「痛い?」
少しだけ奥深くへと侵入する。出来るだけ周りを傷つけないよう慎重に慎重に。
ここで乱暴なやり方をすると、最悪流血沙汰にもなりかねない。優しく、丁寧に、奥の方へと入っていく。
焦ってはいけない。奥へ入れば入るほど先は狭くなり、敏感になる。
僅かずつ力を入れながら、ゆっくりと周りを擦るように動かしていく。
「んっ、うんん……」
少し強かっただろうか。小さく漏れた吐息に動きを止める。
もし痛みを伴うようならもっと力を抜いて優しくしなければいけない。
「痛かった?」
「ん、大丈夫。もう少し奥に来ても……良いよ」
「そう?」
その言葉に、少しばかり先よりも力を込めてみる。
奥の方へ侵入し、カリッカリッと引っ掻くように動かす。じんわりと額に汗が滲んだ。
瞬間、ビクッと跳ねるように身体が動く。少し強くし過ぎたかもしれない。
「今のはちょっと、深かった……かな」
「うん、ごめん」
深くまで挿入していたソレを少しばかり控えめな位置まで戻し、入り口付近からまた丁寧に擦る。
それによって、一瞬前に浮かべた苦悶の表情からすぐに和らいだようなそれへと変化していく。
「気持ち良い?」
「……うん」
素直な返事に少しだけクスリと微笑む。
これだけ素直すぎる反応は逆に珍しい気もする。
そんな些細な感情の変化に胸を暖めながら、行為を再開する。
丁寧に擦る作業から円を描くように動かしていく。狭く敏感なソコは非常に繊細で力加減が難しい。
先っぽで奥を僅かに擦るようにして動かし、丁寧に引き抜く。
「はい、終わりだよ」
そこでようやくアスナ/結城明日奈は彼、キリトこと桐ヶ谷和人の左耳から手を離した。
明日奈の膝、フトモモの上に乗せていた黒い頭を、和人もゆっくりと持ち上げる。
ギシッと僅かにベッドのスプリングが軋む。和人の耳は部屋内に木霊するブゥゥンという重低音のコンピュータが稼働する音を先程よりもやや鮮明に捉えている……気がした。
「じゃあ次は反対ね」
「わかった」
明日奈がにこやかな笑みを浮かべ右手でくるくると回しているのは木造の小さなヘラ……耳かきだ。
クリスマスも過ぎていよいよ年の瀬も本格的に迫り、今年もあと僅かとなった年末に明日奈は何度目かになる桐ヶ谷邸へと遊びに来ていた。
会おうと思えば離れていても仮想世界──ALOでいつでも会えるのだが、やはり電子世界で会うのと現実で会うのではやや趣が違う。
かといって何かしたいことや何処か行きたいところがあるのかと言われれば、パッとは思いつかない。
詰まるところ、ただ一緒にいたいだけだった。もう少しで人が定めた一年という区切りが終わりを告げる。
そうなると不思議なもので、何故かはわからないが古くから人はやり残した事をやっておきたくなる。少しでも時間を有効活用したくなる。
そんな誰にでも経験のある今年のタイムリミットの使い方に、明日奈は彼、和人との時間を少しでも持ちたかった。
SAO──ソードアート・オンラインから解放されて一年。和人にとってはまだ十ヶ月程度。それは同時に目覚めぬ彼を救出して現実世界で再会し、時間を共有することが出来た月日でもある。
長いようで短い。出会いからはおよそ三年経ったが、まだその三分の一にも達していない。
今だからこそ、いや、和人と知り合えたからこそ言えることがある。あの日、絶対的な《死》という物を身近に感じることとなった最低最悪のデスゲームに無理矢理参加させられることとなった原因、ナーヴギア。
そのナーヴギアをかぶって良かったと。死ぬことは恐い。世間に置いて行かれ、親に見放されることも恐い。
でも、彼と出会えたという財産を秤にかけたら、彼との出会いの方へ天秤は傾くだろう。あの日、ナーヴギアをかぶったのは、全てキリト/和人に会う為だったと思えば、それもまた大切な思い出となる。
あの日本中、いや世界中を震撼させた大事件が無ければ、こうした今は無いのだ。
明日奈は一度座っていたキリトのベッドから立ち上がると少し離れた所に座り直した。ぽんぽん、と自身のフトモモを叩く。
キリトは照れたように後頭部を掻きながらゆっくりと再び頭を明日奈のフトモモへ預けた。
天気予報では十二月なだけあって西高東低の冬真っ盛りな気圧配置模様を示しており、気温も一桁台前半という中々の冷え込み具合にも関わらず彼女の服装は少し短めのスカートだ。
おかげで和人は必要以上に心臓へ重労働を強いるハメになり、視線の意志力セービングロールを成功させねばならなかった。
そんな和人の葛藤などには気にも止めず、明日奈はフトモモに確かな重みがのし掛かるのを感じていた。この心地よい重量感はデジタルでは表せない現実を明日奈に教えてくれる。
明日奈は彼の黒い髪を一撫ですると、左手を耳に当てて右手で耳かきを握った。ゆっくりと上半身を折り曲げて、キリトの耳の奥がよく見える位置まで近付く。
ともすれば眠っている和人にキスでもしてしまいそうな距離……と思ってしまうのはSAOでの前科がそうさせるのだろう。
「じゅあ、いれるね?」
「ああ……」
聞きようによってはとてつもない勘違いを招きそうな会話をしたまさにその時、まるで謀ったかのように和人の部屋の扉が開かれた。
勢いよく一人の少女が部屋へと侵入してくる。
「大変! 大変大変タイヘン………………………………たいへんお邪魔しました」
大胆に開かれた扉がパタリと閉じられる。
和人と同じように漆黒の髪をショートで整えている少女、リーファこと桐ヶ谷直葉は大声で「大変」と連呼した後、部屋の状態……正しくは二人の状態を確認してから何事もなかったかのように退出、もとい逃げ出した。
明日奈と和人は視線を絡み合わせること数秒。バッと立ち上がり彼女の後を追った。
彼女に追いつくのに六十秒、明日奈達に連れられて和人の部屋に直葉が戻ってきたのはそれからさらに三百秒……五分後のことだった。
「なぁんだ、耳掃除をしてもらっていたんだ。そうならそうと言ってよ」
「スグが勝手に勘違いしたんじゃないか」
「そうだけど……びっくりしたんだもん」
直葉の目はちらちらと和人と明日奈を行ったり来たりする。
その目は暗に《前科もあるし》と言っていた。
そうなると二人に反論する材料はあまりない。あの時は迂闊だったと言わざるを得ないからだ。
しかしどうやらこの話は直葉としても長く続けるのは恥ずかしいらしく、空気を読んですぐに話題を戻した。
「でも良いなあ、耳掃除かあ」
「直葉ちゃんもしてあげようか?」
「え? いいの?」
「もちろん」
明日奈が微笑むと直葉は少しだけ恥ずかしそうに頬を染めながら「じゃあお願いします」と頭を下げた。
この二人は時折兄妹であるはずの──正確には従妹だが──和人自身がうらやむ程に仲の良さを見せつける。
和人の知らない間に一緒に買い物に行っていたり、低カロリー押しの明日奈謹製スイーツを食べていたり。
そうなると和人は一人置いてけぼりを食らうこともしばしばで、手持ちぶさたになることも珍しくない。
だが彼の名誉の為に言っておくと、彼は決して嫉妬などしていない。むしろ喜ばしいとさえ思っている。
だから一人で娘であるところの人工知能、ユイにしょっちゅう構って貰っているのはそのこととは全く関係の無い親子間の暖かな交流と言える。たぶん。
直葉のお願いに「任されました」と明日奈が答えたところで、和人はそんな直葉の最初の発言について尋ねた。
「そういやスグ。さっきは何の用事だったんだ? 大変って言ってたけど」
「あ、そうだった! 大変なんだよ、とうとうあの剣、《エクスキャリバー》が見つかっちゃったみたいなの!」
「なぬ!?」
これには和人も表情を変えた。生来ゲーマーとしての和人は自分が大いに関わっているゲームの超絶レア武器についてとなると、その好奇心はかなり刺激される。
明日奈もまた、今回は興味を惹かれた。その剣はかつて和人にあげたいと思った剣でもあったからだ。以前一緒に挑戦し、あまりの高難易度に尻尾を巻いて帰ってきたのを良く覚えている。
その際、多大な迷惑を彼にかけたことから、いつかは彼に……という思いがあったのだ。
直葉としてもことALOについては明日奈や和人よりも思い入れが深く、ALOについての情報収集を常から怠っていない。
まだやったことのないクエストや挑戦したことの無いダンジョンはいくつもあるし、どんどん強くなっていく周りに負けじとプレイヤーステータスはもちろん自身のスキルも磨かねばならない。
だからと言って特段強迫観念に迫られているわけではない。何の気なしにMMO関連の新着情報でALO関連を漁っていて偶々見つけた情報なのだ。
気になって詳しく調べてみると、既に大ギルドなどが動き出しているという情報もあり、猶予は残り少ない事が伺えた。
かつてエクスキャリバーを狙いに行った一派として、そして恐らくは本当の第一発見者としてこれは一大事だと認識し兄の部屋へ少々興奮気味に突入してしまった……というのが事の顛末だった。
「そうか、とうとう……ううむ」
「どうするの? お兄ちゃん」
和人は腕を組んで少しばかり悩む素振りをみせる。
一瞬目のあった明日奈は彼の葛藤にいち早く気付いた。
「私は構わないよキリト君。この後予定が決まっていたわけでもないし」
「……良いのか?」
「もちろん」
彼の葛藤は、わざわざ家にまで尋ねてきてくれた明日奈がいるのに、仮想世界へ行ってもいいものかというものだ。
伝説武器は確かに欲しい。しかし大切なものの優先順位を間違えてはいけない。
「スグは今日ヒマか?」
「大丈夫」
二人の同意を得て、和人はさらにふむ、と眉根を寄せた。
指を一本ずつ折って人数を数える。
「確かトンキーに乗せてもらえるのはワンパーティ……七人までだったよな。俺、アスナ、リーファ、呼べば来るだろうクライン、リズ、シリカ……後一人はどうしよう」
伝説武器を取りに行く最高級難度のクエストに挑むのだ。味方は限界まで率いていきたい。
出来れば手練れで、後々の後腐れがないよう気の置けない仲の相手が望ましい。そう思うと最後の一人で和人が頭を悩ませることとなった。
「う~んと……そうだ、レコンは……」
「え~、レコンはねえ、ちょっと戦力が心許ないよ」
和人の口から漏れたプレイヤーネームに直葉が不満そうな声を漏らす。
決して彼に含むところがあるわけではないが、今回のクエストでは足手まといになる公算が大きいと直葉の中のリーファは評価する。
それはレコンが悪いわけではない。彼は中流階級の上位クラスに位置するプレイヤーではあるだろう。しかしリーファ含めメンバーは皆上位ランカーと言って差し支えない人ばかりだ。
ただ遊ぶのならそれもいいが今回のようなやり直しのきかない高難度クエストに彼は不向きと言えた。彼は元々戦闘職で異彩を放つようなプレイヤーではなく、虚を突いたり、種族の領土戦においてその能力を発揮したりするタイプだ。
やるからにはもっと腕利きの知り合いを連れて行きたいと思うのがリーファの本音でもあった。
それにどちらにしろ、彼はそれなりの功績を評価されて風妖精族(シルフ)領の首都、《スイルベーン》に常駐する幹部クラスのプレイヤーになっている。
長い間自分の領を離れるのはそれなりに厳しい立場なのだ。
「じゃあ……ユージーン将軍とか?」
「それは……ちょっと」
腕利き、と言われて出した名前に今度は明日奈が難色を示した。
ユージーンとは火妖精族(サラマンダー)の最強と呼ばれるプレイヤーで、サーバー内にオンリーワンと言われる伝説級武器、《魔剣グラム》の所有者だ。
もともと完全武闘派な能力構成(ビルド)に戦闘スタイル、そして伝説武器が相まってALO最強プレイヤーと揶揄されることもしばしばだが彼には一つ難点があった。
「ユージーン将軍って未だにお兄ちゃんに求婚してるの?」
「……」
うげぇ、という顔をした和人の顔が全てを物語っている。
彼は強者を好む性格で、彼が強者と認めた相手には《例外無く》求婚するという悪癖がある。
かつては見事ユージーン将軍を足止めしたリーファ、そのリーファにしつこく迫るのを止める為戦ったエリカ/明日奈、エリカに求婚しに来て返り討ちにしたキリト、そしてそのキリトに求婚しにきた彼を追っ払ったアスナ。
自分たちの知る中だけでも都合四度の熱烈な求愛を見せたユージーン将軍はアスナにとって少々苦手な相手だった。
それは和人にとっても同様で、もしかすると誘えばクエストには付き合ってくれるかもしれないが、見返りはそれこそクエスト報酬の《聖剣エクスキャリバー》か《結婚》かの二択を迫られる可能性がある。
最近の彼の求婚対象プレイヤーは専らキリト、エリカ、そしてアスナなので、三人の中──事実上二人──の誰になるかは想像がつかないが。
ちなみに何故エリカとアスナに分けられるかと言えば、ユージーンはその二人が同一人物だと知らないからである。
「名前出しといて何だけど、ユージーン将軍は無いな」
「うん」
確かにリーファの言う腕利きには分類される……というよりこれ以上無いほどの使い手だが、全会一致で不採用。
それに、仮に誘ったとしても応じる可能性は五分といったところだ。さほど仲の良い繋がりがあるわけではない。
ハイプレイヤーとして、顔見知りとしての付き合いが数回ある程度で、それ以外は会えば一方的な求婚タイム。
とてもではないが気の置けない仲間、という条件はクリアできない。
「それじゃあ……詩乃さんは?」
「シノのんは、バイトが忙しいって言ってたから……」
直葉の思い出したような人選に、少しだけ明日奈の表情が曇る。
先日GGO──ガンゲイル・オンラインにて知り合ったシノのんこと朝田詩乃──正確に言うと明日奈に関しては篠崎里香繋がりだが──は明日奈の勧めでGGOからALOへのコンバートアバターにより一緒に遊んだ事はある。
彼女のプレイヤースキルは見事なもので、一番視力に補正が高いとの理由だけで自身の種族を猫妖精族(ケットシー)に選び、扱いの難しい弓矢系の武器を一日で難なく使いこなせるまでになり、もっと射程が欲しいと言い出すほどだった。
だがその彼女は現在多忙極まる日常生活を送っていると聞いていた。
いわゆるバイト三昧という生活を。
GGOにて仮想世界で銃撃されたプレイヤーが現実世界でも亡くなっているという怪事件について、総務省の役人である菊岡誠二郎に調査協力を依頼された和人……を追いかけるように半ば恫喝じみた真似をして明日奈はこの件に無理矢理首を突っ込んだ。
そのこと自体に後悔はない。新しい気の置けない仲間も出来たし、彼との絆もより深まった自覚が明日奈にはある。
しかしこの事件では明日奈の親友と呼べる相手、リズベット/篠崎里香の知り合いである新川恭二少年がリアルで被害を受けるという最悪なものとなってしまった。
犯人グループの主犯は恭二の兄であり、かつてSAOを震撼させたレッドギルド《笑う棺桶(ラフィンコフィン)》の生き残りだった。
唯一の救いは彼に弟を傷つける意志はなく、実行犯は別の人間だったということだろう。
彼等は仮想世界での銃撃に合わせて現実の肉体に《サクシニルコリン》と呼ばれる筋弛緩剤を注射し殺害することによってあたかも仮想世界の銃撃が現実の身体に影響を与えたかのような演出を行っていた。
その《サクシニルコリン》を恭二は朝田詩乃を庇って注射され、意識不明の重体となってしまった。
犯人は未だ逃亡中とのことで、早期に逮捕されることを詩乃も明日奈も望んでいる。
その恭二だが、実は面会謝絶のまま病院を移ることになってしまい、今は遥か海の向こうへと連れていかれてしまった。
場所は詳しく聞いていないが、行き先はアメリカの大学病院で、特に脳科学の研究について非常に進んでいるという話だ。
詩乃はあの晩以降恭二の顔を見ることなく彼がアメリカに連れて行かれたことに少なからずショックを受けた。
どうしてもお礼が言いたかった。せめて顔を見たかった。そう思った詩乃の行動はこれまでの彼女の人生から考えると相当に大きなものとなった。
どれだけお金に苦しくとも学費を工面してくれた祖父母のために勉強を優先していた詩乃だが、これを機にアメリカまでお見舞いに行く旅費を自分で稼ぐことを決めたのだ。
もしかすると稼ぎ終わる前に彼は戻ってくるかも知れない。それでも詩乃は何かせずにはいられなかった。
もちろん彼女は勉強も疎かにするつもりはない。最初こそGGOで自身の愛銃にして相棒である《PGM・ウルティマラティオ・ヘカートⅡ》のRMT(リアルマネートレード)も視野に入れたが、結局詩乃はそれをしなかった。
勝手なことは重々承知だが、それでも詩乃にはヘカートⅡを売ることなど出来なかったのだ。売れば目標金額にはグーンと近づけると分かっていたがそれを無くしてしまえば詩乃は詩乃でなくなる……いや、シノンは詩乃でなくなる気がしたから。
GGOの仮想アバターであるシノンはもう自分の一部だ。そう思える詩乃にとって相棒を切り離すことは出来なかった。
加えて言うなら、詩乃は恭二と再会する時に自分がシノンでなくなっていたらきっと喜ばないという予感もあった。
だから詩乃は一人でやれるところまでやってみたいと言い──明日奈や和人らの協力や援助はやんわりと断った──貧乏学生でありながら生活以外の為にバイトに勤しむ年末を過ごすと聞いている。
余談だが詩乃は先に述べた予感と、どっぷり浸かってしまったGGOという世界への思い入れから《シノン》の弱体化を良しとせず、頻度こそ落ちているもののGGOへのログインは継続し、しっかり月の接続料分は稼いでいたりする。
アメリカに行ったら一度は本場のGGOにログインしたいという思いもあるらしく、腕を鈍らせるワケにはいかないらしい。
そんなわけで詩乃も誘うのは憚られた。誘っても断られる可能性の方が高いだろうし、仮に時間が空いていてもそんなに多忙なら休ませてあげたいと思う。
しかしそうなると候補が中々定まらない。エギルは昼間はお店があるし風妖精族(シルフ)の領主であるサクヤや猫妖精族(ケットシー)の領主であるアリシャ・ルーといったプレイヤーも上げられたが何かしらの問題がついてまわる。
いよいよメンバー選抜が行き詰まり始め、三人並んで「うーん」と頭を捻っていたところで和人のディスプレイから快活な少女の声が発せられた。
「クリスハイトさんはいかがですか?」
「クリスハイト、か……うぅむ」
ディスプレイにはニコニコと笑みを浮かべている長い黒髪の少女アバターが映し出され、白い何も無い空間からこちらを見つめている。
キュイン、とPCに付いている小型カメラが機械音を鳴らした。
公私共に認める和人と明日奈の娘であるところのユイは、人工知能でありながら感情の模倣機能を有し、高いスペックと応答能力を有している。
ユイはその性能の高さと模倣された感情によるものから、従来の受動的AIの枠に留まらず自発的──ともとれる──行動をしばしば起こす。
それは既に珍しいことではなく、ありふれた日常の一コマとして認識されている。
ユイの提案に少し唸る和人。クリスハイト……菊岡誠二郎とはやや盲点だったが、『無い』というほどの人選ではない。
彼はまだVRMMOプレイヤーとしての日は浅いが各種族の領主陣に認められるほどの詠唱術師として一目置かれている。
そして和人の友人関係パーティは総じてSAO関連が根深いせいか皆魔法スキル関係の熟練度が総じて低い傾向にある。
唯一明日奈が半分ヒーラーの能力構成(ビルド)にしているが、一人では心許ない事は言うまでもなく強力なメイジ型プレイヤーは歓迎と言えた。
しかし、どうにも今一歩積極的にあの男を誘う気に和人はなれない。
いろいろお世話になっている相手ではあるのだが、計り知れない……というよりイマイチ信用ならない相手なだけに進んでお近づきにはなりたくないというのが和人の本音だ。
「あの人かぁ……まぁ、悪くはないけど」
直葉はそう呟くと少しだけ難しい顔をする。
実を言えば今この中で一番クリスハイトの中の人と付き合いが長いのは彼女だったりする。
密度で言えば既に和人や明日奈の方が高いと言えるだろう。しかし、和人がSAOに囚われ、目を覚まさなくなってからしばらくして和人の担当となったのは何を隠そう彼、クリスハイト/菊岡誠二郎その人だ。
彼と相対した時、直葉は藁にも縋る思いで気持ちを託したものだった。同時に先日、リアルでの殺人事件に和人と明日奈を巻き込んだ人でもある。
本人にその気は無かったのだろうが、結果的に見ればそういった事実は無視できない。それを踏まえて直葉は可もなく不可もなく、という結論に至った。
「とりあえず連絡するだけしてみたらどうですか、パパ」
娘からの更なる勧めに悩んでいた和人も背を押され、とりあえず確認だけでもしてみよう、という気になった。
和人は一度明日奈と直葉の顔を見渡し、二人とも頷いたのを確認してから自身の携帯端末に登録してあるアドレスを呼び出した。
少しだけ悩む素振りを見せてから短めに文章を打ち込み送信する。というか速過ぎる。
和人のタイピングが脅威の速度だった、というわけではない。単純に驚くほど打ち込みをせずに送信したようだった。
「随分短めの文にしたんだね、なんて送ったの?」
「ん、これ」
明日奈の疑問に答えるべく和人は端末のモニタを見せた。
モニタに映っている文章は非常に短い。
【今日暇?】
これは流石にちょっとどうかと思うと明日奈は苦笑する。
いくらなんでもこれですぐに連絡をくれるだろうか。
そもそも目的を書かないと相手も判断に困るだろう。
明日奈がそう思っていると、
「パパ、ママにメール打つ時はあんなに悩むのにママ以外の人には基本そっけないメールしか打ちませんから」
またもや和人のPCから少女の声が恥ずかしげもなく和人の恥ずかしい秘密を暴露する。対人スキルが激低だと自称して憚らない彼だがそれなりに気にはしているそれを。
少女──ユイの言葉にピシッと和人が硬まり、次いで直葉による「お兄ちゃんてそう言えばお友達少ないもんね」という追加攻撃によってとうとう彼はくるりと背を向けた。
あ、これはいじけた、と非常にわかりやすいその態度に明日奈はまた苦笑してから久しぶりに少しだけ彼をからかうことにした。
ここのところ全敗気味なのでここいらで白星を掴んでおかないとバランスが取れない。
「ふぅん、キリト君は私へのメールだけは悩んでくれるんだ?」
「……そういうわけじゃ」
「違うの?」
「違わない、けど、でも、えっと……」
「ありがと」
「……」
和人は背を向けたまま閉口する。
久しぶりの完全勝利だった。彼は素直な気持ちをストレートにぶつけられる事にあまり耐性がない。
というよりストレートな好意に、だろうか。そのせいか彼の好意の向け方もまた、少し捻くれているところがある。
だが明日奈はそんな彼を好きになったことを後悔していない。好意を向けられる事に弱い彼のメンタルも《可愛いところ》と思えてしまうのは惚れた弱みなのかもしれないが。
なんだか少しだけ甘ったるいような、そんな空気が漂い始めた時、和人の持つ端末が振動した。
相手は考えるまでない。
「あ……も、もしもし」
『やぁ、おはようキリト君。あのメールなんだけど、どういう意味かな? この間の事件についてなら話した以上の進展はないけれど』
「あ、ああ今日はそういうことじゃない。ALOの仲間でちょっと難しいクエストに挑戦するんだけどパーティ人数に空きがあって、暇ならどうかなって」
『難しいクエスト? それって大変なのかい?』
「忙しいなら良いんだ、日曜の朝という貴重な時間を邪魔して申し訳ない。それじゃサヨウナラ」
和人は早口で電話を切ろうと話を終わらせにかかる。
直葉が指を差してくすくすと笑い出した。
「お兄ちゃんテンパッてるとああなるんです」という彼女の言葉に明日奈もなんとなく心当たりを思い出す。
そういえばSAO時代にも何度かああやって急に話を切り上げられ、そのあげく逃げられたことがあった。
どうやら先の会話は予想以上に和人に動揺を与えるものだったらしい。
『わあ!? ちょ、ちょ、ちょっと待った! 待ってよ! 僕はまだ何も言ってないよ!?』
「え、来るのか?」
『誘っておいてそれはないだろう』
「いや、確かにそうだけど一応社会人でもあるし、迷惑なら」
『一応って……僕は歴とした社会人だよ。それに迷惑だなんてとんでもない。公務員ってヤツは週に一度の日曜日はしっかり休みなさいって昔から決まっているんだから喜んで参加させてもらうよ。いやぁ、僕も年が明ける前に君たちとはもう一度遊びたいと思っていたんだ』
「へぇ」
『なにせキリト君の周りには可愛い女の子が一杯いるからね』
「……俺は関係ないぞ。というか公務員がそういうこと口にしていいのか。そもそもみんな年下じゃないか」
『心外だなあ、公務員である前に人間の男だよ僕は。それに年の差カップルなんて珍しくないし、僕と君らでは言うほど離れていやしないよ。それでいつ頃どこに行けば良いんだい? 流石にこの前みたいなスピード違反まがいの飛行は遠慮したいんだけど』
「あ、それじゃあ、う~ん……三十分後? くらいに、えーと……」
和人が明日奈に「どうしよう?」と目配せする。
それに気付いた明日奈は「んー」と顎に手を数秒当ててから答えた。
「リズのお店で良いんじゃないかな」
「イグシティのリズベット武具店に集合ってことで」
『そこなら時間もあまりかからずに行けそうだ。わかったよ』
和人が電話を終えるのと同時に今度は明日奈と直葉が電話をし始める。
すぐに二人とも人差し指と親指で輪を作って笑顔のOKサインを出した。
「リズオッケーだって」
「シリカちゃんも大丈夫みたい」
「じゃああとはクライン、と」
和人が今度は落ち着いたのか、気負いなくいつもと変わらぬ口調でクラインに誘いを入れ、年末の為に昨日から仕事がお休みらしい彼から二つ返事でオーケーをもらいメンバーが確定する。
これであとはいよいよALOにログインしてクエストに望むのみとなった。
既に空気はさっきまでと変わり、茶化すような雰囲気ではない。
「よし、これならなんとかなるかもしれないな」
「なら早く行こっか。一応私アミュスフィア持ってきてるし」
「あ、でもその前に」
勢いづいたところで直葉が恥ずかしそうにモジモジと動いてからちらちらと明日奈の持つ耳かきを見つめる。
明日奈がその意味する所を理解してクスリと微笑んだ。
「早く済ませちゃおうか、おいで直葉ちゃん」
「やたっ」
軽くぴょん、と跳ねる直葉。綺麗な素足がその健康さを物語る。
彼女は家では特に短めのパンツスタイルにシャツという服装を好んでいて、和人に「寒くないのか」と心配されたこともある程だ。
本人曰く「そんなに寒くない」とのことで、時折寒さを感じるのだろうが、余程耐えられなくなるほどで無ければこのスタイルの方が性に合っているらしい。
魅惑の生素足であるこの姿を同級生の男の子が見れば顔を赤くするのは間違いないのだが、幸か不幸かその姿を拝めるのは今のところ家族と家族予備軍である明日奈だけとなっている。
そんな直葉の見た目以上に幼い一面に明日奈の顔が弛む。明日奈は彼女のそんな素直な所がとても気に入っていた。
女子校のそれなりにレベルの高い進学校通いだった明日奈は、周りの友人とこうして気の置けない会話をすることなどほとんど無かった。
あの頃はグループに弾かれぬよう窮屈な歩幅を合わせる事に神経をすり減らし、学力の向上にひたすら時間を費やすことに徹していた。
それが普通だと思っていたし、鬱屈した精神は沈殿し続けていたが、そこから抜けだそうという気力が産まれることは──いつか爆発してしまう予感が燻りつつも──終ぞ無かった。
そのせいか、彼女のさわやかな性格はとても心地よく、ついつい甘えられれば甘やかしてしまうのだ。友人、というよりはもう仲の良い妹に近い位置まで来ているのかもしれない。
「スグ」
直葉が嬉々として明日奈に近寄り始めた時、和人が少しばかり重い声で口を開く。
直葉は何か問題があっただろうかと思い、きょとんとしながら和人の顔を見やると、その顔は少しだけ意地悪そうだった。明日奈ならこう言うだろう──《悪魔キリト君》と。
少しだけ嫌な予感を直葉も胸に覚える。これはあれだ。大事に取っておいたプリンを食べられてしまった時のようなそれに似ている。
朝の稽古後、イタズラで冷たい水を背中にかけられてしまった時のような、そんな和人らしい──明日奈がいない時にはめっきり見られなくなった──お茶目の気配。
まさかさっきの《お友達の件》を根に持って……? それともテンパっていることを指摘したから?
この膨らんだ嫌な予感がどうか外れていますように、と願いつつ直葉は和人に応えた。
「なにお兄ちゃん?」
「……俺が先だぞ」
「えぇ────っ!」
まだ片耳の途中だったんだ、という和人の主張はもっともで、明日奈も「そういえばそうだった」と思い出す。
直葉はウルウルと明日奈を見つめるものの、流石にこればかりは明日奈も困り顔で「ごめんね」と言わざるを得なかった。
順番は順番である。明日奈の中には直葉を大切に思うのと同時に、当然和人を思う心も胸一杯に占めている。
どちらかを選ぶことは難しいが、やはり順番は大切だろう。加えるなら少し、本当にほんの少しだけ彼氏贔屓もあったかもしれないが。
そんなわけで直葉は少しだけ頬を膨らませながら和人の耳掃除が終わるのを待つことになり、結局三人がALOにログインしたのはそれから九百秒……十五分後のことだった。