シノンのつんざくような悲鳴が、聴覚システムを刺激する。
二人との距離は目と鼻の先ではあるが、このままでは間に合わない。死銃の持つ黒い自動拳銃のハンマーコックが既に起きあがっているのはアスナの目から見ても明らかだった。
一瞬、僅かに死銃がこちらに視線を送る。いや、アスナにではない。
キリトだ。
死銃は間違いなくキリトに一瞬だけ視線を送った。
その意味は、挑発と嘲り。
お前には誰も守れないと、そう言うかのような微かな嗤い。
このままでは間に合わない。どうやってシステムの裏を、もしくは超常的な能力を行使しているのかは未だ定かではないが、死銃には《実際に現実の人間を殺す力》があるのは最早疑いようはないのだ。
このままではシノンは撃たれ、リアルにおいて自宅で横になり、アミュスフィアを装着してGGOにダイブしている高校生という未だ少女の域を出ていない朝田詩乃はその短い生涯を強制終了させられる。
その時だった。
アスナの手がギュッと握られる。その意味を、アスナは瞬時に理解した。
データ上でしかない手の感触と温もり。しかしそれは確かな感覚となって掌に伝わっていく。
否。今日このGGOにダイブしたその時から、ずっとこの温もりは片手に残り続けている。
優しく暖かい温もり。何よりも安心できる柔らかな感触。決して手放したくないと思える大切な物。
二度と失ってはならない、確かな質量を持ったそれが、ギュッと力強く握られる。
途端キリトは大きく片足を踏み込ませた。ズンッと地面をやや揺るがすような踏み込み。
それではスピードを殺してしまうのは必至。一秒でも早く前に進みたいキリトにはまさに悪手とも言えるべき一手。
しかしキリトの目的は《自身の到達》ではなかった。
「う、お、らぁぁぁぁぁぁっ!」
裂帛の気合いを込めた叫びを喉の奥から震わせ、握ったアスナの腕を力一杯に振り抜く。
アスナはその力の動きに合わせて自身も地面を蹴り、引かれるまま力の流れに身を任せた。
ビュン! と勢いよく水平にアスナが跳ぶ。いや飛ぶ。
キリトは間に合わないと知るや否や強攻策に出た。すなわち《人間大砲》である。
「!」
死銃に驚愕が生まれるのと、アスナ渾身の空中右ストレートが死銃の鳩尾に食い込んだのは殆ど同時だった。
死銃は若干苦しそうな声を上げてたたらを踏む。実際の痛みはペイン・アブソーバによって何倍にも薄められ内蔵へのダメージはおろか呼吸困難にあえぐことも仮想アバター故にない。
だが、それに準ずる負荷ダメージ効果というものは確かに存在する。
例えばショットガンなどの強力な銃撃によるディレイなどはこれの代表例にあたる。
たかがパンチといえど、ダメージをもらった方に全くの無反動ということはない。
と、同時にシステムが脳を介している、というのも理由の一つに上げられる。
人間の脳は本能によって危機回避能力を有している。それは度重なる経験の蓄積による一種のパブロフの犬状態と言っても良い。
例えば、誰かに殴られそうになると人は無意識に殴られそうな場所に力を込めるし、威力を減殺するために防御の姿勢を取る。
同時に、その威力を理解していればいるほど錯覚も起こりやすい。強い攻撃が当たる時、それが強い攻撃だとわかっていれば《当たっていなくとも》痛み感じたり「痛い」と口走ることがある。
何かにぶつかったとき、たいして痛くもないのに「痛い」と言ってしまう人は多い。これはぶつかったことによって痛覚的ダメージが起こるという経験を脳がしているからに外ならない。
それは決しておかしなことではなく、一種の防衛本能の一つとも取れる。より早く状況を理解し命令を下すことで人体への的確な処置を体内で行えるのだ。
人間は痛覚やストレスを感じると脳内麻薬(エンドルフィン)を分泌し自らの鎮痛、鎮静を図る機能がある。
この時の鎮痛作用は通常のモルヒネの約六・五倍もの効果があるとされる。この処置が早ければ早いほど、人は痛覚などのストレスから短い時間で解放される。
その命令を下すのが脳であり、ナーヴギアやアミュスフィアは脳に干渉し、また命令系統を脳に一任している以上例え仮想世界と言えど脳の経験則による錯覚は免れない。
死銃を襲ったHP損失ダメージや直接的な負荷ダメージ効果の程はさほど大きくない。
しかし、彼も生身の人間の分身であり、脳を介してこのGGOにログインしている以上、いかな超常の力を行使できる特殊な存在だとしても《人間の持つキャパシティの壁》は越えられない。
「く……! 相変わらず、STR値は、馬鹿高い、ようだな。出鱈目な、ヤツだ」
「だったらどうした」
「ク、クク。いや、お前は、やはり、本物、だ……!」
「っ!」
ゾクリ、とキリトの背中に悪寒が奔る。
圧倒的な悪意。殺意と言い換えても良い。何度か味わったことのあるそれに猛烈な吐き気を催す。
しかし仮想世界ではどれだけ気持ち悪くなろうと実際に吐くことはない。吐くことはないが、せり上がる気持ちの悪さが消えることもない。
死銃のフードに隠れたゴーグル部分の奥で、紅い光が輝く。
その真紅の輝きに、記憶がチリチリと焦がされるような錯覚を覚えながらキリトはシノンに駆け寄ったアスナの様子をちらりと窺った。
「シノのん? 大丈夫シノのん!?」
アスナが呼びかけ、肩に手をかけるが、シノンはガタガタと震えて虚ろな目をしていた。
自身の経験からあれは精神的に相当揺さぶられたのだとキリトは直感する。
SAO──ソードアート・オンライン──からプレイヤーが解放された後も、ALO──アルヴヘイム・オンライン──に軟禁され、延々と精神を嬲られ続けたキリトだからこそ、その辛さと危険さは早々に理解出来た。
「何をした?」
「クク、ク。俺は、何も、していない。そいつが、勝手に、そうなった、だけだ。だが……!」
「っ!?」
死銃はキラリとしたロッドのような何かを取り出した。
瞬間、素早い刺突が突如としてキリトを襲う。あと一瞬回避が遅れていればその切っ先はキリトの女顔アバターの腹部を貫き猛烈にHPゲージを散らしていたことだろう。
一度アスナの持つ《銃剣》を見ていたからこそ、《それ》が《剣》だと勘が働き出来た反応。
初見だったなら貫かれていたのは間違いない。
「よく、避けたな」
「もっと疾い剣を何度も見ているんでね」
「そう、か。しかし、他の事に、気を取られたまま、勝てるほど、俺は、甘くない……!」
死銃の、初めてと言っても良いほど感情を内包した声と共にその連撃は激しくなる。
素早い連続の突き。中央を突く刺突から横薙ぎに振るい、上段から左斜め下へ袈裟切り。
返す刀で再び銃剣は空に軌跡を描き、退いたキリトの隙を逃さぬよう再び力強い正面からの刺突が浴びせられる。
キリトはその全てを紙一重でかわした。キリトの持つ光剣《カゲミツ》では鍔迫り合いなど出来ないことは既に予選決勝にてアスナ相手に経験済みだからである。
「っ! くそ!」
苛立った声を上げながらジリジリとキリトは後退させられていった。
このままでは為す術がない。しかも、さらに状況は最悪となっていく。
トン、とキリトの背中には硬い感触があった。たらり、と流れない筈の汗が背中を伝う錯覚。
田園エリアの民家か何かの建物にキリトは背中を預けていた。いや預けさせられていた。
ここに来て自分が追い込まれていた事に気付かされる。先までの攻防はここに、この逃げ場の無い場所へ誘き出す為の布石だったのだと。
「……く」
「終わり、だ……!」
死銃の被る暗いフードの奥でゴーグル越しに紅い輝きが灯る。
同時に、ジェットエンジンのような金属質のサウンドを伴って死銃はキリト目掛けて渾身の突き攻撃をお見舞いした。
その攻撃力の程はキリトが誰よりもわかっている。かつて何度も使用し、助けられた愛用の技の一つ、片手剣用ソードスキル《ヴォーパルストライク》。
だが、だからこそキリトにはその軌跡が読めた。
「くぅぅっ!」
キリトは剣先をギリギリまで引き寄せてから無理矢理に上体を反らした。
ちりちりと何かを焦がすようなライトエフェクトが胸の上で踊る。
死銃の放った強力な突き技は上体を反らしたキリトの胸部ギリギリを通過して壁に激突した。
死銃の《ヴォーパルストライク》を受けた壁はその耐久値を散らしたらしく、ボロボロと崩れていく。
「チィ……ッ!」
死銃の舌打ちする声が聞こえるが、キリトはそのまま転がるように壊れた建物内に後退して……《それ》に気付いた。
ブルルルル、と鼻息を荒くしてそこに屹立している四本足の獣。
馬、である。今のキリトに迷っている暇は無かった。
「よっ!」
「!」
キリトが勢いよく馬に跨ると、途端に馬は暴れ出した。
SAOでもそうだったが、総じて仮想世界の乗り物は動物、機械に限らず扱いが難しい。
それなりの練習と騎乗スキルといったものをある程度習熟させなければ乗りこなすことは不可能と言っても良かった。
だが、今はそんなことは言っていられない。
暴れる馬に無理矢理前進の命を与えるべく両足で挟むようにして腹部を蹴る。
馬は荒い鼻息を吐き「ヒヒン!」と鳴くのと同時に暴れながら前進し始めた。
今度は死銃が踏みつぶされないよう転がるように避ける。
キリトはそのまま無理矢理手綱を握りながらやや離れているアスナの元へ向かった。
幸い馬は思った方に進んでくれる。過去、キリトはSAOで乗馬の経験があった。あの時も乗馬できていると言うにはお粗末なものだったが何とか用を果たすことが出来た。
その時の経験が生きているのだろう。昔取った杵柄とは良く言ったものだ。
「アスナ! 掴まれ!」
キリトはアスナへと手を伸ばし、がっちりと彼女を掴む。
アスナはシノンを抱き抱えたままキリトに引かれるように持ち上げられ、馬の背に乗った。
「頼むぞ!」
キリトが一際強く馬の腹部を蹴ると馬の暴走はより酷くなり、振り落とされそうになる。
アスナはシノンを掴む腕に力を込めつつ、ギュッとキリトの腰に抱き着いた。
馬の速度は暴れる強さに比例して上がっていく。振り切れるか……そう思った時だった。
「……ロボットホース……!」
シノンの怯えるような声が二人の耳に届く。アスナがちらりと後ろを見やれば、そこには金属のフレームとギア類を剥き出しにした機械の馬に跨り追いかけてくる死神……死銃の姿があった。
その姿を見た途端、シノンがガタガタと震えだす。
「逃げて……もっと速く!」
シノンの泣きそうな声が届く。だが声を発しているシノンですら自分が無茶なことを言っていることには気付いていた。
ロボットホースの速度は早い。生きた馬は重量に応じてスピードが比例するのに対し、ロボットホースは二人までと搭乗人数が限られている代わりにその速度はお墨付きだ。
だがそのロボットホースは扱いが難しいことで有名で、まともに乗れる者のことなどこれまで聞いたことが無かった。
しかし驚くべきことに死銃はロボットホースを乗りこなしているように見える。加えて乗馬しているのは死銃ただ一人。
重量や速度から言っても追いつかれるのは時間の問題だった。そんなことは、GGO──ガンゲイル・オンライン──の古株であるシノンが一番よく理解していた。
それでもシノンはあの恐怖の塊から逃げたかった。過去の《罪》が実体ある形となって自分の前に現れ、今か今かと手ぐすね引いているかのような錯覚。
今度額を撃ち抜かれるのは自分だ、という強迫観念に苛まれ忍び寄る死銃の姿を視界に入れたくなかった。
シノンが恐怖から目を閉じたその時、
──銃声。
シノンの体がビクンと反応し、つい目を開いてしまう。それを見てしまう。
あの銃を、《黒星(ヘイシン)》を構える死銃の姿を。その姿が、脳内でかつて見た強盗の姿と重なっていく。
「いやぁぁぁぁぁぁああああああああああっ!!!」
シノンは声を荒げて叫び、暴れだす。
必死に抱えているアスナはシノンを取り落とさないようにするので必死だった。
そのアスナを見て、キリトが告げる。
「アスナ、シノンを連れて何処か安全なところまで逃げてくれ。今のシノンは、多分あの時の俺と同じなんだ」
「キリト君!?」
突然のキリトの提案にアスナは目を見開いた。
彼はこの状況下において、危険人物である死銃とたった一人で相対するつもりなのだ。
とうてい看過できることではなかった。
「このままじゃ手の打ちようがない。せめて、シノンを安全な場所へ!」
「でも、それじゃ……!」
「大丈夫だ、アスナ。俺を信じてくれ」
「キリト君……」
「俺はもう、簡単に諦めたりしない。俺の命は俺一人のものじゃない。わかってる」
キリトの瞳に、力強いものを感じる。漆黒の、黒曜石のような瞳は現実の彼を思わせる。
彼の揺らぎの無い真っ直ぐな目を見て、アスナはやむなく頷いた。
「絶対だよ。シノのんを安全な場所へ連れて行ったらすぐに戻ってくるから!」
「ああ、頼む。さっきはああ言ったけど一人であいつと戦うのはすっげー怖いんだ」
キリトはニカッと口端に笑みをのせる。なんとなく、いつもの彼がそこにいるようで不思議とアスナは安心できてしまった。
今の彼なら大丈夫。なんとなくだが、そう思えてしまう。
「いいか? 俺がタイミングを見計らってシノンごとアスナを《投げる》。着地はそっちに任せることになるけど」
「大丈夫、君のパートナーならそれくらい朝飯前だよ」
「アスナの作る朝飯なら、十分豪華なご馳走だからなあ」
「も、もう……!」
こんな時に何を言っているのだろうかこの人は。
本当に切羽詰っているのか。進退窮まっているのか。
何も知らない人が見たらそう思うだろう。事実、シノンは横目で睨んでさえいた。
こんな時に何をイチャついているんだ、と。真面目に逃げてほしいと願い、体の芯から恐怖が迫り上がって来てさえいた。
だが、アスナにはわかっていた。彼が、本当は誰よりも……《臆病》な人間であることを。
軽口を言えるのが、余裕があるからとは限らない。そこには、イコールでは決して結び付けられない複雑なものがあるのだ。
だから、アスナは離れるその瞬間までキリトに全身全霊でしがみつく。
彼の体温を忘れないように。彼が自分を忘れないように。
「いいか……? 行くぞ!」
「うん!」
アスナはシノンを掴む手により一層力を込めた。万が一にも離れてしまうわけにはいかない。
最悪着地はミスしたっていいのだ。死ななければ、HPを全損しなければそれでいい。
アスナは辺りを見回す。既にフィールドは田園エリアから西側、都市廃墟エリアの入口付近に入っていた。
この先ではどのみち、馬では満足な高機動を期待出来ない。
「サン、ニィ、イチ……今!」
キリトがぶんっ! と力強くアスナごとシノンを放り投げた。
一体彼のSTR値はどうなっているのか、易々と二人を弾丸のように宙へと送りだし、近場のビルの割れた窓の奥に見事避難させた。
それを見送った死銃はしかし、手綱を持つ手を緩めない。
今からでは建物の中に行くのには時間がかかる。即座に建物の中に逃がされた時点で追い打ちは事実上難しかった。
死銃にしてみればまたしてもキリトの奇行にしてやられた形ではあるが、そのキリト自身はまだ死銃の目の前にいる。
いや。
「!?」
目の前は目の前でも、先までのようにカーチェイスならぬホースチェイスの配置ではなかった。
キリトはあろうことか、死銃に突進していた。
しかも今にも振り落とされそうになりながら。どうやら片手で何か……ウインドウを操作しているようだった。
「クク、ク……! そうこなくては、な。お前と戦う、意味が、無い……!」
死銃から喜びさえ感じられるような声が漏れる。
キリトは後方宙返りの要領で馬から飛び降り、暴れ馬を死銃へと突進させた。
死銃は器用にロボットホースの背中に立ち上がると、制御を離れたロボットホースが暴れ出す前にキリトに飛びかかる。
その手には既に銃剣が装備されていた。だが、キリトはその少女のような顔をニヤリと歪ませる。
「!? なんだ、それは……!?」
キィン、と高い金属音が鳴り響く。
これまでは逃げ、避けるだけだったキリトは、初めて応戦した。
死銃の《銃剣》を受け止めるように、キリトはあるものを装備していた。
それは、赤と黒の二色によって色分けされたL字の……《名状しがたい何か》だった。
ところどころポリゴンがドット抜けしているように見えなくもない雑なエフェクト。
それはまるでモザイクがかかっているようにも見える。
あえて形を何かで形容するなら《バールのようなもの》というべきか。
「文句ならアスナに言ってくれ。本戦開始前にありあわせの材料で《銃剣作成》してもらったら出来たのがこれだったんだ」
「ふざけて、いるのか……!」
「確かにこれ耐久値低いんだ。お前の強そうな細剣(フェンサー)とじゃそう何度もぶつかり合えそうにない」
話しながらグググ、とキリトが死銃を押し返す。かねてから見るとおり、キリトのSTR値は異常だった。力だけなら、恐らくGGO内でも五本の指に入るに違いない。
死銃は舌打ちをしながら後ろに飛び、一旦距離を取った。銃で撃つには近すぎて、剣で打ち合うには遠い微妙な距離。
だがあんな《バールのようなもの》に自身が後退させられたことが死銃には許せなかった。
苛立ちから死銃が再び間合いに踏み込もうとした時、キリトは胸元から一本の銀光を放つ。
そこまでのスピードではないそれを、死銃は《銃剣》で打ち払った。キリトが放った物、それは……、
「……フォーク? 一体、こんなもの、どこで……」
「さっき拾った」
「……殺して、やる!」
「言っただろ、この《バールのようなもの》じゃお前の武器とは長く戦えない。だから……時間稼ぎさせてもらうぜ!」
まるでおちょくるかのような態度のキリトに怒り狂った死銃が襲い掛かってくる。
それこそがキリトの策略。冷静になられて、アスナの方へと向かわれたら作戦はパアだ。
キリトは心の中でアスナの名を呼ぶ。
(早く戻ってきてくれ、アスナ。それまで俺、頑張るから!)
言った通り、決してもう簡単には諦めない。
だから今は出来る限り時間稼ぎをしようと、キリトは《名状しがたいバールのようなもの》を片手に奮闘する。
戦力的に不利なのは変わらない。長くは持たないだろうことも想像がついた。死銃がちょっと冷静になれば、勝敗はあっという間に着きかねない。
手は恐怖で震えているし、足は逃げたがってもいる。だが、ここで逃げればアスナが危ない。
これが本当に普通のゲームで、ただの試合なら心の底から楽しめただろう。
だが相手は実際に人を殺した殺人鬼で、どんな方法かもわからないやり方で生身の相手プレイヤー殺す術を持っているのだ。
ある意味ではSAOよりもハード。条件は五分ではない。相手は例え負けても死ぬリスクはなく、こちらは負ければ現実からも永久ログアウトさせられる。
逃げたい。だが逃げるわけにはいかない。《諦めない》というアスナとの約束を違えるわけにもいかない。
キリトにとって、辛い戦いが始まっていた。
ALO──アルヴヘイム・オンライン──にある空中都市《イグドラシル・シティ》。かつてはその存在が流布されるだけで実在しない場所だったのだが、現在ではALOの主要都市の一つとも言える街。
その街の複雑な路地を越えた先にあるバー。誰かから招待されなければ迷いに迷ってたどり着けそうにないようなその場所に呼び出された菊岡誠二郎がたどり着いた時、彼を最初に歓迎したのはユイの張り手だった。
痛みはない。ダメージも無い。そもそも圏内では圏内防止コードによって勝手にHPが減ることなどそうありえない。
だがナビゲーション・ピクシーだからこそ、《攻撃》とみなされないそれに圏内防止コードは発動せず、攻撃力の無い張り手は菊岡誠二郎/クリスハイトの頬を小さく打つに至った。
「えっと……?」
水妖精族(ウンディーネ)の魔法使いであるクリスハイトは、マリンブルーの長髪を飾り気のない片分けにし、ひょろりとした長身を簡素なローブで包んでいた。
突然の《歓待》に銀縁の眼鏡をかけた毒気の無い細面は困ったような表情、フェイスエフェクトを表した。
クリスハイトからしてみればまさに寝耳に水。リアルで急に呼び出され、来てみたら痛く無いとは言え張り手をされる。
考えようによっては酷いイタズラとも取れるそれに説明を求めるべく視線を彷徨わせるが、どうやらこの場に彼の味方はいないらしい。
皆一様にして睨むようにクリスハイトを見つめている。思わずタジタジになってしまうのは仕方の無いことと言えよう。
しかしこのままただ睨まれているだけでは話が進まない。とりあえずクリスハイトは確認したいことから尋ね始めた。
「ク、クライン氏。君が僕を呼んだんだよね? どうにかしてリアルの情報まで特定して」
「それについては少しだけすまねぇとも思ってる。でもよぉクリスハイト、そうまでして聞かなきゃいけない用事がこっちにはあるんだ」
「聞かなければいけない用事? 何だかよくわからないけど僕に言えることなら教えよう。ただその前に僕のリアルをどうやって知ったのか教えてくれないかな。こればっかりはきちんと知っておかないと。僕だって仮想世界住人としての日は浅いけどリアルにまで干渉するのが本来タブーだっていう常識くらい知っているよ」
クリスハイトの言葉に、睨むようにしていた視線が少し和らぎ始める。それは事実だ。
例えどんな事態であろうと仮想世界で知り合っただけの間柄の相手のリアルを侵すことは究極のマナー違反に等しい。
その質問に答えたのはユイだった。
「私が教えました」
ユイはクリスハイトの前で浮遊しながら腰に手を当てて未だにクリスハイトを睨んでいる。
クリスハイトは困り顔のまま尋ねた。
「どういうことだい? 君は確かキリト君のプライベートピクシーだったよね」
「ああそうだ。今はワケあって俺が預かってる。そのワケってのはアンタが一番詳しいよな?」
「ふむ」
クラインが続くように答えた内容から、少しだけ得心がいったような声をクリスハイトは出した。
どうやらここにいる人物は全てキリトとアスナがGGOへと赴き死銃の調査をしていることを既に知っている。
確かに危険を伴う行為ではある。それについての糾弾、というところだろうとクリスハイトは当たりを付けた。
だがそれでも一つだけ釈然としないものがある。
「そうか、キリト君やアスナ君といつも一緒にいるこの子なら僕のリアルの事や彼らへの依頼を知っていてもおかしくない。でも連絡先までは……」
「エギルって知り合いに聞いたのよ。緊急事態だったものだから」
「エギル……ああ、なるほど」
クリスハイトはリズベットが挟んだ言葉に頷く。その名前は聞き覚えがあるものだった。
比較的SAO被害者は若年層が多いが、その中では少しだけ若年から離れた年代のプレイヤーであり、キリトも信頼している人物だ。
確か東京の下町にある店を経営していたはず、とクリスハイトは記憶を掘り起こした。
「アンタ何だってキリト達にこんな依頼を出したんだ」
「こんな、とは?」
「殺人事件が絡む、血生臭い事件にってことだよ」
「待ってくれ。殺人事件ではない……それが僕とキリト君の共通認識だ。だってそうだろう? どうやってゲームの中からリアルの人間を殺すんだい?」
「それは……」
「僕とキリト君もその件についてはしばらく議論を交わしたよ。結論はゲームの中から殺人は出来ないということだ。だから殺人事件ではないとしたところでこの件の調査依頼をしたんだ。SAOやALOのこともあって仮想世界については国でも結構危ういバランスの元で稼働しているからね、こういった事件は殺人などとは無関係だ、ということを証明しておく事で仮想世界肯定へのポイント稼ぎをしているわけさ」
クリスハイトの説明はわからないわけでもなかった。
確かに未だに仮想世界へダイブすることの危険性を唱える人は少なくない。
SAO事件やALO事件ではそれを加速度的に大きくもしたはずだ。
クリスハイトとしてはむしろ、日本情勢がそのままそちらに引きずられないよう全てのVR世界プレイヤーの味方として動いているのだ。
自分たちが好きな世界を護ろうとして働いている人物。それがわかるだけにさらにリズベット達の口は重くなる。
ましてやクリスハイト/菊岡誠二郎はSAO事件対策本部というSAO被害者の為に奔走した人物の一人なのだ。
今自分たちSAO被害者がこうして無事なのは菊岡誠二郎を含めた彼らの頑張りがあったからと言ってもいい。
そう思うと益々口が重くなっていく。まるで糾弾するかのような言葉を言えなくなっていく。
だが。
「それでも、何か気になったから調査をパパに頼んだんですよね」
小さいナビゲーション・ピクシーことユイはその攻撃ならぬ口撃を止めなかった。
未だにユイからは敵意が混じった視線を向けられ、戸惑いながらもクリスハイトは頷く。
あまりに出来過ぎている、とは思っている。だからこそ調査が必要だ、とも。
しかし先にも話したように仮想世界内部でリアルの人間を殺すのは不可能だ。それは絶対のはず。
それが絶対でなければ今すぐ世界中で稼働しているNERDLES──直接神経結合環境システム(NERve Direct Linkage Environment System)──はストップさせなければならない。
念のための安全措置としてダイブ中の人体の状況も逐一チェックし、二人の傍には人も付けてもいるとクリスハイトは説明する。
だが。
「もし死銃が人殺しだと既にわかっていたらどうします?」
続くユイの言葉に、初めてクリスハイトは言葉を飲み込んだ。
何を言っているのかわからない、という表情だ。
その顔を見て、今度はクラインが説明を続ける。
「死銃、つったっけか? ありゃあ《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》っつうSAOでの人殺し集団、通称《レッドギルド》の生き残りに間違いねぇ」
「な……!? それは本当かい!?」
ここに来て、初めてクリスハイトは驚愕する。
その名前は職務上理解していた。SAOでの非情集団。
今もSAO被害者を集めた学校で週一回程度のカウンセリングが行われ続けているのはそのギルドが存在していた事も原因の一つに上げられるほどなのだ。
それが事実なら、理由は不明にしろ《殺人》という可能性はグンと飛躍する。
「クリスハイトさんの方で、死銃のプレイヤー情報の引き渡しとか命令出来ないんですか?」
シリカが思いついたように口を挟んだ。
それが可能なら事件は解決したも同然、なのだが。
「それが出来ないから今回調査をキリト君に頼んだんだよ」
「出来ないって……どうしてですか? 政府が協力を求めれば……」
「僕の手がどれだけ長くても、海の向こうまでは流石に届かないんだ。GGOの運営は《ザスカー》って言う外国の企業なんだよ」
「じゃ、じゃあSAOのプレイヤーデータは!? 確か残ってるって聞いた事があるわ!」
「確かに残ってはいるよ。でも残っていたのはプレイヤーの本名とプレイヤーネーム、最終レベルだけなんだ。所属ギルドや殺人回数などはわからないからどれが死銃氏なのかは……」
「そんなもの、手当たり次第に当たってアミュスフィアのデータ内部を調べていけば……!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! そこまで行ったら裁判所の令状が必要になるし時間もかかり過ぎる! 第一僕一人の判断では決められないよ! 死銃氏がSAOで使っていたプレイヤーネームはわからないのかい? クライン氏」
「多分、あいつらはそれを知る為に今回GGOにいるんだろうぜ」
クラインが顎をしゃくった先のモニターでは丁度ホースチェイスが繰り広げられている所だった。
死銃の正体がそうだとわかると、先程までとは違ってそのボロマントを羽織った姿が死神のそれに見えてさえ来る。
死銃の一挙一動が恐い。一体何をどうすれば殺されてしまうのかなど想像もつかないのだから。
モニター越しに見ているクライン達ですらそうなのだ。現在当事者となっているキリト達の恐怖は比べるべくもないだろう。
せめて、相手の手の内が分かれば……そう誰もが思っていた時だ。
「クリスハイトさん」
「な、なんだい?」
「パパ達の身体は安全な所にあるんですよね?」
「あ、ああ。傍にはちゃんと人もいる。間違いなく信頼の置ける人間だ。そこは信じてくれていいよ」
「そうですか……」
ユイはここで初めて安心したようにその表情を弛ませた。
一番心配していた筈のユイがここで安堵するのは意外なことだった。
まだ死銃がキリト達に追いすがっている以上、安全とは言い切れない筈なのだ。
「だが、本当に君たちの言うとおり死銃氏がオレンジ、いや《レッドプレイヤー》なら残念なことにまだ安心は出来ないかも……」
「大丈夫ですよ」
「な、何故そう言い切れるんだい? まだどうやって仮想空間から人を殺したかもわからないのに」
「その答えならもう出ています」
「!?」
ユイの発言に全員の視線がユイに集中する。
まさか、死銃の行う殺人の絡繰りがわかったというのだろうか。
「本当かい!? ど、どうやって死銃は仮想世界から現実に干渉を!?」
「ご自分で言っていたじゃないですか」
「……?」
「《そんなことは出来ない》んです。仮想世界からリアルの人体に他人が深い影響を与える事は不可能」
「な、なら……!」
死銃はどうやって、とクリスハイトが尋ねる前にユイの素早い解説が続く。
推測ではあるが、可能性は高いその解説を。
「だったら答えは一つ。死銃が銃撃するまさにその時、《現実で生身のプレイヤーを殺している誰かがいる》のでしょう」
「な……!」
「死銃が《単独犯》だなんて保証、何処にも無いんですから」
まさか、というような盲点。
ユイの推測、いや、的を射た説明に、全員衝撃が奔った。
「大丈夫? シノのん」
憔悴しきったシノンを気遣いながらも、アスナは内心焦っていた。
早く彼の元に戻りたい気持ちで一杯だった。だが、こんなに弱々しい友人を放っておくことは出来ない。
キリトと別れてからはエリアを北上し、都市廃墟エリアを抜けて砂漠エリアにまで入った。
そこで首尾良く洞窟を見つけたアスナは、辺りにプレイヤーがいないことを確認しつつ洞窟の中に逃げ込んだ。
どうにかして早く彼の元へ戻らなければならないが、憔悴したシノンも放ってはおけない。
このままでは堂々巡りである。迷っているだけで時間は刻々と過ぎていき、それだけ彼が危険にさらされる時間が長くなる。
(一体、どうしたら……!)
焦りから、小さく人形のように整ったその顔が歪む。
その時だ。シノンがフッと顔を上げた。
その目はぐるぐると黒く渦を巻くようにして濁っているように見えた。
「アスナ……」
「なに? シノのん」
「私を、私を殺して……!」
「っ!」
アスナはシノンの突然の申し出に一瞬言葉を詰まらせる。
何て答えて良いのかわからない。
「今のうちに、ここで私を殺して! そうすれば私はもう《サテライト・スキャン》にもマークされない! そうなったらきっとあの死銃だって私を見つけられるわけない!」
「お、落ち着いてよシノのん……!」
「落ち着いてる、落ち着いてるわよ私は。アスナも言ってたじゃない、あいつに撃たれたら死ぬのよ!? だったら、時間いっぱい逃げ切るしかない! 逃げ切って、さっさとログアウトさえすれば……!」
シノンは焦点の定まらない目でアスナに懇願する。
なんだか、その様は何処かで見たことがあるような気がした。
本人は冷静なつもりのようだが、とても正常には見えない。どうにか冷静になってもらおうとさらにアスナが宥めようとした時、
「貴方だって早く彼の元に戻りたいでしょう!?」
「ッッッ!」
痛い所を突かれた。
極力隠していたつもりだが、やはり誤魔化しきれる物ではなかったか。
「貴方は早く戻れる! 私は安全になる! 万々歳でしょ? ねえアスナ!」
シノンの懇願する状況を打破するための一手。
それは甘い果実のようにアスナを誘惑する。シノンの言うことには一理ある。
死銃に発見されなければ確かに安全だろう。逆に言えば同じゲーム内にいる限りどこにいようと絶対に安全な場所など無いのだ。
加えて、アスナはキリトが気がかりでならなかった。彼が約束を違えるとは思わない。だが戦いに絶対はない。
いつ彼がやられてしまうかなど誰にも予想はつかないのだ。
だから早く彼の元に戻れるという提案は、アスナにとってはまさに喉から手が出るほど好ましいものだった。
たとえここで彼女を殺しても、現実で彼女が死ぬわけではない。たかがゲームの勝ち負けが決まるだけでしかない。
むしろそれで護れるのだ。速く彼の元にも戻れるのだ。まさに一石二鳥。
アスナはゆっくりと銃把を握る。
──本当に、良いの? これで。
──でも彼女も望んでること。
──これですぐにでもキリト君の元へと戻れる。
銃口がシノンの顔に向けられる。この距離ならいくら素人だろうとそう外さない。
紅いレーザーサイトのような弾道予測線(バレットライン)はシノンの額ど真ん中を示している。
シノンはようやくこれで苦悩から解放されると言わんばかりのホッとした表情をしていた。
それが益々アスナにこの行動を正当化させようとする。
アスナの指が、カチャリ、と引き金にかけられた。ドクンドクンとうるさいくらいに心臓の鼓動が聞こえる。
この引き金を引けば、当面の問題は解決される。彼女もそれを望み、待っている。
だいたい前に自分も殺されたことがあったではないか。これはその時のお返しのようなものだと思え。
撃て。撃ってしまえ。
頭の中で誰かが──自分が──囁く。
引き金にかけた指に、力が入って……、
──────渇いた、銃声。
「……」
「……」
「……なん、で」
「……」
「なんで、私を撃たないのよ……アスナ!」
アスナは、シノンを撃てなかった。
ここで撃ってはいけない気がした。
「撃てるわけ、無いよ」
「どうして……!」
「だってシノのん、泣いてるもん」
「ッッ!」
「そんなシノのんを、放ってなんておけないよ」
「う、うぅ、うわぁああああああああっ!」
シノンが声を上げて泣き出した。アスナは優しく彼女を抱きしめる。
これまでシノン/詩乃は誰かに頼るということをしたことが無かった。いや正確には出来なかった。
彼女の境遇がそれを許してくれなかったのだ。そんな彼女に初めてできた、本当の心の支え。
まるで童心に返ったかのようにシノンは泣きじゃくった。
「怖い、怖いの……! だって、私人殺しで……!」
「うん」
「誰からも、助けてもらえなくて……!」
「うん」
「おか、お母さんも、私のこと……!」
「うん」
シノンの支離滅裂な話を、アスナは一つ一つ頷きながら聞いていく。
優しく背中を撫でながら。
「あの死銃が持っていた銃は、私が強盗を殺した時のものと同じだったの……だから」
「うん」
「あの死銃はきっとあの時の強盗の亡霊なんだって思って……」
「うん」
「そう思ったら怖くなって……強くなろうって決めたはずなのに……」
「大丈夫、そんなわけないよ。亡霊なんて、いるわけない。いるわけない……うん」
「でも! あの亡霊、私の名前知ってて……!」
「そりゃシノンは有名プレイヤーだし、この決勝にいるプレイヤーならみんな……」
「違うのよ! 私の、リアルネームを知ってて! だから、私、絶対そうだって……」
「リアル、ネーム……?」
尻すぼみに小さくなるシノンの話を聞いた瞬間、アスナの脳裏に閃光のごとく閃きが迸った。
死銃が、シノンのリアルを知っていた。
《もし》、死銃が殺したターゲットの《リアル》を把握していたなら?
死銃が仮想世界からではなく、現実の体に何かをしたのなら? 殺人は可能ではないだろうか。
これまで死銃が仮想世界での銃撃によってなにかをしたものだとアスナやキリトは考えてきた。
だがもし、死銃が仮想世界で銃撃をした時にリアルで当事者に直接手出しできるなら……リアルをわかっているなら……死銃が単独犯でないなら、それは可能だ。
そもそも《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》は一人や二人ではないのだ。《複数》いても、なんらおかしくはない。
何故これまでそんなことに気付かなかったのか。だが仮にそうだとすると、死銃はどうやってリアルを知ったというのか。
「アスナ?」
「シノのん、良く聞いて」
急に黙りだしたアスナを心配げな表情で見つめるシノンに、アスナはたった今思いついた推測を知り得ている事実を混ぜて語った。
死銃の正体がSAOでの人殺し集団の一人であり、死銃の仲間が複数いる可能性、殺しのターゲットにリアルで近寄っている可能性を。
それは同時に、今のシノンの現実の部屋には何者かが侵入していて、シノンをいつでも殺せる状況になっている可能性をも孕んでいた。
「そん、な……!」
震えだすシノンだが、アスナは逆に冷静だった。
もしその推測が確かなら、不明瞭だった死銃の殺しの秘密を暴いたも同然になる。
亡霊や超常現象などといった不可思議なものよりもよっぽど実体ある確かなものだ。
そして、今アスナの元にある情報から導き出される考えこそが、もっともアスナ、いやシノンにとって恐ろしいものとなった。
「だから、死銃、もしくは死銃の仲間はシノのんの身近な人の可能性があるの。だってそうじゃないとシノのんのリアルを知りえないもの。誰か身近な人で、GGOをプレイしている人っていない?」
「え……」
そう言われて思い浮かぶのはたった一人だった。
もともと交友関係の少なかったシノン/詩乃には然程人と関わりあう機会は多くない。
その数少ない中でGGOプレイヤーともなれば、思いつく人物はただ一人。
(新川、くん……?)
新川恭二。
彼以外にその可能性をシノンは見いだせなかった。
まさか、という思いが強いが、今アスナの考えを否定できる要素をシノンは持ち合わせていなかった。
今まで殺された人の事をリアルでも知っていたというような話は聞いたことが無い。
だが絶対無いとは言い切れない。可能性の一つとして頭に入れておかなくてはいけない。
「さて、それじゃ私は行くよシノのん」
「えっ」
「もしこの推測が確かなら、多分死銃にあの銃で撃たれない限りリアルで殺される可能性も低いはずだし。シノのんはここにいて」
「あんまり言いたくないけど、もうあの男が死銃に負けちゃって……殺されてる可能性は?」
「それはないよ」
「なんでそう言い切れるの?」
この洞窟内にいる限り衛生からという設定の《サテライト・スキャン》の干渉を受けることはない。
それは同時にその恩恵をも受けられない事を意味する。今彼女がキリトの安否を知ることが出来る情報源は無い筈なのだ。
「まだ……手が温かいから」
「は……?」
アスナはギュッと握り拳を作る。その手は、現実で今もキリトと繋がっているはずなのだ。
その手に温かみを感じる以上、キリトは無事だとアスナは確信する。
その様を見て、シノンは感心した。
「強いね、アスナは。どうしてそこまで……」
「強くなんか無いよ。ただ、私はキリト君を愛しているだけ」
そう答えるアスナの横顔は、シノンにはとても美しく見えた。
この顔を見ていると、本当に何とかなりそうな気になってくる。
不思議と、いつの間にかあれ程荒れていた胸の中が穏やかになっていた。
だから、アスナの小さい背中を見送った後、シノンはその腰を上げた。
自分にもできることがあるはずだと、勇気をその胸に抱いて。