東京都千代田区お茶の水にあるとある病院の一室。
そこに、入院患者ではない二人組が揃って横になっている病室があった。
病室内には一人のナース姿の女性がずっと付き添っている。
横になっている少年少女の体にはいくつも電極が貼り付けられ、入院患者ではないのにすべてのバイタルサインをその生体情報モニタに映し出していた。
少年少女はバイザーのようなものを付けたままピクリともしない。ただ、その手だけがお互い握られていた。
彼女たちが付けているバイザーのようなものは、アミュスフィアと呼ばれる機械だ。
フルダイブシステム……完全なる《仮想世界》が生み出されてから幾数年、コンシューマ機として生み出されたナーヴギア……その後継機。
絶対安全を謳い文句にこれでもかと安全措置を施されたこの機器は文字通り《仮想世界》へとフルダイブするためのものだ。
そう、彼女たちはアミュスフィアでここではない別の世界、人の作り出した《仮想世界》へとフルダイブしていた。
手を繋いだ二人の少年少女が眠りに、正確にはここではない《仮想世界》へとダイブしてから数時間。
その様を微笑ましく見つめていたナース姿の女性、安岐は意識の隅では常に集中して変化を見落とさぬよう神経をすり減らしていた。
彼女たちは今、行政からの依頼という形で《仮想世界》で《殺人犯かもしれない相手》と相対している……かもしれないのだ。
何かあってからでは遅い。一瞬の油断が彼女たちの命の明暗を分けかねなかった。
だが、注意していたはずの彼女がその《異変》に気付いたのは、全くの偶然だった。
「えっ」
それは取り立てて人体に《異常》が発生しているというわけでは無かった。
生体情報モニタに映し出される脈拍、心拍、体温、血圧……全てのバイタルサインは正常値を示している。
故に安岐は《それ》になかなか気付かなかった。はたして一体いつからそうだったのか。
「嘘……こんなことって、あり得るの……?」
《異常》ではない《異変》。
この数値に気付いた時、安岐はえも言われぬ感覚に襲われた。
なんと表現していいのかわからない。疑問や驚愕とは少し違う。
それらよりは何故か《恐怖》という感情の方が近い気がした。飽くまで比べるとではあるが。
少年……桐ヶ谷和人の現在の体温、三十六度六分。
少女……結城明日奈の現在の体温、三十六度六分。
桐ヶ谷和人の現在の血圧124/82。
結城明日奈の現在の血圧124/82。
体温、血圧、心電図……全てのバイタルサインの数値が、二人は完全に一致していた。
時折数値に変化は起きる。だが、どちらかが変わればそれを追うようにもう一人の数値が同じように変化していた。
今、この二人の体は、体内で全く同じ運動をしていると言っても良い。
しかし通常そんなことはそう起こりえない。世界中の何処かで偶然少しの間同じ数値になった人がいた、ということならまだ頷ける。
だが、こうして隣同士にいる男女がこんな数値を叩きだすなど、聞いたことが無い。
これは《異変》と呼ぶにふさわしい事態だ。自分だけの判断ではどうしようも無かった。
今のところ数値におかしな点は見られない。健康そのものの、正常値だ。時折心拍などが上昇するがゲーム内で戦闘をしているのであれば十分許容範囲内と言える。
安岐は迷いつつも上司に連絡を入れた。何かあってからでは遅い。情報の伝達は確実かつスピーディに。
ところが、上司の携帯はコール音こそ鳴るものの一向に出る気配が無かった。
こんな時に、と思うもこればかりは仕方がない。やむなく安岐が折り返しの連絡を待つこと五分ほど。
上司である彼、菊岡誠二郎から電話がかかってきた。
『ごめんね遅くなって』
「何かあったのですか」
『いや、キリト君たちの知り合いから連絡が来ていてね。死銃の正体がわかったんだ』
「えっ、それでは……!」
『いや、それがちょっとややこしい事態になっていてね。簡潔に結論だけ言うけど、どういう人間かわかったってだけでそれが何処の誰でどうやって殺人をしているのかはまだちゃんとはハッキリしていないんだ。ただ恐らくは殺しに《第三者》が関わっている可能性が浮上してきた』
「! なるほど。そういうことですか……!」
『うん、僕も盲点だったよ。それで何かあったのかい?』
「はい、実は……」
安岐は今目の前で起きている現象を伝えた。二人の生体データがほぼ一致している、と。
身体的には《異常》とは呼べないが明らかに普通の状態とも呼べなかった。
話を聞いていた菊岡がしばし黙る。何かを考えているのだろう……と思ったその時、受話器の向こうから何かのアラート音が聞こえてきた。
安岐は身を固くする。
「どうしたんですか!?」
『いや、ちょっと待ってくれ……! これは……』
「もしもし!? もしもし!?」
『なんてことだ……一体いつの間に……いや、そもそも誰……まさか』
「もしもし!?」
『すまない。取り乱した』
「何があったんですか!?」
『やられた……いや、これは相手を褒めるべきかな』
「……?」
『僕はついさっきまでアミュスフィアでALO──アルヴヘイム・オンライン──にダイブしてキリト君の知り合い達と会っていたんだが……その際、《ウイルス》を仕込まれたようだ』
「!?」
『誰がやったのかはわからないし、今のところ被害が出る前になんとか対処は出来たと思う。問題はこれを僕に送り込んだのが誰なのか、なんだけど……』
「心当たりがあるのですか……?」
『う~ん、あるにはあるんだけどねえ、まさか、という気持ちが強いな。でもおよそ考えうる限りその可能性が今もっとも高いと思う。《接触》があったのはあの時くらいだし』
「それは一体……」
『いやあ、僕とんでも無く《ヤバイ相手》に目をつけられたかもしれないね。でも、ここまで《有能》なら、是非《こちら側》に引き込みたくもある……《目的が目的なだけに》ね』
安岐には彼が何を言っているのかよくわからない。
ただ菊岡の声は、困っていながらも何処か楽しそうだった。
都市廃墟エリアの中央に位置する円形の建造物。
まさにコロシアムといったようなその建物は外壁がビル三階ほどの高さまであり、東西南北に一つずつ入口が設けられている。
キリトはそのコロシアムの中心で視線を激しく彷徨わせていた。
片手には耐久値が残り三分の一ほどにまで減少した《バールのようなもの》。
激しい戦闘の最中でこの中に迷い込み、戦いの場はいつしかこのコロシアム内部でさながら観客のいない決闘となっていた。
だがそれもつい先ほどまでの話だ。死銃は痺れを切らせたのか、その身をギリーマント……シノンに言わせればメタマテリアル光歪曲迷彩(オプチカル・カモ)という反則級のアビリティが付与された光歪曲マントの効力を再び行使していた。
その姿は周りの景色と同化していてキリトにはわからない。
わずかな気配も見逃すまいと常に背後を気にしながら聴覚システムにも神経を研ぎ澄ませる。
今はキリトが一番危惧していた状態だった。死銃が冷静になれば、いくらでもこちらを無力化する力はあるのだ。その最たる例がこの《透明化》だろう。
先ほどから紙一重で攻撃をかわしてきたキリトではあるが、いつまでもその僥倖が続くはずもない。
コンッ、という音にキリトの鋭敏な耳が反応しそちらへ振り向くとそこには転がる石ころ。
やられた! と思った時には考えるよりも早く体を捻りつつ後方へと飛ぶ。
だが、それは惜しくも目端で捉えた鋭い金属の切っ先がキリトの脇腹を容赦なく貫いた後だった。
フェイクを混ぜられては現状キリトに為す術はない。徐々にキリトのHPバーは削られていく。
即座に辺りを見回すが、相手は既に景色と同化していた。
また硬直の時間。物音一つ立てずに、相手は悠々と次の攻撃の手筈に移っている。
状況は最悪。唯一の救いは死銃なる元ラフコフプレイヤーが銃を使う気が無いようだ、ということだった。
死銃が銃を使っていればキリトは為す術なく既にHPを全損しているのは疑いようがない。
恐らくSAO──ソードアート・オンンライン──においての剣闘を意識しているのだろう。
あの世界での戦いは全てが命をかけたものであり、尚且つ基本剣一本で──キリトは最終的に二本を使う術を得たが──戦いぬくことが前提だった。
SAOには遠距離攻撃がほぼ皆無なのだ。投擲スキルこそあるが、致命的なダメージを与えられるようなものではない。
ALOのように魔法がある世界ではなかった為、それはある意味で当然とも言える。
死銃は、今の戦いをSAOでのそれと同等に扱っているのだろう。自身は《透明化》というチートまがいなアビリティを使用しているが、特段これは反則には当たらない。
チートまがいではあるがチートではないのだ。そう思った時、何故だが少しキリトに笑みが零れた。
彼はその行動から、SAO第一層の攻略時において《ビーター》と名乗っている。
ベータテスターとチーターの造語ではあるが、なかなかに上手い名前だと思ったものだ。
デスゲームと化したSAOにおいて、ベータテスターは嫌われていた。自身の命がかかっていたから、とはいえデスゲーム開始早々情報の独占に奔った経緯があるからだ。
プレイヤーの中にはそのせいで亡くなった者も少なからずいることだろう。得られるアイテムを得られず、満足のいかない装備と知識で荒野を歩き、結果HPを全損して……死んだ。
ベータテスターであったキリトもその例に漏れずに自身の知る限り割の良いクエストを率先してこなした。おかげで当初からキリトはそれなりの装備を揃えることもできた。
それは同時に、他の誰かがそれらを入手できない可能性を孕んでいる。それを理解しながらも、当時のキリトはがむしゃらに突き進んでいた。
第一層で使っていた《アニールブレード》などはその最たる例だろう。
それこそなんてチート。自分でもそう思ってしまう。ゲームクリアをあの時から考えていたわけじゃない。ただ生き残りたかっただけだった。
それを思えば人の事をとやかく言う気にはなれなかった。
ただ言えるのは、ここはアインクラッドではなくともSAOと変わらないということ。
負ければ、本当に死ぬ。この戦いは、SAOの延長線上にあるのだ。
生き残る為に戦ったあの世界は、終わったと思っていたあの世界は、まだここにある。
それは同時に。
忘れていた《罪》を、否が応にも思い出させる。
それは、目の前の死銃と自分に、たいした差など無いのではないかと思わせるほどの、自分の《罪》。
生き残るために蹴落とした初心者(ニュービー)。
死にたくないから殺した《ラフィン・コフィン》。
そして。
《ビーター》であることを隠したが故に失った、かつてのギルドメンバー。
全てを忘れていたわけではない。だがずっと考えないようにしていたのは事実だ。
その罪の重さが、今になってキリトの双肩に重くのしかかってくる。
まるでそれを見越したかのように、死銃は何処からともなく口を開いた。
「お前は卑怯者だ、キリト」
全く持ってその通りだ。
反論する余地は無い。
「自分が、人殺しであることを、忘れていた、卑怯者だ」
見事に正鵠を射ている言葉だ。
実にほれぼれするほど……胸へと突き刺さる。
「仲間の仇討ちってことなのか?」
「俺は、お前とは、違う。そんなことに、興味は、ない。だが、お前は……殺す!」
一瞬膨らんだ殺気。
それをキリトは敏感に感じ取った。
これがここまでキリトが戦闘を長引かせられた要因の一つでもある。
キリトは再びギリギリのところで斬撃を回避する。といっても完全に、とはいかずまたHPバーが減っていく。
バーは既に危険域に近かった。
「っ!」
「……何故、避ける?」
「……どういう意味だ」
突然の質問に、キリトは応えられない。
死銃が何を言いたいのか、理解できなかった。
「お前は、今、どうして、戦っている?」
「それ、は……」
「人殺しの、ビーター」
「……っ」
「《仲間殺し》の、ビーター」
「っ!?」
揺さぶられている、という自覚はあった。
だが、だめだ。これはダメだ。揺さぶりだとわかっていても、考えずにはいられない。
何故知っているのか。それとも適当にカマをかけているだけなのか。
知っているのならどうして? どうやって?
グルグルと思考がキリトの中で巡り、正常な精神状態を保てない。
同時に、死銃の言葉の意味を捉えてしまう。
どうして戦っている?
何故、避ける?
それは……《他人を殺しておきながらお前はのうのうと生き続けるのか》という問いに聞こえてならない。
そしてその問いは、予選の時に死銃と会ってからキリトの中で燻り続けていた事でもあった。
自分は生きていても良いのだろうか。少なくとも、真っ当に、胸を張って生活していく権利があるのだろうか。
フラッシュバックするのは、かつて在籍していたことのあるギルドのリーダーが残した言葉。
『ビーターのお前が、僕たちに関わる資格なんてなかったんだ』
その言葉が、いつもキリトの胸の一番深い所に届いてくる。
グサリグサリと不定期ではあるがまるで剣で突き刺すかのような痛みを与え続ける。
だが、
「っ!」
「まだ、抗うのか」
少し苛立ちを含んだ声が聞こえてくる。珍しく死銃が姿を見せていた。
キリトは未だ抵抗を止めていなかった。
止められなかった。だって、何故なら、
「俺は、死ねない」
「……何故だ」
「約束したからだ」
「約束……?」
「簡単には諦めない、って。俺の命は、俺だけのものじゃないから……!」
「くだら、ない。何を、言うのかと、思えば……。それは、結局、自己の、正当化、だ」
本当につまらなさそうに、死銃はその声色を落とした。
代わりに、より一層攻撃の速度と威力が増していく。
それはまるで怒っているようでもあった。
「お前には、失望した……死ね、黒の剣士……!」
それまでは、あえて使ってこなかった拳銃。
その銃を始めて死銃は構えた。キリトにも緊張が奔る。
あの銃で撃たれれば問答無用で死にかねない。それが予想されるだけに心拍数も跳ね上がった。
じり、と片足に力を込めて腰を低くする。すべての挙動を見落とさぬよう感覚を研ぎ澄まし、そのおかげで……《それ》に気付く事が出来た。
「でええええええいっ!」
「!?」
文字通り空から舞い降りてきた一人の女性プレイヤー。
桃色の長い髪に小さい体躯という出で立ちのアバターではあるがそれは見まごうことなきキリトにとって唯一無二のパートナーの姿だった。
「アスナ!」
「お待たせ!」
突然の空からの乱入者に死銃は音もなく間合いを外した。
状況は何も変わっていない。少なくとも死銃が圧倒的有利であることに変わりは無い。
むしろ一撃で相手を殺せる術を持つ死銃相手にアスナが来てしまった事は歓迎すべき事態では無かったかもしれない。
少なくとも、死銃にはゲーム内から人を殺せる力があるのは確かなのだから……とキリトは思っていた。
しかし、その心の焦りをアスナはすぐに払拭させる。
「大丈夫だよキリト君。私は死なない。もちろん君も」
「何故、そんなことが、言える……? 閃光」
「貴方の手品のタネはもうわかったからよ。だから言える、ここで私達が殺される心配は無いって」
「ほう……」
アスナの自信たっぷりな言葉にキリトは目を丸くした。
それは本当なのだろうか。だとしたらそれだけでキリトは大きな肩の荷が下りる思いだった。
少なくとも、もう大事な人を失う心配が消えるのだから。
「本当か、アスナ」
「ええ。考えてみれば簡単なことだった」
「言って、みろ……」
「答えはわかってしまえば単純よ。貴方がゲーム内で人を殺しているんじゃない。《貴方の仲間が貴方の銃撃に合せてリアルのプレイヤーを殺している》のよ!」
ガン! と頭を殴られたような衝撃がキリトにも奔る。何故そんな簡単なことに思い至らなかったのか。
死銃は珍しく黙り込んだ。決して饒舌ではないが、緩慢でありながら有無を言わさぬ動きを続けていた死銃の体が、ピタリと動くことを止めている。
もしそれが本当なら、確かにキリト達の心配は大幅に軽減される。何故なら、自分たちは盤石の環境下でここにダイブしているからだ。
「クク、クククク……! 流石は、閃光、だな……実に、面白い、推理だ」
「何がおかしいの?」
「一つ、聞こう。俺は、どうやって、リアルの情報を、知ったんだ……?」
「それは貴方がリアルでの知り合いだからでしょ?」
「俺が、偶然、リアルで知り合いだった、と? 知り合いしか、殺していない、と?」
「……何が言いたいのよ? 貴方はシノンのリアルを知っていた! 何も不思議はないわ!」
「クク……! ああ、そうだな、クク……! 確かに俺は、あの女の、リアルは、知っていた。だが……他は、知らないな」
「そんな嘘を……」
「だいたい、その推理が、当たっていたとして、俺の、リアルでの知り合いが、同じゲームで、何人も、死んでいて、俺に、捜査の手が、及ばないわけが、ない、だろう? だが、俺は、何の障害もなく、ここにいる。それが、答えだ……!」
アスナの背筋に冷たい物が奔った。もしかしたら自分は何かとんでもない思い違いをしているのかもしれない。
そう思わせられるほど、死銃の言葉は正論で的を射ていた。
もしかすると、死銃の殺しの方法は全く別のもので、自分は間違った解を導き出したのでは……?
一度不安がまとわりつくと、それを払うのは難しい。どんどんと嫌なイメージで予想が塗り替えられていく。
だが、
「惑わされるなアスナ」
力強い彼の声が、そのアスナの不安の霧を霧散させる。
肩に手を置かれ、それだけで安心させられる。
「リアルを知る方法ならある。奴が使っている特殊なアビリティ使えば」
「えっ」
「……」
「確かこの大会の上位入賞者はリアルでモデルガンをもらうこともできたはずだ。もしエントリーの際にそれを求めてリアル情報を打ち込むところを目撃していたら、リアル情報の引き抜きは可能だ。なんせあいつは透明化できるんだ、透明化して、望遠アイテムでも使えばやれないはずはない」
思ってもみなかった解答。
いや、アスナの導き出した解答に付属するもう一つのピース、と言ったところか。
それなら、アスナの推理とも矛盾しない。
やはり、何か一つでもとっかかりが出来ればキリトは容易くアスナの上を行く思考を見せる。
こと仮想世界やゲームについての事となるとやはり彼には一日の長があった。
「ネタは割れた、もう止めるんだ」
「……」
「お前は知らないかもしれないが、SAOのプレイヤーデータは総務省に残っている。そこから辿ればすぐにお前のことはわかるはずだ」
「……」
「この大会が終わったらすぐに最寄りの警察に自首するんだ。いつまでも殺人者(レッド)でいるなんて馬鹿なことは止めろ。デスゲームはもう、終わったんだから」
「……終わった、だと? やはり、お前は、何もわかって、いない……終わってなど、いない……!」
キリトの諭すような言葉は、死銃には受け入れられなかった。
それどころか、彼の琴線に触れ、その猛攻を再開し始める。
だが。
「……!?」
すぐに死銃は《異変》に気付いた。
これまでならクリーンヒットといかなくても確実に削る事が出来た攻撃の数々。
それが、全く《当たらない》のだ。
人が増えたことは死銃にとってはむしろ好都合だと思っていた。
それだけ標的が増えた、というただそれだけのことだと。
しかし死銃の攻撃はその悉くがまるで見透かされているかのように防がれた。
背中を預け合う二人。
メタマテリアル光歪曲迷彩(オプチカル・カモ)は発動している。
死角からの攻撃に一人はギリギリ対処できても、もう一人は対処できないはずだった。
確実にどちらかにダメージは蓄積していくと読んでいた。それなのに……当たらない。
アスナを狙って刺突を繰り出せば、気付かれた瞬間に体を捻られる。それはまだいい。
だが、アスナが避けた分背後のキリトは背中から突き刺されるのは必定のはずなのだ。
ところが、キリトはまるで背中に目でもついているのかと言うような正確さで死銃にカウンターをお見舞いする。
その度に嫌な舌打ちをしながら死銃は体を引いた。既に一度や二度ではない。二桁を超える攻防で同じようなやり取りが続いていた。
これはキリトを狙っても同じことだ。ギリギリで避けられた後にアスナに性格なカウンターをもらう。
その鋭い突きはやはりそこに敵がいると確信しているもので、相手のHPを削るどころか何度か攻撃を受けてしまった死銃の方がHPを幾分消耗していた。
それが死銃のプライドを傷つける。あってはならないことだと。こんな有利な状況で自分が追いつめられるなど。
そのせいか死銃は近接攻撃に拘り、先ほどちらつかせた拳銃を使う様子は無かった。
もう一度、死銃が攻めてくる。空間の揺らぎを敏感に目端で捉えたキリトはその攻撃ライン上から身を捻った。
同時に、アスナはそれを《感じていた》。SAOで幾度となくあったキリトとの《接続》状態。
その現象が今まさに完璧と言えるほどのレベルで再び起こっていた。
キリトの見ている物、感じている物がまるで自分のもののように感じられる。
まるで自分が背中を預ける相手と同化してしまったかのよう。だがもちろん本当に同化したわけではない。
その証拠に相手の感覚とは別にきちんと自分自身の感覚も存在している。
いわば今は《視点を同時に二つ持っているような状態》なのだ。常ならばそんなことが起こってもパニックにしかならない。
もっともその心配は無かった。この《接続》はお互いが集中しあった時に比較的発生すると既に本能で理解している。
本物の死がまとわりつくデスゲームの世界で培ったお互いを感じる感覚。
これがなんなのかは未だハッキリしない。だが確かに言えることはこの瞬間、二人は確かに《繋がっている》ということだった。
死銃の苛立ちが増していく。段々と攻撃が大振りになっていく。そうなると裁くのは難しくないが、時に《受ける》必要性が出てくる。
ピシッ!
嫌な音が二人の耳に届いた。同時にその意味を理解する。
死銃の大きな横薙ぎの攻撃を受け止めたキリトの《バールのようなもの》にヒビが入ったのだ。
耐久値はもうほとんど残っていない。あと一撃か二撃交われるかどうか。
それを死銃も理解したらしい。標的をキリトに絞り、その攻撃の熾烈さを上げていく。
キン! と甲高い音が鳴り響いてキリトの武器にさらなるダメージ蓄積を行う。持ってあと一撃。
と、同時にアスナが弾かれたように死銃へと飛び出した。真っ直ぐに一点の曇りなく鋭い突きの一閃を死銃めがけて抜き穿つ。
だが完全に見えていない死銃への命中は難しく、その攻撃は死銃の脇を霞める程度にしかならなかった。
「勝負を、急いだな……!」
キリトの武器の耐久値の無さからアスナが焦ったのだろう。これまで決して陣形を崩すことのなかった二人が今初めてその形を崩してしまった。
今耐久値がゼロに近い武器を持つキリトと死銃の間にアスナという盾はいない。この機を逃すことなく死銃はキリトへと再び斬りかかる。
だがキリトも然る者。その時には既に武器を下に構えていた。切り上げ攻撃が来る、と死銃は即座に予想する。
同時に。背後に通り抜けて行ったアスナがばね仕掛けのように戻ってくるのを死銃は感じ取っていた。瞬間、ニタァと微笑が零れる。
決してマスクの外に漏れることの無い笑み。だが、確かに死銃は嗤った。このまま自分が《消えれば》、はたしてどうなるのか。
すでにキリトの攻撃は始まる寸前である。背後のアスナも跳躍力を生かした突進をしてきている。
ここで自分が消えたなら、その両者がぶつかり合うのは必至。
死銃は突如横に転がるように間合いから逃れた。だがキリトの切り上げは止まらない。アスナの突進も……止まらない!
(終わった……!)
そう死銃が確信した時だった。
目前で、信じがたい光景を死銃は目の当たりにする。
「な……!」
キリトの切り上げるような攻撃……SAOでいうソードスキル、片手用突進技《ソニックリープ》のような軌跡の攻撃。その軌跡を描く武器に、アスナはその両足を着地させていた。
そのままキリトに持ち上げられるようにアスナは空へと投げ出される!
と、同時にキリトは身を捻って一回転し、再び死銃へとその武器を切り上げるように振り抜いた。
構えた死銃の銃剣とぶつかり合い、高い金属音を奏でてキリトの武器は霧散する……が!
空からもう一本、武器が降ってくる!
アスナは高く空に舞い上げられながら凄まじい既視感に襲われていた。
前にも似たような事があった。あれはそう、まだデスゲームであるアインクラッドにいた頃のことだ。
あの時もこうやって彼の剣を足場にして空へと舞い上がった。彼となら、阿吽の呼吸で《出来る》と信じていた。
彼はそれに応えてくれた。それがただ嬉しい。
同時に。
その既視感は別の記憶をも呼び覚ます。
この《剣舞》のようなやりとりをしたまさにその時、自分は何を考えていたのか。
何を思い出そうとしていたのか。
答えはすぐに出た。《ラフィン・コフィン討伐作戦》において起きた出来事だ。
そうだ。あの時、自分は確かにこの死銃と相対していた。いつまでもキリトに拘り「シュウシュウ」と言う擦過音を撒き散らしていた殺人者(レッドプレイヤー)。
あの討伐作戦で、彼は「忘れるな」とばかりに名乗った筈だ。その名を、思い出す。
同時に。
キリトとの《接続》が彼の求める物を瞬時にアスナへと伝えられる。
彼女は迷いなく、自身が握りしめていたそれ、《銃剣》を彼へと送り込んだ。
まるで見計らったかのようにもう一本がキリトの手の中に吸い込まれ、振り抜かれる!
完全に虚を突かれた形。だが、半歩間合いが遠い。これならば致命傷にはなりえない。
そう思い死銃が極力離れようとしたところで……彼に弾道予測線(バレットライン)が突き刺さった!
「!」
一瞬の出来事に思わず死銃はラインの先を睨み見た。
そこには、一人の女性プレイヤー。カタカタと震えながらも、愛銃である狙撃銃を構えたシノンが瓦礫の合間に立っていた。
シノンは自分にも何かできないかとここに向かっていた。
しかし体が震えて言うことをなかなか聞かない。そんな自分を何度も何度も鼓舞させてようやく戦場へ辿り着いた時、既にキリトとアスナは背中合わせで戦っていた。
どうして、何故あんな戦い方が出来るのか。しばし恐怖も忘れシノンは二人の戦いぶりに魅入られた。
まるでお互いがお互いをわかりきっているかのような舞。そう、これは戦いと言うより舞踏と呼んだ方が相応しかった。
だが、その均衡は崩れる。キリトが死銃の攻撃を防いだ時に耐久値の減少エフェクトが発生していた。
見るからに残りの耐久値は少なそうなことがGGOで経験を積んだシノンにも見て取れた。
何とかしなければ。そう突き動かされるように愛銃であるヘカートⅡを構えようとするが、震えが止まらない。
それでも闘争心だけはシノンの中から消えていなかった。彼女は今、引き金を引く勇気を持てない。
撃てない。それがわかっていながらも出来ることをシノンの中に燻る闘争心は探した。
そして唯一、出来ることを彼女は見つけた。撃てなくてもいい。一瞬の隙さえ作れれば、それで二人の助けになることが出来る筈だ。
そう、《狙う》だけで良いのだ。死銃は遠距離からの弾道予測線(バレットライン)を見て銃弾を避ける程のハイプレイヤーだ。
だからこそ、弾道予測線(バレットライン)には敏感に反応してしまうはず。
シノンは仮想の歯をグッと食いしばり、無理矢理に銃を構えて、スコープで死銃の姿を捉えた。
弾道予測線(バレットライン)によって一瞬の隙、僅かに生まれた動揺による合間で死銃は《離れる》という選択肢を失った。
同時に。キリトに半歩を詰めさせる時間を与えてしまった。
「う、お、おおお──────ッ!!」
吠えるようなキリトの声。時計回りに旋転する体の慣性と重量を余さず乗せた銃剣を左上から叩きつけるように振り下ろした。
一本は途中で耐久値を散らしてしまったが、連続したその動きは二刀流重突進技、《ダブル・サーキュラー》そのものだった。
死銃のアバターがバッサリと切り捨てられる。彼のHPゲージが急速に減少していった。
「ま、だ、終わらな……!」
「いいえ、終わりよXaXa(ザザ)。《赤眼のXaXa(ザザ)》。やっと思い出した」
アスナは思い出す。かつてSAOでキリトと行った縁日イベントのことを。
勢いでダンスイベントに参加し、剣舞を披露したが、剣舞は採点対象外のため脱落。
あの時もアスナはキリトに執着していたXaXa(ザザ)のことを思い出そうとしていた。
その記憶が、今の攻防──剣舞で鮮明に思い出され、記憶を構築し直した。あの忌まわしい討伐作戦の内容、それと共に。
「……」
名前を言い当てられた死銃、いやザザはまだアスナに何かを言いたそうにしていたが、無情にもHPゲージが全て吹き飛び、【DEAD】のタグがアバターの上で回転し始めた。
死人に口なし。実際に死んでいるわけではないが、大会中の彼はもう何かをすることは出来ない。大会が終わるまで参加者はログアウト出来ないのがこの大会の仕様なのだ。
それを見て、ようやくとキリトは息を吐いた。
「終わったな」
「うん」
万感の思いを込めたような声に、アスナは後ろで手を結びながら微笑んだ。
これでとりあえず、当面の危険はなくなった。
まだ片づけなければいけない問題はあるが、一先ず安心はしていいだろう。
二人は微笑みあって、最後の最後で一役買ってくれた戦友とも呼ぶべき少女に手を上げる。
向こうも力なく片手をあげて返答し、いよいよ気が緩んだところで……連続した銃声。
同時にシノンは倒れ、【DEAD】のタグがアバター上で回りだした。
キリトとアスナに一瞬緊張が奔る……が。
「よぉーし! これであとはお姉さんとお兄さんだけだよっ!」
元気一杯という様子の紺色ロングヘアーをした少女が、瓦礫の上でアサルトライフルを片手にキリトとアスナを指差していた。
キリトとアスナは互いに顔を合わせてクスリと笑う。
と、同時にウインドウを呼び出して何やら操作し始めた。
「ん?」
何をやっているんだろう? と少女プレイヤーが首を傾げるのと同時、二人から同時に「リザイン」の言葉がかけられる。
即座に優勝者を称えるファンファーレが少女プレイヤーの頭上で鳴り響いた。
「ええっ!? 嘘ォ!?」
突然の出来事に少女プレイヤーは驚いた。まさか決勝戦のそれもラストバトルだろう戦いで降参されるとは夢にも思わなかったのだ。
だがキリトやアスナも、ここまで来て他のプレイヤーと争うつもりはなかった。
自分たちの戦いは終わったのだ。もともと自分たちはこのゲームを楽しむために来たプレイヤーではない。
そんな自分たちが優勝してしまっては真にこのゲームを楽しんでいる人たちに申し訳ないという気持ちがあった。
同時に、早く現実に戻って話を纏めたくもあったのだ。
しかし、そんな事情など知らない少女プレイヤーは納得がいかなかった。
「コラァ! ちゃんと勝負しろー!」
しかし叫んでいる傍からアバターは消え去っていく。
優勝者が決まった時点で決勝戦特設フィールドからの強制退場が敢行されているのだ。
「待てー! せめて名乗っていけえ! 今度絶対ちゃんと戦うんだからあ! 絶対、絶対見つけ出すぞお! ボクはユウキ! 忘れるなあ!」
少女のわめくような叫びに笑みを漏らしつつ、キリトとアスナが参加したBoB──バレット・オブ・バレッツ──は終了した。
リザルト──【Kirito】及び【Asuna】同時準優勝。【Yuuki】優勝。
キリトとアスナは、最後に会ったプレイヤーがあまりに元気で愚直だったためにすっかり毒気を抜かれた。
だからだろうか。自分たちが《あること》を失念していることに、最後まで気付けなかった。
シノン/朝田詩乃はムクリとその身を起こした。大会が終わってからはキリトやアスナと挨拶もせずにログアウトしてしまった。
少しだけ情けなかったのだ。気が緩んだとはいえ、あんな終わり方をしてしまうとは思わなかった。
無論自分の今回のBoBはキリトにやられた時点で終了しているとは言え、あれは詩乃のプライドが許さなかった。
加えて、アスナの推理しか聞いていない詩乃は一刻も早く自身の体を取り戻し自分の身の安全を確認したかった。
見慣れた自分の部屋は日が落ちて薄暗くこそあるものの、とりわけ変化は感じられない。
しかし、アスナの推理が確かなら自分は狙われている可能性がある。それも……新川恭二に。
ゆっくりと部屋内を注意深く見回し、見落としが無いか探ってみる。だが自分の部屋は自分の知るいつものままそのものだった。
ホッと一息吐くと念のために恐る恐るではあるがトイレや風呂場を確認してみる。
そこにはやはりと言うべきか、他人の存在の痕跡は見あたらなかった。詩乃は一気に脱力する。
「馬ッ鹿みたい」
そもそもあれはアスナの状況から見た推理でしかない。
仮に当たっていたとしても施錠されている部屋に入るのは一般人には至難の業だ。
気の弱い同級生の彼がそこまで出来るとはとうてい思えなかった。少しだけ「疑ってしまった」という罪悪感さえ胸に灯る。
その時だった。
キンコーンという古いチャイムの音が部屋に鳴り響く。
疑うまでもなく自分の部屋の玄関チャイムだ。ごくり、と息を呑む。
次いでインターホンから声が聞こえた。
「朝田さん? 僕だよ、朝田さん! 新川です!」
「ッ!?」
心臓がビクンと跳ね上がった。
たった今冤罪判決を心の中で下した相手に再度疑惑が持ち上がる。
何故? どうして?
大会が終わってからまだ十数分程度しか経っていないはずだ。彼が大会を見てからここに来たのでは速過ぎる。
まるで近くで大会を観覧し、終わったと同時にここへ来たかのような。
一体何の為に?
心臓がどんどんと音を早めていく。
彼は何の為にここに来た? どうしてこんなに速く来られた?
何故、何故、何故……。
「新川、くん……?」
ふと扉の鍵を確認してしまう。鍵は……掛かっている。そもそもつい先程確認したばかりだ。
ご丁寧にチェーンロックまでかかっている。護りは、万全だ。
何があっても、自分は何かされることは無い。震える身体に鞭を打ち、詩乃は恐る恐る扉に付いている魚眼レンズを覗いた。
そこにはいつもの黒いベースボールキャップを被って、コンビニのレジ袋を片手に「はぁ~っ」と両手を擦っては息を吹きかけている同級生の少年が立っていた。
あのコンビニ袋には何が入っているのだろう?
ナイフ? それとも薬品?
嫌な想像が浮かぶ。だが、その答えは他でもない恭二自身から告げられた。
「そこにいるの朝田さん? ほらこれ、ケーキ。本当はお祝いにって思ってたんだけど……あ、大会惜しかったね。でもまあお疲れ様って言うのと、前回よりも順位が上がったってことで」
「どうして……こんなに早く」
「えっと、どうしても話しておきたいことがあったんだ」
話しておきたいこと? このタイミングで? ……怪しすぎる。
アスナからの前情報もあって、詩乃は細心の注意を払っていた。
警戒し過ぎて困ることはない。
「話しておきたいこと……?」
「……うん」
「それって今じゃなきゃダメなの? それも直接?」
「それは……」
少し恭二の歯切れが悪くなる。気まずそうな、言いにくそうな声とレンズ越しの表情。
益々詩乃は恭二への疑惑を深めた。
「悪いけど今日は疲れてるの。またにしてもらえないかな」
「……うん、わかったよ。急に、ごめん」
恭二は少し奥歯に物が挟まったかのような、しゃんとしない口調で、しかし納得したとばかりに頷いた。
フッとしゃがみ込んだ恭二の姿が一瞬レンズから見えなくなる。
「ここにケーキ置いておくから良かったら食べて。それと、ちゃんと戸締まりはして休んでね。それじゃ」
恭二の姿がレンズ越しに遠のいていく。扉の向こうから聞こえる静寂の中の足音が徐々に離れていくのを感じて、詩乃は本日何度目かの脱力をした。
知らずにまた随分と緊張していたらしい。ふと額に汗を感じて拭ってみると袖がびっしょりと濡れるほど汗を掻いていた。
詩乃は自身の緊張ぶりに苦笑しながらまだしばらく扉を見つめていた。時折魚眼レンズを覗いてみるが、恭二が戻ってきている様子は無い。
安堵の息を零すと、詩乃は念のために鍵を開けて扉を少し開いてみた。この際、念には念を入れて飽くまでチェーンは外さずに。
すぐに何か柔らかい物に扉がぶつかった。一瞬身を強張らせるが、それは恭二が言っていたコンビニの袋だった。
少し悩んだが、詩乃はドアの隙間からそれに手を伸ばした。中には一つ三百五十円のケーキが二つ、プラスチックのフォークと一緒に入っている。
どうやら本当にただのケーキのようだ。と、下の方にメッセージカードが入っていることに詩乃は気付いた。
【優勝おめでとう、朝田さん!】
息を呑む。自分は優勝などしていない。つまり彼は自分が優勝すると信じてこのメッセージカードを書いていたことになる。
だがそれでは少々おかしい。死銃が恭二の仲間で、何らかの理由により自分を殺そうとしたのなら、優勝を祝うようなメッセージを用意しておくだろうか。
答えは否。そんな必要などない。では彼は死銃とは無関係なのでは?
そう思うとついさっきの自分の態度が酷く最低なものに感じられた。友人でもここまでしてくれる人はそうはいない。
こうやってカードを取り除くのをうっかり忘れる所などいかにも彼らしい。
そもそも、思えば恭二繋がりでアスナとも知り合ったのにアスナを信じて恭二を信じないとは何事か。
詩乃は申し訳なさからチェーンを外し、つんのめるように一歩を踏み出すと駆けだした。
疑心暗鬼になっていたとはいえ、数少ない心を許せる友人にしていい態度ではなかった。
謝りたい。そんな思いが彼女を走らせた。現実の彼女はGGOのシノンと違い早々に息が上がってしまう。
この寒い最中上着も羽織らずに出てきたせいかすぐに身体は冷え、白い息が視界を埋め尽くす。
それでも次の角を曲がったところで目的の人物の背中を捉えた。
「新川くん!」
恭二はビクッと肩を揺らして振り返った。
驚いたような顔をしてボケッと突っ立っている。ああ、どうしてこんな彼を疑ったのだろう。
そう詩乃が思った時だった。驚くような速度で恭二が詩乃に詰め寄ってくる。
えっ、と思った時には彼女は────突き飛ばされていた。
えっ。
いくら恭二が細身といえど性別は男。その力は女性を吹き飛ばすには十分なもので、浮遊する感覚を詩乃はスローモーションで味わっていた。
どうして? 何故? ぐるぐると疑問が詩乃に渦巻いた時、遅ればせながら聴覚が恭二の叫ぶような声をキャッチした。
「危ない朝田さん!」
危ない? 何が?
空に身を委ねる詩乃には何がなんだか分からない。
と、その時視界の隅から黒い影が迫ってきている事に気付いた。
酷く遅い。全ての時がスロウになってしまったかのように見える。
先程まで詩乃が居た場所に、筒状の何かを持っている黒い影が近寄っていく。
筒状の何かは全長二十センチほどで、艶のあるクリーム色をしたプラチック製のように見えた。
先細りのテーパーがついていて、平均すれば太さ三センチ程度の円環から斜めにグリップ状の突起が伸びている。
グリップと円環の接合部には緑色のボタンが突き出していて、そこに名前も知らない黒い影──恐らくは男──の人差し指が添えられていた。
しかし突き飛ばされた詩乃はもうそこにはいない。いるのは……、
「うっ……!」
ガンゲイル・オンラインで聞き知った、減音器を装着した銃声のような「ブシュッ!」という音だけが遠く聞こえる。
次にくぐもった声。同時に、膝を地面に着く音。
彼の苦しむような声はやけに鮮明に聞こえるのに、動きだけがやたらとスローモーション。
ゆっくり、ゆっくりと恭二の身体が揺れて冷たいアスファルトの上に転がる。
「ヒャ、ヒャ、ヒャアアアッハッハッハハァ────────────!」
高い、男性の笑い声。まるで映画のワンシーンを見ているかのよう。
今起きている事が信じられない。
恭二が襲われた。自分を突き飛ばして襲われた。
突き飛ばして? 違う。
庇って襲われた。知らないとはいえ、あんなに恭二のことを疑っていた自分を庇って。
そんな自分を庇って……倒れた。
「新川くん────!?」
叫ぶ声は闇に消える。
恭二の身体は……冷たかった。