おい」
「出てみようよ、減るもんじゃないし。踊りなら危ないこともなさそうだし」
「これカップル出場ってことになってるぞ」
「気にしない気にしない」
やや気後れしたようにキリトはぶつくさと言うが、アスナはそんな言葉を右から左へと聞き流した。
ただ、こっそりと胸の中で一人の少女にだけ、謝罪する。
(ごめんねサチさん、でもこれくらい許してね)
「さぁ、レディィィスアァァァァンドジェントルメェェェェェェェンッ!」
お祭り、というにはそぐわない、どちらかと言えばこれからボクシングの世界タイトル戦でも行われるかのような熱気を纏った声で、司会者がマイク片手にshoutしている。
ある意味では確かに祭り、なのかもしれないが酷くイメージが違う。司会者の男はムキムキの黒人で、下は切れ込みの入ったダメージジーンズに上は白いタンクトップ、スキンヘッドにサングラスをかけた出で立ちで、エギルなどよりもよっぽどアフリカ系アメリカ人をイメージさせる。
イベントには十数組の参加申請があったようで、ちらほらと男女ペアが散見していた。みんな優勝商品目当てなのかなぁ、などとアスナはのんびり構えていたのだが、最初の組が踊り始めた瞬間、固まった。
「え……えっ!?」
盆踊り、と最初に言われていたので、踊りなんて櫓を囲んで適当に踊って歩くだけだろう……などと軽く考えてたいたのだが、その考えがどれだけ甘いものだったのかを最初のペアが教えてくれた。
ばっちりと息のあったコンビネーションでのタンゴ。それ盆踊りじゃないよ! とアスナは内心でツッコミそうになったが、ギリギリのところで思い出す。
あのイベント参加を求めてきた青年は言ってたではないか。踊りならなんでもいいよ、と。つまり、アリなのだ……というより実際に盆踊りよろしく、歩いて手を振るだけの人間の方が少ない、下手をすると皆無の可能性もある。
冷静になって考えてみれば盆踊りにどうやって点数を付けるというのだ。そんな簡単なことに頭が回らなかった自分が恨めしい、とアスナは頭を抱えた。
「お、おい……なんかすげーレベル高いんだけど……」
「うぅ……」
「俺、踊りなんて知らないぞ?」
「私もだよぅ、どど、どうしようキリト君……」
「まさか、何も考えずに知らないイベントに参加申請出したのか……」
「だ、だって……」
キリトの呆れたような声にアスナは肩を落とした。せっかくのお楽しみイベントなのにやってしまった。
あるいはサチという女性がいるのがわかっていながらキリトに一歩踏み込んだ自分への罰なのか。そんなマイナス思考の渦にアスナが嵌ろうとしていた時、
「ぷっ……あはははは!」
「な、何よぅ、そんなに笑わなくたって……」
「ごめんごめん……くくくっ」
「もぅ、まだ笑って、る……?」
キリトが笑ったことに尚更思考が沈みかけたその時、気付いた。キリトが“笑った”のだと。これまでの、笑みが滲むような顔ではない。
小憎らしい笑みでもなければ貼り付けたような笑みでもない。心の底からと思える、笑顔。
屈託のない、普段あまり見せることのなかった幼い雰囲気を残した素直な顔。これが彼の素だと、直感的にわかるほどの、自然な笑い。
(キリト君が本当の意味で笑うところ、ちゃんと見るのは初めてかもしれない……)
アスナの心にムクムクと歓喜が押し寄せてくる。彼が笑顔を自分に見せてくれたことが、彼が笑えるんだってことが、自分の事のように嬉しかった。
笑いは伝染すると言う俗説がある。これまでそんな俗説を信じていなかったアスナだが、キリトの笑顔を見ているとどうにも自分の頬が緩んできてしまうのがわかった。
正確にはそこに頬はなく、電子データ上の仮想アバターでしかないのに、フェイスエフェクトによる効果でしか表情の表現はできないはずなのに、お互い本当の感情が顔に出ているように感じられた。
「アスナ」
「なぁにキリト君?」
「このまま何もできないのはちょっと癪だろ?」
「そうだけど……」
「俺に一つ、考えがある」
ようやく笑いが収まったキリトは、そう言ってまたニヤリと不敵そうに微笑んだ。
その顔は先ほどまでの笑顔とは違うものの、これも素の彼だと思わせる何かがあった。例えるならそう、イタズラを思いつた子供のような、そんな顔である。
「さぁ、続いて次の組行ってみようかァ!」
相変わらずのテンションで司会を続けるスキンヘッドにサングラスのマッチョはむしろ始まる前よりもそのボルテージが上がっているようにさえ感じられる。
NPCであることは疑いようもないのだが、ここまで来るとただのデータの塊でしかない人、とはアスナには思えなかった。
そういえば、とアスナは思い出す。似たようなやりとりで、隣にいる彼と意見が衝突したことがあった。当時、NPCを囮にした作戦をアスナは立案した。
生きている人間の犠牲をなくすにはこれが最善の方法だとその時のアスナは信じて疑わなかった。あれはまだ、アスナがスピード攻略ホリックとも言えるほどに攻略のスピードを重視していたころのことだ。
当時から既に攻略組でも一目置かれ、作戦指揮を任されていた彼女にはその作戦に絶対の自信があった。ベストではなくともベター。
ベストはもっとレベルを上げてより安全に……だろうがそれでは時間がかかりすぎる。それを当時のアスナは許容できなかったのだ。
当初アスナはこの作戦に意を唱える者はいないと決めつけていたが、攻略会議に参加していたはぐれビーター……もといキリトはそんなアスナの考えを真っ向から否定した。
「NPCだって生きているんだ、その考えには賛成できない」
最初は何を戯言を、と思った。生身の人間の犠牲に比べ、ただのデータ上のみの存在である彼らはいくら消えようと無限にポップするのだ。
今思えば、なんて機械的な考えだったのだろうと思う。それでは、ひたすらなイエス・ノーの取捨選択をするNPCの取る行動と、何が違うのだろう。
アスナは思う。もしかしたらキリトはそこまで考えて、感じていたわけではいのかもしれない。ただ、直感的に彼らの存在をそこにあるものとしてとらえていただけなのだ。
何人たりとも、他人の場所を奪う権利などありはしない。たとえそれが、魂無き存在だったとしても。
何よりも彼の過去が、NPCと言えど何かを失う事に、奪うことに怯えているに違いない。そこで……ハッとアスナは気付く。
だとしたら、
彼があの“大規模なプレイヤー討伐作戦”において、奮戦し、生き残り、代わりに背負ったものは、彼に重くのしかかっているに違いない、と。
口には出さないが、彼の中であの戦い……《殺人ギルド掃討作戦》はかなりの重荷になっているに違いない。少なくとも彼は、あの戦いにおいてやむなく手を汚してしまったのをアスナは確認していた。
しかし、彼の奮闘がなければ被害はさらに甚大になり、敗北の憂き目を見たかもしれないのも事実。
作戦が完了した時、一番の奮闘を見せた彼、いや彼のみならずパーティ全員が、勝利に雄たけびをあげることなどなかった。“対人戦の殺し合い”だったのだ。当然のことではある。
目に余り過ぎたPK……プレイヤーキルを前提に考えられた、カーソルがオレンジになったプレイヤーの集うオレンジギルド……いつからかその中でも特に過激なギルドを殺人(レッド)ギルドと呼称していた。
その殺人ギルドでも特に問題だったのが、《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》というギルドで、このギルドを苦渋の選択の末に掃討した作戦はまだ記憶に新しい。
果たしてあの時、キリトの過去を知っていれば彼の元に行った掃討作戦参加要請を無理やり止めただろうか。……今の自分なら止めたかもしれないとアスナは思う。
彼には、あまりに辛すぎる。
(……あれ、そういえば……)
と、ふと何かひっかかりを覚えた。あの作戦で、そういえば、何か、聞いたような気がする。アスナは眉を寄せて記憶を手繰り寄せる。
あまりの悲惨な戦いに双方甚大な被害も出たため、本当のところアスナもずっと記憶の奥底に封印しておきたい記憶ではあるのだが……その記憶に、キリトが関係していた気がする。
いや、そうだ。確かキリトに……、
『黒の剣士、ビーターに、伝えろ』
伝言とも呼べないようなそれ。そうだ、確かに、聞いた。顔が半分宵闇隠れていた《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》の幹部。
全身にボロ切れを纏って、髑髏を模したマスクを被って……眼の奥が赤かった。そうだ……そうだ……それが名前……通り名の由来になっていたような……確か、あか、赤、赤眼の……。
ふと思い出してしまった記憶の奔流に、アスナは流される。自分の見たもの、聞いたものはなんだったのか。
確か、あの幹部は針剣(エストック)……自分と同じ刺突系を得意としていて……あまりにキリトにしつこく迫るから、自分が躍り出て……。
彼に、キリトに良いように攻められ、押し込まれたのが面白くなかったみたいで……キリトに、その髑髏の眼窩にある赤眼を向け続けていて。
『まだ、終わって、いない。俺は、負けて、いない』
負け惜しみにも似た言葉を、途切れ途切れに繰り返していて。
シュウシュウと擦過音を漏らして。
『これから、だ。お前は、“お前たちは”、これから、殺す。必ず、殺す──“カップル”は、撲滅する』
アスナは相手の言葉尻に、僅かに肩をこけさせて、でも。
シュウシュウと絶えない擦過音の後に続く最後の言葉が、厭に印象的で背筋を凍らせた。
思えば、それを忘れたくて、あの後アスナもキリトに続いて久しぶりに狂戦士と呼ばれるような戦いぶりを披露したのではなかったか。
それは……その言葉は、凍えるように低い、低い声で。
─────イッツ・ショウ・タイム……!
「アスナ!」
最後の言葉を思い出したのと、キリトの自身を呼ぶ声が聞こえたのはほぼ同時だった。
その瞬間、自分がこれから何をする予定だったのかを思い出す。
こわばった体に、止まっていたかのような電気信号を高速で送る。動け、と。
実際には仮想上の体が強張る、なんてことはないはずだが、それでもそう表現するしかないような、奇妙な感覚にアスナは一瞬とらわれていた。
だがそれも、文字通り一瞬。次の瞬間には打ち合わせ通り抜刀する。これには見ていたギャラリーもどよめいた。
「せやぁぁぁ!」
「だあっ!」
キィン、と一際高い金属音が鳴り響く。キリトとアスナ、お互いの剣が一瞬火花を散らして鍔競り合う。
一本の金属……細剣である自身の獲物、レイピアの先にアスナはキリトの顔を見る。その顔はやや不審そうな、気遣うような顔。
(いけない、心配させちゃったかも。よぅし!)
先ほどまでの思考で、沈みかけていた気分を無理やり上昇させ、体内のギアを思いきりグンと上げる。
当初の予定では徐々に上げていく手筈だったのだが、彼ならばこの程度の反応にはついてこれるだろう。そうアスナはキリトを評価して予定より三段階は早いスピードのある刺突を繰り出す。
キリトは目を見開き、慌てて回避行動に移る。これは流石というほかなく、彼は計四回放った“ただの刺突”を二回三回と避けるうちに体勢を立て直し、最後の四発目に至っては本気のスピードでなかったとはいえ見事にパリィ……弾いて見せた。
周りから「おお……」という驚きの声が漏れる。しかしここでは終わらない。アスナのレイピアにライトエフェクトが宿った……次の瞬間には同じくライトエフェクトを宿らせたキリトの剣と再び切り結んでいた。
アスナの放つソードスキル、細剣術の《リニアー》に対し、上から剣を振りおろす片手剣用ソードスキル《バーチカル》。どちらもソードスキルとしては基本技だが使用者のステータスが上がれば上がるほど威力も速度も増大していく技となる。
お互いの顔に笑みが浮かぶ。今のは申し合わせたタイミングではなくどちらも“当てる”つもりで放った剣技だ。今いるのは圏内である。
SAOにおいて圏内ではプレイヤーがプレイヤーのHPゲージを減らす方法は基本的にデュエル以外ありえない。今やっているのはデュエルですらないので例えどちらかがどちらかの剣を受け損ねて切られようと死ぬ危険はおろかHPバーが減ることさえしない。
だが、この瞬間この二人の間に、そんなものは関係なかった。ただ、楽しいと思える切り合い。
相手と息の合う、《同じレベルでの剣技》がぶつかりあう。申し合わせた剣技から既にかなり外れているのに、お互い引かないし手も緩めない。
それは本当の戦いにも似た緊迫感さえあったが、当人であるアスナの心は軽かった。圏内であることも理由の一つではあるが、もしこれがデュエルだったなら決着はとうについている自信があったからだ。
勝敗は“かつてと同じように自分の敗北”であることは疑いようがない。だが、今は《互角の剣技》を放ち合っている。そう、これは戦いではなく剣技のぶつけ合いだった。
キリトの提案は剣舞だったのである。舞踊の一つとしても数えることができるだろ? という彼の笑顔に乗せられ、他に代案もなかったアスナは承諾したが、これはこれで楽しいものだとすでに半ば目的と理由を忘れかけていた。
一分、一秒でも長くこの剣を交わらせていたいという欲求にかられる。だが、その突発的な欲求は次の彼の構えを見て満たされることが無いと理解した。
キリトは自身の剣に黄緑色のライトエフェクトを発生させ、素早くアスナに突進してきた。それはあまりに早く、光の帯が遅れて見えるほどの速度。
遅れてくる光の帯は下から上に向かって振り抜かれる……“予定通り”に。片手用突進技《ソニックリープ》。それはこの剣舞のラストを飾るソードスキルだと最初に決めていた。
来るのがわかっていれば、対処はしやすい。アスナはこれも予定通り、キリトが“スピードを抑えたソードスキル発動中の剣”に乗り、素早く跳躍して彼の背後に回る。
お互い背中合わせになったところでほぼ同時に納刀。ぺこりと頭を下げた。
「お、お、おおおおぉぉぉォォォォォ───!!」
睨んだ通りギャラリー達からの歓声が沸いた。キリトはしてやったりと口端を釣り上げる。
そんな彼にアスナも微笑み、お互い軽くコツンと拳を突き合わせた。
「あーあ、あれだけ盛り上がったのになぁ」
「仕方ないさ、ゲームの仕様じゃ、な」
観客のプレイヤーは二人の剣舞に大いに盛り上がった。ピーピーと口笛を吹き、アンコールまでかかるほどに盛況を得た。
しかし、そんなギャラリーの意に対して、NPCの評価点数は驚くほどに低かった。これには会場も大ブーイングである。
もっともキリトはそれを予想していた。圏内での抜刀はおそらくシステムイベント的に認められる類のものではない。
剣舞は最初から評価対象外……点数をもらえないのだ。剣舞、というもの自体が恐らくシステムに予定されていないものだったのだろう。
ソードアート・オンラインという剣の世界にいながらなんとも間抜けな話だが、その不満はゲーム制作者やゲームマスター、茅場晶彦に直接言うほかない。
ただそのような文句を言い、尚かつ受け入れてもらえるなら、二年ものあいだプレイヤーはこのアインクラッドに囚われてはいないだろうが。
「でも一番の盛り上がりを見せた組が一番の低い点数ってのもちょっと悔しいわよね」
「確かにな。予想以上にギャラリーには受けてたし。でも……俺は楽しかったよ。なんかさ、こういう気持ちになれるの……本当に久しぶりな気がするんだ」
「そっか……うん、そうだね。私も楽しかった!」
「あ、でもいきなりスピード上げるのは反則だろ。かなりヒヤッとしたんだからな」
「あれだけ上手く避けといてそんなこと言う?」
「いや本当に余裕無かったって!」
「あはははは!」
笑いが自然と漏れる。こんなにも今が楽しいと思える。明日は一緒に迷宮にも挑む。ずっと……ずっとこんな日常が続けばいいのに。
そう願う一方で、アスナはそれがどうやったって叶わないと心の何処かで思って……いや、理解している。
いつかは、きっと、やがていつかはゲームがクリアされる。その為に頑張っているんだから、そうでなければいけないと思う。
(ただそうなった時、私はもう、彼の隣にいることが出来ない。彼の隣にいる資格を、私は持っていない。キリト君の心にはもう私の入る余地なんて、きっとない)
これ以上を望んではいけない。欲してはいけない。
彼と一緒にいたいと思う一方で、それが叶わないものとして受け止める。
アスナはそんな二律背反という名の針が、自分の胸にズブリズブリと刺さっていく痛みを、笑顔の裏で感じていた。