わからないことだらけだ。
最初にキリトが思ったことは疑問に次ぐ疑問だった。
自分は確かALO──アルヴヘイム・オンライン──のプレイヤーホームにて、ついうっかりとうたた寝をしてしまったはずなのだが。
それが何故、
「俺、どうしてアインクラッドにいるんだ……?」
アインクラッドにいるのか。
キリトが気付いた時、彼は急角度の断崖に突きだしたテラスに座っていた。
記憶に新しいアインクラッド低層フィールド。ここは第二層のスタート地点ではないだろうか。
狭いテラス状の下り階段が岩肌に沿って伸びている。第一層と異なり二層はテーブル状の岩山が端から端まで連なっているのだ。
何故自分はここにいるのだろうか。キリトは全く思い出せなかった。
アインクラッドがあること自体はさほど不思議ではない。先日のアップデートにてALOに伝説の城、浮遊城アインクラッドは復活を果たしている。
問題なのはALOの《空中都市イグドラシル・シティ》にあるレンタルプレイヤーホームにいたはずの自分が何故アインクラッドフィールドにいるのか、ということだ。
付け加えるならここは圏外フィールドでもある。
しかしふと自分の格好を見て、得心する。「ああ、なんだそういうことか」と。
今キリトが着ている、否、《装備》しているのは懐かしいと呼べる武具。
第一層のフロアボスである《イルファング・ザ・コボルドロード》のラストアタックボーナス、《コート・オブ・ミッドナイト》。
全身真っ黒と呼ぶに相応しい膝丈まである長いコートはこれを手に入れた時から彼の……《悪のビーター》のトレードマークとなっていたはずだ。
さらに最初の相棒とも呼べる第一層のクエストリワード品だった片手直剣、《アニールブレード》。
これをここで装備している意味は恐らく、
「夢だな、うん。間違いない」
その一言に尽きる。
明晰夢という言葉がある。夢の中でもハッキリと自分の意識を保ちよく内容を覚えている夢だ。
キリトにとって明晰夢は何度か経験したことがあるものだ。それは決して良い物ではなかったけれど。
そう意識してからはそれを裏付けるように頭の隅に少し靄がかかったような、ハッキリしない部分を知覚することも出来た。
キリトは大きく息を吐き出すと、真っ直ぐに断崖の先を見つめた。この先には確かアインクラッド第二層の主街区、《ウルバス》があったはずだ。
眼下のテーブルマウンテンを丸ごとひとつ掘り抜いた街。フィールドを一キロほど走破した先だったか。
中央広場に転移門があり、そこまで行けば好きな層へ転移できるだろう。
もし仮にまだアクティベートされていなかったとしても、ボス消滅から二時間後には自動的に開く仕組みになっているから、二層に自分がいる以上、遅くとも二時間後には転移門は解放される。
というか転移したいのなら自分でアクティベートしてしまえば良い。
とそこまで考えてキリトは苦笑する。夢の中で何をデスゲームの時のようなことを考えているんだ、と。
その時だった。
背後の螺旋階段を昇る音をキリトの仮初の聴覚システム──正確には夢によって再現されたシステムもどきだろう──が捉えた。
何となく、振り返らずともそれが誰かはわかっていた。
「アスナ」
「……なんでわかったのよ」
少しだけぎょっとしたような声。
思ったよりも鋭い声色に「あれ?」と違和感を感じ振り返る。
長いブラウンの髪をたなびかせ、細剣を腰に掲げてやや不機嫌そうな顔をする少女。
そこにいたのはやはりアスナだが……彼女もまた随分と貧相な──ある意味ではこのフロアに適当な──佇まいだった。
彼女の装備はかつてここ、第二層に初めて到達した時のそれと酷似している気がする。
全てを記憶しているわけではないが、記憶が正しければそれは間違いなく《あの時の》姿だった。
ここでようやくもう一つ合点がいく。《今》は第一層クリア直後なのだろう、と。
この《夢》は、かつて自分が経験したあの日の記憶の再現なのではないだろうか。
夢では過去の出来事を整理する為なのか、記憶のリピートが行われることがあると聞いたことがある。
これは第一層クリア直後の過去夢、そんなところだろう。そうならアスナのやや鋭さを帯びた声色にも納得がいく。
キリトは現状理解についてこれ以上深く考えることを止め、代わりにこの時自分は彼女にどんな話をしたのかということを思い出していた。
今は自分が《ビーター》と名乗り、悪の象徴となったばかりの頃のはずだ。
とにかく人と距離を置こうと思っていた気がする。
「来るなって言ったのに」
「言ってないわよ。貴方が勝手に一人で上って行っただけ」
「そうだったかな、ごめ……え?」
なんだか、少し違和感があった。
記憶の底をチリチリと焦がすような何か。
今一瞬、何かが噛み合わなかった気がした。
「俺、何も言わなかった?」
「ええ、一人で寂しそうに上って行っちゃって」
そんな筈はない。流石にそれはない。
この時は、足りない対人スキルを目一杯稼働させて渾身の悪ぶった姿を見せた筈なのだから。
なんだか違う。何かが違う。
でも、じゃあ何が違うんだ?
「戻らないの?」
「戻れるわけないだろ?」
「なんで?」
「なんでって……」
いよいよ違和感がそうだと感じられるほどに膨らむ。
《ビーター》騒ぎを起こした自分があの場にノコノコと戻れるわけがない。
そんなこと、アスナも十分に分かってくれているはずなのに。
「あのぉ、つかぬことをお伺いしますけど」
「何よ、白々しい喋り方して」
「《ビーター》宣言した俺ってみんないい顔しないよな?」
SAOでの悪の代名詞。そう言っても過言ではない《ビーター》。
その名を背負う覚悟など到底無かったが、事実ではあるとどこかでキリトは認めていた。
何より、ディアベルを喪ったばかりの彼らとどう顔を突き合わせて良いのかもわからない。
彼の副官のような位置にいたリンドや彼を慕っていたキバオウなどは自分を相当快く思っていなかった事は忘れたくとも忘れられないのだから。
だというのに。
「《ビーター》? なあにそれ? 何かの隠語? 私まだゲームのそういうの詳しくないんだけど」
「え……」
予想もしない言葉が返ってきた。《ビーター》がなんなのかわかっていない。
流石に「あり得ない」と思わざるを得ない。あの場にいれば聞いたことが無くともニュアンスで大体理解は出来るはずだ。
聞いたことがあれば。
「もう一つつかぬことをお伺いしますけど」
「だから何よ、その白々しい喋り方」
「《ビーター》って言葉を聞いたことは?」
「無いわよそんなもの。ゲームクリアに支障が出るなら意味を教えてよ」
絶句する。
ビーター宣言を、していない……? 一体、どうなっている?
そんな馬鹿な、と口を開きかけてすんでの所で留まる。
これは夢だ。その前提を忘れてはいけない。夢ならばなんでもありだ。そのはずだ。
「いや、なんでもない。知らないなら良いんだ。全く関係の無い言葉だよ」
「ふぅん。チョット気になるけど、まあいいわ。それで?」
「へ? それで、とは?」
「だから貴方が下に戻らない理由よ。勝手に一人で先へ行った理由、でもいいけど」
そういえばそんな話だった、とキリトは納得してからしかし言葉を詰まらせる。
そう言われてもここは夢の中で、気付けばここにいたわけで、そこに理由を求められても説明するのは難しい。
そもそも夢なのだからアスナの質問に絶対答えなくてはならないわけでもない。
しかしいかに夢と言えどキリトは彼女を蔑ろにするような真似はしたくなかった。
それにこの初期の細剣使い(フェンサー)様はそういった誤魔化しや、なあなあな態度には冷ややかな視線をお送りになられるのである。
既にジトッとした視線が横睨みのような目からキリトに突き刺さり、凄く気まずい空気になりつつあった。
何だか少しキツい気もするが、最初の頃のアスナはこんな感じだったっけ、と思い返す。
彼女は何処までも強く、気高く、その腰に下げている細剣のように尖った鋭さを孕んでいて……何よりも美しかった。
……あれ?
フッと《何か》が頭をよぎる。
なんだかとても《大切なこと》のような気がした。
一瞬思考に引っかかったそれ。それは、ここで《気付かねばならない何か》ではないかと予感が奔る。
いや、もしかしたら今自分は《それに気付くために》この夢を見ているのではないだろうか。
しかし、そこで思考は中断させられる。彼女の口からもたらされたこの《世界》の事実によって。
「ディアベルさんに悪いと思っているの? 良いじゃない別に。彼でなく貴方がその装備を貰ったって」
「えっ」
アスナの口から出たディアベルというプレイヤーネーム。
それは決してキリトの中から消えることの無い名前だ。ある意味で、彼がいたからその後のゲームクリアへの感情が変わったと言っても良い。
同時に、SAOに囚われた全プレイヤーに大なり小なり影響を与えたプレイヤーでもあるだろう。
それほどまでに彼の功績は大きかった、とキリトは考えていた。
いや、問題はそこではなく。
問題なのは今のアスナ口ぶりだ。今のはまるで《ディアベル》がまだ《生きている》ともとれるような発言では無かったか。
「そもそもそれを貴方にあげたのは私なんだからウジウジしないでよね」
「はい!?」
今度こそ声を抑えきれなかった。
今アスナはこの《イルファング・ザ・コボルドロード》のラストアタックボーナス、《コート・オブ・ミッドナイト》を自分がキリトに贈ったと言った。
それはあり得ない。何故ならこの装備は自身が第一層フロアボスのLA(ラストアタック)をもぎ取り、得たもののはずだったからだ。
少なくともキリトの記憶ではそうなっていた。まただ。また、噛み合わない。
これは夢だ。夢だからなんでもありだ。そう思っていた。
だが同時にこれは自分の過去夢でもあると思っていた。しかし、過去夢と言うには食い違いがありすぎる。
「これを、俺がアスナからもらった……?」
「何よその顔」
「い、いや……うん、ありがとう……?」
「なんで疑問形なのよ。さっきはあんなに嬉しそうにしていたくせに」
「え? あ、うん。えっとその、じゃ、じゃあディアベルは……」
「ディアベルさんなら下でみんなを纏めてからここに来るんじゃない? ボス討伐の成功を讃え合ってもいたし」
「!」
アスナの言葉に、キリトの心臓がドクン! と跳ねた。
ドクッドクッドクッと《心臓らしきもの》が跳ねる度に、言葉の端々の単語が脳裏に羅列されていく。
ボス討伐。ディアベル。ここに来る。
それはつまり、ディアベルが生きているということだ。
まさか! という思いが駆け巡る。彼が生きている。それはキリトの辿ってきた記憶と齟齬がありすぎる。
だとすると、本当にこれを過去夢と呼んでいいものか。
いや、そもそも……、
────本当にこれは《夢》なのか?
もし、もしも。
今自分の中にあるこれまでの出来事、それらの方が《夢》だったのなら?
デスゲームのSAOは実は終わっていなくて、逆にこれまで長い《夢》を見ていただけなのだとしたら?
ディアベルが死ぬという出来事も、月夜の黒猫団のことも、圏内事件も、アスナのことでさえ実は起きていないのだとしたら?
この世界が《夢》で、これまでの出来事の方が《現実》だったという保証がどこにある?
頭の隅にかかった靄。そんな曖昧な物では決められない。
もし、もし……もしも。
そう考えるとキリトは爆発しそうになった。
仮に、これまでの事が全て夢で現実では無かったとしたら。
月夜の黒猫団などいなかったことになる。悲しみも背負う物もそんなものは無かったことになる。
その代わり、アスナとの関係も無かったことになる。
「……」
それだけは、嫌だった。
だがこの嫌という気持ちさえ自分で勝手に作ったものだったとしら、とても耐えられる気がしない。
だから、確かめなくてはいけない。
そう思ったキリトはディアベルを待たずにアスナと分かれると、単身とある場所へと向かいだした。
それは《エクストラスキル》である《体術》の修得場所である。
広大な──直径はほとんど第一層と変わらない──二層に林立するテーブルマウンテンの岩壁をよじ登り、小さな洞窟に潜り込み、ウォ-タースライダーのような地下水流に流されること数分。
戦闘も数回こなしつつ移動開始から計三十分ほどして、二層東端の一際高くそびえる岩山の頂上近くに辿りつく。
はたして《体術》の修得所は確かにあった。周囲をぐるりと岩壁に囲まれた小空間となった場所に泉と一本の樹、そして小屋。
記憶通りに途轍もなく面倒くさい場所に《エクストラスキル》である《体術》は存在し、修得することが出来た。
……頬に線を入れられ《キリえもん》に再びされたのは嫌だったが。
今回はコツを掴んでいたおかげか初日のうちに目的である岩破壊を成功させることが出来、誰に見られることもなくひっそりと修得に成功した。
キリトはホッと安堵する。この《エクストラスキル》のことは間違いなくベータテスト時代の自分では知り得なかった情報だ。
それを知っていたということは、間違いなく記憶の中の出来事は《事実》だったと言うことに外ならない。
同時に、ここが過去のアインクラッドを再現された《夢のようなもの》であることも確信を得た。
ここは間違いなくアインクラッドだが、ALOの中ではない。ログアウトボタンが無いし、メニューウインドウの出し方も《左手》ではなく《右手》だったからだ。
記憶が正しい以上、SAO──ソードアート・オンライン──は既にクリアされている。自身とヒースクリフ……茅場晶彦との決着によって。
だが《メニューウインドウが出る》というシステム的な物が当時のまま再現されていることから、やはりこれは《夢》か《夢のようなもの》と結論づけた。
だからといって無闇にHPの全損を試してみる気にはなれないが。
「それにしても……アルゴには悪いことをしたかな」
何も考えずに真っ直ぐ修得場所へ向かってしまったが、よく考えればここの場所を知ったのは情報屋、《鼠のアルゴ》から聞いたおかげだ。
そのアルゴから情報を仕入れるきっかけとなったのは、確か忍者もどきのプレイヤー二人組が《素手スキル》を求めてアルゴに迫っているところに偶然居合わせたからだった。
今回、その時間には既にスキル修得の修行場所へ向かってしまった為、アルゴと居合わせることは無かった。
アルゴのことだから無事だとは思うが、わかっていながら助けにいかなかったことをつい後悔してしまう。
後悔先に立たず、とはよく言った物だ。それが例え現実とは関係ない夢だという実感があったとしても。
「しかし……全然眠くならないな」
丸一日大岩と向き合うというそれなりにハードな一日を送ったが、疲労感はあるものの不思議と睡魔は襲ってこない。
SAO……仮想世界に体力的疲労はほとんど感じられないがそれでも精神的疲労という物は確かに存在する。
かつてアスナなどは、迷宮区に単身潜り続け、意識を失ったことさえもある。あの時、偶然にも自分があそこに居合わせなかったらどうなってしまったのだろう……ということは考えたくはない。今となっては特に。
SAOを含めVRゲーム、すなわちナーヴギアやアミュスフィアを使った完全フルダイブ型の仮想世界は、その多くを直接脳とのやりとりを行うことによって成り立っている。
極論を言えば、仮想世界に潜っている間は脳をずっと使い続けているということになる。人間誰しも心臓と脳の活動は死ぬまで続くとは言われるが、事はそう単純ではない。
実際に眠っている時とそうでない時の活動量には雲泥の差があるからだ。
その為、疲労をそこまで感じていなくとも一日のサイクルを無視したプレイ……攻略は控えるのが安全策と言えるだろう。
この夢からはいつ目覚められるのか検討もつかない。だがこのまま続くのならばせめてあの頃のように出来る万全を尽くすべきだ。
なればこそ休む必要があるのだが、どうにも《長年の感覚的》にその必要性を感じられない。
キリトはこれまでおおよその《感覚》によって休憩の必要性を感じ取っていた。絶対的に《感覚》などという曖昧な物を信じるのは危険だが、一つの指標としては信頼に足る物と自負していた。
その《感覚》によると自分の疲労はさほどではないとの判断を下している。しかしながら相対的に流れる《事実》としては論理的に休憩をすべきとの解が得られる。
どうにも《感覚》と《事実》が一致しない。これまでにこういった事が無かったかと聞かれれば無かったとは言わないがそこはかとない違和感を拭うことは出来なかった。
この違和感の正体が《夢》だからなのか、それはわからない。ただキリトはこれが例え《夢》だったとしても《捨て鉢》になるような真似をするわけにはいかなかった。
「約束……だしな。やっぱりここは《ウルバス》で休んでおくべきかな」
キリトには約束がある。決して破ってはいけない……否、忘れてはならない約束が。
それはアスナとの《自分の命を簡単に諦めない》というもの。外ならない彼女との約束を、例え彼女が見ていなくともキリトに破るつもりは無かった。
もし破ってしまったら、それは彼女を裏切った事になるも同然だからだ。ここが九割九分九厘《夢》だったとしても、《SAO》という世界観である限り彼女との約束を破るつもりはない。
それが意味の無い安っぽいプライド、見栄だと言われようと構わなかった。決して自意識が強いとは言えないキリトの、数少ない曲げることの出来ないものなのだから。
アスナとの約束には、《夢》かどうかなんて関係ない。現実であるか非現実であるかは問題ではないのだ。
つまり、既にキリトにとって今いる世界、起こっている現象は《自分の命を簡単に諦めない》という点で本物のSAOとなんら変わらない。
────そう、これは非現実であっても偽物ではない。
キリトが第二層の主街区《ウルバス》へと足を踏み入れると【INNER AREA】のシステムメッセージが目端にポップする。
《夢》と言えどこの再現率はなかなかどうしてたいしたものだ。そんな我ながら馬鹿みたいな事に感心しながらキリトは宿を見繕う為に視線を彷徨わせた。
ここの宿は第二層の中でも主街区というだけあって少なくはない。だが第一層のように良い場所を、と考えるならば候補は絞られてくる。
これは《夢》でありながら何故だか随分とリアルに再現されているので、情報やサービスが大幅に変わっていることはないだろうが、逆に言えば《夢なのだから》というご都合主義は期待できない。
そうなると思いつくめぼしいポイントは来るのが出遅れたキリトが入り込む余地は無いかもしれない。
そもそも、ベータテスト時代ならともかくデスゲーム化したSAOでの第二層攻略時は自身が《ビーター》を名乗った経緯から主街区にはあまり近づかなかった。
拠点もあえて人が多くなるここではなく人が少なさそうな《ウルバス》から南東に三キロほど離れた《マロメ》という小さな村に構えた。
しかし《マロメ》は物資を調達するには品揃えが悪く、その為渾身の変装をしてから物資調達の為にこの街を歩いたものだ。
だが今は幸か不幸か《ビーター》そのものが《無かったこと》にされている。それならばかつてよりもゆっくりじっくりこの街を歩けるかもしれない。
そう思うとゲーマーの性なのかキリトは少しだけワクワクしてきた。だが待てよ、とここで一度冷静になる。
だからと言って堂々とフロアボス攻略のLAボーナス品を装備して歩いては自己紹介するようなものだ。
ここは一つ、やはり何らかの変装はすべきではないだろうか。
「うーん……」
「何を道の真ん中で悩んでいるのよ」
「いや、街を歩くのに変装すべきかどうかって………………へっ?」
思わず声が裏返ってしまう。
慣れ親しんだ声故に一瞬流してしまったが今の声はまさか、と思いギギギと油の切れたブリキの玩具宜しく声の方へ振り返る。
そこにはやはりというか、記憶の片隅に眠っていたウールケープに身を包む《彼女》がいた。
「変装? 何の為に?」
「あ、いや、それはえっと……」
言葉に詰まる。どうにも昔からアスナには強く出られない。
もともと対人、それもとりわけ女性に耐性が無かったせいもあるが、この頃のアスナには何というか、逆らえぬ無言の威圧感のようなものを感じていた。
凛としたその声は、既にキリトをパブロフの犬のよろしく萎縮させる効果がある。
リアルでもアスナにジロッと睨まれるとキリトに反撃の術はそう残されていないのだから。
と言っても最近のアスナはこの頃のような《鋭さ》はナリを潜めて《ほわほわ》とした太陽のような暖かみで一杯なので、そんな目に合うことはキリトがよっぽど何か失態を犯さない限りは見ることはない。
だから、割と体感的には久しぶりの《副団長サマモード》とも呼べるこの隙の伺えないアスナにたじろぐキリトは緊急避難行動……話題を変えることによる回避を試みてみた。
「そういうアスナこそどうしてここへ?」
「私は武器の強化に」
「へぇ、武器の強、化……?」
アスナの言葉に既視感。これに似たやり取りは覚えがある。
確かに過去、ここで強化を試みる為にお互いが顔を突き合わせた事があった。
あの時何が起こったのかもよく覚えている。
途端、耳にはカン、カン、カンというリズミカルな音が響いて来た。
音源の方向……東広場へと視線を向けると、そこにはNPCではない鍛冶屋が一人《ベンダーズ・カーペット》という決してお安くないスミス御用達のアイテムを広げていた。
あの鍛冶師のことはよく覚えている。関わりこそそう多くは無かったが、忘れるはずもない。
アインクラッド初の《武具強化詐欺》。
やっている彼も決して望むところでは無かっただろうが、それは事実として確かにあったことだ。
そしてその犠牲者の一人にアスナはあやうくなりかけた。あの時、剣が失われたと思った時の彼女の憔悴振りは本当に見るに絶えないものだった。
《夢》と言えどもう一度彼女をあんな目に合わせるわけには行かない。
「えっと、その、強化素材はどれぐらいあるんだ?」
「そんなにはないわよ。今でどれだけの確率か聞こうと思っていたのもあるし」
「じゃ、じゃあもっと素材を溜めてからの方がいいんじゃないかな」
「どうしてよ」
「確率は高い方がいいだろ?」
「そうだけど、別に今のままでもそんなに変わらないなら良いんじゃないの? 今の+4まで結構難なく上がったわよ」
どうやらこのアスナはまだ強化について然程詳しくないらしい。
以前はアルゴからいろいろ情報を買い、調べていたようなのだが。
それはもう少し後のことだったのかもしれない。
「強化はそこまでは割と簡単なんだ。でもそこからは極端に確率が下がるから」
「下がったらやり直せばいいじゃない」
「ところが武器には《強化試行上限数》っていうのがあって強化できる回数は決まっているんだ。あんまりミスすると折角の業物……レア武器も宝の持ち腐れになっちゃうって寸法さ」
「でも一回や二回くらい……」
「そうやって失敗すると最後の方で結構困ることになる。だから今回はやめておいた方が……」
「なんだか随分私に強化をさせたくないみたいな言いぐさね」
「そ、そんなんじゃなくて……アスナの《ウインドフルーレ》ならちゃんと強化していけば三層中盤位までは十分に使える潜在能力を持っているから勿体ないと思ってだな」
「ふぅん」
ジロォ~~~と目を細めて見つめられる……否、睨まれる。思わず掻かない筈の汗が背中にだらだらと流れているような錯覚をキリトは覚えた。
随分と懐疑的な目を向けられ、気まずくなる。思った以上に反発、というか我の強さを押し出している。
アスナってこんなにツンツンしていたっけ? と不思議に思う程だ。
だがよくよく思い返してみれば最近……それこそシステム上の結婚をしてからは《ほわほわ》とした彼女がデフォルト化していたが最初のうちはこんなものだったのかもしれない。
そもそもアスナと今のように距離がいろんな意味で近づいたのもクリア目前頃からだったと言える。
彼女曰く、実際にはそれまでの間に何度か必死の──実際には決死の──ちょっかいを出していたそうなのだが、キリトがそうだと気付けたものは少ない。
よって、キリトにとって初期の頃のアスナは《美しい》と思えるほどの美貌の持ち主ではあるが、少しばかり付き合い方に癖のある相手でもあった。
この彼女があの《ほわほわ》した女性になるとこの時想像できただろうか。
そう考えると、アスナも少しは変わったのだろうな、と思い……ズキッと鈍い痛みを頭の隅に感じた。
なんだか今、気付かなければいけない何かに触れたような、そんな気がする。
しかし残念ながらいつまでも思考に耽っているわけにはいかない。何故なら細剣使い(フェンサー)様がこちらを冷やかにお見つめになっておられるからである。
キリトの性格上、女性の視線への耐性はほとんどない。心の防壁熟練度は良い所初期よりマシ程度だろう。
見つめられれば見つめられるほど心の余裕、逃げ場がなくなっていく。
どうにか、どうにか会話をしなければいけない。だが何を話せばいい?
失敗すると──詐欺に会うとわかっている強化をさせるわけにはいかない。かといってまだ全容を説明するのも難しい。
全容を説明してしまえば何故知っているのかということになるし、それを知ったアスナの行動もなかなかに予想しにくい。
鍛冶師の彼を全面擁護するわけではないが《夢》と言えど彼にもまた救いはあっても良いと思うのだ。
なので、どうにかアスナの意識を強化から逸らしつつこの場を収める方法、会話を考えなければならない。
それはキリトにとって超高難度クエストに匹敵するほどの難易度だと言っても過言ではない。しかもクリア報酬はプライスレスと来ている。
ここで割に合わない、などと思えるなら対人スキルが激低なままでなどいない。
アスナのアブソリュートゼロもかくや、というほどの視線に耐えつつ目まぐるしく思考をスパークさせる。
かつてあのヒースクリフと戦った時でも、ある意味ここまでスパークしなかったかもしれない。
(考えろ、考えるんだオレ! うおおおおおおっ!)
情けない理由だ、などとは思わないで頂きたい。それだけキリトは本気だった。
この場を切り抜ける為に思考速度をどんどん加速させていく。速く、もっと速く。もっともっと速く!
焼き切れてしまうならいっそのこと切れてしまえと半ばやけっぱちになりつつもふと目端に捉えた路地が「これだ!」とキリトに天啓を与えた。
「その、良ければすっごく美味しいケーキの店があるんだけど」
「…………ケーキ?」
「めちゃくちゃ高いんだけど、俺の知る限りではこれより美味いものはそうない! ってくらいにウマイ。一層で食べた例のクリーム乗せ黒パンが色褪せるくらいに」
「……」
アスナの人を射抜けるんじゃないかと思えるほどの視線が徐々に弱まっていく。
一瞬クリームの事が無かったことになっていたらどうしよう、とよぎったが、幸いその心配はなさそうだ。
キリトは作戦の成功を胸の中で撫で下ろし、グッと心の中で拳を握った。
「も、もちろんご馳走させていただきますけど……はい」
「…………」
黙るアスナにドキドキと仮初らしい心臓が煩いくらいに自己主張する。
労働基準法を一から説きたくなるほどオーバーワークしている心臓に心の中で鎮まれ! と念じつつアスナの様子を窺う。
黙ったアスナはぴくりとも動かない。表情は変わらないが、何やらものすごく煩悶遊ばされているご様子に見えた。
そういえば最初の頃は「美味しいものを食べるためにここにいるわけじゃない」とも言っていた気がする。
しまった、選択ミスか!? と不安が募るが時すでに遅し。待つは天命のみ。
と、ようやく自分を再起動させたらしいアスナがプイッと視線を逸らして背を向けた。
「それって、遠いの?」
「いや、それほどでは。ただ結構な穴場スポットだから知らないと見つけにくい」
「……そう。そこまで言うなら────ご馳走になろうかしら」
アスナは片足のロングブーツ──正式名称《ブーツ・オブ・ホーネット》を持ち上げ、つま先をトントンと地面の敷石につつく。
背を向けたまま両手を後ろ手で繋ぎ、モジモジと肩を小刻みに左右に動かし、ロングブラウンの髪が綺麗に揺れる。
が、彼女は急にくるりと振り返ってビシィ! と人差し指を突きつけ口を開いた。
「言っておきますけど、ケーキに釣られたわけじゃありませんからね!」
東西のメインストリートから細い道を北に折れ、さらに右、左と曲がったところに目当てのレストランは存在する。
麗しの細剣使い(フェンサー)様ことアスナは、特産である巨大牛のミルクから作ったクリームを「これでもか!」と言う程たっぷりと使った《トレンブル・ショートケーキ》を大層気に入られた。
まぁ、実際かつてのアスナが舌鼓を打っていたのでそれは間違いあるまいと踏んでのことだったのだが……問題はやはりそのお値段である。
高い。とにかくお高い。「冗談だろ?」と叫びたくなるほど高い。《夢》ならばせめて財布ストレージの中身を潤わせておいてくれてもいいじゃないかと心の中で神の采配を呪う。
どこかから聞き覚えのある「ごめんなさい」という可愛らしい声が聞こえた気がしたが、多分気のせいだろう。
そもそも《夢》の中でまでゲーム内通貨にMOTTAINAI精神を持ち出してしまうあたりキリトもすっぽりとフルダイブ型ゲーム、それもとりわけSAOに浸かりきっている。
「それで?」
「え?」
「なんで私をここに連れてきたのかってことよ」
満足したらしいアスナは先ほどまでの険が削げ落ち、少しばかりキリトの知る《ほわほわ》アスナに近いオーラを醸してした。
おかげで幾分キリトも緊張が解ける。
「と、言いますと?」
「惚けないで。話の途中だったでしょ」
先のようなキツい口調や眼差しではないが、やはりというかただ誤魔化されてはくれないようだった。
やむなくキリトは今話せるところだけに気を遣いながら話すことにする。
「実はまだプレイヤー鍛冶師はほとんどいないからその腕所の心配もあるけど、中にはあまり良くないことをする鍛冶師もいるらしいんだ」
「よくない、って?」
「え、えっと足元をみたりだとか」
「ふぅん」
間違ってはいない。が、全てを話してもいない。
なんとなく悪い気もするものの、今はしょうがないと割り切ることにする。
幸いアスナはそれ以上突っ込まずに《トレンブル・ショートケーキ》の攻略を再開しだした。
尚、キリトは今回ジェントルネスを大いに発揮し、泣く泣くブラックコーヒーのみの注文だったりする。
その際、少しばかりのあてつけを込めた「いくら食べてもここじゃ太らないから気にせず食べなよ」という言葉が喉まで出かかったものの、実際に言語化はしなかったのは妹の教育による賜物だったりする。
食事を終えると──と言ってもキリトはオリジナルブレンドのブラックコーヒーのみだったが──アスナとは別れた。
今の二人は共に行動する理由が無い。それはとても寂しいことだが仕方のないことでもある。
だがやはり自分はアスナがいないとダメらしい、と感じる。ほんの僅かな時間だが、一緒にアスナがいてくれたおかげで大分心は安らかだった。
こうして別行動を取ると、どことなく胸にポッカリと穴が開いたような感覚に陥ってしまう。
はぁ、とため息を吐き、とりあえず今日の宿を探すことにした。そもそも休むためにこのウルバスまで来たのだから。
適当な宿屋にしよう、と【INN】の看板が付いた店を探し歩き、記憶通りの場所にそれを見つける。
寂しくなった財布ストレージからやむなく宿代を支払うと部屋へと赴き、硬いベッドにバタリと横になる。
疲労感はそれなりにある。だがやはりというか一向に眠気は襲ってこない。これはいよいよ妙だ、とそう思っていた時だった。
目の前に《インスタントメッセージ》が到着した旨のシステムメッセージがポップする。
キリトはよく考えずにそれを開き……飛び起きた。
「なっ!?」
差出人はアスナ。
メッセージの内容は、
【私の剣無くなっちゃった、ごめんなさい】
キリトは慌てて宿を後にする。
脳裏にはあの時のアスナの酷く傷ついた顔が思い出された。
何故一人にしてしまったんだ! という深い後悔の念に苛まれるが今はそれよりも。
街中を本気の速度で駆け抜ける。まだ遠くに行っていないといいのだが。
走りながら考える。何故アスナは剣を失った……強化をしに行ってしまったのか。
恐らくは納得したようでその実していなかったのだろう。説明の仕方が悪かったと言わざるを得ない。
多分アスナは「その程度なら」という軽い気持ちだったのだ。よもや「消失」などという事態が起きるなど予想もしていなかったに違いない。
だからこそ当時は一時あれほど落ち込んだ。くそっ、と内心で悪態を吐きつつキリトは東広場に急ぐ。
しかしそこにアスナの姿は見当たらない。キリトは舌打ちする。一体アスナは何処にいる?
こちらからメッセージを飛ばそうか迷うが、やめた。あの時のアスナを知っている人間なら彼女にそんなものを読んだり見たりする余裕が無いことくらいわかる。
むしろ、メッセージを送ってきたことが僥倖と言えるほどだ。
だから今やるべきことは考えること。アスナの行きそうな場所を。
考えろ、考えろ、考えろ。一日でこうも頭を悩まされるのは久しぶりだがそんな悠長なことを言ってはいられない。
《アレ》には時間制限がある。《条件》もある。既に記憶と違う展開になっている以上、あの時と同じようにいくとは限らない。
そこで思い出す。あの時は宿屋までおしかけたのだった。あの時の宿屋確か……あっちだ!
キリトは記憶の隅に埋もれていた位置情報を無理やり引っ張りだして一心不乱に駆け抜ける。
今この瞬間もアスナがあの時のような顔をしているのかと思うと胸が張り裂けそうだった。
記憶の中の宿屋に辿り着き、駆け足で部屋の前へ。207と書かれたプレートのある部屋を強めにドンドンとノックする。
「アスナ! 俺だ! 居たらここを開けてくれ!」
ノック後に、中から人の気配が動くのがわかった。SAOでは施錠されたドアにノックすることで数十秒音が聞こえるようになる仕様がある。
中の気配は徐々にこちらに近寄ってきている気はするが、どうにもその速度が遅く感じられる。
実際には数秒のことなのだろうが、体感時間と言うものは一定ではない。その時々によって時間は短くも長くも感じられるものだ。
「……どうして」
キィ、というやや軋むような音を立てて開いたドアの向こうにいるアスナはやはり憔悴していた。
もしかしたら泣いていたのかもしれない。益々キリトの中の感情が沸騰していく。
何故、何故、何故とあの時を後悔する感情が湧きだすが、今はそれよりもやることがある。
「アスナ! 武器は消えたんだな!? 強化を依頼して壊れたんだな!?」
「え……」
彼女の顔が青ざめる。SAOはもともと感情フェイスエフェクトが過剰なこともあって、それは一層の悲壮感を醸し出していた。
そんな顔をさせてしまったことにキリトは心を痛めるが今はそんなやり取りをしている暇はない。
「それから武器は何も装備してないか!?」
「へ……えっと、うん」
「よし! それじゃメニュー出して! 早く!」
アスナは何がなんだかわからない、という顔をしつつも流されるようにメニューをポップさせ、指示された通りに操作していく。
ストレージタブに移動させ、セッティングボタン、サーチボタン、マニュピレート・ストレージと順に操作。
さらに三つか四つボタン操作を続け、ようやく《所有アイテム完全オブジェクト化(コンプリートリィ・オール・アイテム・オブジェクタイズ)》のコマンドを発見する。
アスナが首を傾げているがキリトは「それだ!」と強く勧め、最後の確認の イエス/ノー ボタンに「イエ───ス!」とテンションたっぷりに告げた。
ぽちっ。
アスナの品の良い細く綺麗な指がボタンを押した途端、ストレージ内のアイテム名が一瞬にして全て消え失せる。
アスナは恐る恐るキリトに尋ねた。
「ちょっと、オールって、どこまでなの?」
「コンプリートリィに全部、あらゆる、あまねく、なにもかも」
その時だった。
金属音やら布の擦れる音やら様々なサウンドを伴って大量のアイテムが部屋中にオブジェクト化されたのは。
武器、防具、ポーション、食糧、衣服、下着。
下着?
「あ」
「……ね、ねえ……きみ……もしかして死にたいの……? 殺されたいヒトなの……?」
アスナの震えるような声。怒りを孕んでいることは疑いようがない。
目前には下着の山、山、山。白、ピンク、薄いブルー。
あ、あああああ!?
し、しまったああああ!?