イヤホン越しに聞いた、電子音声とは思えない少女の声が頭の中でリフレインする。
ぐるぐるぐるぐる、繰り返される言葉はたったワンセンテンス。
たったそれだけの言葉なのに、まるで呪いのようにその言葉は彼、キリト──桐ケ谷和人を侵食していく。
一瞬言葉に詰まった、即答できなかった和人に、《娘》である彼女としてではなく、《MHCP》……メンタルヘルス・カウンセング・プログラムとしてのユイは言ったのだ。
『……今、迷いましたね?』
「……寒い」
一月の外気は容赦なく明日奈へと吹き付け、その体温を奪っていく。
仮想世界のように片手一つのシステム操作、あるいはスペルの詠唱によって耐寒耐性を上げることは叶わない。
わかっていたことではある。これが──現実なのだ。
和人との電話を無理やり切断した後、アスナ/明日奈は行く宛も目的も無く屋敷外を徘徊していた。
防寒に類するものなど何一つ羽織らず、着の身着のままの着物姿で多くの人が行きかう交差点をゆっくりと歩く。
視線は前方など見ていない。暗く沈んだ気持ちに引っ張られるように足元をジッと見つめて視界に人の足が入るとフラリと避ける。
もうそんなことを何時間繰り返しただろう。相変わらず視線を上げることこそしないが、強まる冷気と下方とは言え見えている視界が暗くなってきていることから、相応の時間が経過しているだろう事には気付いた。
ふと、目に入った自分の履いている靴を見て、その靴がいつも使っているブラウンのローファーなことに思い至り、今の姿とは妙にアンバランスだな、と苦笑した。
今頃結城家では戻らない自分の事を心配しているだろうか。どうやら長時間冷気にさらされることによってようやくと明日奈の思考回路は冷却(クーリング)を果たしたらしい。
だが、それは同時にどうにもならない──目を背けることを許されない現実への回帰でもある。
「……ふぅ」
吐き出される白い吐息はすぐに霧散し、闇へと熔けていく。それをぼうっと見つめて……肩を震わせた。
少し体を冷やし過ぎたのかもしれない。ようやくと視線を上げてみれば街灯にはぽつりぽつりと明かりが灯り始めていた。
夜の帳はもうすぐそこまで迫っている。心配をかけている可能性もある以上せめて一刻も早く戻らねばならない。
それが肉体的にも論理的にも正しい選択であり、今取らねばならない最良の行動なのだが、不思議と明日奈の足は家路に向かおうとはしない。
そもそも何も考えず彷徨った為に明日奈は現在地を理解していない。戻るためにはここは一体どのあたりなのか、という現状把握が必要なのだがそれさえもやる気が起きない。
「寒い……」
肩を抱くようにして体を震わせる。
流石に氷点下、とまではいかなくとも一桁前半代であろう外気温の中薄着の着物一つでいるのはそろそろ限界だ。
ALO──アルヴヘイム・オンライン──の地下世界ヨツンヘイムも相当に寒かったが体感的にはこちらの方が寒い。
明日奈はたまたま見つけた小さな公園……とは名ばかりな遊具の一つもない緑地公園へと足を踏み入れ、背もたれのない木製のベンチに腰掛ける。
中央に噴水、周りには申し訳程度の木や花、街灯といくつかのベンチがあるだけの小さい公園だ。
少し離れた道路ではお正月だと言うのに車が忙しなく行きかっている。時折「ブオン!」と煩いエンジン音が耳に響く。
明日奈は「んっ」と声を出して足を伸ばした。冷えた体は節々にまでギシギシとした薄い痛みを明日奈に訴える。
真っ白に震える手を口に当てて「はぁぁ……っ」と息を吹きかけると、やや痺れかけた指先にジンジンとした温かさが戻ってくる。
もっともそれも一瞬、次の瞬間には再び冷気の刺すような棘によって痛みに似た寒気が指先を支配する。
もう一度「はぁ」と白い息を吐いて空を見上げた。星は……然程見えない。
東京でもそうだが、空を見上げても満点の星空など、そうそう見えない。別に曇っているわけではないのだが、やはり人工の光が強すぎて人の裸眼視力ではあまり確認できないのだろう。
「そういえば、アインクラッドの夜空は星で一杯だったな」
SAO──ソードアート・オンライン──の舞台である浮遊城アインクラッド。
空に浮かぶ城という設定だったからなのか、そこで見る星空はこれまで見たことも無い程綺麗だった。
最初の頃は夜空を見ることなどしなかった。昼も夜も迷宮に潜り、ひたすらに倒れるまで走り続けようとしていたのだから。
そんな時、いつだったか《彼》に言われたのだ。「そんなに下ばかり見ていないで偶には上も見てみろよ」と。
当時の自分は元の世界へ戻ることで頭が一杯で他の事に意識を向ける余裕などほとんどなかった。
だが、彼に言われて仰いだ夜空はそんな状態の自分でさえ声を失う程に美しかった。
惜しむらくはあの星々の名前や配置がわからなかったことだろうか。そう思えるほど明日奈/アスナはその星空に心奪われたものだ。
しかし。
今見ている空はどうだろう。
何の感慨も湧かない暗雲とし空には、感じ入るものなど何もない。
あれほど現実への帰還を求めていたはずなのに、今はその現実が時々煩わしくさえある。
わかってはいた。それが現実なのだと。でも、これが恋い焦がれた現実だと言うのなら《あの世界》に囚われていたままの方がよっぽど────
「……っ!」
ぶんぶんと首を振る。
今一瞬、考えてはいけないことを考えた。
何より、それを《彼》に示したのは外でもない自分なのだ。その自分がこんな気持ちでいてどうする。
また《彼》……桐ヶ谷和人こと《キリト》のことを思い出して携帯端末を見やる。そこにはあれからも数回連絡があった旨の履歴が表示されていた。
心配させてしまった、という罪悪感はあるものの、こうやって何度も連絡を取ろうとしてくれるキリトの自分への思いに少しだけ顔がほころぶ。
「ありがと、キリト君」
「どういたしまして」
バサッと肩に少しばかり厚めの黒い革製ライダースジャケットがかけられた。
瞬間明日奈はビクッと肩をいからせ、立ち上がって振り返る。
するとそこには、見覚えのある黒い髪の少年が立っていた。
「え……キリト君!?」
「おう」
「な……どうして……?」
まるでいつもと同じように、待ち合わせに遅れて来たかのような軽さで片手をあげて立っているのは──会いたくてたまらなかった桐ヶ谷和人その人に外ならない。
和人は明日奈の仰天した視線にポリポリと頬を掻きながら視線を逸らしていたが、やがてゆっくりと明日奈に近づき、その両肩に優しく手を置いた。
夢などではない。その質量感が紛れも無く本当に彼がここにいることを明日奈に実感させる。しかし、一体何故……?
「あー……明日奈? ほら俺、なんていうかさ、呪われた身としては呪いの回収を果たさないとと思って」
明日奈が突然の出来事に混乱していると、和人はそう言うが早いか顔……唇を明日奈へと近付けていく。
え、まさか? と明日奈が思い身構えるより先に、和人は明日奈の冷え切った……《額》に唇を押し当てた。
「………………へ? おでこ?」
一瞬ギュッと瞑った目を開き、薄く頬を桃色に染めながら、しかし些か不満そうに明日奈は和人を睨む。
睨まれた和人はこれでもう精一杯ですと背中を向けてしまった。彼らしいと言えば彼らしい。
そもそも呪いの回収を彼から行ってくれたことはこれまでそう無かったはずなので、今回はそれで良しとしておいてあげよう。飽くまでも《今回は》だが。
和人の背中を見つめながら、冷えていた筈の体に熱が灯る。とりわけ口付けされた額はぽかぽかと暖かかった。
体も和人がかけてくれた革ジャケットのおかげで殊の外暖かい。これはきっと直前まで和人が着ていたのだろう。彼の熱がまだ優しく籠っている。
「キリト君、どうして……ううん、どうやって私の場所がわかったの?」
何故来たのか……などという馬鹿げた、それこそ失礼極まりない質問はしない。
その答えはもう出ているからだ。自分がした──してしまった──電話以外、理由は考えられない。彼はあの電話で──嬉しいことに──いてもたってもいられなくなったのだろう。
「会いたい」と零してしまった自分の願いを聞き入れるべく、彼は驚いたことにはるばる片道五百キロ程度の距離を移動してきてくれたのだ。
それが明日奈は嬉しかった。だからWHATではなくHOWで尋ねる。自分でさえ現在地を正しく把握できていないのにどうやって居場所がわかったのか、と。
「超高性能ナビゲーター様の言う通りに来ただけさ」
「高性能ナビゲーターって……ユイちゃん!?」
「その通り」
和人は微笑みながら左耳を指差した。
そこには黒いワイヤレスイヤホンが装着されている。それでおおよその事態を明日奈は理解した。
明日奈の持つ携帯電話のGPS位置情報をユイが探知し、和人をここまで連れてきてくれたのだ。
「そっか、ありがとうユイちゃん」
「どういたしまして、だとさ。明日奈の為ならこれぐらいなんでもないって言ってる」
明日奈にはユイがえっへん! と胸を張って誇らしげな顔をしているのが目に浮かんだ。
ユイは和人や明日奈の為に何かできることがあることを喜ぶ傾向にある。ユイのその身は人工知能……作られた感情なれど、その心は親に褒められたいという人間の子供のそれと何ら変わらない。
そんな彼女が明日奈はとても愛おしかった。
「二人共ありがとう……! 」
『ママ、あのまま帰しちゃって良かったのですか? パパ』
「ああ、明日奈は大丈夫だよ」
明日奈と再会を果たした和人は、あの後そう長く話もせずにお互い別れた。
明日奈の服装が服装だったこともあるが一番の理由は時間だ。
日暮れもだいぶ進み、そろそろとっぷりと日が暮れ夜の帳が完全に落ち切る頃合いだ。
こんな時間に彼女を連れ回すのは良くないだろう。彼女の家は特に門限が厳しいのだから。
それに、喜び安心しきった彼女の顔を見て、とりあえずは大丈夫という確信も得られた。それだけで十分。
『フフッ、パパ最高に恰好良いです』
「ははは……ところでユイ」
『何ですか?』
「もう一つ、いや二つ検索してほしいんだけどさ」
『お任せください!』
「この近くで安くて暖かいジャケット売ってる店ないかな」
和人が着ていた物はそのまま明日奈が着て持って行ってしまった。
おかげで今度は和人が寒さに震える側と相成ったのである。
『なんかイロイロ台無しですパパ』
「そう言わないでくれ、あと安宿を見つけてもらえると助かる」
『ママの所に泊めてもらえばタダで済みますよ? きっとママも喜びます』
「い、いや、それはちょっと、な、うん」
『パパ、変なところでヘタレです』
ユイの打って変わってやや辛辣となった言葉に「う」と呻きつつもそれは流石に了承出来ない。
そもそもまだ東京にある明日奈の家の敷居さえ跨いでいないと言うのに明日奈のご両親の実家……それも大財閥の屋敷へなどハードルが高すぎる。
忘れてもらっては困るが和人は自他共に認める対人スキルが激低なのである。……全く誇れることではないが。
ゲームの中のスキルと違い、こっちは経験を積めば積むほど高レベルになれる……と決まっているわけでは無いのがネックで、和人にもそれなりにいろんな人と接する機会はあるのだが、いかんせん苦手意識や性格はどうしようもない。
「ユイ、あまりからかわないでくれよ……」
少しだけ弱気になったような声の和人にユイは「ごめんなさい」と謝ってから──どうやら今の間に検索していたらしい──頼まれた二件について説明しだす。
和人は再びユイのナビゲーションによって夜の京都をおっかなびっくり徘徊し、ホテルのベッドに横になったのは実に夜の十一時を過ぎたあたりだった。
バイクは既にこちら側にある同じ系列のレンタカー屋の支店に返却している。乗り捨て料を取られるかと危惧していたのだが、どうやら杞憂だったようでその必要は無かった。
明日は流石に飛行機のチケットを取ってある。そもそも今日はチケットの関係と時間の関係で飛行機を使えなかったのであって、本来なら飛行機でも良かったのだ……懐は痛むが。
『お疲れ様でした、パパ』
「ああ、ユイも今日はありがとう」
『私は役に立ちましたか?』
「ん? ああ、もちろん。ユイがいなかったから俺は今頃埼玉を抜けたところで迷子になってたよ」
『それは大げさですよ』
くすくす、と小さくユイが笑ってから……しばし場が沈黙する。
話すことが全くないわけではないが、和人の頭の中には京都へ向かう途中でユイに言われた言葉……《内容》がリフレインしていた。
そうしてお互い無言になってからしばらくして、先に口を開いたのはやはりというかユイだった。
『パパ』
「……ん」
少しだけ、身構える。
昼間の話の続きだとしたらなあなあな姿勢では聞きたくない。
ベッドに横になっていた体を起こしてユイのカメラに向き直る。
このカメラはヘルメットに付けていた物を携帯できる形にしたもので、バッテリーが続く限りは現実でのユイの目となってくれる。
『そんなに身構えなくても良いですよパパ』
「そう、なのか?」
『パパは《わかってくれている》みたいですし、今回の話はそのこととは別です』
「そう、か……」
ホッとしたような残念なような。
事が明日奈に関係あることとなると簡単に終わらせたくないのだが、かといって今あまり《あんな話》をされても少々心の準備が足りない。
なんとなく和人の気持ちがどっちつかずで宙ぶらりんになったところで、ユイが珍しくしおらしいことを言い出した。
『そのぅ、パパ言いましたよね? 今日は私パパの役に立ったって』
「ああ」
『そのお返しに、ってわけじゃないんですけど……実は折り入ってお願いがあるんです』
「ん? なんだユイがおねだりなんて珍しいな。言ってみろよ」
ユイが和人や明日奈に何かオネダリすることは、実は極端に少ない。
ユイを現実で展開させるためのアイディアや技術的なことはガンガン注文するが、それを除けば彼女は非常に無欲なのだ。
だからこそ、多少の駄々なら和人は喜んで聞いてやろう……そう思っていたのだが。
『一日で良いので、ALOでのマスター権をクラインさんに貸していただけませんか?』
「………………………………は? え、ちょ、なん、だって……?」
一瞬我が耳に入った言葉を和人は疑った。
聞き間違いであることを祈りつつ聞き返す。
『パパ? 聞こえませんでしたか? クラインさんに私を一日お貸しして欲しいんです』
どうやら聞き間違いではないらしい。
彼女は何故か自分や明日奈の元を──たった一日と言えど──離れクラインの元へ行きたいと言う。
これには流石の和人も二つ返事での許可はできなかった。
「ど、どうして!?」
ユイは両親である桐ヶ谷和人ことキリトと結城明日奈ことアスナのことが大好きだ。
その自覚は和人にもあったし自意識過剰ではないことは本人や他人も多いにも認めているところだ。
自慢ではないがこれほど良くできた娘はそういないとも自負している。
その娘が自分たちの元を──重ね重ね言うがたった一日と言えど──離れたいと言い出した。
(まさか、これが反抗期ってやつなのか!?)
ユイからの突然のお願いに和人は何も言えなくなった。
少なくとも簡単にイエスと言える類のお願いではないし、自分の独断で決めるのにも些か抵抗がある。
以前GGO──ガンゲイル・オンライン──にコンバート潜入しなくてはならない時、やむを得ずクラインにユイを預けたことはあった。
しかしそれは飽くまで緊急避難であり、そんな必要が無ければユイを手放すことなど考えられなかった。
そもそも和人は明日奈に預けたのであってクラインに預けたわけではないのだ。
などといつまでも言い訳がましい思考をぐるぐると回転させつつこれが俗に言う親馬鹿の一種であることにも和人は気付いていた。
自分がそうされるのを特に嫌う明日奈なら、しっかりとユイの目を見て了承するかもしれない。それなら自分だけが取り乱し、ノーと言うのは少々恰好悪い。
なのでせめて理由だけでもきちんと把握しておこうとユイに尋ねる。まあ、ウチの子に限ってそんな変な理由ではないだろうと信じながら。
しかし返ってきた言葉は、和人の想像を絶する……と言えば少々大げさだが予想もしえない──可能なら認めたくない──ものだった。
『クラインさんとデートをするんです!』
ユイの言葉にたっぷり六十秒……一分は硬直してから、和人は言われた言葉を反芻し意味を理解していく。
次の瞬間には迷惑と知りつつ──現在時刻夜の十一時半を回ろうとしている──明日奈に電話していた。
まだ起きていたらしい明日奈に事の成り行きを説明すると、意外にも彼女は認めてあげてほしいと言ってきた。これには少しだけ和人も驚く。
いや、もともと和人も認めるつもりではあったのだが、心の動揺は隠しきれない。明日奈もそうなるだろうと思っていたのだが、どうやら彼女には何か思い当たる節があるようだった。
クラインとデート、と聞いても彼女はさほど驚かなかったのだから。
『そっか、ユイちゃんがそう決めたならユイちゃんの好きにさせてあげようよキリト君』
「……それは、わかっているんだけど」
『キリト君の気持ちもわかるけど、ね?』
「……ああ」
明日奈の諭すような言葉に和人の心も徐々に落ち着きを取り戻していく。
ごめんこんな時間に、と改めて謝ってから和人は電話を切ろうとし、
『キ……和人君』
「ん?」
『………………』
「明日奈?」
『──好きだよ。おやすみなさい』
「あ……」
不意打ち的に愛の言葉を囁かれ、一方的に電話を切られてしまった。
恐らく切った明日奈の方も今頃は顔を真っ赤にしているだろう。
キリト、ではなく和人、と言った辺りにその辺のポイントが強く表れている。
和人はコホン、と一つ咳払いしてからユイのカメラに向き直った。耳はまだ赤い。
「わかったよユイ、明日奈とも話したけどそれがユイの頼みなら俺たちは止めない。行っておいで」
『ありがとうございますパパ!』
「でも、何か変なことされたりしたらすぐに言うんだぞ?」
『大丈夫ですよパパ。それに──これで最後にするつもりですから』
そう言うユイの言葉には、寂しさのような物が内包されていたことに、和人は気が付かなかった。
少しだけ口端がニヤけてしまう。
明日奈は布団をすっぽりと頭まで被って身体の奥から湧き出す名状しがたい感情に打ち震えていた。
自分がやってしまったことではあるが、普段と違い自分の部屋でないことが彼女に不思議な緊張感と高揚感を与える。
今日はあの後お互いすぐに別れた。彼が心配してくれているのがわかっていたし、早めに戻らなければまたいらぬ小言をもらいかねない。
幸い心配などはさほどされていなかったが──常識の範囲内の外出とみなされた──やはりというべきか、母親はあまり良く思わないようだった。
帰宅──と言っても結城本家の屋敷にだが──した際、小言こそ言われなかったものの、家族にだけわかるような鋭い視線が浴びせかけられ、少しばかり居心地が悪かった。
それでも、負けずにまっすぐ視線を返すことが出来たのは、彼から借り受けたジャケットのおかげだろう。
上着代わりにずっと肩からかけていたそれはまるでそこに彼がいてくれるかのように明日奈に暖かさと勇気をくれた。
実を言えばそのジャケットを明日奈はパジャマ代わりに着たまま布団に潜っている。
「……えへへ」
ここに来てからこんなに心穏やか……というよりは陰鬱ではないドキドキとした気持ちで迎えられるのは初めてだ。
先の電話で少々大胆なことを言ってしまったせいもあってとてもすぐには眠れそうにないが、嫌な気分ではない。
電話の内容であるユイの事を思えば全く心配がないわけではないが、ALOの《伝説武器(レジェンダリィウェポン)》である《エクスキャリバー》を取りに行った時から、いつかはこんな日が来るような予感はあった。
ユイがその為に行動を起こすと言うのなら、それを止める権利など自分にも和人にもないのだ。出来ることはただ見守ってあげることだけ。
まあ加えて言うならそれはクラインがユイを悲しませないことが前提の話であり、万が一そのようなことになった際には……和人と共謀して考え付く限りの《罰》を与えねばなるまいが。
がんばってユイちゃん、と心の中でエールを送りつつ、ジャケットからふんわりと微かに漂う和人の匂いに気持ちをバタつかせる。
現金なものだ、と思いつつ明日奈は何も知らずに久しぶりの穏やかな──ある意味ではという枕詞が付くが──夜を迎えた。
「……キリトくぅん」
闇に溶ける甘い声は、幸い誰に聞かれることも無かった。
「ハアッ!」
裂帛の気合いと共にブルーのライトエフェクトを纏って、漆黒の剣が闇を切り裂く。
壹回、貳回、参回、肆回……剣の軌跡は正方形を描くようにブルーの光帯で闇を照らし、そこにいた人型アンデット系Mobモンスター二体のHPを削り切った。
光のポリゴンが爆散するエフェクトと音響を伴ってパーティへの経験値へと変換される。
「今日のキリト、なんか気合い入ってるわねえ」
ピンクのふんわりとウェーブがかった髪にシルバーの髪留めを小さくあしらい、プレストプレートと肩当てを付けた我らが専属鍛冶師(スミス)篠崎里香こと鍛冶妖精族(レプラコーン)のリズベット──逆かもしれないがここはゲーム内である──は感嘆の仮想息を漏らした。
その手には鍛冶師(スミス)御用達のハンマーが握られているが彼女に言わせると戦闘用と鍛冶仕事用では補正値の関係もあって全くの別物なのだそうだ。
そもそもリズは戦闘用武器として普段からハンマーよりはどちらかというとフレイルを好んで使う。さすがにそのあたりの情報は門外漢なため、明日奈/アスナにはよくわからない。
「あはは……まあ、気持ちはわかるよ、うん」
言いながらアスナはあっちへフラフラ、こっちへフラフラと移動しながら激しく明滅するライトエフェクトを目で追い続ける。
暗視スキルはさほど高くないのだが、水妖精族(ウンディーネ)お得意の補助魔法でステータスを底上げしているため今のアスナには問題なくキリトの動きを見ることが出来た。
現在この三人パーティは一つのクエストを進行中だった。ちなみに直葉/リーファと珪子/シリカは久しぶりに都合のついた詩乃/シノンと共に別ルートから合流予定だ。
現在地はALOの中心地にあたる世界樹、その周りを囲む尾根猛々しい山岳地帯の一角にある洞窟内部だった。
各種族領から世界樹へ行こうと思ったら通る洞窟は限られているのだが、そうでないダンジョンの場合、その洞窟数はかなりの数に上る。
ちなみに滞空制限が無くなったことで世界樹を囲む山岳地帯を飛んで行けるようになったかと思いきや、その上空一体は飛行不可能エリアとして設定されていて、相変わらず空から世界樹への侵入はできない。
正確にはとある一角において例外的に飛行可能なエリアがあるのだが、現在のところそれを突破したという猛者の話は聞かない。
実はその一角というのは決まった場所では無く、毎回ランダムに発生し現在のところその傾向は掴めていない。
オマケにとんでもない強さを持つ《空駆ける馬》のボスがいるらしい。
どうやらこのボスはALOにおけるグランドクエスト第二弾に関係しているようなのだが詳しいことはまだわかっておらず、各種族共に情報や勢力増強へシノギを削っているのが現状だ。
閑話休題。
そんなわけで今日のキリト達はその確認情報さえ乏しいボス攻略への情報収集……などという殊勝な目的では無く、単にある報酬目当ての未達成クエストに挑戦しに来ているという状況だった。
なんでもこのクエストの報酬は《美味しいお茶が飲めるアイテム》らしいのだ。
ALOはSAOと同じく、いや今や《ザ・シードパッケージ》により生まれたVR世界のほぼ全ては現実にかなり忠実な味覚再生エンジンを搭載採用している。
ゲームの中での飲食は実際の体の栄養摂取こそできないものの、その美味さを感じることはもちろん満腹中枢を刺激することも可能だった。
もっとも後者についてはあまり良いことばかりではない社会問題が発生してもいるのだが。
とにかく、そんな話を聞いては料理スキルを上げているアスナはもちろん、友人の女性たちもやる気を出すと言うものだ。
VR世界での飲食は決して太らないとなれば尚更である。乙女はいつだって美味しいものに弱いのだ。
「そーんなにユイのことが心配ならお得意の《隠蔽(ハイディング)》でストーキングでもすればいいのに」
「いや、それはちょっと……っていうかユイちゃん相手には意味ないよきっと」
「それもそうか」
「それに私もキリト君もユイちゃんには誠実でいたいから」
「それで心配だけど様子を見に行くわけにもいかないからああやって暴れてストレスを発散しているってワケ? 子供ねえ」
「そこがキリト君の可愛いところだよ~」
リズがからかい半分で言った言葉にほわほわとした笑顔でアスナは答える。
しまった、と思った時にはすでに遅し。アスナは難攻不落完全無欠のお惚気モードへと移行している。
(勘弁してよもお……! 今の私は色恋沙汰からちょっと遠ざかりたいんだけど!)
リズは内心で「とほほ」とばかりに涙を流した。
この万年色ボケお嬢様ときたら最近は本当にからかいがいの無い超プラス思考と化してしまって、ちょっとでも油断すると「わたしの恰好良いキリト君」または「私の可愛いキリト君」語りが始まってしまうのだ。
あの頃の凛とした副団長様は一体どこに行ってしまわれたというのか。
彼女の娘であるところのユイも今日は両親公認のデートだと言うし、本当リズにとっては四面楚歌そのものだった。
こんなことなら《向こうのパーティ》に入りたかったと嘆くも今更遅い。
洞窟の向こうでは未だに時折ライトエフェクトが明滅していて今も元気に彼女の旦那様はストレス発散進行中だ。
こうなっては誰も彼女を止められるものなどいない。何もしなくてもユルドや経験値が増えていくのはありがたいがその代償が惚気話となれば話は別である。
しかし天の助けとは存外あるものだ。
「あ、おーい! アスナさーん!」
遠くから手を振りながら近づいてくるのは淡いグリーンのロングヘアを花びらのような髪留めで留めてポニーテールにし、濃い目の緑を基調とした風妖精族(シルフ)特有の装束に腰から剣を下げた女性だ。
プレイヤーネームリーファ。速い話がキリトの妹であるところの桐ヶ谷直葉である。
別の入口からお互いクエストフラグを立てる為に別行動を取っていたのだがどうやら無事に合流できたらしい。
その後ろには獣耳を生やし、髪を現実同様ツーサイドアップに留めて頭の上に小竜を乗せている少女と、同じく獣……猫耳に水色の尻尾をふりふりと動かしながら弓を担いで近寄ってくる猫妖精族(ケットシー)コンビがいる。
綾野珪子/シリカと朝田詩乃/シノンだ。シノンはALOにコンバートするにあたって種族を選択する際一番視力補正が付くという理由だけで猫妖精族(ケットシー)を選択している。
彼女の使う弓系の武器は射程距離圏内までは魔法のようなシステムアシスト……追尾にも似た自動命中補正があるのだが、それを超えると仮想の風やら重力やらの影響を受けて命中させるのは一際困難になる。
ところがGGOにてそのような補正を自己流で掴み、システム外スキルと呼んで良い程までに昇華させた能力を持つ彼女は一日弓を扱うだけでALOでのそれを掴み切った。
そうなった彼女は遠くのMobモンスターをレンジ外からバンバン射抜くのでこれにはさすがのアスナやキリトも降参せざるを得なかった。
剣士タイプの彼女たちはとりあえず間合いに入ってナンボ、なのだがシノンはその間合いに入ることを許さないのだ。
「何やってるのキリトのヤツ」
シノンの呆れが入った声にリズベットは渇いた笑いを零す。
まさについさっきまでの自分と変わらない……鏡を見ているかのような気分だ。
シノンは未だ暗闇で戦闘を続けるキリトを見やると、ニヤッと獰猛な笑みを零して弓の弦へと矢をつがえた。
次の瞬間には「ビュン!」と風を切る音と共に「うおっ!?」というキリトの焦った声が洞窟内に響く。
それを見てシノンは小さく舌打ちした。「外したか」と。
「さっさと行くわよこの戦闘狂」
「俺、一応仲間ナンデスケド……」
些か以上の不満をキリトは漏らすが、シノンは聞き入れず仲裁に入ろうとしたアスナの背を押すようにして洞窟の深部へと足を向ける。
仲が悪い、とまでは言わないが彼女はアスナには甘い割にキリトにはなかなかどうしてキツく当たる。
それはキリトがGGOで行った新川恭二/シュピーゲルへの行為と、BoB──バレット・オブ・バレッツ──予選決勝戦におけるアスナの不名誉から来るものがなんとなくそのまま彼女とキリトの関係を構築していた。
加えて言うならBoB本戦におけるまさかの敗北──実際に殺されたわけではないが、シノンにとっては同じことだった──がシノンにとっては悔しく、一発キリトにぶちかましてやらないと気が治まらないと思っているせいもあるのかもしれない。
キリトは冷や汗を流しつつシノンの背中を見やる。水色の尻尾がふりふりと左右に揺れ、その奥ではアスナが心配そうにキリトへ振り返ろうとし、その度にシノンに強く背中を前に押されてしまい動くに動けないでいる。
その姿をみていたキリトは「ピーン!」と悪知恵を思いついた子供のような顔になり、二人の背中へと音も無く近付いた。
近付いて、ふりふりと動いている水色の尻尾を、ギュッと掴む。
「フニャアアアアアッ!?」
途端シノンは全身の毛を逆立てたかのように飛び上がり、ズザッと猫のようなバックステップで距離を取った。
お返し成功、というわけである。
「シリカから聞いていたけど、猫妖精族(ケットシー)の尻尾はよっぽど変な感覚らしいな」
「こ、この……!」
猫耳や尻尾などは人間には存在しない器官だが感覚が無いというわけでもなく、急に強く握られたりすると凄く変な感じになる……とはシリカの談だ。
その感覚を味合わされたシノンがいきり立って弓へと手を伸ばしたところで……今度こそアスナが仲裁に入る。
こんなことをしていてはいつまでたってもクエストが進みやしない。
「はいはいそこまで。キリト君もシノのんももうちょっと仲良くしようよ」
アスナに窘められ、「くっ」と悔しそうな顔をしつつシノンは矛を収めた。
「フンッ」とわざとらしく顔を背けて奥へと進む。あれでも別に然程怒っているわけではないのだ。
ただ、キリトと彼女のコミュニケーションはなんとなくそういうものとして落ち着いてしまっただけで。
アスナは苦笑しながら、しかし今の発言における《無視できない問題》について……キリトを問い質す。
「ところでキリト君?」
「うん?」
「なんでシリカちゃんの尻尾の感覚を知っていたのかな?」
不思議だねえ~という軽さで発された質問だが、何故だろう。
地雷を踏んだ気がするのは。
「後でしっかりお話を聞かせてもらいますからね」
一瞬にして先ほどまで忘れ去られていたかつての副団長様モードが復活する。
リズベットはそんな二人を見て声を殺して笑い、シリカは頬を染めてわたわたと落ち着きがなくなった。
一先ず、ユイがいなくともこのパーティはそれなりにいつも通り、平和なようだった。
飽くまで、こちらのパーティは。