アスナの豹変。
最初に我に返ったのはやはりというべきかキリトだった。アスナを再び襲う尻尾攻撃をキリトが弾く。
そこでようやくパーティの硬直が解けた。各々が為すべき位置へと足を急ぐ。
だが、それは決して良い方向へは転ばなかった。アスナの視界には再びキリトと地獄の蠍が収まる。
アスナを庇うようにして飛び出た漆黒の妖精騎士。彼がパリィしたのは尻尾一本のみだった。
残ったもう一本は容赦なく彼を襲い、防御は間に合わず、火花を散らして吹き飛ばされる。
ぐいっと彼のHPゲージが減った。……それだけなら、まだ良かった。
「あ──ア」
キリトのHPゲージの横にはエフェクトが追加されていた。
誰もが知っているポピュラーなバッドステータス。
毒。
キリトを徐々に蝕むそのバッドステータスは、彼女──アスナのトラウマを刺激するには十分だった。
フラッシュバックするキリトの爆散エフェクト。
「いやぁあああああああっ!!!!」
顔を覆ってアスナは座り込んでしまった。
やめて、イヤ、助けて、と泣きながら呟く。
およそボス戦のど真ん中でする行為ではないが、尋常ならざる彼女の姿を責める事の出来る者はいなかった。
だがそれは飽くまで《人》に限った話である。与えられたアルゴリズムに従って動くボスモンスターには関係の無い話であって、空気を読むことも出来ない。
故にその凶刃は容赦なく彼女にも降りかかる。
「アスナッ!」
キリトが勢いよく飛びだし、彼女を担いで床スレスレを転がるように跳ねた。
自身をクッション代わりにして滑るように距離を取る。そうして稼がれた距離の間にクラインとリーファが割って入り二人をフォローした。
「ここは抑えとくからよ!」
「今のうちに!」
「悪い!」
キリトはアスナを抱き上げてフロアの端へと移動する。
アスナは顔を覆って泣いたままだった。
「アスナ、落ち着けアスナ! 俺は大丈夫だから! ここはSAOじゃないんだ!」
「イヤァ……うぅ……あああああっ!」
アスナはゆっくりと覆っていた手を取って、暴れ出した。
視界に入ったキリトの毒エフェクトがイヤでもあの時のことを思い出させる。
「パパ! 早く解毒して下さい!」
いつの間にそこに居たのか。
突然現れたユイが叫ぶ。彼女にしては珍しい怒気を孕んだ声だった。
だが真に驚くべき事は今の彼女の姿だ。今のユイはナビゲーションピクシーとしての小型妖精アバターではなくSAOで作られた元々の少女姿だった。
ユイはアスナを抱きしめる。
「大丈夫です、ママ。パパはここにいます。私もいます、落ち着いて下さい」
静かに、しかしよく頭に響く声で話すユイは、僅かに発光していた。
薄いブルーのエフェクトを纏って座り込んで泣きじゃくるアスナを抱きしめている。
すると徐々にアスナはいからせていた肩を止め、ゆっくりと顔を覆っていた手を落とした。
そこには丁度解毒を終えたキリトの姿。彼のアスナを心配する顔があった。
「あ……」
「大丈夫か? アスナ」
「うん……ごめんなさい。ちょっと取り乱したみたい。ありがとう、ユイちゃん」
アスナは目を真っ赤にしながら娘をギュウと抱きしめ、目を閉じた。ユイは微笑みながらされるがままに身を任せた。
ユイの温かみが、アスナの荒ぶった心を凪いでくれる。静かにゆっくりゆっくりと落ち着かせてくれる。
嫌なことがあった時、不安な時、悲しい時。こうしてユイと一緒にいるとアスナは不思議とそれらを忘れられた。
キリトがALOに囚われていた時も、彼女と宿屋で眠った時は寂しさが和らいでいた。
アスナにとってユイは、一種の《精神安定剤》とも言えた。それをユイは理解している。
いや、正しくはその役目を《引き受けている》と言うべきなのかも知れない。
「良かった、ママ、落ち着きましたね」
「うん、もう大丈夫」
「じゃあパパ」
「うん?」
「アイツやっつけて来て下さい」
「おう任せろ」
「あ……」
ユイのお願いにニカッと笑うキリト。アスナは一瞬何か言いかけて、止めた。冷静になった今、先程の自分がパニック状態だったのは理解している。
だがそれがわかっていても尚、彼にあのボスの相手をして欲しくなかった。彼とあのボスが戦う所を見たくなかった。
だから「行かないで」と言ってしまいそうだった。でもそれを言えばまだ自分がパニックから回復していないと心配を彼にかけてしまう。
それは避けたい。でも行かせたくない。そんな相反する気持ちが胸に渦巻き、知らない内にユイを抱きしめる力を強めていた。
「ママ、ちょっと……苦しいです」
「え? あ……ごめんなさいユイちゃん」
「大丈夫です! ねえパパ」
「ん?」
アスナが手を緩めるとはにかむようにユイは笑ってから彼女の腕の中でキリトに向き直る。
くりっとした大きな丸い瞳が期待するようにキリトを見つめた。
「アイツはママを泣かせましたね?」
「そうだな」
「許せませんよね」
「そうだな」
「やっつけて下さい!」
「任せろ!」
もう一度のお願いにキリトは快く答える。
だが、今日の彼女は珍しく注文を付け加えた。
「無傷で」
「に、二割くらいの猶予は……」
「出来ますよね?」
「えっと……」
「出来ますよね?」
「………………任せろ」
信じ切ったユイの瞳。
それはこの程度のことはやってくれるだろうという期待……ではない。
彼女が期待しているのは母親……アスナを安心させてくれる戦いを見せてくれること。
それを汲み取ったキリトは長い黒髪の頭を一撫ですると口端に笑みを浮かべた。
「久しぶりに、ちょっと本気出すか」
キリトの持つ空気が──変わる。
チリリッと痛いような痺れさえ錯覚させる……気合い。
──表情から、優しさが抜け落ちる。
これまでの彼が本気では無かったというわけではない。
ただそれは《ゲーム》を楽しむという範囲内での話でもあった。
彼の言う《本気》とは、かつてのデスゲームでHPがゼロになれば現実での死と同義という極限状態においての自分のことだ。
ミスは即現実の死に直結する。失敗は許されないというプレッシャー。我が身の命がかかっているという恐怖。
それらがかつてキリトをSAOでのトッププレイヤー集団、《攻略組》の中でも異彩を放つソロプレイヤーとして君臨し続けられた源泉でもある。
この心の領域には、本来狙って入る事は出来ない。いや、もう二度と立ち入ることは無いはずだった。
しかし、必要ならば覚悟をしよう。彼はアスナに「その時は来ない方が良い」と言ったが、必要ならば躊躇わない。
彼女のために、命をかけろと言われれば、今のキリトに拒否はない。
「スイッチ」
小さい言葉が漏れる。
瞬間、クラインは背中から昔感じたことのある《空気》を読み取った。
ゾクリとするような怜悧でいて、鋭いそれはまるで尖った氷柱を背中に突きつけられているかのようだ。
クラインは上手く尻尾の攻撃を弾くと一足飛びで戦線を離脱する。
瞬間──漆黒の旋風が巻き起こった。
ゴウッ! という音さえ奏でてボスが振るう碧色の鉞の隙間を縫うように黒い帯が地獄の蠍に突き刺さる。
キィン、と高い金属音を上げてキリトの剣はボスの前脚代わりの鉞、その付け根の節を見事右手の剣で貫いていた。
だが彼は止まらない。そのまま自身を回転させて横に左手の剣を薙ぎ、反動で距離を取る。
すぐに地獄の蠍……《The Hell Scorpion》の鉞……鎌脚がキリトを襲うが撫でるようにキリトはこれを回避しながら張り付き、ライトエフェクトを宿らせた剣で再びボスを貫く。
そのライトエフェクトが消える前には、既に次の行動へと移っていた。目で追うのも困難なスピードでボスの体を脚から駆け上がり背中の節を伝ってボスの頭部へ渡り、斬りつける。
そのまま空中で一回転ほどしてボスとは五メートル程距離を取った位置へキリトは滑るように退避した。
「……フゥ」
息を吐く音。
彼に笑みは無く、険しい表情でボスを睨み付ける。
今の彼の攻撃で減ったHPゲージは一本のおよそ三割。
一瞬で与えたダメージとして考えればたいしたダメージディーラーぶりだが、ボスのHPゲージは三本ある。
クライン達の参戦によってすでに一本目の七割ほどは削られていたから、丁度これで一本目を消化したに過ぎない。
残り、二本。
「……まだだ。まだ《足りない》な」
普通のプレイヤーの観点から見れば出来過ぎた好プレーだったはずだが、キリトは満足していなかった。
ユイの言いつけは守っている。ダメージは無い。だが、この速度では……《遅い》。
もっと、もっと速く。まだギアを上げられるハズだ。これはかつての全力とは程遠い。
こんな戦い方をしていたなら、あの戦い……《魔王ヒースクリフ》との一戦は十五秒と持つまい。
まだ、あの時の感覚にまで勘が戻っていない。
キリトはしばし──と言っても時間で言えば数秒程度だが──考えてからシステムメニューを呼び出した。
二、三回タップを繰り返し、グイッと左手を横に振った。キリトの持つ剣が一本、消える。
それは戦闘力を半分削ぐに等しい行為だ。
「二本あるから、余計な緩みが産まれる。やっぱ、二刀流はあの境地に達していて初めてまともに扱える物だな。今の俺には一本の方が丁度良い」
二刀流は確かに強力だ。
だがシステムブーストされたソードスキルとして存在しない今のALOにおいて、かつてよりも動きの悪いキリトには宝の持ち腐れと判断した。
そもそも当時は一撃でさえもらうことを恐れて神経を研ぎ澄ませていた。しかし先ほどキリトはユイに「二割までは」と言い訳をしてしまった。
まだ甘えがある。心に余裕があるのは結構なことだが、それは油断にも繋がる。ダメージを貰ってもいい、という心の甘さが、かつてよりも反応を鈍らせている。
その油断が、彼女を不安にさせた。そういえば二刀流とはSAOで最速の反応速度の持ち主に与えられるものだと聞いていた。
今の自分にはその資格はあるまい。
「……」
キリトがちらりとアスナを見つめると、アスナは心配そうにキリトを見つめていた。
ギュッと手は握り拳を作っていて、力が入っているのが窺える。当時は、そこまで不安にさせることは稀だったはずだ。
皆無、とは言わないがそれは大きなフロアボス戦においてのことであって、イベント途中の《中ボス》程度で心配などさせたことはない。
それは、それだけ信頼できる動きを見せてきたからだ。
キリトは理解する。ユイの意図を。
決して彼女からキリトへの信頼が弱くなったわけではない。むしろそれは強まっていると言っていい。
だが、それはより相手を思いやることにもつながる。思いやる心が強くなれば当然些細なことでも心配になる。
ならば。
些細な心配さえさせないよう心がければいい。
実に簡単な理屈だった。その為ならば、かつての心意気さえ復活させてみせよう。
悪のビーター。孤高のソロプレイヤー。ラストアタックボーナス泥棒。
呼びたければ好きなように呼ぶがいい。どれだけの泥を被ろうとも、彼女を護れるならば、喜んで受け入れる。
手始めにコイツだ。いや、コイツで良かったと言うべきかもしれない。
かつてコイツとは《相打ち》になった過去がある。そう言えば《引き分けではダメ》とは彼女の言だった。
コイツくらいチョチョイと倒せなければ彼女の安心は勝ち取れない。ここでコイツと出会えたことにむしろ感謝しよう。
リベンジマッチ、再開だ……!
唖然、とはこういうことを言うのかもしれない。
今はあのユイですら「ほえー」と口を開けて見入っていた。
今ボスと戦っているのはキリト一人だ。何故か戦いに入っていける空気ではなく、クラインもリズベットもシリカも、クリスハイトでさえ空気を読んで観戦に徹していた。
普通ならあり得ない光景だ。こういったMMOゲームのボスというのはパーティが一丸となって戦うものなのだから。
クラインがフッと笑みを零す。確かに普通なら考えられない光景だが、それを何度も作り出してきたのが《キリト》という男なのだ。
それをクラインはよく知っていた。あるいはアスナよりも。
そうだ。これこそ、この無茶振りを通してみせてしまう姿こそ、キリトなのだ。
そう思うとおかしくてたまらない。今、ようやくクラインはキリトと本当の意味で再会した気にさえなっていた。
今のキリトは例えるなら……黒いスーパーボールだった。
とにかく速い。速い上に……跳ねまくるのだ。止まると言うことを知らないとはこういうことなのか。
回遊魚はよくよく泳いでいなければ呼吸ができないと言うが、まさしく今のキリトはそれを思わせた。
いかに仮想世界では肉体的な疲労や呼吸の必要が無いとはいえ、動き続けるのは骨だ。
だというのにキリトは止まらず高速で動き続ける。下へ上へと素早い跳躍と下降を繰り返し確実にボスのHPを削っていく。
一体何度、攻略で彼のこの超人的な動きに助けられたのかわからない。
初期の頃から攻略に携わっていたアスナなどは特にそれを感じている。
彼は凄い。いつまでたっても勝てる気がしない。最初からそうだった。彼は……強くて……恰好良い。
そうだ、彼はそういう人間だった。だから、少しでも彼に近づこうと頑張ってきたんだ。
キリトが不敵に笑う。
そう。今……彼は笑った。
久しぶりに……いや、SAOをクリアしてからは見なかったように思う。戦闘中に笑みを浮かべることは。
彼が笑顔になるのは……表情を見せるのは主にアスナとユイの前でだけだった。
その彼が、まるでSAOでの時のように、今、笑った。
最早勝敗は決した。ボスのHPゲージは残り三割程度。このまま削りきれる……そう思った時だった。
「!」
これまでに無いアルゴリズムでボスが動いた。
ズザザッ! と後退する。これまでこのボスは《退避》という概念が無いように感じたのだが。
アスナの記憶の中のコイツも《逃げる》ということとは無縁に思えた。だからこそ、何か来るとは予想できた。
ボスの尻尾が高く持ち上げられ、鋭い針の先端がキリトに向けられる。
瞬間、針先が閃光のごとく輝いた。
ピカッ! と光を発してレーザービームを放ったのだ。
これはアスナの知る限りSAOでは無かった攻撃だ。恐らくALOにて追加された新モーションだろう。
魔法攻撃。それも目で追うのが困難な詠唱無しの光線攻撃。通常見てから回避するのは不可能に近い。
しかし。
ズバン! と音を立てて信じられない物をアスナは……パーティメンバーは見た。
目にも止まらぬ光線攻撃。それを、キリトは何と《斬った》のだ。
「終わりだ」
トドメとばかりに連撃を与えた後、彼が好む技の一つ、軽めの片手剣用でありながら威力十分の単発重攻撃、ジェットエンジンのような音を唸らせるソードスキル《ヴォーパル・ストライク》──物理三割、炎三割、闇三割──によって大音響と共にボスは爆散した。
キリトは舞い散るガラス片を確認してから左右に剣を振ると背中へと戻す。
そこにいたのはかつてSAOでトッププレイヤーの中でも群を抜いていた時の彼そのものに近かった。
「パパー!」
ユイがすぐにスタタタと近付いていってキリトに抱き着く。
キリトは彼女を受け止めると軽く持ち上げ、キャッキャッとはしゃぐユイを肩車して見せた。
「どうだユイ? パパは強いだろう」
「流石ですパパ!」
「キリト君……」
アスナもすぐに寄ってきて、キリトの服の端を掴む。
顔は俯いたままだが、先程までの切迫した不安定さは感じられない。
「おうキリト」
そこへクラインが片手を上げ、拳を向けて近寄ってきた。
遅れてメンバー達も集まってくる。
「オメェ、《笑える》ようになってきたじゃねェか」
「……ああ!」
ゴツン、と拳を合わせる。
それは、かつてのSAOでの距離感。
そう空気が和やかになった所で、
「ンでよ、さっきのアリャ一体なンだ!?」
一つ前のボス戦と全く同じ事をクラインが口にした。
もっとも今回は全員同じ気持ちだった。
ALOにはSAOに無かった《魔法》があるのは既に周知の事実である。
当然魔法のことはみんな最低限理解していた。魔法は《魔法でしか相殺できない》ことも。
だからメイジにはメイジで、というのがALOのセオリーだった。
メイジ、つまり魔法主体のプレイヤーは魔法が威力も高く範囲も広い一方で使用制限や詠唱によるリスクから近接戦闘には弱いのが通説だった。
逆に言えば、剣の届かぬ位置にいればメイジは圧倒的に有利なのだ。剣士プレイヤーには魔法を防ぐ術などそう無いのだから。
大抵の攻撃魔法には中々性能の良いホーミング機能も付いているので、余程広いフィールドで大きく逃げなければ魔法を振り切るのは難しい。
だが。
その常識をキリトはたった今覆した。
魔法を、剣で斬ってみせたのだ。
「んー、何となくやってみたら出来たってだけなんだけど」
「な、な、何となくだァ!?」
「プッ!」
アスナが急に笑い出す。
これぞ、これぞキリトである。
キリトはその思考や行動からして破天荒なのだが、その破天荒振りで一見無茶に思えることをポンポンやってのけてしまうのだ。
卑怯、とは思わないが「チートや!」と叫びたくなる気持ちはわからないでもない。
「ンなこと言っても物理攻撃じゃ魔法にぶつけても意味ねェだろうが!」
魔法属性の攻撃は純物理属性の攻撃では対消滅できない。
魔法に対しては魔法属性による攻撃しか受け付けられないのだ。
しかし、キリトは不敵に笑ってそれに答えた。
「ただの物理攻撃じゃないとしたら?」
「あン?」
「俺が使ったのはソードスキルだ」
「ソードスキル……そうか!」
「ああソードスキルには属性が付加されているからな」
「ンじゃあオメェ、ソードスキルなら魔法相手でも恐くないってか? そンなことならとっくに広まっててもおかしくねェだろ」
ソードスキルで魔法を攻撃する、ということならこれまでにも考えたことのあるプレイヤーは少数ながらいるはずだ。
だがそれによる魔法の対消滅の話などは聞いたことが無い。
「多分、正確に核を撃つ必要があると思うぞ」
「核ぅ!?」
魔法攻撃は、ほとんどがソリッドな実体を持たないライトエフェクトの集合体だ。
当たり判定があるのは恐らくスペルの中心一点のみ。魔法攻撃は、お互いがぶつかり合う時、幾分お互いを侵食するように混ざり合って中心点が重なった時に初めて対消滅が起こる。
このエフェクトはぶつかり合う魔法が強力であればあるほど派手な演出になるので、それを楽しむプレイヤーもいるほどだ。
この仕様について厄介なのがプレイヤーに対して中心点以外にも当たり判定が適用される点で、実体の無い魔法エフェクトには掠ったりしただけでダメージ判定が採用される。
故に、キリトはこう推測した。
「ソードスキルで属性攻撃ダメージを魔法の中心点に当てられれば魔法攻撃は対消滅できる……まあ賭けではあったけど」
クラインはポカン、と口を開けてキリトを見つめていた。
あっけらかんと言っているがそれはかなり難しい話……のハズだ。
しかし物は試しである。
「クリスハイトよぅ、ちぃっとばかし俺に炎弾とばしてみてくンねェ?」
「ええ? 良いのかい?」
「オウ」
クリスハイトは水属性を得意とする水妖精族(ウンディーネ)だが、火属性の魔法が全く使えないわけではない。
クリスハイトは距離を取ると、短く魔法を詠唱してクラインへと撃ち放った。
「うぉぉぉぉりやぁぁぁあああああああああちちちちちちちっ!? って、熱くはねェンだった」
向かってくる炎弾を得意のカタナスキルで迎え撃ったクラインだが残念ながら魔法を対消滅させるには至らず、モロに魔法攻撃を受けてフロアの床を転げまわった。
そもそもソードスキルを寸分たがわず狙った位置に当てるということが難し過ぎるのだ。
クラインとて手練れではある。狙った位置にソードスキルを当てる技量が無いわけではない。
だがそれは飽くまで《おおよそ》であって針の糸を通すような正確さではない。
そもそもほとんどのボスの弱点は小さくともある程度の当たり判定面積が儲けられている。
だがキリトの推測が事実なら魔法の中心点はそれこそ針の糸を通すような正確さが求められることになる。
普通なら一朝一夕で出来ることではない。ソードスキルはシステムアシストによって体が勝手に動くので尚更なのだ。
魔法自体も動いているのでむしろ思いついても成功させる方が難しい。
恨みがましい目でクラインがキリトを睨むと、彼はまたあっけらかんとした口調で言い放った。
「どんな魔法攻撃も対物ライフルの弾丸よりは遅いよ」
キリトの言に一同──アスナを除いてだが──口を開けて間抜け面をさらした。
そもそも比較対象がおかしいのだが、彼には実際に別のゲームでそれをやってのけた実績があり、それをここにいるメンバーの大半は理解している。
それでも、無茶ぶりなことに変わりは無い。
「……キリの字よぅ」
「なんだよ」
「一発殴らせろ」
クラインの全員を代表したような言葉に「やだよ」と答え、パーティは当初の目的通り先に進むことにした。
アスナもすっかり落ち着いたようだし、時間も無い。ここでアスナの様子がまだおかしければ中止もあり得たのだが、今のところその心配はなさそうだった。
ボス部屋を後にし、いよいよダンジョンも佳境かと思われた。ユイによればあと一つボス部屋らしきものがあり、そこを超えればエクスキャリバーがある場所まで一直線で、戦闘を行いそうな場所は無いそうだ。
あとボス戦は一回と見てまず間違いないだろう。全員やる気を再充填……したところでいきなり判断に迷うような事象に出くわした。
通路の壁際に、細長いつららで出来た檻がある。中には一人の女性──NPCがいるようだった。
肌は降り積もった粉雪のような白で、長く流れる髪は深いブラウン・ゴールド。
身体を申し訳ばかりに覆う布から覗く胸はアスナやリーファ/直葉をもってしても敵わない程たわわに実っていて瞳も深い金色を宿している。
両手両足には氷の枷が嵌められ、青い鎖に繋がれるようにして檻の中にいるが、西欧風の気品溢れる美貌は檻の外にいても十分に伝わってきていた。
「お願い……ここから……出して」
透き通った弱々しい声が、アスナ達の耳に届く。
媚びているのとは違う、しかし何処か引き寄せられそうになる女の声。
否。実際にフラリと引き寄せられた男性が二名。
クラインとクリスハイトは不用心に檻へと二、三歩進んだところで引き留められる。
「はいはい、罠、罠」
クラインの腕を掴んで引っ張るようにたしなめるのはリズベット。
隣では威嚇する様にピナがクリスハイトの前に立ちはだかっていた。
ちなみに残る男性のキリトは動いていない。アスナとユイにガッチリホールドされているせいもあるが、例えそうでなくとも動かなかっただろう……たぶん。
「お、おう……罠、だよな」
「もちろん僕はわかっていたよ、でもさあ、ねえ?」
「なあ?」
クリスハイトとクラインはお互い何かを分かり合ったように頷く。
一応気持ちは分かるものの、無用なリスクは極力避けたい。
「パパ、あの人はHPがイネーブルになっています」
イネーブル、とはつまりHPの概念があのNPCには有効化されているということだ。
通常、NPCは破壊不能オブジェクトよろしくHPなどというステータスはそもそも持っていない。
NPCとは壊れる、殺される事の無い与えられたアルゴリズムをひたすらに繰り返すだけの不老不死の存在なのだ。
攻撃をすることは可能だがシステムに守られ傷つけることは叶わない。
もちろん例外的にNPCにはHPが付与される場合もある。多くはクエストによる護衛イベントだが、時には護衛対象こそが討伐対象となるような話やそもそも最初から倒すべき相手であることもMMORPGでは珍しくない。
この場合、助けたら後ろからブスッ! と刺される可能性は多分に孕んでいた。
クラインとてそれはわかっている。社会人でありながら生粋のゲーマーである彼はそういったゲームのベターな展開など知り尽くしているのだ。
「お願い……誰か」
耳奥に届く鈴を転がすような声は、心の底から助けを求めているように聞こえる。
助けを求める眼差しはその美しい金茶の瞳と相まってとても魅惑的で、もしこれがプレイヤーアバターだったとしたならその持ち主はとんでもない強運か、莫大な課金をしたかのどちらかだっただろう。
男性プレイヤーに媚びるだけで寄生プレイを悠々と送れることは間違いない。
ジャラ……と鎖が床を擦る音がする。氷の檻に閉じこめられた女性は尚も懇願しながらこちらを見つめてくる。
「行くぞ」
「お、オウ」
ここにこのまま留まっても意味はないし、相手がNPCと分かっていても辛くなるだけだ。
時間も限られているので早く先に進むに越したことはない。
「お願い……」
パーティは先へと足を進める。
キリトを先頭に少女アバター姿のままキリトに背負われているユイ、キリトの服の裾を申し訳程度に掴み続けたまま付いていくアスナ。
続く形でリーファ、リズベット、シリカと頭の上で丸まっているピナ。追うようにクライン、クリスハイト。
「誰か……」
か細い声が少しばかり遠ざかった時、隊列の足音が二組分ほど消えた。
振り返ると、クラインとクリスハイトが足を止めている。
「俺はよぅ、例え罠と分かっていても……」
「女性の助けを無視するなんて……」
あ、これはダメなパターンだ。
誰もがそう思った。わかりやす過ぎる。
自然、次に起こるであろうことは誰もが予測できた。
「できねェ!」
「できないなあ!」
各々「それが武士道」だの「漢の生き様」だの叫びながら競争するように踵を返して氷の牢へと駆け戻る。
やっぱりか……と思いつつも何処か憎めないのは人の性なのかクラインの人徳故なのか。
クリスハイトの魔法によって氷の牢は溶かされ、クラインのカタナスキルによって女性NPCの自由を奪う青い鎖は断ち切られた。
自由になった女性は一瞬フラリとよろけて転びそうになり、慌ててクラインが肩を支える。
「大丈夫かい、姉さん」
「手をお貸ししましょうか」
クリスハイトも手を出し、彼女はゆっくりとその手を掴んで体勢を立て直した。
キリト達は諦めたように戻ってくる。
「ありがとうございます、妖精の剣士様、賢者様」
深くお辞儀をしてお礼を述べる女性にクラインはニッと口端を釣り上げてサムズアップした。
恐らく最大限の格好付けであろう。
「なァに乳繰り合うも多少の縁ってね、出口まで一人で戻れるかい?」
「……私はまだここから逃げるわけにはいかないのです。巨人の王スリュムに奪われた一族の秘宝を取り戻すまでは。宜しければ私をスリュムの部屋まで一緒に連れて行っては下さいませんか」
今回のパーティリーダーを務めるキリトの正面にダイアログ窓がポップアップする。
それはFreyja──フレイヤという名前らしいNPC女性のパーティ参加を許可するかどうかの確認画面。
クラインとクリスハイトは困ったような顔つきで助けを求めるようにキリトに視線を投げかけた。
キリトは溜息を吐いてアスナをチラリと見つめる。「どうしよう?」ということだろう。
アスナは「しょうがないなあ」と小さく笑みを零した。決まりだ。いや、最初から決まっていたのかもしれない。
キリトはクライン達に頷いてYESのボタンをタップする。
視界左上から下に並ぶ仲間たちのミニHP/MPゲージの末尾に通常ではありえない八人目のゲージが追加される。
当然ではあるが、現在のパーティは仕様上の最高数なのでインスタントメンバー扱いなのだろう。
むしろそうでなくては困るのだが。
フレイヤは相当にHPもMPも高く設定されていた。中でもMPはちょっと驚くような数値なので、メイジタイプだと思われる。
メイジ不足のこのパーティにはありがたい戦力追加ではあるのだが、それは最後まで仲間だったなら、という注意書きが必要だろう。
「うっし! 姉さん、一緒にスリュムの野郎をぶちかましてやろうぜ!」
「ありがとうございます剣士様!」
フレイヤはクラインの腕に抱き着き、その伝説(レジェンダリィ)級な胸をムギュウとクラインに押し付けた。
とんでもない戦闘力を誇るソレの形がぐにゃりと潰れるほどフレイヤはクラインに抱きつき、確かな感触を彼に与えている。
「う、お、おおお……!」
「な……!? ずるいぞクライン氏! 何故君ばかり!」
クリスハイトがクラインの受けた幸福に嫉妬する。何て羨ましい……けしからん、と。割合は彼のみぞ知る。
ちなみにクラインが感じた感触は現実のそれと遜色なく、また大変良いものだということをこの場で理解できているのは《両方で実体験済》のキリトくらいなものだろう。
察したような顔でウンウンと頷いているキリトにアスナは首を傾げた。なんとなくだが今の彼は少しエッチなことを考えている気がする。たぶん。
「……?」
その時だ。
アスナは偶然《それ》に気付いた。
彼女は今キリトの装備している服の下の方を摘まんでいる。
なんとなく地獄の蠍のことがあってから彼に触れていたくて、でも堂々とするには視線が多くて恥ずかしくて、出来る限界ギリギリのラインがこれだった。
その彼女の手の上方、キリトの背中には目に入れても痛くないほどの娘がキリトに抱き着いている。
キリトが背負っている、と言う方が正しいのかもしれない。彼女は先のことがあってから珍しく本当の姿のままでいる。
つい先ほどこの姿の事を知らなかったクリスハイトやシリカは目を丸くしていたが、リズベットは懐かしんでいた。
リズベットの口から「元々はこの姿だったのよ」と二人は説明を受け、シリカは納得したが、クリスハイトは少しだけ考える素振りを見せた。
まあいきなり小型妖精アバターから等身大の少女アバターに変わられては驚くのも無理はない。
アスナはまだ完全に自分の気持ちが落ち着ききっていなかったのもあってそのことについては深くは考えなかった。
閑話休題。
その本来の姿である少女姿のユイが、酷くつらそうな顔をしていた。
今にも泣きそうな、苦しそうな顔。胸がギュウギュウ締め付けられるようなその顔に、アスナは何処か見覚えがある気がした。
知っている。その顔を私は知っている。見たことがある。けれど、それは一体いつのことで、何処の誰だったのか思い出せない。
「……ユイ、ちゃん?」
「なんですかママ?」
呼ばれたユイはパッといつも通りの可愛い笑顔を見せる。彼女はニコニコとしていて、ただ名前を呼ばれただけなのに嬉しそうだ。
そこには先ほどまでの辛そうな顔は何処にも残っていないように見えた。
ユイの見せる変わらぬ笑顔。
それを見た時、締め付けられる胸の痛みが──────増した気がした。