フィールドボスとはいわゆる名前付き(ネームド)Mobのことで、迷宮区への関門的役割を担っている。
生息域は必ず絶壁や急流、その他の通行不能エリアに挟まれ、敵を倒さなければ塔……迷宮区にはいけない。
これは全ての層に共通している事象で当然上層に行けば行くほどのその難易度も上がっていく。
そういえば手強いフィールドボスがいる層で、指揮を任されたアスナとボス戦について衝突したこともあったな、とキリトは思い出す。
あの時のことを思えば、彼女は随分と穏やかになったものだ。
「あれがフィールドボス?」
隣から針のように鋭く、それでいて透き通った声がかけられる。
キリトは埋没しかけた思考を放棄して、やや遠目にあるレイドを組んだパーティ達を見やった。
青い髪のプレイヤー……ディアベル率いる彼らは丸く盛り上がった額にド迫力の重突進攻撃を繰り出す巨大牛、《ブルバス・バウ》と相対していた。
角が四本あり、体高はおよそ四メートル、黒茶色の毛皮をした文字通りの化け物牛だ。
キリトは声の主、現時点のパートナーであるアスナへ小さく「ああ」と答え、身を屈めつつ戦況を見守る。
昨日の段階でフィールドボス戦に付き合わない事を決めていた二人は、しかし予定通り見物には来ていた。
「強いの?」
「それなりではあるけど、今の彼らならレベル的にも安全圏だろうし、ディアベルの指揮に従わないよっぽど自己中心的なヤツがいないかぎりは大丈夫さ」
キリトは彼らの戦いぶりを見守りつつアスナに言ったことを自分にも言い聞かせる。
彼らなら……ディアベルが率いているなら大丈夫だ。
記憶の中にあるこのフィールドボス戦は、ディアベルを亡くし二分されたパーティが取り合うように戦っていた為危なっかしくて見ていられ無かったが、それでも誰一人欠けることなくクリアした。
レベルマージン的に言っても今のディアベルパーティなら問題ないだろう。
この低層攻略においてディアベルのカリスマ力ある指揮ではみ出し者が出るとは思えないし、キリトの当時の考えが正しければ《ベータテスター》としての知識もあるはずだ。
「ディアベルさんの指揮、ね。キリト君は随分とディアベルさんを買っているのね」
「えっ」
アスナはまるでディアベルに何か含む物があるようなことを口にした。
かつて彼の事を彼女と話したことがあるが、その時は彼女も彼について中々好意的に受け止めていたように記憶しているのだが。
それとも無意識に自分自身がディアベルに何らかの暗い感情を抱いていて、《夢》の中のアスナにそれを言わせているのだろうか。
そんな自覚はこれまで全然無かっただけに意外だと思わざるを得ない。
「私、あまりあの人のこと……信じられない」
何故、とは彼女の纏う空気から聞けなかった。
小さく呟くアスナは、ちら、と一瞬だけキリトを見つめ、すぐに視線を戦闘中の彼らに戻す。
一瞬合ったその瞳には不思議な色が浮かんでいたように思えた。
一体彼女は何を思い、何を伝えたかったのか。キリトにはわからなかった。
ただ、彼女のディアベル達……否、ディアベルを見る目は険しかった。何となく理由を聞くのは気まずい。
そもそも、これが《夢》ならば彼女の持つ感情は自分の持つ感情の可能性さえある。
なのでキリトもそれ以上は追求せず、アスナのように《ブルバス・バウ》が倒されるのを見守る事にした。
最後はディアベルの号令でフルアタック。危なげなく見事フィールドボスの討伐に成功する。
それを見届けたキリトはホッと胸を撫で下ろした。こうなることを予想していたとは言え、仮にもボス相手の攻略戦。
万一が無いとは言い切れない。MMOに限らずRPG系のゲームというのはどれだけ相手が格下であっても予期せぬクリティカルの連続などによるピンチに陥ることはちょくちょく起きてしまうものなのだ。
遠目で見るディアベル達の顔は終始笑顔で、実に楽しそうだった。それを見ていると、SAOの攻略戦でああも和気藹々とした攻略戦がこれまで一体何度あったかとつい数えてしまう。
キリトの知る限り、その数は……多くない。それはデスゲームなことを考えれば当然なのだが、彼……ディアベルが生きていたらもう少し多かったのかもしれないと思える。
そして、それが本来あるべきMMORPGの姿だったはずなのだ。今思えば、SAO攻略は《ユーザー》としての在り方は失われていたのかもしれない。
「みんな、一度戻るみたいね」
「念のために補給に行くんじゃないかな。俺たちは……」
「先に行かせてもらいましょう」
ディアベル達が戻るのを確認してから、つい先程まで関門の役割をこなしていたフィールドボスの居座っていた一本道を通り抜ける。
この先は二層最後の村、《タラン》がある。《ウルバス》に比べるとそこまで大きくなく、一通り村のクエストをこなしても昼過ぎには迷宮へと挑めるだろう。
それを聞いたアスナは頷き、ひとまず村をチェックしてクエストをこなしてから迷宮へと向かう事に決まった。
「アスナ、速く速く!」
「わかってるわよ!」
タランで受けられるクエストの数はさほど多くない。うま味の薄い……必要の無いクエストを出来るだけバッサリ削るとその数はさらに少なくなる。
その少ないクエストの中で、二人は報酬のレア度としては比較的重要度の低いクエストに何故か挑戦していた。
いや、もっと言えば本来このクエストは《バッサリ削る》カテゴリに分類されてもおかしくないクエストだ。
「次その三軒向こうな!」
「了解!」
キリトの指示にアスナは声を張り上げて三軒離れたNPC民家へと駆ける。
キキィ! という音が鳴るんじゃないかと思うほどの急制動をかけて止まり、開きっぱなしにしていたシステムメニューのアイテムストレージ欄にある選択中のアイテムをタップ。
すぐに手の中には光の粒子が収束し、アイテムが形成される。何も珍しいものなどない、ただのアイテムオブジェクト化である。
オブジェクト化された物もまた珍しくはない……ミルク瓶。アスナはミルク瓶を郵便受けに入れると「次!」と声を上げてまた走り出した。
キリトはその姿を視界の隅に納めつつ自身も郵便受けにミルク瓶を入れて次のお宅へ走り出す。
これはスピード勝負なのだ。速くしないとミルクの鮮度が落ちて《凄く不味い別の何か》になってしまう。
今やっているこのクエストは、制限時間以内に所定のお宅へ《美味しいミルク》を配達すること、という内容なのでトロトロとはしていられない。
さらに言えば、《凄く不味い別の何か》は捨てる事が出来ない呪われたアイテムばりの面倒さがあって、ストレージから消す為には全て飲み干すしかなくなるという悪魔のような仕様なのだ。
別に飲まなくても害は無いのだが、アイテムストレージをいつまでも圧迫してしまうのでそれは極力避けたいところである。
そんなリスクを犯してまでこのクエストに挑戦しているのは無論クエスト報酬(リワード)の為だ。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
「仮想世界環境って、疲れない……筈よね……っ」
お互いに息をゼィゼィと切らし、膝に手を置いて上半身をくの字に曲げる。
仮想世界環境には現実で言う疲労感や痛覚はほとんど存在しない。ゼロではないが、それは極端に薄められた《今はそういう状態だよ》という認識を与えてくれる程度のものだ。
よって実際には仮想世界……このSAOにおいて痛みでのたうち回ることや激しい運動による呼吸不全などは起こりえない仕様となっている。
それでもこの二人に限らず、攻撃を受けた時や何かにぶつかった時、激しい運動をした後などは「痛い」と言ったり疲労を表す行動を取るプレイヤーは多い。
それはシステムのミスや不具合ではなく、人が持つ本能の一つだと言える。これほどの衝撃を受ければ「痛い」「疲れる」「息が切れる」と言った《記憶》が彼らにそうさせているのだ。
《夢》だとしても、そこに変わりはない。
《仮初めの疲労》にふぅ、とキリトは一息つけて上半身を起こした。
それに釣られるようにアスナも佇まいを直す。一瞬だけ髪を触り、安堵したように離した。
彼女にとって、運動後に汗をかかないのは仮想世界に囚われている中で数少ない良い所と言える部分だ。
「これ、ソロではかなりキツイんだよな」
「っていうかクリア出来るの?」
「ソロだと今のより少しだけ軒数が減るからギリギリなんとかなる……こともある」
「ちなみに挑戦したことあるの?」
「……あんな不味い物はもう二度と飲みたくない」
「……ご愁傷様」
キリトの言葉で全てを察したアスナはそれ以上聞かなかった。
ちなみにこのクエスト、数に物を言わせて挑戦すれば実は凄く楽だったりする。
実はクエスト参加人数制限は無く、村の民家の数も限られており、重複しない為、一定以上の人数が集まればさほど苦労はしないのだ。
さりとて今の二人にメンバーを集める伝手はなく、結局二人でハードコースを敢行する羽目と相成ったのである。
もっとも少人数でやるうま味が無いわけでもない。このクエストは参加人数が青天井な代わりに報酬の数は一定だ。
分配したらほとんど手元に残らない……下手すると全員分に行き渡らない可能性もある。
ではその報酬とは何なのか。
「まあ今回は無事一発クリア出来たからいいさ。早速使うか? この《ベルベルクリーム》」
「その前にちゃんと分けましょ」
アスナに言われ、キリトは今回のクエスト報酬である《ベルベルクリーム》をアスナと半分に分ける。
アイテムストレージから《ベルベルクリーム》を選択し、容量設定を五十パーセントに設定、アスナへと送る。
アスナの目の前にはアイテム受信のメッセージがポップし、それを確認して頷いた。
「これが……二層特産のクリーム」
「そう。一層で俺が食べていたクリームの上位互換版さ。一層のは時間がかかるけど根気があればたいてい取れる。でも二層のは制限時間があるからちょっと苦労するんだ。けどその分美味い」
そう、彼らが受けたクエストは言ってしまえば一層にあった《逆襲の雌牛》の上位互換とも呼べるクエスト。
ただクエスト内容はミルク瓶配達で、報酬は一層のものより質の良いクリームという、攻略における重要度からはほど遠いクエストだ。
しかしこのクエスト、冷却(クーリング)タイムが長く一度誰かが受けると──クエストを成功させると──次の組みが受けられるようになるまで半日かかる仕様になっており、ある意味でプレイヤー泣かせとも言える。
キリトがこの村で受けられるクエストを覚えている限り話していた時、意外にもアスナが食いついたのはこのクエストだった。
キリトにとってもここのクリームは大好きなオヤツの一つだ。クエストに挑戦するのに吝かではなかった。
アスナがジッと自分のクリーム──が入った壺オブジェクトを眺めている間に、キリトは自分のクリームとパンをオブジェクト化して躊躇いなく頬張る。
「ん、美味い!」
「……」
「?……どうしたんだ」
「……それ、使わせてもらってもいい?」
「それ……って、これ?」
キリトが自分の分のクリーム壺を指差すと、コクリとアスナは頷いた。
つまり、彼女は自分のクリームが勿体なくて使えないのだろう。その気持ちはなんとなくわかる。
ここで「ずるい」と思うほどキリトも狭量ではない。むしろ、現実ではよく一緒に食事してアスナの食べ残しを処理することもあるくらいなのだ。
そんな時は決まって《アスナに食べさせられる》のがお約束になっているが……閑話休題。
そんなわけでキリトに思うところはなく、快くアスナへクリームの使用を許可する。
「良いよ」
「……ありがとう」
アスナはお礼を述べると控えめにクリームをパンに乗せ、「はむっ」と淑やかさを垣間見せながら口に含む。
もぐもぐとパンを咀嚼し、ごくんと飲み込んだところで……ほうっとした蕩けるような顔をした。
「美味しい……」
「口にあって何より」
キリトは微笑みながら自分のパンをムシャムシャと勢いで食べ尽くす。
休憩は終わりだ。このクエストの他にもいくつかめぼしいクエストには手を出した。
そろそろ迷宮区へ向かう頃合いだろう。アスナの可愛い喜ぶ顔も見られたし、これ以上のんびりしている理由もない。
「アスナ」
「了解」
名前を呼んだだけで全てを察したらしい細剣使い(フェンサー)様は、蕩けた顔から一瞬でキリッと表情を引き締めた。
ある意味で、最近は見なくなった顔だ。でも、この顔を見ないのはとても良い事だと思える。
この顔は恐怖と表裏一体なのだから。キリトは思う。
(俺はやっぱり、笑いながらほわほわしてるアスナが好きかな……)
平和ボケと呼ばれようと構わない。
優しい世界で、一緒にいたい。
二層迷宮区に出てくる牛頭人身のMob、《レッサートーラス・ストライカー》はこの層のフロアボスが使ってくる攻撃と同種の物を使用してくる。
《ナミング・インパクト》と呼ばれるその技は数秒動けなくなるバッドステータス《行動不能(スタン)》を発生させるので中々に厄介だ。
しかも《スタン》を連続でくらうと《麻痺(バラライズ)》状態にされてしまう。こうなってはほとんど打つ手が無い。
ここよりも上層で手に入る高価な浄化クリスタルアイテムなら瞬時の回復も可能だが、この層ではまだ手に入らないだろう。
SAOの治療ポーションアイテムはHPも含めて瞬時に回復する類ものではなく、徐々に効果が現れていく仕様になっている。
だからこそフロアボス戦では《POT枠》として戦線を離脱し回復に徹する事の出来るよう計らう必要がある。
上層ではヒールクリスタルなど瞬時にHPが全快するものもあるが高価な為、結局この体制はキリトの知る限り最後まで続けられていた。
つまり、この層に限ったことではないが普段はもちろんのことフロアボス戦などでは特に《麻痺(バラライズ)》には注意しなければならない。
この層のフロアボスが実際に使うのは《ナミング・インパクト》の上位版だが、規模が違うだけで基本は同じなのでここでしっかり身体に覚えこませておくことが重要……なのだが。
「い、いや、こないで……こないでって……言ってるでしょっ!」
鋭いリニアーの突きが一閃され、Mobトーラスが倒される。
つい今し方まで映画の中で襲われるヒロインよろしく涙目になっていたアスナは消えていく姿すら目視したくないのか、相手のHPゲージが吹き飛んだと知るや否や発光するモンスターからプイッと視線を逸らした。
すぐにSAO特有のガラス爆散エフェクトによってトーラスは姿を消滅させるが、アスナの気持ちは晴れない。
「こんなの……牛じゃないでしょ!」
恥ずかしそうに叫ぶ彼女にキリトは苦笑する。
そういえば彼女はこういった露出の激しい人型Mobを嫌っていたな、と思い出す。
《見えちゃいそう》で嫌、とかなんとか。言われてみると人型Mobは露出が激しかったり、着ている物がボロくて心もとないヤツは多い。
《レッサートーラス・ストライカー》もその類に漏れないMobだろう。
アスナの悲壮なる絶叫が耳奥に何度も木霊しながら、キリトはアスナとトーラス狩りを続けた。
迷宮に潜っておよそ二時間。アスナもようやくMobトーラスの外見に慣れ、《スタン》への対処にも自信を深めたところで二人はタランへと戻ってきた。
もともと、今回はアスナに《スタン》攻撃である《ナミング・インパクト》に慣れてもらう為に迷宮へ向かった公算が大きい。
と言っても、見つけた──正確には覚えている限りの──宝箱の中身はしっかりと頂いたが。
中にあるブツのランクや内容がわかっていても、それを手に入れる時は心躍る物だ。迷宮区で見つけた宝やモンスタードロップはフィールドのそれよりも良質な場合が多いので尚更である。
頭の中でちーん! じゃらじゃらと清算してみると、儲けはなかなかのものだ。これなら自分用に《トレンブル・ショートケーキ》を買っていいかもしれないと心が揺れそうになる。
その時だった。
「どう責任取るつもりや!」
広場の方で聞き覚えのある関西弁が怒声を張り上げていた。
声の発生源に目を向けてみると、何やら揉めているのがわかる。声の主は想像の通り、ツンツンとしたトンガリ頭が特徴の関西弁プレイヤー、キバオウだ。
圏内故にシステムによってプレイヤー間のHPは護られているが、そのシステムに抵触しそうなほどキバオウは誰かに掴みかかっている。
掴みかかられているのは……一人の小柄な鍛冶師のようだ。
(……ネズハ!)
記憶の片隅にあるあの鍛冶師は、先日アスナのウインドフルーレを強化詐欺によって盗んだプレイヤーだ。
名をネズハ。実際には《Nezha》と書いて《ナタク》と読む。《封神演義》に登場する人物の名前だ。
予想はしてしかるべきだったのかもしれない。あの時もこうして彼はタランで商いを続けていたのだから。
彼の事を知るキリトとしてはやはり同情的になってしまう部分もある。だがキバオウの怒りはある意味でもっともで、ここでネズハを庇うようにしゃしゃり出るのは難しい。
かと言ってこのまま放っておくのも後味が悪い。頼みの綱はディアベルだが、
「ディアベルはんはワイ等の……SAOプレイヤーみんなの英雄やぞ! 誰の為に危ない橋渡って迷宮に行っとると思っとるんや! そのディアベルはんの武器を消滅させるっちゅうのはどういう了見や!」
それは期待できそうにない。
どうやら詐欺に合ったのは──彼らはまだそうだと気付いていないようだが──青い髪の騎士、ディアベル自身のようだ。
流石の彼も呆然とし、顔色が悪い。SAOはフェイスエフェクトが過大すぎるきらいがあるため、より一層顔色を酷くさせている。
彼の頭の中にあるのは剣を失った怒りか悲しみか、はたまた今後も続くであろう攻略という名の地獄で早々の足踏みに対する恐怖か。
それとも攻略最前線に立つ者としての責任感からくる重圧か。
キリトにはディアベルの心まではわからないが、今のディアベルにキバオウを諫めるだけの心的余裕は無いと見受けられた。
(……どうする?)
詐欺を暴露するのは簡単だ。しかしその後ネズハがどうなるのかを考えれば躊躇いが生まれてしまう。
ディアベルは依然として黙ったままだ。未だ自分に降りかかった事態を飲み込めていないのかもしれない。
この時期にメイン武器を失ったのだと思えば無理は無いのかも知れない。ましてや彼はみんなを引っぱっていく立場にいるのだから。
(待てよ? メイン武器……か)
一瞬思いついたアイディア。ポク、ポク、ポクと連鎖的にアイディアが閃いていく。
ちらり、と背中にある片手直剣の重さを思い出した。かつてこの武器で二層を乗り切った実績があるからこそ言える。
二層ボス戦でも、この武器なら申し分は無いだろう、と。
この《アニールブレード》を《材料》にすれば《交渉》の席を設けられるかもしれない。
記憶の奥底に眠っているこの武器……正確には《キリトのメインウェポン》を巡るイザコザ。
ディアベルが謀ったと思われるキバオウからのメイン武器買収計画を思えば、悪くない話のはず。
(問題はいくつかあるけど……)
キリトがそっとアスナに視線を向けると、やはりというか彼女の目つきは鋭く尖っていた。
彼女もまたネズハによる強化詐欺の被害者なのだ。《詐欺》とわかっている分彼女の中の鬱憤はそれなりだろう。
当時は一緒に解決しようとしていく中で、彼女も事実に触れ、ネズハに多少同情的な立ち位置になってくれていたが、今回は違う。
通らなければいけない関門は多いが、やるしかない。キリトはざっと頭の中で計画を整理するとアスナに小さく告げた。
「……不満かもしれないけど、しばらく俺のすることを黙って見ていてくれないか」
「……うん」
アスナは少しだけ不満そうに、しかし小さく頷いてくれた。
キリトが何かをしようと思っている事がわかったのだろう。
詐欺から助けられた経緯がある分、そこは任せてみようという気になったのかもしれない。
キリトはアスナの返事を聞いてから未だ喧騒鳴りやまぬディアベル達の元へと足を向けた。
「……なあ、ちょっといいか」
「!」
ディアベルがキリトの声に反応し、顔を上げる。
その顔は何の表情も映していなかった。どうしていいのかわからない、そんなところだろう。
彼のこんな顔を見ることがあるなど、想像もしていなかったキリトは最初からくじけそうになる。
元来、人付き合いは苦手なのだ。だがここで尻込みするわけにもいかない。グッと拳を握りしめて勇気を奮い立たせる。
「武器が消滅したのか?」
「……」
ディアベルは答えない。また顔を俯けてしまった。
その行動が全てを物語っている。そこでキリトが近づいて来たことに気付いたらしいキバオウが矛先をネズハからキリトに切り替えた。
キバオウはギラリと敵意の篭もった目でキリトを睨み付ける。
「何しにきたんや!」
「少し話がある」
「お前は信用できへん!」
「場合によっては俺の《この剣》を譲ってもいい」
「!」
キリトが背負う自分の剣を親指で指し、ディアベルが再びハッと顔を上げた。
その目には期待半分、疑い半分と言ったような色が見受けられる。
離れた場所で見ているアスナも目を丸くしているのがわかった。
「……どういうつもりや」
「言葉通りの意味だ」
「ふざけるのも大概にせえや! ジブン、何考えとんのや!」
「待ってキバオウさん」
「ディアベルはん!?」
ディアベルが制止の声を上げる。
この日初めてディアベルの声を聞いた気がした。
「条件は何かな?」
「……話を聞いて欲しい。少し付き合ってくれないか」
「わかった、行くよ」
「アカン! アカンでディアベルはん! こないなヤツの言うこと聞いたら……! だってコイツは……!」
「大丈夫さ」
ディアベルは精一杯の笑みを浮かべてキバオウを宥める。
それでもキバオウは「それなら自分も同席する」と言い出した。
どれだけ信用が無いんだ、とキリトは少し呆れつつも「それは認められない」と答えた。
《あの話》をした時、キバオウがいればまともな交渉にならない恐れがあるからだ。
しかしそれを聞いたキバオウは「それみたことか!」と散々声を大にして張り上げた。
「聞いたやろディアベルはん! こんな胡散臭い話に取り合う必要あらへん!」
「落ち着いてキバオウさん。キリトさん、圏内からは出ないんだろう?」
「ああ、もちろんだ。約束する」
尚もキバオウは認めなかったが、ディアベルは既に決意を固めたらしい事を理解するとやむなく折れた。
それでも彼は「せめていつでも踏み込める場所にはいさせてもらうで」と目を光らせていた。
キリトは溜息を吐きながら近場の宿屋に部屋を取った。別に自分達が間借りしている宿屋でも良かったのだが、場所を知られて嫌がらせの類を受けるのも面白くない話だ。
実際に彼らがそんなことまでするかはわからないが、こちらとしても安全を期しておくに越したことはない。
ビーター時代からその辺は徹底していた。ただの臆病と言われればそれまでで、事実アスナには「気にし過ぎだよ」と笑われたものだ。
ちなみにそのせいで「キリト君が神出鬼没過ぎて中々場所を特定できないよー」と当時のアスナが嘆いていたことをキリトは知らない。
もっともそれもフレンド登録をするまでの話だったが。
キリトは念のために扉のノブを施錠すると部屋にいる二人に向き直った………………二人?
部屋には真剣な顔をしているディアベルと……アスナがいた。
「……いつの間に」
「貴方何も言わなかったでしょ、私が入った時」
そうだったかもしれない。
彼女が傍にいることはキリトにとってあまりに慣れ過ぎた日常で、その異常さに気が付かなかった。
「えっと、よくわからないけど君たちはコンビなんじゃないのか? てっきりそうだと思っていたんだけど」
「……まあ暫定というか、仮というか」
キリトは言葉を濁すようにして答える。
実際キリトにも今の関係をなんと表現していいのかわからないのだ。
ただ当時から決まってこういうことを言うと、
「……フン」
彼女は何故か大変ご立腹になる。
かといってここで「はいそうです」と答えると「私たちはそんな関係じゃないでしょ」と斬られるのだ。
乙女心というものは本当にわからない。クエストの謎解きの方がまだわかりやすいというものだ。
「ま、まぁいいや。とりあえず話を始めよう」
「そうしてくれると助かるかな」
ディアベルも二人の微妙な関係を察して苦笑し、それ以上の追及を止めた。
今すべきことはキリトとアスナの関係を正確に把握し表現することではなく、ディアベルの《消滅したと思っている剣》についてだ。
「キリトさんは僕にそのアニールブレードを売ってくれる、っていうことでいいのかな」
「いいや、期待させて悪いけどそういう事じゃないんだ」
「えっ」
ディアベルは一瞬呆けた顔をした後、一段階警戒レベルを引き上げた顔つきになる。
すぐにキリトは弁解した。
「騙すとか、そういうつもりじゃない。ようはアンタの剣が戻ればいいんだよな?」
「俺の剣は……強化に失敗して消滅してしまったんだ。もう戻らない」
「それが戻るとしたら?」
「そんなことが?」
「正確に言うとアンタの剣はまだ消滅していない」
「でも、確かに剣が消えるのを見たんだ」
「情報屋に確認をとってもらってもいい。SAOでは強化失敗による武器の消失は絶対に起きない」
「なっ!? でもそれじゃさっきのは一体……」
「先に結論からやってしまおう。《所有アイテム完全オブジェクト化》ってコマンド、わかるか?」
「……!」
ディアベルはそれだけですぐに意味を理解したようだった。
やはり彼は元ベータテスターなのだろう。そうでなくてはこのコマンドに辿り着く理由は現状でそうあるとは思えない。
マニュアルをほぼ完璧に暗記したというアスナでさえわからなかったコマンド。
必要に迫られ、それを知る機会が無いとその存在にはそうそう気付けない。
実際にキリトも攻略が進むにつれて知った新しいコマンドがいくつかあったくらいだ。
中には隠しコマンドなんかもあったりするため、その全容把握は製作者である茅場晶彦以外には難しかっただろう。
ディアベルはメニューコマンドを躊躇なくタップしていき、しかし最後の最後で止まる。
ちら、とキリトとアスナに視線を向けた。キリトが首を傾げているとアスナが口を挟む。
「別にあなたのアイテムを盗もうなんて思ってないわよ。そんなことしたら外にいる人たちが黙っていないでしょ」
アスナの言葉に「ああなるほど」とキリトも納得する。
思いつかなかったが、その疑いを持つのは仕方のないことかもしれない。
キリトは両手を上げてその気はないことをアピールする。ディアベルはそれを見て、まだ少し躊躇いつつも最後のコマンドをタップした。
アスナの時のように次々と現れるアイテム群。その中にはやはり、ディアベルの剣が混ざっていた。
「本当に……あった!」
ディアベルの表情が明るくなる。それを見てキリトもホッと胸を撫で下ろした。
彼にはこんなところでリタイアして欲しくないという思いもあるのだ。
ディアベルは全てのアイテムを片付けるとお礼を述べ……改めて緊張した顔つきになる。
「ありがとう……と言ってもいいのかな。君は何故このことを?」
「そういった詮索はしないでもらえると助かる。けど俺自身は後ろめたいことはないし《詐欺》にかかわっていない」
ディアベルは少し間をおいてから頷いた。
もしキリトが関わっていたならここでバラすメリットは何もないからだ。
「元々その剣はアンタのものだ。だからそれを戻したからって交換条件付けるのは本当は好きじゃないんだけど」
「言ってみてくれ」
「……鍛冶師の彼をなんとかしてやって欲しい」
「……どういうことだい?」
「このままいけば彼は多くのプレイヤーから断罪という名の罰を受けることになると思う。最悪見せしめに殺す、なんてことも考えられる。そんな前例を作ってしまえばこの先、それが当たり前になりかねない。だから上手く取り計らってやってほしいんだ」
キリトの出した条件、それはネズハを護る形での賠償を求めること。
これにはディアベルも少し驚いたものの、納得してくれた。鍛冶師の彼と会ったことのある人間ならわかるが、彼は好んでこのような真似をする人間には見えない。
何か事情があってのことだろう、ということはディアベルにも理解できたようだった。
同時に、この話を血の気の多いキバオウ等のいる前でしたなら起こりうるプレイヤー間の軋轢の可能性も。
キリトは情報提供を惜しまず《強化詐欺》について知っていることはほとんど話した。彼の属するギルド……ならぬ仲間パーティグループ、自称《レジェンド・ブレイブス》についても覚えている限りを伝える。
《レジェンド・ブレイブス》についてはディアベルも知っていた。最近、レベルは低いものの良い装備で急に前線へと台頭してきたグループだ。
ディアベルは少しだけ考える素振りを見せ、頷く。彼の中での算段がついたのだろう。
これで自分の役割は終わった、とキリトはホッと息を吐く。
話も終わったところでディアベルは部屋を出て行き、残されたのはキリトとアスナだけになった。
そのアスナはジッとキリトを見つめている。なんだか少し居心地が悪い。
「……貴方って、人がいいのね。損するわよそういう性格」
「……あははは」
笑うしかない。
自覚が皆無なわけではない。聖人君子と呼ばれるような人柄になるつもりもない。
そもそもキリトはもっと即物的で他人とのコミュニケーションが苦手なのだ。
だがそれでも。彼の中にある《ビーター》という役割が、たとえ憎まれようとそれを《義務》と思っている部分があった。
ベータテスターとして、自分の為に動いた過去は変えようがないのだから。
アスナがずっとそのことについて胸を痛めていたことを、彼は知る由もない。
「それで、これからどうするの?」
ディアベルとの話し合いも終わり、自分たちの取っている本来の宿屋に戻ってから開口一番、アスナが尋ねる。
やること……というよりこれからやれることはそう多くない。基本は迷宮に潜ってのレベリング、ボス攻略と繋がっていくだろう。
しかしそれぐらいのことは今のアスナでも十分に理解できるはずなので、彼女が聞きたいのはそういうことではない。
「ちょっとアルゴと会ってくるつもりだけど……」
「昼間の?」
「まあ……うん」
昼間、アスナとクエスト漁りをしている中で思い出し、一つのクエストの確認をした。
その情報をキリトは早い段階で情報屋《鼠のアルゴ》に伝えておきたかった。
そのクエストとは、二層ボスの情報が得られるクエストである。
迷宮区近くの密林に開始点のある連続おつかいクエストが存在し、それをクリアすると報酬として二層ボスの情報をくれるというものだ。
これを知っておけば前回と違い最悪の状況は防げるだろう。キリトはそう目算する。
そのことは一緒に行動していたアスナも理解している。
「じゃあ、それ終わったらちょっと付き合ってね」
「え? いいけど、何かあった?」
「銭湯、行くから」
「ああ」
見張り役ですね、わかります。キリトは納得して頷いた。
話が纏まったところで早速アルゴにインスタントメッセージを送ると、丁度近くにいるとのことで宿屋に尋ねてくることになった。
待つこと数分でドアがノックされる。
──コン、コココン。
昔の取り決め通りの小刻みなノックの仕方を懐かしみながら扉を開けると、そこにはやはりアルゴがいた。
「どういう風の吹き回しダ? キー坊。そっちからクエスト情報を売りたいとは珍しいナ」
「情報が情報だからな」
「ふゥーン、オレっちは《この情報》の方が価値がある気がするけどナ」
少しだけ興味深そうに、アルゴはキリトと……アスナを交互に見やる。
即座に彼女の言わんとすることを察し、たらりと冷や汗をかく。
……実際にはSAOで老廃物的な……汗などをかくことはないが。
「あのソロ一筋なキー坊が、狭い一人用の部屋で女と寝るとはナ」
「いや、これはだな……」
からかうような声色に、しかしキリトは言い返せない。
昔からアルゴにだけはどうにも手の上で踊らされている気分になる。
「まあ話を聞いてカラ判断するサ」
「……そうしてくれ」
キリトは既に疲れた、というように肩を落としてクエストの話に移った。
ボスに関するクエスト。それを聞いたアルゴは「確かに価値あるナ!」と少しばかり目を輝かせていた。
「これは良い情報ダ。代金を支払うヨ」
「いや……それなら口止め料ってことで」
「キー坊は欲がないナ。いっつもオレっちにタダで情報提供してくれるとは有難イ。でもそれじゃ何だか悪い気もするヨ」
「気にしないでくれ。いつも言ってるだろ? その情報を買えなくて死ぬ奴がいたら後味悪いって」
「それでもダ。普通、少なくとも代金は受け取るゾ。それとも、オネーサンへのポイント稼ぎカ? だとしたらキー坊はやり手だナ」
瞬間、背後のアスナからめらっとした謎空気が発せられる。
キリトはなんとなく身の危険を感じ首をブンブンと振った。
「違うっての!」
「なら偶には情報代を受け取レ。こっちもタダより怖いモノはないんダ。なんなら情報を提供するゾ? 何か知りたいことはないカ?」
アルゴはどうやらいつも無料でマップデータやら情報を渡すキリトにそれなりに思うこともあったらしい。
そういえば時々彼女はこうやって報酬を無理やりにでも取らせようとしてくるのだった。
キリトは内心でヤレヤレと思いつつ、丁度良いので気になっていたことを尋ねてみた。
「んじゃ情報をくれ」
「何ダ?」
「知ってると思うけどこの層に銭湯があるだろ?」
「ああ、あるナ」
「あの銭湯浴室が一つしかないみたいでさ、つまり混浴だと思うんだけど知らずにプレイヤーが入ってきちゃったら最悪ハラスメントで監獄送りにならないか?」
「あア、なんだそんなことカ。それは無用な心配ダ」
「へ?」
「あの銭湯は最初に入った人と別の性別の人が入室しようとするとシステム警告が出る仕様なンダ。同時に中の人にも同じ警告がデル。そこで中の人が許可すれば中に入れるケド、許可しなかったら入れナイ」
「なんだ、じゃあつまり」
「不埒者の心配はナイ。ケドなんでそんなこと聞くんダ?」
「あ、いや……」
「ふゥ~ン、なるほどなるほど」
「おい違うぞ」
「何が違うんダ? まだオレっちは何も言ってないゾ?」
「う……」
「ニャハハハ! 墓穴を掘ったナ、キー坊」
良いようにからかわれてあしらわれている。それが理解できつつ反撃できない。
だがせめて一矢を報いねば。
「だいたいアルゴはどうやってこの事調べたんだ? 誰かと一緒に入ったのか?」
「おヤ? キー坊はオレっちの風呂事情が気になるのカ? 悪いけどそれは別料金ダ。百Kコルはもらわないとナ」
「い、いやつもりはそんな……っていうかそんなに払えるか!」
「なら払える金額なら払ったのカ?」
「払うか!」
「ニャーッハッハッハ! 冗談冗談。でもキー坊にならオネーサン特別に教えてもいいゾ?」
何処か艶めかしいアルゴの態度に背後で再びめらっとした何かが膨れ上がるのを感じ、キリトはブンブンと首を振る。
アルゴは笑いながら部屋を後にした。
残されるキリトとアスナ。しばし無言の時間が続く。
何となくキリトは振り返るのが怖かった。何故だかわからないが怖かった。
「……キリト君」
「は、はい!」
やや低い声。
なんとなく怒ってらっしゃると想像する。
「銭湯、行くわよ」
「はい! あ、でも……今の話だと俺行かなくてもいいんじゃ……」
「……バカ!」
アスナは怒り心頭に部屋を出て行ってしまった。
一体何が悪かったと言うのか。キリトにはわからない。
ただ、やはり乙女心は複雑だと実感せざるを得ないのであった。
二層ボス攻略戦。それは思っていた以上にスピーディに開催された。
その理由はやはりディアベルの存在が大きいだろう。今やSAO中のカリスマと呼んでも良いほど彼の人気は高い。
人柄がそう悪いわけでもない。実力と初めての一層突破という実績もそれを後押ししている。
一層で足踏みした分平均レベルもそれなりに高い今、ここいらで勢いを増したいという考えはわからないでもない。
だが、一番の理由はボスの情報公開だろう。アルゴはすぐにボスの情報クエストを公開し、その内容まで報せた。
おかげで唯一の懸念と言っても良いフロアボスの特徴を知ることが出来た。一層のボス戦ではベータテストの時と違いがあり、あわや壊滅(ワイプ)の恐れさえあった事を思えば心強い情報である。
前回も危なかったとはいえ犠牲者無しでクリア出来たボス戦だ。今回はレイドが崩れた理由である《トーラス王》のこともみんな頭に入っている。
負けるはずがない。……だというのに。
(何だ? 何か……胸騒ぎがする)
何かを見落としているような、そんな感覚。
前回壊滅の危機に陥ったトーラス王の情報は既にある。
大佐のライフが一定以下になると強力なトーラスの王が出現し、戦いを挑んでくる。それが直接の壊滅危機原因。
トーラスの王は額の王冠に投擲武器をヒットさせることでディレイさせられることも既にわかっていて、ディアベルの方で投擲武器要員も用意していると聞いている。
恐らくは仲間の誰かに《投剣》スキルを覚えている者がいたのだろう。あるいは頼み込んで覚えてもらったか。
今回は詐欺の露出の件でネズハの参加が無い事が確定している以上戦闘中の援軍は期待できないのでその処置は正しい。
トーラスの王さえ抑えられれば、二層ボス攻略戦はそこまで恐い相手ではないはずだ。
だというのに。
キリトは何かを見落としている気がしてならなかった。
何かを忘れている……そんな感覚。
こういった《なんとなく》というような予感はたいてい杞憂に終わる。
極限状態前では《忘れているかも》という不安がそういった杞憂を生ませるのだ。
キリトもこれまでそういう経験が無かったわけではない。だから、今回もそうなのだろうと割り切ることは出来る。
現状、穴は見つけられない。思い浮かばない。漠然とした不安しかない。
だが不安ならいつもボス戦の前には胸にあったものだ。何を今更、という思いもある。
なのでキリトはいつまでももたげる不安を無理矢理に押し込めて、ボス戦前のディアベルの話に耳を傾けた。
「みんな! 久しぶりってほど時間も経ってないけど、また会えて嬉しいよ! これから二層のフロアボスと戦うわけだけど、ちゃんとボスの情報は目を通しているかな? 一応再確認も込めて話しておこうと思う!」
ディアベルが声を張り上げ、今回レイドを組むことになったメンバーに声をかけていく。
内容はただの確認。アルゴの発行したガイド本をかみ砕いて説明し、ボス戦での役割を改めて確認しあう。
今回キリト達はG隊として隊を組むことになった。前回同様エギル達がいるパーティに組み入れてもらった形で役割も変わらない。
「相変わらずフルレイドには足りないけど、一層を攻略した俺たちならやれるさ! 今日ボスを攻略して勢いに乗ろうぜ!」
オォーッ! とほとんど全員が拳を高々と突き上げる。こう言う時、キリトは大抵乗り遅れる……というか雰囲気に乗り切れない。
自称対人スキル激低は伊達ではなく、かといって手を挙げないのも体裁が悪いので、遅ればせながら形だけ弱々しく片腕を上げる。
しかしほとんどのプレイヤーが真っ直ぐピンと天を貫くように伸ばしているのに対し、キリトの腕は肘から情けなく曲がっている。
誰かに見られれば「やる気があるのか」と問い詰められる可能性もあるだろう。なので誰にもバレていないと思いたい。
そう思いながら周りを見渡すと全員が拳を突き上げている……と思いきや、アスナは腰に手を添えていて、このシュプレヒコールばりの拳の突き上げに参加していなかった。
ただ、鋭い視線を中央……ディアベルに向けている。
(アスナ……?)
彼女の向けるそれは控えめに言っても友好的な物には見えない。
そういえば彼女がディアベルに何か含む物があるらしいことを思い出す。
やはり、何かがおかしい。
キリトの記憶ではアスナがディアベルに含む物など無かった……ハズだ。
自身にもそんな物は無い。この《夢》は《知らない》事が多すぎる。《夢》だけでは片付けられない何かを感じる。
さきほどから燻っている不安という名の篝火が、ドクンと大きくなったような気がした。
何か言うべきか?
だが何を?
何を言えばいい?
「じゃあみんな、行くぞ!」
キリトが躊躇っているうちに、ディアベルの号令がかかる。
間もなくボス戦が始まる。既に時間的余裕は無かった。
今はただ、杞憂で終わることを願って気持ちを切り替えるしかない。
重々しい音を立てて開かれていくボス部屋の扉。その奥へ、一層の時と変わらぬメンバーで足を踏み入れていく。
戦闘……開始だ!
「各隊、配置に付け!」
ディアベルの号令の元、レイドパーティはそれぞれ当初の予定通りに分散する。
レイドリーダーを務めるディアベル率いるA隊は、残るB隊からF隊の五隊を引き連れ、総勢六隊三十六人で部屋の中にいる二体のボスのうち、一体を取り囲んだ。
その名を《バラン・ザ・ジェネラルトーラス》……通称、バラン将軍。
トーラスの将軍たる彼──ボスに性別設定があればだが──は隆々たる筋肉を短い真紅の毛皮で包まれている。
腰回りには豪華な金色の布を巻いていて、上半身はトーラス族同様何も身につけず、肩から黄金の鎖をぶら下げている。
両手で握るバトルハンマーも眩いゴールドで装飾されていて、あれが全てゴールドによる鋳造ならばその金額は《コル》に換算しても《円》に換算してもとんでもない数字となることは間違いない。
そんな見た目に似合わぬ豪勢な装備を手にしているのが、頭高5m超えはあろうかというバラン将軍である。
一方キリト達G隊が一隊で取り囲んだのが、バラン将軍よりは小柄で身の丈もおおよそ半分程度の取り巻きMob、《ナト・ザ・カーネルトーラス》という全身真っ青な牛男モンスターだ。
通称ナト大佐と呼ばれるこのMobは当然のことながらバラン将軍に比べると戦闘力は劣る。
だが決して油断して良い相手ではなく、注意すべきはやはりトーラス族の使う《ナミング系》の攻撃だ。
バッドステータスである《行動不能(スタン)》というデバフをかけられるこの攻撃は、連続で受けると《麻痺(バラライズ)》化してしまう。
そうなると行動不能時間は数秒程度では済まなくなり、非常に不味い事態に追い込まれる事になる。
なんとしてもそれだけは避けねばならない。キリトはアスナやエギル達にそれを徹底して伝え、与えられた役割……ナト大佐に全力を尽くす事にした。
基本は円陣を組んでの順番攻撃。万一誰かが《スタン》したり、大ダメージを被った場合は即フォロー。
これはバラン将軍攻略も同じだ。向こうの方が規模が大きいので一時戦闘離脱者はそれなりにでるだろうが、しっかりやればトーラス王登場まではさほど問題ない。
「B隊、C隊後退! D隊、E隊突撃!」
「了解!」
ディアベルは自身も戦闘に加わりながら満遍なく戦況を見渡し、指示を出していく。
良い判断力だと思う。キリトは横目でその指揮を垣間見ながらナト大佐に深く斬り込む。
ぐおん! とその巨腕が振り回されるが、それをすんでの所でかわし離脱。キリトに目標を定めたナト大佐がユラリとキリトの正面に立つ。
それを見計らって反対側にいるエギルがナト大佐の背中に「うおおお!」と気合いを入れつつアックスを振り下ろす。
ズバン! と大きな音と派手なエフェクトを発生させながらナト大佐のHPゲージがまた少し減る。ナト大佐は苛立ったようにハンマーを持つ手を振り上げた。
「離れろ!」
バチィ! とハンマーに雷が帯電する。勢いよくそのハンマーは床へと叩きつけられ、範囲一帯に白い閃光を奔らせる。
雷がバチバチと床を放射状に迸り、程なくして消える。《ナミング・インパクト》だ。幸い、ナト大佐のナミング範囲は雑魚トーラスとさほど大差なく、インパクトの瞬間には全員距離を取っていた。
雷が止んだ所でアスナが走り、渾身の《リニアー》をその横腹に突き刺す。
「グオオオオッ!!」
ナト大佐がまるで痛みを感じているかのように怯み、二、三歩後退する。そこを逃さず別のメンバーが斬りかかった。
良いペースだ。確実にHPを削っているし、コンビネーションも悪くない。攻撃も大ダメージと呼べる程のものを受けていないし、これならば何も心配することはない。
キリトはナト大佐との戦いをそう分析した。
だが、
「ねえキリト君」
「どうした、アスナ」
「あっち、少し麻痺の人数が多くないかしら」
「えっ」
アスナに指摘され、周りを見渡してみると、あれほど打合せで注意があったのに《麻痺(バラライズ)》になっているプレイヤーが多数いる。
経験の無いものは注意をしていても見切りには時間がかかるので、多少はやむを得ないが確かに少し人数が多い。
「B隊、C隊撤退! D隊は……くっ、E隊F隊はスイッチ! A隊はすぐフォローできるように援護!」
次の交代要員であるD隊の回復がまだ追いついていない。
このままでは最悪の場合に撤退する際、撤退がおぼつかない可能性もある。
だが何故こんなにも《麻痺(バラライズ)》した者が多いのだろうか。
(……しまった、そういうことか! なんでそんな事に気が付かなかったんだ!)
キリトは一瞬浮かんだ疑問の答えを即座に導き出した。
考えてみれば、簡単なことだったのである。キリトの記憶の中の前回は。もう一つ隊があったのだ。
《レジェンド・ブレイブズ》の面々が五人パーティで参加していた。彼らの戦闘スキルは最前線には少しばかり速かったが、装備が充実していた。
その彼らも戦闘に参加することで前回はあの結果を生み出していたのだ。だが今回、ディアベルの采配により彼らはこのボス戦に参加していない。
というより出来ない。彼らは詐欺行為の損失補填をディアベル主導の元行っていると聞いている。充実した装備は全てコルに変えられ、分かっている限りの被害者へ回ったそうだ。
方法も出来るだけ穏便に事を進めてくれているようで、今のところネズハ達に制裁を! という声までは聞こえてきていない。
だがそのおかげで減った一パーティ分、彼らの戦闘の回転率は上がる。もともと前回も麻痺する者はそれなりにいて危険ではあったが、今回は絶対数が少ないのでよりそれが目立ってしまった。
さらに攻略戦を急いだせいでMobトーラスとの戦闘経験が浅く、多くの者がナミングのタイミングを見切れていないのだろう。
これらの悪環境が重なり、バラン将軍の攻略はナト大佐ほど順調ではない。最初に感じた不安とは、恐らくこの事だったのだと今更のようにキリトは理解する。
「仕切り直すなら早い方がいいだろう。こっちは一人抜けても抑えられそうだし、お前が彼の所に行ってくれ」
スキンヘッドの浅黒い大男……もといエギルがキリトを指名する。
アスナもそれに頷き、キリトは一瞬だけ迷ってから「わかった」とナト大佐に背を向けた。
キリトはバラン将軍相手に勇猛果敢に斬り込み、戻ってきたディアベルへと近づく。
「! キリトさんにはあっちをお願いしたはずだけど」
一瞬ディアベルは何かを警戒したような目つきでキリトを睨む。
理由のわからない敵意に近い視線にキリトは少々戸惑いながら、しかしそれを飲み込んで提案する。
「麻痺者が多い。このままだと撤退するには苦しくなる。一旦仕切り直さないか? この後もあるんだ」
キリトの提案にディアベルは苦虫を噛みつぶしたような顔つきになった。
彼にも迷いがあるようだった。その気持ちはわかる。このまま押しても絶対負けるということはない。
キリトの勘でも、ごり押しで行ける可能性は五分五分くらいにはあった。だがこのゲームはHPが無くなると現実世界からの永久ログアウトを意味する。
そういった点では無理はするべきではない。五分では勝負をかけるには少々分が悪い。
「じゃかあしい! お前の指図は受けへん! このレイドのリーダーはディアベルはんや、お前やない! ワイらはまだやれるで、そうやろディアベルはん!」
「……ああ、ここまで来たんだ! やろう! 大丈夫キリトさん、なんとかなる! そっちはナト大佐を倒したらこちらに合流してくれ。俺たちはその頃には多分トーラス王の相手をすることになる」
「……わかった、くれぐれも無茶はしないでくれ」
キリトは頷き、ナト大佐の元へと走る。だが、戦闘前からの胸騒ぎがどんどんと膨らみを増している気がしてならなかった。
嫌な予感がする。そこに、アスナが駆け寄ってくる。
「どうなったの?」
「続行だそうだ。なんとかなりそうだから、だとさ。ナト大佐を倒したら合流頼むって」
「……ふぅん、それがあのディアベルさんの判断なのね」
アスナのキツイ眼差しが二割ほどプラスされる。
自分に向けられた物ではないとわかっているが、つい背筋をピンと伸ばしてしまう。
「……キリト君の考えは?」
「俺? 俺は五分五分かな。従来のゲームなら勝負するけど、負ければ終わりなんだ。そういう意味では撤退でも良かったと思う」
「……そう」
アスナはそれだけ聞くとすぐにナト大佐への攻撃に戻る。キリトも追いかけるように加わり、待っていたエギル達へ簡単にディアベルの決定を説明した。
全員頷き、残り少ないナト大佐のHPを削る作業を再開する。こちらはもうすぐ片が付きそうだった。
ナト大佐に関してはもはや問題はない。問題なのはバラン将軍、そして次に控える《王》だろう。
その時だ。
「バラン将軍のHPが黄色になったぞ!」
誰かが声を張り上げる。バラン将軍のHPバーが、五本あるうち残り一本へと差し掛かった。
それの意味するところは一つである。キリトが部屋の中央に目を向けると、トーラスの王が半透明にポップし始めていた。
あと数十秒後には実際に現界し、脅威となることだろう。こちらも急がねばなるまい。
キリトはトーラス族の弱点である角の間をソードスキル《ホリゾンタル》で切り裂く。
中々狙いにくいポイントだが、七十五層まで行き、システム外スキルであるプレイヤーやMobモンスターの持つ武器の破壊……《武器破壊(アームブラスト)》を会得したキリトにはそこまで難解なことでもなかった。
さらに滞空中にぐっと体を丸め左足を前に蹴りだす。後方宙返りしながらの縦蹴りで最後にナト大佐へとサマーソルトキックをお見舞いした。
アスナとのワスプ狩り勝負にも使った体術スキル《弦月》だ。
弦月によってナト大佐のHPは最後の一ドットを残すことなく吹き飛び、大音響と共にガラス片を撒き散らした。
「加勢に行くぞ!」
着地したキリトの声に全員がバラン将軍へと駆けだした。
バラン将軍のHPもあとバーの残り三分の一程度だ。これなら王が動き出す前に決められる!
キリトは脳内でざっと目算し、時間的余裕を計算する。だが……そこに思わぬ横やりが入った。
「誰がお前にLA取らせるかい!」
「な……!」
キバオウがキリトの目の前に出てきて、邪魔するようにバラン将軍へと一太刀浴びせる。
狙いを外されたキリトは体勢を崩し、横に転がった。慌ててすぐに立ち上がる。
バラン将軍のHPは残り約五パーセント弱ほど残っている。そこへ青い髪の騎士が颯爽と剣を掲げて突進した。
「うおおおおおっ!」
彼の手には先日手元に無事戻った剣がある。ソードスキル特有のライトエフェクトを纏い、真っ直ぐにバラン将軍へと吸い込まれていく。
これは決まった、誰もがそう思った、これでトドメだと。キリトもそれを疑わなかった。その時だ。
彼と一瞬目が合った……気がした。
彼の目は、笑みを浮かべているように見える──それは不思議な事ではない。
彼の目は、自信に満ち溢れているように見える──それは不思議な事ではない。
彼の目は、己の勝利を確信しているように見える──それは不思議な事ではない。
だというのに。
何故こうも、釈然としないのだろう。
キリトには彼のあの目が、キリトに向けられたものに見えてならない。
言うなれば挑発ともとれるそれは、LAを取ったという自慢なのか、それとも──────。
一瞬の交差にモヤモヤとした感情を抱いたキリトだが、それ以上思考を続ける余裕は無かった。
いや、無くなったと言うべきか。誰もがディアベルのLAを疑わなかったその刹那。
一瞬速くバラン将軍の腹を突き刺す鋭利なレイピアがレイドパーティ全員の目に映った。
コンマ半秒ほど遅れてディアベルの剣がバラン将軍を切り裂く。だが、彼の顔には一瞬前までの笑顔は無かった。
ディアベルが振りかぶった時に凄い速度でボスへと吸い込まれていったブラウンの流星。
彼女のこれから付けられる二つ名に恥じないまさに一瞬の出来事だった。
パァン、とバラン将軍が爆散する。ラストアタックボーナスを取ったのは誰の目から見ても明らかだった
ディアベルは顔面を蒼白にして固まっている。そんなディアベルを見て、レイド全体が凍り付いたように動かない。
唯一、ブラウンの流星……アスナだけがキリトの方へとゆっくり近づいてきていた。
はたして、我に返ったのは誰が最初だったのか。キリトがボス戦がまだ終わっていない事を思いだしたのはカーソルに《アステリオス・ザ・トーラスキング》の名前を見た時だった。
ゆっくり近寄って来るアスナ……の向こうに消沈気味のディアベル。
そのディアベルの向こうには、実体化した漆黒のトーラス王……《アステリオス・ザ・トーラスキング》。
身の丈はバラン将軍よりも高く、腰回りは黒光りするチェーンメイルを付け、頭には白金と思しき王冠を付けている。
角はこれまでのトーラス族とは違い六本もあり、ねじくれた髭は腹近くまでだらりと垂れ下がっている。
そのトーラス王は大きく息を吸い込み、獣じみた大胸筋を大樽のように膨らませた。
キラリと瞳が光る。
(まずい!)
ほとんど条件反射的にキリトは駆けだしていた。
一直線に前へ。アスナの元へ。
「右へ跳べぇぇっ!」
キリトの張り裂けるような声を聞いたアスナは、言われた通りに右へと跳躍した。
彼女のブーツが青黒い敷石から離れはじめたところで追いつき、左腕で細い体を抱え同じ方向へとさらに踏み切る。
先程までの速度が嘘のように世界がゆっくり回る。全てがスローモーション。床のアラベスク模様がゆっくりゆっくり流れて、視界右側が真っ白に染まる。
次いでピシャアアアアン! という渇いた衝撃音が偽物の鼓膜を刺激する。まさしく雷鳴そのものだった。
トーラス王が使う極大のブレス攻撃。属性は毒でも炎でもなく雷で、それの意味するところ……デバフは一つ。
白い閃光に呑まれる二十人超えのプレイヤーは、視界が回復した時にはHPゲージの周囲に緑色の枠が点滅し、同色のデバフアイコンが点灯した。
《麻痺(バラライズ)》である。周りのほとんどのプレイヤーも同様のようだ。《投剣》要員と紹介されたプレイヤーの姿もその中にはある。
今の攻撃でHPも二割は持って行かれたが、より危険度が高いのはやはり麻痺状態になってしまったことだろう。
アスナは震える手でポーチに手を伸ばすが、上手くいかない。麻痺状態はほとんど身体を動かせず慣れていないと物を持つことさえ難しい。
さらに麻痺中は何か話そうにも囁き声(ウィスパーボイス)しか出せない。
視界の端には吼えるトーラス王がいる。このままでは不味い。前回は絶妙なタイミングでネズハが来てくれたが、今回はそんな奇跡は起きない。
いや、もともとそんな奇跡など、期待したことはほとんどない。頼れるのは……奇跡なんかじゃ決してない。だから、やることなど……最初から決まっている。
キリトは震える手で自分のベルトポーチを探る。中には……ポーションが二つ。
赤いHP回復ポーション一個と麻痺治療用の緑ポーションが一個。慣れ親しんだ感覚で緑のポーションを丁寧に落とさぬよう引き抜く。
ぷるぷると震える手で緑ポーションの蓋を開けると、それを腕の中にいるアスナの口へと持っていった。
アスナは目を丸くし、抗議しようとするが麻痺のせいで声は囁き声(ウィスパーボイス)。おかげで聞こえないフリも随分と楽だ。
「君は……生きろ」
アスナを何がなんでも生かす。それがやるべきこと。
これが《夢》だとか、《現実》だとかそんなことは関係がない。
彼女は、彼女だけは……絶対に死なせない!
死なせない。
死なせない。
死なせない!
絶対に死なせない!
アスナが何かを言っているようだが何も聞こえないフリ。
これで彼女の麻痺は時期に回復する。それでいい。
(ごめんアスナ……俺、やっぱり君と自分じゃ、自分を選べないよ)
心の中で謝罪する。
彼女との約束。決して自分の命を簡単に諦めない。
その約束を破るつもりはないが、天秤にかけた先がアスナの命なら、選択の余地は無かった。
アスナがグググ、とゆっくり立ち上がる。麻痺が解けかかってきたのだろう。
アスナはまだおぼつかない手で自分のポーチを漁り、緑色のポーションを掴むとキリトへと無理矢理飲ませる。
はたして、キリトに押しつけているポーションを支えるアスナの手が未だ震えているのは麻痺の残滓なのか、それとも彼女の心の声を代弁しているのか。
ズルズルズル。
ふと気が付くと、僅かながら引っぱられる感覚があった。
未だ麻痺が回復していない身体で無理矢理視線を動かすと、アスナが必至に引っぱっているのがわかる。
「いい……から……はやく……にげろ」
「聞こえません!」
アスナはやや涙声になりながら亀のような速度で引っぱることを止めない。
しかしこんなことをしていてはいつトーラス王に標的にされるかわかったものではない。
先程聞こえぬフリをしたツケがこんなことで回ってくるとは。
ズルズルズル。
なんだか、前にもこうやってアスナに引かれたことがあった気がする。
あれはいつのことだったか。今は何故か霞がかかったように記憶を掘り返せない。
段々と意識が遠のきかけている。ただ、思い出せるのは同じようにアスナの悲痛な声を聞いた気がする、ということだけ。
「あ……」
どうやら長く記憶を回帰する余裕はもともとないらしい。
ズンッ! と一際大きな足踏みをして、トーラス王がこちらへと近づいてくる。
アスナの襟を掴む握力が強まった気がした。
「ディアベルはん!」
遠のきかけた意識の中で、キバオウがディアベルの名を呼ぶ。
彼は未だ茫然自失としたまま立ち尽くしていた。このままでは……危ない。
アステリオス王はディアベルの前で立ち止まると、そのバラン将軍のよりも巨大な黄金の鎚を振り上げた。
声が出そうで、出ない。
ズルズルズル。
何かを叫びたいのに、声が、もう、出ない。
意識をつなぎ止めたいのに、瞼が閉じるわけでも眠いわけでもないのに、段々と思考能力が霧散していく。
ただ、強く握られている襟の暖かみだけが、感じられる感覚。
アステリオス王は無慈悲に黄金の巨鎚を反応の無いディアベル目掛けて振り下ろした。
「──────ッ」
言葉にならない。
声が出ない。
ただ、迸る真っ白な閃光が視界を埋め尽くして、キリトはそのまま意識を手放した。
「……!」
……声がする。よく知っている人の声。
なんだか、とても暖かい。
「……リト君!」
ゆさゆさと揺られている。
ゆっくりと瞼を開く。
「キリト君!」
「アス、ナ……?」
「大丈夫? うなされていたみたいだったけど」
目を開いて、ゆっくりと辺りを見回すと、そこはALOで借りているプレイヤーホームだった。
HPバーにデバフアイコンもついていない。
どうやら揺り椅子に座ったまま眠っていたらしい。
ということはさほど時間は経っていないはずだが、数日ほど時間が経過しているような錯覚を覚える。
視線を彷徨わせてからアスナに戻すと、アスナは心配そうにキリトを見つめていた。
その顔は、キリトのよく知る険のとれた、美しい顔。
思わず、彼女の事を強く抱き寄せた。触れている肌が、偽物の感覚なはずなのにとても心地よい。
「きゃっ? キリト君? どうしたの?」
「なんでもない、なんでもないんだ……ごめん」
ぎゅっと強く彼女を抱き寄せて、しばし彼女の胸で顔を隠す。
いやらしい気持ちなど微塵もない。ただ、こうしていたかった。
「泣いてるの? キリト君」
「えっ」
言われてから、気付く。
頬を伝う、冷たいそれの存在に。何故だろう。理由はわかる気がするけど、やっぱりわからない。
アスナはそんなキリトに自分からも彼の頭を優しく抱き寄せた。
髪を丁寧に撫でる。愛おしむように、慈しむように。
「大丈夫、何があったのかわからないけど、私はそばにいるから。いつでも頼っていいんだよ」
アスナの優しい言葉に、つい声が漏れる。
我慢していたつもりなどない。しかし現実ではない借り物の姿であるはずのアバターは、意志に反して嗚咽を漏らし涙を流そうとすることを止めない。
アスナは、キリトが泣きやむまでずっと彼を撫で続けていた。
「……パパ」
離れたところで、隠れるようにして二人を見つめる影が一つ。
小さな体に大き目の白いワンピースを纏い、健康的な肌の手足がにゅっと伸びている。
癖一つない黒のストレートロングヘアは発光し、フワフワと宙に浮いていた。
自他共に認める彼女たちの娘であるところの彼女、ユイはとても辛そうな顔をしている。
「ごめんなさいパパ、ごめんなさい……!」
ユイはひたすら謝罪の言葉を口にしていた。
闇に消えゆく謝罪は、誰の耳にも届かない。
彼女から放たれる光は、もう消えていた。