お正月と言えばもっとこう、晴れやかな気分になれるもの……と思っていたのは果たしていくつくらいまでだっただろうか。
かつては年が明けると思えばワクワクしてその瞬間を待ち、明けた瞬間に何もかもが新しくなったかのような気持ちの良い錯覚に包まれたものだ。
そう過去を思い返して、アスナ/結城明日奈は少なくともここ数年はそんな考えなど持ったことも無かった事に気付かされた。
いつの頃からだったか受験戦争に意識を向け、言われるがままに勉強をこなし、成績を残す。充足感が皆無だったわけではない。
努力したなりの結果はきちんと残せたし、それが求められていることだと理解も出来てはいたから、上からジリジリと押しつけられるような《期待》という二文字の重みに潰されそうになりながらも当時の自分はそれなりには満足していたように思う。
今思えば半分諦め……というより考えることを放棄していたのかもしれない。自立とはほど遠い、見た目と知識だけがそれなりに豊富なだけの子供。
あの時の自分を思えば、幼さを残す《ユイ》の方がまだしっかりとした自分を持っている分《大人》と言えるかも知れない。
それでも今年は期待していたのだ。いつの間にか忘れていた新年への昂ぶるような気持ち。それが幼い頃のそれのように自身に舞い降りてくる事を。
求められる《結果》という壁に背中を押されて前へ前へと休むことなく走り続け、楽しむという事を忘れていた中学生時代。
生きることに必至で、長引けば長引くほど両親の期待に応えられない自分が増していく不安に押しつぶされそうになった最低最悪のデスゲーム時代。
やっと解放されても現実で待っていたのは厳しいリハビリと、デスゲームで心の支えとなってくれた愛しい人が覚醒しないという不安時代。
休む暇など無かった。楽しむという感情を持つことなど許されなかった。明日奈の人生においてここ数年のお正月に安寧は無かったと言っていい。
だが。
今年は違う。
悪夢のようなSAOからは解放され、愛しい彼、キリト/桐ヶ谷和人も目覚めた。現実世界でも共にいられる時間が増えた。
曇天のように暗い世界に太陽が差したように明日奈の見る世界は明るくなった。だから今年のお正月は子供の頃のようにきっと楽しい気持ちでいられると何処か期待していた。
しかし、現実は彼女に重くのし掛かってくる。昨年末から既に明日奈は年末年始の予定が決められていた。
彼女の父の実家、結城家への里帰り。仕方のないことだ。この時期に親の実家に挨拶に行くのは昔からの風習とも呼ぶべき通過儀礼。
加えて自身がSAOに囚われていたことにより「親戚一同に心配と迷惑をかけたのだから」と言われれば元気な姿を見せに行かないわけにはいかないだろう。
そこに不平不満を漏らすほどデスゲームを乗り越えてきた明日奈の精神は幼くない。そういうもの、との割り切りくらいは出来る。
昨年はリハビリ中で解放されたのに行けなかったのだから尚更だ……と思っていたのだが。
まさかこれほど鬱屈とした気持ちになるとは思いもしなかった。
京都にある結城本家は古式ゆかしい……どちらかというと赴きだけは桐ヶ谷家に近い風体の広大な屋敷だった。
結城家は数百年前から続く名家で、明日奈の父が一代で国内最大手とも言える電子機器メーカー、レクトを創設できたのも本家の資金援助があったことが大きい。
無論親戚一同も何処かの社長、官僚、と言ったいわゆる上流階級……キャリア人が殆どだ。
会話の大半は何処の誰が全国で何番になっただの、表彰を受けただのと言った成績自慢大会。
明日奈はそれが嫌だった。まるで自分たちのランク付けをここでされているかのような錯覚に陥るからだ。
いや、それは錯覚などでは無かっただろう。事実それはランク付けであり、成績発表会の会場と言っても差し支えない。
そしてその結果が良い程親はその子を育てたという《キャリア》が上積みされていく。
終わることの無い競争社会。まさにそれを体現したような空間は明日奈を一層不快にさせた。
分かっていたことではある。それが嫌だったのは昔も今も変わらない。
だから例え「それが全てじゃない」という価値観を確固たる物にした明日奈でも声を上げて否定するような真似はしない。
ただ、この時から薄らと黒い感情が沈殿し始めたのは確かだった。
明日奈は大人達の成績発表……いや品評会と化している会場を静かに後にする。最低限の儀礼は果たした。
後は同年代のいとこ達との再会に華を咲かせよう。
これは当時もそれなりに楽しんでいたことだ。年代が近いいとこ達はやはり似たような価値観を持っている。
それだけが唯一心の休憩所とも言えた。大人達には大人達の、子供達には子供達の世界がある。
久しぶりに再会したいとこ達はみんな我が事のようにSAOからの生還を喜んでくれた。
口々に「また会えて良かった」「元気になったんだね」「助かって本当に安心したよ」と温かい言葉をかけてくれる。
だが、明日奈はそんな彼等の瞳の中にチクリと胸に突き刺さる棘のような物を感じた。
元来、人の目を気にして生きてきた明日奈はそういった視線に非常に敏感だと自負している。
(これは……)
戸惑いは一瞬。SAOで培った……と言えば良いのか悪いのかわからない思考切り替えが明日奈の心を瞬時に落ち着かせ──凍てつかせ──、平静を装わせた。
彼らの視線に含まれる感情、それは《憐憫》だったのだ。すぐにその意味や思考を悟る。
彼等は将来への終わらないレース社会から早々に退場してしまった……せざるを得なくなった自分を哀れんでいた。
二年という常人とは異なる時間の大幅なブランク。それは確かに非常に大きい物でもある。……キャリアを高く意識している者にとっては特に。
その気持ちが全く理解出来ないわけではない。同じ立場だったなら自分も似たような感情を抱いただろう。
悪かったのはそのことに思い至ったのが彼等の目を見てから、ということだった。前もって気持ちを切り替えられていればこの場でももう少しマシな心境でいられただろう。
しかしこの場が心の波止場だと思っていただけに、明日奈は思ったよりもショックを受けた。
理解が及ばないわけではない。でも哀れみを受ける謂われもない。なぜなら自分はもっと大切だと思えることに気付いたのだから。
彼らにはそれがわからない。わかるわけがない。それは仕方のないこと。そう理解はできても、納得はできない。
急にこの場にいることすら苦痛に感じ始めてしまう。だがそれを表に出すことはない。
鉄面皮……とは違う笑顔の《仮面(ペルソナ)》は剥がれない。これもある意味、SAOで培った技能と言える。
言うなれば《システム外スキル》。もともと本音を隠すのは上手い方だったが、SAOでの経験が──望むと望まざるとは別に──それをより強固なものへとレベルアップさせた。
と言っても、飽くまでそれは表面には出さない事に特化した《仮面(ペルソナ)》であって内心の操作ではない。
身の内に黒い感情が堆積していくのはどうしようもなかった。
それでもまだ耐えられると思っていた。事実、そこで終わりなら明日奈は耐えられる自信があった。
だが、それからも些細なことが重なって嫌な感情が積もり積もっていく。
少しでも負の感情を発散したいとアミュスフィアを持ち込んでいたのだが、残念なことに明日奈に宛がわれていた母屋には今時にしては珍しい完全アナログ空間で、無線LANすらない環境だった。
これには流石の明日奈も少しばかり堪えた。実際に会えずとも仮想世界でならみんなと会えるだろうと楽観していた。
おかげで胸の内には消費されない黒い感情が堆く降り積もっていく。それは明日奈の思考をどんどん侵食し、暗い気分にさせていく。
それでも、帰るまではなんとか耐えられると思っていた。表面的には繕いきれる自信がまだあった。
全ては過去形。
明日奈にとって耐えがたい苦痛の種。《彼》が言葉を発するたびに少しずつ《仮面(ペルソナ)》が罅割れていく。
《この人》のせいだけではない。これまで蓄積された感情のせいもあるだろう。それでも、明日奈にとってこの人の言葉を理解すればするほど、その黒い感情が嫌というほど自分に溜め込まれ溢れていく。
「僕は今銀行の昇進クラスでも一番上にいるんだ。今後の年収もそこいらの実業家と遜色ない物になってくると思う。次に付くポストは二か月後の話ではあるんだけど──」
自慢話、というよりは身の上話。自分がどこにいて、どのような立場にあり、今後どうなっていくのか。
そのような話だけならば、明日奈はまだ《仮面(ペルソナ)》を張り付けて聞き流せた。
「──それでその半年後には都心大手、と言っても立地場所は郊外で規模は少し小さいんだけど……責任者になるんだ。そうしたら家を買うつもりでね。あ、明日奈さんは家には拘りとかある? クローゼットのメーカーとかはさすがに僕も詳しくなくてね。そういうのは女性に任せた方がいいのかなって」
「あ、あはは。私もあまり詳しくはないんです」
「そうなんだ。そうだよね、こんなことでもないと普段あまり知る機会なんてないし。家の大きさはある程度に抑えて、土地を広めに用意しようか。そうすれば庭も作れるし、菜園とかそういうの、明日奈さんは興味ないかな」
「庭は……あったらうれしい、かな?」
笑顔を振りまいて誤魔化す。
この空間には自分と《彼》しかいない。
いつの間にか、周りから人の気配は消えていた。
まるで《謀った》かのように。いや、事実これは《謀られた》のだろうけど。
「そういえば明日奈さんは修学旅行で外国にも行ったことがあるそうだけど、その、行きたい場所とかあるかな。ここに旅行したい、とか」
「……ごめんなさい裕也さん、私ちょっと席を外すわね。ちょっと気分が悪くて」
「え? あ、うん。こっちこそごめん。僕ばかり話してしまって。またね」
気の弱そうな顔で申し訳なさそうに謝る彼──裕也に、少しだけ胸を痛めながら明日奈はやや速足でこの空間を後にする。
彼が悪いわけではない。彼が悪い人なわけでもない。ただ彼の話のほとんどは《結婚》を前提としたような内容だった。
それなりに聡い方だという自覚が明日奈にはあるが、これはそうでなくとも感付く。気を利かせた、などというような生易しい話ではない。
確実に、縁談の話が自分の知らないところで出来上がっている。話を聞く限り、また相手の態度からこれは本決まりになったものではないだろう。
だがそうなる前からこうやってお互いの関係を温めさせることくらいはやってもおかしくはない。
「……っ」
息が詰まりそうだった。張り詰める胸に溜まった黒い泥が身の裡から溢れ出す。
じわりじわりと限界を超えて明日奈を苛む。がんじがらめに茨で縛られているかのような束縛感。
動けば棘で傷つき、動かなければそのまま締め付けられ取り込まれてしまうような恐怖。
だれか、この茨を断ち切ってくれるお伽噺に出てくるような勇者はいないものだろうか。
『もしもし? アスナ? おーい?』
「……え?」
全く唐突に、耳には慣れ親しんだ人の声が届く。
何故、どうして? その答えは実に簡単だった。自分の手は携帯端末を握っていて耳に押し当てている。それが答え。
自分の意志とは裏腹……いや、意志通りに、体は脳の発した命令通りの行動を実行している。
明日奈の表面的な理性としては電話をかけるつもりなどなかった。ここで彼に弱い自分を晒す気はなかった。
彼に心配はかけたくないし、そもそも彼が見ている自分は、きっと気高く強いものだろうから。
だが体は勝手に理性とは異なる命令を実行していく。心と体が上手くリンクしない。
やめて。これ以上勝手なことをしないで私。
余計なことをしないで。
言わないで。
「……会いたい」
『えっ?』
「ッ!」
『アス──』
瞬間、通話終了ボタンを強くタップする。
今、自分は何を口走った? 何を願った?
言うべきことでは無かったのは事実だ。見せるべき弱さではなかった。弱さなど、見せてはいけなかった。
言うつもりなどなかった。普段の自分なら絶対に口にしない弱音だった。
「……ぅ」
携帯端末が振動する。確認するまでもなくコールしてきているのは彼。
だが今は。今はそれを取ることが出来ない。これ以上、彼と話してしまったら何を口走ってしまうかわからない。
一滴、涙が頬を伝う。尖った顎から透明な雫が滴って、跳ねる。
それでも彼と繋がっている実感は欲しくて、しばらく振動し続ける端末を手放すことができなかった。
「……」
埼玉県川越市桐ケ谷家の自室。手元の携帯端末は無機質なコール音を延々と流したまま応答しない。
キリト/桐ケ谷和人はコールが二分を超えたところで一度電話で呼び出すことを諦めた。
しかしコンタクトを取ること自体は諦めきれない。念のためにメールだけは打っておく。
突然かかってきた電話と態度がおかしかった彼女。気にするなという方が難しい。
頭の中では「会いたい」と言う儚げな彼女の声がずっとリフレインしている。
何かが彼女の身に起こった。それは恐らく間違いない。自分に助けを求めたくなるほどの何かが。
生命に関する身の危険、ということではないだろう。それなら電話でももっと切羽詰っていたはずだ。
だからそういった意味では彼女が今すぐどうこうなるという不安は薄い。
それでも。
彼女に「会いたい」と言わせるほどの不安感情が生まれた原因があることに違いはない。
今彼女は埼玉……東京からは離れた京都にいる。距離にしておよそ五百キロメートル弱といったところか。
埼玉県の端から端までがだいたい百キロメートル強だからざっと五倍。二往復半。
なかなかに遠い。ちょっとやそっとでどうこうなる距離ではない。そんなことは和人にもすぐに理解できていた。
和人はデスクに座るとモニターの電源を入れる。PC本体の電源は《彼女》のために稼働しっぱなしなので改めて点ける必要はない。
インターネットブラウザから地図を呼び出し、初期搭載されているOS電卓アプリにてカタカタと簡単な計算をしていく。
数分そんなことをしてから、椅子の背もたれにギィと腰を預けた。天井にある染みを見つめてから今度は携帯端末を弄る。
彼が確認していたのは預金残高だ。
「んー……入ってはいるんだよなあ、菊岡サンにしては珍しく仕事が速い」
年末、年下の女の子と一緒に再びバイトに誘われた和人は、少し悩んでからバイト料は一定額を前払いで、というとんでもない条件を突きつけた。
これは前回GGOについて携わる際、後払いにした後予算の関係から明日奈と山分けになった経験からの対策だった。
もっとも、ここまで言えばさすがに諦めるだろうという予想もあったのだが、和人の考えとは反対に菊岡は少しだけ悩んでから了承した。
入金されたのは翌日。年末は銀行も振込み手続きを休んでしまうので急いだのだろう。逆に言えばそうまでして手伝ってほしいことがあるということでもある。
早まったかな、と思わなくもないが、収入があったことは素直に嬉しい。今回はバイト内容もまだ知らないので彼女……明日奈にも「またバイトをする」とだけしか伝えていない。
額は流石にGGOの時のような額ではないが、一定以上の期間を超えれば残りは順次支払われる約束になっている。何が言いたいのかと言えばとりあえず《資金》についてはなんとかなるということだ。
何についての《資金》かと言えば、説明するまでもない。和人は少しだけ天井の染みを睨みつけるが、すぐに身を起こした。
「ユイ」
『なんですかパパ?』
すぐにレスポンスが返ってくる。
和人の部屋には集音マイクと小型カメラが設置されていてここでの会話はマイクの音量を手動でミュートにでもしない限りPC──正確には繋がれているサーバー内──へと伝わっていく。
それはすなわち、PC内を住居とする人工知能、娘の《ユイ》にいつでも話しかけられることを意味していた。同時にそれはちょっとしたことでも《聞かれる》可能性を孕んでいて、実際恥ずかしい事態に陥ったこともあるのだが、それはときめきメモリアルに一生仕舞い込んでおく。
ユイは基本、PC内でも眠ることはない。だから声をかけられればほぼ間違いなくたいしたラグもなしに反応する。
「ちょっとパパとドライブにいかないか?」
『ドライブ……ですか?』
「そう」
『良いですけど……どこまで行くんですか?』
「そうだな、とりあえず首都高速に……あ、待てよ。まず近場のレンタカー屋かな」
『? パパ自分の持っているじゃないですか。あれ? でも高速……?』
「予定行程片道だいたい五百キロ弱。高速道路ではあのオンボロじゃちとキツイ。少しばかり長いドライブになるぞ」
目的地は確かに遠い。文字で換算しても地図で見ても。
しかし。決して辿り着けないほどの距離ではない。
移動する術が無いわけでもない。それなら──迷う必要はなかった。
『パパって時々大胆ですよね』
「なんだよ藪から棒に」
冷たい刺すような風が突き刺さる。
厚めの革製ライダースジャケットは着ているがやはり時期的な物もあって不安は残る。
片耳には無線のイヤホンセットを装着したままヘルメットをしているので、ユイとは無線で繋がった携帯端末を通じてリアルタイムで会話が可能だった。
ヘルメットの脇に小型カメラも設置したがこちらはユイが「目が回ります~」と言うので切ってある。
今ユイは携帯端末のGPS機能を使って現在位置を電子の海でマップを見ながら応答しているに過ぎない。
ALOで高速の移動には慣れていると思ったが流石にレンタカー屋で借りた二百五十CCの自動二輪には耐えられなかったようだ。
彼女自身には《酔う》という症状は無いに等しいが実際に見ているわけではなく、仮想世界と違いカメラという端末を通した画面越しの高速移動は、カメラ自体の性能もあってか正直処理に苦しむのだろう。
これがもっと大型のハイスピードスローカメラならまだ良いのかもしれないが市販の小型カメラの性能では、徒歩はともかく高速移動には耐えきれない。
『急に京都のママのところに行く、だなんて』
「ユイもママに会いたいだろ?」
『それはそうですけど。あ、パパ。次のインターチェンジで一回降ります』
「了解」
最先端のカーナビや地図アプリなど顔負けの超高性能ナビゲーターが付いている和人には、幸いにして長距離だろうと道に迷う心配はなかった。
和人はスロットルを回してさらに加速させる。グングンスピードは伸びていくが、体感的にはALOで高速飛行する時よりも抵抗は少ない。
それは当然の話でもある。ALOではほとんど生身の体で高速移動しているのだ。体にかかる負荷が全然違う。
だが一定の速度を超えると、ふと自分は今バイクに乗っているのではなく空を飛んでいるように錯覚する瞬間がある。
フワリと浮いて、重力を感じない。ALOで空を飛んでいるのとは違う別の何か。慣性に置いて行かれたまま浮いているだけとも思える不思議な感覚。
体が軽い。まるで重さ、という縛りから解放されたような感覚。これはALOでの飛行では得られない別の感覚だ。
速く、疾く。速度を上げているという自覚が薄れ、世界そのものとも断絶していき、完全なる個となる。
更に速度を上げる。エンジンが悲鳴を上げる音が背中に遅れて流れていく気がした。
先へ。もっと先へ。もっともっともっと……。
『パパ! ちょっと飛ばし過ぎですよ!』
「っ! あ、ああ」
突如耳に入ってきた愛娘の声が和人の飛びそうになった意識を呼び戻す。
慌ててスロットルを弱め、速度を落とした。
『事故なんて起こしたらママが悲しみます』
「ごめんごめん。いつも乗ってるのが百二十五のやつだから、ついその時の癖でスピード上げちゃって」
『気を付けてくださいね』
「ああ」
危ない危ない、と自分にも言い聞かせる。
つい速度を上げ過ぎてしまった、気をつけねば。
彼の妹である直葉はALOでスピードホリックと呼べる程高速での飛行を好むが、兄妹だからなのか和人も高速移動をそれなりに好む。
こと戦闘においてはパワーファイターの毛色が強く感じられるが、それは彼がより強力な──ダメージ量を稼げる──武器を好むからであって戦闘スタイルという観点だけで見れば彼はスピード型だった。
故に、時折明日奈/アスナでさえ勘違いするのだが、彼はダメージディーラーでありながらよく動く。もっと言えば素早く動く。
普通、ダメージ量を稼ぐ意味で強武器や強魔法を選べば鈍足になりがちだ。やむを得ない代償と言える。どう能力構成(ビルド)を振るかにも左右されるが、突出した力は対極位置にあるステータスを弱くさせる。
だが彼の場合の速さとは、能力構成に左右されないものだ。生粋のスピードホリック故に速く動くことを体に強要する。
現実では、実際にそのように命令したところで体が追い付いていかない。だが仮想世界ではそれが可能になる。それが、彼の強さの秘密の一つだろう。
そしてそれは同時に、危うさをも内包している。
既に社会現象の一つなってしまっているが、仮想現実と現実の区別を付けられない人が増えてきている。
人を斬るという行為に躊躇わない、高いところから飛び降りられると錯覚する、など上げればキリはない。
しかしそれは悪いことばかりではなく、リーファ/直葉などはゲームの中で培った戦いの勘と技術を見事現実にフィードバックさせ、剣道の試合で成績を残している。
明日奈などは仮想世界の方が無数にタスクウィンドウを開けるので調べ物や勉強にも役立てている。もっとも、母は仮想世界を飽くまで《ゲーム》としか認識せず、快くは思っていないようだが。
『パパ』
「ん?」
『ママに何かあったんですか?』
鋭い。ユイの的を射た指摘に少しだけ和人は黙る。
彼女はその口調こそやや幼さを見せるものの、知識や物の考え方は和人や明日奈顔負けの大人そのものだ。
見た目は子供、頭脳は大人を地で行くハイスペック幼女と言える。
しばし迷ってから、和人は嘘を吐くことを諦めた。ユイに嘘はつけない、というより吐きたくない。
特にユイは人の悪意に敏感で弱い一面がある。MHCP……メンタルヘルスカウンセリングプログラムとして生み出され、感情模倣機能を持ちながらSAOにて人の負の感情を延々と観測し続ける事になった彼女は人間でいう《精神崩壊》を一度起こしている。
そのせいか、人の負の感情に関する事柄にはユイは酷く敏感だ。こと、自分や明日奈に関わることなら特に。
だからこそ、彼女にはいつも誠実でぶつかりたい。自分に悪意があるわけではなくとも、嘘を吐くという行為が彼女の琴線に触れないとも限らない。
「……ああ、ちょっと様子が変だった」
『ママの様子が変だったから、パパは埼玉から京都までわざわざ行くんですか?』
「……まあ、そうなるな」
『………………パパ、少しお聞きしたことがあります』
「なんだ?」
かなり溜めてから、やや神妙な声色でユイの声が通信機越しに届けられる。
その声色から、なんとなく冗談ごとではないと和人も察しがついた。
出来る限り真面目に話を聞こう、と和人自身も身構える。
『パパ、パパはママとのことをどこまで考えていますか?』
「なんだよ急に」
だが発された質問は予想もしえないものであり、また大変答え難い内容だった。
考えたことが全くないわけではないが、それを言葉として現実化するにはまだ速すぎるし曖昧も良いところだ。
ましてやユイになど言えるはずもない。だがユイは追及する手を緩めなかった。
『パパ、真剣に答えて下さい』
と言われても、どう答えていいのかわからない。答えられる範囲での答えなど持ち合わせていない。
そもそも何故急にそんなことを聞き始めたのだろうか。少し狡いが、和人はユイの真意を図ることで質問の矛先を変えることにした。
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
『今パパが、ママの為に大きな行動を起こそうとしているからです』
「……?」
答えの意味がわからない。
明日奈の為に行動したらおかしいのだろうか。
それとも、ユイから見ても流石に京都まで会いに行くのは異常だと思われたのだろうか。
『勘違いしないでくださいねパパ、別にパパの行動を咎めたりしているわけじゃないんです。ただ私は《私本来の役割》として、今パパにも聞いておかなければならないと判断しました』
ユイはすぐに和人の考えを察したようで、それを否定する。
しかし彼女の問いが終わったわけではなかった。彼女は通信機越しにそのまま続ける。
『パパ、パパは今ママの為に長距離を移動しています』
「……ああ」
『それはパパがママのことを好きだからと解釈できます。違いますか?』
「……」
違わない、が、言葉にするのはやはり気恥ずかしい。
だが幸いにして、この辺の機微についてユイは察してくれたようだった。
『違いませんよね。そこで私が聞いておきたいのは、今のパパがどこまでの考え……想いなのか、ということです』
「……どこ、まで?」
ユイにしては珍しく本題に中々入らない。
もしかすると彼女も少しだけ本題を口にすることを躊躇っているのかもしれない。
それは人工知能であるユイにとって素晴らしい成長であるのと同時に、よっぽどの話だということだ。
『今のパパとママは世間で言うお付き合いしている学生でしかありません。恋人、と呼ぶのが正しいでしょう。そこから上のステップを踏むにはかなりの覚悟が必要になると思います。……ゲームとは違って』
一瞬、和人はユイがとても傷ついている顔を幻視した。
ゲームとは違って、とは彼女にとって最も言いたくない言葉だっただろう。
なぜならその《ゲーム》こそ彼女の生きる世界と言っても過言ではないのだから。
しかし自分の生きる世界を否定してまで、ユイは和人に、父に尋ねなければならなかった。《今後のためにも》。
『パパに、ママを一生支える覚悟がありますか……?』