なんだろう──この漠然とした不安は。
フレイヤを仲間に加えたブラック・ビーターズ……もといキリト一行は、ある意味、いやどんな観点から見てもチートと呼べるユイのナビにてラストエリアだろう下層へと続く階段を降り始めた。
降り階段は途中から幅を増し、周囲の柱や彫像といった装飾オブジェクトも華美になっていく。
上層でもそうだったが、ボス部屋に近づくとマップデータが重くなるのはアインクラッドからの伝統と呼べるだろう。
突き当たりには二匹の狼が彫り込まれた分厚い氷の扉が現れる。いよいよ、というわけだ。
扉まで五メートル、というところで扉は勝手に左右に開いていく。中からは白い靄がかった冷気がふわりと流れ込んできた。
今寒い、と感じる──アスナの支援魔法(バフ)によって緩和されているが──のは仮想世界故に電子的なデータを脳に直接送り込まれているだけに過ぎない。
端的に言えばそう感じるようプログラムされたコードを脳が正しく認識し、冷気を感じていると錯覚しているだけだ。
しかし現実にあるキリトとアスナ二人の体は、暖房の効いた暖かい桐ヶ谷家の一角である、和人の部屋のベッドの上だ。
お互い手を繋いで並ぶようにしてアスナ/明日奈もキリト/和人も仰向けになっているはずである。
だから脳内でどれだけ寒いと感じていようと実際に凍傷になったりすることはない。
もっとも脳の思い込み、勘違いとは馬鹿に出来ないもので、錯覚による火傷が絶対に起きないわけではない。
脳科学の分野にも抵触するが、痛みとは皮膚で感じるものではなく大脳皮質によって判断される。
痛覚とは《痛み》を大脳皮質に送って《痛い》と判断させるための触覚器官であって判断器官ではない。
これは逆を言えば実際に何か物に触れていなくとも──痛覚(触覚)を介さずとも──《触れている》と脳(判断器官)に直接信号を送ることができれば《触れている》という認識を得られるということだ。
仮想世界とはこのような人体の構造を利用してダイヴ環境を整えている。
無論、錯覚による肉体への影響が起きないようこれでもか、という安全機構のオンパレードが施されていることは言うまでもない。
もっとも、ナーヴギアの時代にはそれが不十分だったと言える。
皮肉にも最低最悪のSAO事件によってそれが世界的に露出し、過度とも言える安全対策が考えられた。
そうして産まれたのが第二世代型フルダイブ機、《アミュスフィア》である。
専門家の中にはこの事件が無ければアミュスフィアが産まれるのは五年は遅れ、より酷い悪辣な事件が発生していた可能性も示唆された。
現にALO事件では──一般への詳しい内容は情報規制によって隠蔽されているが──洗脳じみた実験が行われてしまっていた。
そういった点で、事件の首謀者である茅場晶彦氏の本当の狙いはそこにあったのではないかとも囁かれている。
閑話休題。
決して実際の人体に肉体的影響を受けない冷気はしかし、判断基準としては無視できないものだ。
目に見えるほどの冷気が立ち込めていることから、間違いなくこの部屋の中には今回のクエストポス、《霜の巨人の王スリュム》がいることだろう。
全員が目配せし、頷く。アスナが念のために支援魔法を張り直し(リバフ)、万全の状態を整える。
と、ここでアスナの魔法を見た途中参加プレイヤー……いや、途中参加ノンプレイヤーと呼ぶべきフレイヤが同じように見知らぬ支援魔法を唱え始めた。
それは驚いた事に全員のHPゲージを大幅に増加させるものだった。NPC仕様の特別魔法なのだろうか。この魔法が常時使えればアインクラッドの攻略クエストでも大助かりなので興味は尽きない。
これにはさしものキリトも目を見張り、ついフレイヤを凝視してしまう。
一体何者だ? という思いと、今は記憶の霞みに同化しつつある女ダークエルフみたいにずっと仲間でいてくれないかな、という期待。
あわよくばその魔法を教えてほしいという欲求もあったかもしれない。
しかし彼女はNPCである。どれだけ高性能なAIを積んでいようとひたすらにイエス・ノーの演算を繰り返すだけの存在である彼女は人の機微を読むことが出来ない。
ましてや人の考え、思考など何を言わんやである。人間同士ですら相手の考えを読むことは難しいのだから。
その為キリトの視線を受けとめたフレイヤは不思議そうに首を傾げるだけだった。
僅かな時間見つめ合う二人。まるで切り取られたような固まった時間。
それが切り裂かれたのはキリトのHPゲージが少しばかり減少したからだ。
「え」
「キ~リ~ト~く~ん?」
キリトの装備を摘まむに過ぎなかったアスナの手は今やガッシリとキリトの装備を捕まえていた。
僅かとは言えHPが装備の耐久を貫通して削られてしまったのはご愛嬌と言えよう……たぶん。
他の女性──と言ってもNPCだが──と見つめ合うキリトがアスナは少し面白くなかった。
先ほどの事でまだ精神が落ち着ききっていないこともあるが、アスナには先の戦闘を終えてから自分でもよくわからない漠然とした不安が胸に渦巻いていた。
彼、キリトの強さは申し分ない。そこには絶対の信頼をおける。まるで《かつてのように》。
だが、そう思えば思う程、何かが胸の奥底をジクジクと苛む。それを隠したくて、でも他の女性と見つめ合うのを許せなくて、感情が勝手に彼女を行動に移させる。
「ち、違うって! 便利な魔法だなあと思って!」
「ふうん?」
「パパ?」
「ぐっ!」
こういう時、得てして男性側は弱い。
ユイは基本キリトの味方だが、こと相手がママ……アスナと他の女性に関することである場合、ほぼアスナの援護に回る。
そうなるともうお手上げだ。キリトに対抗する術は無かった。言いなりになり、例え悪くなくとも悪者として謝らねばならない。
これはキリトに限ったことではない様式美の一つだろう。知る者にしか理解できない苦労だ。なってみて初めてわかる。
さらにキリトはこういうことに対抗するような我や意志の強い人間ではない。だが、全てを理解するほどの対人スキル持ちでもない。
「そ、そうだユイ! 寒くないかー? 」
結果、彼はいつも秘技《話を逸らす》を使用する。
スキル熟練度はかなりのレベルだと自負しているが、他者から見ればそうでもないことは公然の秘密である。
しかし実際にユイの恰好は寒そうではあった。白いワンピースのみ、という出で立ちはこの極寒のフィールドでは装甲が薄すぎる。
いくら彼女がプログラムによる存在で、ここはプログラムの世界で、実際に肉体を持たぬ身だとしても。
「あ、そうか。ユイちゃんごめんね。今ユイちゃんの防寒具出すからね」
アスナもユイの姿にハッとして慌ててストレージを開く。
だがユイはブンブンと首を振ってアスナを止めた。
「大丈夫ですよママ、パパ暖かいですし」
ぎゅうう、とキリトの背中に強く抱き着き、頬を擦るようにしてユイは暖を取る。
微笑むその姿は若干アスナに《羨ましい》と思わせた。
キリトにそういうことをできるのが半分、ユイが自分では無くキリトにしていることが半分。
そんなアスナの心を知ってか知らずか、ユイはそうしてキリトの背中からなけなしの温度ステータスを──実際にはそんなもの存在しないが──奪い取るとぴょんと跳ねるようにキリトから離れる。
次の瞬間にはアスナが巻いてくれたマフラーを装備した小妖精……ナビゲーション・ピクシー姿のユイに戻っていた。
これもアスナにとっては嬉しさ半分、哀しさ半分。
どのユイであろうとユイはユイ……娘であることに変わりはないが、ユイの元々の姿はあの少女アバターだ。
なんとなくだが、ユイ自身もナビゲーション・ピクシー姿より少女アバター姿の方が好んでいるとアスナは認識している。
そのせいか、アスナの知る限り自分やキリトのみの場所では彼女は極力先ほどまでの少女アバターでいることが多かった。
他人には頑なにその姿を見せようとはしなかったが。
それが嬉しくもあり、寂しくもある。無理をさせているのではないか、という懸念が消えないのだ。
こうやって大人数でパーティを組む時、彼女は本来の姿を偽りピクシーとして傍にいる。
それが実は少しだけ重荷……と呼ぶには些か大げさだが嫌なのではないかとアスナは感じていた。
彼女の今の立場がゲームの仕様上ナビゲーション・ピクシーなのでそれは仕方のないことではある。
万が一にもカーディナル・システムに感知され、バグとして処理されてしまっては家族三人唯一の心の住処であるこの世界を追われる事になりかねない。
だが。それでも思わずにはいられない。ユイを、娘を自然体でいさせてあげたいと。
だからこそアスナはピクシー姿の時と、実際の少女姿の時とで別々に彼女の服を拵えたのだ。
ちなみにこのことについてユイが大層喜んだのは言うまでもない。
ユイの支度が整った所で、一行は扉の中へと足を踏み入れた。
ボス部屋らしき内部は横方向にも縦方向にも広い空間で、壁や床はこれまでと同じ青い氷で出来ているようだった。
氷の燭台に青紫色の炎が不気味に揺れる。燭台が溶けるかどうかの心配をする者は流石にいない。
天井にも同色の豪奢なシャンデリアが鎮座している。だが一番驚いたのは左右の壁際から奥へと連なるオブジェクトの数だ。
びっしりと転がっているそれは一見すれば邪魔なゴミとも思える。だがオブジェクトの持つカラーとオーラがすぐにその認識を塗り替えた。
黄金。
金貨や装飾品、剣、鎧、盾、彫像、家具といった様々な黄金製オブジェクトが所狭しと転がっている。
総額をALO通貨であるユルドに換算したら一体どれほどの額になるのか。
もしかするとアインクラッドの小さな街を買い占めることも出来るのでは無いだろうか。
思わずボス戦前の緊張も忘れフラりとアイテム収拾したくなる。いや、
「ちょっとリズさん!」
「え? あ、いや、アハハハ……」
リズベットはその商人魂から既に拾っていた。
すぐに猫耳シリカによって諫められたが。
その時だ。
「……小虫が飛んでおる」
重低音の響く声が空間を揺らした。
全員の視点……フォーカスは一瞬で声の発生元へと向けられる。
そこには、やや暗い場所で巨大な黄金の椅子に腰掛ける巨人がいた。
これまでのボスも通常で考えると随分以上に大きかったが、そんな彼等の倍はでかい図体だ。
恐らく全力でジャンプしても巨木のような足の膝にも届かないだろう。飛べないことが恨めしい。
肌の色は鉛のような鈍い青。足と腕には大きな獣から剥いだような黒褐色の毛皮を巻き、腰回りには板金鎧をぶら下げている。
この寒い部屋の中上半身は裸体姿で隆々とした筋肉を隠そうともしない。
頭は青く長い髭に、金色の冠を被り、青色の双眸が不気味に灯っている。
これでは攻撃してもせいぜいが剣をスネに当てるのが関の山だろう。
この手の人型ボスは頭部に弱点が集中することが多いので、魔法攻撃による遠隔攻撃が無難だろうか。
出来れば物理とどちらが有効か比較してみたいところではあるが難しそうだ。
即座にアスナはボスの出で立ちから戦闘指揮の為の作戦を捻り出す。
「半神半魔……ウルドに唆されたか。小さき妖精風情が」
頭の上には既知となっているボスの名前が現れた。
《スリュム》。やはりこれが今クエストのラストバトルだろう。
途端スリュムの横にはあまりにも巨大なHPゲージが三段出現する。
これは中々に骨が折れる戦いになりそうだ。
何故ならばSAO、いやアインクラッド及びALOのモンスター……いわゆるエネミーNPCは例え同一のモンスターだとしても細やかなパラメータは一匹一匹違う。
姿形やアルゴリズムは基本同じだがサイズによってモンスターのHPや攻撃力などは僅かな差異が発生する。
これにより、同じモンスターでも同一のソードスキルで倒しきれる時と僅かにHPゲージが残ってしまう場合とがある。
だからこそプレイヤーは日々腕を磨いてシステムにブーストできるシステム外スキルを磨く。
少し話は逸れてしまったが、モンスターのサイズというのはそれだけで敵の力量を図る物差しでもあるのだ。
モンスターは大きければ大きいほどしぶとく、強い。
稀にフィールドでも《このモンスターでこのサイズはあり得ない》というレアモンスターが発生する場合がある。
無論手強いが倒せばそのリターンもまた違う。そういうレアモンスターは得てしてレアアイテムを落としやすいのだ。
その法則で行くとサイズだけでもこの相手は相当に手強いことが窺える。
「誰がテメェみたいなヤツのお嫁にいくかよ!」
クラインがフレイヤの代わりとばかりにスリュムへと攻撃ならぬ口撃で反撃する。
ゲーム故のストーリー上仕方のない台詞なのだろうが、こうやってその気になれた方が楽しいのも確かだ。
「よかろう、ならば小虫を叩き落としてその気にさせてやろう」
「来るぞ!」
「ふぅぅぅううううんんぬぅぅぅううううう!」
ずもぉぉぉぉぉぉっと立ち上がったスリュムは野太い声と共に床を踏みつけ、ズシン……! とした強い揺れがフロアの床に伝わる。
HPはもちろんだが攻撃力もやはり見た目相応にかなりのもののようだ。
くらえばタダでは済まず、さらにスタンさせられていたことは想像に難くない。
尚もスリュムの踏みつける攻撃は続く。連続二回、最初のを含め計三回。
どうやらそれが攻撃パターンの一つのようだ。
固まっていては損害を広げるだけなのですぐさま全員が散開する。
スリュムはぐるりと散らばったメンバーを見渡し、空から鉄槌のように巨大な拳を叩きつけてきた。
ズンッ、ズンッ! と叩かれるたびに床が揺れる。
近距離で受けてはクリーンヒットしなくともスタンしかねない。
それぞれが距離を取るように間合いを計っていると、プクッとその頬をスリュムは膨らませた。
「ブレスだ!」
ズゴォォォォオオオオオオ!!! と轟音かき鳴らしてスリュムは遠くに散らばったメンバーへ直線軌道の氷ブレスを吐き出す。
どうやら距離を取ったら安全、というワケではないらしい。さらに困ったことが一つ。
パチン! とスリュムが指を鳴らすと、吐き出されて床に散らばった氷の残骸が集結して形を成していく。
あっという間に氷の残骸からは氷製ドワーフが十二体ほど生み出され、氷斧を振り回すように突進してきた。
「前衛は取り巻き優先! メイジは遠距離攻撃でボスを削るわ!」
「了解!」
すぐにアスナの檄が飛ぶ。
いつの間にか司令塔がキリトからアスナに切り替わっていた。
もっともこれは今に始まったことではない。血盟騎士団副団長として活動してきたアスナにはそれだけのカリスマと判断力、指導力が備わっている。
対してソロ活動の長いはぐれビーターことキリトはその戦闘力こそ申し分ないが大勢との連携という点では今一歩力量が及ばない。
これは彼の対人スキルが低いという事もさることながら一番の違いはその経験にある。
ソロ故に戦闘において失敗を許されない世界で戦い続けた彼の戦闘技術は本物だが、それは飽くまで個としての話だ。
対してアスナは何度もボスレイドを率いる司令塔として前線でも活躍してきた。
今回チームリーダーをキリトが務めたのはこのチームの中心が良くも悪くも彼だからだ。
それは今回に限らず多々あることでもある。人との繋がりという点では彼が一番みんなと接点が多い。
だが司令塔として有能なのはアスナだった。だからこうして極限のバトルを求められるとそうと決めたわけでなくともその立ち位置が入れ替わる事は少なくない。
キリトも特にそのことについて不満は無かった。むしろ戦闘中に個として動けることは彼の身を軽くして最高のポテンシャルを発揮する原動力ともなる。
クラインのカタナスキルで二体氷兵を切り伏せ、ピナのブレスで一体が溶かされ、シリカの短剣スキルでさらに二体が破壊される。
リズベットのメイスがくるくると回転しながらライトエフェクトを帯び、彼女はそのまま氷兵へとメイスを叩きつけて二体をバラバラにした。
「はっ!」
その間、キリトはブルーの光る軌跡を真四角に残しながら直線上にいた四体の氷兵を切り伏せる。
片手剣用水平四連撃ソードスキル《ホリゾンタル・スクエア》だ。さらに技後素早く床を蹴り飛ばし光の宿った剣で最後の一体を真っ二つにした。
片手剣用ソードスキル《バーチカル》。基礎技だが今のキリトなら威力は十分だった。
その時、丁度スリュムへは激しい紫の稲妻が降り注いでいた。
アスナやクリスハイトに混じって、フレイヤもまた攻撃魔法をスリュムへと向けてくれていたのだ。
これがまた主力と言っていいダメージ量を誇っている。彼女がいなければこの戦闘は三倍の労力を必要としていたに違いない。
そういった意味では彼女を助ける為に動いたクリスハイトとクラインの行動はグッジョブとも言える。
何とか戦闘が形になったところでキリト達もスリュムへの攻撃を開始した。
リズベットは大きめのメイスでゴスゴスと足の小指を攻撃し、シリカも素早く短剣を何度も突き刺していた。
クラインは可能な限り跳躍するとスネの辺りに当たる部位へと下から思い切りライトエフェクトの宿った刀で斬りつける。
カタナスキル《浮舟》。本来は相手を浮かせることで僅かな時間行動不能にし、連続攻撃の起点とする技なのだが、やはりと言うべきかこのボスは大きすぎて持ち上がらない。
もともとボスにはその手の状態異常系スキルは効きにくいのだ。
上手く事が運べば転倒(タンブル)による攻撃チャンスが掴めたが流石にそこまで甘くない。今はダメージを蓄積させられれば上々だとクラインもスッパリ浮かせることは諦める。
ここからは我慢の時間だ。ひたすらに攻撃を回避してダメージを蓄積していく反復攻撃。これがどんな攻略線に置いても肝となる部分であり、耐えどころでもあるのだが……。
「っは!」
一閃。
鈍色の剣戟が閃く。
次いですぐにブルーのライトエフェクトが光帯を宙に結んだ。二閃。
三閃。四閃。高い金属のぶつかり合う音が薄暗いフロアに広がる。
黒い影が絶えず動き続けていた。およそ二回に一回から三回に一回はソードスキルを使い、連続攻撃を《止めず》に続けている。
冷却時間(クーリング)が短く威力のある技を選びながら全てを次に繋げるようにと動き続ける。
異常だ。
彼、キリトの動きを見ていた妹であるところのリーファ/直葉は背筋に冷たい物が奔った。
仮想世界の中では肉体的疲労限界は訪れない。そういった意味では何らおかしいわけではないが、それでも《疲れた》と感じないわけではない。
前に連休中可能な限りダイヴを続けてみようと試みたことがあるが、丸一日経った所で限界が来た。
脳の活動にも休息は必要だ。肉体的に疲労しなくとも思考力は間違いなく低下する。現に直葉/リーファは明らかに格下のモンスターにさえ手こずってしまうほど判断力が低下した。
その限界は思考力を研ぎ澄まし、集中すればするほど速く訪れる。もっと言えば最高潮の全力全快を出していられる時間は継続時間に換算するとそう長くない。
どこかで一息入れなければ必ず綻びが産まれる。それは人間として必然なのだ。安全機構と言っても良い。そうして枷を作ることによって過剰な脳内運動を抑え自己崩壊を防ぐ。
それが出来ない人間は……何処か壊れている。
(お兄ちゃん……)
キリトの動きは尚も衰えることはない。先の戦闘で何か枷が外れたように彼は異常と呼べる戦い方をしている。
今までも凄いと思うことはあったが、これは異常だ。常人の域を超えてしまっている。
それは決して良いことではない。これは飽くまで《ゲーム》なのだから。
そしてもう一つ。彼女が抱く違和感。それは──────誰もキリトを止めない事。
いや、正確に言えばそれを《異常》と認識出来ないコト。
僅かな会話や表情から、それを当たり前とさえ認識している節がある。
もちろん凄いとは思っているのだろう。だがそこに《異常性》というタグは付与されない。
(これが……SAO事件の傷痕なの?)
一人だけ、孤立したような寂しさ。
同時に不安。このまま誰も止める人がいなくなれば、限界のその先へ彼等……兄は行ってしまうのではないだろうか。
ここにいるみんなは自分以外大なり小なりそこへ足を踏み込んでいる。その中でも一番深く踏み込んでいるのは兄、和人だろう。
そこはきっと常人とは住むところの違う世界。自己崩壊を厭わない……省みない先にあるのは──破滅だけだ。
「はぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~あ」
「はぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~あ」
「いい加減それ止めなさいよ」
「だってよぅ、まさかあのフレイヤさんが偽物とは……はぁ~~~」
「だからやめい! クリスハイトも!」
苛立ったようなリズベットが檄を飛ばす。
戦闘は無事に終了した。同行してくれたフレイヤ……もとい《トール》の活躍によって。
戦闘の最中、ようやくHPゲージを一つ吹き飛ばした所でスリュムは特大の氷ブレスを吐き出してきた。
あっという間に前衛は凍らされ、すぐに踏みつけの衝撃によって砕かれる。このダメージ量は半端無く、あわや壊滅(ワイプ)の危険さえあった。
タイミングを見計らってアスナが高位全体回復スペルを用意し、使用していなければ壊滅(ワイプ)は免れなかったに違いない。
このままではヤバイ。誰もがそう思った。ALOの大型回復呪文はSAO時代のそれと同じく《時間継続回復(ヒール・オーバー・タイム)》方式だ。
すなわち回復アイテムや魔法を使用しても即座にHPが回復するわけではなく、何秒間に何ポイント回復していく、というスタイルである。
これが回復途中だった場合、現在のHP以上の被ダメージを受けるとまだ回復が続いていても死んでしまう。
SAOと違い実際には死亡しないし蘇生の方法もあるのだが、大人数のレイドならまだしもこの人数で挑むボスとの戦闘の最中でそれを行うのは少々難しい。
万事休すか、と思った矢先、フレイヤが提案してきたのだ。私の宝を見つけられれば勝てる、と。
それからはそれだけに望みをかけ、彼女の言う宝、黄金の金槌を探し出した。
ところが。
それを渡されたフレイヤはみるみる姿を変え──戻るといった方が正しい──お髭の似合う巨大なナイスミドルと化してしまった。
もっともそうなった彼女……いや、彼は強く、みるみるスリュムのHPゲージを散らしていき、とうとうスリュムは、
「今は勝ち誇るがいい。だがアース神族に気を許すと痛い目を見るぞ。彼奴らこそが真の、しん……」
と意味深な言葉を残して砕け散った。
トールはお礼にと《雷鎚ミョルニル》をプレゼントしてくれたが、珍しくクラインとクリスハイトはそれを奪い合わなかった。
ショックが大きかったのだろう。ガクリと肩を落とし、それはもう深い溜息を吐いている、というわけだ。
「でもこれでアルヴヘイムはだいじょ……ッッ!?」
その時だ。
グラグラと床、いやフロア全体が揺れ出した。
ダンジョン全体が激しく振動している。クラインがすぐに異変に気が付いた。
「オイ!? メダリオン黒いマンマだぞ!? スリュムの野郎をぶっ倒したら終わりじゃねェのかよ!?」
「あ……そう言えばウルドさんが言ってたのって……」
『良い? 私の頼みはエクスキャリバーを要の台座より引き抜いてもらうこと』
瞬間、皆思い出したようにハッとなる。
つまり、今回のクエストは大方のボスを倒してハイ終了、ではなく剣を抜くところまでがクエストフラグなのだ。
メダリオンはもう最後の光が点滅している。時間が無い!
「パパ! 玉座の後ろに降り階段が生成されています!」
「ッ! 行くぞ!」
返事も聞かずにキリトが飛び出し、それを全員で追いかける。
降り階段は人、いや妖精一人が通り抜けられる程度の幅しかないがそれなりに長い螺旋を描いていた。
うおおおおお、と勢い込んで一段、二段、三段飛ばしでキリトは駆け下りていく。
その後ろをピッタリアスナが追いかけ、やや離れてリーファ達が追いかけてきていた。
だが、キリトは途中で足を踏み外した。
「あ」
「あ」
後ろを走っていたアスナもまたつい声を漏らす。
キリトはそのまま転がるように降り階段を落ちていった。
「わああああああああああああああああ!?」
情けない叫びをあげて加速度的にキリトは下り階段を落ちていく。
現実だったら重症だろう。ここが仮想世界で良かったと思わざるを得ない。
「わああああああ────あ!?」
一旦階段が終わり、投げ出されてフロアに頭から激突しそうになった絶妙のタイミングでキリトはフワリと浮いた。
アスナが風魔法を上手く使ったのだ。制作側もまさかそんなことに使われるとは思ってもいなかっただろうが。
キリトはアスナに「サンキュ!」と目で送りながらさらに降って行く。すぐにみんなも追いついて来た。
そこは氷の正八面体……ピラミッドを上下に重ねた形にくりぬいたような空間だった。
《玄室》と言うのだろうか。壁は薄く透き通っていて、ヨツンヘイムを一望出来る。
そんな神秘的な場所の最下層に《それ》はあった。氷の台座に深々と突き刺さるようにして。
微細なルーン文字が刻み込まれた薄く鋭利な刃。同じく氷の中にある根を間違いなく切断している。
精緻な形状のナックルガードと細い黒皮を編み込んだ握り(ヒルト)。
柄頭(ボメル)には大きな虹色の宝石が埋め込まれている。
エクスキャリバー。
間違いなかった。リーファは外からこれを見たし、攻略サイト等でもその姿だけは晒されている。
なによりそのヴィジュアルの重さが放つオーラが、本物だとプレイヤーに理解させた。
「っパパ! これ、とんでもない筋力要求値です! 簡単に抜けるかどうか……!」
「な、なにィ!?」
ここまで来て、という思いが全員に広がる。
かなりの苦労の連続だった。通常ここまで苦労するクエストはアインクラッドの攻略戦でも類を見ないかもしれない。
そこまで労力を払った結果がこのままいけばアルヴヘイムの崩壊なのか。
そもそもSAOやGGOと違いALOは敏捷力や筋力が数値化されない。隠しパラメータ扱いなのだ。
レベルアップ時等にスキル割り振りは存在するが自身のパラメータ確認は出来ない。
楽に扱える、やや手応えがある、体が振り回される、持ち上げるのも困難といった感覚に左右されてプレイヤーは武器を選ぶ。
だからこういう場合必要な数値がどれほどかわからない。初心者がいきなり強力な武器を持てないようにしている仕様とも言えるが。
だからといって諦めたくはない。
「そんなの! 納得できるか! ぬうりゃぁ……あ?」
──じゅぽんっ。
「え?」
「は?」
「へ?」
半ば自棄になりながらキリトがエクスキャリバーの握り(ヒルト)を掴んで引っ張ると、それはジュポンッ! と妙な音を立てて抜けた。
ユイの見立てでは筋力値はとんでもない数値を求められていたはずなのだが。
珍しくユイも目を丸くする。「嘘!?」とその両目が物語っていた。
だがすぐに得心する。
「そうか、パパはアインクラッド……SAOでの能力(ステータス)を引き継ぎしたから、もともと筋力値がおかしいんでした」
「お、おかしいってことは無いだろう」
「おかしいんです! ねえママ」
「う、うんそうだね。確かにキリト君の重い剣思考はちょっと行き過ぎだと思っていたけど……まあそのおかげで楽々抜けたんだし」
納得いかない、とやや膨れ面になるキリトにアスナは苦笑を浮かべる。
その時だった。
「わっ!?」
突如世界樹の根が成長を開始し、ぬるぬると伸びていく。
同時に床の揺れも一層激しくなって崩れ始めた。伸びた根は蔓のようにあたりに走り回り、降りてきた螺旋階段を粉砕してしまう。
恐らくは世界樹の大切な根を傷つけていた聖剣が抜かれたことで世界樹が再生し始めているのだろう。
これでアルヴヘイムは無事だろうが、この氷のダンジョンたる風雲スリュムヘイム城は無事では済まない。逃げ場も無い。
主がいなくなったのも相まってその形はみるみる崩れていってしまう。
なんとなくアスナはかつてSAOをクリアした時、アインクラッドが崩れていく様を見たことを思い出した。
その時は何故だかその城が無くなっていくことにしんみりとした気持ちになっていたものだが、今は流石にそんな余裕はない。
「おわーっ! 崩れるぅ!」
「ひえええええっ! 僕高い所苦手なんだよねえ!」
「男でしょシャキッとしなさい!」
「そう言いながらお前人の事掴むンじゃねェ!」
「ピナァァ!」
「あわよくばクッション代わりに……」
「くるるるるぅ!」
「するな!」
全員が全員、慌てふためき混乱は最高潮に達していた。
と、その時だ。
ポキッ。
「ポキッ?」
上部でものすごぉく嫌な音がした。
それは今いる場所、玄室の最下部たる角っこが見事に上部から切り離されてしまった音だった。
瞬間、それはそれは凄まじい落下速度を伴ってフロアごと真下に引かれていく。
「うわああああああ!?」
重力よ、仮想世界なのだからたまには仕事を休め! と言いたくなるが残念なことに勤勉な仮想重力さんはお休みを取られない。労働基準法なんて知らぬ存ぜぬ関係せぬ。
標準重力加速度を考えれば今自分たちにかかっているGは一体どれほどのものになるのだろうか。
ふとそんなことをアスナは考えてみる。現実逃避だ。しかし計算するにしても必要な値が足りていない。
そもそも自分たちが落ちて行っている先はあの大穴……《中央大空洞(グレートボイド)》なのだ。
スリュムヘイムはグレートボイドの直上にあったので必然とも言えるが、底なしと言われているだけあって、その高さ……深さは未知数だ。
これでは実際にどれほどのGがかかるか計算できない。いやそもそも計算の仕方は現実のそれと同じように当てはめて良いのだろうか。
尚もアスナが現実逃避を続けていると、瓦礫同士がぶつかり、弾ける音に混じって遠くから小さな鳴き声が聞こえ始めた。
くぉぉぉ──……ん……。
「トンキ────!」
最初にその正体に気付いたのはリーファだった。
尚も落下を続けるフロアの上で器用に立ち上がり手を振る。
まさに天の助け。今も落下中ではあるが、どうにか飛び移るだけの時間はありそうだ。
トンキーは落下速度を合わせて横についてくれた。しかし落下中という非常に難しい速度も相まってピッタリと横づけするには至らず、五メートル程度離れた位置でホバリングする。
もっともそれだけあれば十分だ。リーファは「ひゃっほーう!」と即座に崩れかけの床を蹴ってトンキーの背中に飛び乗った。
クラインはしがみついたままのリズベットと、絶叫マシンが苦手らしいシリカの胸にギュウギュウと抱きしめられ息も出来ないと苦しそうなピナをシリカごと両脇に抱え込んで「トォリャ!」とジャンプする。
後ろの方で「ああ! クライン氏! 僕も!」という声は彼に届いていないだろう、たぶん。
ちなみに聞こえていたところでどうしようもなかったに違いない。何故ならクラインのジャンプはトンキーまで届かなかったからだ。
僅かに届かないと判断したクラインは二人をぶんなげた。その勢いでリズベットはトンキーの背中にお尻から落ち、シリカは半泣きになりながら豊満なリーファの胸にキャッチされた。
「おわぁぁぁああああ!」
と叫び声をあげて落ちるクラインはトンキーが気を利かせて長い鼻でキャッチしてくれた。
それを見ていたクリスハイトは、失敗してもトンキーがキャッチしてくれると信じて床を蹴った。
その安心が功を奏したのか、彼はきちんとトンキーの背中に乗ることができた。
「私たちもいこうキリト君」
「ああ……あ」
「?」
「俺、跳べないかも」
キリトの言葉に思わず「えっ」となるがすぐにその意味を理解した。
エクスキャリバーがかなり重いのだろう。
彼の筋力値は確かに凄いが、重さによるステータス補正も半端ない。何人も飛ぶ姿を見てだいたいの飛距離の予想を組み立てたキリトは残念ながらエクスキャリバー所持状態ではトンキーに飛び移れそうにない──距離的に届かない──と判断した。
「おーい! 早く来いよ!」
クラインの呼び声。時間は残り少ない。
ここで跳ばねば間に合わなくなる。
跳ぶためにはエクスキャリバーを諦めなくてはいけない。
「キリト君! ストレージには……」
「まだ入らなかったんだ、フラグ回収が終わってないんだと思う」
「そうなると……」
「ああ、ここで諦めると最悪誰か拾った人の物になるかも。折角ここまで来たのになあ」
キリトの顔に苦悶の表情が浮かぶ。
ここまで苦労して手に入れたレアアイテム。手放すのは惜しい。
だが諦めなければ死んでしまう。諦めず心中したとしても自分の物になってくれているかは定かではないが。
リーファ/直葉はそんな兄の葛藤をトンキーの背中から見ていた。
「お兄ちゃん早く!」
兄を急かす。それは先ほどから灯っていた焦燥からだった。
戦闘中の彼は既に人としての領域を踏み外しかけていた。そして今もその淵にいる。
アイテムの為に命を投げ出していいのだろうか。確かにこれはゲームだ。死んでも良い。
だが、プレイヤー同士の戦いで斬られるよりも、落下死というのは怖いのが通説だった。
プレイヤー同士のHPの削り合いはエフェクトこそ派手だが実際に痛みや感触を伴わない。
最初こそ人を斬ること、斬られることに抵抗があるが慣れれば「そんなもの」という程度だ。これは《ペイン・アブソーバ》による所も大きい。
もっとも、それが若者の他者を簡単に傷つける温床となるのではないか、という危惧が一つの社会問題ともなっているのだが……それはクリスハイト/菊岡誠二郎が触れるべき分野である。
対して落下などの自然死については些か事情が異なる。世界観をよりリアルにするために、この手の仮想世界はその自然体感を極限まで現実そのものに似せるよう作られている。
仮想世界の先人たるこのALOも例外ではない。まして飛べる、というシステムが売りのこのゲームではその落下感覚にもかなり力が入っている。
端的に言えば現実のそれと大差は無く非常に怖い。絶叫系マシンが得意な直葉でさえ、グレートボイドに何の準備も無く落ちることは躊躇われる。
安全性が確保された中でのそれはいい。だがそうでないものに易々と踏み出せるのは、異常だ。人が感じるべき恐怖に《慣れ》から踏み出せるのは欠陥でもある。
それにこのゲームでの高所落下はかなり重く設定されていて、かなり高い位置からの落下死は現実の体にも若干の影響を及ぼしかねない。
アミュスフィアの普及によって安全機構はかなり盛り込まれているが百パーセントではないのだ。企業側としてはより現実に近い鋭利な感覚を求め日夜努力している。
フィードバックという観点からこの危険性はゼロに出来ない。人はその日見た夢の内容によっても影響を受けるほど敏感極まりない神経を持っているからだ。
役人であるクリスハイト/菊岡誠二郎はそのことの調査も含めてゲームに参加しているのだろう、とは前に直葉も和人から聞いていた。
このまま兄が剣欲しさに悩み、落ちることとなれば、その異常さはさらに際立ったものとなってしまうだろう。
大事になるほどではないだろうが、それを省みないという事実が問題なのだ。
そして残念なことにそれを異常として捉えられるのはこの場では自分だけなのだ。だからこそ直葉は兄にこちらへ来て欲しかった。
最近、少しずつ感情が戻ってきていると実感できるから特に。
クリスマス以降、兄は初めて彼女、アスナ/明日奈のいない家族の前でも笑顔を見せたのだ。
それが嬉しかった。治ってきていると確信した。だから、また《そちら側》へ行くようなことはしないで欲しい。
「キリト君、どうしてもそれ、持って帰りたい?」
「……全く、カーディナルって奴は」
アスナの問いに、キリトはシステムへ溜息を吐いた。
それは呆れ半分、怒り半分といったものだろう。散々カーディナル・システムには良いように踊らされているのだから。
キリトはズブリ、と氷の床にエクスキャリバーを突き刺す。
「良いの?」
「しょうがないさ」
キリトの憑き物が落ちたような顔に、トンキーの背中でヤキモキしていた直葉はホッと胸を撫で下ろす。
いや、下ろせる……ハズだった。
エクスキャリバーを刺した床がみるみる崩れ、グレートボイドめがけて落ちていく。
キリトは無事だ。まだ床は崩れきっていない。だがここで誰も予想しないことが起きた。
「アスナさん!?」
アスナだ。
アスナが、エクスキャリバーめがけて、グレートボイドに《自ら》飛び込みにいってしまった。
直葉は背筋がゾクリと凍る。それはいけない。やってはいけない領域。やって欲しくなかった、踏み外してしまった人の領域。
そして。
「アスナッ!」
先ほど、幾重にも躊躇いの顔を見せていたキリトは、《何も躊躇わず》床を蹴り飛ばした。
彼の向う先はトンキーの背中、ではなくグレートボイドへ落ちていくアスナだ。
「ッッッ!」
みるみる小さくなっていく二人。
暗い穴に落ちていく二人は、まるで二人のこの先を暗示しているかのようだった。
「乾杯!」
「カンパイ!」
いやあお疲れ様! と口々に言い合う。
場所はダイシー・カフェ。我らが商人、エギルが現実で経営する店だ。
今回は今日の打ち上げと忘年会も兼ねたパーティだ。
仮想世界と現実のどちらでやるかは迷うところだった。仮想世界ならばユイは百パーセント参加できるが現実ではそうはいかない。
しかしアスナ/明日奈が明日から一週間は父方の実家である京都へ行くことが決まっていたので、出来た娘であるユイは現実での開催を希望し、エギルの店に白羽の矢が立てられたというわけだった。
もっともキリト/和人はユイのことを完全に諦めたわけではなかった。
ハードケースにいくつかの機器を入れて店に持ち込み、設置していく。
持ってきたのは四つのレンズ可動式カメラと制御用のノートパソコンだった。
市販のマイク内臓ウェブカメラを大容量バッテリー駆動及び無線接続できるよう改造したもので、この程度の空間なら四つでほぼカバーできる。
カメラをノートPCで認識し、川越の自宅にある自作のハイスペック機にインターネット経由で接続。
小型ヘッドセット越しにユイに声をかけてみる。
「どうだユイ?」
『聞こえます、それに見えていますパパ!』
これは和人がユイの為に学校でメカトロニクスコースを選択して作っているユイの現実世界用感覚器だった。
今のユイはリアルタイム映像を疑似3D化した空間で小妖精のように飛翔していると認識しているはずだ。
画質は低いし応答性も悪いが携帯端末のカメラから受動的に現実世界の映像を得るのに比べれば自由度は高い。
似たようなシステムを和人は既に自分の部屋にも設置している。あれはこれのさらに骨子となるものだが理論は同じだ。
と言ってもユイが現実世界を仮想世界と同様に認識するためにはカメラ・マイク端末の自律移動機能は必須でセンサーも全然足りていない。
この仮称《視聴覚双方向通信プローブ》システムの完成はまだまだ先というわけだ。
それでもユイは喜び、クラインも「たいしたモンだなオイ!」と笑顔で和人の頭を突いている。
そんな姿を見ながら、直葉は先の仮想世界での出来事を思い返していた。
キリト達が落ちてやや経ってから、二人は光に包まれた。
何事だ、と思う間もなく、クエスト依頼主とも言える女神、ウルドが現れる。
「あっぶないことするわねぇ」
やや呆れの混じったような、それでいて面白い玩具をみつけたような、そんな顔でウルドはいかなる魔法なのか、二人をトンキーの背中までフワフワと送り届けた。
ちなみにアスナの胸にはしっかりとエクスキャリバーが抱かれたままだ。キリトはそんなアスナを抱きしめたままの姿なので、傍から見るとややみっともない。
その後、彼女の妹だと名乗る美しい女性、ベルダンディが現れ、滝のような報酬アイテムをくれたり、さらに末の妹という一見すると小学生か中学生くらいの少女、スクルドが現れ、柄の長いハンマーを振って報酬をわんさかくれたりした。
ベルダンディは長姉と違いおっとりとしていて服装も整っており、長い金砂の髪が軽くウェーブしているのに対し、スクルドは快活だがあどけなさが抜けない黒い長髪の少女だった。
そろそろパーティの共有アイテムストレージは限界が近かったのだが、ウルドはまだ何も報酬をくれていない。
もし二人と同じだけくれるとすると溢れたアイテムはトンキーの背中に顕現し、いくつもグレートボイドに不法投棄するハメになったのだが、その心配は杞憂だった。
彼女からは「そんなに欲しかったの?」と指摘され、聖剣エクスキャリバーを泉に投げないよう注意されながら所有権をもらった。彼女のその言葉で剣はフッと消え、ストレージ内に格納される。
ちなみに剣はアスナのマイストレージに格納されたので、満面の笑みでキリトに手渡し、その際、
「私だと思って大切にしてね」
と言われ、キリトが顔を真っ赤にしたのは余談である。
余談と言えば、
「ウ、ウルドさん、ベルダンディさん! 連絡先を!」
などと一種無謀と言うか意味不明なお願いをこの時クラインはした。
ベルダンディは微笑みながらうっすらと消えていき、スクルドに至ってはあっかんべーをしながらその姿を虚ろにさせていったが、ウルドだけはニンマリと笑い、クラインにキスを投げた。
ピンクのハートマークがフラフラと宙を漂いクラインの前で一度止まると、ゆっくり彼の体に溶け込んでいった。
しばしクラインは明滅し、光が消える。一斉に「マジ?」と声を出したのは言うまでもない。
一連の流れを思い返して、しかし直葉は笑えなかった。
本来ならクスリと来てもおかしくないところのはずなのだが、その前に起こった出来事が衝撃的過ぎた。
二人に何も無かったのは結果論だ。何か起きていても不思議は無かった。
明日奈はバーカウンターにいる和人の隣に座ってクラインにシステムの説明をしている彼の話に耳を傾けている。
その姿は普段と変わらない、良くできた兄の彼女そのものだ。
しかし。
今日の事が漠然とした不安となって直葉の胸の中に刻み込まれる。
何か、取り返しのつかないことが起こってしまうような、そんな予感が彼女の中に小さく灯った。
明日奈は和人の話を聞きながら彼の頑張りに暖かいものを感じていた。
彼の頑張りはユイの、自分達の娘の為だ。彼がそうまでして娘の為に頑張ってくれることが明日奈は嬉しかった。
それは彼との絆の強さを示していると実感できるから。
「おーいキリトくーん」
「菊岡さん、ここでその名前は……まあいいか。今ここにいるのは知ってるメンバーだけだし」
「ゴメンゴメン、でさ、ちょっと話したいことがあるんだ」
チョイチョイ、と手招きするヒョロッとした総務省の役人に和人は溜息を吐いて明日奈に声をかける。
「すぐ戻ってくるから」「うん、ここで待ってる」と言葉を交わして和人は菊岡に歩み寄った。
そんな姿をぼうっと眺めていると明日奈の聴覚野がキュインと動くカメラのレンズ音を捉えた。
ふとカメラの方を向くと、ユイの感覚器たるカメラはその視線とも呼べる物を一方向に向けているように感じられた。
その先は……、
「だからよぅ! お前人の事身代わりにしようとしただろ!」
「なぁにまだグチグチ言ってんのよ情けない。男でしょ?」
「あのなぁ! それが一緒に抱えて跳ンでやった奴に言う台詞かよ!?」
「いちいち煩いわね。ハイハイ、アリガトーゴザイマシタ。これでいい?」
「だいたいなンで俺にしがみついたンだよ?」
「たまたま傍にいたからよ」
「そうなのか、オリャてっきり……」
「てっきり?」
「い、いや……」
「何よ? 私がアンタに気があるとでも? ハッ、ないない二万パーセント無い」
「そこまでなのかよ……」
「何? アンタ私に気があったの?」
「いンや」
「……あんたねえ」
里香……ではない。
クラインだ。恐らく間違いない。ユイはクラインを見ているのだろう。
思えば彼女は割とクラインに気を許している。
ふと、明日奈は目の前に浮かぶユイを幻視した。小妖精姿でフラフラと浮きながら浮かない顔をしているその姿を。
その顔は見覚えがある、と思ったのは今日のクエストの時だ。それは一体いつ何処でのことだったのか……と思い返して、バーカウンターの奥にある鏡にふと目を奪われた。
何のことは無い自分が映っているだけの鏡。だがそれで思い出す。
「……そっか、あの顔、あれは──────私だ」
何度も見てきた自分の顔。
あの時のユイは自分と同じ顔をしていたのだ。
旧アインクラッド時代、まだ和人/キリトと心が通い合う前、気持ちが一方通行だった頃の自分と。
「すまないね、熱が入っている所で」
「なんなんだよ? 言っとくけど今日はムズカシイ話は勘弁だぞ……ってシリカ?」
やや不貞腐れたような顔で菊岡を責めると、予想に反して菊岡は一人ではなかった。
傍にはシリカ/綾野珪子がいたのだ。
「ごめんごめん。この話はキリト君と《お姫様》……じゃない、珪子ちゃんの二人にしたいと思っていてね」
菊岡はやや腰を低くしたしゃべりで含みのある笑いを張り付ける。
珪子は苦笑しながら和人を見つめた。なんなんでしょう? と目で問いかける。
流石に和人も思い当たる節が無いのか肩を竦めた。
「実は今日一緒にクエストに参加したのはこの話もあったからなんだ」
「……?」
「前置きはいいって」
菊岡は要領を得ないとばかりの二人のやり取りを見て、単刀直入に用件だけを述べことにする。
眼鏡をクイッと持ち上げた。
「今日のクエストを見ていてね。適任は君たち二人だと僕は感じたんだ」
「適任……?」
「なんのですか?」
「実は君たち二人……キリト君にはまた、ということにもなるけど……《アルバイト》をお願いしたいんだ」
いくつもの意図が複雑に絡まっていく。
伝うその先は、まだ見えない。