どうしてこうなってしまったのだろう。薄ぼんやりとした視界が、ちかちかと赤く点滅している。
ちらりと視線をずらせば、己のHPバーが等間隔に減っていくのがわかる。それはもうとっくにレッドゲージ……危険域に突入していて、あと幾分も残されていない。
ゲージの端には毒のエフェクト。考えるまでもなく、現在進行形でHPバーを減らし続けていく原因だ。
ズルズルズル。
引きずられている。データ上の床をデータ上の衣服が擦れ、データ上の音をデータ上の感覚器を通して感じる。
視線を再びHPバーにずらす。確実に先程よりも減っている事実を確認する。時間はもう、あまり残されていない。
視界のHPバー、その端に自らの足が見える。いや、それは正確ではない。“切断された”片足が見える。部位欠損ダメージ。
思えば部位欠損することなど、これまであっただろうか。そういえばそんな記憶はほとんどないな、とこんな時なのに新鮮な感覚に笑いが込み上げる。
片足の俺は歩けない。匍匐前進なら可能だが、今引きずられている速度よりは明らかに劣る。
ズルズルズル。
俺を引きずる彼女の足は止まらない。襟首を掴んで、後ろ手で目一杯筋力を駆使して引きずり続ける。敏捷力に多くステ振りをしているだろう彼女にはそうとう辛いはずなのだが。
俺の装備しているコートの襟を掴む手は震えている。それはあまりの負荷から来る疲労の為か、これから起きる確定事項……引きずる相手である俺の重みが無くなることへの恐怖か。
後者だったら良いな、と思う。いや、こんな時くらい自分勝手に解釈したってバチは当たらないだろうから後者ということにしておこう。
「まだ? まだなの……? 早く、早く抜けてよ……!」
泣きそうな、いや既に泣いている声で彼女、アスナはそう呟く。迷宮区の通路。奥は暗闇に染められていてよく見えない。
モンスターが待ち伏せていたら彼女の索敵スキルレベルでは不意打ちを食らいかねない。それでも彼女は俺という荷物を置いていくつもりはないようだった。
「こんなことなら、一つくらい残しておけば……! そもそもあの時私が……!」
アスナは延々と自分を責め続けている。無理もないのかもしれないが、彼女が自分を責めるのを俺は聞いていられなかった。
これは俺が望んだことで、全ては、納得の上でのことなのだから。
「アスナ、もういいよ。もう十分だ」
「っ! 何言ってるのよ! 良いわけないじゃない! ダメ、ダメなんだからね! こんなところで、こんなところで……!」
「……ごめん」
「なんで、なんで謝るのよ……! 謝るくらいならキリト君の勝手に減っていくHPをなんとかしてよ!」
無茶な事を言う。システムに定められた状態異常は、気合いでどうにか出来る物じゃない。回復アイテムは耐毒ポーションを含め根こそぎ“彼ら”に与えてしまったし、転移しようにもここは結晶無効化エリアだ。
今できることなど、どうにか結晶無効化エリアを抜け出して転移でもするしかないが……現状はそれすら難しい。
アスナは先程から進むたびに何度も転移結晶を試しているが転移は起きない。転移できる場所まで行けるのが先か、毒でくたばるのが先か。このままでは間違いなく後者だろう。
何となく、俺は「ああ、サチもこんな気持ちだったのかなあ」と自分の心境を分析していた。既にHPバーの残りは秒読み体制に入っている。
だがアスナは一向に諦めるつもりは無いらしく、また俺をズルズルと引きずっていく。
「アスナ」
「…………」
もはや聞く耳は無いのか、それともそんな時間すら惜しいのか。だが、残念なことに……タイムアップである。
俺の視界の隅にあるHPバーは残り数パーセント。数瞬後には全損は免れない。だから、伝えるべきことは、伝えておかなくては。
「ありがとう」
「ッッッッッ!!」
─────────さよなら。
俺を引きずるアスナが次の一歩を踏んだ時、俺の残りの僅か1ドットのHPが消え、全損する。
自分の体中にライトエフェクトが奔るという多分一生のうちに一度しか味わえない不思議な感触を得ながら、これまた最初で最後だろう経験……“自分が割れる”ような感覚を伴って……俺はポリゴン片となった。
***
(迷宮区は危険で一杯だって……そんなこと、攻略組なら誰しもがわかっていたはずなのに)
アスナとキリトは約束通り、翌日は二人で迷宮区へと赴いていた。最前線とは言え、既に何度か潜ったことがあるので、安全マージンの取り方は心得ていた。
今日はボス攻略をするわけでもないし、攻略組としては普段はあまりしないマップ拡張を行っていた。普通、攻略組はボス攻略を主目的とするので、その層によってはマップの三割程度しか攻略されていなくてもボス部屋さえ見つかればボスに挑む準備を始める。
現に今、先日見つかったボス部屋に入れ替わりで攻略組が入り、情報を収集している頃だろう。ボスの名前はThe Greameyes……《輝く目》というらしいとアスナは現場の報告を受けていた。
そちらの応援にかけつけても良かったのだが、せっかくの二人きりにそれは勿体ない。だからアスナはレベル上げという名目でマップ探索を提案し、キリトはそれを受け入れた。
「マップは今半分くらいか、しかしあんまりマッピングすると後任のプレイヤーがやることなくなるなぁ」
「あと半分を二人パーティの一日ではとても回りきれないよ」
迷宮区は広大で、その名が冠す通りラビリンスとなっている。複雑な通路によって幾重にも別れ、歩行距離に換算すれば何kmになるのか想像もつかない。
酔狂なプレイヤーが約一ヶ月ほどかけて調べたアインクラッドの直径がおよそ10kmだというのは有名な話だが、迷宮区の《歩行できる距離》は下手をするとそれと変わらないくらいかもしれない。
複雑に曲がりくねった道は何処までも続いていて、マッピングというのは大抵難航する。アインクラッドの一つの層を単純に端から端まで歩けるほどの距離が設定されていても、おかしくはない。
だがそれは全てを歩けばの話で、迷宮区全てのマッピングを一人でするものはいないし制覇するものも流石にそういない。そこまでのメリットも少ない。
攻略組なら尚更の話で、攻略層のボス部屋発見以降はマッピングのためだけに迷宮区に行く人間は少ない。と言ってもどんなプレイヤーにもレベリングは必要だ。
ついでにマッピングもするか、程度の気持ちでボス部屋発見後の攻略組もレベル上げを兼ねたマッピングをし続けている者は皆無ではない。
事実、そうやって最前線の高湧出(ポップ)スポットは発見されたりする。かつてキリトが異常なレベル上げをしていた《アリ谷》も似たような経緯で発見されたものだ。
一時間は未攻略マップをうろついただろうか。たった今倒したリザードマンロードで今日倒したモンスターは二十体程になる。
三分に一体とはなかなかのハイペースだが、何度か集団で襲われたりもしたからそれほどひっきりなしというほどでもない。
今日の湧出(ポップ)率は高く、流石に前回同様ほぼノーダメージとはいかなかったが、十分な安全マージンを取った戦い方が出来ていた。
その理由の一つに、昨日の《剣舞》があってからアスナは何故かキリトとのコンビネーションが急上昇してきているのを実感していた。なんとなく相手……キリトの動きや考えがわかり、それに合わせられるのだ。
キリトにも似たような節は見られ、戦闘が終わってから二人して首を傾げたりもした。言葉にせずともお互いが繋がっているかのような感覚。
一度はかけ声無しに完璧なスイッチを決められるほどだった。しかし常にその状態が続くわけではなく、敵が複数になると流石に全てが上手くはいかない。
それでも、普段よりは格段にコンビネーションが良かった。まるで、お互いの意識を共有しているような……いや、繋がっている、《接続》しているような感覚。
「お、安全エリアがあるみたいだな。そこで一休みにしようぜ」
「そうね」
かなりのハイペースでモンスターを狩っていたのだ。アイテムやHPバーのそれではなく、精神的なものがすり減っていてもおかしくはない。
しかし、アスナに疲労感はさほどなかった。もっとも、そういった慢心や油断がいざというときに出たりするので休める時は休むのが基本だ。
攻略ホリックだった時も、失敗しては身も蓋もない、と安全エリアでの休息はきちんと取っていた。もっとも、全ては計画的に行い、分刻み、酷い時は秒刻みで決めたハードなスケジュール管理のもと必要最低限に押しとどめていたが。
あの頃の張りつめた感情が無いだけで、こうも逆に“軽い”と思えるものだろうか。いいや、それは違うとアスナは否定する。
キリトという存在が、自分を軽くしているのだ。一緒にいるのがどれだけの兵だろうと、恐らくこの安心感は自分には与えられまい、とアスナは思う。
例え血盟騎士団最強の男、ヒースクリフ団長だろうと、親友だと言える鍛冶師リズベットだろうと、キリトに勝る安心感は与えてもらえないに違いない。
どっこいしょ、と安全エリアにある壁を背にして座ったキリトをアスナは見つめる。
黒く尖った髪の毛に、黒一色の膝丈まであるドロップコート、剣の鞘や剣自体も黒。全身真っ黒で、明るい色の無いこの人に、何故こうも元気をもらえるのだろうか。
普通、ここまで黒いと逆に暗くなりそうなものでもあるのだが。
「ねぇ、キリト君、キリト君っていっつも黒ばっかりだけど黒が好きなの?」
「え? う~んどうだろ、比較的地味なのが好きなだけだと思うけど。まぁ黒は嫌いじゃないよ」
「ふうん……ってそういえば、リズが作ってくれた剣使ってないよねキリト君」
「……う」
「どうして? 気に入る良い剣だったって聞いてるけど」
「…………」
ふと、黒以外の彼の持ち物を思いついて尋ねるが、彼は白々しく目線を逸らした。これは何か隠している顔だ。
彼は隠し事が出来ないタイプと見た。ハッタリをかますのは得意かもしれないが、自身のことについて核心を突かれると咄嗟に対応できない。
しかし沈黙で耐えようとするのは、割とマシな対処方法なのかもしれない。アスナはそう思うとそれ以上の詮索を止めた。
「まぁいっか、そういう詮索はマナー違反だもんね。少し早いけどお昼にしましょうか」
「おお! 手作りですか!?」
「うん、衛生的だからって手袋を着けたまま食べるのは止めてね」
「わかった」
言うが早いかキリトはすぐに手袋を脱ぎ捨て、あぐらの上に手を乗せて、背中を左右に揺らしながらいかにも「ウキウキ」と言わんばかりにしていた。
子供そのものの態度にクスリと笑いながらアスナはアイテムストレージから籐のバスケットを取り出し、さらにその中から大きめのサンドイッチを取り出して彼に手渡した。
彼は嬉しそうにそれを受け取ると、「いただきま」の段階で既に口に含んでいた。「す」を言う暇すら惜しいのか。モグモグと頬張るその姿はまるでリスのようで、頬一杯にサンドイッチを詰め込む。
「慌てて食べると喉を詰まらせるよ」
「らいひょーふ」
アスナは水筒をキリトの前に置く。アインクラッドでの食事で喉が詰まる、ということは実は無い。いや、恐らく……という仮定形ではあるのだが。
そもそも電子データ上でしか無いアバターに、食事によるリファレンスを全て求めるには恐らく容量が圧倒的に不足するはずだ。
ある意味で技術上の問題とも言えるが、それを可能にするプログラムを組み込めても実際に動かす容量が足りなければ実装は出来ない。
だがそれはそれ、これはこれである。
「サンキュ」
「ん」
キリトはゴクゴクと水筒を口に付けて水を飲む。心配は当然のように杞憂に終わったが、だからといってその心配自体をしないのが当たり前になりたくはない。
現実世界との差異。それをいざ戻った時にSAOプレイヤーはどれだけ感じるだろうか。二年という月日は、人の生活習慣を変えるには十分すぎる時間だ。
ここでの生活が当たり前になりすぎると、戻った時に感じるギャップは相当なものになるだろう。果たして、自分は元の世界に戻った時、以前の生活に戻れるのだろうか────あの、生活に。
(無理、かも)
現実に帰りたくないわけではない。だが、帰った後の生活をイメージできない。帰った後、あの生活を疑問無く続けることは恐らく不可能だろう。
そう思えるまでに、二年のSAO生活は人を変える。もっとも、遅かれ早かれ、SAOとは関係なくあの生活は崩壊していた予感がアスナにはあった。
ふとキリトを見ると、すっくと立ち上がった所だった。そろそろ行こう、ということだろう。
SAO内での休息はさほど長くなくてもいい。肉体的疲労はほとんどないし、今のように食事後すぐに運動しようと身体を壊すようなことはない。睡眠時間だけは通常通り必要なのだが。
以前にも思ったその辺がいかにもゲームらしい所ではあるのだが、これも自然な物として染みこんでしまえば現実世界への復帰はまた一歩遠くなる恐れがある。
一秒でも早い復帰を願っていたはずで、その為の心構えもしているのに、それが近づいてくると不安ばかりが胸に渦巻く。
(キリト君は、どう思ってるのかな)
彼よりも僅かに遅れて腰を上げたアスナは、先に歩き出したキリトの黒い背中を見て、ふと思う。
彼のSAOについての考えはどんなもので、彼の現実はどんな世界で、彼はこれからどうなるだろうと思っているのか。
リアルについての詮索はこのSAOではマナー違反だ。いや、これはどんなネットゲームにも言えることかもしれない。
それでも、アスナはつい聞いてみたくなった。
「ね、ねぇキリト君」
だが、声をかけるのが少しばかり遅かったらしい。ではもっと早く聞いていれば良かったのかと言えば、結局は同じだろう。それはほんの些細な差でしかない。
ようするに間、タイミングが悪かったのだ。アスナとキリトの視界にはやや空間を歪ませて───安全エリア侵入エフェクトだ──ここに入ってくるパーティがいた。
そのパーティを率いるのは、偶然にもつい先日見た顔だった。
「ん? お、おォキリトじゃねぇか!」
「クラインか、最近はよく会うな」
「んだよ、わりーかよ。お互い最前線に潜ってりゃそうなるさ……ってお前、また副団長さんといんのか。すげぇなオイ」
紅いバンダナに野武士面、というと聞こえは悪いが決して悪人面ではない……先日キリトの過去を知るきっかけをくれた人物、ギルド《風林火山》のリーダー、クラインだ。
後ろに引き連れている似た格好をしているのがギルドメンバーだろう。
「こんにちは」
「どうもー♪」
「あっ、リーダーずるいっスよ!」
「ア、ア、アスナさんじゃないですかァ!」
ワッとギルドメンバーがアスナを取り囲む。アスナは苦笑を浮かべながら困ったようにキリトを見つめた。
何度経験してもこういうことには慣れないな、とアスナは思う。その視線を受けてキリトは小さく溜息を吐くとアスナを取り囲むギルドメンバーを追い払い始めた。
「ほら、アスナも困ってるだろ。散った散った」
「ちぇ、良いなぁキリトはよォ、可愛い子と乳繰り合いながらレベリングかよォ」
「そうだそうだ」
僻み、というよりは単なる親しみを込めたからかいのような軽い口調でギルドメンバー達がそれぞれキリトの肩を軽く叩いていく。
キリトも苦笑を滲ませて「日頃の行いの成果だよ」と冗談交じりに返していた。そんな様子をぼうっと見ていると、また一人近づいてくる。
クラインだった。
「……ありがとう、ございます。俺なんかの変な頼み、聞いてもらってるみたいで」
「あ、いえ……私も、好きでやってるところありますから」
「へぇ……なるほど」
「あ、うぅ、なんですかその目は」
「いやいや、大変ですな、あいつは戦闘マニアのバカタレですから」
少し意地の悪い、明らかにからかうようなニヤニヤした目でクラインは笑う。この人は意外に鋭い人だ。多分ばれた。
アスナは少しばかり頬を染めて──照れた時のフェイスエフェクトだ──プイッと横を向く。今何か言い訳をしたところでこの人に敵わないのはわかりきっていた。
「キリト君、行くよ!」
「お、おう」
このまま長居していては、いつまで弄られ続けるかわからない。場合によっては彼にも感づかれる恐れさえある。それは……避けたかった。
アスナはそそくさと彼の手を引くと安全エリアを抜ける。キリトが後ろに軽く手を振ったのをなんとなくの気配で感じていた。
安全エリアを抜けて二時間。当初に比べてモンスターの湧出(ポップ)は少なく、思ったほどの戦闘もないままマッピングは進んでいた。
相変わらず《接続》は健在で、複数のモンスターに会うこともほとんどなかったため、先ほどよりも長時間迷宮を彷徨っていながら消耗という点ではむしろ少ない。
ダメージもかする程度のものがいくつかあっただけだ。不規則なアルゴリズムが増えてきたと言っても、この層における通常の湧出(ポップ)モンスター単体は既に二人の敵ではなかった。
いや、攻略組ならほとんどのプレイヤーが、差はあれど単体の湧出(ポップ)モンスターには対処可能だ。最前線でも……最前線だからこそ安全マージンは十分に取るようにしているのが普通なのだ。
最近ではこのデスゲームにおいて、血迷ったプレイヤーが低レベルのまま高層にこない限りは、対モンスター戦の死亡率は激減したと言ってもいい。そんなプレイヤー自体、もうほとんどいないのだが。
なので、非常に残念なことに、現状で一番の死ぬ要因はボス攻略戦と……PKだったりする。大規模掃討を終えた今、殺人ギルドによるPKは激減したものの、突発的なPKなどは無くなっていない。
どうして同じ人間同士が、それも助け合ってクリアを目差し、解放される為に頑張っている仲間なのに……と多くのプレイヤーは思うだろう。アスナもその一人ではある。
だが同時に、このゲームの“いやらしさ”というのもわかっているアスナは、その心境をなんとなくは推し量れた。言わずもがな、殺人ギルドについては話が別だが。
閑話休題。つまりは、ボス戦とPK以外での死は、すでに非常に珍しいものとなっていた。そのボス戦──通常はフロアボス攻略戦を指す──ですら、最近は幾度となく調査を重ねてから攻略しており、死人が出ることは珍しい。
最後にボス戦で犠牲が出たのも、五層以上前のことだ。だから……、
「う、うわぁぁぁぁぁぁ!!!!」
その、今にも死にそうな叫び声を二人が聞いたとき、まさか……“そんなこと”になるとは、思っていなかった。
声のした方に駆け出すと、そこにはプレイヤーの大群がいた。皆HPバーを注意域……イエローにまで落としている者がほとんどだ。
一体何が……と思ったのも束の間、
「我々《軍》に後退はありえない! ましてやフロアボスですら無い相手だ! 怯むなァ! 戦えェ! 戦うんだァ! 突撃ィ!」
一人の男が剣を敵モンスターへと指した。その先を見て、アスナとキリトは……背筋が凍った。
黄色いカーソルに名前が浮かぶ。その名前を見て、二人は攻略組でありながらわずかに硬直してしまうほど動揺した。
《The Hell Scorpion》
定冠詞が付くのはボスモンスターの証だ。それだけでこのモンスターはボスであることは疑いようもなく、通常の雑魚モンスターとは一線を画すものだとわかる。
しかし、問題はそれだけではなかった。《The Hell Scorpion》──地獄の蠍。それは攻略組にいるのなら誰でも知っている“化け物ボス”の名前だ。
出現率は実はかなり低い。遭遇例は少なく、実際に今まで倒されたことがあるのも二回のみ。何故なら……このボスは《最前線にしか湧出(ポップ)せず》尚且つその層より一層下のフロアボスと《同等の強さを持つボス》だからだ。
攻略組の間ではバッドラックの象徴として使われ“会ったら逃げろ”が基本戦術となる。ボス攻略に向かう時とは違って、単純に最前線をうろついているだけならば、その戦力はほとんどの場合ボス攻略を想定した戦力に劣る。
加えて準備も万端ではない場合が多い。そんな中で一層下とは言えフロアボスと同等の敵と戦うのは正気の沙汰ではない。
二股の尻尾に長く節のある胴体、前の触肢は鉞状になっていて鈍く輝き、全身が紅い金属のような硬度と色を持ったボスだ。
その姿、攻撃パターンとモーションがどの層でも大きく変わったという報告がないのが唯一の救いだろうか。ただ、攻撃力と防御力、HPバーはおおよそだが一層下の層のフロアボスとほぼ同等という調査結果が上がっている。
上手いことこいつを倒せれば何故かその層のフロアボスは弱体化するらしいが、リスクが高すぎるのでそれを狙う攻略組はいないと言ってよい。
まさに会ったら運が悪かったとして逃げる相手ナンバーワンのモンスターだろう。
「何やってる! そいつを知らないのか!? 早く逃げろ!」
キリトは叫んでいた。今の状況下ではこのボスと戦うには分が悪すぎる。このまま続ければこのパーティの損壊は免れない。
彼らの指揮官らしき人物は自らを《軍》と名乗った。《軍》とは通称ALF……Aincrad Leave Forces──アインクラッド解放軍──のことで、第一層の始まりの街を根城とする大ギルドだ。
当初は全てのプレイヤーを平等に保護するための慈善団体組織のようなものだったのだが、最近ではよくない噂も耳にするようになっていた。
そもそも《軍》は、かつてクォーターポイント……第二十五層の攻略において大損害を被ってからは、攻略よりも組織強化を優先する動きに変わっていたはずなのだが。
だがアスナは「そういえば」と思い出す。血盟騎士団の会議で、《軍》が攻略に乗り出してきそうな動きがある、と報告を受けていた。
ただ《軍》のプレイヤーは最近までほとんど最前線には姿をみせていなかった為、その戦力、レベルには不安がある、というのがKOBの総意だった。
「転移結晶が……使えない!」
一人のプレイヤーが手に掲げているのは転移結晶。なんとここは結晶無効化エリアらしい。バッドラックの象徴とはよく言ったものだ。
オマケに《軍》の半数は毒のエフェクトを付けていた。あのボスの二股の尻尾の一方……その先の針には毒効果が付与されていて、攻撃を食らうと一定確率で毒になるのだ。
耐毒ポーションを飲んでも次の瞬間には攻撃を受ける。回復用のポーションを飲んでも毒になる。戦い慣れしていない《軍》の精鋭部隊だろうパーティは既に半壊していると言ってもよかった。
「中佐! コーバッツ中佐! 撤退を!」
「馬鹿者が! 我ら《軍》がそのような軟弱な真似が出来るか! 戦えェ!」
コーバッツ、と呼ばれた指揮官らしきプレイヤーは、撤退を進言した部下の胸ぐらを掴み、早口で怒鳴るとボスの方へと彼を突きだした。
それは、あまりに酷い行為で、酷いタイミングだった。
「わっ!? わぁぁぁあああああああ!?」
突き出された部下は、たたらを踏んで体勢を整えているうちに振られていたボスの鉞によって袈裟切りにされ、既に注意域だったHPバーがぐいっと下がる。色は……赤、既に危険域だ。
だが、無情にもボスの攻撃は終わらず、尻尾をぐるんと水平に振り回した。これはこのボス特有の範囲攻撃だ。ボスを中心として円形にダメージ判定が起こる。
その攻撃を、多数の部下達は受け損ねてダメージを負った。先程の突き出された部下もそれに含まれ、残念なことに彼のHPバーはその攻撃で僅かも残らなかった。
叫び声を上げながら、その部下はライトエフェクトに包まれ……特有の破砕音と共に散った。これには予想外だった、とばかりにコーバッツも呆然としている。
しかし、誠に遺憾ながらデータ上であるモンスターに、そんな相手の心境を考慮するようなアルゴリズムは組まれていない。間髪入れずに次の標的を定めて攻撃していく。
それを、アスナは見ていられなかった。
「だめぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
飛び出し、神速の域で抜刀し、突き攻撃四連撃を今まさに振り下ろされんとしていたボスの鉞に命中させてパリィする。
やや体勢を崩されたボスは、今の攻撃が鬱陶しかったのか、次の狙いにアスナを定めた。鋭く尻尾が横薙ぎに振られ、アスナを襲う。
アスナは跳んでかわすものの……失念していた。このボスの尻尾は二つある。通常の生物ならありえない動きでも、ここSAOではそんな常識に囚われる必要などない。
物理法則などあってないようなものなのだから。跳んで避けたアスナの横腹を、軌道を変えた《二本目の尻尾》が横薙ぎに激しく叩きつけてきた。
「ッッッッ!」
声を出せぬほどの衝撃を受けて、惰性で宙を彷徨い、床に叩きつけられる。アスナはダメージによる不快な感覚によろめきながらも立ち上がろうとして、青ざめた。
影が自分を覆っていた。目の前には大きく左右に開かれた両の鉞。逃げられない、と直感的に悟った。HPの残りがどれだけあるのか確認する暇も無さそうだ。
かつて無いほどの危機に一瞬諦めかけた時、
「下がれ!」
黒の剣士の声が届いた。アスナの二つ名、《閃光》の名の御株を奪う勢いで黒光りした剣が奔る。
アスナの前に躍り出たキリトは片手で素早く投剣スキルを駆使し、一方の鉞の攻撃を遅延(ディレイ)させ、残り一方の鉞を自身の剣で受けた。
重たそうな一撃をキリトはなんとかパリィしてのけ、バックステップして距離を取る。その頃にはアスナも距離を置くことに成功していた。
「ごめんキリト君!」
「話は後だ! 早く全員離脱させないと!」
キリトも相当に焦っている。今のは偶々上手くいったが結構な綱渡りの介入だった。アスナは今更ながら自分の迂闊さを呪いたくなるが、そんな暇はない。
アスナは気持ちを切り替えて指揮官らしき男、コーバッツを探した。彼は必死に後ろ足を攻撃しているところだった。
急いで彼に撤退の命令を出させなくては……そう思った時だ。
「ぐわあああっ!」
コーバッツは例の尻尾を水平に身体ごと回す旋回攻撃を食らい、吹き飛ばされた。攻撃に夢中になって防御を怠ったのだろう。
慌ててアスナは駆け寄るが、その目に映るHPバーが無情にも全て消えてしまった。どさり、と床に落ちた彼はその事実が信じられないように「……ありえない」と一言残してポリゴン片と化した。
リーダーの死亡に伴い、益々《軍》の統率が乱れ始める。
(このままではいけない……!)
かつて血盟騎士団に誘われてまだ間もない頃も、同じように感じて……気付けば指示をする側に立っていた。
なんとかしなくてはならないという強迫観念が、彼女をその時のように突き動かす。
「全員! 撤退しなさい! 私は血盟騎士団副団長アスナ! これは命令です!」
普通なら《軍》の人間は彼女の言い分……命令を聞く義務などない。しかし、統率を失った兵達は今尤も望む「撤退」という甘い誘惑に逆らえなかった。
同時に、彼女の名前は既にそれだけの意味あるカリスマ性を孕んでもいた。普段のアスナ自身は自分の名前にそういった付加価値が付いているのを嫌っているが、こういう場では使える物はなんでも使うのが彼女だ。
あるいは、その剛胆さが彼女をトップギルドの副団長にまで押し上げたのかもしれない。
《軍》の残存兵は口々に「アスナさんだ」「アスナさんが言うなら」「早く逃げよう」と漏らし、彼女の意に背く者はいない。それにアスナは内心でホッとした。
ただ、結晶無効化エリアという鎖が、現状からの離脱は容易ではない事も理解しており、殿役が必要だった。ちらり、とキリトを見ると、キリトもコクンと頷いた。
それでアスナも心を決める。
「私達が奴を引きつけるから全員逃げて! 結晶無効化エリアを抜けたらすぐ転移結晶を使うこと!」
《軍》の生き残りは皆一様に頷いた。自分の命がかかっているとなればそれも当然かもしれない。ましてや攻略組の名将と名高いアスナの指示ならば、従った方が得だという安心感もあるだろう。
その姿にアスナは胸を撫で下ろし、一人注意を引きつけているキリトの加勢に行こうとして、止まる。
「お、おい! 誰か耐毒ポーション余ってないか! 回復ポーションでもいい!」
「お、俺にもくれ!」
未だ毒から立ち直っていないプレイヤーがおよそ半数。そのHPバーはイエローからレッド……注意域から危険域に突入しようとしている者ばかりだった。
だと言うのに誰も彼らにアイテムを渡すプレイヤーはいなかった。いや、正確にはあげたくとも既に貯蔵が尽きているのだろう。
このままでは空気が悪くなり、撤退に余計な時間と不安を与えかねない。アスナは迷っている暇は無いと判断した。
自身のアイテムストレージを開き、転移結晶を残してありったけの回復アイテムをオブジェクト化して床に落とす。
今、一つ一つを選定し、人数分のみオブジェクト化するなどという手間暇をかける余裕はなかった。それの意図するところを理解した残存兵達は口々に礼を言いながらアイテムを手に取る。
しかし、アスナのアイテムを持ってしても必要数には行き渡らなかった。
「アスナ!」
キリトの自身を呼ぶ声で全てを理解する。《接続》はまだ切れていない。
アスナは飛びだし、キリトとスイッチの要領でボスを引きつける役を入れ替わる。キリトはすぐに距離を取ると、右手を振ってシステムメニューを呼び出した。
すぐにアスナの時と同じく床にいくつかオブジェクト化したアイテムが出現する。キリトも選んでいる暇は無かった。
「勝手にもっていけ!」
それだけ言うとキリトはすぐにアスナの援護に戻った。《軍》の人間はすぐにアイテムに群がり、口々に礼を述べながら迷宮区の通路に消えて行く。
今度は数も足りたらしい。それを横目でアスナも確認しながらホッと息を吐く。……その一瞬の、僅かな緩みがいけなかった。
「っ!?」
ボスの尾針がアスナめがけて突進してくる。咄嗟に身体を無理矢理捻って避けるが、尾はもう一本ある。
だがアスナも二度は同じ手を食わないとすぐに次の攻撃に身構え……戦慄した。二本目の尾針に、ライトエフェクトが奔ったのだ。
ソードスキル。ボスモンスターや通常のエンカウントモンスターですら駆使してくるそれは、これまで武器使用時にのみ限られると思っていたのだが。
このバッドラックの象徴は、あろうことか尾の先に付いている針を一本の剣としてシステムに認識されているらしい。全くとんでもない話だ。
予想外のソードスキル。素早く刺突が三度繰り返される。流石のアスナもこれは避けきれなかった。一撃掠ってしまう。
「っ、こんなの聞いてな……なっ!?」
《会ったら逃げる》が基本戦法だった為、このモンスターについては実はさほど調査が進みきっていない。相対したプレイヤーが提供するおおよそのパターンの報告が似通っていることから類推されていたに過ぎない。
そもそも遭遇率が圧倒的に少ないのもその要因の一つだ。だから、攻略が進むたびにどんなアップデートをした存在になっているかなど、想像もしていなかった。
まさか、尻尾でソードスキル発動可能などとは思わないし……それに。
「ま、麻痺毒……!?」
アスナは動けなかった。HPバーの横には麻痺毒のエフェクトが付いている。今までこいつの毒はHPを等間隔奪う《ポイズン系》のみだと思っていたのに。
しかし考えてみれば尻尾は二つあるのだ。それぞれ別な特殊効果が付いていても不思議ではない。
(そんなことに、気付かなかったなんて……!)
思えば、軍の部隊の中にも動かずに再びダメージをもらっていた人もいたような気がする。あれは麻痺毒のせいだったのか。
今更ながらにアスナは慌て過ぎて鈍っていた自分の観察眼を呪う。このままでは、動きようがない……!
回復アイテムは先程ありったけ渡してしまったのだ。為す術がなくなってしまった。ズン、と一歩ボスが近づく気配がする。その時だった。
「アスナ─────ッ!!」
キリトが《二刀》を携えてボスに斬りかかる。見間違いでなければ今、両方の剣にライトエフェクトが宿っていた。
しかし、そんな話は聞いたことがない。SAOにおいて現在、二つの武器を同時に扱ったソードスキルの発現はトップギルドの副団長を務めているアスナでさえ耳にしたことがなかった。
「え……な、なに、それ……」
「本当は見せたくなかったけど……そんなこと言ってる場合じゃない!」
キリトはノックバックの要領を利用してアスナとボスの間に割り込んだ。ここから先は通さない、と背中が物語っていた。
右手にはいつもの黒い剣《エリュシデータ》、左手にはアスナの親友に作ってもらった最高の剣《ダークリパルサー》を持ち、キリトは構える。
「《スターバースト・ストリーム》」
同時に両の剣にライトエフェクトを宿らせ、素早く斬りかかる。二刀から繰り出される剣戟は、不思議な事にアスナの知る彼の一刀を振る速度よりも二刀を振る速度の方が速い。
キリトの二刀が奔る。素早く二連、いや三連、いやいや四連、五連、六連、七連……二桁を越えたところでアスナは数えるのを諦めた。
剣戟が星屑のように白光を産み、眩しいとさえ思わせる程激しさを増していく。
だがボスも然る者、ノックバックの隙を突いて攻撃モーションが入り、二度三度と鉞や尾針がキリトの身体……HPバーを削る。
その度にアスナはドクンと胸が張り裂けそうな痛みを覚えた。動けない自分が恨めしい。彼が自分の前に立って、一歩も引かずに戦っている。
麻痺毒のせいで、彼のHPバーが減っていくのをただ見ていることしかできない。
(速く、速く解けて! まだ解けないの!? 速く、もっと速く!)
速く麻痺が解けろと願えば願うほど、彼の速度もまた速くなるような錯覚を覚える。いや、錯覚ではない。
意味は違えど、彼もまた自分と同じ言葉、感情をイメージしているのがアスナにはわかった。《接続》は続いている。
──速く、もっと速く。先へ、もっと先へ……加速しろ!
キリトのイメージが、クリアにアスナに伝わる。だから、次の瞬間にキリトが我を失わなかったのは《逆に》アスナのおかげだ。
鉞が、これまでの上段攻撃から下段に移ったことにキリトは意識を割けなかった。片足を持って行かれる。部位欠損ダメージ。
ぐらりと重心がずれ、キリトは体勢を崩す。その時、アスナの「右!」という声なき声を、キリトは確かに感じた。右にはもう一方の鉞が迫ってきていたが、体が勝手に動く。
いや、アスナのイメージ通りに動く。背を捩り、鉞の上に乗って──キリト君の剣より遅いよ──やり過ごし、発動中のソードスキル、その最後の一撃……十六連撃目を背中に突き入れる。
「っだぁぁぁ!!!」
キリトの雄たけびと共に突き入れられたその攻撃で、両者はシンと静まり返り……動かなくなった。
しかしアスナには見えていた。ボスのHPバーのそれが、1ドットも残すことなく消えていくのを。ボス……バッドラックの象徴たる《The Hell Scorpion》──地獄の蠍は光り輝く結晶となって消えていく。
その為、片足を失ったキリトは支えがなくなったせいか、ドサッとその場に倒れた。それと時を同じくして、ようやくとアスナの自由を奪っていた麻痺毒の効果も消えた。
慌ててアスナはキリトに駆け寄る。
「キリト君! キリト君!」
「……う……? あれ、終わった、のか?」
「バカッ! 無茶して!」
「ははは……」
一瞬意識が跳んだらしいキリトは、苦笑しながら立ち上がろうとして……立てなかった。彼は足に部位欠損ダメージを負っている。
システムが自力での《歩く》、《立つ》ことを許可しなかった。
「あ、そうか……」
「待って、今回復……っ」
アスナが慌ててアイテムストレージを開き、息を呑む。そうだ、アイテムはありったけオブジェクト化して《軍》に与えてしまったのだった。
もともと、数分時間稼ぎをしたら自分たちも逃げ、結晶無効化エリアを抜けた時点で転移離脱するつもりだったのだ。アイテムストレージにはそのための転移結晶しか残されていなかった。
アスナは申し訳なさそうにキリトに尋ねる。
「キリト君、アイテム取っておいてる……?」
「いや、そんな余裕なかったからな……」
「それじゃ自然蘇生まで待つしかないのね……」
「いやぁ……そんな余裕、無いみたいだ」
「……?」
「俺、毒もらっちゃってる」
「な……っ!」
アスナの視線の先には確かにキリトのHPバーの端に毒のエフェクトが映っていた。戦いに夢中になり過ぎて、彼のHPバーの残存量は見ていても、状態異常を意識していなかった。
思い起こせば確かに何度か尾の突き攻撃もキリトは上から受けていた。
「急いで解毒……! いや、緊急脱出……! あ、あああああああ………あああああああ!?」
「ははっ、どうすっかな……」
やや、諦めの入った笑顔でキリトは後頭部を掻いた。解毒アイテムはない。お互いありったけ《軍》にくれてやったのだ。
転移できる場所までいければなんとかなるが……キリトには足が無い。匍匐前進はできるが、片足での歩行はSAO内では出来なかった。
この時ほど、ゲームらしい《設定》というものに理不尽さを感じたことはない。両足が健在ならいくらでも片足ケンケンができるのに、片足のみならそれが許されないのだ。
アスナは混乱し、慌てふためき、取り乱して声を荒げた。
「どうしよう、どうしようどうしよう!? 私のせいだ私のせいだ私の……! なんとか、なんとかしなくちゃ! あ、あああ!! だめぇ! 減っちゃだめぇ!」
どうしよう、なんとかしなくちゃと思えば思うほど、思考は迷走し、意味不明な声を上げ、アスナは混乱する。
ただ無情にも等間隔に減っていくキリトのHPバーが、余計にアスナを焦らせる。その姿を見たキリトが、意を決したように口を開いた。
「……アスナ、君なら一人でもこの迷宮は抜けられる」
「!? な、何を言って……」
「行くんだアスナ、俺の事はいい。多分、もう、無理だ」
無理矢理な笑みを張り付けて、キリトはアスナに一人でここを離れるように勧める。それで、逆にアスナは冷静になった。
こんな、馬鹿な問答や思考を続けている暇はない、と。アスナはすぅっと目を細めると、ぐいっと彼の黒いコートの襟首を掴んだ。
この手は絶対に離さないと強く握りしめ、彼を引きずり始める。
ズルズルズル。
キリトはポカンとしたままやや放心していたが、我に帰ると「お、おい!? 俺のことはいいって!」と何度もアスナに自分を置いていくよう勧めた。
しかしアスナはその言葉には耳を傾けない。絶対にこの重みを無くさない、無くしてなるものかと誓いながら彼を引きずり続ける。
アスナのステータスは筋力よりも敏捷力アップに割いている。そのせいでキリト一人を引きずるのは実は結構な重荷だった。
SAOでは自身の筋力によって要求値を満たしているぶんだけアイテムを持てる。まったく今のアスナにとっては迷惑なことに、彼は筋力にばかりステータスを振り分け、重い剣を好む傾向にあった。
キリトを引っ張るということは、その重い剣をも一緒に持つことと同義だ。かといってキリトは恐らく剣を捨てまい。なんとなく、アスナにはそれがわかっていた。
だから無駄な問答で時間を潰さぬよう、彼の言葉を聞き流しながら彼を引っ張る。
ズルズルズル。
二、三歩進むごとにオブジェクト化した転移結晶を試してみる。試しながらももちろん歩みは止めない。早く、早く結晶無効化エリアを抜けることを祈って。
ちらりと彼のHPを見れば、それはもう幾分も残されておらず、事態はひっ迫していると再認識させられる。しかし、これまたシステム上の都合とやらで、彼女が彼を引っ張れる速度はこれ以上あがらない。
筋肉痛になってもいい。むしろ筋肉が明日には切れてしまっても構わない。だから火事場の馬鹿力でも糞力でも起きてくれと願っても、データ上の自分はデータ内の能力をただ発揮するだけだ。
ギリリ、と歯ぎしりする。システムアシストなんて糞くらえだ。
「まだ? まだなの……? 早く、早く抜けてよ……!」
アスナは願いを込めて何度も何度も転移結晶を試しながら彼を引きずり続ける。
結晶無効化エリアさえ抜ければ、抜けられれば彼は助かるのだ。
「こんなことなら、一つくらい残しておけば……! そもそもあの時私が……!」
あの時の自分のうかつさを呪わずにはいられない。何故すべて渡してしまったのか。
保険のために一つくらい取っておこうと思わなかったのか。いや、それ以前に自分が麻痺毒になどならなければ。
「アスナ、もういいよ。もう十分だ」
「っ! 何言ってるのよ! 良いわけないじゃない! ダメ、ダメなんだからね! こんなところで、こんなところで……!」
「……ごめん」
「なんで、なんで謝るのよ……! 謝るくらいならキリト君の勝手に減っていくHPをなんとかしてよ!」
キリトのすでに諦めたような発言がいちいちアスナを絶望させる。こんなことで諦めないで欲しい。
こんなことで、自分のせいで、この世界から消えないで欲しい。
「アスナ」
「…………」
呼びかけられるが応えない。そんな余裕はない。一刻も早くここを抜けて彼を救う。今は、今はそれだけを考える。
だというのに。彼の声なき声が内に響く。今日すでに何度目かの、《接続》による心身の共有のような感覚。
──俺、これでも結構感謝してるんだ。アスナには。いつも気にかけてくれててさ、最近は寂しいって思わなくなってた。
それなら、それならこれからもいてあげるから。ずっと一緒にいてあげるから。
──クラインに俺のこと聞いたんだろ? ああいいんだ、別に怒っちゃいない。ただアスナが哀れみでも俺を一人にさせまいと思ってくれたのが嬉しかった。
違う、違う違う違う。そんなんじゃない。そんなんじゃないから、消えないでよ。一緒に、一緒にいてよ。
「ありがとう」
「ッッッッッ!!」
彼の万感の思いを込めたお礼が彼女の胸を貫く。涙が零れ落ちる。この時ばかりは、過剰なフェイスエフェクトのせいなどでは決してない本物の涙だ。
聞きたくない、この先は絶対に聞きたくない。
─────────さよなら。
心に直接聞こえる声が、別れを告げた瞬間、彼女の引っ張る重みが……フッと軽くなった。
涙が、溢れ出す。次から次へと溢れ出す。止めどなく、溢れ出す。
ただ、輝くライトエフェクトが、今起こっている事象の全てを、物語っていた。