第一霊安別室と書かれた扉が開いている。
部屋の中を覗くと、意外にも思った程寒さなどは感じない。
仮想世界の分身である《シノン》のようにマフラーをしているせいかもしれないとシノンこと朝田詩乃──逆かもしれないが──はぼんやり思いながら辺りを見回す。
特筆すべきことは何もない。こういった部屋には許可が無ければ入れないと思っていたが、誰もいないのはこれまた意外だった。
言うなれば思ったほど白一色の部屋ではない、ということくらいだろうか。もう少し、真っ白な部屋をイメージしていたのだが。
壁には埋め込むようにしてびっしりとロッカーのようなものがあり、筺が納められているのが見て取れる。そこに何があるのかは、考えるまでも無かった。
中央に焼香を乗せた台座があるが、使われた形跡は無い。詩乃は小さく溜息を吐くと霊安室を後にした。
いくら開いていたとはいえ、ああいった場所に勝手に踏み入るのはやはり問題だろう。咎められても文句は言えない。
詩乃は鬱々とした気持ちを抱えながら早足にエレベーターへと駆け込んだ。……僅かに動悸が速くなる。
目的の階へのスイッチを押し、エレベーター特有の浮遊するような感覚を伴いながら、詩乃は里香から聞かされた話の内容を思い出していた。
それは昨日、事件のあらましをアスナ/結城明日奈とキリト/桐ヶ谷和人同伴の席において、総務省の役人から聞いた後のことだ。
事件のあらましは、平たく言えばかつて最低最悪のデスゲームとして恐れられたSAO─ソードアート・オンライン──におけるPK集団、その中でも一番猛威をふるっていたレッドギルドの異名を持つ《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》の生き残りが起こした殺人事件だった。
その主犯の一人が新川恭二の兄、自称《死銃(デス・ガン)》を名乗った新川昌一その人である。
彼がGGOで使っていたアバターの名前を当初シノンが見た時はスティーブンと読んでいたが、本来は《ステルベン》と読み、ドイツ語で《死》を意味する言葉だった。
殺しの方法はほとんどキリトとアスナの推理が当たっていた。今は動機を確認中だが、昌一は素直に聞かれたことは全て話している、と役人……菊岡誠二郎から詩乃は伝え聞いている。
話を聞いた詩乃は正直整理仕切れない部分もあった。だから、本来なら一人になって静かに物思いに耽りたかった。
そんな時だ。恭二にとって姉のような存在であると聞かされた篠崎里香から呼び出しを受けたのは。
「ねぇ、恭二の進路の話をしたこと覚えてる?」
直接会って話がしたいとリズベット/篠崎里香に言われた詩乃は《あんなことがあったばかり》ということもあって実際に会うことには少しの躊躇いもあったのだが、ここは逃げてはいけない所だと了承した。
会って早々開口一番に里香は恭二の進路のことを口にし、詩乃は頷く。
その話のことは記憶にまだ新しい。あの思い出すのも憚られる第三回BoB──バレット・オブ・バレッツ──の本戦開始前に電話越しではあるが話した覚えがある。
今の恭二は不登校中で、既に進級への単位は足りていない。それならば、と両親との約束で《高認》──高等学校卒業程度認定試験──を受け、ノータイムロスで医大へ進む事を条件に学校の自主退学を考えていると聞いていた。
そのことから、当然恭二は医者になるつもりなのだろう、というようなことを話した筈だ。
「うん、そうなんだけどさ。恭二の奴、医者は医者でも……精神科医を目指したいって言い出したらしいんだ」
「精神科医?」
詩乃とて医師について詳しくはないが、精神科医がどういったものなのかは理解している。
だが確か恭二の父親は内科医だったはず。後を継ぐことを考えるなら同じ分野に進むものだろうし、精神科専門病院でもない病院を継ぐのに当たって、精神科医であるメリットは詩乃には思い浮かばなかった。
里香はクスリと笑い、詩乃をビシィ! と指差した。
「アンタのためよ」
「えっ」
「精神障害、主にトラウマ……PTSDについて学びたいってね」
「それって……」
「あいつはあいつなりにアンタの症状について向き合おうとしていたみたい」
正直、ピンとは来ていなかった。どうしてそこまでしてくれるのか。何故そんなことで進路を決められるのか。
ここにきて、益々新川恭二という人間が詩乃はわからなくなってきていた。いやむしろ重荷が増したというべきか。
命を救われたばかりか、彼の将来までも縛ろうとしていると聞けば、それも仕方のないことなのかもしれない。
そんな詩乃に里香は補足とばかりに付け加える。
「ま、精神科医になるにしても医大で普通の医者になるのと同じように六年間学ばなければいけないらしいんだけどね」
恭二はその後の自分の進む道について親とぶつかり合ったのだ、と里香は言う。
恐らくは、いざ六年後になった時、外堀が埋められ自分の進みたい道へ進めなくなる可能性を考慮してのことだろう。
既に父親は各方面へいろいろ動き出しているというような話しも里香は聞いたと言う。
結局その話は医大卒業後に気が変わっていなければ改めて、ということになったそうだが。
しかし当の恭二は、気が変わっていなければその道へ進ませて貰うという言質をわざわざ録音までさせて欲しいと願う徹底ぶりで我を通そうとしていたらしい。
そこまで恭二は本気なのだと、里香の口から詩乃は聞かされる。
「恭二にしては珍しく、結構反論して揉めたんだってさ。アイツ、親の言うことには逆らえないチキンだったのにね」
聞けば、その話をした日はゼクシードが《MMOストリーム》に出ていた日のようだ。
そういえばあの日は《シュピーゲル》がインしていなかったな、と記憶の隅から思い出す。
そしてここまでくれば、彼が《何故そこまでしてくれるのか》という疑問に対しての回答とも言える。
流石に気付けぬほど詩乃は馬鹿でも鈍感でもない。彼は、新川恭二は自分に好意を抱いていたのだろう、という予想は決して思い上がりではないはずだ。
「そんなこと、急に言われても……」
だが、だからといってどうすれば良いというのだろうか。
詩乃はこれまで恭二のことをそういった対象として見たことは無かった。
仲が良い、というよりは《敵ではない》という認識の方が強かったかもしれない。
好意を向けられていたというのが全く嬉しくないわけではないが、こんな気持ちのまま彼の思いを受け止める事は出来そうになかった。
全くの予想外。何の心構えもなく聞かされる話にしては少々詩乃の容量(キャパシティ)を越えている。
何より、返しきれない程の恩と重荷を背負ってしまった、背負わされてしまったという思いが強い。
てっきり呼び出しの内容は今回の事件についての恭二のこととばかり詩乃は思っていたのだ。恭二が《こんなこと》になったのは自分のせいだと責められるものだと思っていた。
だからそのつもりで、何を言われても仕方のないことだと、耐えようと心に決めていた。逆にその方が少しは《重荷》が軽くなるような気さえしていた。
ところが蓋を開けてみれば糾弾されるどころか恭二の好意が自分に向けられていたという話では、詩乃にもどうしていいかわからない。
「ああ、良いの良いの。別にだからどうしろってことじゃないから。なんならスパッとフッってもいいわよ」
「ええっ?」
里香はそんな詩乃の心を見透かしたようにカラカラと笑う。以前にも思ったことだが、里香という女性は非常に強い女性だと感じさせられた。
姉のような存在、と言った恭二の気持ちがわかる気がする。
詩乃は内心で安堵の息を吐きつつ「はて?」と首を傾げた。では何故今その話をしたのか、と。
その疑問の答えは、詩乃が口にする前に里香の口から告げられる。
「……知っておいて欲しかったの。こんなことになっちゃったからこそ、さ。恭二のこと、恭二のやろうとしていたこと、恭二の……思いを」
エレベーターの点灯する階層の数字を見ながら思う。
あの時の里香は珍しく声に覇気がなく、何処か寂し気なものを孕んでいるように詩乃には感じられた。
もしかしたら、里香は恭二の事を憎からず思っていたのでは、というような邪推が脳裏に浮かんだが、それをも里香は見透かしたように「そんなんじゃないけどさ」と首を横に振っていた。
その里香の顔はやはり何処か儚げで、一体彼女が何を考えているのか詩乃はまるでわからなかった。
ただ、彼女は今日、渦中の中心と言っても良い死銃、その《中の人の一人》と会うと言っていた。
現在は警察に勾留中となっている新川恭二の兄、新川昌一……その人と。
チン。
僅かな機械音を漏らして、エレベーターが目的の階に到着したことを告げた。
扉が開くのと同時に詩乃はエレベーターから一歩を踏み出す。廊下がてかてかと光っていた。何でも先週ワックスを塗り直したらしい。
だが綺麗な廊下とは裏腹に詩乃の心は晴れない。鬱々とした気持ちのまま顔を俯け歩いていく。
廊下に人は見えない。話し声も聞こえない。何処からか僅かに響く重低音の機械音が耳に届くのみだ。
そうして、詩乃は一つの病室の前で足を止めた。これまで俯けていた顔を上げる。そこにはただ、四文字の漢字からなる言葉のプレートがかけられていた。
【 面 会 謝 絶 】
入ることを許されない、絶対の言葉。
たった扉一枚を隔てた向こうへ行きたくとも、決して許してはくれない魔法の言葉。
「新川くん……」
詩乃の口から恭二の名前が零れる。
その病室のネームプレートには、新川恭二の名前が書かれていた。
目の前には高さ八十センチ程から上は全面透明なガラス張りという《いかにも》な面会室があった。
一部に丸い小さな穴を円状になるように開けていて、声が届くようにしてあるのが窺える。
何となく刑事ドラマや何かで見たことのあるような部屋で、里香は備え付けのパイプイスに腰を降ろしガラス越しの男性を見やった。
記憶の中の彼と比べると、少し痩せたかもしれない。彼女の性格故か、まずはその思ったことから口にした。
「少し痩せた?」
「……」
里香の問いに、ちら、とこちらの顔を見たかと思えばすぐに彼は興味を無くしたように溜息を吐いた。
少々以上に失礼な態度だが、彼のこういった態度は何も今に始まった事ではないのは短くない付き合いの中で把握済みだ。
なので里香は努めて冷静に込み上がった溜飲を抑え、息を整え直す。
彼が居る方の部屋は少し暗い。彼が持つ元々の陰鬱とした空気もあってかガラスの向こうは曇天じみた暗鬱なオーラさえ漂っているように見えた。
奥の方には監視の為なのか、一人警察官がパイプイスに座って彼を鋭い目つきで見ている。ふとその警察官と目があったので里香は軽く会釈をした。
警察官の方も小さく頭を下げる。その一連の動作が、これまで沈黙を保っていた彼に口を開かせた。
「警察と、会う為に、来たのなら、俺は、戻るぞ」
「違うわよ、ってか第一声がそれ?」
里香は少しばかり頬を膨らませる。彼、新川昌一はそれを見て……不敵そうに嗤った。
瞳の奥にあるギラリとした物言わぬ存在感は昔のままだ、と里香は何処か安心する。
「世間話を、する時間など、ない」
「わーってるわよ。社交辞令よ社交辞令」
里香は「あーやだやだ」といったように首を振りつつ、うっすら横目で昌一を見やる。
昌一は気にした様子も無く、ただこちらを見つめていた。目を逸らさないことから話すつもりはあるらしいと納得する。
確かに彼の言うとおり、悠長に世間話をする暇は無い。面会可能時間は決して長くは無いのだ。
「何の、用だ? 里香」
りか。リカ。里香。
いつぶりだろうか、彼にそう呼ばれるのは。
いくつからだったか、彼は全くと言って良いほど里香と話さなくなっていた。
名前を呼ばれたこともここ数年はとんと記憶に無い。
「どうして、こんなことをしたの?」
「……俺の、知っている、事は、全て、警察に、話した、筈だが……?」
「……そういうことじゃない。でもちゃんと昌一の口から聞きたい。今回の、恭二のこと」
「……」
「……あれは、貴方のやろうとしたことなの?」
「……」
昌一は表情を変えず、口も開かない。ただジッと里香を見つめる。
里香も負けじとジッと昌一を見据えた。ここで目を逸らせば、彼はきっとこれ以上話をしてはくれないだろうから。
付き合いが恭二と同じくそれなりにあった里香にはそれがわかっていた。
元《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》の幹部、《赤眼のXaXa(ザザ)》こと新川昌一は、意外にも警察へ素直に一連の事件について供述している。
自分がGGO──ガンゲイル・オンライン──を通じてしてきたこと、思ったこと。全てを隠そうともせずに聞かれればすんなりと話していた。
キリトとアスナの推測はほぼ当たっていた。死銃というアバターにゲーム内で銃撃させ、リアルで生身の人間を殺す。
リアル情報の取得はBoBにおける個人情報入力時のカンニング。元々はただの気紛れからやっていたことだが、後にこれは《仲間の一人の提案》によって使えると思い至ったのだと。
その仲間は二人いて、一人は確保したがもう一人は未だ逃亡中とのことだった。
昌一は殺人トリックについてなど事件に対して既に起こった出来事を隠す気は無い。だが、その《動機》がわからなかった。ましてや、今回の被害者は恭二なのだ。
里香は知りたかった。昌一が、恭二を狙っていたのかどうかを。
詩乃の証言や状況証拠から、今のところそうだとは里香は思えなかった。だが絶対とは言えない。
だから、せめて里香は昌一が恭二を殺すつもりがなかったと聞きたかった。それだけでも証明してやりたかった。
「恭二は、目を、覚ましたか?」
「いいえ、まだ……」
「そうか」
里香は口を閉じる昌一をジッと見つめる。
面会時間は十五分間。決して長いとは言えない。刻一刻と時間は過ぎていくが、それでも里香は捲し立てることも、急かすこともせずに昌一を見つめて彼が口を開くのを辛抱強く待っていた。
そうして、少ない面会時間が残り僅かとなった時、里香の粘り勝ちだったのか、ようやくと昌一は口を開く。
「俺に、恭二を、傷つける、意志は、無かった」
「! そう、やっぱりね。そうだと思った」
里香の声色が僅かに上がる。分かっていたことだ。昌一がそんなことをするはずがないことくらい。
この《弟大好きブラコン兄貴》に限って、それは無いと頭ではわかっていたのだ。
里香の目から見て、昔から昌一は恭二に甘かった。溺愛、という程ではない。
だが、誰とも仲良くならないぶっきらぼうな態度を取る昌一は、恭二にだけは割合普通に接していた。
当時里香は……それが羨ましかった。だからかもしれない。必要以上に恭二の面倒を見るようになったのは。
「……恭二が、目を覚ましたら、すまないと、伝えてくれ」
昌一を知らない人間からすれば、まだ疑いの余地はあるだろう。
だが、彼を知る里香の目からみれば、《恭二の件》に関してはシロだった。
このやり取りは全て録画されている。最初に面会する際の注意事項でそう説明された。
だから、この会話が少しでも昌一の為になることを里香は祈る。
「自分で言いなさいよ。そんなところからはさっさと出てね」
「……相変わらず、お前は、面倒な、やつだな」
言葉尻に、何処か重みを持っていた昌一の声が、軽くなる。
何年ぶりだろう。こんな彼の声を聞くのは。
いつぶりだろう。彼の笑った顔を見るのは。
残りの時間、昌一は里香に内心を吐露した。
恭二は無関係であったこと。自分の共犯者はSAO時代からの《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》メンバーだったこと。
それを静かに聞いていた里香だが、どうしてもわからないことがあった。
「ねえ」
「なんだ」
「どうして、こんなことをしたの?」
「……」
「SAOの時もそう。なんで、人殺しなんか……」
赤眼のXaXa(ザザ)。その名前は、里香/リズベットも聞いたことくらいはあった。
アインクラッドで情報屋が発行している情報誌にもオレンジプレイヤーの注意人物として頻繁に名前が挙がっていたのを覚えている。
プレイヤー仲間では、攻略中のトラブルはもちろんオレンジプレイヤーに気をつけて、と挨拶をすることも珍しくなかった。
だからこそ、オレンジプレイヤーの特徴や目撃情報はクエストの情報並に仕入れておくのが生き残っているプレイヤーの常だったと言える。
赤眼のザザ。強力なエストック使いで、主に男女で組まれたプレイヤーが狙われやすかった。
当時は自分には関係の無い話ね、と軽く流していたが今はそういうわけにはいかない。
その真意を、里香は知っておきたかった。
「……別に、最初から、人殺しを、しようと、思ったわけじゃ、ない」
「……」
「男女の仲を壊せれば、それで良かった。殺しは、その結果伴ったに、過ぎない」
「それはどうして?」
「……恭二が、お前に振られたからだ」
「……っ!」
呼吸が苦しくなる。
全く予想していなかったわけではなかった。
里香から見ても、昌一は恭二を大切にしていると思っていた。
溺愛という程ではない。実際、本人に聞けば「溺愛はしていない」と答えるだろう。
だが、仲が悪いわけではない。加えて、昌一は世間一般で言う良い兄貴であろうとしていた。
周りには心を開かないが、弟だけには昌一は優しかった。
昌一は生まれつき身体が弱かった。その為学校も休みがちで、父親は早々に昌一へ期待するのを止めていた。
代わりに、その期待を一心に背負わされたのが次男の恭二だった。恭二は父親の期待が重苦しかった。
その逃げ場はいつだって優しい兄だった。幼い頃は昌一が唯一の心の拠り所だった。
そこに、不協和音を入れたのが、里香の存在だったのだ。
里香に心を奪われ、振られたその日、恭二の落ち込みぶりは酷かった。
部屋に閉じこもったまま、すすり泣くような声が昌一の耳にも届いていた。
きっかけは些細なもの。ただ、弟を傷つけた相手が気にくわなかった。許せなかった。
それから、恭二は振られた相手、里香と仲直りをしたものの、昌一の心は晴れなかった。
それからも、恭二は女性に泣かされることがあった。
ある時、その事について相談を受けた昌一は、恭二にまとわりつく女を追い払った事がある。
その女はただ恭二の家がお金持ちだからという理由で恭二にまとわりついていた。
恭二のお小遣いを私用の為にアテにして近づいてきていたのだ。その女に《お灸》を据えてやった。
恭二は昌一に感謝した。本当にそれだけだった。それが事の始まりだった。
《カップルは弟を不幸にする》
そんな考えが昌一に根差していった。
それを裏打ちするように、恭二の身近なカップルを壊せば、人知れず恭二に降りかかる火の粉が格段に減っていった。
もともと感情が屈折してきていたこともあって、自分のやっていることへの罪の意識みたいなものは殆ど感じなかった。
最初の動機はそんなものだった。いつの間にかそれはエスカレートし、カップルそのものを嫌悪し始め、見境が無くなっていたが、最初はただの弟思いから始まった行動だったのだ。
ただ、この時《女》ではなく《カップル》と昌一の中で定義付けされた理由は、昌一本人にも理解できていなかった。
面会時間を終えた里香は少しだけ重くなったような気がする足を引きずるようにして外へ出た。
当初の目的は達した。だが、一つ重い荷物を背負ってしまったような感覚が胸を占める。
『……恭二が、お前に振られたからだ』
昌一の言葉がリフレインしてズキリ、と胸が痛んだ。
わかってはいた。予想はしていた。それでも、本人からそう聞くと、やはりダメージはある。
断っておくと、今回の事件についての大元の責任を感じている、というわけではない。
全くないわけではないが、それで《自分のせいだ》といじける程乙女チックな性格はしていないと里香は自負している。
だから、それはもっと別なこと。
「あ~あ、キリトのこともあってとっくに忘れたつもりだったんだけどなあ……」
里香は後頭部へ手を回して、態とらしく大股で歩く。手に持っていたトートバッグがぶらんと揺れた。
十二月の冷たい風は、ニーハイソックスを穿いていてもふりふりのミニスカートには少し辛い。
それでも、里香は可愛らしいこの服で昌一の元へ尋ねた。この時ばかりは、《可愛い》自分でありたかった。
「さよなら、私の初恋……」
冬の匂いを感じさせる風に乗って、里香の独り言は静かに消えていった。
十二月も下旬。年の瀬も迫ってきているとあって、人は師走のごとく忙しない様がよく見られる。
街の外装は既にクリスマス一色。電飾やらなにやらで煌びやかに飾り付けられ、サンタクロースの赤い服を着て歩く人も珍しくない。
それもそのはずで今日はクリスマスイヴだった。
「今夜は頑張ろうねキリト君」
「ああ、そうだな」
いつもと変わらない、黒を基調としたトップスに水色のジーンズ。アスナ/明日奈は相も変わらずキリト/和人が黒を好んでいるなあとぼんやり思う。
最初こそ黒いカラーばっかり、と思っていたが今では逆に黒を着ない和人を想像できないまでになってしまった。
思えば初めてアインクラッドで会った時も黒くなかっただろうか。いや、第一層攻略時はまださほどでもなかったと思う。
黒いイメージが固定したのは、第一層クリア後のラストアタックボーナスである《コート・オブ・ミッドナイト》を装備してからかもしれない。
《黒の剣士》なんて呼ばれ始めたのもそのコートの色のせいだったはずだ。
しかし、では白いコートだったらどうなのかと考えて思わずクスッと笑ってしまう。
和人は不思議そうに明日奈の方を見やり、「なんでもない」と明日奈は右手を振って誤魔化した。
その指には、光り輝くプラチナリングが嵌められている。
これは和人が明日奈にプレゼントしたものだった。今回の死銃事件、その調査報酬として和人が菊岡誠二郎からもらったバイト代三十万円。
福沢諭吉が三十枚。間違いなく《サンジュウマイ》。それの約半分が化けた姿である。
(それにしても、まさか《プラチナ》……だったとは)
和人は目に入った明日奈の指輪を見て思い出す。
自分が《似ている》と目を付けて買ったのは、甲丸型のプラチナリングだった。
ブライダル関連に詳しくない和人は最初、てっきり《シルバーリング》だと勘違いしていた。
見た目はほっそりとしていて特に凝った意匠や装飾も無く、宝石も付いていない。
本物の結婚指輪とするなら少しだけ安価ではあるが、十分に使われる代物であり、一学生が彼女へのプレゼントにするにはかなり上等な部類に入るだろう。
ちなみにペアの指輪だったので和人の分もあるのだが、和人は恥ずかしがって自分はチェーンを同時に購入し、首からかけるようにしている。
明日奈はこれを和人から送られた時、思わず涙を流しながら喜んだ。明日奈にも一目見てそれが何かわかったのだ。
ばっと口元に手を当てて、感極まったかのように身体を震わせながら受け取ってくれた姿は、和人の網膜に今も焼き付いている。
「アルバイトは……この為だったんだね」と向日葵のように笑う明日奈の顔は、流石に照れくさくて直視出来なかった。
(それにしても……あの時は助かったな)
和人は上機嫌で歩く明日奈の横顔を見ながら思い出す。
この指輪を買った時のことを。
目的のお店の前で、和人は固まっていた。
本当に自慢では無いが、和人の対人スキルは激低だという自負があった。いざ指輪を買おうと思っても、ブライダル取扱店に一人で入るのには相当の躊躇があり、勇気が必要だった。
実は《一人では》半ば諦めそうだったのは明日奈に言えない絶対の秘密である。
そんな、店の前で悶々と悩んでいる和人を助けたのは一人のスーツを着た年配女性だった。
和人に面識はない……と思っていたのだが、向こうにはどうやらあるらしく、背中を押されるようにして和人は店へと入店させられた。
目的の品を告げると、店員とのやり取りは殆どその女性がやってくれた。和人は申し訳なさと何処であったか覚えていないという不安で潰れそうだった。
許されるなら今すぐにでもここから逃げ出したい。ここがVRMMOだったなら一言「ごめん」と言って強制ログアウトさえ敢行しかねない。
だが、悲しいかな。ここは現実で、良い意味でログアウトボタンなどというものは存在しない。
結果、和人は逃げるに逃げられず、その女性のおかげで指輪を買えたのだ。
「あの、ありがとうございます」
「ただの気紛れよ、丁度時間に余裕があった物だから。この店にはよく来ているしね」
「はぁ……それでその、大変失礼ですけど、以前何処かで本当にお会いしていましたっけ……?」
和人の緊張しきった声に、女性は訝しそうな顔を向ける。
それは少しだけ、人を値踏みするような目でもあった。
「貴方、声のトーンと《表情》が全然合っていないのだけど」
「えっ?」
「……まぁいいわ。人のことをとやかく詮索なんてよっぽどの事でも無い限りするつもりはないし。でも女性と会ったら顔くらい覚えておきなさい。それがマナーよ」
「はぁ……えっと、その、すいません」
結局、あの女性は何処で会ったのかも名前も教えてはくれなかった。
だが、どこか仕事が出来る女性、というイメージがあった。
(そういえば、お店で「先生」って呼ばれていたような……あれ?)
先生、という呼び方に少しだけ心当たりがあった気がするが、和人にはそれが何処だったのか今イチ思い出せない。
う~ん、と和人が唸って思い出そうとした時、クリスマスイヴなこともあってか、耳にはクリスマスソングが入ってきた。
『真っ赤なお花の トナカイさんは いつもみんなの 笑いもの──』
和人の足が止まる。
明日奈は、急に足を止めた和人に首を傾げた。
和人の顔を見ると、先程までとは打って変わって真っ青になっているように見えた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「あ、ああ……」
とても大丈夫そうでは無い。
一体この一瞬で何が起こったと言うのか。明日奈にはわからなかった。
明日奈は知らなかった。《録音結晶》の存在は知っていても、その《録音内容》を。
「なら良いけど、無理しないでね?」
「大丈夫、それに今夜は何が何でも頑張らないとな」
「ふふっ、そうだね」
すぐに和人は小憎らしい笑みを浮かべる。
明日奈は少しだけ不安の《しこり》を残しながらもそれ以上は突っ込まなかった。
代わりに自身も楽しみにしていた《今夜》のイベントを思い出す。
ALO──アルヴヘイム・オンライン──の中にあるアインクラッド、そのアップデート。
二十層以降の攻略解放を。
この日をどれだけ心待ちにしていたことか。
すぐに二十一層に駆け込み、そのまま過去の知識を生かして真っ直ぐボス部屋へ直行しボス攻略を終わらせる。
既に知己のメンバーとは打合せ済みで、解放直前には二十一層に駆け込む為に二十層ボス部屋にて集合しておく手筈になっていた。
全ては、一刻も早く二十二層にある筈の、《思い出のログハウス》を購入する為。
あそこは、明日奈と、和人と、ユイの帰るべき場所なのだ。
今《イグドラシルシティ》でレンタルしているプレイヤーホームよりもかなり手狭ではあるが、構わない。
一緒に過ごしたことのあるあの場所であることが、一番重要なのだ。
「キリト君、遅刻しちゃダメだよ?」
「わかってるよ」
「ほんとかなあ? 攻略デートの時は何回か……」
「あ、あれは偶然またS級食材Mob(モブ)見かけた気がしてって説明しただろ? 大体その後二人してその場所を探索して……」
「気付けば一日終わっちゃったこともあったね……本当、あんな世界に居ながら信じられないくらい楽しかったよ」
「……そうだな」
その楽しかった時間の集大成。
結婚した時に……いや、結婚する際に居場所と定めた場所を、今夜取り戻しに行く。
久しぶりの、アインクラッド攻略。そこにかつての緊迫感や恐怖感は明日奈には無かった。
もうデスゲームではない、ということだけはない。横に和人/キリトがいればなんでも出来る。
そう思えたから。
カウントダウンのデジタルカウントが一つずつ数字を下げていく。
白い円を描くようにして、時計のようにカウントする様はアインクラッド時代から変わっていない。
それが今、十を切ったところだった。
九、八……と下がっていくのを見ながら明日奈/アスナは周りに目配せする。
そこにはアインクラッド時代からの頼もしい仲間であるみんながいた。和人/キリトはもちろんのこと、里香/リズベット、珪子/シリカ。
エギルにクライン、そしてアルヴヘイムを通して分かり合った友、直葉/リーファ。
アスナの視線に皆一様に頷いた時、カウントが一からゼロへと刻まれ、ファンファーレが鳴った。
それは二十一層解放の合図。しかしそれを最後まで聞いている者はいない。
カウントがゼロを刻む瞬間にはアスナを始め全員が駆け出していた。上層へ続く階段を一気に駆け上がり、二十一層フィールドへと降り立つ。
このまま街へ行けば美味しいクエストの一つや二つ独占できる。誰よりも早くレアアイテムの入手も可能だろう。
ここで手に入るアイテムの数々がどう《補正》されているかもわからない今、それらの情報はこの仮想世界を愛する《ゲーマー》としては涎が出るほど貴重な物だ。
しかし。
アスナ達はそんなものには目もくれずに記憶にある迷宮区へと足を加速させた。昔と違って転移ゲートのアクティベートなど微塵も考えない。
目的はそんなものではないのだ。目的はただ一つ、二十二層の一角にあるとある場所。とある《物件》なのだから。
しかし旧アインクラッド経験者、通称《SAO生還者(サバイバー)》のALOプレイヤーはキリト達だけではない。
また、《SAO生還者(サバイバー)》以外にも最速攻略を目指す者がいないわけではない。
彼らは知ってか知らずかアスナ達のように共に迷宮区へと一緒に向かいだす。
総勢五十人といったところだろうか。フロアボス攻略戦をやるにはそこそこ十分な頭数と言えた。
勝手知ったるなんとやら。ここにトゲトゲ頭の某プレイヤーがいたならこう言うかもしれない。
「なんでや! こんなんチートや!」
そう言われても仕方ないほど、他の物には一切目も手も触れずにボス部屋へと駆け抜けた。
途中、キリトなどは一瞬目端に捉えた宝箱を見つめるが、すぐにアスナのジトッとした視線に気付いて頭を振っていた。
そうまでして、実に最高速度で二十一層のボス部屋へ総勢五十人が到着する。
その五十人の最終目的は異なれど、目先の目的……もとい障害は目の前のフロアボスである。
即席のレイドを組んで戦う事に誰も異論は発しなかった。この間、ボス部屋についてからなんとわずか三十秒である。
すべてを取り仕切ったアスナはまるでかつてのKoB──血盟騎士団──副団長の時のようだった。
話が纏まるとすぐにアスナの叩き壊すような勢いの拳でボスへの扉が開かれる。
ここに、かつて日本、いや世界中を震撼させたアインクラッドのフロアボス攻略が始まった……のだが。
この戦いに参加した者は、口をそろえて言うだろう。
「これは攻略戦だったのだろうか」と。
普通、攻略戦は当然のごとく難易度が高い。それは旧アインクラッドにおいて結局《百層》まで辿りつけなかったことからも明らかだ。
新アインクラッドさらにその難易度が上がっている。もはやプレイヤーにまともにクリアさせる気が無い、と言わしめるほどの難易度になっているのは既に有名な話だ。
だからこそ連係プレーは必須で、尚且つ前線で戦い続けることは困難を極める。
能力構成(ビルド)を戦闘用に割り振っていないアバターならば尚更のことだった。
だというのに。
アスナは誰よりも先頭で剣を振るっていた。
一切下がらず、逃げず、攻めて攻めて攻めまくる。
アスナは《水妖精族(ウンディーネ)》に属し、その性質から半分ほどは《治療師(ヒーラー)》の《能力構成(ビルド)》になっているはずなのだが。
そのアスナがひたすら先頭で剣を振り続けていた。これにはさすがのキリトも驚く。
なんていう無茶だ、と思うのと同時に彼女へ凶刃が向かうことを許容できないキリトは普段よりもアスナの護衛のような動きをすることが多かった。
それでも彼は流石というべきか、この戦い一番の活躍、ダメージディーラーがアスナなら、その次に続くのは彼と言っていいほどボスへの攻撃は絶やさなかった。
かつてフロアボスのラストアタックを取りまくった男として嫌われていたことがあるキリトの腕も、伊達では無かった。
その様を見ていたクラインなどは「かつての攻略戦の時より凄い」と評したものだ。
新生アインクラッドのフロアボスはこれまでと違いHPゲージが見えない仕様になっている。
だから止むことのないアスナの攻撃に、いつの間にかボスのHPが全て散らされていたとしても、仕方の無かったことと言えよう。
アスナはトドメを刺したことに気が付かず二、三度多めに剣を振るったが、やがてボスの動きが止まり、自らの手でラストアタックを加えてフロアボスを倒したことを悟ると、大音響を纏ってガラス片が爆散するようなエフェクトが出る……前にはもうそのボスを蹴り飛ばすようにして避け、二十二層へと続く扉に駆け寄り、解放と同時に後ろも振り向かず駆け抜けていった。
狙うは第二十二層フィールドの端に位置するあの場所。あの《ログハウス》があるポイントただ一つ。転移ゲートのアクティベートはやりたいヤツがやればいい。ここはかつてのアインクラッドとは違うのだ。
彼女の駆け抜ける速度はかつての二つ名、《閃光》を彷彿とさせる程に凄まじいものだった。
かつての仲間ですら、まともには追いつけない。唯一追随していけたのはキリトくらいなものだろう。
その彼をして、この時ばかりは「追いすがるのがやっとだった」と後に語っている。
二十二層にある物件はそのログハウスだけではない。他にも良い物件は多々あるし、ましてや解放されたばかりでは競争相手などほぼ皆無に等しいと思われた。
それでも、可能性がゼロでない限り安心は出来ない。そんな思いがアスナの背を押し続けた。
そうして辿り着いたログハウスの、購入ボタンを押した時──予算は随分前にクリアしている──アスナはへなへなとその場に座り込んで声を出して泣いた。
幸か不幸か、《面倒なクエスト》には今回巻き込まれなかった。茅場に代わるアインクラッドの神、《カーディナル》が気を利かせたのかはたまた《まだその時ではなかった》のか。
その答えは誰にもわからないが、アスナは再び《帰るべき場所》を取り戻した。
「乾杯!」
「乾杯です!」
「カンパイ!」
久しぶりの我が家。
仮想空間であるとか、そんなことは関係がなかった。
アスナにとって《ここ》は思い入れが深すぎる。
初めて好きな男の子と一緒になった家。初めて子供と呼べる子と過ごした家。初めて好きな男の子と……結ばれた家。
例を挙げればキリが無い。だからだろう。購入ウインドウに《購入しました》のダイアログを確認した瞬間、アスナは感極まってしまったのだ。
クラインを始め、みんなは気を利かせて今日は解散の運びとなった。元々、今日の目的はここまでだったのだから問題は無い。
アスナが泣きやむのを待って、キリト達《三人家族》は久しぶりに、家族水入らずで《我が家の食卓》についた。
三人でグラスを優しくぶつけ合う。ユイはナビゲーション・ピクシーの姿ではなく本来の少女アバターに戻り、イスから立ち上がって背伸びをするようにしてグラスを傾けていた。
帰ってきた。
そう思わせる何かがあった。
ここにキリト君がいて、ユイちゃんがいて、自分がいる。
その当たり前に必要だった最後のピース。本当なら最初のピース。
それが今、およそ一年と少しの時を経て、取り戻すことが出来た。
「ぐすっ……」
「アスナ」
再び涙腺が崩壊して泣き出してしまったアスナをキリトは抱きしめる。
ユイはそんな二人を優しい笑顔で見つめていた。
それから少しして、さあ仕切り直そうというところで、ユイは先に休むと言い出した。
アスナとキリトは少しだけ驚いた。仮想世界からログアウトする時にユイはいつも寂しそうな顔をする。
その意味を理解出来ないほど二人は名前だけの親では無かった。
そのユイが、一人で先に休むと言い出した。彼女に睡眠は人間ほど必要無いにも関わらず、だ。
「珍しいなユイ」
「パパ、今日はイヴですよ? だからパパとママには一杯一緒にいて欲しいんです」
「気にしなくていいのよユイちゃん。ユイちゃんとも一緒にいたいし」
「ダメです! 一年に一度しかないんですから。クラインさんが言っていました、愛し合う男女はイヴにイチャつくものだと」
アスナの表情にピキッと亀裂が入る。なんて事を教えているのだあの人は、と。
これにはキリトも苦笑いだった。今度どうしてもクラインと二人きりになりたいと頼まれていたが、それについても考え直さねばなるまい。
二人は密かにクラインのユイに対する危険度を上方修正する。
「私なら大丈夫です! 《今度は》視覚情報だけじゃなく《音声情報》も全部カットして休眠しますから何をヤッてもわからないです!」
「いや、その気の使い方はやめてくれユイ」
「本当にごめんなさいユイちゃん。お願いだから忘れて」
ユイの指摘する意味を理解して、キリトとアスナは閉口する。
本当に消してしまいたい黒歴史だと言っても過言ではない。
さらにイヴの晩とあっては尚更である。
その後、結局ユイは一人でベッドに入ってしまった。
恐らくは本当に気を使ったのだろう。それだけ、ここに戻ってきたことがユイも嬉しいのだ。
娘からのクリスマスプレゼント、と言ったところだろう。
ユイの居なくなった居間に取り残された二人は「どうしようか」と見つめ合った時……メニューが突然ポップアップする。
どうやらアスナにメールが届いたようだった。
アスナはボタンをタップしてメールを確認する。すると短いお祝い文がリズベットからメロディ付きで届いていた。
流れるメロディは……《赤鼻のトナカイ》。
『メリークリスマス! 良かったねアスナ、今日はゆっくりイチャイチャしていなさい!』
「もう、リズったら」
アスナが苦笑しながらメールを閉じると、同時にメロディも消える。
照れたようにアスナがキリトに向き直ると、キリトは少しだけ表情が硬くなっていた。
彼のこんな表情を、アスナは知っている。今日も街中で見たがそれよりも前に。
GGOの中でも見た。あれはBoBの予選決勝でぶつかった時だっただろうか。
だが、それよりもっと前にも見たことがある。あれは……彼の《過去》を覗き見た時。
全てを失ってしまった時の、悲しみ、辛さ、怒り。それらが含まれた、寂しげな表情。
アスナは決して忘れていたわけではない。だが、これまでは決して彼の《傷》に深く触ろうとはしなかった。
彼の犯した罪。彼自身が罪と感じている過去。
それは恐らく、一つではないだろう。GGOにおいて《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》と再び戦ったことで、強くそれを意識したはずだ。
だから、アスナは今こそその傷に触れる。
「ねえキリト君」
「……なんだ?」
「……いいんだよもう、怖がらなくて」
「何を言って……」
「月夜の黒猫団のこと」
「っ!」
キリトの表情が歪む。
図星、ということだろうか。
「ラフコフ討伐戦でのこと」
「……!」
「キリト君はそれを罪だと思ってる。忘れることも罪だと思ってる。ずっとずっと引きずってる」
「……」
「だから、だからね? 私が赦してあげる」
「……え?」
アスナの言葉に、キリトは一瞬我を忘れた。
言っている意味が唐突すぎて分からなかった。
いや、理解が追いつかなかった。心が、即座に理解してしまうことを拒否した。
「他の誰が赦さなくても、キリト君自身が赦せなくても、私が赦してあげる」
「あ……」
赦す。
たった一言。
その一言が、これまで妙に重いと感じていたキリトの肩をフッと軽くしたような気がした。
実際には、決して赦されることの無い罪。
ギルドの仲間の命。レッドプレイヤーと言えど自ら奪った命。
そのどれもが決して戻ってくることはない。
それでも。
他の誰でもないアスナに「赦す」と言われたら。
決して無くなることの無い罪の重さから少しだけ解放されたような気がした。
「俺……いいのかな」
か細い搾り出すようなキリトの声が、その苦悩を代弁していた。
一体どれほど抱え込んでいたのだろうか。それはアスナにもわからない。
ただ、受け止めるだけの《覚悟》はあった。
「俺は、忘れていたんだ。人を殺したこと」
自分の手を見つめて、キリトは淡々と語る。
それはきっと、ラフコフ討伐戦での出来事だろう。
見つめる彼の手に、一体何を彼は想うのか。
「でも、そのおかげで助かった生命もあるよ。私も……そうだから。あの時、キリト君が頑張らなければ、きっと部隊は総崩れだった」
「俺はそんな高尚なこと考えてなかったよ。自分のことで必至だった」
「私もだよ。でもそれはきっとみんなそう。あの時一緒に戦った仲間も、ラフコフの人達も。みんな一緒なんだよ。キリト君一人が背負うことじゃないの。だから、私はキリト君が例え自分を赦せなくとも、貴方を赦します」
貴方を赦します。
その言葉で、とうとうキリトの瞳から、一筋の涙が零れた。
罪の意識を背負い続けてきたキリトにとって、何よりも求めていたのは、赦されることだったのかもしれない。
それを、アスナは本人よりも一番理解していたのかもしれない。
クリスマスイヴの夜。取り戻したかつての思い出の家で、キリトは嗚咽を零しながら何度も「ありがとう」「ごめん」と繰り返す。
アスナはそんな彼をずっと撫で続けていた。
この日を境に、僅かばかりだがキリトの感情表現……表情が改善に向かい始める事になる。
キラキラと煌びやかな電飾が夜の街を賑わせている。
クリスマスイヴの晩とあってはそれも当然のことだが、それがこの男には面白くなかった。
「……ちぃ、くそっ!」
顔は髭がぼうぼうに伸び、草臥れたスーツにネクタイ。
目は真っ赤に充血しぎょろりと忙しなく動いていて、浅い呼吸を繰り返している。
綺麗だった長髪はどこもちぢれ毛になっていた。
「捕まってたまるか……俺は、俺は……!」
男は逃亡中の身だった。
既に逃亡生活は長期化していて、最後に風呂に入ったのも随分前だ。
擦れ違う通行人がその匂いに顔をしかめる。
ギッと男は睨み付けて通行人を威嚇した。
すぐに通行人は目を反らし、離れていく。クリスマスの夜にわざわざ自分からトラブルの渦中に駆け込むこともない。
「チッ、臆病者が……殺してやろうか? まだ《ブツ》は残ってるんだ、ヒャハハ────チッ!」
ピカピカと賑やかな電飾が煌めく。
擦れ違う人間全てが「幸福です」と言っているように感じて苛立つ。
やはりいっそ殺そうかと思う。
自分にはその手段がある。
実際に殺したこともある。その辺のいざとなったら尻込みするようなチキン野郎とは違う。
また通行人が顔をしかめた。殺すか。
「いや……我慢だ、我慢。ヒャハハ──チッ」
苛立つ。イライラが止まらない。
周りを注意深く見回して警察の巡回をやり過ごす。
まだ捕まるわけにはいかない。
ヒソヒソと周りがまるで自分を見てコソコソ話しているようだ。
何をみていやがる。やっぱり殺すか。いやだめだ。くそっ。
同じような思考のやりとりを幾度と無く繰り返し、悪態を吐き続ける。
ポケットに偲ばせたブツの《グリップ部分》に手を伸ばしては離す。
いつでもこれでここにいる奴等をあの世に送ってやれると思えば、少しは精神的にも落ち着ける。
だがこの喧騒はだめだ。本当にだめだ。無茶苦茶に壊してやりたくなる。
男は浅い呼吸を繰り返しながら苛立つ喧騒から離れるように路地裏へと足を伸ばした。
しばし奥まで入り、人気が薄くなってくるとようやくじっくりと物事を考えられる。考えられるから、
「ああくそっ!」
ガンッ! と道ばたにあるゴミ箱を蹴り飛ばした。
静かになれば冷静になれる。しかし冷静になれば今の自分の状況を思い出して苛立つから無理矢理人混みに紛れてみたのだ。
なのに戻ってきてしまったら何の意味も無い。
いつまでこんなことを続けるつもりだ? と冷静な筈の自分が尋ねる。
愚問だ。
「《あの女》をヤるまでだァ……ヒャハハ!」
男にはどうしても殺したい相手がいた。
自分をコケにしたその女を八つ裂きにし、奪い、惨めに汚してやりたい。
何しろその女は容姿が良い。この手で汚すことを想像すればそれだけで興奮できる。
でも殺す。だから殺す。
「あの屈辱はわすれねェ……!」
ガンッ! ともう一度転がっているバケツタイプのゴミ箱を蹴り飛ばす。
その飛んでいった先から、人の気配がした。
「……おいおい、汚いな」
「あァ!?」
なんだコイツは? 誰に向かって口を訊いてるんだ? 死にたいのか?
いやだめだ。まだだめだ。落ち着け。落ち着け。
男は怨念たっぷりに睨み付ける。大抵の通行人はこれで逃げる。
そうだ、お前等ザコは俺に怯えて逃げ回れ。
「やれやれ、ようやく探し当てたと思ったんだが」
「探しあてた? てめぇ、まさか……!」
ギクリ、とする。自分が逃亡中の身であることを忘れたわけではない。
つい先日も、人を襲い、指名手配真っ最中なのだ。だからこそ、隠れたように移動して息を潜める生活に苛立ちが募っていた。
「勘違いしないでくれよ? 私は警察じゃない。君と協力をしたいと思っただけだ、犯罪者クン」
「ンだとォ……?」
相手はビシッと白いスーツを着こなした上流階級のような優男だった。
クイッと眼鏡を直す。その眼鏡も高そうで、腕に付けている時計も高級そうだ。
だが、レンズ越しに見えるその目が、顔全体を爬虫類のようなイメージにしてしまっている。
男には分かった。自分に近い匂いがする、と。
「仮釈放中の身でね。イロイロと苦労も多いんだよこっちは。なのにウロウロしてくれちゃって……全く」
「知るかよそんなこと」
「チッ、これだからこんなヤツと話すのはイヤなんだ。馬鹿がうつる」
「は?」
やはり殺すか。
いやだめだ。まだだめだ。
「てめぇ死にたいのか? 俺が殺れないとでも思ってやがんのか? あぁ!?」
「やっと建設的な話が出来そうだな」
「は?」
「その声はやめろ、本当に馬鹿だな君は」
「てめぇ……!」
「《お互いに》警察に追われる身だ。手短に言う。こちらは《情報》を渡す。お前はターゲットを殺す。実にシンプルだ」
「何を勝手に話を進めてやがる。それに乗るメリットが俺にあるとでも?」
「ターゲットを聞けば悪くない話だと思うが。何せターゲットは────────」
白いスーツの優男が口にした名前に、男は聞き覚えがあった。
正確にはその《プレイヤーネーム》に。
それだけで、男は優男の話を聞く価値があると踏んだ。
優男は多くを語らず、メモを渡した。そこにターゲットの所在が書かれている、と。
男はそれを見て、口端をニヤァと歪ませる。目的が、向こうから転がり込んできた。
こんなに都合の良いことはそうはない。やはり俺は特別だ。
「それで? やってくれるんだろうな」
答えなんざ決まっている。しかし、その前に。
このふてぶてしい成金爬虫類優男には言ってやりたいことがあった。
「てめえ、その時計寄越せ」
「は?」
「馬鹿みてえな声出すな」
「く……どうする気だ?」
「こちとら金がねえんだよ。売って金にする。それが報酬代わりだ」
「……チッ!」
優男が舌打ちする。男に見せる初めての苛立った感情の発露。
そうこなくては。やられっぱなしなど自分のプライドが許さない。
優男は時計を外し、男に投げつけた。珍しくその行為に男は苛立ちを覚えなかった。
そうして、《契約》は互いの利害関係の一致という点で、成立した。
電子の海。それは形容出来ない世界。
見るという概念はあるようで無い。
全てを脳内で処理しているようなもの。
脳内でインターネットに接続し、検索結果を即座に知識として理解している……そんな感覚。
やはり形容は難しい。視覚情報という意味でなら不可能に近い。
その世界に、ユイは埋没していた。
「……第一プロテクト、クリア。……第二プロテクト、クリア」
光の速さでプログラムの端から端を洗っていく。
既に仕込んでおいた《バックドア》に再接続(アクセス)。
流石に防壁は厳しいと思うが、それでも二つほどを瞬く間にクリア……したところで。
「……だめ、ですか。これ以上は危険ですね」
ユイはハッキングを諦めた。
彼女に表情はない。ただボウッとした顔で淡々と事実の確認をひたすらに行う。
もとより0と1の処理をひたすらに行う存在なのだ。そこに処理という行動を省けば、《何も起こらない》。
生身の──と言ってもその姿さえ虚構だが──身体、アバターはALO内の浮遊城アインクラッド第二十二層に位置するログハウス内の一室に座標は固定されたままだ。
微少を浮かべ、《人間がそうであるように》胸を上下させて瞼を閉じ横になっている。
だが彼女の《意識》とも呼べるモノは別の場所にあった。
回線を通して遥か遠くへと思考を伸ばす。
「でも収穫が無いわけでもない、ですね」
侵入先の最奥へは入り込めなかった。流石に防壁は硬い。
そもそも上手く仕込んだ《侵入経路(バックドア)》が無ければここまで入り込むのすら難しい。
何せ相手は──────
「私は全てを納得してはいませんよ……クリスハイトさん。貴方は本当に──潔白ですか?」
《国家権力》なのだから。
それでも彼女はその持てる能力を余すことなく使うことを躊躇わない。
その結果が、例え《自身の崩壊》を招く事に繋がろうとも。
「パパとママに手を出して、タダで済むと思っているのなら……大間違いです」
これまでキリトやアスナが聞いたことの無いような、低いユイの声が、電子の海へと消える。
このことを、キリトとアスナが知ることはない。
(GGO編終わり)