アルヴヘイム・オンラインに存在する天空都市、イグドラシルシティ。
世界の中心に位置する世界樹、その樹上に存在するこの街はかつて存在しなかった。
この世界の生みの親とも言える妖精王オベイロンこと須郷伸之は、その存在を仄めかしながらもシティマップを作成せず、長いことプレイヤーを騙し続けた。
しかし彼の起こした事件が公になり、運営会社であるレクト子会社《レクトプログレス》も解体された今、この世界は新たに運営を名乗り出た《ユーミル》にタダ同然で委ねられ、実在しなかった天空都市を実現させた。
さらに《ユーミル》の手によって生まれ変わったこの世界は様々なアップデートが行われた。
そのうちの一つが《滞空制限》の撤廃であり、仮想の光の下であれば飛行時間の制限が無くなった。
アルヴヘイム・オンラインの目玉はやはり何と言っても実際に自分の羽根で《飛べること》であり、現状唯一と言って良い天空都市イグドラシルシティは──アップデートによって追加されたアインクラッドフィールドを除けばではあるが──何処の種族領でもないこともあってアルヴヘイムの中で最も活気のある街となっていた。
これまでは世界樹に最も近い《アルン》がその役目を担っていたのだが、こればかりはRPGの性というものだろう。新しい巨大都市に自然と人……プレイヤーは集まる物だ。
そのイグドラシルシティ──通称イグイティのメインストリート、大通りの一画に白い飛竜(ワイバーン)のエンブレムが箔押しされた看板が上げられた店がある。
アルヴヘイムの妖精語で《リズベット武具店》と書かれたその店は言わずもがな、我等の鍛冶師である鍛冶妖精族(レプラコーン)リズベットが切り盛りするプレイヤーショップだった。
彼女は、いや彼女とエギルはSAO時代のステータスを引き継いでいるせいもあって、SAO時代同様職人系スキルを生かしたゲームプレイを貫いており、大きなクエストなどに挑戦する前はみんな彼女の店で武器の耐久値を最大まで戻しておくのが仲間内でお約束となっていた。
「よいしょお! 次ィ!」
リズベットのピンクヘッドが勢い良く揺れ、研磨し終わった短剣(ダガー)をドン、とテーブルへ乗せる。
鈍色の短剣はきらきらと刀身を輝かせていて、その耐久値がMAXまで底上げされたことがエフェクトからも見て取れた。
そこへとてとてと近付くのは猫耳を生やした猫妖精族(ケットシー)であるプレイヤー、シリカだ。
彼女の頭の上には白い小竜が身を丸めて鎮座している。SAO時代からの付き合いである使い魔《ピナ》は相変わらず彼女の頭の上がお気に入りだった。
「ありがとうございます」
「良いの良いの。次はクライン、出して」
「ン、じゃあ頼まァ」
呼ばれたクラインは、これまたSAO時代から愛用している物……に大変よく似たバンダナを額に巻いた姿でガチャリと重そうなカタナをリズベットへと手渡す。
モンスターレアドロップ品であるそれは、伝説武器に比べれば無論見劣りするもののヨツンヘイムでも十分に戦い抜けられる潜在能力を秘めている業物の一振りだ。
リズベットは「任せなさい」と応えるとすぐにカタナの研磨に取りかかった。
ゲーム内での武器作成や修復、研磨は言ってみれば鍛冶スキルのスキル使用に過ぎない。
スキル熟練度はスキルの使用頻度によって上がっていくので、人によっては事務的・機械的にただ数をこなす者も決して珍しくない。
だがリズベットはそれを良しとせず、必ず自分の仕事に心血を注いでいた。耐久値回復の研磨にしても、耐久値の全快という得られる結果が変わらないからといって手を抜かず、常に真剣に取り組んでいた。
研削機のように高速回転する円盤状の砥石へゆっくりと刀身を近づけていき、バチバチッとオレンジの火花を散らしていく。
現実世界と違い目が灼かれることは無いがその火花エフェクトは目を眩ませる効果はある。と言っても先も言ったとおり目が眩み手元が狂ったからと言って失敗にはならない。
だがリズベットは慎重に刀身を研磨する。失敗しないことがイコール成功とは安易に彼女は捉えず、ゲームといえど仕事として持てる最高の腕を奮いたかった。
そうして磨かれた武器は、使用者曰く「NPCの時と輝きが違う気がする」と述べている。
ALOの武器はSAOのそれと同じく強化していくことが可能であり、強化量によってそのテクスチャカラーに深みが増していく。
リズベットが研磨した武器は、不思議なことにどことなくワンランク上の強化をイメージさせるようなエフェクトを放つ。
攻撃力等にボーナスはなく、実際の強化と違うので耐久値によってその輝きは失われてしまうが、それこそ仮想といえど《本物》である証とも取れる。
だからリズベットは決して仕事に手を抜かない。また、リズベットに研磨してもらった武器の見栄えの良さと、耐久値減少のエフェクトがわかりやすいことから、彼女の店には仲間を含めたリピーターがそれなりにいた。
本当はそれ以外の目的で来るプレイヤーもいるのだが、「またお願いしますね」と言う彼女の満面の笑顔を見ると、ほとんどのプレイヤーはただの常連客になってしまうことを彼女は知らない。
「どっこいしょお!」
あまりに乙女らしからぬ声を上げてリズベットはクラインの愛剣を宙へと掲げた。
そんな声を度々上げることを一般常連客が知らないことは幸いなのだろう。たぶん。
リズベットは「んー」と小さく唸りながら片目で剣先を睨んだ。キラリと鈍色に光が反射して刀身の輝き、いや煌めきとも呼べるそれが透き通った刀から放たれている。
「うし! おっけ。一丁あがり!」
「おう、サンキュな」
リズベットからカタナを受け取ったクラインは慣れた手つきでスラリと鞘に刃を仕舞い込んだ。
その動作を見ていたリズベットの目がキラリと光る。彼女の琴線に何かが触れたのだ。
「クライン、その鞘だけど」
「あン? ああこれか?」
「それただの安い鞘じゃない? その辺の店で二束三文くらいの」
「おう、まぁな。鞘に関しちゃ特に気にしてねェし」
意外なことかもしれないが、モンスタードロップの武器の類はその鞘などが付いていないことが多い。
そのせいか人によっては鞘に仕舞わない人もいれば、適当なショップで安い鞘を見繕う人もいる。
鞘自体に特別な効果があることは稀で、あっても現在ではまだたいした効能が発見されていない為、鞘に気を使うプレイヤーは少なめだった。
だが、やはり《ステータス》としてはそれなりに良い物を持っていたいというのがプレイヤーの性でもあり、仕事になりそうな物に食いつくのが商売人、もとい商人系プレイヤーの性である。
「勿体ないわよ、せっかくそこそこの剣を持ってるんだから。なんなら私が作ってあげようか?」
「ン? そうかァ? う~ん、どうすっかなァ」
「そうだ、私の店のエンブレムを押させてもらえれば広告料ってことで今なら二割引にしてあげても良いわよ」
リズベットはビッと白い手袋を着けた指を二本立てて見せる。
それをクラインは「むぅ」と唸って首を振り、決断した。
「二割引……うし、わかった。頼むわ」
「まいど! 今日のクエスト終わったら取りかかるから」
ニシシ、というズルそうな笑みを浮かべながらリズベットは予約票にクラインの名前を書き込んでおく。
予約票の厚さは中々のもので、これまでの彼女の仕事量が窺えた。
その様子を眺めていた、アスナとは似て非なるマリンブルーのロングヘアを飾り気のない片分けにし、簡素なローブを纏った細身で長身のプレイヤーが口を開く。
「いやぁ、商売上手だねえ」
「リズさんは時々エギルさんよりも商魂逞しいですよ」
相槌を打つようにして金のポニーテールを揺らしたのは、風妖精族(シルフ)の直葉/リーファだ。
彼女の腰に差している剣は既に研磨済みであり、彼女の鞘もリズベット謹製のものへと最近新調させられている。もちろんリズベット武具店のエンブレムが箔押しされたものだ。
ちなみにリーファの時は半額だったのだがここでは言わない方が良いだろう。
リーファの言葉を聞いた水妖精族(ウンディーネ)のクリスハイトは苦笑しながらぐるりと部屋にいるメンバーを見渡し、ダガーの出来を見てニコニコしているシリカと、その頭の上にいる小竜ピナを見つめてから丸テーブルで向かい合うようにして座っている彼女、リーファに向き直った。
「将来は良い奥さんになりそうだね、彼女」
「口説くなら今のうちじゃないですか?」
「あははは。負けると分かっている勝負をするのはちょっとねえ」
いくら年の差を気にしなくとも、全く脈のない異性相手に何も考えずアプローチ出来るほどクリスハイトも女性慣れしているわけではない。
ましてやそれが歪な形とはいえ知り合いと言えば尚更で、そういった関係に発展させるのはある意味では難易度が増している。
「男の人って負けると分かっていても引けないものじゃないんですか?」
二人を挟むようにして置いてある丸テーブル。その上にちょこんと座って足をパタパタさせている小妖精……ナビゲーションピクシーであるところのユイが口を挟んだ。
彼女の今の服装は小妖精サイズでありながらナビゲーションピクシー本来のものではなく、SAO時代に着ていた真っ白なワンピース姿だ。
アスナは結局SAOの中ではあまり作って上げられなかった服をこのALOで完成させ、ユイにプレゼントしている。
ちなみにサイズの関係から同じ物を小妖精用と少女アバター用と分けて作っており、種類こそまだ多くないがユイを大変喜ばせた。
今日はヨツンヘイムに向かうと言うことで、かねてよりアスナが用意してくれていた小さめの紅いマフラーも持ってきており、ユイの膝の上に置かれている。
「誰が言ったんだいそれ?」
「クラインさんです」
呼んだか? とこちらを向くクラインにユイは手を小さく振る。
クラインは頭を掻きながらサムズアップで応えた。
「あ~、まあ彼は確かにそういう人種かもね」
なんとなく察したクリスハイトは嘆息する。成る程、と。
まあ、気持ちはわからなくもないのだ。男なだけに。
だが全ての男がそうであるわけでもない。
「でもねえ、全ての男がそういうわけでも……」
「この前パパも言っていました。……モンスター格闘場で」
「……後でアスナさんに告げ口しておこう」
今度はリーファが呆れたように溜息を吐いた。しかしその顔は笑っている。
モンスター格闘場とはALOにいるモンスター同士が戦い誰が勝ち残るか賭ける賭場(カジノ)の一種だ。
一日でとんでもない大儲けをする人もいれば当然スッカラカンになる人もいる。
賭け事というものは現実でも同じく必ず負けが来る物だ。そう思えば手を出さない方が無難ではあるのだがゲームだからこそ手を出す人も少なくない。
キリトもゲーム世界でのギャンブルはそれなりに楽しむ方であり、こことは別世界であるGGO──ガンゲイル・オンライン──の中で似て非なるゲームを見事クリアしている。
だが残念なことに儲けは殆ど無かった。そのゲームはこれまでのチャレンジャーがプールした挑戦料の総取り、という物だったのだがキリトが挑戦する少し前にも初見の女性プレイヤーによってクリアされてしまい、溜まっていたクレジットを総取りされていたのだ。
一応キリトも好奇心から挑戦し見事クリアしたが、間が短すぎたせいで利益は本当にたいしたことがなかった。
リーファはその話を思い出したのだ。兄の兄らしい話を聞くと、自然と顔が綻んでしまう。
「キリト君の儲け具合が気になる所だけど……そのキリト君はまだだねえ」
「今アスナさんと買い物に行ってますからね、そろそろ戻ってくると思いますよ」
「今日行くのはそれだけ大変な場所なんだっけ? そんな凄いところに呼ばれるとは僕もキリト君の評価が上がってきたってことかな」
「え? あ、ははは……まぁ、そうですね」
リーファはぎこちない笑いを浮かべる。
彼を誘うその場にいた身としてはなんとも言い難い。
だが、そんな空気を物ともせず小妖精は口を開いた。
「私が推薦したんですよー」
「君が? それは──光栄だなあ」
一瞬、クリスハイトは目を丸くしてから……微笑んだ。ユイもニコニコと笑っている。
リーファは何だかその二人の顔に違和感を覚えたが、それ以上何か感じる前にリズベット武具店の扉が大きく開かれた。
「ただいまー!」
ブルートルマリンのような水妖精族(ウンディーネ)特有の碧い髪。だが姿形は現実世界そのままの姿であるアスナは元気よく店へと入ってきた。
その後に続いて黒いコートを纏った現実とは違う影妖精族(スプリガン)アバター姿のキリトが続く。
彼はメンバーの中では唯一SAO時代のアバター引き継ぎを行わなかった。ステータスこそ引き継いでいるが《ビーター》の姿を残したくないとの彼の考えから見た目はもう現実世界の彼のそれではない。
それでもユイの強い要望により、もともとはツンツンと跳ねていた黒トンガリな頭をそれなりのユルドを支払うことによってサラッとした髪型へヘアチェンジし、現実の彼の雰囲気に近い物となっている。
「いやあ、キリト君の能力構成(ビルド)って力持ちだからさあ、いくら買っても上限来ないの! つい買い過ぎちゃった」
てへっ、とはにかむ彼女にほっこりとされながらキリトはユイのいる丸テーブルの上に買ってきた大量のポーションをオブジェクト化する。
SAO同様、ALOの所持アイテム容量はプレイヤーのSTR値に左右される。だがALOはSAOと違いその辺のステータスが目に見える形での数値化が為されない。
その為にキリト自身も今自分のSTRがどれほどになっているのかはわからなかった。
ユイは邪魔にならぬようキリトの肩にちょこんと腰掛けている。彼女は比較的キリトの身体の何処かに座ることを好むのだ。
「結構な数買い込んだからポーション切れは無いと思うけど、みんなもしっかり準備してくれ」
キリトの言葉を皮切りにしてみんなポーションをストレージへと詰め込んでいく。
何せこれから向かう先は最難関ダンジョンと言っても差し支えない程の難所である。
準備をするに越したことはないのだ。
「お、戻ったのねキリト、アスナ。アンタ達の剣もちょうだい、直しちゃうから」
「うん、お願いね」
「頼んだ」
二人はそれぞれ愛用の武器を預けるとソファに並んで座る。
その姿にリズベットがツッコミを入れた。
「あんたらあんまり周りに遠慮しなくなってきたわね」
リズベットの言い分に「ウンウン」とクラインも頷いている。二人はぴったりとくっついてソファに座っていた。
言われてキリトは少し気にしだしたのか、うっすらとフェイスエフェクトをピンクに染め、僅かにアスナと距離を取る。
アスナはそんなキリトにくすくすと笑いながら開いた隙間を埋めるようにキリトへと手を重ねた。
キリトはギクリとするが、動けない。
「熱いねえ、羨ましいよほんと」
クリスハイトの皮肉にキリトはもう何も言えなくなり、開いた手で必至にメニューを弄っている。
いや正確には弄っているフリをしている、だろうか。今彼がメニュー画面にてやるべき整理など殆ど無いはずなのだから。
やれやれ、と苦笑しながらリズベットは研磨の為に一度引っ込む。
話が一度一段落したところでアスナがリーファに話しかけた。
「す……リーファちゃん、ちょっと街で聞いてきたんだけど」
「どうかしたんですか?」
「うん。今回エクスキャリバーが見つかった経緯なんだけど、どうもおかしいの」
アスナは街で仕入れてきた話をリーファへと説明した。
どうやらエクスキャリバーは見つかったのではなく、NPCによるクエスト報酬になっているらしい。
このクエスト報酬というのがまた難物で、お使い系や護衛系ではなくスローター系……つまり虐殺系のものなのだ。
ようするに《○○というモンスターを何匹倒せ》や、《アイテムを何個集めろ》と言った類のモンスター虐殺における条件クリアがクエストフラグとなっている。
そのせいか今ヨツンヘイムではPOPの取り合いでギスギスした空気が蔓延しているらしい。
どんなゲームでもモンスターPOPのリソース量という枷からは現状逃れられないので、VRMMOの仕方のない点とも言えるが。
「でもそれっておかしいですね。確かエクスキャリバーは……」
「そう。あの氷のダンジョンの中にあったでしょ? それがNPCからのクエスト報酬って変じゃないかなって。それでこれまでにもそういうことがあったのかリーファちゃんに聞いてみたかったんだけど……」
「う~ん、私の知る限りそんな話は聞いたことがなかったですね。ある場所がわかっているのに別のクエストフラグ……なんかどっちかが間違っているのかも」
リーファも難しい顔をして眉根を寄せる。
流石にこれだけの情報では真実を見極めることは難しい。
そうして二人が「う~ん」と唸っていると、場にそぐわない「わあああ!?」という驚く声が上がった。
一斉に視線がそちらへと集中する。そこにはピナに威嚇されるクリスハイトの姿があった。
「わあ! ごめんごめん! そんなに怒らないでくれ!」
「ピ、ピナ! すみませんクリスハイトさん」
一体何をやらかしたのか、シリカの頭の上でピナは毛を逆立たせて臨戦態勢に入っていた。
ピナは基本的には主以外懐かない。例外があるとすればキリトと……ユイだろうか。
ピナはAI搭載型テイムモンスターだ。ただAIと言ってもユイほどのものではなくもっと単純な思考プログラムしか働いていない。
いや、この場合ユイの方が規格外と言うべきで、ピナは平均よりも優秀過ぎるほどだ。
SAOでもテイムするのは非常に難しい──実際にはオンリーワンだった──フェザーリドラであるピナはその稀少さから主以外にはめったに心を許さない。
それでも主が認めればある程度の接触は可能なのだが、気難しいというのが実際のところだ。
だが何故か例外的にピナはキリトからの接触は拒まない。時折自ら彼の傍に寄ることもあるほどで、こればかりは主人であるシリカ本人も首を傾げていた。
ユイの場合はキリトのそれとは少しばかり違い、ある意味で《同族》と言う立場からくるものもあるだろう。
それでも仲が良いことに変わりはなく、時折ユイはピナの背に乗って宙を飛び回ったり、フサフサの毛を布団代わりに丸まって一緒に眠っていたりする。
「いや、僕も悪かったよ。あんまりモンスターに触る機会なんてないからつい。現実でも動物に触れる機会なんてめったにないしね」
フーッ! といきり立つピナから離れ、クリスハイトは高い位置にある頭をペコペコと下げる。
ピナがああやってシリカ以外の人を威嚇するのは特筆して珍しいということはないが、それでもシリカが見ている前では良く起こることではない。
大抵はシリカの意を汲んで少しくらい触られるのは我慢するのがピナの常で、よっぽどの悪意でも無い限りはそうそうピナは暴れたり威嚇したりはしないのだ。
だからこそ、キリトは尋ねた。
「おいおい、何したんだよ」
「いやぁ、珍しかった物でね。触っても大丈夫って言うから、こう翼を撫でたら嫌われちゃったようで」
「そりゃアンタが悪いよ。ピナは特に翼が敏感なんだ」
大抵触る人は頭を優しく撫でる程度で、ピナはそれについては比較的我慢してくれる。
気に入っている相手に対してはむしろ喜びを表現するほどだ。
だがピナは翼を触られることだけは強硬に拒む癖がある。
今までまともに触ることを許されたのは先に挙げた三人、シリカ、キリト、ユイくらいのものだろう。
アスナやリーファ、リズベットでさえ誤って翼に触れてしまうとピナの不興を買ってしまう。
そこはいわゆる逆鱗のようなものなのかもしれない。
「そうかあ。それは悪いことをしたなあ。でもさ、何だか気になるじゃないか。実在しないドラゴンの翼ってどうなっているのかなって」
「まぁ、気持ちはわからなくもないけど」
「鳥類の物とも違うしコウモリみたいな飛膜とも違う。あ、そうそうコウモリと言えばね、パラオに行った時のことなんだがアッチではコウモリは食用とされていて食べられるんだよ。これが意外に美味しくてね、なんとスープに丸ごとコウモリを入れてあるんだ。ねっとりとした黒い翼がスープまみれで光っていてさ、頭がそのまま残っているから牙も見えるけど向こうの人に言わせるとそこが一番絶品らしい。内蔵がちょっと苦いけどスープは美味しくて……ってわあ!? なんだ!? ちょ、ごめんごめん!? よくわからないけどごめん!」
クリスハイトの説明を途中で塞ぐように、再びピナは彼を攻撃しだした。
何度も鼻先で突くように威嚇すると引っ掻くような攻撃でクリスハイトの頭を執拗に狙う。
溜まらずクリスハイトは口を閉じて数歩後退った。
ピナの後ろでは顔を青くして口を押さえているシリカがいる。……無理もない。
「アンタいい加減その悪趣味な話をするのは控えろよ……」
「失礼だな、僕はただ外国で食べた食べ物の説明を………………うん、わかった。この話はオシマイにしよう」
ギロリ、と部屋中の女性プレイヤーに睨まれ、クリスハイトは口を閉じた。
彼は自身が経験した日本の大衆向けとは言い難い料理を意気揚々と紹介する悪癖がある。
これにはキリトも閉口するばかりなので、女性陣には尚のこと嫌だっただろう。
クリスハイトが口を閉じたところでリズベットの最終仕上げが終わり、全員武器耐久値のフル回復が完了した。
キリトとアスナはそれを受け取ると出来に満足してから装備する。これで準備は万端だ。
するとアスナがにこやか~な笑みでキリトの背中を軽く叩き「はい、じゃあキリト君が挨拶」と彼を部屋の中央へ押しやった。
えええ? と慌てるも、既に全員の視線が彼に集まっており、今更逃げられる雰囲気でもない。
救いなのはみんなが気の置けない仲間だということくらいだろうが、人に頼られたり注目されたりするのが苦手なキリトとしては無用な緊張感も滲む。
それでもふぅ、と息を小さく吐くと覚悟を決めたように口を開いた。
「何か始まる前にドッと疲れたけど……みんな、今日は集まってくれてありがとう。今日は大変な一日になると思うけど宜しく頼むよ。このお礼はいつかするから。精神的に」
クスリ、と小さな笑みがアスナから零れる。「精神的に」と言うのは彼の口癖のようなものだ。
正確には彼の母親譲り──実際には叔母だが──の言葉だが、彼らしさが全面に出ている。
それはとても良いことだ。
「それじゃ……頑張ろう!」
全員で「おおーっ!」と合わせて声を上げ、パーティはエクスキャリバー獲得の為に最難所と思われる地下世界ヨツンヘイムの氷塊ダンジョンへと向かい始めた。
地下世界ヨツンヘイム。
本来ならそこへ行くにはアルンから東西南北に何キロもある階段ダンジョンを踏破し、強力な守護ボスを倒すという工程を踏まえなければ辿り着くことが出来ない。
だがそんなことをすれば最低でも二時間以上はかかるし、アイテムなどの消費もかなり激しい。
そこで、ここではチート並の裏技を使うことにする事が決まっていた。
マップに表示されないアルン裏通りの細い路地を左右に駆け、階段を上り下りして民家の庭を通り抜けた先に一つの扉がある。
見た目は何の変哲もない円形の木戸で実際には開かない装飾的オブジェクトのようにも見えるそれは、案の定そのまま開こうとしてもピクリとも動かない。
だが、リーファがベルトポーチから一つの小さな銅鍵を取り出し、鍵穴に嵌めて回すとガチャリと音が鳴って扉が嘘のように開く。
「おお……!」
キリトは既にリーファやアスナと一緒に来たことがあるから知っているが、初めての面々は流石に驚く。
まさに裏近道。隠しダンジョン。扉の中は薄暗い下り階段がひたすら伸びていて終わりが見えない。
扉は全員が入った後自然に閉まっていき、ガチャリと自動で鍵がかかった。
これは決して外側からは開けられない仕組みなのだ。あの鍵はいつの間にかリーファのポーチの中にあったと言うから、恐らくはそういう仕組みなのだろう。
「これ、どれくらい長いんだ?」
「アインクラッドの迷宮区タワー丸々一個分くらいはあったかな」
「げえ……」
聞いておいて少しばかり嫌そうな顔をしたクラインだが、文句は言わずに着いていく。
そこまで横には広くも無い暗い下り階段。モンスターが出れば戦いにくいことこの上ないが幸いここでモンスターがPOPしたことは今のところ一度も無い。
「なんかコウモリが出そうな場所だねえ」
「まだ引っぱる気かオイ」
「いや、そんなつもりじゃないんだけど」
女性陣の目に見えない重圧にたじたじになりながらクリスハイトは弁解する。
女性メンバー多めのパーティで女性を敵に回せば……考えるだに恐ろしいのでそれ以上は口を開かない。
だが流石にいつまでたっても同じ暗い下り階段を下りているだけだとダレてくる。
「まだかー?」というような声をクラインが三度も上げてしまうのは無理からぬことだ。
しかしその三度目のクラインの声が上がった時、仮想の肌をひんやりと冷たい風が撫で、みんなの身を震わせ始めた。
それによって出口が近いことを知り、些か全員が急ぎ足になる。一気に駆け抜け、階段を下りきると、そこは切り立った崖のような場所だった。
高さはざっと千メートル以上はあるだろう。
「さっぶ!」
まずリズベットが声を上げた。地下世界ヨツンヘイムは氷の世界なだけあってとにかく寒い。
吐く息は白く、ぶるぶると身体が震える。ピナなどはシリカの為に首周りにギュッと抱きつきマフラー代わりになっている。
だが寒い一方で一面氷の世界であるヨツンヘイムは神秘的でもあった。氷は本来透明なはずだが薄いブルーの光が反射してなんとも幻想的な世界を醸し出している。
さらにこの広大な地下世界ヨツンヘイムの真ん中には差し渡し一・五キロはある底なしの大穴、通称《中央大空洞(グレートボイド)》があり、その穴の中心の上に薄青い氷塊によって出来た逆ピラミッド型のダンジョンがある。
そこが件のエクスキャリバーが眠っている場所というわけだ。
全員が一通り辺りを見渡したところで、アスナの滑らかなスペルワードが耳に入って来る。
薄青い光が身を包み、それによって寒さが軽減された。凍結耐性上昇の支援魔法(バフ)をかけてくれたのだ。
HPゲージの下にその旨を示すアイコンも表示される。
「ありがとうアスナ」
「ううん」
「キリトにはいらなかったんじゃないのー?」
お礼を述べるキリトに、意地悪げなリズベットが口端を釣り上げた。
どういう意味だよ、と視線を向けると、
「確か……鍛え方が違うんじゃなかったっけ? キリトは」
「げっ、まだ根に持ってたのかよ」
アスナが何の話? と首を傾げるが、リズベットはニマニマとした顔をするだけで答えない。
……なんだか面白くなかった。
「キリトくん?」
「え?」
「どういうことなのかな?」
「え? あ、いや、えっと……たいしたことじゃないんだけど、SAO時代にちょっと」
「ふぅ~~~ん」
キリトはじろ~~っとした目でアスナに見つめられ、最後に「後でしっかりお話聞かせてもらいますからね」と久しぶりの副団長モードのような声色でぴしゃりと決められた。
別に隠すほどのことではないのだが、話せば少々長くなるので今はクエストに集中する為キリトは説明を後回しにした。だがそれがアスナには益々面白くなかった。
つーん、と顔を逸らしてしまう。女心と秋の空。今はヨツンヘイムのように厳冬の季節が舞い降りているのかもしれない。
それを見ていたリーファは苦笑しながら右手人差し指と親指で輪を作り、桜色の唇に含んで文字通り指笛を吹いた。
二人のことについては心配などしていない。あんなことは実は日常茶飯事なのだ。
それを一番間近で何度も見ているリーファからすれば「ああ、またか」という程度にしか感じない。
言い換えれば二人にはそれだけ強固な絆があるということなのだとさえ思えてくる。
その事に、最初の頃こそ少しだけ胸を痛めていたリーファ/直葉だが、今はそれさえも自然に受け止められるようになっていた。
リーファの中ではアスナの存在がどんどん大きくなっているのだ。ともすれば、兄と同じくらい大切と言えるような程に。
だから、時々今のように二人が喧嘩とも呼べないような仲違いをするとリーファはどうにもアスナ側に付くことが多くなってきた。
そこに一抹の寂しさを感じてユイに慰めてもらっているキリトがいるのは秘密である。
閑話休題。
リーファの吹いた指笛に反応するように遠くから「くおぉぉぉー……ん」という鳴き声が聞こえる。
遠くに見えるのは白い光点。それがみるみるこちらに近付いて来てその姿を露わにする。
白く平べったい魚のような、あるいはシャモジのような胴体。その側面には四対八枚のヒレに似た白い翼付いている。
身体の下には植物の蔓のような触手がたくさんウネウネと動き、頭部には片側三個ずつ計六個の黒い眼と象をイメージさせる長い鼻が伸びていた。
それは象水母のような邪神モンスターから羽化した姿のトンキーだった。
「トンキー! ダンジョンの入口までお願い!」
リーファの頼みに「くおーん!」と一鳴きしたトンキーはフワフワと身体を宙に浮かせたまま背中をこちらに向ける。
リーファは一番乗り! とばかりに高くジャンプしてトンキーの上へと飛び乗った。
ここヨツンヘイムは地下世界だけあって日が当たらず、妖精族はその羽根の輝きを失っている。
ようするに設定上の問題でヨツンヘイムは飛行不可能エリアになっているのだが、リーファにはまるで恐怖などないような軽やかなジャンプを見せた。
しかしその後が続かない。これまで高いところを散々飛んでいて何を、と思うかも知れないがそれは空を飛べる羽根が自由に使えるからこそであり、頼もしい空の移動手段が封じられると高いところは普通に……恐い。
なにせ高所ダメージは普通に摘要されるので、万一落ちてしまえば一発死に戻り確定だ。
スキル値にもよるが高所ダメージは十メートル程度から発生し、三十メートルを超えるとほぼ確実に死亡するので余裕でオーバーキルである。
中々続かないメンバーにリーファが首を傾げて全員を見やる。その目は「早くおいでよ」と訴えていたが中々みんな一歩を踏み出せない。
そんな中、キリトが「あ~っ、もう!」と声を上げると、アスナの手を掴んで引き寄せ、彼女を抱き上げる形のままトンキーへと飛び乗った。
「え? ちょ、きゃっ!?」という可愛らしい声をアスナが上げた一瞬後にはもう二人はトンキーの背中に乗っており、アスナはキリトの腕の中にいた。
「ちょ、ちょっと危ないよキリト君」
「ごめんごめん」
「も、もう……仕方ないなあ」
照れたようにもじもじと動きながらアスナはしっかりと抱き留められているキリトの腕に手を乗せるが離れる気配はない。
リーファは「やれやれ」と苦笑を零した。仲直りまでの最速タイム更新である。
それを見たメンバーは何だか急に馬鹿らしくなってそれぞれがトンキーへと飛び乗った。
まるで「落ちて死んでもいーや」というような投げやりっぷりである。人、それをヤケクソと呼ぶ。
「よーし、それじゃトンキー、ゴー!!」
「くぉぉおおーーん!」
リーファのかけ声にトンキーが反応し、バサリと四対八枚の白い翼を羽ばたかせてトンキーは動き出した。
だが進み出して幾ばくか経った頃、トンキーは急にピタリと止まるとおよそ高度一千メートル付近である高さから突如として高度五十メートル付近まで急降下した。
シリカなどは絶叫マシンが大の苦手のようで偶々近くにいたクリスハイトの服をギュッと掴んで目を瞑っていた程だ。
もっとも、
「やっほ────────い! もう一回やってくれないかなあ」
などとのたまう風妖精族(シルフ)の猛者もいて、一瞬浮上しかけたトンキーに全員で「やらんでいい!」と言ったのは仕方のないことだった。
しかし、何故急にトンキーは急降下を敢行したのか。まさかリーファの好みを知っていて楽しませよう……としたわけではあるまい。
その疑問はすぐに解けることになる。
「くるるぅぅーん」
トンキーが悲しげに鳴き声を上げる。
何事かと思い見て見れば、眼下では長い触手の上に饅頭型胴体があり、長い鼻と大きな耳をした象のようなクラゲ型モンスターが大人数のプレイヤーに攻撃されている。
攻撃を受けているのは間違いなく羽化前のトンキーと同族だろう。
しかも驚いたことに攻撃しているのは人間のプレイヤーだけではない。
大柄なノームの六、七倍の上背があり、体型は人型だが腕は四本生えていて、顔は縦に三つ並び、肌の色は鋼鉄のように青白く、眼は鈍い赤色をしている邪神モンスターがトンキーの同族を攻撃している。
あれはかつてトンキーを殺そうとしていた邪神と同じ種族だ。
「誰かのテイムモンスター、なのか?」
「まさか! 邪神級モンスターのテイム成功率は最大スキル値に専用装備でフルブーストしてもゼロですよ!」
モンスターテイムに優れた猫妖精族(ケットシー)であるシリカがそう言うのであれば間違いあるまい。
しかしそれならトンキーはどうなんだ、という話にもなるが、トンキーは恐らくテイムモンスターではなくクエスト報酬による解放NPCのようなものだろう。
特別なクエストをクリアすると現れる、限定的に力を貸してくれるNPCというものはゲームにおいて割と存在する。
恐らくだがトンキーはそこに大別されるのだろう。
あの邪神がテイムモンスターでないのなら偶然狙いが一緒だったのか、はたまた今のトンキーのような存在なのか。
息を殺して見ていると、残念なことにトンキーの同族が殺され、光の粒子となって消えていってしまった。
そればかりか象水母邪神との戦闘後、人型巨人はプレイヤーのことを狙わなかった。これで可能性としては前者ではなく後者、つまりトンキーに近いポジションにあの人型巨人はいるのだと推測出来た。
「アスナ、街で聞いたクエスト内容は……」
「うん。多分このことなんだと思う。今騒ぎになっているクエストはきっとトンキーの仲間を一杯倒せっていうような物なんだよ。その間はあの人型巨人も協力者になっているんだと思う」
「調整、なのか。でもそれにしては……」
トンキーの同族を倒したプレイヤー達は新たな標的を求めて人型邪神と移動を始める。
それを見ていたキリトが一人ブツブツと呟いて考え込み出した時、突然《それ》は現れた。
「はぁい♪」
「おわっ!?」
一体どこから現れたのか。
クラインの背中に抱き着くようにして、見目麗しい褐色肌の女性がそこにはいた。
真っ白な長い髪に豊満な体。だが何よりも目を引くのはその扇情的な服装と……背中にある羽根だろう。
彼女の右肩には純白の羽根が生えており、左肩からは漆黒の羽根が生えている。
また、彼女は胸元が縦にパックリとへその辺りまで割れている服……ローブを着込んでいて今にも膨らみが見えてしまいそうだ。
さらにはそのローブの下半身部分をこれまた縦に大きく分けていて、スラリとした褐色肌の生足を惜しげもなく披露している。
一瞬の間をおいて全員が剣の柄に手を伸ばし、止まった。
その女性にはモンスター、つまりエネミーに該当するカラーカーソルが付いていなかったからだ。
すなわち、少なくとも現時点では敵ではないということらしい。
「私の眷属と絆を結んでいる妖精達がいるなんてねえ」
ぽんぽん、と謎の女性がトンキーを叩くと、トンキーは「くぉぉん!」と反応を示した。
彼女は一体何者なのだろうか。その答えはすぐに彼女の口から発せられた。
「私はウルド、湖の女王よ。……今じゃその見る影も無いけれど」
ふわり、と彼女はクラインから離れ、全員の正面、すなわちトンキーの前で滞空する。
確か妖精は光が無いと飛べない仕様──設定なので、ウルドと名乗る彼女は妖精ではないのだろう。
彼女の持つ羽根は妖精たちのそれよりもずっとリアル思考の鳥類のようなもので、どちらかと言えば天使のそれのようにも見える。
「でもここで会ったのも何かの縁。どうか私の頼みを聞いてくれないかしら? ね、オニーサン」
ウルドがクス、と妖美に微笑んで再びクラインの前に近寄る。
クラインはその美貌と……はだけた胸のあたりに視線が集中してしまって口を開けない。
目はニヤけ、口元はだらしなく垂れ下がり、鼻の下が伸びている。
代わりにキリトが気になることについて尋ねた。
「頼みというのは?」
「霜の巨人族の攻撃から救って欲しいの」
ウルドは語る。
このヨツンヘイムは元々世界樹イグドラシルの恩寵を受け、緑豊かな土地だった。
しかしヨツンヘイムの下層にある氷の国、ニブルヘイムにいる巨人族の王《スリュム》によってこのような姿に変えられてしまった。
スリュムはオオカミに化けてこの国に忍び込み、湖の乙女が持つ聖剣を言葉巧みに盗み出した。
さらにスリュムは世界の中心たるウルドの泉に聖剣を投げ入れて、泉の中にあったイグドラシルの根を斬り、それによってヨツンヘイムはイグドラシルから与えられていた恩寵が失われ、ニブルヘイムの放つ冷気に当てられて氷の王国と化してしまった。
分かりやすいようになのか、ホロ3Dグラフィックによってその映像が目の前に流されていく。
世界樹の恩寵が失われてからヨツンヘイムが凍てつくのは本当にあっという間で、ウルドの湖さえも氷ついてしまう。
さらに世界樹の根が氷塊と化したウルドの湖を包むように持ち上げていき、世界の中心に逆ピラミッドのダンジョンを作り上げた。
そこでホログラフィックは音もなく消えていく。
「スリュムは私の湖で作った城をスリュムヘイムとして根城にし、さらに眷属を殺そうとしているわ。全て殺せば私の力が失われ、スリュムヘイムはアルヴヘイムへと上昇できるから。それがスリュムの狙いなのよ」
「……待ってくれ。あの氷のダンジョン……スリュムヘイムだっけ? が上昇なんかしたら上の街は……」
「崩壊するでしょうね」
キリトは息を呑む。
返答の仕方がそこいらのAIよりも《賢い》のはもちろんのことだが、今聞いた話は少々規模が大きすぎる。
そもそもそんなことになれば上の街、アルンは大騒ぎだ。もしこれがアルンが壊れるかもしれないというような大規模のイベントクエストだと言うのなら、流石に前もって運営なり情報サイトなりで話題になるはずだがALOの情報通なリーファも驚いていることから前情報は一切ないと考えて良い。
ほとんどのメンバーが事の大きさに戸惑っておる中、二人のプレイヤーが勝手に口を開いた。
「お任せあれってなァ! ウルドさんの為にチョチョイとスリュムの野郎をぶっとばしてやらァ!」
「男として困っている女性を方っておけないなあ。うん」
「お、おい……! 何を勝手に」
キリトが慌てるも時すでに遅く。クラインとクリスハイトの了承の言葉を聞いたウルドはパーティが依頼を受けたと認識したのだろう。
クラインの前にいたウルドは今度はクリスハイトに抱き着き、甘い感謝の言葉をかける。
「あ・り・が・と。上手くいけばたっぷりお礼して、ア・ゲ・ル」
妖美な台詞とその艶やかな表情にシリカとリーファは何故か頬を紅くして顔を背けた。
どことなくエロリズムを醸し出す彼女の挙動の一つ一つが年少組には少々刺激過多になりつつある。
「良い? 私の頼みはエクスキャリバーを要の台座より引き抜いてもらうこと。今ならスリュムの部下は甘言で動いてる他の妖精さん達に私の眷属を攻撃するのを手伝わせているみたいだから城の警備は手薄なハズよ。それじゃあお願いね、頼もしい妖精さん達」
ウルドはそう言うと、スゥッとクリスハイトから離れて小さく投げキッスをした。
同時に、投げキッスされたクラインとクリスハイトの丁度中間辺りに綺麗にカットされた巨大な宝石がはめ込まれたメダリオンが出現する。
二人は取り合うようにしてそれを掴み、僅かな差でクラインがゲットに成功した。
だが宝石の六割以上は漆黒の闇に染まっていて輝きを発していない。
「それが全て黒く染まってしまったら時間切れ。頑張ってね」
最後にそれだけ伝えるとウルドはウインクしながら妖美に微笑み、小さく手を振ってその姿をゆっくりと消していった。
……なんだかすごいことになってきてしまった。しかも厄介なことにクラインとクリスハイトはもの凄くやる気に満ち溢れている。
キリトは二人に呆れながら少し考え込み、ユイに話しかけた。
「ユイ、どう思う?」
「……」
「ユイ?」
「……あ、はいパパ、なんですか?」
「どうかしたのか?」
ユイがキリトの言葉を聞き返すことは非常に珍しい。
これまで彼女はどんな時でもアスナとキリトの声を聞き逃したことは無い。
「いえ、なんでもないですよ。それで、さっきのウルドさんのことですか?」
「あ、ああ……本当にアルンが壊れると思うか?」
ユイは何でもないと微笑む。
あまりにもいつも通りなその態度に、キリトは引っかかりながらも杞憂だったかと考えることを一時棚上げすることにする。
「可能性はあると思いますパパ。何故ならALOは他のザ・シード連結体(ネクサス)と違い、カーディナル・システムがSAOの複製だからです」
「どういうことだ?」
「ザ・シードによって普及したVRワールドにもカーディナルは存在しますが、それらは全てシュリンク版となっています。しかしALOはその成り立ちからシュリンク版ではなくSAO時代のカーディナルを複製して使用されています。なのでシュリンク版では削られている機能……例えばクエスト自動生成機能などが搭載されたままになっています」
「クエスト自動生成機能……それって」
「はいママ。カーディナルは人間の手の力を借りること無く無限にクエストをジェネレートしていくんです」
「通りでクエストが多すぎると思ったのよ……」
SAOでは75層時点でも一万件を超えるクエスト数があり、とてもではないがフルコンプリートするのは骨だと思われていた。
さらには時折変な内容のクエストも混じっていて、首を傾げるプレイヤーも決して少なくは無かった。
ユイは続ける。
「さらにオリジナルのカーディナル・システムにはワールドマップを破壊し尽くす権限が与えられていたんです」
「なっ!」
「何せ、旧カーディナルの最後の任務はアインクラッドの崩壊だったのですから」
シン、と静まりかえる。
知らなかったSAOの真実を聞き、SAO生還者(サバイバー)達は複雑な気持ちになる。
果たして、何故茅場晶彦はそんな設定にしていたのだろうか。今はもうそれを聞く術はない。
そこで、その話を聞いていたリーファが思い出したように口を挟んだ。
「神々の黄昏(ラグナロク)」
リーファの呟きに視線が集まる。
その声はとても重たかった。
「ずっと引っかかっていたんだけど、スリュムとかウルドとか何処かで聞いたことあるなって。これ北欧神話だよ、だとするとこれから起こるのは……」
リーファはキリト達と違いSAO生還者(サバイバー)ではない。
そのせいかこの中では割と冷静で、気になったことをずっと考え続けていた。
結果、自分の中の知識にヒットするものがあったのだ。もともとリーファ/直葉は神話関係のお話が好みで自室にもそれ関係の本を何冊か所持している。
その中に今の状況に通ずる物があった。それが……神々の黄昏(ラグナロク)。
ごくり、と皆息を呑む。その意味が大方わかったからだ。
しかしそこで唯一間抜けな声をクラインが上げた。
「あのよぅ、オレあんまり神話とか詳しくねェンだけど……ラグナロクって最終戦争、なんだっけか? 神様が戦争でもすンのか?」
「間違っちゃいないけど……そうだね。わかりやすく説明するなら神々達の壮大な喧嘩さ。それによって天地は崩壊するってお話だよ」
クリスハイトが苦笑して簡易的に説明する。
多少語弊を招く言い方だが、詳しく話している時間も無さそうなので、ニュアンスを掴んで貰うという意味ではその説明でも問題ないだろう。
「……それが起こるかもってことか? ンでALOのカーディナルには実際にその権限があると……やべェじゃねェか!」
そう。実際にこのクエストはアルンが破壊される可能性のある時限クエストと既になってしまっている。
その意味では凄くヤバイ。
当初は運営の意図するものではないフィールドの変更なら管理者による修正がされるのではないかと声が上がったが、それにはユイが首を横に振った。
「手動で物理的にカットされた外付け記憶媒体にデータをバックアップしているなら可能かも知れませんが、カーディナルのバックアップ機能を用いていたら修正は不可能です」
望みは薄い。
それでも確認はしてみようと思ったのだが……残念なことに運営、GM(ゲームマスター)には連絡が付かなかった。
「今日は年末の……それも日曜日だからねえ」
国家公務員サマが仕方ないよと苦笑する。
確かに年末の日曜日ともなれば誰だって休みたい。今日だって休みだからみんな午前中から集まれたのだ。
そうなってくると八方塞がりで、自然とどうする? という視線を全員が全員へと向け始める。
答えは……ほとんど決まっていた。
「私、自分が好きになったアルヴヘイムを護りたい」
リーファが口を開く。それが全てだった。
人一倍思い入れがあるのはリーファだが、みんなもそれは変わらない。
「よっしゃあ! ウルドさんのためにも一肌脱いでやるぜ! うお!? このメダリオンどんどん黒くなってくんぞ! 早く行こうぜ!」
クラインが掲げるメダリオンは確かに黒ずんだ闇が蠢き僅かずつその領域を増やしている。
それを見て心底悔しそうにクリスハイトが唇を尖らせた。
「それは僕に向けられた物だと思うんだけどなあ」
「なァに言ってやがる」
バチバチッと火花でも散りそうな視線をクラインとクリスハイトは交わす。
キリトはやれやれ、と思いつつこのクエストを頑張る事に決めた。
どうやらメンバーも皆そのつもりのようだ。当初とは大分毛色が変わってきてしまったが、ゲームの真髄は楽しむことなので、流れに身を任せることにする。
「よし、じゃあ行くか! ユイ、今回はナビを頼むかもしれない……ユイ?」
「………………えっ? あ、はいパパ。わかりました!」
キリトが気持ちを切り替えて音頭を取り、トンキーはダンジョンへと向かい始める。
しかし話しかけたユイはまたしても反応が遅れた。これまでこんなことは無かった。
二回目という事もあって、今度はアスナもその違和感に気付いた。
ユイは人工知能でありながら非常に高度な知能を持ち合わせており、普通のAIならば言葉に困窮するような会話でも難なくこなしてしまう。
一番凄いところはそこにタイムラグがほぼ発生しないところだ。いや、だった、というべきか。
応答に困るような、もしくは難しい言葉の場合、簡易的な応答プログラムしか与えられていないNPCなどは応えに時間がかかったりフリーズしたりすることもままある。
結果、意味不明な事を口走るか、聞かなかったことにするか、遅れてわかりませんと返答するのだが、ユイにはそれがほとんどない。
これまでそうだっただけにキリトとアスナは心配になる。もしかするとシステム的な何か、もしくはおかしなプログラムでも働いていてユイに負担がかかっているのではないだろうか。
それならばユイに許可される範囲でユイのプログラム洗浄……最適化などもキリトの手作業でやるにやぶさかではない。
なんなら今すぐみんなに謝ってログアウトしても良いくらいだった。アスナはそんなキリトの心情を察する。
「本当に大丈夫なのユイちゃん? もし調子が悪いのなら……」
「いえ、大丈夫ですよパパ、ママ。大丈夫です」
ナビゲーションピクシー姿のユイはキリトの肩に降り立つと、ギュっとキリトのとがった耳にくっ付いた。ユイが首に巻いているアスナお手製の紅いマフラーがキリトの頬を撫でる。
ユイは「私がお手伝い出来るなんて嬉しいです!」と元気いっぱいにキリトの耳元ではしゃぎ、それを見たキリトはとりあえず自分の考えを引っ込める事にした。
あまり詮索し過ぎるのはよくない。そもそもユイは不調なら不調だと素直に言う子のハズだ。考えすぎかもしれない。そう思いながら。
キリトの考えに一応賛同したアスナは、自分もそれ以上ユイについて詮索するのを止めた。心配ではあるが彼女を縛りたくなかった。
だって、もしそんなことをすればそれはまるで………………自分の母親みたいではないか。
一瞬浮かんだ思考に、アスナ自身も暗くなる。
だから気付かなかった。考えなかった。
ユイが反応を示さなかった時、一体何処を見ていたのかということを。